「いつもそうです、杏さんは。」
感情のないほたるの声に起こされて、私は目を開けた。
月も星も見えない、灰色の夜。
高層ビルの屋上に、私達は立っていた。
「頼まれてもいないのに余計なことをして。
理解してもいないのに分かったような口を利いて。」
俯いて下を向く彼女の表情は、その少し長い前髪に隠れてうまく読み取ることができない。
しかし、淡々としたほたるの声。
それに含まれている、私への明確な敵意。
それだけは、はっきりと分かった。
「何のために、やっていたんですか?」
ほたるは、一歩ずつ、一歩ずつ、私から遠ざかっていく。
あの日と、同じように。
させてはいけないと、私の両足は前に進もうとする。
その時だった。
「……私のため、とでも言うつもりですか?」
ほたるが少しだけ顔を上げる。
前髪に隠れていた彼女の目が、見える。
それを認識した瞬間、私の身体は動作を止めた。
「……ほた、る?」
睨んでいた。
いつも困ったように眉を八の字にして、それでも笑おうとしている彼女が。
いつも他人の心配ばかりして、自分のことは二の次の彼女が。
敵意を通り越して、殺意とすら呼べるものを。
隠そうともせず、誤魔化そうともせず。
視線に乗せて、私にぶつけていた。
「邪魔なんです、あなた。」
目をそらすことなく、彼女が続ける。
邪魔。
その言葉が、私の頭をぶん殴った。
「……っ、え、……?」
本当に殴られたわけじゃないのに、私は大きくよろめく。
衝撃に耐えきれず、身体が悲鳴を発した。
荒々しく肩で息をする。
大きく目を見開く。
髪を掻き毟りたくなる衝動を、頭に手が触れる段階で堪える。
「知ってますよね? 私、死にたいんです。さっさと。」
分からない。
私の知る彼女とは、あまりにもかけ離れていた。
「どうして邪魔をするんですか? どうして死なせてくれないんですか?」
分からない。
もしかして、ずっと、だったのか。
「そうするのが私のため、なんて、本気で思っていたんですか?」
分からない。
ずっと、そう思っていたのか。
「私のためを思うなら、殺してくださいよ。
死なせてくださいよ。
楽にさせてくださいよ。」
分からない。
彼女のことが分からない。
白菊ほたるが、分からない。
「──っ、はーっ、はーっ、……っ、は……っ!!」
足に力が入らず、座り込む。
頭に触れたままの手を思い切り握り込む。
髪が引っ張られる痛みで自分を保とうとする。
涙が勝手に流れていく。
喉が乾いて張り付きそうだ。
心臓が脈打つ度に胸が締め付けられて痛い。
「ほら、私のためなんでしょう?」
遠ざかっていたはずの彼女は、いつの間にか私の目の前に立っていて。
私の両手を掴んで無理矢理に立ち上がらせると、そのまま、その手を。
「──殺してくださいよ。」
彼女の、首に。
「……ゃ、だ、そん……な、」
嫌だ嫌だと、私は駄々をこねる小さい子供のように首を振る。
その態度を見て、彼女の表情が一層険しくなる。
「何でですか? 私は死にたいんです。
なんでそれを手伝ってくれないんですか?」
私は何も言わない。
言えるわけがない。
ただ、彼女の手に逆らおうとする。
「……いいです、もう。」
そんな押したり引いたりを繰り返していると、ふいに彼女が手を離す。
支えを失った私は、そのまま地面に再び座り込む。
「もう、何もしないでください。」
そう言った彼女の声には、さっきまでの激しさは無く。
ただ、氷のように。
ひたすらに、冷たかった。
「「……どうせ、私のためだとか思っていたんでしょう?」」
不意に、彼女の声が、他の誰かのものと被って聞こえた。
まるで、二人が同時に喋っているような。
驚いて彼女を見上げると、しかし。
「「あなたはいっつもそう。」」
既にそれは、彼女ではなかった。
「「得意げな顔で私の周りをウロチョロして。
役に立ったとでも思ってたの?」」
彼女の象徴とも言える黒は、その美しさを放棄していた。
真っ黒な、どす黒い、黒。
それが、人の形を保っているに過ぎなかった。
それが、私の目の前に存在していた。
それの手の部分が私を目指して伸ばされる。
私は呆気なく捕まり、そのまま押し倒される。
「邪魔なのよ、あなた。」
私の上にまたがり、私の首を両手で掴む黒は、ぐにゃりぐにゃりと形を変え。
私のとても良く見覚えのある姿で定着すると、再び色を取り戻す。
忘れるわけがない。
気付かないわけがない。
この声は。
この姿は。
この状況は。
「お、かあ、さ……ッ!?」
私の、お母さんだ。
お母さん、と、そう呼ぼうとする声は、途中で遮られる。
お母さんの手が、私の喉に食い込む。
はあ、はあ、と、お母さんの荒い息がやけにうるさく聞こえる。
私の視界一面に映るお母さんの顔は、ひどく歪んでいる。
全部、あの時と同じだ。
ああ、そうか。
「……め、なさ、」
また、間違えたのか。私は。
「ごめ、さ……、」
また、間違えてしまったのか。
「……めん、な、さい。」
あの時と、同じように。
「ごめ、ん、なさ、い……!」
私が殺された時のように。
でも、いくら謝っても、あの時のように許してはくれなくて。
私を殺そうとする両手を、離してはくれなくて。
息を吸えないのが分かっているのに動くのを止めない横隔膜が、べこん、べこん、と、嫌な音を立てるのを聞きながら。
ただ、終わりが来るのを待ち続けていた──。
「──っ!?」
目を見開き、飛び起きる。
すぐに辺りを見回して、お母さんが居ないことを確認する。
遅れて聴覚が復活すると、心地の良い小鳥の囀りが、場違いに部屋の中に響いた。
「……ゆ、め、」
病室だった。
あるもの全てが白に統一された部屋の窓から、優しい朝日が差し込んでいる。
カーテンが風を受けて、ひらひらと揺れていた。
「……っ、う、ぇ……っ、お゛ぇ……っ」
下から恐怖がこみ上げてきて、たまらず吐き出す。
最近咀嚼するものを食べていなかったからか、その殆どが液体だった。
「はっ、はっ、はっ、は……っ」
短く何度も息をする。
ダメだ。
思い出すな。
意識を向けるな。
忘れるんだ。
そう思おうとする度に、鮮明に蘇る。
「──嫌だ」
そんな季節ではないはずなのに、身体の震えが止まらない。
歯がカチカチと音を立て続ける。
寒い。
身体中の熱分を奪われたように、寒い。
「……嫌だ、嫌だ」
かけられていた毛布を手繰り寄せ、抱きしめる。
それでも、寒さは少しも和らいでくれない。
「いやだいやだいやだいやだいやだ」
口から単調な拒絶が流れ出す。
でも、何が嫌なのか。
私はなにを嫌がっているのか。
それすらもうよく分からなくて。
それすらもう嫌で。
「杏ちゃん、起き……!?」
誰かが入ってきたことにも気付かず。
いつまでも、泣き喚き続けた。