白菊ほたるの幸福論   作:maron5650

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15.何かに失望したような

静寂は、彼女の歌によって打ち破られた。

きらりの声を響かせる携帯を手に取ると、鷹富士茄子の文字。

画面上部に表示された時刻を見て初めて、もう日が完全に落ちていることに気が付いた。

数時間ぶりに視線を机以外のものに向けると、いつの間にかプロデューサーが居なくなっている。

ライブの件の事後処理の一環だろう。

 

「もしもし茄子、どうか──」

 

『ほたるちゃんは!?』

 

電話に出た瞬間。

不意打ちの悲鳴に耳をつんざかれて、反射的に携帯を遠ざける。

 

「どうしたの、落ち着い……いや、」

 

ここで「落ち着いて」と言って素直に冷静になれるような人は、そもそも最初から慌てはしない。

なだめようとしても時間がかかるだろう。

こちらが推測した方がよさそうだ。

 

さて、彼女の慌てぶりからして、これが緊急事態であることは間違いない。

彼女がただの一般人ではなく、あの鷹富士茄子である点を踏まえると、相当に緊急だ。

そして、彼女が開口一番発した「ほたるちゃんは」という言葉。

ほたるの行方なら、本来は、彼女が最もよく知っているはずだ。

ほたるの不幸を抑えるために、常に側に居るようにしているのだから。

しかしこの言葉から察するに、彼女もほたるの所在を掴めていない。

離れ離れになってしまったのか。

 

だが、見失っただけであるのなら、単に近くを探せばいい。

少なくとも、事務所に居ると分かっている私にすぐさま電話をかける必要はない。

彼女達が向かった病院は、こことはかなり離れている。

見失ってすぐに来られるような場所ではない。

ということは。

見失ってから、既に少なくない時間が過ぎていることになる。

 

「……こっちには来てない。最後に見たのは?」

 

なるほど、まごうことなき緊急事態だ。

今のほたるは歩く爆弾。

処理班が居ないんじゃ、一体どれほどの被害が出るか分からない。

 

『病院です! ……ああどうしましょう、早く見つけないと……!』

 

「とにかく、杏も近くを探してみる。

茄子は今どこにいるの?」

 

言いながら、事務所の出口へと早歩きで向かう。

飴玉を口に放り込む。

羽織るものを乱雑に手繰り寄せ、袖を通す。

 

『私はまだ病院です! 見つけたら連絡してく──』

 

「……茄子? どうし、」

 

早口でまくし立てる彼女の声が、ぷつりと途切れる。

何かあったのかと口を開こうとすると、数瞬遅れて。

 

『ツー、ツー、ツー』

 

無機質な電子音が、私の神経を下から撫で上げるように、繰り返し響いた。

 

自動的に、脳が思考を弾き出す。

暑さから来るものではない汗が背中をなぞる。

まさか。

もしそうならば、緊急なんてもんじゃない。

最悪の事態だ。

ほたるは行方不明。茄子は冷静さを失っている。

これだけでも十分だ。

十分すぎるほどに危険なのに。

 

どうか思い過ごしであってくれと、祈りながら画面を見る。

しかし。

 

『圏外』

 

予想していた通りの二文字が、そこにはあった。

 

この事務所は、大都会という程ではないが、決して田舎に構えている訳ではない。

少なくとも、携帯が場所によっては圏外になるような所では、ない。

自然とこうなることは、まずあり得ない。

となれば、残る可能性は一つ。

ほたるの不幸の影響だ。

 

携帯の連絡帳を開く。

登録されている茄子の番号を表示し、事務所の有線電話に入力する。

……結果は、同じだった。

 

どうする。

こうなってしまった以上、辺りの公衆電話も、メールも期待はできない。

私は今、電話をすることが、外部と間接的に連絡を取ることができないのだ。

私がほたるを見つけても、茄子にそれを伝えられない。

伝えられない以上、見つけたところで対処のしようがない。

茄子が自力でほたるを見つけるしかなくなった。

範囲すら定まっていない街の何処かに居る、たった一人の人間を、たった一人で探さなければなくなった。

 

「……ああ、もう!」

 

苛立ちのままに受話器を叩きつける。

……思ったより大きな音が出て、少しだけ頭が冷やされた。

 

とにかく、ここで棒立ちしていても始まらない。

これからどうするか、考える。

ほたるが事務所に帰ってくる可能性を考慮して、ここで待っているべきか。

私もほたるを探しに行くべきか。

それとも、茄子との合流を目指すか。

 

頭の中に選択肢を浮かばせていると、自然と事務所の扉の方へ目が動く。

動いてから、何故動いたのかを知る。

違ったのだ。

その瞬間、先程までとのそれとは、決定的な違いが生じたのだ。

扉の、曇りガラスに、ゆっくりと動く。

 

人の、影が。

 

反射的に、足が走り出す。

勢いよく扉を開き、影が過ぎ去った方向を見る。

 

「ほたるッ!!」

 

ほたるだった。

非常階段を登ろうとして、しかし自分を呼ぶ声に、こちらを振り向いたその少女は。

白菊ほたるの、はずだった。

なのに。

 

「──!?」

 

彼女の目を見た瞬間、その確信は簡単に揺らぐ。

いや。待て。おかしくないか。

これは。この少女は。本当に。

本当にあの、白菊ほたるなのか?

 

綺麗な黒髪。

綺麗に整った顔。

華奢な身体。

それら全てが、彼女こそが白菊ほたるであると訴える。

そうだ。その通りだ。

彼女は白菊ほたる。今更間違えようがない。

だが。

だからこそ、感情が否定する。

 

彼女の体質に対して危険だと思ったことは、何度もあった。

注意していなくては、なんとかしなくては、と。

しかし、今感じているこれは。

この恐怖の対象は。

 

彼女、自身だ。

 

こんなこと、今まで一度たりとも無かった。

彼女は、自らの体質に悩まされている、ただの優しい少女で。

怖がる必要なんて、何もなくて。

ああ、でも、どうして、今の彼女は。

こんなにも、こわいのだ。

 

ダメだ。

理論よりも先に、心が結論を出す。

今の彼女を、放っておいてはいけない。

例え私が居ても、何もできないけれど。

それでも。

今の彼女を、これ以上、一人きりにしては、いけない。

 

走る。

わざわざここまで歩いてきたんだ。エレベーターはきっと使えない。

走る。

彼女よりも速く走っているはずなのに、ちっとも近付いた気がしない。

走る。

彼女が目指しているのはきっと屋上だ。

走る。

今の彼女が屋上に行ってやることは。

走る。

……そんなこと、させてたまるか。

走る。

走る。

 

走る。

 

 

 

ご丁寧に閉められたドアを、思い切り開く。

ばん、という大きな音を聞いて、彼女がこちらを振り向いた。

 

「……なに、やって、るのさ。」

 

息を整えようと全力で酸素を取り込みながら、空気を吐き出すタイミングで言葉を紡ぐ。

前のめりに倒れそうになるのを、どうにか堪える。

 

「一日だけ。」

 

彼女は、あの恐ろしい目のまま。

感情の無い声で、呟いた。

 

「……待ってみたんです。あの人の言う通り。」

 

「な、にを、」

 

頭がうまく働かない。

何だ。

彼女は何を言っている。

 

「きっと他にも方法があるって。

だから私は待ちました。」

 

ゆっくりと、一歩ずつ。

緩慢な動作で、彼女は私から遠ざかっていく。

 

「待ってみて、最初はよかったと思っていました。

みなさんに会えて、よかった。

レッスンをしていて、楽しかった。

優しくしてもらえて、嬉しかった。」

 

そっちに行っちゃダメだ。

そっちに行っても、何もない。

端にある柵の、その先には。

 

「でも、やっぱりダメでした。

やっぱり、方法なんてありませんでした。

……これしか、なかったんです。」

 

ついに彼女は端まで辿り着く。

よろよろと、私は彼女を追いかける。

 

「だから、なに、いって、」

 

彼女が柵に手を触れる。

彼女を受け入れるように、柵は下へと落ちていく。

 

「あの人なら、私も幸せにしてくれると思っていました。

思って、しまいました。

そんなこと、あるはずがないのに。」

 

もう時間がない。

疲れ果てた身体に鞭打って、私は速度を上げる。

 

「ごめんなさい。

今まで本当に、迷惑をかけてしまいました。

でも、もう大丈夫です。

私が居なくなれば、大丈夫。

後はきっと、茄子さんが幸せにしてくれますから。」

 

うるさい。

そんなお別れみたいなこと、聞きたくない。

ああ、くそ、もうちょっとなんだ。

もうちょっとで、届くのに。

 

「……。」

 

言いたいことは無くなったとばかりに、彼女は再びこちらに背を向ける。

ゆっくりと、本当にゆっくりと、彼女の身体が傾いていく。

何もない、空間へと。

 

今だ。

こちらを見ていない、今しかない。

体力が無くなった脚に、気力を使って力を入れる。

そのまましゃがみ込み、地面を蹴り飛ばす。

 

彼女はもう、その半分以上が宙に投げ出されている。

手を掴んで、引き上げるしかない。

どうやって走ってるのか分からない足を動かす。

感覚すら曖昧な手を伸ばす。

 

彼女が完全に地面から離れる。

その瞬間、私の手が彼女の手を掴む。

しかし。

全力で走り抜けたその勢いを殺すだけの、時間的余裕は。

もう、残ってはいなかった。

 

彼女と共に、私も空に浮かぶ。

反対の手で、コンクリートのふちにぶら下がる。

自分よりも背の高い人間一人を抱えながら、この状態で耐える。

そんなことができるはずもなく。

十数秒の格闘の末に、私はついに力尽きた。

 

ゆっくりと、私とほたるは落ちていく。

もし私が茄子だったなら、きっと二人とも助かっていたのだろう。

そもそも落ちることすらなかったかもしれない。

でも。

私はただの人間で。

そんなこと、できるわけなくて。

だから、せめて、この子だけでも。

ほたるだけでも、助かりますように。

 

 

 

 

 

地面に触れる瞬間まで、ただ、そう祈った。


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