IS学園が利用している旅館近くに深い森がある。人の手が全く入っていない森で、光が射さないほど木々が鬱蒼と生い茂っている。そんな森林の獣道を、紅輝は一人歩んでいた。
紅輝が森に足を踏み入れてからすでに一時間は過ぎている。が、風景はほとんど変わらない。高い樹木が乱立し、濃い影を落としているばかりで、何ら代わり映えしない。唯一の変化は、時折どこからともなくフクロウの鳴き声が木霊していることくらいだ。
時刻は深夜二時、俗に言う丑三つ時だ。すっかり夜の気配が満ち満ちて、辺りは暗闇に包まれている。それでも歩みが遅くならないのは、紅輝の眼前を小さな火の玉が浮かび、道を照らしているからだ。僅かな明かりを頼りに、紅輝は獣道をすいすいと進んでいく。
ふと紅輝が足を止めた。少し先に開けた場所がある。そこは走り回れる程度には広い。森の広場だ。
そんな広場の中央にある切り株に腰をかけ、降り注ぐ月光を嫋やかに受けた一人の少女がいる。
紫色の簡素なドレスとナイトキャップを身に纏い、切り株に薄紫色の日傘を立て掛けて、やって来た紅輝を直視している。
月明かりが少女を、金沙をまぶしたかのごとく輝かせる。きらきらと照り映える様は、まるで英雄譚に出て来る精霊のように幻想的だ。
少女が紅輝へうっすらと笑んだ。紅輝はどこか胡散臭く感じた。
「お出でくださりましたか」
少女の物言いに、紅輝の口角がつり上がる。辺りを鬼門に造り替えるのではと思うほどの妖力を垂れ流していたというのに、いけしゃあしゃあとよく言うものだと。
紅輝の背中から赫赫たる炎が吹き荒れ、天高く伸びていく。
天を衝いた火柱は緩やかに寄り合い翼を象る。猛火は月華をかき消し、辺りの夜闇を焼き尽くす。
「あれだけ情熱的に誘われたらな」
紅輝はもんぺのポケットに片手を突っ込む。端から見れば、隙だらけだ。しかし瞳だけは油断なく少女を見据え、微動だにしない。
それを見て取ったろう少女がクスクスと微笑む。
紅輝はもう片方の手で煙草をくわえる。苦味が口いっぱいに広がる。
紫煙を燻らせ、歯をむき出しに笑う。
「ここなら邪魔は来ない。一晩のダンスパーティーにでもしゃれ込むか?」
「あらあら、なんとも楽しそうなお誘いですこと。でも残念ですが、遠慮させていただきますわ」
「そっちから誘っておきながら断るのは、マナー違反じゃあないか、お嬢さん」
轟々と火焔が逆巻く。舞い散った火の粉が蛍火となり、両者の間を漂い出す。
炎翼が、持ち上がっていく。
「私は貴方とただお話をしたいだけですわ」
「社交界を開くには、ちょっと遅いな」
「まあ、せっかくのパーティー、参加してくださらないのですか。私、袖を濡らしてしまいすわ」
「まさか。せっかくのお誘い、ありがたく受けさせていただこう。またいつか」
二人の笑みが深まれば深まるほど、辺りの空気は刺々しさを増していく。
あと少しでその空気が破裂するという瞬間。
「お二人とも、おやめください。紫様、お戯れもほどほどに。そして藤原紅輝様。どうぞ、その炎をお納めください」
一人の女性が現れた。
森の梢が作り出す闇から現れたその女性は、道教の道士が着る道袍に、太陰大極図を配置した前掛けを付けた、目鼻立ちのすっきりした美しい女だ。
紅輝はその女性の全容に、瞠目せざるを得なかった。
しかしそれは、女性があまりに美しいからではない。紅輝はその女性以上に美しい女を見たことがある。美貌で驚くことなど、もうありはしない。
ひとえに、女性にはその金髪と同じ色の、九本の尾があるのに驚駭したからに過ぎない。
「白面金毛九尾の狐……だと?」
かつてインド、中国、日本という三国を荒らした女性、玉藻の前。その本性は、白面金毛九尾の狐だと言う。
まさか玉藻の前ではあるまい。しかし九尾の狐である以上、そんじょそこらの妖怪とは別格だ。
そしてそれだけの存在が主と認める紫の少女。
「やはり、大妖怪か」
独りごちる。
大妖怪。妖怪の中でも隔絶した力を持つ者たちだけが名乗ることを許された尊称。その力は、災害を引き起こすことも、鎮めることも可能だという。中には祀られ、神になった存在もいる。
そんな大妖怪と名乗る存在が二名。さしもの紅輝も冷や汗が流れるのを止められない。
「怒られちゃった」
てへとばかりに笑う少女だが、全くもって可愛くない。
紅輝は舌打ちをもらしかける。
袋の鼠だった。大妖怪といえども、一体だけならばまだどうとでもなった。それだけの力はある。しかし大妖怪が二体となれば話は別だ。負けはしないがけして勝てない。
ならば何もせず、してやられるだけか。
紅輝の背中から吹き出る烈火が勢いを増す。翼は見る見るうちに極大化し、夜闇を赤熱の光で切り裂いていく。
森を一瞬で烏有に帰す天の火が燃えたぎる。煌々と辺りが照らされる中、紅輝は二体を睨み付ける。
「うふふ。そう怖い顔をしないでちょうだいな」
少女が取り出した扇子で扇ぎ始める。
余裕綽々とした仕草に、火の熱がさらに高まり、翼が白炎へと変貌する。
「紫様」
「なによぅ、藍。ちょっと御喋りを楽しんでいるけじゃない。……分かった、分かりました。真面目にやります」
紫の雰囲気ががらりと変わる。引き締まった表情は、少女然とした外見には到底不相応なものだった。
敵意は全く感じられない。
翼はまた元の赤色へ戻る。
「さて、藤原紅輝殿。私は八雲紫と申します」
紅輝はその名前に聞き覚えがあった。かつて、どこかで聞いた名前。二人の様子から目をそらすことなく、記憶を掘り起こしていく。
「幻想郷の、妖怪の賢者……だったか」
「はい、その通りです」
幻想郷。それは一種の隠れ里であり、世間から隔離された、人と妖怪が共に住むという最後の楽園。そしてその楽園を管理しているのが、妖怪の賢者、八雲紫。
そんな噂話を、紅輝は耳にしたことがあった。
しかしだとすると、その管理者がなぜ紅輝に接触を図ったのか。疑問が生まれる。紅輝は幻想郷と縁もゆかりもないというのに。
それを察したのか、紫が説明をしだす。
「幻想郷には私の力で二種の結界が張ってあります。そのうちの一つは、外の人間、つまりは人々が幻想を忘れれば忘れるほど、その効力を増していくという結界でございます」
「逆説的には、人々が幻想を思い出したら結界の効力が失われると」
「ええ、その通りです」
首肯する紫。
「そして、男でありながらISを動かせ注目を集める俺は、結界に悪影響を及ぼすと?」
「普通にしていれば問題ないでしょう。しかし人の目がある所で
紅輝の脳裏に二人の顔が浮かぶ。デュノアという同じ姓を持つ二人が。
たかが二人に見られただけで結界に影響を与える。それは管理者として見過ごせないのだろう。
「それで俺を殺しに来たか」
再び炎の色合いが変化し出す。凝縮する炎は、金属すらもたやすく溶断せしめるだろう。
その炎を前に、紫は首を振った。それは、紅輝の予想とは全く違うものだった。
「いいえ、そのようなことは致しませんわ。無理難題を解く趣味はございませんので」
紅輝が鼻を鳴らす。
「蓬莱の人形である貴方を殺すなど、到底不可能。ならば敵対するよりかは、協力してもらった方が遙かに有益というものでしょう」
「……お前みたいな妖怪がそこまで胸の内を吐露するとはな」
「それで、協力してくださるかしら?」
紫が小首をかしげ、微笑んでみせる。蠱惑的なその表情は、見る者を老若男女問わず魅了するだろう
その後ろでは、藍が従者として控えている。頭こそ垂れているが、頭頂部では耳がせわしなく動いている。
長い沈黙が続く。ようやく紅輝は口を開いた。
「悪いが断る」
「……どうしてかしら?」
「因縁を背負ったからさ」
胸裏をよぎるは、信仰にすがる壊れかけた一人の少女だ。
ため息一つ。紅輝は踵を返す。
「確かに幻想郷とやらは過ごしやすいだろう。だが、責任は果たさなければならない」
紅輝はそう告げ、広場を後にしようとした。
しかし、紫が告げた一言に、その足が止まった。
「藤原妹紅は幻想郷にいます」
背中の炎が制御を失い、形を崩す。炎は瞬く間に森の木々へ引火した。
紫が扇子を一閃すると、炎は瞬く間に鎮火した。
「姉様がいるのか」
突っ立ったまま茫然と聞き返す紅輝に、紫は肯定する。
「……少し、少しでいい。時間をくれ。必ず幻想郷へ行こう」
「構いませんわ。幻想郷は全てを受け入れます。それは残酷なまでに」
二体が立ち去る気配がした。うっすらと空が白けだした頃、紅輝はようやくフラフラとその場からさった。