白菊ほたるの幸福論   作:maron5650

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12.暗転

「き、緊張しました……。」

 

「ん、お疲れー。」

 

舞台上から帰ってきたほたるを、私は怠そうに手を振って迎えた。

 

初めての舞台で。

決して狭いとは言えない広さのステージで。

一人きりで、観客の前に立たされた。

失敗しても誰も責められないだろうこの状況で、しかしほたるは、一つも目立つミスをすることなく、一度目の出番をやり遂げた。

 

まずは、大成功。

この調子なら、彼女の力量の心配は要らないだろう。

場に飲まれてしまったとき等の対処法を考えてきたのは、どうやら杞憂だったようだ。

 

「……芳乃さんと茄子さんは、もう準備に?」

 

二人の姿が見えないことに気付いたほたるが、何回か頭を半回転させて言った。

 

「神様と天使は空を飛ぶからね。」

 

今回はなんと事務所初のワイヤーアクション。

……ただ宙に浮かぶだけをアクションと呼ぶなら、だが。

それにはハーネスやら何やらが必要らしく、準備に時間がかかるそうで。

今回は特に入念に安全確認をするから、尚更早めに行かなければならないのに。

二人は時間ギリギリまでほたるの演技をここで見守った末、スタッフに呼ばれて渋々場を離れた。

 

「……お、始まるね。」

 

ほたるを簡素なパイプ椅子に座らせ、タオルと水を差し出す。

彼女の息が整ってきた頃に、ビーッという独特のブザー音が響いた。

第二幕開始の合図だ 。

 

ワイン色の垂幕が左右に開き、同時に床からスモークが焚かれる。

足場に溜まった雲と、白い照明の光が合わさって、そこはさながら、天国を連想させる空間と化していた。

 

『たまにはとー、下界を覗いてみましたらー。』

 

そんな幻想的な空間に、どこからか声が響く。

 

『あれは余りにもー、余りにも不幸な少女なのでしてー。』

 

台詞と共に、空からゆっくりと人影が降りてくる。

白く薄い布地を幾つも繋ぎ合わせて作られたような、神秘的な衣装。

それが、機械によって下から押し出された空気に、ひらひらと揺れて。

 

『何とかして差し上げなくてはなりませぬー。』

 

そう言って現れた、芳乃演じる神様は。

まるで、演技ではなく、本当に。

本当に本物の、神様なんじゃないか、と。

そう思わせるほどに、美しく。

観客は勿論、私やほたるも、感嘆の声を漏らすことすらできず。

息を呑んで、ただ、見とれていた。

 

『天使殿ー。おいでくださいませー。』

 

柔らかな笑みを浮かべたまま、神様は天使を呼ぶ。

それに応えて、私達の居る上手とは反対側の下手から、スキップをするような陽気な足取りで。

 

『は〜い♪ 天使ですよ〜♪』

 

茄子扮する天使が、いつもの満面の笑みで登場し。

そのままの勢いで、ホップ、ステップ。

ジャンプと同時に、ワイヤーによって空へ飛び上がる。

ふわふわと芳乃の元へ近づきながら、一回転してみせたり、観客に手を振ったり。

一通りのファンサービスを披露した後、神様より少し下の位置で静止した。

 

『神様、どうかしましたか? お煎餅が無くなっちゃいました?』

 

今出しますね♪ と続けて、茄子は両手を前に出し、力を込める動作を取る。

……茄子なら本当に出してしまえそうだから恐ろしい。

 

『いえー。あ、お煎餅は後でお願いしたいのですがー、今はそうではなくー。』

 

芳乃が断ると、茄子は残念そうに腕ごと肩を落とす。

こころなしか、背中に生えている衣装の羽もしょんぼりとしているように見えた。

……茄子が登場した途端に、随分とコミカルな空気になったな。

 

『これを見てくださいませー。』

 

芳乃がそう言って後ろを向くと、二人の姿を映していたスクリーンに、先程出番のあったほたるの姿が。

 

『あらあら、これはちょっと、放っておけませんね?』

 

芳乃に倣って映像を見た茄子が、口に手を当てて驚きを表現する。

顔が見えにくい場面では、こういった大袈裟なリアクションが肝要になる。

 

スクリーンからほたるが消え、再び二人を映し出す。

 

『と、いうわけなのですがー。何かいい方法はないものかとー。』

 

『うーん……あんまり私達が下界に影響を与えちゃうのは良くないですし……。』

 

「うーん……」と、二人は腕を組み、同時に声を漏らす。

すると、茄子がおもむろに顔を上げ、ポンと手を叩いた。

 

『そうだ、妖精さんに任せてみるのはどうでしょう♪』

 

茄子とは対照的に、芳乃の声は、明らかに乗り気ではなかった。

 

『……あのー、サボってばかりと有名の妖精殿でしてー?』

 

散々な言われようである。

妖精としては異議を唱えたい。

 

『あの子ならそれほど影響を与える力は無いですし、なんだかんだ言ってしっかりやってくれますから♪』

 

そう言われて、芳乃は再び考え込む。

やがて、「天使殿がそうおっしゃるのでしたらー。」と、組んだ腕を解いた。

 

『ではー……。』

 

芳乃が右手を開いて、茄子の方へ伸ばす。

茄子はそれを見て頭を少し下げ、目を閉じて両手を胸の前で組んだ。

 

すると。

舞台を照らしていた光が消え、辺りが真っ暗になる。

一瞬遅れて、二人の頭上からスポットライトが浴びせられた。

 

『──神、依田芳乃が。』

 

一言。

その、たった一言で。

先程までの、のんびりとした空間は。

完全に。完璧に。跡形もなく、消え失せた。

 

『天使、鷹富士茄子に命じます。』

 

そのくらい、違ったのだ。

彼女の声が。

彼女の顔つきが。

彼女を中心として発せられるものの、全てが。

これまでと、決定的に違ったのだ。

 

『妖精、双葉杏の力を以ってして…………。』

 

芳乃は、何かの儀式をするように、厳かに。

天使への、少女を救うための命令を読み上げる。

 

観客の息遣いすら聞こえない、静寂。

彼女の演技の神聖さは、それほどまでに。

一瞬で場の空気を支配してしまえるほどに、役にぴたりと合っていた。

合い過ぎていた、と言ってもいい。

何故なら。

 

「……杏さん。」

 

この、彼女の沈黙が。

 

「ほたる? ……どうしたの?」

 

次に発する言葉の、重みを増すための。

 

「あの……芳乃さん、」

 

意図的に作られたものなのだと。

 

 

 

「変じゃ、ありませんか?」

 

 

 

そう、思わせてしまったから。

 

 

 

「……嘘、でしょ……!?」

 

ほたるの言葉によって、初めて私は芳乃を観察する。

演劇の鑑賞ではなく、状況の分析を。

 

だが。

余りにも、遅過ぎた。

 

そうだ。

こんな沈黙、台本には無かったじゃないか。

しかし。

ならば、何故?

何故彼女は、台詞を続けない?

……何故、続けられない?

 

彼女が陥っている状況に。

陥ろうとしている結末に。

 

まさか、今、起きたのか?

こんな時に? こんなところで?

 

誰も、気付かないまま。

 

その結果として、彼女が演技を続けられない状態にある?

 

決して、聞こえるはずのない音。

聞こえては、いけない音。

静まりきった水面の世界に、それは。

 

 

 

ぶちん。

 

 

 

耳障りなほどに、酷く、響いた。

 

「──ッ!」

 

そんな。

よりにもよって、それなのか。

入念に安全性を確かめて。それでも、それなのか。

そんなの、無事で済むはずがない。

……助かる、わけがない。

 

支えを失った身体が、ゆらり。

これから、彼女がどうなるか。

どうなってしまうのか。

誰にだって分かる。

分かってしまう。

 

「茄子……ッ!」

 

そう叫びながら。

でも。

彼女も、吊るされているのだ。

目を閉じて、神託を受けている最中なのだ。

間に合うか、分からない。

 

芳乃が、緩やかに落下を始める。

考えるより先に、足が動いた。

 

全力で走りながら、計算する。

落下速度。私の走力。筋力。彼女の体重。

受け止めるのは無理。衝撃の緩和。横に突き飛ばす。

 

芳乃の墜下が止まらない。

呼ばれた声に反応し、茄子が閉じた目蓋を開く。

そこに居るはずの、神様の姿を確認しようとする。

……何も、無い。

 

芳乃の顔がこちらを向いた。

今まさに感じているはずの、虫が背中を駆け上がるような浮遊感。

彼女の表情は、恐怖と、驚愕で塗り潰されていた。

「まさか」。「あり得ない」。

その目は、私にそう訴え続ける。

 

地面との距離が、もう近い。

──違う。

私じゃない。

芳乃が見ているのは、私じゃない。

彼女の、驚愕の目線の先は。

私の、後ろに居る。

 

何だ。

何を見ている。

彼女の目には、何が映っている。

ほたるから、何が見えている。

 

茄子がやっと芳乃を見つける。

ダメだ、間に合わない。

私も、茄子も。

芳乃まで、届かない。

 

「芳乃ちゃ──」

 

 

 

 

 

茄子の、胸を強く締め上げる、悲痛な声は。

ボールを床に思い切り叩きつけたような、鈍い轟音に掻き消された。


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