「はぁ……。」
小さくない病院の、小さくない病室の。
ドアの前で立ち尽くしながら、私は何度目かの、小さな溜息をついた。
あの後、すぐに芳乃ちゃんは病院に担ぎ込まれた。
色々と身体を調べて、大きな機械に通されて。
あちこちを輪切りにされて、分かったこと。
彼女の身体の何処にも、異常は無い。
すぐにでも日常生活に戻れる、そんな状態で。
もう二週間、一度も目を覚ましていない。
それが何に依るものなのか。
いつ意識が戻るのか。
何も分からない。
ただ一つ、確かなことは。
ほたるちゃんのデビューは、失敗したということ。
芳乃ちゃんの入院を皮切りに、彼女の不幸は再びその勢いを増した。
それも、今まで見たことが無いまでに。
やっと許しを得たかのように、それは一斉に牙を向いた。
今日私がこうしているのも、ほたるちゃんの付き添い。
もう、片時も目を離してはならないのだ。
私が彼女と離れたら、その瞬間に不幸は誰かに襲いかかる。
財布を落とすとか、躓いて転ぶとか。
そんな生易しいものではない。
確実に生命活動が停止するようなことが。
断続的に発生しているのだから。
平日の午後、太陽の色が濃くなってきた頃。
こんな時間だからか、ここは今、とても静かだ。
こうして立っているだけで、嫌でも耳に入ってくる。
「……んなさい。ごめんなさい。芳乃さん。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。……」
ずっとだ。
昼頃にここに来て、日が暮れるまでずっと。
そんな毎日を、もうどれくらい繰り返しただろうか。
少なくとも一週間は満たしていないはずなのに。
その何倍も、長く感じる。
本来なら。
こんなことは、止めさせるべきなのかもしれない。
律儀に毎日病院に、連れて行くべきではないのかもしれない。
でも。
ひどかったのだ。
こうやって、懺悔を繰り返すようになる、その前の彼女は。
ほんとうに、ひどかったのだ。
何を見せても、何を話しかけても反応しない。
手を引いて、初めてよろよろと力無く歩き始める。
ずっと床に座り込んで、ずっとどこかを見つめてる。
見ているものなんて、何もないのかもしれない。
人から心というものを抜き取ったら、どうなるのか。
その模範解答を見ているような。
見ているこっちが、泣きたくなる姿だった。
それが何日か続いた、ある日。
久しぶりに彼女は、意味のある言葉を発した。
注意して聞かなければ、空気に吸収されて消えてしまいそうな声で。
「芳乃さんの病室に行きたい」。
……こうなることは、どこかで分かっていた。
分かっていて、それでも。
それでも、幾分かマシだった。
1/1スケールの人形だと言われたら信じてしまえそうな彼女の姿を、これ以上見ていたくはなかった。
赤色の丸い光の、半分は隠れてきた。
そろそろ、帰る時間。
彼女が泣き疲れて、眠ってしまう時間。
扉の向こうに意識を向けると、既に声は聞こえなくなっていた。
タクシーを呼ぶための携帯と、涙を拭くためのハンカチをカバンから取り出しつつ。
通話可能エリアでもある彼女の病室へと、引き戸に手をかける。
「……んで、ですか。」
その時だった。
「……なんで、私じゃないんですか。」
彼女が初めて、謝罪以外の言葉を発するのは。
「私なんですよね、不幸なのは。
だったら、私が不幸になればいいじゃないですか。
……私が、こうなればいいじゃないですか。」
きっと、誰に問うているわけでもない。
彼女が、優しすぎるから。
だから漏れ出てしまう、やり場のない憤り。
「なんで、周りの人ばっかり、こうなるんですか。
なんで、私だけにしてくれないんですか。
なんで、なんで……。」
だから、彼女は望む。
もうこれ以上、誰かが傷付かなくていい方法を。
単純で、だからこそ、確実な結末を。
「──ねば、よかった。」
やっとそこまで思考が至り、私は我に返る。
彼女が次に、言おうとしていること。
彼女が今、思い描いている希望。
それを、言わせちゃ、ダメだ。
だって、やっとなんだ。
やっと、あんなに楽しそうに笑えたのに。
やっと、夢が叶う直前まで来れたのに。
……やっと、幸せになれると、思ったのに。
「……こんなことになるんなら。」
嫌だ。
認めたくない。
あれだけ頑張って。
あれだけ耐えて。
あれだけ泣いたのに。
それでも、ダメだなんて。
幸せに、なれないなんて。
最初から諦めていた方が、よかったなんて。
「あの日、屋上で……。」
降ろしかけた手を、再びドアの取っ手にかける。
両手を使って全力で、開ける。
何て声をかければいいかなんて、分からないけれど。
でも。
何か、言わなくちゃ。
「ほたるちゃ──」
私の、彼女を呼ぶ声は。
最後まで、続くことはなかった。
そんな。
確かに、杏ちゃんは言っていた。
私の幸運やほたるちゃんの不幸は、時に物理法則すら無視するって。
でも、まさか、こんな。
もう点いているはずの蛍光灯が光っていない。
毎日一本ずつ増えている、花瓶に活けているはずの可愛らしい花が、水浸しの床に落ちている。
窓は閉まっているはずなのに、冷たい風が強く吹き込んでいる。
そして。
花瓶、蛍光灯、窓。
凶器と成り果てたそれらの破片が、切っ先を一人の少女に向けて。
彼女を中心に、空中で静止していた。
西日に照らされた刃物は、きらきらと輝いて。
これから起こりうる惨劇は、まるで嘘なんじゃないかという錯覚を与えてくる。
「〜〜ッ!!」
反射的に、走る。
標的となった少女を、守るために。
この身体は、いくら切り刻まれてもいいから。
彼女を包み込むように、抱きしめようと。
距離はそう離れてはいない。
あの時のように、動きを阻害するものも無い。
大丈夫。間に合う。
部外者の侵入に気が付いたほたるちゃんがこちらを向くと、目が合った。
涙でぐしゃぐしゃになった顔には、ひどく不釣り合いな無表情。
目の前にある非現実を、当然のように受け入れて。
「──私が、死ねばよかった。」
彼女の言葉は、引き金となって。
ドーム状に整列した凶刃が、一斉に少女を目指す。
それと同時に、私は彼女に辿り着く。
勢いを殺せないまま、殺さないまま。
私は彼女を抱きしめる。
何かの拍子で離れてしまわないように、強く、強く。
「……よかった。」
今度は、ちゃんと。
ちゃんと、間に合った。
私は、どうなってしまうのか分からない。
全ての破片をすり抜けられたりしたら、一番いいのだけれど。
でも、死ぬことはないだろう。
そして何より、この子はきっと無事だろう。
目の前で友人が倒れるのは、もう見たくない。
私が幸運だというのなら、それくらいは叶えてほしい。
間も無く襲いかかるだろう痛みに備えて、私は固く目を閉じる。
風を切る音が、聞こえた。