これが夢であることは、すぐに分かった。
とうの昔に失われたはずのもの。
恐らくはもう二度と、手に入れることはできないものが。
私を包み込んでいたから。
「ねー、おかーさん。」
今よりもずっと幼い声で、私は私を包んでいるものに話しかける。
それが私の方を向いたのを気配で感じ、言葉を続ける。
「しあわせって、なーに?」
偶然見聞きした、知らない言葉。
お母さんならきっと、知っていると思った。
私の単純な疑問を聞いて、しかしそれは少し困ったようだった。
「……それは、難しい質問ね。」
随分と考え込んで、それは眉を八の字にしながら笑った。
「しらないの?」
再び私が質問すると、ゆっくりとそれの髪が私の頭を撫でた。
「ううん、知っているわ。
知っているけれど、そうね。
杏ちゃんは、『痛い』って知ってるわよね?」
「うん。」
転んだりすると、すごく痛い。
そう続けると、今度はそれの手が私を優しく撫でた。
「そうね。そうだけれど。
転ぶと痛いことは知っていても、『痛い』そのものは、説明できる?」
「えっと、ズキズキしたり、チクっとしたり……。」
公園で転んだ時のことや、予防注射を受けた時のことを思い出して答える。
するとそれは再び私に問いかけた。
「ズキズキって、どういうことかしら。チクっとって?」
「……うー。」
少しだけ強く頭を押し付ける。
私にいじわるをしているんだと思った。
その答えも、お母さんなら知っていると疑わなかった。
「うまく言えないわよね。
お母さんも一緒よ。
痛いってどういうことか、上手に言葉にできないの。」
それを聞いて、私は驚いてそれの顔を見上げる。
お母さんは、慈愛に満ちた瞳で私を見続けていた。
「幸せも、それと同じ。
どういうことか知っていても、説明するのはとっても難しいの。」
それにね、と、それは言葉を繋げた。
「『痛い』なら、みんな同じなの。転べばズキズキ、注射はチクリ。
でも、『幸せ』はそうじゃないのよ。
どうしたら幸せかは、人によって全然違うの。」
「えー……。」
私は明確な不満の意を告げる。
私の望んだ、はっきりとした答えが帰ってきてくれなかったからだ。
「じゃあ、例えば。
杏ちゃんは、お母さんとこうするの、好き?」
また困ったように笑って、お母さんはぎゅっと私を抱きしめた。
「うん、すきー!」
私も、お母さんを抱きしめる。
あたたかくて、やわらかい。
私はこうやっているのが大好きだった。
「それが、幸せなのよ。
他にも色々あるけれど、その一つは、間違いなくこれなの。」
その言葉に、私はやっと満足した。
他の色々も気にはなったが、とにかく一つのはっきりとした答えを貰えたから。
「じゃあ、わたししあわせー!」
満面の笑みで、私はお母さんに抱きつく。
私もよ、と返してくれたのが、何故かたまらなく嬉しかった。
それから少し経つと、なんだか瞼が重くなってくる。
「眠い?」
「うんー……。」
お母さんは、お見通しのようだった。
嘘をつく理由もなく、私は首を振り肯定する。
「じゃあ、お休みなさい、杏ちゃん……。」
お母さんはそのまま、私の背中を一定のリズムで優しく叩く。
それが不思議と心地よくて、すぐに意識が薄れていく。
ずっとずっと、昔の記憶。
夢という形で、私はそれを鮮明に思い出していた。
あの頃、私は間違いなく幸せだった──。
「……んずちゃん、杏ちゃん!」
誰かの声で、私は目が覚めた。
上半身は、なんだかあたたかくてやわらかい。さっきまで見ていた夢のように。
下半身は、なんだかゴツゴツしたものの上に乗っている感触。
程なくして、ここがコンクリートで舗装された道路の上で、誰かの腕の中なのだと理解した。
「か、こ……?」
私をしきりに呼んでいたのは、茄子だった。
眠りから覚めたことを確認すると、安堵の息を漏らす。
あれ、そういえば。
どうして私はこんなところで寝ていたんだっけ。
確か、屋上で……
「──ッ!」
やっと状況を思い出して、私は飛び起きる。
自分の状態。痛みは無い。軽く準備運動のように身体を動かすが、どうやらどこにも異常は無い。
周囲の確認。確かにここは事務所のあるビルに面した道路だ。
時刻の確認。最後に携帯を見てから、数時間が経過している。
そして。
「……ほたるが、居ない?」
辺りを見回しても、彼女の姿はどこにもない。
あまりに唐突な、不可解な事象の連続。
どうして。
私はほたると一緒に落ちたはずだ。それも屋上から。
助かるはずがない。なのに私はこうして生きている。携帯すら壊れていない。
ただ数時間眠っていただけだというのか。
ならば何故、芳乃のように眠り続けない?
私も彼女と同じように落ちたのに。
ほたるの痕跡は、血痕すら残っていない。
まるで最初から居なかったかのように。
いや、そんなことはあり得ない。
手のひらに残る、彼女の感覚。
それが何よりの証拠だ。
彼女は間違いなく、私と共に落ちた。
ならば何故、彼女はここに居ない?
あと、もう一つ。
「茄子、どうしてここに?」
何故茄子が都合よく事務所まで来たのか。
「電話が途中で切れてしまったので……何か、あったんじゃないかって……。」
そう言われて思い出す。
確かに、あの状況で急に電話が切れたら、私の身に何かが起こったと思うだろう。
それで、急いで事務所まで帰ってきた、と。
「ああもう、はいはい、泣くんじゃないよ。
私は何ともないからさ。ね?」
茄子の目からは涙が止まらず、きっと私が目覚める前からそうなのだろう。
私の言葉に、やっと茄子はゆっくりと泣き止んだ。
「……茄子、電話が切れる前、まだ病院だ、って言ってたよね。
それは、病院の中を探していたから?」
茄子が落ち着くのを待っている間に、私もこの短時間で起きた多過ぎる出来事を脳内で整理する。
その中で、ふと引っかかることがあった。
「いえ、気を失っていたみたいなんです。
気付いたら日が暮れていて……。」
「……え?」
全身の毛が逆立つのを感じる。
寝起きでぼんやりしていた頭が、急速に冷やされる。
おかしい。
どう考えてもおかしい。
今、彼女は、何と言った?
「病院で、何があったの?教えて。……できるだけ詳しく、一つも漏らさずに。」
彼女は私の様子に少し戸惑い、やがて語り出す。
私は目を瞑り、注意深く彼女の声に耳を傾ける。
きっと、これが最後のヒント。
最大の矛盾が、この中に眠っている。
気付け。
照合しろ。
これまでの認識、当たり前だと思っていたもの、その全てと。
──じゃあ、このままいけば、自然と何とかなるかもしれないってこと?
その時だった。
──今日はー、とても良い気が巡っておりましてー。
頭の中で、記憶が勝手に再生される。
──芳乃が見ているのは、私じゃない。
それらは、パズルのピースのように。
──神様は、いると思いますか?
自らがあるべき場所へと動き、一つの答えを描き出す。
──何も起こらなかった、訳では、ないですね。
そうだ。何故今まで気付かなかった。
──明らかに、異常であることが、分かった。
気付けたはずだったんだ。最初から。
──姉妹みたいだよね、茄子とほたる。
彼女を救う方法。幸福と不幸のメカニズム。その答えは。
──しあわせって、なーに?
「……分かった。」
抑揚のない声で呟く。
やっとだ。やっと分かった。
確証は無いが、きっと間違ってはいない。
「分かったって……何が、ですか?」
分かった、けれど。これは。これでは。
抗いようのない事実として、それが私に突き付けられる。
「……茄子、ゲームをしよう。」
私が、私達が、どれだけ頑張ろうと。
どれだけ手を伸ばそうと。
どれだけ頭を悩ませようと。
「私に勝ったら、芳乃の目が覚めるよ。」
ほたるは、救えない。