双葉杏の指示通り、二人の様子を少し離れた地点から監視していた依田芳乃は、眼前の光景に歯を強く噛み締めた。
杏の予測は、事実だけを見れば、その全てが的中していた。
白菊ほたるは鷹富士茄子の幸福体質を利用するために彼女に会いたいと願い。
そして今、「自分だけが不幸になればいい」という願いを部分的に放棄した。
しかし、ほたるがこの願いを放棄したその理由は、杏の考えから大きく逸脱していた。
いや、これは「考え」などではない。
ただの期待だった。
自らの望みの達成。これを妨害しようとする者に対して。
ひょっとしたら彼女は、感情を剥き出しにしてくれるんじゃないか。
どうして邪魔をするんだと、激昂してくれるんじゃないか。
そして、それでもちっとも揺るぎやしない茄子の姿を見て。
その優しさに触れて。
自分は生きてもいいのかと。
その断片だけでも。疑問だけでも。手に入れてくれやしないかと。
そんな陳腐な。月並みな。ありきたりな。平々凡々な。
疑いようのないハッピーエンドを。
期待していたに過ぎなかった。
だが彼女は、自らの感情に従って行動しているのではない。
彼女はどこまでも冷静だった。
自分の殺害方法を人質に取られて。
それでも彼女は、その犯人に屈服しようとはしなかった。
癇癪を起こしたフリをして。
逆鱗に触れられたフリをして。
願望成就の最短コースを選んだのだ。
ほたるが茄子を手にかけることは事実上不可能だ。
ほたるは、自身の不幸が茄子の幸福より勝ることはないと思っている。
しかしそれでも、茄子は何らかの抵抗をしなければならない。
火をかき消し、刃物を弾き落とし、毒物を避けなければならない。
例え茄子が居たとしても、ほたるの不幸そのものは、確かに発生するのだから。
そして、ほたるの狙いはそこにある。
ほたるの攻撃に対して放った茄子の反撃。
それを生身で喰らえばいい。
ほたるの不幸は決して茄子を殺さない。そうほたるは思っている。
茄子も、その反撃がほたるに当たるようにはしないだろう。
だが、ほたるはそれを、茄子の幸福が打ち消すと結論づけた。
そもそもほたるは、自分自身の不幸によって成せなかった自らの殺害を、茄子が居れば達成できると考えていた。
「茄子の幸福は、茄子から見て幸せなのではなく、当事者から見ての幸せに準拠して発生する」。
正解を導くにはあまりにも情報が不足していたはずの彼女が出した推論は、これ以上なく的を得ていた。
茄子はほたるに合わせて何らかの反撃をせねばならず、反撃をすればそれに当たりに行けばいい。
当たりに行けば、茄子は嫌でも気付く。
ほたるの本当の狙い。本当の目論み。
本当の、幸せ。
気付いてしまえば、幸福が発生する。
ほたるに当たらないように軌道が逸れるはずの反撃は、そのベクトルを変えず。
ほたるの望み通り、ほたるを殺す。
茄子自身が願った「ほたるを死なせない」という幸福があれば、例え直撃を受けようと怪我はしない。
だがこれからほたるが起こすのは、茄子にとって完全に予想外のもの。
ただでさえ弾いた凶器が当たらないように意識を向けているのだ。
それを見た瞬間、茄子は思ってしまうかもしれない。
ダメだ。これは、避けられない。
ほたるが死んでしまう。
自分のせいで、死んでしまう。
そう思ってしまえば、本当に、ほたるは死ぬ。
遂に、彼女はそれを行動に移す。
ほたるが弾かれた包丁に左手をかざすと、それは魔法のようにふわりと浮いて。
ゆらゆらと彼女の元まで移動し、そこでぴたりと静止した。
今「自分は死ぬことができない」という不幸が発生していないにも関わらずほたるが気絶していないのは、芳乃が茄子に電話をしたからだ。
あの時芳乃は茄子に、自分は茄子の味方であると告げた。
それは、芳乃もまた、ほたるの死を望まない者であることを意味していた。
つまり、今発生している幸福は三つ。
ほたるの願うほたるの死と、茄子の願うほたるの生。
そして、芳乃の願うほたるの生だ。
これによって、ほたるは気絶から逃れている。
しかし、茄子がそれを願えなくなってしまえば。
ほたるが死んでしまうと、そう思ってしまえば。
その瞬間に、ほたるは気絶する。
茄子の反撃をその身に受ける瞬間、ほたるは行動不能に陥る。
それだけではない。
そうなれば、ほたるの願いと芳乃の願いがそれぞれ打ち消され。
ほたるは、死ぬことができる身体になる。
ほたるはそのまま、左手を右へゆっくりと引く。
その動きに合わせて、包丁は茄子へとその切っ先を向ける。
杏や茄子が気絶した際に無傷であったのは、それが不幸と幸福の打ち消しだったからだ。
この二つが真っ向からぶつかった場合、少なくとも今は、恐らく幸福の方が勝る。
しかし、今回打ち消されるのは幸福と幸福。
どちらかが勝るということはない。
浅くない傷を負い、意識を失った状態で、彼女は死ねない身体ではなくなる。
確実に無事では済まない。
当たりどころによっては、即死すらあり得てしまうのだ。
その状態のまま、ほたるは数秒、動かない。
恐らくは、茄子にこの攻撃を避ける精神的準備をさせるため。
この手を振り抜けば何が起こるかを、理解させるために。
ほたるの気を注意深く観察していたことによりこれにいち早く気付いた芳乃は、しかし茄子に伝える訳にはいかない。
伝えてしまえば、茄子は知ることになる。
知ってしまえば、どちらかが死ぬ。
回避しなければ茄子が死ぬ。回避すればほたるが死ぬ。
ほたるの作戦の抜け道は、ただ一点。
茄子がほたるの思惑に気付かなければ成功しないということだ。
茄子は、凶器を突き付けられ、それでも尚、動かない。
表情も、手も足も、何もかも。
ただ、目の前の少女を見つめ続ける。
杏に報告し、杏の思考を待ち、杏の指示を仰ぐだけの時間的余裕はない。
今まさに、ほたるはその作戦を実行しようとしている。
茄子が自力でこれを打ち破らなければならない。
彼女の真意に気付くことなく、彼女の攻撃を避け、その瞬間に彼女が動けないような状況を作り出さなければならない。
ほたるは全身を使い、思い切り左手を振り抜く。
包丁は矢のように、真っ直ぐに茄子を目掛けて放たれ──
──人間の肉に刃物が突き刺さる音を、芳乃は生まれて初めて聞いた。