白菊ほたるの幸福論   作:maron5650

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16.最悪の解答

これが夢であることは、すぐに分かった。

とうの昔に失われたはずのもの。

恐らくはもう二度と、手に入れることはできないものが。

私を包み込んでいたから。

 

「ねー、おかーさん。」

 

今よりもずっと幼い声で、私は私を包んでいるものに話しかける。

それが私の方を向いたのを気配で感じ、言葉を続ける。

 

「しあわせって、なーに?」

 

偶然見聞きした、知らない言葉。

お母さんならきっと、知っていると思った。

私の単純な疑問を聞いて、しかしそれは少し困ったようだった。

 

「……それは、難しい質問ね。」

 

随分と考え込んで、それは眉を八の字にしながら笑った。

 

「しらないの?」

 

再び私が質問すると、ゆっくりとそれの髪が私の頭を撫でた。

 

「ううん、知っているわ。

知っているけれど、そうね。

杏ちゃんは、『痛い』って知ってるわよね?」

 

「うん。」

 

転んだりすると、すごく痛い。

そう続けると、今度はそれの手が私を優しく撫でた。

 

「そうね。そうだけれど。

転ぶと痛いことは知っていても、『痛い』そのものは、説明できる?」

 

「えっと、ズキズキしたり、チクっとしたり……。」

 

公園で転んだ時のことや、予防注射を受けた時のことを思い出して答える。

するとそれは再び私に問いかけた。

 

「ズキズキって、どういうことかしら。チクっとって?」

 

「……うー。」

 

少しだけ強く頭を押し付ける。

私にいじわるをしているんだと思った。

その答えも、お母さんなら知っていると疑わなかった。

 

「うまく言えないわよね。

お母さんも一緒よ。

痛いってどういうことか、上手に言葉にできないの。」

 

それを聞いて、私は驚いてそれの顔を見上げる。

お母さんは、慈愛に満ちた瞳で私を見続けていた。

 

「幸せも、それと同じ。

どういうことか知っていても、説明するのはとっても難しいの。」

 

それにね、と、それは言葉を繋げた。

 

「『痛い』なら、みんな同じなの。転べばズキズキ、注射はチクリ。

でも、『幸せ』はそうじゃないのよ。

どうしたら幸せかは、人によって全然違うの。」

 

「えー……。」

 

私は明確な不満の意を告げる。

私の望んだ、はっきりとした答えが帰ってきてくれなかったからだ。

 

「じゃあ、例えば。

杏ちゃんは、お母さんとこうするの、好き?」

 

また困ったように笑って、お母さんはぎゅっと私を抱きしめた。

 

「うん、すきー!」

 

私も、お母さんを抱きしめる。

あたたかくて、やわらかい。

私はこうやっているのが大好きだった。

 

「それが、幸せなのよ。

他にも色々あるけれど、その一つは、間違いなくこれなの。」

 

その言葉に、私はやっと満足した。

他の色々も気にはなったが、とにかく一つのはっきりとした答えを貰えたから。

 

「じゃあ、わたししあわせー!」

 

満面の笑みで、私はお母さんに抱きつく。

私もよ、と返してくれたのが、何故かたまらなく嬉しかった。

それから少し経つと、なんだか瞼が重くなってくる。

 

「眠い?」

 

「うんー……。」

 

お母さんは、お見通しのようだった。

嘘をつく理由もなく、私は首を振り肯定する。

 

「じゃあ、お休みなさい、杏ちゃん……。」

 

お母さんはそのまま、私の背中を一定のリズムで優しく叩く。

それが不思議と心地よくて、すぐに意識が薄れていく。

 

ずっとずっと、昔の記憶。

夢という形で、私はそれを鮮明に思い出していた。

 

あの頃、私は間違いなく幸せだった──。

 

 

 

 

 

「……んずちゃん、杏ちゃん!」

 

誰かの声で、私は目が覚めた。

上半身は、なんだかあたたかくてやわらかい。さっきまで見ていた夢のように。

下半身は、なんだかゴツゴツしたものの上に乗っている感触。

程なくして、ここがコンクリートで舗装された道路の上で、誰かの腕の中なのだと理解した。

 

「か、こ……?」

 

私をしきりに呼んでいたのは、茄子だった。

眠りから覚めたことを確認すると、安堵の息を漏らす。

 

あれ、そういえば。

どうして私はこんなところで寝ていたんだっけ。

確か、屋上で……

 

「──ッ!」

 

やっと状況を思い出して、私は飛び起きる。

自分の状態。痛みは無い。軽く準備運動のように身体を動かすが、どうやらどこにも異常は無い。

周囲の確認。確かにここは事務所のあるビルに面した道路だ。

時刻の確認。最後に携帯を見てから、数時間が経過している。

そして。

 

「……ほたるが、居ない?」

 

辺りを見回しても、彼女の姿はどこにもない。

あまりに唐突な、不可解な事象の連続。

 

どうして。

私はほたると一緒に落ちたはずだ。それも屋上から。

助かるはずがない。なのに私はこうして生きている。携帯すら壊れていない。

ただ数時間眠っていただけだというのか。

ならば何故、芳乃のように眠り続けない?

私も彼女と同じように落ちたのに。

 

ほたるの痕跡は、血痕すら残っていない。

まるで最初から居なかったかのように。

いや、そんなことはあり得ない。

手のひらに残る、彼女の感覚。

それが何よりの証拠だ。

彼女は間違いなく、私と共に落ちた。

ならば何故、彼女はここに居ない?

あと、もう一つ。

 

「茄子、どうしてここに?」

 

何故茄子が都合よく事務所まで来たのか。

 

「電話が途中で切れてしまったので……何か、あったんじゃないかって……。」

 

そう言われて思い出す。

確かに、あの状況で急に電話が切れたら、私の身に何かが起こったと思うだろう。

それで、急いで事務所まで帰ってきた、と。

 

「ああもう、はいはい、泣くんじゃないよ。

私は何ともないからさ。ね?」

 

茄子の目からは涙が止まらず、きっと私が目覚める前からそうなのだろう。

私の言葉に、やっと茄子はゆっくりと泣き止んだ。

 

「……茄子、電話が切れる前、まだ病院だ、って言ってたよね。

それは、病院の中を探していたから?」

 

茄子が落ち着くのを待っている間に、私もこの短時間で起きた多過ぎる出来事を脳内で整理する。

その中で、ふと引っかかることがあった。

 

「いえ、気を失っていたみたいなんです。

気付いたら日が暮れていて……。」

 

「……え?」

 

全身の毛が逆立つのを感じる。

寝起きでぼんやりしていた頭が、急速に冷やされる。

おかしい。

どう考えてもおかしい。

今、彼女は、何と言った?

 

「病院で、何があったの?教えて。……できるだけ詳しく、一つも漏らさずに。」

 

彼女は私の様子に少し戸惑い、やがて語り出す。

私は目を瞑り、注意深く彼女の声に耳を傾ける。

きっと、これが最後のヒント。

最大の矛盾が、この中に眠っている。

気付け。

照合しろ。

これまでの認識、当たり前だと思っていたもの、その全てと。

 

 

──じゃあ、このままいけば、自然と何とかなるかもしれないってこと?

 

その時だった。

 

──今日はー、とても良い気が巡っておりましてー。

 

頭の中で、記憶が勝手に再生される。

 

──芳乃が見ているのは、私じゃない。

 

それらは、パズルのピースのように。

 

──神様は、いると思いますか?

 

自らがあるべき場所へと動き、一つの答えを描き出す。

 

──何も起こらなかった、訳では、ないですね。

 

そうだ。何故今まで気付かなかった。

 

──明らかに、異常であることが、分かった。

 

気付けたはずだったんだ。最初から。

 

──姉妹みたいだよね、茄子とほたる。

 

彼女を救う方法。幸福と不幸のメカニズム。その答えは。

 

 

 

──しあわせって、なーに?

 

 

 

「……分かった。」

 

抑揚のない声で呟く。

やっとだ。やっと分かった。

確証は無いが、きっと間違ってはいない。

 

「分かったって……何が、ですか?」

 

分かった、けれど。これは。これでは。

抗いようのない事実として、それが私に突き付けられる。

 

「……茄子、ゲームをしよう。」

 

私が、私達が、どれだけ頑張ろうと。

どれだけ手を伸ばそうと。

どれだけ頭を悩ませようと。

 

「私に勝ったら、芳乃の目が覚めるよ。」

 

 

 

 

 

ほたるは、救えない。


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