「き、緊張しました……。」
「ん、お疲れー。」
舞台上から帰ってきたほたるを、私は怠そうに手を振って迎えた。
初めての舞台で。
決して狭いとは言えない広さのステージで。
一人きりで、観客の前に立たされた。
失敗しても誰も責められないだろうこの状況で、しかしほたるは、一つも目立つミスをすることなく、一度目の出番をやり遂げた。
まずは、大成功。
この調子なら、彼女の力量の心配は要らないだろう。
場に飲まれてしまったとき等の対処法を考えてきたのは、どうやら杞憂だったようだ。
「……芳乃さんと茄子さんは、もう準備に?」
二人の姿が見えないことに気付いたほたるが、何回か頭を半回転させて言った。
「神様と天使は空を飛ぶからね。」
今回はなんと事務所初のワイヤーアクション。
……ただ宙に浮かぶだけをアクションと呼ぶなら、だが。
それにはハーネスやら何やらが必要らしく、準備に時間がかかるそうで。
今回は特に入念に安全確認をするから、尚更早めに行かなければならないのに。
二人は時間ギリギリまでほたるの演技をここで見守った末、スタッフに呼ばれて渋々場を離れた。
「……お、始まるね。」
ほたるを簡素なパイプ椅子に座らせ、タオルと水を差し出す。
彼女の息が整ってきた頃に、ビーッという独特のブザー音が響いた。
第二幕開始の合図だ 。
ワイン色の垂幕が左右に開き、同時に床からスモークが焚かれる。
足場に溜まった雲と、白い照明の光が合わさって、そこはさながら、天国を連想させる空間と化していた。
『たまにはとー、下界を覗いてみましたらー。』
そんな幻想的な空間に、どこからか声が響く。
『あれは余りにもー、余りにも不幸な少女なのでしてー。』
台詞と共に、空からゆっくりと人影が降りてくる。
白く薄い布地を幾つも繋ぎ合わせて作られたような、神秘的な衣装。
それが、機械によって下から押し出された空気に、ひらひらと揺れて。
『何とかして差し上げなくてはなりませぬー。』
そう言って現れた、芳乃演じる神様は。
まるで、演技ではなく、本当に。
本当に本物の、神様なんじゃないか、と。
そう思わせるほどに、美しく。
観客は勿論、私やほたるも、感嘆の声を漏らすことすらできず。
息を呑んで、ただ、見とれていた。
『天使殿ー。おいでくださいませー。』
柔らかな笑みを浮かべたまま、神様は天使を呼ぶ。
それに応えて、私達の居る上手とは反対側の下手から、スキップをするような陽気な足取りで。
『は〜い♪ 天使ですよ〜♪』
茄子扮する天使が、いつもの満面の笑みで登場し。
そのままの勢いで、ホップ、ステップ。
ジャンプと同時に、ワイヤーによって空へ飛び上がる。
ふわふわと芳乃の元へ近づきながら、一回転してみせたり、観客に手を振ったり。
一通りのファンサービスを披露した後、神様より少し下の位置で静止した。
『神様、どうかしましたか? お煎餅が無くなっちゃいました?』
今出しますね♪ と続けて、茄子は両手を前に出し、力を込める動作を取る。
……茄子なら本当に出してしまえそうだから恐ろしい。
『いえー。あ、お煎餅は後でお願いしたいのですがー、今はそうではなくー。』
芳乃が断ると、茄子は残念そうに腕ごと肩を落とす。
こころなしか、背中に生えている衣装の羽もしょんぼりとしているように見えた。
……茄子が登場した途端に、随分とコミカルな空気になったな。
『これを見てくださいませー。』
芳乃がそう言って後ろを向くと、二人の姿を映していたスクリーンに、先程出番のあったほたるの姿が。
『あらあら、これはちょっと、放っておけませんね?』
芳乃に倣って映像を見た茄子が、口に手を当てて驚きを表現する。
顔が見えにくい場面では、こういった大袈裟なリアクションが肝要になる。
スクリーンからほたるが消え、再び二人を映し出す。
『と、いうわけなのですがー。何かいい方法はないものかとー。』
『うーん……あんまり私達が下界に影響を与えちゃうのは良くないですし……。』
「うーん……」と、二人は腕を組み、同時に声を漏らす。
すると、茄子がおもむろに顔を上げ、ポンと手を叩いた。
『そうだ、妖精さんに任せてみるのはどうでしょう♪』
茄子とは対照的に、芳乃の声は、明らかに乗り気ではなかった。
『……あのー、サボってばかりと有名の妖精殿でしてー?』
散々な言われようである。
妖精としては異議を唱えたい。
『あの子ならそれほど影響を与える力は無いですし、なんだかんだ言ってしっかりやってくれますから♪』
そう言われて、芳乃は再び考え込む。
やがて、「天使殿がそうおっしゃるのでしたらー。」と、組んだ腕を解いた。
『ではー……。』
芳乃が右手を開いて、茄子の方へ伸ばす。
茄子はそれを見て頭を少し下げ、目を閉じて両手を胸の前で組んだ。
すると。
舞台を照らしていた光が消え、辺りが真っ暗になる。
一瞬遅れて、二人の頭上からスポットライトが浴びせられた。
『──神、依田芳乃が。』
一言。
その、たった一言で。
先程までの、のんびりとした空間は。
完全に。完璧に。跡形もなく、消え失せた。
『天使、鷹富士茄子に命じます。』
そのくらい、違ったのだ。
彼女の声が。
彼女の顔つきが。
彼女を中心として発せられるものの、全てが。
これまでと、決定的に違ったのだ。
『妖精、双葉杏の力を以ってして…………。』
芳乃は、何かの儀式をするように、厳かに。
天使への、少女を救うための命令を読み上げる。
観客の息遣いすら聞こえない、静寂。
彼女の演技の神聖さは、それほどまでに。
一瞬で場の空気を支配してしまえるほどに、役にぴたりと合っていた。
合い過ぎていた、と言ってもいい。
何故なら。
「……杏さん。」
この、彼女の沈黙が。
「ほたる? ……どうしたの?」
次に発する言葉の、重みを増すための。
「あの……芳乃さん、」
意図的に作られたものなのだと。
「変じゃ、ありませんか?」
そう、思わせてしまったから。
「……嘘、でしょ……!?」
ほたるの言葉によって、初めて私は芳乃を観察する。
演劇の鑑賞ではなく、状況の分析を。
だが。
余りにも、遅過ぎた。
そうだ。
こんな沈黙、台本には無かったじゃないか。
しかし。
ならば、何故?
何故彼女は、台詞を続けない?
……何故、続けられない?
彼女が陥っている状況に。
陥ろうとしている結末に。
まさか、今、起きたのか?
こんな時に? こんなところで?
誰も、気付かないまま。
その結果として、彼女が演技を続けられない状態にある?
決して、聞こえるはずのない音。
聞こえては、いけない音。
静まりきった水面の世界に、それは。
ぶちん。
耳障りなほどに、酷く、響いた。
「──ッ!」
そんな。
よりにもよって、それなのか。
入念に安全性を確かめて。それでも、それなのか。
そんなの、無事で済むはずがない。
……助かる、わけがない。
支えを失った身体が、ゆらり。
これから、彼女がどうなるか。
どうなってしまうのか。
誰にだって分かる。
分かってしまう。
「茄子……ッ!」
そう叫びながら。
でも。
彼女も、吊るされているのだ。
目を閉じて、神託を受けている最中なのだ。
間に合うか、分からない。
芳乃が、緩やかに落下を始める。
考えるより先に、足が動いた。
全力で走りながら、計算する。
落下速度。私の走力。筋力。彼女の体重。
受け止めるのは無理。衝撃の緩和。横に突き飛ばす。
芳乃の墜下が止まらない。
呼ばれた声に反応し、茄子が閉じた目蓋を開く。
そこに居るはずの、神様の姿を確認しようとする。
……何も、無い。
芳乃の顔がこちらを向いた。
今まさに感じているはずの、虫が背中を駆け上がるような浮遊感。
彼女の表情は、恐怖と、驚愕で塗り潰されていた。
「まさか」。「あり得ない」。
その目は、私にそう訴え続ける。
地面との距離が、もう近い。
──違う。
私じゃない。
芳乃が見ているのは、私じゃない。
彼女の、驚愕の目線の先は。
私の、後ろに居る。
何だ。
何を見ている。
彼女の目には、何が映っている。
ほたるから、何が見えている。
茄子がやっと芳乃を見つける。
ダメだ、間に合わない。
私も、茄子も。
芳乃まで、届かない。
「芳乃ちゃ──」
茄子の、胸を強く締め上げる、悲痛な声は。
ボールを床に思い切り叩きつけたような、鈍い轟音に掻き消された。