【完結】とある再起の悪役令嬢(ヴィレイネス) 作:家葉 テイク
「どうやら、無事に落ち着いたらしいですわね」
インデックスの尽力により、『原典』オリアナ=トムソンを無力化してから少し。無事に本体オリアナに触れて結界を安全に強制終了させた上条達のところへ、レイシアが戻ってきた。
あたりは先ほどまでのような、トンネルと見紛うような広く長い通路から普通の薄暗い研究所の廊下に戻っている。それで、レイシアも状況を把握したのだろう。
「ああ……そっちも無事に終わったみたいだな」
「ええ。
実際には上条はあまり関与していないのだが、魔術を行使するインターフェースとしてのオリアナと原典の接続を破壊したことで、原典を介した魔術使用が一旦すべて強制終了したということなのだろう。
特に意識はしていなかったことだが、それで助けになれたのならよかった、と上条は思う。
「……で、その男の方は?」
「ああ、彼なら研究所の外へ運んでおきましたわ。おそらく、
レイシア──というよりシレンとしては、スキルアウト問題のこともあるので駒場のことは個人的にかかわりを持ちたいところだったのだが、流石に今の時点でそこまでやっている余裕はない。一応連絡先だけ胸元に忍ばせて、木原数多の件に決着がつくまではとりあえず放置というスタンスを取らざるを得ないのだった。
そういった裏事情を知らない上条はあっさりと頷き、
「そっか、そりゃよかった。でも…………」
そう言って、上条は視線を自分の傍らに横たえられている女性へと落とす。
オリアナ=トムソン。
十字架に磔の状態にされている状態からは既に解放したが、だからといって彼女の置かれた状況が変わるわけではない。
これまでは深く考えないようにしてきたが、ローマ正教のスパイとして学園都市に潜入していた彼女は、木原数多に捕えられた時点で自陣の機密情報を外部に漏らさないようにするため、自分の術式で廃人状態になってしまっている。そしてそれは、たとえ原典との接続を切り離したところで解決はしない。
当然、魔術の素人である上条にどうにかできるような問題でもなく──
「オリアナ……、」
「さて、これでようやく本腰入れてこの人のことを救えるね!」
──しんみりした空気に入りかけたところで、からっとしたインデックスの声がそんな雰囲気をぶち壊した。
てっきりオリアナのことは尊い犠牲とするしかないと思っていた上条はというと、きょとんとした表情を浮かべてしまう。
「……え? いやこの人、今廃人なんだよな? そんなの魔術でもどうしようもなくない?」
「それは症状によるかも。この人は正規の方法で自分の精神を覗かれない為に、脳の情報を全部バラバラのページのように分解してしまっているらしいけど、これならそのバラバラになったページを一枚一枚元の位置に戻して、一冊の本として組み立ててあげれば、普通に元通りに戻るんだよ」
当たり前のように言っているが、横にいるショチトルや『原典』オリアナのドン引き具合を見れば、インデックスの言っていることがどれほどの無法か分かるというものだ。
まぁ確かに、魔術によって精神をバラバラにされましたというだけなら、インデックスであれば元通りに戻せるというのも道理なのかもしれないが。
そういうわけで、魔力を練れないインデックスと一緒にショチトルが二人で作業すること五分。
「よし、これで問題ないかも。手伝ってくれてありがとね、あだばな」
「…………構わないがこれっきりにしてもらいたいものだな。なんか別の知識を使うとこっちの方がめちゃくちゃ嫉妬しているっぽくて凄く体調が悪い…………」
『原典』そのものを身の裡に抱えている彼女ならではの苦しみである。
とはいえ、そんな状況なのに何だかんだで人助けの為に身を削ってしまうあたりが、ショチトルという少女の善性なのかもしれないが。
「ともあれこれで、オリアナも回復しましたし事件も無事解決しましたし、あとは木原数多だけというわけですわね」
「ああ。これまでは俺達が攻撃を受ける側だったが、こっからは逆転だ。こっちから木原数多へ攻撃をしかけ、」
「それなんですけど、わたくし実は、先ほど相似から連絡がありまして……、ん?」
ある程度危機感が弛緩した状況。
全員で次の一手について確認していた、その時だった。
その場の誰もが見過ごしてしまうような自然さで。
「…………と、当麻さん!?!?」
上条当麻が、倒れた。
「出血性ショックだよ! 血を流しすぎてる! 応急処置くらいなら私でもできるけど、このままじゃ……!」
「おどきなさいッッッ!!!!」
すぐさま診断を下す那由他を突き飛ばすようにして、レイシアが上条へと駆け寄る。その周囲に無数の『亀裂』が瞬き──そして、上条の全身を不可視の鎧が覆い尽くした。
「……超音波で当麻の全身を圧迫止血しました。これで、少なくともこれ以上の失血はありません」
『亀裂』による気流操作、その応用としての超音波念動。上条の右手によってでも打ち消せないそれを使った、止血。少なくともこれで、失血死の危険はなくなった。
とはいえ、レイシアの顔色はそれでも明るくない。
これ以上の失血はないにせよ、血が増えない以上はショック症状自体がなくなることはないのだ。失血死はないかもしれないが、ショック症状そのものによるショック死の危険がなくなったわけではない。
と、
「…………何、これ……? どう、なっているの……?」
震える声に視線を向けると、そこには一人の少女が茫然と現状を見て立ち竦んでいた。
顔面を蒼白にさせた少女は、よろよろと倒れ伏す少年へと近づいていく。
「ちょっと! どうなってるのよぉ!? 私、確か木原数多に襲われて……戦闘中に躓いて、それでっ……何で上条さんがこんなことに!?」
「…………、」
食蜂操祈という少女にとって、目の前の光景は殆ど悪夢の焼き直しだった。
あの日、食蜂操祈は同じように大人達の陰謀に巻き込まれ、そしてその戦いの最中、同じようにツンツン頭の少年を傷つけてしまった。
もちろん、彼女が悪かったわけじゃない。だが、彼女の事情に巻き込み、そして彼女を守るために立ち上がったツンツン頭の少年は、戦いの中で傷つき、斃れた。
そして今、蜂蜜色の少女の目の前では、ツンツン頭の少年が同じように斃れていた。
「当麻さんは今、出血性のショック症状に見舞われています。応急処置は那由他さんに任せていますが……その為には麻酔が必要です」
「…………、」
那由他の機能の中には弛緩剤や麻酔といったものも存在している。だから応急処置の為に麻酔をかけること自体は可能だ。だが、麻酔をかけた場合血圧も低下してしまう。ただでさえ出血で血圧が低下している状況で、さらなる血圧低下を引き起こすことは上条の死を意味する。
さりとて、麻酔もなしに応急処置を行うことはできない。傷が開いている以上、そちらへの処置なしにはどうしようもないからだ。失血がないとはいえ、このままでは上条は緩やかに死んでいくしかない。
ただし。
この場に、そうした前提を覆すことが可能となる人員が一人いた。
「食蜂さん。アナタの能力なら、当麻さんの血圧を低下させずに麻酔と同じ効果を齎すことができるはずですわ」
「…………、ぁ」
此処に来て。
此処に来て、一人の少年の命の分岐路に、少女が立たされることになった。
食蜂操祈は、人の心を操る能力者の頂点に立つ少女は、しばし沈黙する。
あらゆる過去が、彼女の脳裏を過っていた。
かつての事件。デッドロック。『
食蜂操祈は、黙って両手で自らの顔を覆った。
「……無理。無理よぉ、私、できないわぁ……!」
それは、たった一四歳の少女の心の悲鳴だった。
「『前回』は、それで失敗したっ! 命は救えたけれど、『彼』は私のことを記憶することすらできなくなってしまった!! なら、今回は!? 前回でさえ思考の外の悲劇が起きてしまったのに、また同じことをしたら……今度は一体どうなってしまうのよぉ!?」
泣き叫ぶ食蜂は、震える声で続ける。
「今度は……今度は、もう私のことを認識してもらえなくなってしまうかもしれない。話しかけても、答えてくれることすらなくなってしまうかもしれない。いいえ、それだけじゃないわぁ。もっと致命的な破壊が、彼の脳に起こってしまうかもしれないっ!!!!」
だから、できない。
能力的に可能かどうかじゃない。そもそものスタートラインに、食蜂操祈が立つことはできない。
それは、最適解から考えれば間違っているだろう。必要な時に、必要な能力を持つ者がそれを振るわないのは失点であり、落ち度。減点法で考えれば、そういう風に思われてしまうかもしれない。
だが、いったいそれを責める資格のある人間がこの世に存在するだろうか。
たった一四歳の少女に、全てを賭けられるような恋をしている女の子に、そのすべてを投げ出させた心の傷と向き合わせて、それを抉れというような残酷な要求を突き付けて、その前に膝を折ってしまうことを、一体誰が責められる?
「──そんなこと、知ったことではありませんわ」
レイシア=ブラックガードは──いや。シレンは、そんな少女の悲鳴をバッサリと切り捨てた。
「別に、アナタに託さなくったっていい。最悪、わたくしが当麻さんの右腕を切断するとか、オリアナさんに『原典』のフルパワーをぶつけさせて
シレンは、いともあっさりと救いの道を提示する。
『正史』という一つの正答を俯瞰した経験のある彼女は、どれだけ荒唐無稽でも正解のイメージだけならいくらでも用意することができる。
だが。
「……それでも、手元に救う為の手札があるというのに手を伸ばさなかったら、アナタは自分を許せますか? ……わたくしだったら、絶対に自分を許せませんわ」
まして、上条は食蜂と戦っている最中に傷を負い、倒れた。その時彼の隣にいたのは、食蜂だ。そういう意味でも彼女は負い目を感じているだろう。
救ってもらったのに。
ただただ身を削ってきた彼の為に、自分は何もできず、ただ指をくわえて他者が彼を救っているのを見ているだけ。
そんな経験をしてしまえば、きっと、食蜂操祈の心は折れてしまう。彼の隣に立ちたいと願う少女たちを前にして、無意識に一歩退いてしまうようになる。
たとえ世界中の誰もが食蜂操祈の心に寄り添い慰めてくれたとしても、この世でただ一人、食蜂操祈自身が自分のことをこの世の誰よりも軽蔑する。
それでいいのかと、シレンは静かに問うていた。
「……でも」
ゆっくりと両手を降ろして、食蜂は呟くように言った。
視線を地面に落として、シレンの視線から逃げるように。
「でも、もしも失敗してしまったら? 私には、
「──では、正しいのならアナタはその恋を諦められるのですか?」
返す刀で。
シレンではなく、レイシアから放たれたその言葉に、食蜂は呼吸を忘れた。
「ここで当麻の為に立ち上がらないということは、わたくし達が彼を救う姿を横目に黙って突っ立っているということは、そういうことです。恋のヒロインというのは、ただ待っているだけの女には与えられない称号ですわ。愛する男が苦しんでいるなら、救ってあげなければいけないなら、くだらない『正しさ』になんて唾を吐いてでも男の為に立ち上がれなければ、そいつにはもうヒロインを名乗る資格なんてありません!! ヒロイン気取りの勘違い女になりたくなければ、正しくなくても、たとえ悪役に成り下がってでも、なりふり構わず愛した男の為に立ち上がりなさい!! どんな苦難にでも飛び込んでいく気概がない女には、『
世界全てを敵に回すような不敵さで。
レイシア=ブラックガードは、言う。
「……本当なら、泣きながら感謝してほしいくらいなのですわ。わたくしはさっさと当麻を救う為に動きたかったのに、どっかの脳味噌お花畑ハーレム要員A志望女がわざわざ敵に塩を送るような真似を……、」「レイシアちゃん。いいですから」
照れ隠しのようなレイシアの台詞を断ち切って、シレンは食蜂のことを静かに見下ろした。
手は、差し伸べられなかった。
この物語は、食蜂操祈が自分で立ち上がれなければ意味がない。
「…………知った風に、言ってくれるわねぇ……」
ぽつり、と。
蜂蜜色の少女の口から、そんな言葉が漏れた。
種火のような呟きは、すぐさま感情に燃え移って一つの業火となる。
「諦められる、訳がないでしょうがぁ!! その程度の意思力で、私の感情を勝手に説明するんじゃないわよぉ!!!!」
立ち上がり、シレンの胸倉に掴みかかる食蜂。
対するシレンは、ぱっと食蜂の手を払ってしまう。
「それなら、いいんですわ。…………当麻さんを、お願いします」
そう言われて、食蜂はようやく自分が『託された』のだと実感した。
……本当は、シレンだってレイシアだって──いや、今このやりとりを黙って見守っていたインデックスだって、上条の為にいち早く動きたかったはずなのだ。
まして、彼女達には実際に彼を救う為のヴィジョンが見えている。だが、実際にそれをしてしまえば、一人の少女の恋心を致命的に殺してしまうことを理解していた。だから、本当は手早く全てが終わる方へ向かいたかったにも拘らず、食蜂の為の選択肢を残してくれていた。
あまつさえ一歩踏み出す勇気が持てなかった食蜂のことを、激励してくれた。
「………………ごめんなさい。それと、…………ありがとう」
それだけ言って、食蜂はもう一度上条の傍に立ち、そして屈みこむ。
「代わりに、絶対に救ってみせるわ」
たとえこの後、自分と彼の関係性が永久に潰えてしまうとしても。
この身に刻んだあらゆる強者の証にかけて、絶対に救ってみせると誓う。
脂汗を浮かべるツンツン頭の少年の髪を軽く撫ぜて、それからリモコンをそのこめかみへと当てた。
そして、たった一言、祈る様に呟く。
「私は、奇跡に相応しい女」
ふわり、と。
一瞬、食蜂は自分が抱きしめられたことに反応が遅れてしまった。
気付けば、自分に折り重なるようにして、単語帳のようなページで全身を覆った『原典』オリアナ=トムソンが屈み込んでいる。
「な……、」
声を上げたのは、事態を見守っていたインデックスやレイシアの方だった。
それもそのはず。オリアナ=トムソンの柔らかな身体の各部は、無数のページとなってぼろぼろと崩れ始めていたのだから。
「いやぁ、あはは。お姉さん、もともと不安定な『原典』もどきの集合体だったからね。そもそも、使い捨て。魔術を発動したら自壊するようなシロモノだから、どのみち先は長くなかったんだけど──どうやらもう限界みたいで」
「そん、な……! な、なら、インデックスにどうにか……、」
「仮に写本として組み立てられたとしても、それは厳密な意味でお姉さんじゃない。機能は同じかもしれないけれど、こうしてお姉さんが積み重ねた経験まで継承できるわけじゃないよ」
オリアナはふんわりと笑って、レイシアのことを嗜める。
しかしその表情に、悲壮感はなかった。むしろそうすることで、一つの希望が生まれるような──そんな清々しい笑みだった。
考えてみれば、当然だった。
そもそも
「それでね。どうせもうすぐ機能停止するなら、最後の最後に、
蜂蜜色の少女に寄り添いながら、『原典』は──いや、誰かの為に何かをしたかった魔術師の成れの果ては、穏やかに笑う。
「『基準点』が欲しかった」
それが、ある魔術師の根源。全ての動機の、中心核。
どこか懐かしむような色すら持ちながら、オリアナ=トムソンと同じ心を持つ『原典』は言った。
「でもきっと、『基準点』は最初からこの胸の奥にあった。お姉さんは、それが正しいと胸を張れる自信が欲しかったんだわ。本当は、正しさなんて関係なかったのにね。……正しくなくても、間違っていても、そんなことは関係ない。たとえ世界全てを敵に回しても、心のままに手を伸ばせばよかったんだわ」
だから、とオリアナは告げる。
聖者に加護を授ける天使のような神々しさで、蜂蜜色の少女に言う。
「私を構成する全ての役立たずの叡智を集結させて、アナタにちょっとだけ『プレゼント』。……これが、『
バラバラと崩れるオリアナの身体から、優しい光が漏れていく。
「……ブラックガード嬢。上条の右手を切り離せ。このままだと、オリアナの『奇跡』が……、」
「ううん、大丈夫なんだよ。加護の対象は、あくまでも長髪。とうまの右手は、この幻想を殺さない」
微笑む様に、インデックスは断言した。
「誰かの幸せ……を……自分の幸せのように……祈るアナタだからこそ、アナタの望む奇跡は……きっと……起こる。世界は……色々と残酷な……巡り合わせも……多いけれど。……それでも……その純粋な幻想が報われない程……この世は……どうしようもなくなんて…………ない」
それは、一度は世界に絶望したはずの魔術師が辿り着いた、一つの救い。それが、彼女の最期の言葉となった。
満足気に笑いながら、一冊の『原典』は紙と光の塊へと還っていく。
一人の魔術師が、彼女の得た答えをしっかりと見届けたのを感じながら。
その瞬間だった。
ドッパァァァァアアアアアン!!!! と。
研究所の外壁をぶち破って救急車が突撃してきたのは。
紫電を迸らせながら何故か空中浮遊しているリニア走行式救急車がゆっくりと着陸すると、その上から一人の少女が降り立った。
ナース服に身を包んだ茶髪の少女は、ぽかんとしている一同を一瞥して、呆れながらこう言った。
「あーら、揃い踏みって訳? 仲間外れなんて水臭いじゃない」
第三位の少女──御坂美琴。
どういうわけかナース服に身を包んだ彼女は、しんみりとした雰囲気を吹き飛ばすように不敵な笑みを浮かべた。
「……はぁ、少しは老体に気を遣ってもらいたいんだけどね? 音速で飛行する救急車に乗ったのは流石に初めての経験だよ?」
「ちょっと吐きそうでした、とミサカは愛する少年の一大事に過去最高スペックを発揮したお姉様の本気具合に呆れながら車外に這い出ます」
そして、第三位だけではなかった。
無事に着陸した救急車の中から、老年の医者──
おそらく、ナース服は
で、色々と準備を始めているカエル顔の医者の横で、美琴は携帯を取り出しながら言う。
「馬場ってヤツがね。レイシアと通信が途絶えたから、万が一ってこともあるとか言って、連絡をくれたのよ。で、指示に従って治療の準備をしたわけ。……どうやらこの様子を見ると、来て正解だったみたいね」
「馬場さん……!」
『勝手に感じ入るなよ。後詰として当然のサポートをしただけだ。……結局途中でリタイヤしたんだから、このくらいの仕事はしないと給料をもらうのに後味が悪すぎる』
「馬場さん……!!」
向こうでは御令嬢と暗部(笑)が勝手にパートナーの信頼関係を確かめあっているようだが、ともあれ状況は一変した。
電源替わりの美琴と御坂妹のサポートがありつつ、
その様子をぼうっと見ながら、食蜂は静かにこう思った。
(…………ああ、奇跡って、本当にあるんだなぁ)
そして、翌日。
無事に緊急搬送された上条だったが、失血こそ多かったものの、完璧な止血とショック症状の緩和、それと非常に迅速かつ完璧な応急処置の甲斐あって──それと本人の類稀なる頑丈さもあって──その日の夜には一般病棟に移っていた。
放課後。
そんな少年の病室に、常盤台が誇る三人の超絶エリート娘は揃ってお見舞いにやってきていたのだった。
「当麻さん? いらっしゃいますかー?」
もはや慣れすら感じさせる動きで、レイシアが病室の扉を開ける。なんだかんだで魔術絡みの事件で怪我をすることも多い上条なので、レイシアもちょこちょこお見舞いに行くことは多いのだった。
「あ、レイシア! 短髪! 長髪! いらっしゃい!」
ガララ、と扉を開けると、そこにはベッドに横たわって林檎を剥いている上条と、それをワクワクした表情で待つインデックスの姿があった。
…………関係性が逆じゃないかと思うかもしれないが、気にしてはいけない。彼らにとってはこれが通常値なのだから。
するりと近寄って自然な流れで上条から包丁と林檎を受け取ったレイシアと、その後ろに立つ二人の少女に対して、上条は右手を挙げながら言う。
「よう、お互い何とか生き残ったな。あと、御坂も最後の方に駆けつけてくれたんだって? 俺はダウンしてて知らなかったけど、ありがとな。お陰で助かったよ」
「そうよ! アンタ、私のことを除け者にして! 今度はちゃんと最初っから呼びなさいよね」
「ふふん。短髪もこれで少しは私の気持ちが分かったんじゃないの? これに懲りたら、短髪がとうまと一緒のときは私を呼ぶんだよ!」
「いや、そもそも私アンタの番号知らないし……」
少し困ったようにして頬をかきながら、丸椅子に座る美琴。
既に丸椅子に座って林檎を剥き始めているレイシアもそれに苦笑しながら、
「でも、今回は色々とタイミングが悪かったんですもの。次があったらちゃんと頼りますから、許してくださいな」
「……私の方は、迷惑力をかけちゃって……ごめんなさい」
丸椅子に座る二人の後ろで、食蜂は静かに頭を下げた。
今回のことは、食蜂がワガママを言って上条と二人の時間を作ってもらったときに起きた。
上条が負傷したのも、食蜂が躓いたときの隙を庇う為だった。
だから、上条がここまでの重傷を負ったのも、もとをただせば食蜂の責任だ。
もう、そんなことすら上条は思い出せないのだろうけど。
たとえ理解してもらえなくとも、頭を下げたい。謝りたい。その為に、食蜂は今日やってきたのだった。
「何言ってんだ馬鹿。迷惑な訳ねえだろ。……っつーか、あの時は結局守ってやれなかったわけだからな。お前だって怖い思いをしたんだろ。そんなに自分を悪者にすることねえだろうが」
「……というか、正直なところ今回は結局わたくし絡みの事件で、皆さんは巻き込まれたような形にあるわけでして……。事件の原因云々という話になると、一番頭を下げないといけないのはわたくしということに……」
むしろ心外だと言わんばかりに言う上条に、苦笑するレイシア。
そこまでは、まるで慣性のようなやりとりだった。
その後。
世界が、止まった。
いや、実際に止まったわけではない。
その場を構成する人間の思考が停止したことで、会話という世界の流れが完全に停止せざるを得なかった。
「……………………え?」
一言。
蜂蜜色の少女が、茫然と呟きを漏らした。
今の会話は、本来は絶対にありえないはずだった。
だってそうだろう。上条当麻は、一人の少女のことを思い出すことができない。記憶の呼び出し経路が物理的に破損してしまったことで、彼は事件のことは記憶していても、その中心にいたはずの蜂蜜色の少女のことだけは絶対に思い出せないはずだった。
はずだったのに。
「か、上条……さん……? 今……今、なんて……?」
「あん? いや、守ってやれなくて済まなかったなって……」
「そうじゃなくて!! どうして、私のことを思い出せているの!?」
「は? え?」
殆ど掴みかかるような剣幕の食蜂に、上条はただ目を白黒させてしまう。そして彼女の事情を知るレイシア、インデックス、美琴の三人も、信じられないものを見たかのように茫然としていた。
そんな少年少女たちのところに、一つの声。
「人の脳髄というのは不思議なものでね?」
カエル顔の医者は、朗らかな微笑をたたえながら、当惑する少女たちに言う。
彼が抱えている患者の重荷が一つ下りたことを、心から喜びながら。
「何らかの事情で記憶の回路が繋がらなくなってしまうこともあれば、反対に何かの拍子に途絶えていた回路が再び繋がることだってある。……今回の事象に無理やり理屈をつけるなら、
それから、世界一の名医は、いささか医術を司るプロフェッショナルには相応しくない言葉を続けた。
即ち。
『奇蹟だよ』、と。