「……」
小説のページをめくる。
文字列を読み、またページをめくる。
「……」
まためくり、文字列を読む。まためくって、また読む。……今日は、やたら本の内容が頭に入ってくるな……。
「……まぁ、静かだからなんだけどな」
俺は今奉仕部の部室にいる。が、いつも姦しい会話の声に溢れているこの部室は、今までにないほど静寂に支配されていた。
……まぁ、部室に俺しかいなからなんですけどね。
今日は珍しく雪ノ下が先生に用事があるとかなんとかでしばらく遅れるらしく、由比ヶ浜も三浦グループの付き合いがあるそうで、今日は俺が部室の鍵を開けこの部活を仕切っているのだ。
「……と言っても、誰も来ないんだけどな……」
この部活に依頼者が来ることなど滅多にない。もうこれ俺帰ってよくない?ずっと一人で本読んでるだけなら家に帰ったほうが良いんですけど。ダメ?
ダメですね。氷の女王さんが帰ってきたときに殺されますね。
そんなわけで、俺はこの静かな空間で、本で暇を紛らわしながら過ごさなきゃいけないわけだが……。
「……眠い……」
なんだろう、すごく眠い。
昨日はそこまで夜更かしをしたわけでもないはずだが、何故だかやたら眠かった。
(静かなこの部屋と、日差しがそうさせるのかもな……)
気付いたところでもう遅く、俺の首はガックンガックン揺らめきだし、思考は徐々に薄らいでいく。
せめて頭を打たないように肘をついた手で頭を受け止め、俺は意識を手放したーーーーーーーー。
× × ×
「おっはようございまーす!……って、あれ?誰もいない……?」
私、一色いろははいつものように奉仕部の方々に仕事を押し付け……もとい、仕事を手伝ってもらうために今日もこの部屋に来たのですが……、いつもは冷たい言葉を言いながらもなんだかんだですぐお茶を淹れてくれる雪ノ下先輩や、明るい声で意味がよくわからない挨拶をしてくれる結衣先輩が見当たりません。
「……?」
不思議に思ってキョロキョロしながら部屋に入ると、すぐに先輩が視界に入りました。
捻くれた言い方で私を責めながら、なんだかんだていつも私を助けてくれる優しい先輩が。
「あれー?なんで先輩しかいないんですかー?」
「……」
「……え、無視?」
ちょっとショックを受けちゃったけど、横に回り込んだらすぐ分かりました。
この人、居眠りしちゃってます。
「……」
「……ほぉー……。せ、先輩の、寝顔……」
静かに寝息を立てるこの人は、まるで別人のようにかっこいい顔をしています。……ほんとに顔はいいんですけどねぇ。顔は。何故目とか性根とかあんな感じになってしまったんでしょうか……。
「……ふふ、先輩の寝顔、結構可愛いかも」
先輩の寝顔を見ているとなんだか胸が暖かくなって、……それがなんだか無性に照れ臭くて、誤魔化すように私は先輩の頬っぺたをプニプニとつついた。
「……お、おぉ……。これは……」
流石に先輩もただの男子高校生ですから、柔らか卵肌とはいきません。しかし何故でしょう、なんだか癖になる感触と言いますか、指が離れないと言いますか……。
「……」
ぷにぷにぷに……。
「…………」
ぷにぷにぷにぷに……。
「……ぷっ、先輩全然起きない……」
こんなに突かれてるのに寝苦しそうな様子一つ見せない先輩。
段々私も調子に乗ってきて、もっと激しい行為もし始めてしまいます。
「ほれほれー、両手百つつきだー。いつもあざといあざとい言いやがってぇー」
両手でまた先輩を優しくつついたり。
「ぐーにぐーに。……ぷっはは、変な顔!」
頬っぺたをつまんで引っ張ってみたり。
でも、先輩は全く起きません。
……これはこれでなんかつまんないですね。
「せんぱーい、起きないとイタズラしちゃいますよー」
古典的な漫画みたいな台詞を、先輩の耳元で言ってみる。が、反応なし。結構深めの眠りのようです。
「……ふーっ」
ちょっと思いついて耳に息を優しく吹きかけてみました。
「……っ」
「あ、反応した!……先輩、耳弱いのかなぁ……?……ぐっふっふ、……よぉし……!」
私は悪い笑顔を浮かべ、そっと先輩の耳たぶをつまんで広げます。
そして先輩の耳の穴に唇をロックオン。
鼻から息を深く吸い込んで……。
「……ふーっ……。ふぅーーーっ………」
一回目は空気を短く送り込むように、二回目は長く長く弱い風を耳の穴に注ぎ込むように息を吐きます。
すると、寝ながらでもくすぐったいのか、先輩がちょっとビクンっとしながら身をよじります。
……どっちかって言えば、弱い風を長く送られる方が弱いのかな?
「……よし、じゃあ、もう一回やりますよぉ……?ふふっ」
私はまた悪い笑顔を浮かべると、深く深く、息を吸い込むのでした。
「……ふぅーーーーーー…………」
× × ×
……っていうか、何回か先輩の耳に息を吹きかけてから気づきましたけど。
今、私と先輩の顔超近くないですか?
(……わ、わた、わたたたた……!?)
し、しまった!全然気づかなかった!ひょっとしたらこの位置、少し間違えれば、その、キ……チュー、とか、できちゃう距離じゃないですか!?
ていうか冷静に考えて、耳ふーとか下手なキスより恥ずかしくないですか!?
……て!キスって言っちゃったよもうダメだ凄い意識しちゃってダメだもう無理ムリムリ!
(せ、先輩……今、凄く無防備……。今なら……私がちょっとくらい変な事しても……バレないんじゃ……?)
……って、ダメダメ!私と先輩は……その、そういう関係じゃないから!!
ちょっとのイタズラとかなら許容できる関係かもしれないけど、『そういう』イタズラはダメな間柄だから!!
(……でも、こんなに近くに先輩がいたら、……へ、変になっちゃう……。変な気持ちになっちゃうよぉ……!)
だ、だめだ。
これは本格的にだめだ。
これ以上先輩のそばにいたら本当に自分が何をしてしまうのかわからない。
(い、一旦離れよう……!そうしよう……!)
そう。一度離れて、深呼吸でもして冷静になりましょう。
大丈夫です。私は恋愛脳に見せかけて結構クレバーな女なのです。百戦錬磨なのです。
とりあえず、先輩の寝顔から目を逸らして席を離して……。
そう、先輩の、寝顔……。
寝顔……。
「……」
「……すー……すー……」
「……………」
「……すー……」
「……………………」
……って!
何をしてるんですか私は!離れなきゃ!早くこの人から離れなきゃ!
ええいもう強硬手段です!目をギュッと閉じて先輩の寝顔を視界から追い出せば……!
と、私が目を閉じて後ろに下がろうとした瞬間……。
「……一色……」
「…………はぇ?」
空気に溶けるような、小さな声が聞こえてきました。
……えっなんですか今の寝言ですか寝言で私の名前がなんで出てくるんですかどういう事なんですかいやもうダメ無理だってこんな嬉しいっていや違くて恥ずかしあぁもうそういうんじゃなくてもうなんでこんな時に限ってもう全くこの人はまったくもうーーーーーー!!!
「あ、あばばばばば……!?」
最早私は軽いパニックです。
クレバー?知るかよそんな言葉日本語でOKです。
おおおおお落ち着け落ち着くのよいろはまだ慌てるような時間じゃあわわわわわわわわわわ。
「……そのデザートは奢らんぞ……」
また先輩が寝言を呟きます。
デザート?奢る!?私に!?
なんですか今先輩は夢の中で私とデートでもしてるんですかちょっと夢の中でデートして恋人気分とか奥手過ぎて引くので勇気を出してちゃんと誘ってください絶対行きますんでごめんなさい!
……って、私は一人で何してんだか。
「……もう、寝てても先輩はイジワルなんですからぁ……」
顔が熱くて、胸も熱くて、身体中がポカポカしてて、なんだかポーっとしてきました。
何もかも先輩のせいです。先輩が悪いんです。起きたら責任持って放課後遊びに連れて行ってもらいます。そうします。
……今日は、スイーツ奢ってもらおっと。
× × ×
一周回って吹っ切れた私は、もう先輩から無理に離れようとせず、しかしまたあそこまで至近距離に顔を近づけるのも恥ずかしいので、そこそこの距離を持って先輩の寝顔をジーっと見ていました。
そう。ただ、ジーっと見ていただけです。……それだけの事なのに、何故だかどんなクラスメイトと遊ぶのより、どんな本を読むのより、暇が紛れる気がしてきます。
「……やっぱり普通にしてればかっこいいのになぁ……」
やはりネックになるのはあの腐りきった目でしょうか。まぁ、あれのお陰で変な虫が寄ってこないという利点はありますが。それにしたって先輩にはもうちょっと見た目に気を使ってほしいです。使って然るべきです。
……伊達眼鏡とか似合うかな?
「……でもなー……。変にかっこよくなられてもなー……。モテモテの先輩とかちょっと違うしー……」
……いやまぁ、『モテモテ』という部分ではもう手遅れという意見もあるかもしれませんが、この人は一応普通の人相手ではどう頑張ってもモテないタイプの人なので、とりあえずはこれ以上ライバルが増えたりはしない筈です。
……と言っても、その『数少ない普通じゃない人』が、レベル高すぎなんですけど。
「なんですか……。先輩は美少女からしか惚れられない呪いでもかかってるんですかー……」
なんだかムカついてきて、また頬っぺたをプニプニとつついてみる。
あどけない寝顔が更に可愛くなって、ちょっとだけ溜飲が下がった。
「……ま、私はあくまで葉山先輩狙いですし。先輩がいくらモテようがどうでもいいですし……」
もうとっくのとうに心にもなくなった台詞を独り言で漏らして、ちょっと強めに先輩の頬をぐっと押した。
……今思うと、それがいけなかった。
「……ぐぅ……」
「……って、あっ、やば……!?」
指で押された先輩の顔が傾いて、頬杖からグラリと落ちそうになります。
このままでは頭を打ってしまう……!
「……っとぉ!」
私は大急ぎで手を伸ばし、先輩の頭をキャッチしました。
しかし……。
「に、人間の頭……おもっ!」
頭の重さに腕が耐えきれません。ぐぅ……!と、とりあえず、頭を支える方の腕の肘をついて安定させて、それからゆっくり机に頭を置けば……!
そう思って、一先ず片肘だけを机に置きます。
自然、私の姿勢は前のめりになり、横に覗き込むような形に。
そして目の前には、私の手に支えられた先輩の顔が……。
「ーーーーーーーーーーっ!?」
ち、ちちちちち近いっ!?
で、でも、まさか先輩の頭を放り投げるわけにもいかないしっ!って、っていうかもう……!
(こ、こんなに近くて……!せんぱいっ、の、唇がぁ……!?)
先輩の口と私の口が、もうすぐ数センチのところにありました。
私が少し前に顔を動かすだけで、あるいは先輩の顔を支える腕を少し動かすだけで。
私と、先輩の唇は……。
「……」
「……」
「……せ、先輩。起きてください。せんぱい、お願いだから……起きて……」
「……」
「……もう、無理です……。我慢できないんです……。お願いだから、起きてください……。起きないと、起きないとぉ……!」
「……」
「イタズラ、しちゃいますよぉ……?」
× × ×
「……」
顔が、燃えたように熱い。
さっきまでのポカポカとした優しい熱さなんて目じゃないくらい、熱い。
鏡を見なくたってわかる。きっと今の私の顔は真っ赤だ。本当に、顔から火が出そうだった。
「……」
そっと、深い意味はなく、ただなんとなく、……自分の唇に触れる。
「……熱い」
他の部分と温度は変わらない筈なのに、唇に触れているだけで指が火傷しそうだった。
……あるいは、火傷しているのは唇自身か。
本当に唇が燃えてるようだと思った。
……そして、その熱さは決して不快じゃない。
むしろ、もっと味わいたかった。
この熱を。
「……はぁ……はぁ……っ」
息が上がる。鼓動がうるさい。耳元に心臓があるみたいだ。
私は、見る。
この熱の発生源を、もう一度見る。
……あれはきっと、私にとっては炎なんて生易しいものじゃない。
もう一度触ってみろ、今度は火傷ではきっとすまない。
ドロドロに溶けてしまうかも……。
「……それでも、いいです……」
……私は両手で彼の顔を少しだけ持ち上げた。
「……それでも、私は……」
そして、私は……。
「……ぁ、ん…………」
溶岩の中に、飛び込んで行った。
× × × ×
「……んぁ?俺……いつの間に寝てたんだ?」
目覚めると、外はすっかり赤く染まっていた。
夕方である。
「随分気持ちよく寝ていたみたいね?部員としての責務を放り出して」
「……すまん」
目を擦って周りを見ると、冷や水のような声をかけてくる女がいた。
というか雪ノ下雪乃だった。
「……いや、部活中なのに寝てたのは謝る。でもな、正直この部活にそうそう人なんて……」
「私は、そこだけに怒っているわけではないわ」
「……は?」
雪ノ下の視線は鋭い。防御力が下がりそうだった。
しかし、そこだけじゃないってのは一体……?
「下を見なさい、下を」
「下って……どわぁ!?」
雪ノ下に言われた通りに視線を下に向けると、そこには俺のすぐ近くでぐーすか寝ている一色の姿があった。
っていうかこれ、この位置だと……俺達がさっきまで添い寝してたみたいじゃないか?
「ち、違うぞ雪ノ下!俺が寝たときは一色なんていなかった!こいつが後から隣に来たんだ!」
「……それならそれで問題はあるのだけど……。まぁいいわ、一色さんを起こして頂戴。もう、今日は終わりにしましょう」
雪ノ下が本を閉じ、ティーセット等の後片付けを開始する。
俺はそれを尻目に、一色の肩を揺らした。
「ほれ、起きろ一色。何してんだお前。……つーか、生徒会はどうしたんだよー」
「んん……ぐぅ、んぐぅ、……んぁ?せんぱい?」
「おう、そうだぞ先輩だぞー。早く起きろー」
薄眼を開けた一色は俺に目線を向けると……。
「……」
「……?」
何故か数秒動きを止め、
「どっひゃあ!?」
跳ね上がるように覚醒した。
「『どっひゃあ』ってお前……全然あざとくねぇぞ。アイデンティティクライシスだぞ」
「う、うぅうるさいです!先輩に言われたくありません!いつもキャラブレブレなくせに!」
「は?俺のキャラがいつブレたよ!」
「ブレッブレですよ!いつもはクールキャラ気取ってるっぽいのに戸塚先輩にはデレデレしてますし、結衣先輩のおっぱいチラ見してますし、たまに結衣先輩と雪ノ下先輩の胸見比べて悲しい顔してますし!!」
「そそそそそんなことしてねえし!!言いがかりはよせ!」
「……比企谷君。ちょっと、お話があるのだけれど」
なんだか凄い形相でギャーギャー喚く一色。
吹雪のオーラを纏った雪ノ下。
慌てて弁解する俺。
三人の言い争いは暫く続くことになる。……具体的には、俺が全面的に謝罪するまで。どうしてこうなるのん?
「……まったく、次からは反省してくださいね?先輩っ」
「……つか、ことの発端はお前が俺のすぐ近くで寝てたことにあると思うんだが……」
「私のログには何もないな」
「お前はどこの黄金の鉄の塊だよ」
なんだかんだで仲直りして、三人仲良く(?)部室から出る。
……ふと、さっきまで喧嘩でそれどころではなかったところに気がついた。
「……一色、お前口元によだれの跡ついてるぞ」
「っ!?!?」
言った瞬間、一色は秒速で口元を袖で拭き取る。
涎を見られたのが恥ずかしいのか、その顔は真っ赤だ。
……ちょっと悪いことしたかなぁ。でも、涎跡をつけたまま外に出すわけにもいくまい。
「……じー……」
「……?どうした?」
「い、いえ、なんでも……」
不意に視線を感じて、一色の方を見る。
またしても一色は、顔を真っ赤にしてそっぽを向いてしまった。
(……うーむ、こいつが何を考えてるか、よくわからんな……)
本当にさっぱりわからん。
あいつ、俺の口なんか見て、何考えてたんだ……?