白菊ほたるの幸福論   作:maron5650

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19.現実よりも鮮明な

「いつもそうです、杏さんは。」

 

感情のないほたるの声に起こされて、私は目を開けた。

月も星も見えない、灰色の夜。

高層ビルの屋上に、私達は立っていた。

 

「頼まれてもいないのに余計なことをして。

理解してもいないのに分かったような口を利いて。」

 

俯いて下を向く彼女の表情は、その少し長い前髪に隠れてうまく読み取ることができない。

しかし、淡々としたほたるの声。

それに含まれている、私への明確な敵意。

それだけは、はっきりと分かった。

 

「何のために、やっていたんですか?」

 

ほたるは、一歩ずつ、一歩ずつ、私から遠ざかっていく。

あの日と、同じように。

させてはいけないと、私の両足は前に進もうとする。

その時だった。

 

「……私のため、とでも言うつもりですか?」

 

ほたるが少しだけ顔を上げる。

前髪に隠れていた彼女の目が、見える。

それを認識した瞬間、私の身体は動作を止めた。

 

「……ほた、る?」

 

睨んでいた。

いつも困ったように眉を八の字にして、それでも笑おうとしている彼女が。

いつも他人の心配ばかりして、自分のことは二の次の彼女が。

敵意を通り越して、殺意とすら呼べるものを。

隠そうともせず、誤魔化そうともせず。

視線に乗せて、私にぶつけていた。

 

 

 

「邪魔なんです、あなた。」

 

 

 

目をそらすことなく、彼女が続ける。

邪魔。

その言葉が、私の頭をぶん殴った。

 

「……っ、え、……?」

 

本当に殴られたわけじゃないのに、私は大きくよろめく。

衝撃に耐えきれず、身体が悲鳴を発した。

荒々しく肩で息をする。

大きく目を見開く。

髪を掻き毟りたくなる衝動を、頭に手が触れる段階で堪える。

 

「知ってますよね? 私、死にたいんです。さっさと。」

 

分からない。

私の知る彼女とは、あまりにもかけ離れていた。

 

「どうして邪魔をするんですか? どうして死なせてくれないんですか?」

 

分からない。

もしかして、ずっと、だったのか。

 

「そうするのが私のため、なんて、本気で思っていたんですか?」

 

分からない。

ずっと、そう思っていたのか。

 

「私のためを思うなら、殺してくださいよ。

死なせてくださいよ。

楽にさせてくださいよ。」

 

分からない。

彼女のことが分からない。

白菊ほたるが、分からない。

 

「──っ、はーっ、はーっ、……っ、は……っ!!」

 

足に力が入らず、座り込む。

頭に触れたままの手を思い切り握り込む。

髪が引っ張られる痛みで自分を保とうとする。

涙が勝手に流れていく。

喉が乾いて張り付きそうだ。

心臓が脈打つ度に胸が締め付けられて痛い。

 

「ほら、私のためなんでしょう?」

 

遠ざかっていたはずの彼女は、いつの間にか私の目の前に立っていて。

私の両手を掴んで無理矢理に立ち上がらせると、そのまま、その手を。

 

「──殺してくださいよ。」

 

彼女の、首に。

 

「……ゃ、だ、そん……な、」

 

嫌だ嫌だと、私は駄々をこねる小さい子供のように首を振る。

その態度を見て、彼女の表情が一層険しくなる。

 

「何でですか? 私は死にたいんです。

なんでそれを手伝ってくれないんですか?」

 

私は何も言わない。

言えるわけがない。

ただ、彼女の手に逆らおうとする。

 

「……いいです、もう。」

 

そんな押したり引いたりを繰り返していると、ふいに彼女が手を離す。

支えを失った私は、そのまま地面に再び座り込む。

 

「もう、何もしないでください。」

 

そう言った彼女の声には、さっきまでの激しさは無く。

ただ、氷のように。

ひたすらに、冷たかった。

 

「「……どうせ、私のためだとか思っていたんでしょう?」」

 

不意に、彼女の声が、他の誰かのものと被って聞こえた。

まるで、二人が同時に喋っているような。

驚いて彼女を見上げると、しかし。

 

「「あなたはいっつもそう。」」

 

既にそれは、彼女ではなかった。

 

「「得意げな顔で私の周りをウロチョロして。

役に立ったとでも思ってたの?」」

 

彼女の象徴とも言える黒は、その美しさを放棄していた。

真っ黒な、どす黒い、黒。

それが、人の形を保っているに過ぎなかった。

それが、私の目の前に存在していた。

 

それの手の部分が私を目指して伸ばされる。

私は呆気なく捕まり、そのまま押し倒される。

 

 

 

「邪魔なのよ、あなた。」

 

 

 

私の上にまたがり、私の首を両手で掴む黒は、ぐにゃりぐにゃりと形を変え。

私のとても良く見覚えのある姿で定着すると、再び色を取り戻す。

忘れるわけがない。

気付かないわけがない。

この声は。

この姿は。

この状況は。

 

「お、かあ、さ……ッ!?」

 

私の、お母さんだ。

 

お母さん、と、そう呼ぼうとする声は、途中で遮られる。

お母さんの手が、私の喉に食い込む。

はあ、はあ、と、お母さんの荒い息がやけにうるさく聞こえる。

私の視界一面に映るお母さんの顔は、ひどく歪んでいる。

全部、あの時と同じだ。

 

ああ、そうか。

 

「……め、なさ、」

 

また、間違えたのか。私は。

 

「ごめ、さ……、」

 

また、間違えてしまったのか。

 

「……めん、な、さい。」

 

あの時と、同じように。

 

「ごめ、ん、なさ、い……!」

 

私が殺された時のように。

 

でも、いくら謝っても、あの時のように許してはくれなくて。

私を殺そうとする両手を、離してはくれなくて。

息を吸えないのが分かっているのに動くのを止めない横隔膜が、べこん、べこん、と、嫌な音を立てるのを聞きながら。

ただ、終わりが来るのを待ち続けていた──。

 

 

 

「──っ!?」

 

目を見開き、飛び起きる。

すぐに辺りを見回して、お母さんが居ないことを確認する。

遅れて聴覚が復活すると、心地の良い小鳥の囀りが、場違いに部屋の中に響いた。

 

「……ゆ、め、」

 

病室だった。

あるもの全てが白に統一された部屋の窓から、優しい朝日が差し込んでいる。

カーテンが風を受けて、ひらひらと揺れていた。

 

「……っ、う、ぇ……っ、お゛ぇ……っ」

 

下から恐怖がこみ上げてきて、たまらず吐き出す。

最近咀嚼するものを食べていなかったからか、その殆どが液体だった。

 

「はっ、はっ、はっ、は……っ」

 

短く何度も息をする。

ダメだ。

思い出すな。

意識を向けるな。

忘れるんだ。

そう思おうとする度に、鮮明に蘇る。

 

「──嫌だ」

 

そんな季節ではないはずなのに、身体の震えが止まらない。

歯がカチカチと音を立て続ける。

寒い。

身体中の熱分を奪われたように、寒い。

 

「……嫌だ、嫌だ」

 

かけられていた毛布を手繰り寄せ、抱きしめる。

それでも、寒さは少しも和らいでくれない。

 

「いやだいやだいやだいやだいやだ」

 

口から単調な拒絶が流れ出す。

でも、何が嫌なのか。

私はなにを嫌がっているのか。

それすらもうよく分からなくて。

それすらもう嫌で。

 

「杏ちゃん、起き……!?」

 

誰かが入ってきたことにも気付かず。

いつまでも、泣き喚き続けた。


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