「ん…」
朝チュン。太陽が黄色く輝き、その光を受ける『歌う林檎亭』も黄金色に輝いていた。そしてその宿屋の一室、それなりの格調の部屋でアルシェは目を覚ました。頭が鈍く痛み、体が怠い。昨晩酒を飲み過ぎたのだろうかと朧げな記憶を掘り返し、昨日の内には帰ると約束していた妹達に悪いことをしたなと考えながら、ベッドの隣の水差しから直接水を飲む。
コップを探すのも億劫だったため、少し下品ではあるが気にせずに嚥下して頭を覚ます。口元から首筋に零れて、そのまま薄い胸を濡らす水滴にビクリと身を捩らせた。少々淫靡な絵面だが、頭に鈍痛を抱える彼女は気付かずにそのまま水を飲みほした。
「昨日……どうしたんだっけ」
いまだ戻らぬ記憶に顔を顰めて膝を抱えた。一糸纏わぬ状態のため色々とあられもない姿を晒しているものの、他に誰もいないのだから問題はない――と彼女が思考した瞬間、右側の太腿部分から感じる冷たさに驚愕した。すやすやと寝ている傾国の美少女、絵物語でしか存在しないあり得ぬ美貌の持ち主が、自分と同じく一糸纏わぬ姿でそこに居たのだ。
アルシェは驚愕した。何故不眠不休である筈の吸血鬼が睡眠を取っているのか、と。
「そこでありんすの!?」
「きゃっ!」
「…ん? ああ、寝ぼけていたでありんす。失礼」
「お、おはよう…?」
シャルティアから謎の突っ込みが入り、アルシェは更に驚いて身を竦ませた。身を起こし、惜しげもなく裸体を晒すシャルティアはまさに白いキャンバスを思わせる。何者にも染められぬ無垢な白雪のようでいて、その実中身はどす黒い。とはいえそんなことを知る由もないアルシェは、見てはいけないものを見てしまったように顔を逸らした。
「え、と……あれ? 私、なんで……ここはどこ?」
「何故というなら、それはぬしがわらわを誘ったから。ここが何処かというなら、当然わらわの部屋。覚えていんせんの?」
「そう……ありが――っ!? う、嘘…!」
「ええ、初めてというのが嘘のように悦んでいんした」
「~~~っ!?」
ニタニタと笑うシャルティアは心なしか顔がつやつやとしており、まるで晴れやかな元旦を迎えたとでもいうような気分を感じさせる。ベッドの枕元にはなにやら犬の尻尾のようなもの――根元の形が少し特殊だが――が鎮座しており、昨晩のプレイがアブノーマルであったことを感じさせている。
「わ、私……あの、その」
「…なんて。くふ、ただの冗談でありんす。ベッドに転がしたらすぐ落ちてしまいんしたから、適当に弄らせてもらっただけでありんすよ」
「…ほっ。よかっ……よくないっ!?」
どうやら純潔は奪われていなかったらしいとほっとしたアルシェだが、自由に体をまさぐられていたと聞いては心中穏やかではいられないだろう。確かに美少女で、確かにこの世のものとは思えぬ整いようだが、それでも自分はノーマルなのだ。いまだ惚れた男などおらず、居たとしても家庭環境を考えれば叶う筈もないが、それでも同性に溺れるなどということはけっしてない――筈だ、とアルシェは頭を振る。きっと酒が全て悪いのだと、頭の痛みを我慢して服を着始めた。
「…帰る」
「ふむ、引き留めはしんせんが……興覚めもいいところでありんすな。埋め合わせはいつになりんしょうか。まさかこのわらわに恥をかかせは――――しないでしょう?」
「っ!?」
にこやかにアルシェを見送るシャルティア。しかしその言葉の最後は、有無を言わせぬ恐ろしい気配が漂っていた。否定すればいったいどうなってしまうのか、アルシェは想像すらしたくないほどの寒気に襲われた。そしてようやく思い出したのだ――目の前の少女が吸血鬼だということを。
「…解った。でも今は家族を養うためにお金を稼がなければいけないから、時間がとれない。もう少し待って」
「金…? ふむ、なんともせせこましいことでありんす。けれど――どうやら恥をかかせたのはわらわのほうでありんしたか。素寒貧のお敵を照らすなど、甲斐性なしと言われてもしょうがありんせんな」
「…?」
「何を目を白黒させていんすか。言った筈でありんす、わらわに恥をかかせるなと。さっさと金を稼ぎにいくでありんすよ!」
「…え?」
仮にも色事の相手をさせようとした者が、お金がなくて困っている……それどころかそのせいで相手を出来ないとまで言わせてしまったのだ。廓言葉を使うからといってシャルティアはその中身まで女郎のようだというわけではないが――その言葉を口に出させてしまったのは、やはり粋ではない。あるいは少女にいい恰好を見せたがるであろうペロロンチーノの影響を受けているのか、それともギルド維持のため金策に奔走していた最後の支配者を思い出してしまったのか、どうにも彼女は我慢できなかった。
瞬時に服を着て、杖を抱きしめているアルシェを引っ張って勢いよく部屋の扉を開け放つ。そしてクレマンティーヌが寝ているであろう部屋に突撃して高々と言い放った。
「クレマンティーヌ! 金を稼ぎにいくでありんすよ!」
「んー……もう殺しきれないよ~」
「ええい、さっさと起きなんし! 一度王国に戻りんすよ!」
お前はいったいどんな夢を見ているんだと、こんな時でも突っ込みたい衝動に駆られるアルシェだったが、その暇もなくシャルティアの鉄拳がクレマンティーヌに叩き込まれた。
「痛ったー!? お、お嬢? どうしたの?」
「金がいるでありんす。王国に戻ってラナーに稼ぐ方法を聞きんしょう」
「お金? 路銀は充分足りてると思うけど…」
「わらわではありんせん、こやつに必要でありんすのよ。さあ、戻りんすよ!」
「…………マジで? すご…」
「?」
この部分だけ聞けば、アルシェがシャルティアに金を貢がせる程夢中にさせた……と勘違いしても仕方ないだろう。クレマンティーヌからの尊敬の視線がアルシェに突き刺さる。おぼこい少女を装って実は百戦錬磨の淫乱少女だったのだろうかと、その手練手管を想像してゴクリと唾をのむ。当の本人はいまだに展開についていけず、何が起こっているのかと混乱中だ。単に時間を稼いで逃げようとするための言い訳だったのだが、いったい何故こんなことになっているのだろうかと首を捻っている。
吸血鬼とは脅威の化物であるが、それでも冒険者のランクに換算すればミスリル級もあれば十分に倒せる圏内だ。つまりワーカーとはいえ実力はそのクラスに遜色ない自分達であれば、打倒は可能なのだ。
――が、それは魔法を使わない吸血鬼の話だ。
ただでさえ恐ろしい能力をいくつも所有し、身体能力ですら人間を遥かに凌駕する吸血鬼。それが魔法も使えるとなれば、いったいどれほどの脅威になりうるか。それを打倒し得るのならば、まさに英雄と評すべき存在以外にはありえない。そして自分達は英雄ではないし、その能力もない。それこそ逸脱者たる自分の師、フールーダ・パラダインでもなければ滅することはできないだろう。
――そしてそれすらも、普通に魔法を使える吸血鬼の話でしかないとアルシェは知っている。
闘技場で噂になっている実力が真実なら――そもそも人に打倒できる存在なのかすら疑問だ、とアルシェは思う。吸血鬼でありながら自分と同じ3位階までを使いこなすならば、正しく英雄の領域だろう。魔法を使えずとも闘技場の覇者を子供扱いできるのならば、それも同じく英雄級かそれ以上だ。
けれど彼女の噂を聞く限り、接近戦では指一本以上は使わない……そして魔法を使えば見てわかるほどに高位の魔法。そんな化物をいったい誰が相手にできるというのだろう。唯一の救いがあるとすれば、とりあえず人間には友好的だということだろうか。少なくとも一晩一緒に居て殺されていないことだけは確かだ。
もしくは自分と同じ貧乳だから情けをかけたのか。とにかく見境のない殺人狂というわけではないとアルシェは判断しているのだ。むしろ彼女が名乗りを上げた時、吸血鬼と名乗ろうとしていた事を察していたアルシェは、シャルティアが単なるお馬鹿で可愛い吸血鬼の可能性すらあると思っている。
むしろそうでもなければ吸血鬼と気付いた時点で席を立っているという話だろう。
「《ゲート/異界門》」
「…っ!?」
「ほらほらー、驚くのは解るけど入った入った」
《ゲート/異界門》を開いたシャルティアはそのまますぐに突入し、尻込みしているアルシェをクレマンティーヌが後ろから押し入れる。先ほどまでの騒ぎが嘘のように『歌う林檎亭』の一室は静まり返るのであった。
「ラナー! 入るでありんすよ!」
「はいどうぞ」
乱暴に叩かれた扉の音、それに動じもせずラナーは入室を促した。シャルティアに礼節を求めても意味はないと理解しているからだ。それは彼女を礼儀知らずな不調法な者だと断じているわけではなく、彼女が礼儀を払うべき者が極端に少ないことを知っているが故に。
「あら、そちらの方は?」
「あ、アルシェ・イー……ううん、アルシェ。ただのアルシェ」
「ご丁寧に。私はラナー・ティエール・シャルドルン・ライル・ヴァイセルフと申します。よろしくしてくださいね」
「わらわはシャルティア・ブラッドフォールンでありんす!」
「知ってます」
「私はクレ――」
「ちっ」
「!? い、今舌打ち…」
「どうかされましたか? クレマンティーヌ様。勿論貴女様のことも忘れていませんよ」
「そ、そう? はは」
三者三様にラナーへと挨拶をするが、三人目のおふざけにはさしもの黄金姫もイラッときたようである。一瞬だけ舌打ちをして不快を示す。クレマンティーヌは何かの間違いかなと頭を掻いているが、シャルティアが彼女を気狂いと表現していたことを思い出してそういうことかと納得した。
これでこの部屋には狂人が三人揃ったわけだ。ヤンデレ気狂い姫に、サイコパス戦乙女に、ファッションキチガイの揃い踏みである。オークも泣いて逃げ出す豪華な面子だ。さながらアルシェはこの部屋最後の良心といったところだろうか。
「それで、どうされましたか? 皇帝には会えたのかしら」
「まだでありんす。それよりちょっと物入りになりんしたの。手っ取り早く稼ぐ方法を教え……いえ、ぬしが出せばいいでありんすな。とりあえず白金貨100枚ほど寄越しなんし」
「ファック」
「!?」
「あ、すみませんつい……私が自由にできるお金など微々たるものです。すぐに用意できる金額とは言えませんね」
「むう、役に立ちんせんな。ならばどうすればよいか教えなんし」
「うーん、そうですね…」
考える振りをしながら、ラナーは降って湧いたような好機にほくそ笑む。ギブアンドテイクな関係で持ちつ持たれつでいこうとは言いつつも、現状ラナーからシャルティアへ有益な物や情報を提供することは難しい。逆にシャルティアからラナーへ提供できるものなど、それこそ掃いて捨てるほどにあるのだ。
一方のみが利益を享受し続ければ関係は早々に破綻をきたすだろう。それを考えてとりあえずはシャルティアへのお願いを留めているのだが……あちらから要望がありそれに応える形になった今、躊躇いなどある筈もない。ラナーにとって邪魔な存在を消しつつ、ついでにお金も入ってくるような任務を言い渡せばWINWINだ。誰も損をしない素晴らしい状況である(被害者は考慮しないものとする)
「…決めました。シャルティアさん」
「うん?」
「この街は少々……『指』が多すぎるようです。貴女が斬り落としてくれるなら、少しすっきりするでしょう」
黄金の微笑み。巷で称賛されるその笑顔も、皮を一枚捲れば澱みが渦を巻いている。彼女が最初に選んだ犠牲者は、この街に巣食う犯罪組織『八本指』だ。彼女にとってその壊滅は利益とは言い難く、ならば何故それを選択したかというと……当然だが、クライムの為に他ならない。
王都の治安を憂いている彼のため、鬱陶しい組織を潰してしまおうというのだ。なにより金を溜め込んでいるというのもでかいし、貴族派へのダメージもおおいに期待できる――彼女にとってそれはどうでもいいが――となれば悪くない選択肢だろう。
だが、その提案はラナーにすら思いもよらない言葉で一蹴された。
「ふむ……? 街に指など生えている訳ないでありんしょう? ついに狂いきってしまいんしたか?」
「……」
シャルティアにはしっかり言葉にしないと伝わらない。最高の頭脳にまた新たな知識が加わった瞬間である。
組織の壊滅とは、どう定義するものだろうか。アジトが壊れる――これは壊滅とは言い難いだろう。人さえ残れば場所を変えてまた動き出すに違いないのだから。その組織の商売そのものを成り立たなくする――これも壊滅かというと疑問が残る。人の悪意は一度潰れようとも、手を変え品を変え形を変えていくだろう。
ならば何をもって壊滅とするか。真祖の吸血鬼、シャルティア・ブラッドフォールンにはその選択肢が大きくわけて二つある。一つは勿論、物理的に全てを消す方法だ。彼女にとっては防御の魔法も警戒の魔法も意味を為さない。嗤いながら魔法を行使すれば、人もアジトも物品も、全てが灰塵と化す。《ゲート/異界門》の魔法を駆使したならば、各所にあるアジトの全てをほぼ同時刻に消滅させることすら容易だろう。
けれど、それでは意味がない。彼女が欲しているのは、彼女自身は興味のない即物的なものだから。だから二つ目の選択肢……組織の上層を全て挿げ替える方向に動いたのだ。とはいっても本当に人間を替える訳ではなく、カジットにしたように己の支配下におく形でだ。構成員全てを吸って回るのは骨が折れる、それどころか流石に外部の人間に疑われるだろう。しかし組織の方針を決め、組織を運営しているものを配下にすれば、それはもはや別の組織――すなわち前組織の壊滅と同義だ。
速やかに、密やかに、そして瞬く間に組織は変貌を遂げた。麻薬、奴隷、暴力、ありとあらゆる犯罪が鳴りを潜め、組織は新たなる目標を抱えて生まれ変わったのだ。従わぬ者には制裁を。恐怖と暴力を以って再構成し、人員はかつての3分の1にも満たない。ぶっちゃけ王都の外に逃げた悪人のせいで周辺都市は治安が悪くなること請け合いであるが、まあラナーにとっては王都の治安が良くなりクライムが喜ぶことこそが重要なので問題は無い。
溜め込んでいた資金は吐き出され、その多くは王女の懐に入った。何をするにもとりあえず金は必要なのだ。ラナーの取れる手段が増えることはシャルティアにとっても歓迎すべき事柄である。
『八本指』と繋がっていた貴族達には青天の霹靂のようなものである。たった数日見ない間に組織の方針が540度くらい転換していたのだから、それもむべなるかな。まさか王国に巣食う裏の組織が、三日三晩ほどで健全な組織に変化するなどとは、六大神でも思うまい。
その組織の名は――
「ではこれより会議を始める。死にたい」
「ああ、ボス。俺も死にたい」
「そもそも何故警備部門の私達が組織の運営をしているのかしら……ああ、もちろん私も死にたい」
「お、お、お、俺達もう、し、しんでる」
「それを言っちゃあお終いだけどね……ペシュリアン」
新しい組織のトップ――かつての『八本指』警備部門『六腕』が最強の男 “闘鬼”ゼロ……改め“やる気”ゼロ。
同じく元『六腕』最弱の男 “幻魔”サキュロント……改め“按摩”サキュロント。
同じく元『六腕』紅一点 “踊るシミター”エドストレーム……改め“驚きシフター”エドストレーム。
同じく元『六腕』どもりスト “空間斬”ペシュリアン……改めず、そのまま“空間斬”ペシュリアン。
同じく元『六腕』ナルシスト “千殺”マルムヴィスト……改め“百寸”マルムヴィスト。
彼等は『八本指』が変革した後、トップに立った――否、立たせられた者達だ。何故彼等が最上位に位置付けられたかというと、単に強いからである。ともすればアダマンタイトにすら届き得る彼等の実力は、吸血鬼化していない末端の構成員を抑えるのに一役買っているのだ。ちなみに残る一人の『六腕』、エルダーリッチである“不死王”デイバーノックはシャルティアの気に障ったため“不帰王”デイバーノックとなって消え去った。
彼等が意見をまとめると総じて『死にたい』と口にする。それは何故、と聞かれれば彼等は口をそろえてこう言うだろう。『胸を大きくするためだけの研究組織で働きたいか?』と。新しい組織の名は『八本指』改め『八頭身』 彼等の役職名は『六腕』改め『お椀』 シャルティアが未来の自分に願いをこめて名付けた尊い名である。
まあ成長しないシャルティアは八頭身になれもしなければ、お椀型の立派な胸にもなれないだろうが、その不可能を可能にするための組織として彼等は働いているのだ。死にたいのも解るというものである……アンデッドなので死んでるけれど。
もはや“やる気”もクソもないゼロは置いておいて、“按摩”サキュロントは按摩による刺激で胸を大きくできないか試す役割を担う。“驚きシフター”エドストレームは魔法で胸をシフトさせられないか実験し、“空間斬”ペシュリアンは胸の無い空間を切ることで逆説的に胸を増やす理論を実践している。“百寸”マルムヴィストは……胸が百寸になればいいな、というシャルティアの単なる願望だ。
もう一度言うが、死にたいのも解るというものである。
「そういえばバルブロ王子がまたもやちょっかいをかけてきた」
「また賄賂の催促ですか。もう後ろめたいことはしていないと言っているのに…」
「いや、方針が変わったのはそれでいいらしい。単に研究が成功したら成果(巨乳化)をわけてほしいらしくてな」
「……」
「……」
「王国大丈夫なの?」
「おいおい、俺達がそれを言うのか?」
「違いないな」
ははは……と乾いた笑いが響きわたる。――王国は今日も平和なようで、なによりだ