白菊ほたるの幸福論   作:maron5650

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23.少女の涙は水面に揺れて

男は、アイドルが好きだった。

時に歌い、時に話し、時に踊る。

そして、どの時も笑顔を絶やさない。

その姿は、等しく人を笑顔にする。

男も、その例に漏れない。

 

男にとって、アイドルは自分の全てだった。

 

一度、全てを投げ出そうとした時。

自分の持つもの全てに、失望した時。

練炭とガムテープを抱えて、ホームセンターのレジに並んでいた時。

その時展示されていたテレビの中に、アイドルが居た。

 

惹き込まれた。

少女を包み込む衣装に。

少女を照らすステージに。

少女に合わせて揺れる観客席の光に。

少女が振りまく、笑顔に。

 

男は、手に持っていた諦念を元の場所に戻し。

代わりに手に入れたのは、プラスチックケースに包まれた希望だった。

 

それからは、本当に早かった。

CDやDVD。

テレビやラジオ。

サイン会に握手会。

合同ライブ、単独ライブ。

男は自らの時間を、全てアイドルに費やすようになった。

 

楽しかった。

こんなに単純で、こんなに幸せな感情は、本当に久し振りだった。

自分をこんなにも簡単に、こんなにも救ってくれる、アイドルという存在。

男は、尊敬の念すら持って彼女達に熱中した。

 

そして、現在。

男は、今日もネットで情報を仕入れようと、パソコンの前に座っていた。

すると、何やら掲示版が賑わっている。

それは、男が今まで見たことがない程の勢いだった。

マウスを操り、スレッドを開く。

 

ざっと目を通したものの、上手く状況が掴めない。

いつもならば、定期的に説明を求める声が上がり、それに対し簡潔な解説が返される。

それを読めば大体の事の顛末が分かるし、それ以上自分で調べる必要もない。

だが今回は、それが無いのだ。

 

返されている言葉は、決まって一つ。

「動画を見ろ」。

とにかくまずこの動画を見ろ、そうすれば全て分かる、と。

その内容には、一切手を触れず。

皆が皆、口を揃えてそう言っていた。

 

動画のURL自体は、スレッドの一番上にすでに貼り付けられていた。

とにかく、見てみるしかないだろう。

見れば全てが、分かるというのだから。

 

少しの読み込みを経て、動画の再生が始まる。

画面の中央、ベッドに腰掛けている少女。

小さい身体、二つに結ばれた長い金髪。

『ニートアイドル』、双葉杏だった。

 

『やーやー、ちゃんと見えてる? 杏だよ。』

 

いつものように気の抜けた話し方をする彼女は、しかし、いつもとは違っていた。

まるで入院患者のような服装。いや、それ以上に。

 

『……今日はね、皆にお願いがあるんだ。』

 

こんなに真面目な表情をした彼女を、男は見たことがない。

 

『白菊ほたる、って子。知ってる?』

 

その名に、男は聞き覚えがあった。

つい先日のライブの最初の方に出ていたアイドルだ。

特徴のあるアイドルばかりが集う、彼女の事務所。

確か、彼女の特徴は……

 

『彼女の不幸体質は、本物だ。』

 

どうしても認めたくないものを、しかし、認めるしかない。

淡々と語る彼女の顔には、はっきりとそう書かれていた。

 

そうだ。と、男は思い出す。

事務所のホームページで彼女の情報が公開された時、ファンの反応は大まかに二分されていた。

可愛い。守ってあげたい。という、恐らく事務所の狙い通りなのだろう、肯定的な意見と。

他の所属アイドルに危害が及ぶのではないか、という、否定的な意見。

 

『そして、だからあの子は、アイドルになったの。

不幸な自分が。

他人すら不幸にする自分が。

それでも誰かを笑顔に出来たら、って。』

 

彼女はシーツを巻き込むように、両手をかたく握る。

その声は、震え始めていた。

 

しかし、事務所の所属アイドルは皆、外見だけではなくその内面も、いわゆる一般人ではなく。

各々自衛できるだろう、と。

更には、あの鷹富士茄子が居るのだから、と。

確かに危険性はあるが、そう危ぶむ程ではない。事務所側もそう考えているのだろう。

その時は、最終的にそのように意見がまとまっていた。

 

『でも、あの子は今、諦めようとしている。

……ううん、もう、諦めちゃった。』

 

そう言うと、彼女は項垂れてしまう。

彼女の表情が、見えない。

 

大丈夫なはずだった。

問題はないはずだった。

現に、ホームページに載せられていた動画では、茄子はほたるを助けられていた。

だから、あのライブも。

白菊ほたるのデビューライブとして、成功を収めるはずだったのだ。

 

『……駄目、だったんだ。

茄子が居れば、大丈夫だって皆思ってた。

でも、その場しのぎでしかなかった。

あの子は、茄子の幸福すら、不幸に変えてしまった。』

 

駄目だった。

鷹富士茄子が側に居て、それでも尚、不幸は発生し。

そして、茄子はそれを止められなかった。

依田芳乃が、明らかに無事では済まない高さから、落下した。

当然、ライブは中止。

それからは。一言で言えば。

酷かった。

肯定的な意見は塗り潰され、否定の一色に染まった。

庇いようのない状況だ。そうなるのが当然と言えるほどに。

依田芳乃が目を覚ましたと情報が入っても、その勢いは変わらなかった。

 

それを見て、あまりにも酷すぎる、と。

彼女の擁護に回り始める者も、少数ではあるが存在していた。

そして、事務所も、それを望んでいるようだった。

あれだけの損失を生み出した彼女を、まだ、切り捨てようとはしなかった。

 

『あの子は今、死のうとしてる。

死ぬことが幸せなんだって、本気で思ってる。

そうしなきゃ、皆を不幸にしちゃう。

そうすることでしか、皆を幸せにできないって。

自分が幸せになれない、って、本気で思ってるの。』

 

自分が存在している限り、自分は他人を不幸にする。

自分が生きている限り、自分は、幸せにはなれない。

 

「『……そんなのッ!』」

 

気が付くと男は、彼女と同時に、叫んでいた。

 

『……そんなの、いいわけがない。

正しくて、いいわけがない。

認めて、いいわけがない。』

 

生きていることが、許されない、と。

そう、言っているようなものだ。

お前は生まれてきてはいけなかったんだ、と。

 

『でも……でもね、駄目だった。

私達じゃ、駄目だった。

生きてていいんだって、そんな事、しなくていいんだって。

そう、言ってあげることすら、できなかった。』

 

下を向いたまま、絞り出すように声を発する。

限界、だった。

それは、どう見ても、限界だった。

どれだけ鈍くても分かる。

この問題は。これ以上、その小さ過ぎる背中に。

背負わせていい重荷では、ないのだ。

抱え込ませては、いけないことなのだ。

 

彼女達も同じだったのだ。

彼女達も、白菊ほたるを助けようとしていた。

決して憎んでなどいなかった。

こんなにボロボロになってまで。

瞳に涙を貯めてまで。

それでも。

 

『嫌……だよ、嫌だ……そんなの、嫌だよ……!

だってあの子、頑張ってた!

頑張って頑張って、何回も折れそうになって!それでもっ!!

……それでも、頑張ってっ、たんだよ……!?』

 

止まらなかった。

大きな瞳から流れる悲しさが。

小さな口が吐き出す悔しさが。

彼女の感情の、全てが。

 

『でも……もう、どうしようもないの……。

私達じゃ、これ以上届かない。

私達だけじゃ、あの子を救えない。』

 

彼女は顔を上げ、こちらをまっすぐに見る。

赤く充血した彼女の目には、ガラスのように。

今にも、壊れてしまいそうで。

 

『……だから、お願い。

あの子を、助けてあげて。

それができるのは、もう、皆だけ……だから。

だから……』

 

自分を救ってくれた存在が。

自分を笑顔にしてくれた存在が。

アイドルが。

自分では、救えないと言っている。

自分達では、届かないと。

 

そんな所に、届くだろうか。

そんな人を、救えるだろうか。

自分すら、自分では救えなかった、自分が。

 

『……だから助けて……たすけてよ……っ』

 

アイドルが、泣いている。

画面の向こう。きっと近くて、どうしようもなく、遠い場所で。

 

根拠なんてない。

自信なんて、尚更ない。

でも。

小さな少女が泣いている。

助けてくれと、泣いている。

それは、男が腰を上げるには、あまりにも、充分過ぎる理由。

 

大多数の否定と、極少数の擁護で占められていたその比率が、彼女の涙によって揺らぎ始めている。

今しかない。

彼女を救うなら、今しかない。

 

届かないのなら、届く場所へ。

ファンとアイドルが、一番近くに居られる場所へ。

 

部屋に、カタカタと音が響く。

男は、アイドルが好きだった。


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