白菊ほたるの幸福論   作:maron5650

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27.ゆっくりと溶けだして

ほたるが凶器を放った次の瞬間。

茄子の下へと素速く一歩を踏み出したその足は、二歩目へと続くことなく静止した。

 

「…………なん、で、」

 

来るはずのものが来ない。

来て当然のもの。

来なければならないはずのものが。

 

茄子は、避けなかった。

 

刃は彼女の喉首を正確に狙い。

反射的に動いたのか、はたまた予測していたのか。

首を囲むように防御した彼女の両腕のうち、左腕を深く貫いていた。

 

確かにそれなら、今この瞬間にほたるが死ぬことは無い。

だが、それでは駄目なのだ。

これは恐らく、この場で彼女が取れ得る、最悪の選択。

 

そもそもほたるがこの行動に出たのは。

「茄子は必ずこれを避ける」という確信があったからだ。

ほたるにとって、茄子が避けずにそのまま死亡するというのは、決してあってはならないこと。

だからこそほたるは、彼女が避けずに凶刃を受け入れる可能性を考慮し。

そして、万に一つもあり得ないという結論を導き出した。

何故なら、ほたるを救うには、茄子の幸福は必要不可欠。

幸福が死に、不幸だけが生き残ってしまっては、完全に詰みだ。

茄子にとって、これを避けないことが幸福である訳がない。

よって、茄子が避けないはずがない。

だからほたるは茄子を攻撃した。

 

しかし今、「茄子が必ず避けようとする」攻撃が命中した。

これは茄子の意志によるもの。彼女はあえて避けなかった。

それを理解できるのは芳乃だけだ。

ほたるは知らない。

杏が発見した、不幸と幸福のメカニズムを。

ほたるは知らない。

彼女を対象とした幸福は、彼女が任意に発生を選択できることを。

ほたるは知らない。

不幸と幸福に、そもそも強さの概念など存在しないことを。

 

だから、ほたるは思考する。

何故茄子は攻撃を受けた。

何故茄子は避けなかった。

だって、茄子の幸福は発生するはずなのに。

まさか。

もう、手遅れだったのか。

もう、私の不幸は。

彼女の幸福では抑えきれないまでに。

 

どうしようもないまでに。

 

ほたるがそこへ行き着くのは最早必然。

行き着いてしまえば、不幸が起こる。

不幸が幸福を上回ってしまった。

そんな状態で、自分は茄子を傷付けてしまった。

ならば、もう、彼女は。

 

まだほたるは目の前の事実を整理できていない。

今から数秒、よくて十数秒が猶予だ。

それまでにほたるの認識を塗り潰さなければ、茄子は死ぬ。

だが、どうやって。

 

焦りばかりが先行する。

まともな思考ができない。

考えろ。考えろ。考えろ。

頭がその一言に押し潰される。

 

「…………っ!?」

 

その時だった。

左腕に重症を負い、苦痛に顔を歪ませる彼女が。

芳乃がたった今、「この場で取れ得る最悪の選択をした」と評価した彼女が。

確かに、こちらを見たのだ。

 

それは、助けを懇願してはいなかった。

それは、死を目前にして恐怖に染まってはいなかった。

明確な意志を持っていた。

何かを、伝えようとしていた。

 

反射的に、芳乃は茄子の気を読む。

芳乃のこれは、テレパシー能力ではない。

非常に漠然とした、曖昧なものでしか読み取ることはできない。

しかし、せずにはいられなかった。

彼女が確かに伝えようとしているもの。

そのヒントを、何一つ見落とす訳にはいかなかった。

 

そして芳乃は理解する。

数瞬前までの自らの茄子に対する評価を、180度改めねばならないこと。

これは最悪などではない。芳乃が思いつきすらしなかった、最善の方法であること。

これから自分が取るべき行動は。

 

 

「──ほたるどの!!!!!」

 

 

 

叫ぶ。

 

ほたるは突然の第三者の大声に、びくりと全身を震わせる。

その後、ゆっくりと、怯えるように振り返る。

 

「…………よしの、さん、」

 

すがるような目でこちらを見るほたる。

突然に予測外の事態が起きすぎて、頭の中で処理しきれていない。

 

「……随分と探しましてー。やっと、見つけることが叶いましたー。」

 

これでいい。

茄子が芳乃に望んだのは、ただの時間稼ぎ。

ほたるが茄子にこれ以上視線を向けないようにするのが、自分のするべきことだ。

 

「……芳乃さん。茄子さんが、茄子さん、が、」

「茄子殿ですかー? わたくしと同じくー、そなたを探しておりましてー。」

 

たどたどしく話すほたるに、被せるように言葉をぶつける。

 

「ち、ちが……もう……、」

「おやー、もう見つけておいででしてー? 流石は幸福といったところでしょうかー。」

 

人の話を聞かないことに若干の罪悪感を覚えながらも、芳乃はほたるにその先を言わせない。

目線の先はほたるから逸らさないまま、その奥に居る茄子へと注意を傾ける。

……よし、大丈夫。

彼女は自分のことに集中している。

 

「……違うんです! 茄子さんが、包丁で……!」

「茄子殿はー、そなたの後ろにおりましてー。ですがー……。」

 

茄子が彼女自身ではなく、芳乃に注意を向けたことを確認して、芳乃は視線を誘導するようにほたるから目を逸らす。

 

ほたるもその動きにつられて、恐る恐る後ろを振り返る。

そこにあるであろう、凄惨な光景を想像しながら。

しかし。

 

 

 

「包丁とはー、一体何処にあるのでしてー?」

 

 

 

無かった。

 

左腕を貫かんとする凶器も。

滴り落ちる血液も。

苦悶に膝をつく少女も。

まるで、最初から存在していなかったかのように。

その痕跡すらも、跡形も無く消え去っていた。

 

「…………そん、な、」

 

当然、ほたるはこれまで以上に困惑する。

確かに見たのだ。

柔肌に突き刺さる凶刃を。

苦痛に歪む彼女の顔を。

夢幻で片付けるなど、不可能なまでに。

 

では、これは何だ。

確かに彼女は傷ついた。

そのはずではなかったのか。

ならば何故、彼女は平然としている。

平然と、立っていられる。

 

まさか。

一つの推測がほたるに芽生える。

そうだ。それしかあり得ない。

こんなことができるのは。

できてしまえるのは。

 

 

 

「ラッキーですねっ♪」

 

 

 

彼女しか、いない。

 

違ったのだ。

不幸が幸福を上回ってしまったなど、思い上がりも甚だしい。

到底及ぶはずもない。

彼女は。彼女の幸福は。

過去の事実すら捻じ曲げてしまえるほどに。

 

私などでは抵抗すらできないほどに。

 

そう思わせるのが茄子の作戦だ。

茄子が攻撃を受ければほたるの不幸によって茄子が死ぬ。

ほたるが攻撃を受ければ茄子の幸福によってほたるが死ぬ。

それら二つの可能性を、完全に排除する方法。

攻撃が誰にも当たらないようにすればいい。

誰にも、当たらなかったことにすればいい。

 

茄子が芳乃に時間稼ぎを求めたのはそのためだ。

まず、茄子は幸福を発生させずに、包丁をその身をもって受け止める。

次に、茄子の幸福を使って、傷の修復と包丁の抹消を行う。

 

この時に、ほたるに正しく思考をさせてはならない。

傷の痛みに耐えながら意図的に幸福を思い浮かべる茄子よりも、反射的に不幸を思いついてしまうほたるの方が、どうしてもその発生は早い。

だから、ほたるの思考を茄子から引き剥がす必要があった。

芳乃は茄子の狙いに気付き、茄子は芳乃がくれた時間で証拠を隠す。

 

「……ほたるちゃん。私のお話、聞いてくれますか?」

 

その結果、ほたるは考える。

自分では、何をどうしようとも彼女には敵わない。

彼女に握られた私の生殺与奪は、決して奪い返せるものではない。

彼女の要求を聞き、その対価として返してもらえるよう交渉するしかない。

 

「…………はい。」

 

今、茄子はほたるとの交渉の席を、無理矢理に用意したのだ。

それも、限りなく自分に有利な形で。

 

 

 

 

 

「それでは、二日後の夜。……待っていますね。」

 

「……はい。」

 

伝えるべきことは伝えた。

ほたるは、行くと答えた。

これ以上自分にできることは無いと、茄子は階段へと続く扉を開ける。

 

軋んだ音が、乾いた空に響く。

ほたると芳乃は、見るともなく月を見上げていた。

 

「……ほたる殿ー。」

 

切り出したのは芳乃だった。

声を聞いてほたるが目を向けると、淡い赤色と目が合った。

 

「お届けもの、でしてー。」

 

それは、茄子が作った飴だった。

茄子が杏の無事と、ほたるの幸福を願って作った飴だった。

杏がほたるを助けるために、芳乃に責を負わせぬために、芳乃に渡した飴だった。

 

渡された時、芳乃は杏の考えを正しく理解した。

それと同時に、強く思った。

この少女達は、なんと、優しい心を持っているのだろうか。

その優しさに、応えたいと思った。

それは半ば、使命感のようなものですらあった。

杏が茄子に心動かされたのならば、芳乃は二人に心動かされた。

 

電話口での茄子の質問に「頼まれたから」と答えたのも、これが理由だった。

本当のことを伝えては、「仕事を依頼された」という形にした杏の優しさを踏みにじることになる。

だから、ただ、頼まれただけなのだ、と。

これは私の意思とは関係のない行動だ、と。

そう答えたのだ。

その結果、事実に基づかない言動はしたくないという、自らの信条に反することになろうとも。

それが、杏の優しさに対する、芳乃なりの礼儀だった。

 

そして今、芳乃はほたるに飴を渡そうとしている。

ほたるを助けるために、茄子が作り杏が渡したこの飴は。

他の誰でもない、ほたるが持っているべきだ。

ほたるの元へ届けるのが、自分のするべきことなのだ。

この行動が悪手であるなど、芳乃は一寸も考えてはいなかった。

 

ほたるはゆっくりと手を伸ばし、飴を手に取る。

何故芳乃は飴を、しかもこのタイミングで渡したのか。

ほたるは芳乃の真意を測りかねているようだった。

しかし、それでも構わなかった。

たとえ伝わっていなくとも、ほたるに、持っていてほしかった。

 

「……それではー。わたくしも失礼致しましてー。」

 

飴を眺め続けるほたるにぺこりと一礼して、芳乃もドアの向こうへと消える。

 

「…………。」

 

残されたほたるは、再び空を仰ぐ。

茄子から告げられた「最後のもう一度」。

それで何かが変わるとは思えなかった。

今更それに希望なんて持てなかった。

ただ、対価のためにやるだけだ。

自分を、殺すために。

 

でも、何故だろう。

この飴を見ていると、不思議と落ち着いて。

今まで休むことなく私を責め続けていた不安が、いくらか和らいで。

だから私は、淡い赤色を口に含む。

 

 

 

 

何かが、ゆっくりと溶けていった。


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