【完結】とある再起の悪役令嬢(ヴィレイネス) 作:家葉 テイク
その一言は、かつて上条当麻が膝を屈した言葉だった。
『死にたい』──そう望む言葉を乗り越える為の方法を、その時の上条当麻は知らなかった。
もしも
そして死を望むドッペルゲンガーのことも、上条当麻は救うことができなかった。
だがあの夜、たった一人だけそうではない人間がいた。
誰もが死を望むその言葉にあらゆる救いを諦めた中で、その奥に潜んだ苦しみに共感できた少女がいた。
レイシア=ブラックガードはあの瞬間、『死にたい』という思いの裏に隠された苦悩と本当の望みを看破してみせた。
だから、上条当麻もその言葉を聞いて、考えることができた。
『不幸』によって己の行動の結果、誰かの事を苦しめてしまうことの辛さ。己に降り注ぐだけならまだよかった。自分がババを引くだけなら、それは自分が呑み込めばいいだけの話で、そんな『不幸』は上条にはいくらでも経験がある。
でも、その『不幸』が誰かを巻き添えにしてしまうとしたら?
考えるだけで、上条は怖気が走ると思った。そんなことになるくらいなら消えてしまいたい。そんな発想になる自分がいることを、上条は自覚していた。
……意外かもしれないが、上条当麻にはそういう節がある。
ほんの数ヶ月しか記憶を持たない透明な少年は、その短い人生で多くの人を救う道を歩み、そうして自分の人格を作り上げてきたから。そうして人の輪を広げていくことで、アイデンティティを少しずつ積み重ねてきたから。
だから上条当麻は、誰かを『不幸』の巻き添えにすることに耐えられないという気持ちが、分かってしまう。その苦しみを否定することが、できない。もしも己の『不幸』で自分の傍にいる人たちを苦しめてしまうくらいなら──いっそ自分は身を引いた方がいい、そう思わないと言ったら、それは嘘になる。
…………いや、本当に、
「……違うよな。ああ、そうだ。そんなんじゃねえ。そんな甘ったれたこと言ってたら、あの後輩に叱られちまうだろうが」
上条は、少しだけ笑った。
脳裏に浮かぶのは、遠慮がちに微笑む金髪の少女と、呆れて肩を竦める金髪の少女。
上条当麻はあの夜、教えてもらった。もっともらしい自己犠牲の奥底には、案外本当の望みが潜んでいる、という事実を。
そしてそれは、自分だって例外ではないということを。
「自分のせいで誰かを苦しめるのが辛いから、いっそ自分から消えてしまいたい。そうじゃねえ。そこじゃねえだろ、オリアナ=トムソン」
「……、」
上条の言葉に淀みはなかった。
『不幸』。その言葉をの意味を実感として知るからこそ、上条当麻は迷いなく言葉を紡げる。
「
上条当麻は、脇腹を抑えながら一歩踏み出す。
もう立っていることすら難しいほどの重傷であるはずなのに、上条当麻の足取りには不思議な力が宿っていた。
──実際、もしもオリアナ=トムソンが本当に善意から誰かを救いたいだけなら、ちぐはぐではあるのだ。
もしも善意が裏目に出続けてしまうのが辛い
そうはならず、善意が報われる『基準』を望むということは、どういうことか。
善意を
つまり、オリアナ=トムソンはそういう生き方しかできないということ。
誰かに善意を向け、誰かを救うことで、己の存在を承認してもらう。そういう生き方しかできなくて──だから、誰かを救おうとした結果誰かを苦しめたら、己自身が己の存在を承認できなくなってしまう。
その透明な生き方は──上条には、とても心当たりのある生き方だった。
でも、違うのだ。
きっとオリアナと上条では、そう思うに至った道筋は全く異なる。だが、結論としては同じはずだ。
誰かに、生きることを認めてもらいたい。
どこまでも透明で、生きることに寄る辺のない中で、それでも自分が生きる為に必死で少ない持ち物を積み上げてきた──そんな人生の根幹にある望みは、それだ。
「確かに」
同じ歪みを抱えた相手だからこそ。
上条当麻は、断言する。それがどれほど痛みを伴う言葉だろうと、ほかならぬ彼だからこそはっきりと言い切れる。
「確かにお前はこれまで何度も失敗してきたのかもしれない。どうやったって誰かを苦しめてしまう、そんな『不幸』な巡り合わせがあって、それでも誰かを救うことで自分を認める、そんな生き方しか選べなかったのかもしれない!!」
それはまるで、上条と鏡映しの存在。
誰かを救うことによって人の輪を広げ、それによって自分は此処にいていいんだと思えるようになった上条当麻と、対極の境遇。
あるいは、上条当麻がそうなるかもしれなかったIFの未来。
そんな袋小路に追い込まれてしまった女に対して、それでも成功者たる上条は言う。
本来の彼では言うことのできなかった、決定的な一言を。
「でもそれは、
正しい歴史において、上条当麻は概ね一人で戦っていた。
たまたま目につく場所で誰かが涙を堪えていて、そういったものが許せなくて拳を握ってきた。あくまでも彼自身の自己満足であって、彼の戦いは誰かと共に立ち向かう性質のものではなかった。
だが、この歴史では違う。
とある令嬢の介入によって歪んだ世界では、上条当麻は一人ではなかった。
もはや記憶からは失われてしまったあの夜、インデックスを救ったとき、傍らには一人の少女がいた。
とある少年の死で苦しませたくないと願ったのは、シスターだけではなかった。
最悪な実験から一人の少女を救う為に、上条だけではなく二人の少女も立ち上がった。
妹達を本当に自分の手で救った姉。自分と同じように犠牲になる少女を見捨てられなかった令嬢。拳を握るのは自分だけではないと知った。
自己満足で自分から消えようとした馬鹿な女の目を覚まさせたとき、上条はただの脇役でしかなかった。
その後の物語も、そうだった。
そこにある悲劇に対して拳を握って立ち向かったのは、決して上条当麻だけではなかった。上条当麻は、一人なんかではなかった。
そういう歴史を通ってきた上条当麻は、本来の歴史ではまだ実感していない一つの真実を既に確信している。
何も困難に立ち向かうのに、たった一人である必要なんかないのだと。誰かと共に戦うことは、誰かを自分のエゴに巻き込むことは、必ずしも悪にはならないのだと。
「だったら、そこで『不幸』なんかに負けてんじゃねえ。そんなちっぽけなモンに押し潰されて、自分の生き方を勝手に諦めて、心の奥底にある本当の望みから目を背けてんじゃねえぞ、オリアナ=トムソン!! テメェの幻想は、そんな安いモノじゃねえだろうが!!」
叫ぶ上条に、しかしオリアナは退かなかった。
彼の激情を上回るように、『原典』の女は叫ぶ。
「知った風な口を利かないで!! 今更許されるわけがないでしょう!? ええそうよ。お姉さんは誰かを救うことで、きっと誰かに認められたかった! でもこんなことになって、『原典』としての機能でみんなが救われる唯一の道すら阻む障壁になってしまって……こんなのもう、どうしようもないでしょ!? こんなことまでやってしまっておいて、自分が救われたいなんて虫の良い話はあっちゃいけない!!!!」
「ああ、分かったよ」
切実な叫びに、上条は穏やかに頷いた。
IFの自分。だからこそ、上条はその苦悩に共感できる。だがそれでも、上条の言葉は決まっていた。
「もしもテメェがそうやって、自分に絶望しかできないんなら。本当の望みを最初から自分で否定しちまうっていうんなら。────まずは、そのふざけた幻想をぶち殺す!!!!」
「はぁ、とうまは分かっているのかな」
拳を握って立つ上条を、横で支える陰があった。
真っ白い修道服に身を包んだインデックスは、大きな口を叩いておいて今にも倒れそうな少年のことを、両手で以て支える。
「そもそも、とうまの右手であの人に触れたらその時点で存在が消えてしまうんだよ? そんな状況で彼女のことを無力化して救う為には、どう考えたってとうま一人じゃ無理なのに。勝手に話を進めちゃうなんて」
「……ああ、悪いな」
きっと本来の歴史にいる上条当麻なら、そんなのは自分のエゴだから、巻き込むつもりはない。たとえ無謀だって自分一人で目の前の馬鹿を救う方法を見つけてみせる──そんな風に言っていただろう。
実際に彼が歩んだ道のりは、そうやって自分のエゴの歪みを誰にも押し付けずに歩んできた道のりだった。
だが。
「……でも、ちょっと嬉しい。とうまがそうやって私のことを頼ってくれたことが」
インデックスは笑う。そしてその笑みを、上条は意外に思うことなく受け入れることができていた。
「救おう、オリアナ=トムソンを。そうする為の方法は、きっと残されている」
「……フフ、お姉さんを『読む』つもりかしら? 確かに一〇万三〇〇〇冊の魔道書を持つアナタなら最初に思いつきそうね、お姉さんを読むことで『読者』となり、自動防衛システムを解除するという作戦は」
でも無理よ、とオリアナは自嘲するように笑った。
「お姉さんの魔道書はね、お姉さん以外には誰にも読めないの。暗号がどうのという話じゃない。根本的な問題として、お姉さんの書く魔道書はどう頑張っても記述が散逸して文字が汚くて、他人に読ませるどころか魔道書として安定することすらできない欠陥品だった」
それでも活用する為に試行錯誤した結果が、
ありとあらゆる暗号記述を読み解けるインデックスだが、そもそも読ませることを目的としていないものまで読み解ける道理はない。だから『原典』オリアナ=トムソンの読者は、今はもはや廃人と化しているオリアナ=トムソン本人以外にあり得ない。
「──本当に?」
だがそれは、自分に絶望した人間の諦めから来た見解だ。
確かに現時点ではそうかもしれない。『原典』オリアナ=トムソンを見てインデックスは一目で記述を看破して現状の問題を解決できる──そんな分かりやすい結論はない。
でも、本当にオリアナ=トムソンは魔道図書館の叡智を結集させても救えない程に『どうしようもない』のか?
答えは、『試してみなければ分からない』だ。
「とうま」
「ああ」
インデックスに呼びかけられて、上条は拳をぱしっと掌で受け止めるようにして気合いを入れる。
要救助者を担いだメイド服姿のショチトルと、十字架を担いだ那由他の助力は正直言って見込めない。ここでオリアナの攻撃を主体的に受け止められるのは、上条しかいなかった。
「見せてみて、アナタの叡智を。私の脳に所蔵された一〇万三〇〇〇冊の叡智にかけて、私はアナタを
「そう」
言葉の応酬は、そこまでだった。
オリアナの周囲を渦巻く四原色の竜巻が、急速に拡大していった。
「それなら精々頑張って。あっさり限界を迎えちゃわないでよね!!」
そして、『原典』の術式がたった一人の少年に牙を剥いた。
『原典』となったオリアナ=トムソンの術式は、人間時のそれとは微妙にかけ離れている。色と文字、角度や数字を用いた魔術──いわゆるカバラや数秘術の領域の術式を使うのは同じだが、彼女は用意されたものを使い捨てるのではなく、無数のページを組み合わせてその場その場に応じた術式を『構築』する。
ゆえに、『原典』という完成されたシステムでありながら変幻自在。炎を出した次の瞬間には水を出すといった、通常の魔術師であればありえない柔軟な戦法を選択することができる。
しかも正しい歴史で上条と相対したときのオリアナのように、『同じ方向から二度続けて攻撃は来ない』というような
それどころか。
「水属性と火属性、相反する魔術を同時に行使……だと……!?」
ショチトルが、驚愕の声を漏らす。
通常の魔術師であれば、何らかのエピソードを介さない限りは不可能な領域を、『原典』オリアナは特別な理屈もなしに成立させていた。
「無駄だ!!」
しかし上条はそれを、あえて右手で全てを弾くのではなく、弾いた水で火属性の魔術を相殺させるように器用に消していく。
続いて放たれた風の
脇腹の負傷によって明らかに身体パフォーマンスは落ちているにも関わらず、上条はそんな自分の状況を省みて、なるべく負担をかけない動きで戦っていた。
「……分かりやすい攻撃は効果が薄そうね。なら……」
直後、地面を稲妻が走った。
稲妻が上条の足を絡めとると、突然上条の喉が石のように固まり呼吸ができなくなる。
右手で喉に触れるが、しかし効果は一切改善しない。
「とうま!! 術式の起点は喉じゃなくて、足の方だよ!!」
「…………グッ!!」
言われて、上条が屈んで足に触れると、本当に呼吸が元通りに戻った。
しかしそうやって屈んで体勢を崩したところに、今度は横薙ぎの暴風が襲い掛かる。上条は慌てて横に転がってその攻撃を回避するが──しかし無茶な動きは、脇腹の傷を痛める。
顔を顰める上条に、オリアナは落ち着き払って口を開いた。
「無駄はどちらかしら? 今はあくまでも拮抗しているけど、アナタの傷口はもう開いているわよね? 徐々に体力は削れている。対する『原典』のお姉さんにスタミナ切れはない。アナタはお嬢ちゃんの解析を待っているようだけど、本当に間に合うのかしら? その前にアナタが力尽きてしまえば、その時は本当におしまいなのよ?」
「分かってねえな」
降伏勧告を出すようなオリアナに、上条は牙を剥くような不敵な笑みを浮かべる。
「ここまで一体どれだけの術式を使ってきた? 今だって、インデックスはお前の術式を看破したぞ」
「それがお姉さんの全てだとでも? 無数のページに刻まれた基本的な術式を組み合わせたお姉さんの術式のバリエーションは、それこそ一〇万なんてスケールではたりていないんだよ?」
ただでさえ解読の難しい記述に、膨大なバリエーション。
しかも当の本人は、既存の読者を守る為に戦闘行動をとってくる。こんな状況では『読む』ことすら覚束ない。
「──『補遺。地を走り窒息を齎す稲妻は、属性にして地と風、数価にして七八、方角にして西を意味する』」
ぴたり、と。
そこで、オリアナの周囲を渦巻く四原色の竜巻が動きを止めた。
いや。
ほかならぬオリアナ自身が、止めざるを得なかった。
「…………なにを、言って……?」
「うん。確かにアナタの
インデックスの手には──メモ帳が握られていた。
「『副読本』。魔道書の中には写本や偽典といったものがあるけど、そういった手法とは別ベクトルの努力として、魔道書を読むための助けに別の書物を用意することだってあるんだよ」
そしてそれは当然、魔道書を読む為の真っ当な努力である。
実際に発生した術式を読み解き、その読解を助ける為の解釈をメモする行為。それは、ある意味では、他者には読み解けない記述をそのままにしておくよりも、よほど『読者を増やす』行為と言えるかもしれない。
つまり。
ここに至り、インデックスはオリアナ=トムソン本人よりも『原典』にとって有益な読者だと認められる素地を得た。
上条が読者オリアナと原典オリアナのつながりを破壊したとしても、読者は失われない。むしろインデックスに協力することが、『原典』としては有益だと判断できる。
攻撃する理由が、失われる。
「…………いいの?」
その事実を前に、オリアナはそれでも不安そうに尋ねた。
まるで寒さに震える少女のように、押し潰されそうな不安の重さに圧し掛かられながら。
「お姉さんは、これまでいろんな人を不幸に巻き込んできた。アナタ達も。……そんな存在が今更こんな風に救われてしまって……本当にいいの?」
対する上条は、その言葉を聞いてゆっくり笑って、そしてその場に座り込んでこう答えた。
まるで答えることすら馬鹿馬鹿しい、とでも言いたげに。
「当たり前だろ。その為に俺達は戦ったんだから」
そうして一つの幻想が救われ。
研究所を覆う悲劇の結界は、完膚なきまでに殺された。