比翼連理   作:風月

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残酷な歯車

 曹操の居城で華々しい宴が行われていたころ。

 街にある旅館の一室では三人の女が身を寄せ合って密談をしていた。ひとりは長髪でおっとりとした巨乳美人、ひとりは幼い外見と元気の良さが売りの美女、最後の一人は短い髪に眼鏡が特徴的な知的美人であった。

 こぎれいな部屋の中心には木の丸い机と、四脚の椅子があった。机の上にはなにやら仰々しい装丁の本が一冊置かれており、三人は本を囲むようにして椅子に腰かけている。

 彼女たち三人は血のつながった姉妹である。長女が張角、次女が張宝、三女は張梁といった。三人は天和(てんほう)地和(ちいほう)人和(れんほう)、という真名をそのまま芸名とし、『数え役満しすたぁず』として歌を歌いながら各地を旅する、旅芸人だった。

 

 彼女たちは幼いころ、歌を武器に大陸一の旅芸人になる事を決意し、生まれ故郷を飛び出した。

 しかし、彼女たちがどんなに頑張って歌を歌っても、道行く人のなかで振り向く人は一向に増えなかった。グッズ販売など夢のまた夢。極僅かに増えたファンに支えられて、細々と旅を続けていた。

 それが、ある日突然変わった。徐福(じょふく)と名乗る、商人との出会いによって。

 徐福は、黒い服に全身を包んでいる、怪しげな男だった。(ひげ)を伸ばし、武術家と見まがうようながっしりとした体格を持つ中年男であった。

 徐福は、唐突に彼女たちに一冊の本を手渡した。太平妖術の書、と書かれた分厚い装丁の本だった。

 

 ―貴方たちの歌声に引かれました。貴方たちは、必ず、天下に名を轟かせる逸材だと思っています。その一助として、この本を用意しました。必ずやお力になるでしょう―

 

 怪しいと思った。しかし、彼女たちはそうして差し出された本を、受け取ってしまった。

 そこから、彼女たちの運命が変わり始めた。

 

「ねえ」 

 

 疲れた様子で、長女の張角が口を開いた。 

 

「私たち、もう、戻れないのかな?」

 

「無理よ」

 

 きっぱりと言い切ったのは三女の張梁だった。

 

「この本とちぃ姉さんがいなかったら、私たちは何の力もないただの人になってしまう。今集まった人を抑えられない。そうなったら、どうなるか……姉さんたちは明日の舞台、この本なしでこなせる自信、ある?」

 

 それぞれがうつむき、口をつぐむ。

 ややあって、張梁が自分自身に強く言い聞かせるように言った。

 

「もう、私たちは進むしかないの。この、太平妖術の書と共に。そして、天下一の旅芸人になって、ふぁんの皆を楽しませる。それが、私たちにできる唯一の恩返し」

 

「でも!」

 

 ダン、と強く張宝が丸机を叩いた。振動で、太平妖術の書が机の上で弾む。残りの二人は驚いた様子で次女の方に視線を向けた。

 我儘が多い彼女ではあるが、こうして激昂するのは極めて珍しい事だった。

 

「それはちぃたちの実力じゃないじゃない! この本の力につられているだけで、ちぃ達の事を本当に応援してくれているかすらわからない」

 

「そうだけど! でもやって来たお客さんたちは皆楽しんでくれているわ! ぐっずだって売れるようになったし、ふぁんも増えた。明日の公演は三万人以上のふぁんが聞きにきてくれる予想なのよ。天下一の名が手が届くところまできてるの、ちぃ姉さんもわかるでしょ!」

 

「それはちぃたちの本当のふぁんじゃないわ!」

 

「歌っているのは私たち三人。私たちのふぁんよ」

 

「……本がなければ見向きもしない奴らを、本当に私たちの、数え役満しすたぁずのふぁんって言うの? ちぃは認めない! ……認めたくなんか、ないよ……」

 

 張宝が力なくうなだれる。それをきっかけに室内がしんと静まってしまう。

 

「ねえ、明日の朝、ライブ会場に行く前に陳留の街で歌ってみない? この本は使わないで。ここまでくるのに、私たちも沢山ライブをこなしてきたんだから、もしかしたら力がついているかもしれないし」

 

 張角は、無理やり笑顔を作って二人の妹に話しかけた。自分たちも、成長はしているはずだ。もしかしたら、少しでも自分たちの本当の歌を聞いて、皆喜んでくれるかもしれない。試してみる価値はある、と張角は思っていた。

 しかし、張梁が首を振る。

 

「……もし、そのせいでらいぶ会場に人が集まらなかったら? 徐福が資金援助してくれているけれど、客足が遠のけばそれも厳しくなる。借金を返せる当てもないしね」

 

「う、それは……」

 

 しゅんとした張角に助け船を出したのは、張宝だった。

 

「その時は、ちぃがこの本を使えばいいんでしょ? 一回街頭で歌ったくらいで減るふぁんの数なんて、たかが知れているしね」

 

 吐き捨てるように張宝が言う。そして、張角に向き直った。

 

「姉さん、試すのはこれで最後よ」

 

「わかった。ちぃちゃん、ありがとう」

 

「人和もそれでいいわね」

 

「……仕方ないわね。姉さんたち二人が決めたんだったら、私が何を言っても聞かないもの」

 

 そうして、明日の朝、陳留の街で数え役満しすたぁずのライブがこっそり開催されることが決まったのである。

 これが、自分たちが戻れる最後の機会であると、口には出さなくとも三人共わかっていた。

 

「どうしてこんなことになっちゃったのかな……」

 張角のつぶやきは誰も拾うことなく、虚空に吸い込まれていった。

 

 

 

 

 

 城で開かれていた宴は夜半まで続いたあと、ようやくお開きになった。宴の後始末は曹洪をはじめとする部下に任せて、曹操は足取り早く自室に向かった。

 自室と言っても、曹操と珊酔(さんすい)二人の部屋である。

 

 二人の部屋は気配に敏感な珊酔(さんすい)に配慮して、人通りの少ない城の東の塔の最上階に配置されている。

 塔につながる扉を開け、石造りのらせん階段を昇って行く。

 ところどころにある松明の明かりでは、足元がうっすらと見える程度にしか照らせない。そのなかでも、迷いのない足音がコツコツと響いていた。

 階段を昇りきった先にある木製の扉が、二人の寝室の入り口である。

 扉を押すと、ギイときしみながら奥に開く。鍵はかかっていないようだった。

 部屋の中は暗く、人の気配はなかった。大きく開いた窓から風が吹き抜けて、窓かけの布が揺れている。

 

 曹操は溜息をついて扉をしめると、窓辺に寄せてある寝台に向かった。ぐしゃりとよれた布団に触れてみたが、体温は残っていなかった。おそらく宴前に寝た際に、直さずそのまま出かけたのだろう。

 曹操はそっと寝台を整えてから、鏡のついている化粧台の傍にある明かりにだけ火を入れた。

 化粧台の前の椅子に座って、髪の毛を縛っている紐をほどき、髪の毛がなるべくまっすぐになるように整えて、丁寧に香油を塗る。

 

 曹操は癖っ毛である。湿度が高い日に手が付けられないほど髪の毛が跳ねることはないが、夏候惇のようにまっすぐと指が通るような髪ではない。

 昔、まだ上京したばかりのころ、突然自室に訪れた袁紹に結んでいない髪を見られたことがあった。

 そのとき袁紹は体格差を武器に曹操を捕獲し、髪を好き放題いじり、髪が癖っ毛ではたいしたことはありませんね、とわけのわからない事を言った後に高笑いして部屋を出て行った。

 いかにも頭の悪く、根拠もない、正直全く気にする必要もない言葉だとわかってはいたが、それから曹操は自分の髪が嫌いになった。

 そう、……珊酔(さんすい)と結婚するまでは。

 

 夫は、初めて曹操の髪を触った時ふわふわとした感じが触っていて楽しいと言っていた。そして、結んでないそのままの方が似合っていてかわいいと、言った。今まで曹操の容姿について関心がなさそうであったあの夫が、はじめて褒めたのである。

 うれしかった。

 その時以来、曹操は公の場以外、珊酔(さんすい)の前では髪を伸ばしたままでいる。

 

 曹操が髪を整え終え、夜着に袖を通したころ。

 窓から黒い影が音もなく部屋に滑り込んできた。慣れ親しんだ気配のため、曹操が慌てることはなかった。

 

「おかえりなさい。遅かったのね」

 

「まだ起きてたのか?」

 

「先ほどまで宴が続いていたものだから。別にあなたを待っていたわけではないわ」

 

「そうか、それならいい」

 

 珊酔(さんすい)は驚いているようだった。うっすらと照らされた顔が意外そうな表情を浮かべている。

 曹操は夫に歩み寄り、服に手をかける。戸惑った様子でもあるものの、珊酔(さんすい)は曹操の好きにさせてくれた。

こうして、曹操が珊酔(さんすい)の着替えを手伝うのは久々のことだった。

 

「あなたこそ、先に寝ていると言ったのに。今日は随分働き者ね」

 

「働くつもりはなかったんだがな。部下が変な情報を持ってきたから、見に行く羽目になった。……結果、見に行って正解だった」

 

 珊酔(さんすい)は曹操に促されるまま袖から腕を抜き、濃紺の礼装を肩から落とした。

細身だがしっとりとしなやかに鍛えられた筋肉が露わになる。曹操の手が無意識に珊酔(さんすい)の脇腹に伸びる。さらりと撫で上げると、珊酔(さんすい)はくすぐったそうに身をよじって離れて行った。

 

「こら」

 

「い、いいじゃない。夫婦なんだから。……それより、今日の要件の報告がまだよ」

 

 気まずそうに、曹操は咳払いをする。珊酔(さんすい)はジト目になり、上から曹操を見下ろした。

 

「ごまかしやがって。いい。後は自分でやる」

 

「遠慮しないの。ここまで手伝わせたんだから、最後までやらせなさい。綺麗な夜着はどこ?」

 

「……俺の箪笥の一番下」

 

「あった。これね。」

 

 曹操は自分より大きい箪笥の引き出しをあけて、薄い黒の着物と帯を取り出した。

 

「で、こんなに遅くなるまでどこに行っていたの? まさか、今までずっと城内で話し込んでいたわけではないでしょう?」

 

「あー……うん」

 

 珊酔(さんすい)はめずらしく口ごもった。視線を宙に彷徨わせ、右手で後頭部を掻くしぐさは、珊酔(さんすい)が困ったときによく見せる癖である。

 曹操の眉間に皺がよる。

 

「何よ。言えないようなことなの?」

 

「いや、別に……痛って、無理に下を引っ張るな。俺には言葉に迷う権利もないのか」

 

「ないわ。私はそう気が長くないの。知っているでしょう?」

 

 珊酔(さんすい)は深々と溜息をついた。

 

「……ったく。牛金と、建設中の舞台を見に行ってきた。俺が着いたときには、もう殆ど完成していたな。明日の夕方、そこで張三姉妹が公演するって言うから、下見兼偵察に」

 

「張三姉妹?聞いたことがない名ね」

 

「最近大陸全土で急に売れてきた、美人三姉妹の旅芸人だよ。……張三姉妹の立ち寄った町の近くでは、二週間もしないうちにどこかで賊が出る。黄色い布を頭に巻いた集団がな」

 

「……本当なの」

 

「忙しい中、牛金とその配下で、使える奴を片っ端からつぎ込んで調べさせたからな。張三姉妹を支援している商人が中心となって、賊共に物資を送っていたことも掴んだ。情報から見ると、間違いないだろうな」

 

 下を自分で脱ぎ、差し出された夜着を着ながら珊酔(さんすい)が答える。

 曹操は、まだとても信じられないというように、頭を振った。伸ばした黄金の髪が、わずかな明かりに反射してきらめく。

 

「今各地で起きている乱は、十万単位の民が動いている。何らかの形で支援する商人が付いたと仮定しても、その張三姉妹に、これほど多くの民を動かす力があるとは思えないわ」

 

「……まあ、信じられないわな。だから、俺も話すのをためらってたんだよ。だが、現に舞台建設の現場では、黄色い布を巻いた万を超える男たちが働いていた。軍として指揮している奴は別にいるとしても、人を集めているのは張三姉妹」

 

 珊酔(さんすい)は大きく伸びをした。そして、ふらふらとした足取りで二人の寝台まで歩いて行き、あおむけでごろりと横になってしまった。

 

「とはいえ、俺も華琳と同じで、心情的には信じ切れていないというのが正直なところだ。だから、明日の夕方にあるという公演に行こうと思っている。……どうする? 暇があれば行くか?」

 

「そうね……」

 

 珊酔(さんすい)の礼服を畳みながら、曹操は思案した。

 

 明日は丸一日、陳留の街を視察する予定だった。だが、連れて行く人数を増やし手分けをすれば、忙しなくはなるだろうが午前中で終えることができるだろう。

 

「私も行くわ。その代り、午前中の街の視察にあなたも同行して」

 

「えー……」

 

 珊酔(さんすい)は寝台から半身を持ち上げて、面倒くさそうに曹操を見た。

 

「俺は残りの書類仕事を片付けてから、詰所の方にも顔を出す予定だったんだが」

 

「警備隊の詰所には視察の途中によればいいじゃない。書類仕事は夜にでも私が手伝うわ。諦めて、明日一日私に振り回されなさい」

 

 曹操は軽やかな足取りで珊酔(さんすい)に駆け寄ると、寝台に足をかけて、正面から夫の胸に飛びこんだ。

 寝台はギシリと抗議の声を上げたものの、珊酔(さんすい)は動じることはなかった。体を半分起こした状態のまま、左腕で曹操の体を抱きとめる。

そして、負担がないようにゆっくりと体を寝台に横たえた。

 

「……はあ。困ったお姫様だ」

 

「今更でしょ」

 

「だな。無駄な事を言った。忘れてくれ」

 

 そっぽを向きながらも、珊酔(さんすい)は右手で曹操の頭をなでた。思いのほか、その手つきは優しい。

 緩む顔を珊酔(さんすい)の胸板に押し付けることで隠しながら、曹操は目をつむる。

 

「おやすみ、犬野」

 

「ああ。おやすみ」

 

 寝たまま器用に掛け布団を引っ張り上げてから、珊酔(さんすい)も目を閉じた。

 

 規則正しい寝息二つが聞こえてくるまで、そう時間はかからなかった。忘れられた灯一つだけが、部屋の中で風に揺らめいていた。




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