私は今、二つに枝分かれしている道の上に立っている。
ほたるの幸せを確実に叶えるなら、ほたるを殺すのが一番だ。
この考えに、変わりはない。
そうすれば、彼女は誰も不幸にすることなく。
自らも、これ以上不幸になることなく。
そして、白菊ほたるは、死ぬ。
誰かを幸せにしたいと願い、誰かが不幸になることに耐えられない、ごく普通の、優しい少女は。
その優しさを良しとするもの全てに、殺される。
「何もするなって、言いましたよね。私。」
ほたるの声を聞いて、私はゆっくりと目を開いた。
そして、もう一つ。
もし彼女を、生かすとしたら。
彼女の自殺行為を、例え強制的にでも止めさせるとしたら。
彼女の夢が叶う可能性は残される。
誰かを不幸にしないだけでなく、誰かを幸せにする可能性を、残すことはできる。
ほたるがより幸せになれる可能性を。
しかし、それはあくまで可能性だ。
ほたるが生きるということは、彼女の不幸体質が変わらず存在し続けるということ。
再び今回と同じような。
いや、今回よりも酷いことが起きる可能性だって、十分過ぎるほどに残ることになる。
ほたるが、今以上に、不幸になる。そんな可能性が。
ここは、昨日見た夢と同じ。
真夜中の、どこかのビルの屋上。
茄子は、ほたるを生かすことの危険性を全て承知した上で。
それでも、生かそうとすることを選んだ。
彼女は、認めなかった。
いびつなまでに真っ直ぐなほたるの優しさ。
それを良しとすることを、彼女は決して認めなかった。
自分は誰かを傷付けてしまうから。
自分の存在は他者にとって邪魔だから。
だから、自ら生命を絶つ。
それが、自分が叶えられる、精一杯の幸せ。
そんな優しさは間違っていると、茄子はそう言った。
だが、昨日とは違った。
そりゃあ私だって、認めたくはない。
あの子の自殺願望は、止められるべきだ。
あんなに優しい子が。人のために苦しんでいる子が。
そのまま死んでいくのを見ているなんて、そんなのは間違っている。
……間違って、いるべきだ。
相変わらずの重苦しい空は、しかし完全な灰色ではなかった。
でも。
そう思おうとすればするほど。
間違っていないのだ。
彼女の取った行動は。非の打ち所もなく、正しいのだ。
論理的なのだ。
確実なのだ。
これ以上のものは無いと、思わせてしまうほどに。
雲の切れ目から、幾つかの小さな星が。
茄子は言った。これはただの我が儘だと。
私だって、我が儘を言いたい。
ほたるが死んでしまうなんて、嫌だ。
でも、それではほたるは、もっと不幸になってしまうかもしれない。
そして、霞がかった、その向こうには。
だから。
自分の気持ちを押し殺して。
ほたるの幸せだけを考えて。
殺してやるべきだ、と。
そう、思っていたのに。
光り輝く満月が、確かに存在していた。
「……うん。」
ほたるはやはり、ゆっくりと私から遠ざかる。
私はほたるを追いかける。
「……邪魔だって、言いましたよね。」
昨日の夢と同じように、ほたるは私を睨みつける。
私への敵意のみで構成された眼で。
でも。
「……うん。」
私の足は、歩き続けた。
その目に怯えなどしなかった。
分かっている。
理解している。
これは余計なこと。
これは、邪魔なこと。
私はほたるに追い付くと、彼女の手を掴む。
ほたるは驚愕に目を見開き、何かを発そうと口を開く。
「邪魔だけど。余計なことだけどさ。」
ほたるが音を発するよりも早く、私は言葉を紡いだ。
「それでも、やっぱり。死んでほしく、ないんだよ。」
ほたるを掴んだ手を、少しだけ強く引き寄せる。
ほたるはバランス崩し、私に倒れ掛かるように。
私はそのまま両腕を開き、ほたるを。
「──生きていて、ほしいんだよ。」
強く、抱き締めた。
「……自分の我が儘のために、私を不幸にするんですか?」
「ううん。」
ほたるは私の両肩を掴み、無理矢理に引き剥がそうとする。
私の目の前に、ほたるの顔が映る。
そのまま苛立ちを隠そうともせずに問うほたるに、私は臆せずに答えた。
「不幸になんて、させない。
どれだけ時間がかかろうと。
どんなに憎まれようと。
無理矢理にでも、幸せにしてやるから。」
これが、私の答え。
私は、自分のために。
自分の我が儘のために、ほたるを救う。
目の前の最善を蹴ってでも、私は私の理想にしがみつく。
例え悪者になってでも、私の理想を押し通す。
理屈なんてものは存在しない。
ほたるに、死んでほしくない。
生きていてほしい。
それだけが理由。
その感情のみに基づいて、私は行動する。
納得したくなかった。
四方を論理で固められ、八方を正論で塞がれようと。
それら全てに、首を縦に振ることしかできなくとも。
それでも、認めたくなかった。
ほたるが死ぬことが正しいなんて、認めたくなかった。
理屈に打ち負かされて大人しく引き下がれるほど、私は大人にはなれなかった。
単純な話だ。
私は茄子に心動かされたのだ。
ほたるを救うと語る茄子の姿は。声は。真っ直ぐな目は。
押し込めていた私の矛盾を引きずり出したのだ。
理屈や計算に埋もれた感情を、掘り起こしたのだ。
「……ああ、そうですか。」
ほたるは両手で私を思い切り突き飛ばす。
私はそれに抗えず、一歩引き下がる。
「「また、失敗するつもりなのね。」」
ほたるの声と重複して、責めるようなお母さんの声。
ほたるの形をした黒い影。その手が、私の首元へ迫る。
「……うん。」
右腕を左から右へと大きく払い、肌色に色づいた手を弾く。
予想外と顔に書くお母さんに、私は答えた。
「自分のため、だから。」
覚悟の上だ。
これが最悪の結果を導き出すことも。
それによって嫌われることも。
それでも、私はこうすると決めた。
だから、言い訳の必要はない。
飴という報酬によって、その本意から目を背けなくてもいい。
正真正銘、自分のため。
自分だけのためだ。
不快そうに顔を歪ませたお母さんは再び闇色に染まり、ぐにゃりぐにゃりと形を変える。
一つの球体となったそれは、剥がれ落ちるように無数の鴉へと分裂して。
ばさばさと音を立てながら、空の向こうへと飛んでいった。
「……だから、待ってて。」
私は、空を見続ける。
鳥が飛んでいったその先を。
幾つもの瞬く星々を。
その中心で輝き続ける満月を。
決して、見失わぬように。
「決心は、つきましてー?」
目覚めると、真っ白な部屋。
私の隣で椅子に座る芳乃が、穏やかに問いかけた。
「……うん。」
私の表情を見て、彼女は微笑んだような気がした。
私が頷くと、芳乃は身を乗り出して。
窓際に置かれた、淡い赤色の飴を手に取った。
「この飴はー、茄子殿のものですー。
ほたる殿の死を、止めたいと願った、茄子殿のものでしてー。」
芳乃は私に飴を手渡す。
私はそれを受け取り、じっと、その色を眺める。
きっと、芳乃は私の中の飴の立ち位置を理解している。
恐らくはプロデューサーから聞いたのだろう。
そうでなければ、あの状況で飴を作るなんてありえない。
そしてプロデューサーのことだ、全てをそのまま話すようなことはしていないだろう。
あの状況を打破するために必要な、最低限の情報のみを伝えたに違いない。
そう、例えば、「双葉杏は飴という報酬がなければ何もできない」とか。
しかし、そこからある程度、その真意を予測することはそれほど難しくはない。
だから、芳乃はこのような伝え方をしたのだ。
この飴を作った茄子は、ほたるの死を止めたいと思っているから。
この飴は、それに協力してくれ、という、依頼書とその報酬を兼ねているものだから。
だから、この飴を食べれば、私はほたるを助けるために動くことができる、と。
そのことを伝えたいのだろう。
私は飴を握りしめた手を、芳乃へと差し出す。
彼女は少しだけ、面食らったようだった。
でも。
そこまで分かってくれているのなら。
この行動の意味も、汲み取ってくれる。
「ほたるを、助けたい。
……協力、してくれないかな?」
差し出された手と、私の目を、芳乃は交互に見つめる。
私は目をそらさずに、芳乃を見つめ続ける。
そのまま、考えをまとめるには十分過ぎるほどの時間が流れ、やがて。
「……任されましてー。」
にっこりと笑って、芳乃は飴を手に取った。
「……ありがとう。」
この行動の意味することは二つ。
私は自分のために動く。
だから、他人のためであることを誤魔化す飴は必要ない。
という、私の意思表示が一つ。
もう一つは、これが仕事の依頼であるということ。
芳乃がほたるに対してどの立場でいるのか、私には分からない。
しかし、彼女の協力がなければ。
私と茄子だけでは、ほたるを助けられる可能性は皆無。
だから。彼女の意志は考慮せず。報酬を伴う仕事として。
私は彼女に、ほたる救出の協力を依頼したのだ。
これは、ほたるを救えなかった場合の保険でもある。
もし、ほたるを幸せにすることができなかったとして。
その責任は全て、私と茄子にある。
芳乃はただ、私に依頼されて行動したに過ぎない。
その依頼主は私なのだから、責任は私が取るべきだ。
「仮に失敗したとしても、あなたの責任は私が持つ」。
その意味を込めての、仕事の依頼だ。
「じゃあ、早速お願いしたいんだけど。」
私は芳乃に、してもらいたいことを簡潔に伝える。
このままでは、ほたるを救えない。
私達では、ほたるを救えない。
だから。
思いっきり、我が儘を言ってやる。
どうしてできないんだと。おかしいじゃないかと。
理屈も計算も、何もかもを無視して。
おもちゃを強請る子供のように、泣き喚いてやる。