仙人と只人たちとの日常
IS学園に蝉の鳴き声が響き渡り、うだるような暑さが籠もる。しかしそれに負けぬ熱気が、一年生たちの間に広まっていた。近く、臨海学校があるのだ。
IS学園の臨海学校は、そんじょそこらの学校とは比べものにならないレベルだ。貸し切りにした海辺でISの操縦や装備のチェックを行うが、自由時間ならば貸し切りのビーチで自由に遊んで良いことになっている。学生たちで綺麗な海を占有できるのだ。
プライベートビーチで遊ぶ体験など、滅多に味わえるものではない。しかも今年は男子生徒もいるのだ。自然と一年生たちに熱も入る。
故に女生徒たちは皆、連日暇さえあれば水着の話やダイエット法について激論を交わしている。やれ、あのメーカーの水着が良い。炭水化物を抜くと、体重が落ちるだとか。中には裏切り者と叫ぶ女生徒もちらほら見受けられていた。
しかしそんな女生徒の熱気と対照的な人物がいた。紅輝だ。今も教室で一人、ハイデッガーの『存在と時間』を読みふけている。同じ男子生徒の一夏は、臨海学校をそこそこ楽しみにしているようだが、やはり年齢の差なのだろうか。紅輝は余り臨海学校に乗り気というわけではないようで、常と変わらず本ばかり読んでいる。
紅輝がページをめくったとき、ふと人影が差し込んだ。顔を上げると、ラウラがそばに立っており、もじもじと手遊びをしていた。
「どうした、何か用か?」
言いたいことをはっきり言うラウラだが、今のラウラは普段と様子が違った。身動ぐばかりで、中々話を切り出そうとしない。
「その、だな。あの……」
白人特有の白い顔が赤くなっていく。しばらく待っていると意を決したのか、ラウラは存外大きな声で叫んだ。
「買い物につきあってくれ!」
紅輝は目を瞬かせ、頬をリンゴ色にすっかり染め上げたラウラの顔を見詰める。一度はき出したことで踏ん切りがついたのか、ぐいぐいと身を乗り出してくる。
「い、一緒に買い物をするのが友達とクラリッサが言っていたんだ! 私だって友達と買い物をしたいんだ……駄目、か?」
涙をため込み、上目遣いに覗いてくる自分と違う赤い瞳に、紅輝は首を横に振るうことができなかった。
休日、紅輝はラウラと共に、IS学園と本土とを結ぶモノレールの駅にいた。IS学園は海洋に建てられた
「おお、海が綺麗だ。見てみろ、紅輝。富士山が綺麗に見える!」
ラウラはモノレールの扉が開くや、一目さんとばかりに座席へ駆け込み、窓ガラスにかぶりついた。その靴を脱がせつつ、紅輝は気のない相づちを打つ。それでも満足なのか、ラウラの報告は止むことがない。
発車ベルが鳴り響く。
「うむ。定時発車か。さすが我が国と同じく、列車運行が守られる国だ。以前行ったフランスはストで大変だったぞ。五時間も待たされた」
ぺしぺしと紅輝の肩が叩かれる。余りのはしゃぎぶりに、となりに座っているのが本当にラウラ・ボーデヴィッヒなのか、分からなくなる。
同じ車両にいる女生徒が、はしゃぐラウラを見てくすくす笑っている。紅輝はため息をつきながら、購買で買った新聞を開いて読み出した。
モノレールに揺られること、しばらく。モノレールが本土の駅に着いた。未だ興奮して窓ガラスから外を眺めているラウラに靴を再び履かせ、窓から引き離す。
「もうちょっと見ていたかったのに」
「あのままだと、またIS学園に連れ戻されていたぞ。買い物が終わったらまた見られるんだ。我慢しろ」
頬を膨らませたラウラを引きずり、甲矢は駅近くの大型デパート、レゾナンスへ入る。
店内は空調が効いており、じっとりにじんでいた汗が乾いていく。
空調の寒さに慣れない甲矢は、身体を震わしながら、ラウラを連れて目的のコーナーへ向かう。たどり着いたのは、子供服の店だった。
ラウラが近くにあった水着を取り出し、そこに書かれていた文字に憤慨しだす。
「むっ。紅輝、これは子供用だ! 私たちはもう大人だ。我が国では一人でビールを楽しめる年だぞ、私は」
「いや、お前……俺たちの背丈を考えろ。大人向けの水着を着られるはずないに決まっているだろうに……」
甲矢の言葉を最後まで聞くことなく、ラウラは手に取っていた水着を元通り綺麗に直し、ハンガーへかけた。そして紅輝の手を取り、婦人服店へ勢い駆け込んでいった。
そして……。
「ば、馬鹿な! 私のサイズに合う水着がないだと……。わ、私は子供だというのか?」
一番小さいサイズですら、ラウラが着ようとするとぶかぶかで、抑えていないと落ちてしまう。気に入ったのだろう、黒い水着を片手に、ラウラは打ち拉がれる。
「だから言っただろうに。まあ、まだ成長する可能性は残されているんだ、お前さんには」
紅輝はラウラを慰める。つたない言葉であるが、それに希望を見いだしたのか、ラウラの顔があがった。
そして涙ながらにリベンジを誓うラウラを引きずって、結局先程の子供コーナーへ戻ってきた。
紅輝が見守る中、ラウラは大人しく水着を選び始めた。
「ハァ。これだから客観的に自分のことが分かっていないやつは」
ため息をつきつつ、苦笑をこぼす。そして 紅輝は近くにいた従業員を呼び止めた。
「すまんが喫煙室はどこだ?」
何故か従業員の顔が強張った。
その後、ラウラは気に入った水着を見つけられたらしく、ほくほく顔でレジを出てきた。紅輝もラウラになかば強制的に勧められ、トランクス型の水着を買わされた。
いらないものが増えたことに少々顔をしかめるものの、ラウラが喜ぶ姿に一寸した苦みを飲み干す。
そうして買い物を終えた頃、シャルロットに出くわした。
「紅輝さん、奇遇ですね」
紅輝たちに気がついたシャルロットは、満面の笑みで二人に近づいてきた。
シャルロットも紅輝やラウラと同じく、水着を買いに来たらしい。
「差し出がましいですけど、本当は紅輝さんに選んでいただければと考えていたんですよ? 最近はゆっくりとお話しする機会がありませんでしたし」
シャルロットが亡命したことを切欠に、学園に性別がばれたので、紅輝は再び一人部屋に戻った。そのため、確かにシャルロットとの会話は減っていた。しかしそれでも他の生徒と比べれば、一番よく話しているのはシャルロットなのだが。
「一夏でも誘えば喜んでついてきただろうに」
「一夏じゃなく、紅輝さんと一緒に買い物をしたかったんです」
笑顔で答えるシャルロットに、紅輝はため息をこぼした。
そんな紅輝を知ってか知らずか、ラウラが満面の笑みでシャルロットの手を掴み取る。
「うむ。ではシャルロットの水着も見に行こうではないか!」
ラウラに引きずられるようにして、再び婦人服店へ向かった。
しかしなにやら騒がしい。婦人服の水着コーナーの一角で騒ぎが起きていた。人が集まりかけている。その中心では女性がなにやら水着を持って誰かに詰め寄っている。詰め寄られていたのは、一夏だった。
「や、だから俺、今日そんなに金持ってきてないんですって。出かけで友人と会ってアドバイスを頼まれただけなんですって」
「そんなことはどうでも良いわ! 私はね、男がここにいることが気にくわないの。私の気分を害したのだから、損害賠償としてこの水着を買いなさいと言っているのよ、分かる?」
典型的な女尊男卑主義者だ。
紅輝は辺りを見回す。水着コーナーの近くには、店員や、他の女性客もいた。その殆どが、顔を歪め、明らかに女性へと蔑視を向けている。
しかし、誰も何も言わなかった。
紅輝はポケットに手を突っ込む。くしゃくしゃになった新聞紙が邪魔をした。新聞紙を丸め込みぎゅっと握る。掌を開くと、そこには何もなかった。
「そこまでにしておきな、見苦しい。いい年したやつが、餓鬼みたく騒ぐな」
紅輝は頭を掻きながら面倒くさそうに、騒ぎ散らす女性へ告げた。
それまで一夏へくってかかっていた女性は、その顔をぐるりと回した。紅輝を見つけると、その形相をさらに歪める。そして紅輝の襟首を掴みあげた。
「子供だからって、男が甘やかされると思わない事ね!」
「ちょ、紅輝さん!? 何やってんですか!」
すごむ女性に対し、紅輝は口角を吊り上げた。それは心底からの馬鹿を見たという顔だった。
「自分に甘い、いや、自分のことを全く見えていない盲目白痴が何を抜かす」
紅輝の嘲ら笑いに女性が顔色を赤らめる。腕が振り上げられる。
だが、一瞬でその顔色が元を通り過ぎ青ざめる。
「な、何よ! 何よ、その目は! そんな目で私を見るな!」
赤い、赤い瞳が女性を見透かしている。くすんだガラス玉のような瞳は、余りに無機質で不気味だ。まるで機械が観察するかのような、人が人を見る目ではなかった。女性は紅輝を手放すと、一歩二歩と下がる。すると周囲の視線が自分に向けられていることに気がついたらしい。
「な、何よ、あんたたち! あんたたちだって女でしょうが!」
散々に喚き散らし、女性は持っていた商品を床に投げ捨て、立ち去っていった。誰もが眉をひそめ、立ち話で批難する中、一人の少女がその後を追おうとしていた。
「その必要はない」
立ち去ろうとしたシャルロットの手を掴み止める。
「ですが」
「何も、するな」
シャルロットは、しばし渋い顔をしていたが、それでも頷いた。
「それに、悪いことをするやつは、その報いを必ず受けるものだ。因果応報。天網恢々。日々の行いは、誰かが見ているものサ」
女性がレゾナンスから足早に出てきた。ぶつぶつと口汚く男が、男が、と罵っている。そんな風だから、周りの人々は女性に近寄ろうとしなかった。
それもまた女性の気を苛立たせた。女性のために、男の価値を教えているのに何故否定されなければならない。本来ならば、誰もが感謝をして当然なのにと。
理解されない憤りを、いつも通り偶々近くにいた男を捕まえ、解消しようとした。
捕まえた男は、薄っぺらい笑みを張り付けていた。人を馬鹿にしている。こういうやつこそ、女尊男卑を馬鹿にしているのだ。
「男のくせに――」
それは突然だった。罵倒の最中に、女性は胸を抑えた。今まで体験したことのない痛みが、胸を襲ったのだ。
口をぱくぱく開閉させながら、立つこともできず地面に倒れた。驚いた男の顔が見える。
「助……けて」
何とか絞り出した声。
――きっと助けてくれるはずだ。自分は女なのだから。
しかし男は、倒れた女性を介抱することも、救急車を呼ぶこともなく、立ち去っていった。
(な、んで?)
周りからカメラの音がする。
「やっば。何あのおばさん。受けるわ。あんだけ男がー男がー言っていたくせに、助けてだって! SNSにでもあーげよう」
笑い声がする。助けて。
なんで笑われる? 助けてちょうだい。
どうして。助けてください。
誰も助けてくれない。女は絶望に囚われる中、確かに見た。自分の口から三匹の虫が飛び出したのを。
口から出たのは、三尸です。
道教において人間の身体の中におり、その人間が悪いことをすると、一年に一回天帝に報告し、その人の寿命を減らせる妖怪です。
紅輝がなにかしたわけじゃないですよ。