「死にたい」という言葉に、二つの意味があることは、きっとみんなが知っている。
SOSの意味と、額面通りの意味だ。
そして、私達が日常生活で頻繁に耳にするまたは言葉にするそれは、その殆どがSOSとしての意味を持っている。
誰に助けを求めればいいか分からない人が。
或いはまだ死への恐怖の方が勝っている人が。
若しくは誰にも必要とされていない人が。
それでも誰かに助けてもらいたくて。
それでも楽にしてほしくて。
それでも止めてくれる誰かが欲しくて。
あらゆる手段を思いついて試して、最後に、発する言葉だ。
だから、その殆どの場合、適切な態度で臨めば、その人たちを生かすことは不可能ではない。
少なくとも、死なずに済む可能性はある。
何故なら、その人たちはまだ、生きたいのだから。
生きたいからこそ、死にたいと言うしかない。
それしか方法がない状況に立たされているのだから。
だが。もう一つ。
本当に、言葉の通りの意味で、死にたいと言っている人は。
他人が何をどうしようと、その人を生かすことはできない。
だって、その人は本当に、本当に「死にたい」のだ。
心の底から死を願った人間に、生を強制する権利が誰にある?
だから、見送るしかないのだ。
そうなるまで耐え切れてしまった人間を。
そうなるまで気付けなかった自分を。
悔やみながら。責めながら。
ただ、見ているしかないのだ。
「……これが、私の知っている、全部。」
だから、私達にほたるは救えない。
彼女はもう、生に執着なんてしていない。
彼女にとって、生きることは少しも幸せなんかじゃない。
彼女の幸せを願うなら。
彼女のためになりたいなら。
彼女を、殺すしかない。
せめて、痛くないように。
せめて、苦しまないように。
彼女は今、彼女だけでは、死ぬことすらできないのだから。
説得することも考えた。
でも、不可能だ。
ほたるが最も回避したいのは、自分のせいで誰かが傷つくこと。
もし彼女が生きたとして。
それから先ずっと不幸を発生させないなんて保証は、どこにもない。
ほたるのせいで誰かが不幸になることを防ぐ、最善の方法。
ほたるの存在そのものを消す以上のものなんて、あるはずがない。
彼女の望みとそのために取った行動は、これ以上なく調和していた。
私達の望みは、ただほたるを死なせないだけじゃない。
生きた上で、幸せになること。
その二つが同時に実現しなくてはならない。
しかし、それらはどうしようもなく相反していた。
ほたるが生きている以上、誰かが不幸になる可能性は消えない。
ほたるの幸せは、ほたるが死ななければ成就しない。
そして、ほたるがほたるの幸せを願い続ける限り。
ほたるの自殺志願をやめさせる方法は、無い。
選択肢はもう、一つしか残っていなかった。
「無理なんだよ、全部を叶えるなんて。」
現状を全て知ったんだ。彼女達も気付いただろう。
私が最初に言ったことの意味に。
……本当は、全部は話すべきではないのかもしれない。
情報をきちんと考えて取捨選択して伝えれば、まだ一縷の望みはあったのかもしれない。
私では考えつかない、ほたるを心変わりさせる方法を、誰かが気付いてくれたのかもしれない。
でも、これは「仕事」なんだ。
私が知っていることを話すという、仕事。
そう思わなければ、私はこうやって思考を巡らせることすらできない。
だから、全部話すしかない。
「……これで、仕事は終わり、だよね。」
そう言って、私は壁を向いて横になる。
私が頼まれた仕事は、ここまで。
これ以上は、私は何もしない。
……何も、できない。
「…………教えてくれて、ありがとうございました。」
背中にかかった彼女の声は、しかし。
私の予想とは大きく外れていた。
悲しみに沈んでいることも、無力感に震えていることもなかった。
ただ、静かで。
ただ、凛として。
ただ、ずっしりと、重かった。
それに少しだけ驚いて、私は寝返りを打つように身体を茄子に向ける。
彼女は、涙で濡らすことも、怒りで皺を作ることもなく。
まっすぐに私を見続ける、その目には。
「ほたるちゃんは、私が助けます。」
決意だけが、静かに灯っていた。
「──は?」
間抜けな声が勝手に漏れる。
何を言っているんだ。何を言っているんだ。
話を聞いていなかったのか。理解できていなかったのか。
ほたるはもう救えないんだ。
私達が思い描くような救い方では救えないんだ。
それを、分からないのか。
「今まで、頑張ってくれて、ありがとうございます。
今は、ゆっくり休んで。……後は、任せてください。」
彼女はそう続けて、病室から立ち去ろうとする。
「ちょっと、待ってよ。」
私の制止に、彼女は背を向けたまま足を止める。
「……これから、どうするの。」
「分かりません。」
「助けるって、当てはあるの。」
「分かりません。」
「幸せに、できるの。」
「分かりません。」
「……あの子が、何を思っているのか、分かってるの。」
それを聞くと、彼女はこちらを振り返る。
さっきまでの凛とした表情のまま、彼女は言い放った。
「分かりません。」
フッ、と、頭の中の何かの電源が落ちた音がする。
嘘のように素速く身体が動いた。
ベッドから抜け出し、低い姿勢のまま茄子へと走る。
体重をかけているのとは逆の脚を思い切り蹴り飛ばし、バランスを崩す。
よろめいた彼女の首に、側転から両手を使って跳ぶ。
両脚を絡ませ、その勢いをそのまま叩き付ける。
彼女が地面に倒れると、私はマウントを取っている状態になった。
……ここまでしなければ人を押し倒す事すらできないという事実が、余計に私を苛立たせる。
「──今、自分が何言ってんのか分かってんの。」
冷静であろうとする声が、しかし震えるのを止められない。
限界だった。
彼女がしようとしている行動は、的確に私の神経を逆撫でした。
「……あの子は!! 死ぬのが幸せなの!! 生きてればあの子が傷つく!! もうそれしか無いんだよ!!!」
胸ぐらを掴んで、何度も上下に揺する。
「それを何!? 助ける!? 方法も分からないのに!? ……何言ってんだよッ!!!」
いつぶりに出したか分からないほどの大声を思い切り叫ぶ。
「あの子が悩んで!! 悩んで悩んで悩んでッ!! どうしようもなく辿り着いた結論だ!! それがあの子の優しさなんだ!!!」
彼女は何も言わない。
「──それを踏みにじろうってのかよッ!!!!」
何も、言わない。
肩で呼吸する私の荒い息遣いだけが、部屋に響く。
流れ出た涙が落ちて、彼女の頬を伝う。
襟を掴んだままの手が、震えていた。
「……分かりません。」
私が冷静さを取り戻すのを待っていたかのように、彼女は言葉を発した。
「私にあの子を救えるのか。幸せにできるのか。……そんなこと、分かりません。」
「だったら」。
その形に開いた私の口は、その通りに動くことはなかった。
今までなされるがままだった彼女が、私の手を掴んだから。
「分かりません、けど。」
彼女の手は私の手を襟から外す。
決して、強い力ではない。
けれど、彼女の静かさから、確かに発せられている迫力。
それに押されて、私はその手の動きに従った。
「私は、認めません。」
彼女の目は、私を真っ直ぐに見続ける。
「死ぬことが幸せなんて、認めません。
それしか無いなんて、認めません。
絶対に、絶対に認めません。」
「そんな、感情論で……!」
「杏ちゃんは、納得できるんですか?
納得、できているんですか?」
「……っ」
茄子は優しく私の肩を掴む。
私はその動きに逆らうことなく、茄子の上から離れた。
「だから、私には分かりません。
あの子が何を思っているか、なんて。
……分かりたく、ありません。」
茄子はゆっくりと立ち上がる。
私は床に座り込んだまま、それを見ている。
「杏ちゃんの言うとおりなのかもしれません。
私がこれからすることは、あの子を不幸にするだけなのかもしれません。
あの子のためを思うなら、するべきではないのかもしれません。」
でも、と、彼女は続けた。
「私はあの子を助けます。
私はあの子を生かします。
私はあの子を、幸せにします。
どんなに時間がかかろうと。
どんなにあの子に憎まれようと。」
「……それで、いいの?」
聞いていないのではなかった。
理解できていないわけでもなかった。
彼女は、全て知った上で。全て理解した上で。
尚、ほたるを助けようとしていた。
ほたるの優しさを踏みにじって。
ほたるの望みをぶち壊して。
恨まれて。憎まれて。
その全てを、背負った上で。
「……これは、もう、あの子のためとは言えません。
私の、我が儘です。
人の決めたことに納得できない、ただの我が儘。」
茄子は病室の扉を開け、小さく深呼吸する。
自分に覚悟を決めさせるように、彼女は言った。
「私は、私のために、ほたるちゃんを助けます。」
「行かせて、よろしかったのでしてー?」
私が病室を出ると、すぐ横から声。
見ると、芳乃が壁にもたれかかるように立っていた。
「……さあ、どうなんだろ。分かんないや。」
茄子の考えに、共感が無いわけではない。
でも、それが完璧に正しいか、と問われれば、決してそうではない。
「……ねえ、芳乃。」
ただ一つ、はっきりしていることは。
「この飴。誰が作ったか、知ってる?」
自分のために、ほたるを助ける。
茄子のその声が、やけに私の頭に響いていた。