『……いい? これが、最後の確認。』
男は、つい先程聞いた少女の声を、頭の中で反芻させていた。
『あの子の不幸体質の正体は、あの子が不幸だと思ったことが現実になるってもの。
だから、何が起こるか分からない。……この中の誰かが、死ぬかもしれない。冗談じゃなく、ね。』
これから始まるのは、白菊ほたるの二度目のファーストライブ。
その少し前に、参加者は別室にて双葉杏からのミーティングを受けていた。
『今、茄子が皆に、私と茄子と芳乃、三人分の幸福を願ったから。
だから、ほたるの不幸は打ち消されるし、それによって気絶することもない……はず。』
ビデオ通話、大画面に映し出される小さな少女は、やはり何処かの病室で。
彼女達が今までどれだけ頑張ってきたのかを、男は想像せずにはいられなかった。
『でも。今回は大丈夫でも、これから先。
あの子がアイドルとして皆の前に居続ける限り。
皆に危害が及ばないとは言い切れない。』
彼女が確認と銘打ったのは、単なるこれからの段取りだけではない。
自分達の、決意を。
白菊ほたるを幸せにしようとする意志を。
たとえ危険に冒されようと、彼女の味方であり続ける覚悟を。
双葉杏は、それを問うていた。
『……それでも、助けたい?
あの子を、幸せにしたい?』
「──勿論。」
あの時返した言葉と同じもの。
その場に居た全員が等しく口にした言葉を、男は小さく呟く。
『……ありがとう。』
ほっとしたように、少女は笑っていた。
ブザーが鳴り響き、照明が落とされる。
ライブが、始まる。
一瞬の暗闇の後、舞台の真ん中にスポットライトが当てられる。
照らされるのは、黒を基調とした、恐らくは私服を纏う少女。
白菊ほたるだ。
『…………、っ』
彼女は目の前の光景に驚愕し、直後、苦虫を噛み潰したように眉をひそめた。
この反応は、男にも予想できていた。
彼女はただ「ライブをもう一度する」としか聞かされていない。
ならば決して思わない。
まさか。
三人の先輩の実力をもってして、それでも隅の数席に空きが見られた大舞台。
それと全く同じ場所で。
たった一人。自分だけしか居ないのに。
『なんで……、』
一席も空きが無い、文字通りの満席であるなどと。
『……なんで、ですか?』
何故、何故、と、彼女は繰り返す。
これも、頭の中にあったことだ。
『知っているでしょう? 見たでしょう?
私は不幸にするんです。
周りの人を、不幸にするんです。』
誰一人、物音すら立てない静寂の中。
少女の声は、例えマイクを通さずとも、鮮明に聞き取れたことだろう。
『だから、こんなとこに居ちゃいけないんです。
私も。……あなた達も。』
分かっていた。
彼女が自分達を遠ざけようとすることも。
彼女が彼女自身をどう思っているのかも。
『それなのに、なんで、』
彼女が自分達の行動を理解できないことも。
どうしていいのか分からずに泣きそうになってしまうことも。
「知っているから。」
だからこそ、幸せにしなくてはならないことも。
思いがけない声に、彼女は目を見開いて男に顔を向ける。
男はそれに合わせて、小さく微笑みながら会釈を返した。
声が届かないのなら、届く場所へ。
白菊ほたるのライブをもう一度行うことを提案したのは、彼だった。
ネット上で声をかけ、連絡を取り、事務所と交渉した。
「君が優しい人間だということも。」
双葉杏のSOSを受け、行動した何人ものファン達。
その中心に居たのが、他ならぬ彼だった。
だから、彼がこうして皆を代表すると決まった時。
それに反対する者など、誰も居なかった。
「君がひどく苦しんでいるということも。」
話は事務所側の協力もあって順調に進み。
今日、この大舞台に収まりきらないほどの人が集まった。
ただ一人を救うために。
一人の少女を、幸せにするために。
「君が人を幸せにしたいということも。」
彼女達のプロデューサーはこの話が形になると、すぐにアイドルと男達との話し合いの場を設けた。
双葉杏が未だ病床に伏していることにより画面越しではあったが、不特定多数と直接連絡を取るにはむしろ都合が良かった。
そこで彼等は全てを知った。
不幸と幸福のメカニズム。
白菊ほたるの夢。
双葉杏の願い。
白菊ほたるの危険性。
鷹富士茄子の誓い。
白菊ほたるの決意。
依田芳乃の想い。
その全てを、彼等は知った。
何故白菊ほたるを助けようと思ったのか。
その問いに、彼女のためと答えられる者は、殆ど居なかっただろう。
双葉杏に頼まれたから。
あの双葉杏が、涙ぐんで懇願したから。
それが彼等の動機であり、双葉杏もそれを狙っていた。
白菊ほたるを救おうとするのは、しかし彼女のためではない。
杏とて、それに思うところが無いわけではなかった。
だが、そんな綺麗事を言っている場合ではないのだ。
教科書通りの良心に沿っていられる余裕など、双葉杏は、そして白菊ほたるは持っていなかった。
「君は幸せになるべきだということも。」
双葉杏のために白菊ほたるを救おうと集まった彼等は、そこで初めて、全てを知った。
そう。知ったのだ。
彼女がどれだけ優しいか。
彼女がどれだけ悩んだか。
彼女がどれだけ苦しんだか。
彼女がどれだけ報われるべきか。
心を動かされるに決まっている。
同情するに決まっている。
力になりたいと思うに決まっている。
そんなことを聞かされては。
そんなことを知ってしまえば。
「全部、教えてもらったから。」
味方になるに決まっている。
何故白菊ほたるを助けようと思ったのか。
それは、双葉杏に頼まれたから。
では、何故白菊ほたるを助けようと思うのか。
それは、幸せになってほしいから。
彼女に、幸せになってほしいから。
だから彼等はここに居る。
他の誰でもない、白菊ほたるのために。
彼女を幸せにするために、彼等は今ここに居る。
『……なら、なんで、』
全てを知ったと男は言った。
ならば思考は帰結する。
彼女は死すべき存在だ。
なのに何故。
何故、彼等は。
「……知ったからだよ。」
男が返した同じ言葉は、しかし違う意味を持っていた。
それは、男がここに居る理由。
かつて男はアイドルに救われた。
そのアイドルが。救世主が。
諦めようとしている。失望しようとしている。
かつての男と同じように。
その苦しさを男は知っている。
その辛さを男は知っている。
それがどうしようもなく、正しく見えてしまうことも。
自分はアイドルではない。
救世主には成り得ない。
でも。それでも。
かつての自分が苦しんでいる。
未来の救世主が苦しんでいる。
それを、例えたった少しでも。
助けたいと思うのは。
力になりたいと思うのは。
そんなに、おかしいことだろうか。
『私は!! ……もう、幸せにはなれないんです。
幸せになんてできないんです。
だったら、せめて、これくらいは……!!
不幸にしないことくらいは、許してくださいよ!!!!』
苛立つように彼女は言う。
当然だ。彼女が怒るのは。
感情のままに叫ぶのは。
自分の望みは叶わない。プラスには成り得ない。
ならばせめて、これ以上マイナスにはなりたくない。
そんな、最後の、ささやかな希望。
それすらも奪おうとするのだから。
『嫌なんです怖いんです限界なんですよ!!!
もう見たくないんです!! 笑顔でいてほしいんです!!
……もう謝りたくないんです!!!!』
自分のせいで不幸になった。
だから彼女は謝った。
その不幸の責は自分にある。
だから彼女は謝り続けた。
それが嫌だと彼女は言った。
その責はもう背負えない。
これ以上は潰れてしまうと、必死になって彼女は叫ぶ。
「……謝らなくて、いいよ。」
敵なのだ。
彼女にとって、ここに存在する全てが。
彼女を死なせまいとする全てが。
視界を塗り潰す人影の全てが。
自分を幸福から遠ざける敵でしかないのだ。
承知の上だ。
彼女はこれを望まない。
我等は単なる邪魔者だ。
ならば。
どれだけ刃を向けられようと。敵意を突き付けられてでも。
邪魔者ならば、邪魔者らしく。
姑息な手法を使ってでも。
「ここに居る人は皆、知っている。
君の体質も。君の悩みも。
知った上で、ここに居る。
だから、謝らなくていいんだよ。」
白菊ほたるの近くに居れば、不幸になるかもしれない。
その可能性を考慮した上で、彼等はそれでも側に来た。
わざわざ危険地帯に足を踏み入れて、怪我をしたからと怒る者は居ない。
だから、彼女が謝る道理は無い。
例え不幸になろうとも、彼女にその責は無い。
『それで本当に……!』
「いいよ。」
『…………っ!!』
それで本当にいいと思っているのか。
最後まで言い切らないうちに、男ははっきりと返答する。
「僕達が嫌なのは、君が死んでしまうことだから。」
自分が不幸になるよりも。
笑顔になれないことよりも。
一人の少女が。
そんな疲れきった顔ができてしまう少女が。
それほどに頑張ってきた少女が。
それでも死んでしまうこと。
死を選んでしまうこと。
それが。それだけが嫌なのだ。
『……分かんない。』
吐き出すように呟いたそれは、これまでと違う色をしていた。
『分かんない、分かんない、分かんない!!』
やっと、年相応の顔が見られたな、と、男はどこか安堵する。
『なんで駄目なんですか!? なんで許してくれないんですか!?
なんでそんなこと、言ってくれるんですか!?』
色々な感情が一気に押し寄せて、それを受け止めきれていないのだろう。
自分の見つけ出した最適解が否定されて。
彼等の起こした行動の理由が理解できなくて。
掛けられた言葉が嬉しくて。
でも、それは嬉しくないはずで。
ぐちゃぐちゃになった彼女は叫ぶ。
『あなたは私を!!! ……どうしたいんですか!!!!』
慟哭に対する答え。
そんなものは既に決まっていた。
ここに居る誰もが同じ。
ここに居る理由と同じ。
だからこそ。
前触れもなく。音もなく。一瞬にして。
世界が、純白に染まった。
打ち合わせをしていたのではなかった。
示し合わせていたのではなかった。
ただ、伝えたいと思った。
舞台に佇むアイドルに。ファンである自分が。
その結果。一寸の乱れもなく。
全員が全く同じ動作を取る。
これが、答え。
彼女に対する、彼等の総意。
あなたの歌が聴きたい。
彼女を表す色。
光を握りしめた手を。
何も言わず。ただ、真っ直ぐに。
精一杯に腕を伸ばし続ける。
あなたの踊る姿が見たい。
ファンがアイドルに向けてできる。
縮めることの可能な、最大限の距離。
伝えることの許される、最大限の意思表示。
あなたの笑顔が知りたいんだ。
「不幸になりたいわけじゃない。
……不幸にしたいわけじゃない。」
目を見開いて、只々驚愕するほたるに、男は声をかける。
彼等が考案した、悪者らしい姑息な手法。
その最後の一手を打つために。
「僕達は。」
優しい君が。
他者の幸福を願える君が。
他者を幸福にしたいと思える君が。
目の前の、幸福になりたいと言う者達を無視して。
君が死んだら悲しむと言う者達を無視して。
ここに居る全員を不幸にすると知って。
その上で一人さっさと退場してしまおうだなんて。
「
やれるもんならやってみろ。
永遠とも思えた静寂の後。
『…………いいんですか?』
やがてぽつりと少女が言った。
『不幸になるかもしれないんですよ?』
彼等は決して動かない。
『幸せになんて、なれないかもしれないんですよ?』
光は決して揺らがない。
『なのに、なのに…………』
少女は俯き目をつむる。
光は彼女を照らし続ける。
いつまでも。いつまでも。
もう転んでしまわぬように。
自分を閉ざしてしまわぬように。
『……幸せになってくれますか。』
瞳を閉じたままの少女が問う。
『私が歌ったら、幸せになってくれますか。』
答えは既に知っていた。
『不幸になっても、幸せでいてくれますか。』
目の前に、在り続けた。
だから少女は顔を上げる。
ゆっくりと瞼を開く。
光に導かれるように。
それを見て、男は静かに笑う。
その瞳に宿るのは、決意と覚悟。
そして少女は動き出す。
曲が舞台を包み込む。
それは、一人の少女の歌。
どこにでもありそうなシンデレラストーリー。
恵まれない少女を偶然目にした女神様が、あまりに可哀想だと天使に少女を救うことを命令する。
天使は部下である妖精を、少女の手助けをするよう遣わせる。
妖精は少女の願いを聞き、協力して問題を解決していく。
これから始まるのは、そんな物語。
曲に合わせて少女が揺れる。
指先、足先の動き。
重心の安定感。
目線の移動。
動作から動作への、滑らかな繋ぎ。
そのどれを取っても。
ああ、この子は、本当に。
本当に、アイドルになりたかったんだな、と。
そう、思わせるもので。
惹き込まれる。
少女を包み込む衣装に。
少女を照らすステージに。
少女に合わせて揺れる観客席の光に。
少女が振りまく、笑顔に。
時に歌い、時に話し、時に踊る。
そして、どの時も笑顔を絶やさない。
その姿は、等しく人を笑顔にする。
それが、アイドルという存在。
ならば、十分だろう。
誰一人として異議を唱える者は居ない。
彼女は。
白菊ほたるは、アイドルだ。
そう男は確信する。
楽しいのだ。嬉しいのだ。
こんなに単純で、こんなに幸せな感情が、今、会場全体を満たしている。
なんと簡単に成し遂げるのか。
ずっとそう思っていた。
だが、違った。
何ら簡単ではなかった。
彼女も同じだったのだ。
彼女も、全てを投げ出そうとした。
自分の持つもの全てに、失望した。
かつての男と、同じように。
だからこそ男は、尊敬の念すら持ってライブに熱中する。
男は知っている。
それがどれだけ難しいか。
それがどれだけ大変か。
そういうアイドルが居てもいいじゃないか。
アイドルが皆を幸せにするなら、幸せにされるのはファンだ。
彼女は彼等を幸せにする。
彼等が幸せになることで、彼女は笑う。
ファンが幸せになるためにアイドルは踊る。
アイドルを幸せにするためにファンは全力でそれを享受する。
そんな相互関係で結ばれた。
そんなアイドルが居てもいいじゃないか。
これ以上の成功なんて存在しない。
これが。これこそが。
白菊ほたるがアイドルとなる日に、相応しい舞台。
人を幸せにしたいと願った少女は。
少女を幸せにしたいと願った者達は。
この場に居る全員が。
あんなにも。こんなにも。
幸せそうに泣いている。