還俗する仙人
桜雨でぬかるんだ汚泥がハイヒールにこびりつき、ヒールの光沢が失われていく。
ふとした拍子に足下の変動に気がついた織斑千冬は盛大に舌打ちをする。後で泥を拭い去るのが非常に面倒だった。また先程から幾度もぶつかり絡みつこうとする小枝や茂みも千冬の機嫌を大いに損ねるのに一役買っている。邪魔だと払えば、しなった分だけ勢いよく戻り、身体を打つ。ではへし折ればというと、ねばねばとした樹脂が飛び散り、スーツが草いきれを吸収してしまう。千冬は自身の身体能力ならばたとえ山道でもスーツにハイヒールだとしても問題はないだろうと過信してしまったが、身体能力ではどうしようもない問題にぶち当たってしまっていた。家に帰ったら弟の一夏にでも全部掃除させようかと内心自堕落なことを考えながら道を進む。
いやその道は山道というにはいささか以上に険しい。その道は獣道だった。進むには生い茂った草木をかき分ける必要があり、また見えづらい足下はある程度獣たちによって踏みならされるといえどもうねりにうねり、スポーツシューズを履いていたとしても不安定な足場だ。それをハイヒールなぞで歩くなど普通は不可能だ。それを可能としているだけ、織斑千冬の身体能力の高さが浮き彫りになる。
「登山用品でも買うべきだったか。面倒がったのがいけなかったな」
後悔先に立たず、覆水盆に返らず、こぼしたミルクを嘆いても仕方がない。とはいえそう簡単に切り替えられるほど人ができているわけでもない。千冬はこの先に住むという偏屈な変わり者に文句の一言でも言ってやろうかと、額を流れるわずかな汗を乱暴に拭い去り思った。
曲がりくねる迷路のような獣道をなんとか抜けると、平坦な場所に立つ荒ら屋が見えてきた。安堵の息をつく。疲れからか、それとも自然あふれる場所だからか、空気がうまかった。
息を整え荒ら屋の近くに寄ると、それが荒ら屋というのも褒めすぎなほどだと千冬は感じた。板は腐りきり、あちらこちらが開いて穴と化している。小屋がちょっとでも揺れれば簡単に崩れるであろうと建築の知識がない千冬でもすぐに分かるような代物だった。
ノックをしようとしたが思いとどまる。はたしてノック程度といえども叩いてしまったら、この建物らしき物体は無事だろうかと。しばし迷った末、千冬は拳を下ろし声をかけることにした。
「さっきからそこにいたようだが、遭難者だったか。ここから東に十分も歩けば小川に出る。後はその川に沿って下れば下山できる」
鈴を転がすような音が返ってきた。耳に自然と滑り込み、聞いているだけで心地よくなるほどの美声だ。合唱団でもテナーとして活躍できるのではないだろうか。予想よりも幾分、いやずいぶんと若い声に千冬は次の言葉を支えさせてしまった。
「あっ、いや、失礼。私は別に遭難したわけではない。あなたに用があってきたんだ」
「……用、だと」
「ええ、日本政府からあなたに。私はその遣いです」
「……世捨て人の俺に何のようかは知らないが、それでもわざわざ訪ねてくださったんだ。もてなさないわけにもいくまい。おんぼろだが、中へどうぞ」
言葉と裏腹に余り歓迎という声音でなかったが、千冬は朴念仁のふりをして扉を開けることにした。
小屋の中は明かりがないのか薄暗い。しかし壁一面にあいた穴から光線がわずかに差し込んでおり、埃が舞ってきらきら光っているのが見える。多少目が慣れると部屋の様子がさらに分かってくる。一言で言えば生活臭のかけらもない部屋だった。床は大穴が空いているだけで私物らしきものはおろか布団のような生活用品すらおかれていない。それどころか床には埃が積もるだけ積もらせているだけで、本当にそこで生活しているのかと疑ってしまう有様だった。
足を踏み入れた際に舞った埃が鼻を刺激し、思わず手で仰ぐ。埃と腐った板の臭いで千冬はこんな場所に住み着く奴は何者なのだと疑問を深めた。
「こちらだ」
その声に釣られてさらに奥を見やれば、そこには赤い野袴を穿いた短く刈りそろえられた白髪が特徴的な少年がいた。
少年がこちらに歩み寄った。光線が顔にかかり、その容貌が判明する。あどけない顔つきをしているが、アルビノという言葉で言い表せないほど澄んだ赤の瞳をしており、千冬はその赤に思わず引き込まれた。その瞳は深い知性を佇ませているように見えた。千冬が内心で惹起した人物ではとうてい感じられない深みだ。
(身長からみるに十二、いや十くらいか? しかし三十代の男から話を聞いたとおりだとすれば、男が子供のころからここに住んでいると言っていたな。だとすれば最低でもこの容姿で三十代、私より年上というのがどうにも信じられないな。……しかしなるほど、この容姿と雰囲気、そして年齢不詳では仙人と言われるのも不思議ではない)
千冬は驚きを顔に出さないよう、注意しながら言葉を紡ぎ出した。
「初めまして、織斑千冬と申します」
「ん、ああ。……藤原
「では藤原さん、さっそくで申し訳ありませんが、あなたはこの地域で行われたIS適性検査のことをご存知ですか」
「……いや、悪いが存じ上げていない。見ての通り辺鄙な場所だ。それに俺には戸籍というものがないからな。手紙の類いなど来るわけがない。そしてISというのも聞き慣れない言葉だよ」
戸籍がないという藤原の言葉に、千冬の左手がわずかに動いた。とっさに意識を集中することで、動きを止める。千冬が若いころからの癖だ。感情的になると左手が動いてしまう。
「そうですか。では改めてご説明させていただきます」
「ああ、別にかまわない。それと悪いがここはこの有様だ。本来は坐っていただきお茶の一つでも出すべきなのだろうが、お茶っ葉どころか座布団の一枚もないのでな。十分なもてなしができないことを許してほしい。」
「いえお構いなく。さて、ISを知らないという話でしたが」
「こんな場所にいると、俗世には疎くなるのでな」
「では一から説明させていただきます」
アイコンタクトで確認をとれば、藤原はどうぞご自由にと返信した。咳払いを一つ、千冬は説明し始めた。
IS。正式名称をインフィニットストラトス。
本来宇宙開発などで使われる予定だったパワードスーツで、現在はとある事件をきっかけに軍事目的で使用されている兵器である。戦闘機を上回る機動性に速度。そして多彩な武器を搭載することでほかの兵器と一線を画する攻撃能力を有す。優秀すぎるほどに優秀な性能を誇る兵器だ。
そんなISだが欠点がいくつかある。まずその個数が限られていること。ISにはコアが必要で有り、そのコアを造れるのが開発者である篠ノ之束だけであり、現在その篠ノ之束は消息を絶っている。故に新しいISコアが世にでず、その絶対数が増えることはない。次に、理由は不明だが、ISは女性しか動かせないという欠点がある。
「それで、なぜ俺にその女にしか扱えないというISの話が来るんだ。一目見れば分かるように俺は男だぞ」
そうは言うが女性、いや女子に見えなくはない。それどころか見ようによっては男子であるということの方が分かりづらい。心の中で千冬はそう愚痴る。
「それについてもこれからお話しします」
「ああ。悪かった、話の腰を折ってしまったな」
「いえ」
そしてそのISだが、今年一つの例外ができた。織斑一夏という少年がISを起動させたという。
「織斑……」
ほとんど反応を示さなかった藤原だが、織斑という単語に反応し、千冬の様子を窺っていた。千冬はゆがみそうになる顔を抑え、首を振った。
「ええ、愚弟です」
「そうか、弟か」
藤原が足下を見る。なにか思うところがあるのだろうかと千冬は一旦話をやめようとした。しかしすぐに顔を上げて藤原は続きを促した。千冬は何も見なかったことにし、話を続ける。
そこで各国政府は各国の国民全男性を対象にISの起動試験を行うことを決めた。それは日本も例外ではなく、むしろ率先して試験を行った。そして今日その試験がここらの地域を対象で行われ、かつその対象者の一人が「仙人はこの試験を受けるのだろうか」と漏らし、藤原の存在が発覚。こうして迎えに来たというわけだった。
「なるほどね。しかしたかだか男一人だ。しかも戸籍がないということは、存在しない人間と同義なんだろう。無視をすれば良かったじゃないか」
藤原の言葉に千冬の中で苦い思いが広がる。
同じことを、起動試験の監督者が漏らしたからだ。たしかに見て見ぬふりは簡単だが、千冬にそれはできなかった。それをすることを許すわけにいかなかった。
「……いえ、それでもすべきことはするべきです」
「……ふうん、いやすまなかった。職務をきちんとこなしている人に怠慢を勧めてしまった」
「いえ、かまいません。それでご足労ですが」
「皆まで言わなくてもいいさ。まあ、ここまでお越しいただいたんだ。時間だけはたっぷりある。ちゃっちゃとその起動試験とやらをうけて失格になるとしますか」
「ええ、では起動試験所にご案内します」
下山はとても簡単だった。藤原が先導し、道を教えてくれる。小屋で呼びかけたときの返答通りに小川に沿っていけば、日光で乾いたなだらかな地面が麓まで一本道で続いていた。行きが大変だっただけあって、思わず藤原を睨んでしまう千冬だった。せめて地元の人間くらいにはその道を教えておいてくれれば、ああも苦労せずにすんだというのにと。
だがその怨みの視線を受ける藤原はポケットに手を突っ込み、どこから取り出したのかくしゃくしゃになった煙草で紫煙をくゆらせ悪びれもしない。
「なあに、道を知らないやつが多くなったのさ。昔と比べて」
千冬の視線に気づいたのか、そんなことまで返してくる。
その言葉に思わず言い返しそうになった千冬だが、地元の人間に言われたとおりの道を来ただけで、出発前に地図をよくよく見ずに来たのは自身だ。苦労したのも自業自得だと無理矢理納得させた。
それにしてもと千冬は藤原の後ろをのぞき見る。
日光の元で見る藤原は薄暗い小屋で見た先程よりも、遙かに風雅に見えた。光が透き通っているかと錯覚してしまいそうになる白い肌、白髪は光の下では一本一本が絹の糸のように光輝いている。そして今は見えないが人智離れした赤い瞳。そして何よりも今にも壊れてしまいそうないじらしい身体つきは、守ってやらなければならないと本能を刺激してくる。麗しい見た目と良い、幻想的な雰囲気と良い、それでいて幼げな身体が醸し出すアンバランスな艶めかしさに、その気がなくとも思わずつばを飲み込んでしまう。
いやいや自分はこんな性的倒錯者ではないと赤く染まった顔をふりふり、妄想を吹き飛ばす。しばし沈黙の間が続く。しかしそろそろ麓の家々の屋根が見えたあたりで、千冬は人気のないうちに聞きたかったことを訊く。少し前よりも真っ赤になりながら。
「ああ、藤原さん。その、一つ、一つだけ訊ねてもよろしいでしょうか」
「うん、別にかまわないが。なにか忘れ物でもあったのか」
「いや、その」
どうしても歯切れの悪くなってしまう千冬。立ち止まった藤原がいぶかしげに千冬を見ている。どうにでもなれとやけっぱちの気持ちで千冬は訊ねた。
「その、藤原さんはとても若く見えますが、なにか特別なことをされているのでしょうか。修験道みたいな修行やら、特別な薬草やらを煎じて飲んだり……」
最後の方は口にした自身でも聞き取れないほどか細い声だった。千冬は人差し指同士をつきあわせ、若干顔を下に向けた。小川の澄んだせせらぎに写る自身の顔に、千冬はついつい人差し指に力を込めた。
目を丸くした藤原が、千冬を見詰めている。たとえ見ていなくとも分かる。その視線に耐えられなくなった千冬は、思わず顔ごと視線からそらす。
「ふ、ふふ。ふふふふふふ。いや失礼。ご期待に添えなくて申し訳がないが、別段特別なことはしていないサ。体質のようなものだ」
そういう藤原は朗らかに笑っていた。年相応の笑顔をせせらぎに浮かべて。だがその笑顔はどこか寂しげなものが混じっているような気がした。