深淵の悪魔が大剣状の右腕を振り下ろす。それを《フライ/飛行》も合わせた三次元機動で躱し、イビルアイが最強化した水晶の散弾をばら撒いた。その多くが深淵の悪魔に突き刺さるが、僅かながらも痛痒を覚えた様子はない。追撃にナーベの《ライトニング/雷撃》が直撃するも、やはり平然としている。
幾度も繰り返されたその様子を見て、イビルアイがぽつりと呟いた。
「…有効打がない」
深淵の悪魔の攻撃は基本的に近接メインで大振りだ。攻撃の度に無差別に撒き散らされる強酸性の粘液を鑑みても、歴戦の強者であるイビルアイからすれば躱すのは然程難しくない。
しかし、イビルアイの攻撃も、ナーベの魔法も、深淵の悪魔に通用する一撃にはなり得ない。
恐らく、ダメージが通っていない訳ではない。傷は存在するのだろう。しかし、それを無視できる要素が深淵の悪魔にはあった。────再生能力である。
再生能力は無効化するのに酸か炎の属性攻撃を必要とする。この時点で、二人の取るべき攻撃方法はイビルアイの酸系魔法に限られる。しかし深淵の悪魔は強酸性の粘液を分泌するというその特性上、酸に対する完全耐性を持つ。つまり有効なのは炎系の属性攻撃────だが、二人はその攻撃手段を持たない。
深淵の悪魔の攻撃は当たらない。
イビルアイとナーベの攻撃は通用しない。
この二つは似ているようで明確に違う。前者は戦闘スタイルを変えれば幾らでも対処はできる。しかし、後者に関しては完全に手詰まりだ。即座に再生されるのでは意味がない。
既に深淵の悪魔は、二人の回避能力に対応する為か腕を元に戻し、代わりに両腕の爪を長く伸ばしている。次からは、軽いが速く隙の少ない連撃が降り注ぐことだろう。軽い、と言っても、そもそも深淵の悪魔は魔神級の悪魔。手抜きの一撃であっても、まともに喰らえば致死の一撃であるなどほぼ常識レベルだ。
深淵の悪魔が再度踏み込む。モモンやオーエンの速度にこそ劣るが、それは比較対象が悪い。少なくとも、イビルアイの反応が遅れる程度には素早い動きだ。
鋭爪を向けられた二人は身を捩って回避。振り撒かれる粘液も鑑みて大きく飛び退くが、深淵の悪魔は後退を許さない。更に踏み込み、速度重視の斬撃が煌めく。流石に完璧に躱すことは出来ず、しかし被害を最小限に食い止めるべく思考を集中させる。掠るごとに抉れ、酸で焼かれる痛みが走る。否、イビルアイに痛みなどという生理現象は存在しないが、人間としての意識の残滓が幻痛を与えていた。その人間としての名残すら、脳が焼ききれんばかりの集中力を渇望する今のイビルアイには煩わしい。
深淵の悪魔の爪が振るわれ――――イビルアイが回避したところを見計らい、腕部にある口から粘液が吐き出された。深淵の悪魔の攻撃をギリギリで回避し続けていた以上、腕の動きに合わせて広範囲に振り撒かれた強酸の粘液を躱すのは不可能だ。唯一躱せそうなのは、深淵の悪魔の懐に突っ込んで行くルート。相手もそれは分かっているであろうから、問答無用で却下。無詠唱化によって効果が落ちた魔法では耐え切れそうにない以上、防御用の魔法も間に合わない。飛行の魔法で全力離脱しながら、ならばせめてと腕を交差させて盾にする。
そう、防御手段はない────前もって準備していなければ。
「────《シールドウォール/盾壁》!」
狙い澄ましたタイミングでナーベの防御魔法が発動し、イビルアイの前方を覆うように半透明の障壁が現れる。その障壁に阻まれるかのように粘液が弾かれ────一瞬の拮抗で破られた。
しかし一瞬あればイビルアイには十分な時間。粘液の飛散範囲から逃れ、深淵の悪魔から大きく離れて態勢を立て直す。
「…助かった」
「いえ、別に」
相も変わらず素っ気ないナーベに密かに苦笑。即座に顔を引き締め、心の中でぽつりと呟いた。
────覚悟を、決めるか。
先刻イビルアイは、有効打がないと言った。それは嘘ではないが、真実でもない。
“冒険者イビルアイ”には成す術もないが、“ただのイビルアイ”ならばやりようはある。それでもか細い希望であることに変わりはない。
イビルアイは切り札を発動させる。────自身の身に満ちる負のエネルギーを暴走させ、全ての攻撃に負のエネルギーを付与する特殊技術を。アンデッドとしての側面を用いた技術を。
「────あなた、は、」
ナーベが困惑する声が耳に入る。アンデッドに詳しい神官や死霊術師でなくとも、これだけ近くにいれば負のエネルギーを感知する事くらいは可能だ。
「────信じてくれ」
我ながら薄っぺらい言葉だとイビルアイも思う。出会って半日も経たない相手が突然負のエネルギーを扱い出して、挙げ句の果てに信じてくれと来た。イビルアイがナーベの立場なら即刻抹殺に動く事請け合いだ。────だが、それでも。それでも、魔神級の悪魔たる深淵の悪魔に一矢報いる為には必要なのだ。この場にこの悪魔を押し留めておくには必要なのだ。
永遠にも感じられた一瞬の沈黙の後、ナーベの小さい、しかし確かな声がイビルアイの耳に届いた。
「────信じます」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。思わず深淵の悪魔からすら視線を外して見遣れば、何ら変わらない、いつもの素っ気ない無表情なナーベの顔があった。
「…感謝する」
「後で、説明はしてもらいますが」
「当然だな────行くぞ!」
歓喜から顔が綻ぶのが分かる。らしくないな、などと思うも、そんな思考はすぐさま消えて無くなった。意識を切り替え、牽制代わりに水晶の散弾をばら撒く。深淵の悪魔は今までと同じように防御することなく体で受け止め――――耳障りな絶叫を上げた。今までのような雄々しい咆哮ではない。痛みに呻く、苦悶の悲鳴だ。この戦いで初めて、勝機が見えた瞬間だった。――――イビルアイは、賭けに勝った。
恐らく、ダメージという点ではさほどでもないだろう。だというのに深淵の悪魔が大げさに叫んだのは、自身の再生能力を上回るダメージをここに来て初めて叩き込まれたため。皮肉にも、深淵の悪魔が彼我の実力差と自身の強みを正確に理解していたが故の動揺だった。
――――何故?
深淵の悪魔は思考する。確かに深淵の悪魔に与えられた命令は難しい。“二人を殺す気で攻撃し、しかし殺すな”。だが、そんな命令も遂行は可能だと深淵の悪魔は自負していたし、それは深淵の悪魔の主人だってそうだった。追い詰める側は、こちら側だと思っていた。
なのに、これではまるで――――
――――何故?何故、何故、何故何故何故何故何故何故何故何故!
認められない――――認めてはならない。認めてしまえば、兵士として召喚された悪魔達とは異なり、副官として自身を召喚した主君の顔に泥を塗ることになる。それだけは、それだけは決してあってはならない。
死ぬことだけはするなという主君からの新たな勅命に感激を覚えつつ、深淵の悪魔は翼を広げる。この作戦の価値、自身のプライド、主君の期待。深淵の悪魔もまた、背負うものは多い。撤退は最終手段。本当に死にかけた時のみと心に決め、正真正銘全力で戦いに臨む。
力の限り戦うこと、それこそが今示すべき忠義の在り方であると信じて。
――――これではまるで、こちらが追い詰められる側ではないか。
そんな思いには、気付かない振りをして。
深淵の悪魔の再生能力は脅威だ。しかし負のエネルギーを纏ったイビルアイの攻撃は、深淵の悪魔の再生能力を上回った。
それにより、深淵の悪魔の体力が限界を迎えるのが先か、もしくはイビルアイの魔力が尽きるのが先か。この二つを比べるチキンレースの様相を呈することとなった激戦は、微々たるものとはいえナーベの支援を受けられるイビルアイへと戦局が傾いていった。塵も積もればなんとやら。ナーベの魔法で回復した体力を少しずつ削られ、攻撃を躱す隙を作られていった深淵の悪魔は遂に背を向けて逃げ去った。飛行の魔法で飛び上がり、イビルアイとナーベもその背を追いかける。
向かう先は、悪魔占領区域外延部。オーエンが猛威を振るう地である。