男は、アイドルが好きだった。
時に歌い、時に話し、時に踊る。
そして、どの時も笑顔を絶やさない。
その姿は、等しく人を笑顔にする。
男も、その例に漏れない。
男にとって、アイドルは自分の全てだった。
一度、全てを投げ出そうとした時。
自分の持つもの全てに、失望した時。
練炭とガムテープを抱えて、ホームセンターのレジに並んでいた時。
その時展示されていたテレビの中に、アイドルが居た。
惹き込まれた。
少女を包み込む衣装に。
少女を照らすステージに。
少女に合わせて揺れる観客席の光に。
少女が振りまく、笑顔に。
男は、手に持っていた諦念を元の場所に戻し。
代わりに手に入れたのは、プラスチックケースに包まれた希望だった。
それからは、本当に早かった。
CDやDVD。
テレビやラジオ。
サイン会に握手会。
合同ライブ、単独ライブ。
男は自らの時間を、全てアイドルに費やすようになった。
楽しかった。
こんなに単純で、こんなに幸せな感情は、本当に久し振りだった。
自分をこんなにも簡単に、こんなにも救ってくれる、アイドルという存在。
男は、尊敬の念すら持って彼女達に熱中した。
そして、現在。
男は、今日もネットで情報を仕入れようと、パソコンの前に座っていた。
すると、何やら掲示版が賑わっている。
それは、男が今まで見たことがない程の勢いだった。
マウスを操り、スレッドを開く。
ざっと目を通したものの、上手く状況が掴めない。
いつもならば、定期的に説明を求める声が上がり、それに対し簡潔な解説が返される。
それを読めば大体の事の顛末が分かるし、それ以上自分で調べる必要もない。
だが今回は、それが無いのだ。
返されている言葉は、決まって一つ。
「動画を見ろ」。
とにかくまずこの動画を見ろ、そうすれば全て分かる、と。
その内容には、一切手を触れず。
皆が皆、口を揃えてそう言っていた。
動画のURL自体は、スレッドの一番上にすでに貼り付けられていた。
とにかく、見てみるしかないだろう。
見れば全てが、分かるというのだから。
少しの読み込みを経て、動画の再生が始まる。
画面の中央、ベッドに腰掛けている少女。
小さい身体、二つに結ばれた長い金髪。
『ニートアイドル』、双葉杏だった。
『やーやー、ちゃんと見えてる? 杏だよ。』
いつものように気の抜けた話し方をする彼女は、しかし、いつもとは違っていた。
まるで入院患者のような服装。いや、それ以上に。
『……今日はね、皆にお願いがあるんだ。』
こんなに真面目な表情をした彼女を、男は見たことがない。
『白菊ほたる、って子。知ってる?』
その名に、男は聞き覚えがあった。
つい先日のライブの最初の方に出ていたアイドルだ。
特徴のあるアイドルばかりが集う、彼女の事務所。
確か、彼女の特徴は……
『彼女の不幸体質は、本物だ。』
どうしても認めたくないものを、しかし、認めるしかない。
淡々と語る彼女の顔には、はっきりとそう書かれていた。
そうだ。と、男は思い出す。
事務所のホームページで彼女の情報が公開された時、ファンの反応は大まかに二分されていた。
可愛い。守ってあげたい。という、恐らく事務所の狙い通りなのだろう、肯定的な意見と。
他の所属アイドルに危害が及ぶのではないか、という、否定的な意見。
『そして、だからあの子は、アイドルになったの。
不幸な自分が。
他人すら不幸にする自分が。
それでも誰かを笑顔に出来たら、って。』
彼女はシーツを巻き込むように、両手をかたく握る。
その声は、震え始めていた。
しかし、事務所の所属アイドルは皆、外見だけではなくその内面も、いわゆる一般人ではなく。
各々自衛できるだろう、と。
更には、あの鷹富士茄子が居るのだから、と。
確かに危険性はあるが、そう危ぶむ程ではない。事務所側もそう考えているのだろう。
その時は、最終的にそのように意見がまとまっていた。
『でも、あの子は今、諦めようとしている。
……ううん、もう、諦めちゃった。』
そう言うと、彼女は項垂れてしまう。
彼女の表情が、見えない。
大丈夫なはずだった。
問題はないはずだった。
現に、ホームページに載せられていた動画では、茄子はほたるを助けられていた。
だから、あのライブも。
白菊ほたるのデビューライブとして、成功を収めるはずだったのだ。
『……駄目、だったんだ。
茄子が居れば、大丈夫だって皆思ってた。
でも、その場しのぎでしかなかった。
あの子は、茄子の幸福すら、不幸に変えてしまった。』
駄目だった。
鷹富士茄子が側に居て、それでも尚、不幸は発生し。
そして、茄子はそれを止められなかった。
依田芳乃が、明らかに無事では済まない高さから、落下した。
当然、ライブは中止。
それからは。一言で言えば。
酷かった。
肯定的な意見は塗り潰され、否定の一色に染まった。
庇いようのない状況だ。そうなるのが当然と言えるほどに。
依田芳乃が目を覚ましたと情報が入っても、その勢いは変わらなかった。
それを見て、あまりにも酷すぎる、と。
彼女の擁護に回り始める者も、少数ではあるが存在していた。
そして、事務所も、それを望んでいるようだった。
あれだけの損失を生み出した彼女を、まだ、切り捨てようとはしなかった。
『あの子は今、死のうとしてる。
死ぬことが幸せなんだって、本気で思ってる。
そうしなきゃ、皆を不幸にしちゃう。
そうすることでしか、皆を幸せにできないって。
自分が幸せになれない、って、本気で思ってるの。』
自分が存在している限り、自分は他人を不幸にする。
自分が生きている限り、自分は、幸せにはなれない。
「『……そんなのッ!』」
気が付くと男は、彼女と同時に、叫んでいた。
『……そんなの、いいわけがない。
正しくて、いいわけがない。
認めて、いいわけがない。』
生きていることが、許されない、と。
そう、言っているようなものだ。
お前は生まれてきてはいけなかったんだ、と。
『でも……でもね、駄目だった。
私達じゃ、駄目だった。
生きてていいんだって、そんな事、しなくていいんだって。
そう、言ってあげることすら、できなかった。』
下を向いたまま、絞り出すように声を発する。
限界、だった。
それは、どう見ても、限界だった。
どれだけ鈍くても分かる。
この問題は。これ以上、その小さ過ぎる背中に。
背負わせていい重荷では、ないのだ。
抱え込ませては、いけないことなのだ。
彼女達も同じだったのだ。
彼女達も、白菊ほたるを助けようとしていた。
決して憎んでなどいなかった。
こんなにボロボロになってまで。
瞳に涙を貯めてまで。
それでも。
『嫌……だよ、嫌だ……そんなの、嫌だよ……!
だってあの子、頑張ってた!
頑張って頑張って、何回も折れそうになって!それでもっ!!
……それでも、頑張ってっ、たんだよ……!?』
止まらなかった。
大きな瞳から流れる悲しさが。
小さな口が吐き出す悔しさが。
彼女の感情の、全てが。
『でも……もう、どうしようもないの……。
私達じゃ、これ以上届かない。
私達だけじゃ、あの子を救えない。』
彼女は顔を上げ、こちらをまっすぐに見る。
赤く充血した彼女の目には、ガラスのように。
今にも、壊れてしまいそうで。
『……だから、お願い。
あの子を、助けてあげて。
それができるのは、もう、皆だけ……だから。
だから……』
自分を救ってくれた存在が。
自分を笑顔にしてくれた存在が。
アイドルが。
自分では、救えないと言っている。
自分達では、届かないと。
そんな所に、届くだろうか。
そんな人を、救えるだろうか。
自分すら、自分では救えなかった、自分が。
『……だから助けて……たすけてよ……っ』
アイドルが、泣いている。
画面の向こう。きっと近くて、どうしようもなく、遠い場所で。
根拠なんてない。
自信なんて、尚更ない。
でも。
小さな少女が泣いている。
助けてくれと、泣いている。
それは、男が腰を上げるには、あまりにも、充分過ぎる理由。
大多数の否定と、極少数の擁護で占められていたその比率が、彼女の涙によって揺らぎ始めている。
今しかない。
彼女を救うなら、今しかない。
届かないのなら、届く場所へ。
ファンとアイドルが、一番近くに居られる場所へ。
部屋に、カタカタと音が響く。
男は、アイドルが好きだった。