ほたるが凶器を放った次の瞬間。
茄子の下へと素速く一歩を踏み出したその足は、二歩目へと続くことなく静止した。
「…………なん、で、」
来るはずのものが来ない。
来て当然のもの。
来なければならないはずのものが。
茄子は、避けなかった。
刃は彼女の喉首を正確に狙い。
反射的に動いたのか、はたまた予測していたのか。
首を囲むように防御した彼女の両腕のうち、左腕を深く貫いていた。
確かにそれなら、今この瞬間にほたるが死ぬことは無い。
だが、それでは駄目なのだ。
これは恐らく、この場で彼女が取れ得る、最悪の選択。
そもそもほたるがこの行動に出たのは。
「茄子は必ずこれを避ける」という確信があったからだ。
ほたるにとって、茄子が避けずにそのまま死亡するというのは、決してあってはならないこと。
だからこそほたるは、彼女が避けずに凶刃を受け入れる可能性を考慮し。
そして、万に一つもあり得ないという結論を導き出した。
何故なら、ほたるを救うには、茄子の幸福は必要不可欠。
幸福が死に、不幸だけが生き残ってしまっては、完全に詰みだ。
茄子にとって、これを避けないことが幸福である訳がない。
よって、茄子が避けないはずがない。
だからほたるは茄子を攻撃した。
しかし今、「茄子が必ず避けようとする」攻撃が命中した。
これは茄子の意志によるもの。彼女はあえて避けなかった。
それを理解できるのは芳乃だけだ。
ほたるは知らない。
杏が発見した、不幸と幸福のメカニズムを。
ほたるは知らない。
彼女を対象とした幸福は、彼女が任意に発生を選択できることを。
ほたるは知らない。
不幸と幸福に、そもそも強さの概念など存在しないことを。
だから、ほたるは思考する。
何故茄子は攻撃を受けた。
何故茄子は避けなかった。
だって、茄子の幸福は発生するはずなのに。
まさか。
もう、手遅れだったのか。
もう、私の不幸は。
彼女の幸福では抑えきれないまでに。
どうしようもないまでに。
ほたるがそこへ行き着くのは最早必然。
行き着いてしまえば、不幸が起こる。
不幸が幸福を上回ってしまった。
そんな状態で、自分は茄子を傷付けてしまった。
ならば、もう、彼女は。
まだほたるは目の前の事実を整理できていない。
今から数秒、よくて十数秒が猶予だ。
それまでにほたるの認識を塗り潰さなければ、茄子は死ぬ。
だが、どうやって。
焦りばかりが先行する。
まともな思考ができない。
考えろ。考えろ。考えろ。
頭がその一言に押し潰される。
「…………っ!?」
その時だった。
左腕に重症を負い、苦痛に顔を歪ませる彼女が。
芳乃がたった今、「この場で取れ得る最悪の選択をした」と評価した彼女が。
確かに、こちらを見たのだ。
それは、助けを懇願してはいなかった。
それは、死を目前にして恐怖に染まってはいなかった。
明確な意志を持っていた。
何かを、伝えようとしていた。
反射的に、芳乃は茄子の気を読む。
芳乃のこれは、テレパシー能力ではない。
非常に漠然とした、曖昧なものでしか読み取ることはできない。
しかし、せずにはいられなかった。
彼女が確かに伝えようとしているもの。
そのヒントを、何一つ見落とす訳にはいかなかった。
そして芳乃は理解する。
数瞬前までの自らの茄子に対する評価を、180度改めねばならないこと。
これは最悪などではない。芳乃が思いつきすらしなかった、最善の方法であること。
これから自分が取るべき行動は。
「──ほたるどの!!!!!」
叫ぶ。
ほたるは突然の第三者の大声に、びくりと全身を震わせる。
その後、ゆっくりと、怯えるように振り返る。
「…………よしの、さん、」
すがるような目でこちらを見るほたる。
突然に予測外の事態が起きすぎて、頭の中で処理しきれていない。
「……随分と探しましてー。やっと、見つけることが叶いましたー。」
これでいい。
茄子が芳乃に望んだのは、ただの時間稼ぎ。
ほたるが茄子にこれ以上視線を向けないようにするのが、自分のするべきことだ。
「……芳乃さん。茄子さんが、茄子さん、が、」
「茄子殿ですかー? わたくしと同じくー、そなたを探しておりましてー。」
たどたどしく話すほたるに、被せるように言葉をぶつける。
「ち、ちが……もう……、」
「おやー、もう見つけておいででしてー? 流石は幸福といったところでしょうかー。」
人の話を聞かないことに若干の罪悪感を覚えながらも、芳乃はほたるにその先を言わせない。
目線の先はほたるから逸らさないまま、その奥に居る茄子へと注意を傾ける。
……よし、大丈夫。
彼女は自分のことに集中している。
「……違うんです! 茄子さんが、包丁で……!」
「茄子殿はー、そなたの後ろにおりましてー。ですがー……。」
茄子が彼女自身ではなく、芳乃に注意を向けたことを確認して、芳乃は視線を誘導するようにほたるから目を逸らす。
ほたるもその動きにつられて、恐る恐る後ろを振り返る。
そこにあるであろう、凄惨な光景を想像しながら。
しかし。
「包丁とはー、一体何処にあるのでしてー?」
無かった。
左腕を貫かんとする凶器も。
滴り落ちる血液も。
苦悶に膝をつく少女も。
まるで、最初から存在していなかったかのように。
その痕跡すらも、跡形も無く消え去っていた。
「…………そん、な、」
当然、ほたるはこれまで以上に困惑する。
確かに見たのだ。
柔肌に突き刺さる凶刃を。
苦痛に歪む彼女の顔を。
夢幻で片付けるなど、不可能なまでに。
では、これは何だ。
確かに彼女は傷ついた。
そのはずではなかったのか。
ならば何故、彼女は平然としている。
平然と、立っていられる。
まさか。
一つの推測がほたるに芽生える。
そうだ。それしかあり得ない。
こんなことができるのは。
できてしまえるのは。
「ラッキーですねっ♪」
彼女しか、いない。
違ったのだ。
不幸が幸福を上回ってしまったなど、思い上がりも甚だしい。
到底及ぶはずもない。
彼女は。彼女の幸福は。
過去の事実すら捻じ曲げてしまえるほどに。
私などでは抵抗すらできないほどに。
そう思わせるのが茄子の作戦だ。
茄子が攻撃を受ければほたるの不幸によって茄子が死ぬ。
ほたるが攻撃を受ければ茄子の幸福によってほたるが死ぬ。
それら二つの可能性を、完全に排除する方法。
攻撃が誰にも当たらないようにすればいい。
誰にも、当たらなかったことにすればいい。
茄子が芳乃に時間稼ぎを求めたのはそのためだ。
まず、茄子は幸福を発生させずに、包丁をその身をもって受け止める。
次に、茄子の幸福を使って、傷の修復と包丁の抹消を行う。
この時に、ほたるに正しく思考をさせてはならない。
傷の痛みに耐えながら意図的に幸福を思い浮かべる茄子よりも、反射的に不幸を思いついてしまうほたるの方が、どうしてもその発生は早い。
だから、ほたるの思考を茄子から引き剥がす必要があった。
芳乃は茄子の狙いに気付き、茄子は芳乃がくれた時間で証拠を隠す。
「……ほたるちゃん。私のお話、聞いてくれますか?」
その結果、ほたるは考える。
自分では、何をどうしようとも彼女には敵わない。
彼女に握られた私の生殺与奪は、決して奪い返せるものではない。
彼女の要求を聞き、その対価として返してもらえるよう交渉するしかない。
「…………はい。」
今、茄子はほたるとの交渉の席を、無理矢理に用意したのだ。
それも、限りなく自分に有利な形で。
「それでは、二日後の夜。……待っていますね。」
「……はい。」
伝えるべきことは伝えた。
ほたるは、行くと答えた。
これ以上自分にできることは無いと、茄子は階段へと続く扉を開ける。
軋んだ音が、乾いた空に響く。
ほたると芳乃は、見るともなく月を見上げていた。
「……ほたる殿ー。」
切り出したのは芳乃だった。
声を聞いてほたるが目を向けると、淡い赤色と目が合った。
「お届けもの、でしてー。」
それは、茄子が作った飴だった。
茄子が杏の無事と、ほたるの幸福を願って作った飴だった。
杏がほたるを助けるために、芳乃に責を負わせぬために、芳乃に渡した飴だった。
渡された時、芳乃は杏の考えを正しく理解した。
それと同時に、強く思った。
この少女達は、なんと、優しい心を持っているのだろうか。
その優しさに、応えたいと思った。
それは半ば、使命感のようなものですらあった。
杏が茄子に心動かされたのならば、芳乃は二人に心動かされた。
電話口での茄子の質問に「頼まれたから」と答えたのも、これが理由だった。
本当のことを伝えては、「仕事を依頼された」という形にした杏の優しさを踏みにじることになる。
だから、ただ、頼まれただけなのだ、と。
これは私の意思とは関係のない行動だ、と。
そう答えたのだ。
その結果、事実に基づかない言動はしたくないという、自らの信条に反することになろうとも。
それが、杏の優しさに対する、芳乃なりの礼儀だった。
そして今、芳乃はほたるに飴を渡そうとしている。
ほたるを助けるために、茄子が作り杏が渡したこの飴は。
他の誰でもない、ほたるが持っているべきだ。
ほたるの元へ届けるのが、自分のするべきことなのだ。
この行動が悪手であるなど、芳乃は一寸も考えてはいなかった。
ほたるはゆっくりと手を伸ばし、飴を手に取る。
何故芳乃は飴を、しかもこのタイミングで渡したのか。
ほたるは芳乃の真意を測りかねているようだった。
しかし、それでも構わなかった。
たとえ伝わっていなくとも、ほたるに、持っていてほしかった。
「……それではー。わたくしも失礼致しましてー。」
飴を眺め続けるほたるにぺこりと一礼して、芳乃もドアの向こうへと消える。
「…………。」
残されたほたるは、再び空を仰ぐ。
茄子から告げられた「最後のもう一度」。
それで何かが変わるとは思えなかった。
今更それに希望なんて持てなかった。
ただ、対価のためにやるだけだ。
自分を、殺すために。
でも、何故だろう。
この飴を見ていると、不思議と落ち着いて。
今まで休むことなく私を責め続けていた不安が、いくらか和らいで。
だから私は、淡い赤色を口に含む。
何かが、ゆっくりと溶けていった。