比翼連理 作:風月
太陽が中天に差し掛かったころ。
これから
黄巾の乱後、新たにやってくる新兵希望の兵士たちが増加してきたため、新たに新兵訓練用の部署を作ることが決まった。街の警備の仕事も同時に教え込むため、新兵訓令用の部署は警備部に作られ、教官として楽進・李典・于禁の三人が任じられた。
それに伴い、三人は平の隊員から、小さな部隊を率いる隊長に昇格。一気に、副将の牛金の右腕の地位まで
楽進達三人は、はじめから将候補として教育されている。とはいえ、曹操軍に加入してからは部隊指揮や訓練はさせていなかった。
新兵に義勇軍時代の訓練方法ではなく、基礎的なことを叩き込むには力不足。では、どうすればいいか。
簡単だ。ひたすら練習させればよい。
というわけで、
訓練初日。三人のせいでつまらない訓練を延々と続けることになった兵たちの不満は強かった。個性の強い面々だというのに加え、
そんな混沌とする空気を変えたのは、かすかな風切音。続いて起こった破裂音と脱走しようとした兵の悲鳴だった。
「甘いよん」
「ぎゃあああ」
倒れた男は、右足を抑えて地面をのたうちまわっていた。
足に着けていた防具は無残にも飛び散り、足を抑えた手の隙間からは赤いものが流れ落ちた。
騒いでいた他の兵士たちが、それを見て即座に口をつぐむ。
「ちょっと血が出たくらいで大げさだなあ。早く起きて列に戻って」
牛金の手には、数粒の大豆。手の中にある豆の一つを、指先ではじいで飛ばし、脱走しようとした兵の足に着弾させたのだ。たかが大豆と侮るなかれ。彼女の力加減次第では、放たれた大豆は
「私もさ、こんな地味な基礎訓練嫌だよ。でも、基礎訓練が大事だってわかるし、なによりお仕事としてお金をもらっていることだから我慢してる。とっとと三人を一人前にして、終わらせるためには、愚だ愚だしてる時間はないわけ。逃げようとしたら……」
笑顔で、殺気を振りまきながら、大豆を握った手を兵士たちに突き出した。
「遠慮なく、
集まった面々全てが生唾を呑み込み、背筋を伸ばす。牛金と同格であるはずの曹仁も例外ではない。それほどの殺気が、牛金から漏れ出していた。
「……きゅう」
「凪ちゃん!?」
「しっかりせえ!?」
牛金の殺気に充てられた楽進が目を回して気絶した。反射的に気弾を撃つ癖を直す過程で、何度も豆で狙われた恐怖がよみがえってしまったせいだ。
当時牛金が病み上がりだったこと、
楽進が倒れ、于禁と李典が介抱しているいる様子も視界に入っている牛金だったが、三人には視線もくれずに、目の前の呆然としている部下達を怒鳴りつける。
「返事はっ!」
『はいっ!!』
今までの混乱が嘘のように、整然と隊列が組まれていく。倒れた兵に関しては同じ部隊の者が起こし、慌てて列に戻した。
楽進を叩き起こした後、何事もなかったかのように訓練は開始され、指示する三人、指示通り動くそれ以外の者達全てが必死に訓練を行ったという。
必死な訓練は一週間以上続き、そして、今日、
ちなみに、
「お前、たまに暴力的になるなあ……」
「戦場で怖い思いするよりは、演習で怖い思いした方がいいでしょ?」
脱走しようとした兵は、比較的新しく諜報部隊に配属された男だった。自分が面倒を見ている諜報部の兵であるということも、彼女の怒りを買った理由である。
「大人数を動かそうとしたから大変だったんだろ。少部隊を組んで指揮させるなり、色々あっただろうに」
「それだと全員回すのに時間がかかるじゃん。私、長々と基礎訓練なんかやりたくないもん」
「お前な」
「結果上手く行ったんだからいいでしょ?指揮する三人、みんなびしっと指示出しできるようになったし、兵たちも動きやすそうだし。新兵に訓練つける分には十分合格じゃない?」
「それに関しては、異論はない」
楽進と于禁は既に指揮を終えていて、今は李典の番だった。三人の傍には曹仁が控えていて、指示の不備や全体の見落としがあった時は口出しすることになっているが、今日はまだ出番がない。
牛金の言った通り、十分合格といえるだろう。
「はい、犬野っちのお墨付きいただきました~。明日からこのつまんない訓練から解放されるっ」
「基礎訓練が完全になくなるわけじゃないぞ」
「教官の為の訓練は、終わり、でしょ?」
自慢ではないが、一般兵にも『頭をつかえ、考えて動け』と教え込んでいる
普通であれば、基本的な動きなどは短時間集中で叩きこめる。だが、指揮する側が不慣れであれば上手く動けず、動けたとしても指揮側に不手際があれば終わらない。
できる者たちからすれば、達成感も得られない単調作業はただの苦痛である。
全体演習という名の試験が終わった後、個人的に体を動かしたい者が練兵場に残って訓練を行う。
牛金は演習場の端の方にいる曹仁にちょっかいを出しに行ったため、手持ちぶさたになった
味方ではないが、知った気配が夏候惇・夏侯淵とともに城門をくぐったことで、
気配から察するに、今やってきたのは、袁紹の側近で二枚看板、
曹操は今日、誰とも面会する予定はないと言っていた。つまり、二人の訪問は先触のない急なもの。
袁家の使いとなれば、曹操の立場からすれば無視はできない相手である。急に呼び出されることになって予定が狂った曹操は、苛立つに違いない。
面倒な事になりそうだと思いながらも、療養中の自分の出番はないだろうと、
が、
「あ!旦那みーっけっ!!」
石畳の廊下に現れたのは、金色の甲冑に身を包んだ水色のつんつん頭。諜報部で袁紹軍を探った事のある兵たちからは、こっそり袁紹の側近の『小さい方』と呼ばれていたりする、文醜である。どこがとは言わないが。
途中で振りきってきたのだろうか、相方の顔良の姿はない。
「落馬した程度で動けなくなるなんて、旦那に限っちゃありえないだろ~。動けないのがほんとなのか、あたいが試してやるよっ」
愛用している大剣を地面に放り投げて、猛然と
「おいちょっと待て!!」
正面から受け止めるしかない。
「はは、そうこなくっちゃ!」
文醜は楽しそうに笑う。自分の突進を受け止められるなら、
真っ向勝負。遠慮のひとかけらもなく、肩口から、
彼女にとっては、当たるか外れるかの単純な博打だった。だが、文醜の思惑は思わぬ形で防がれることになる。
「させない」
身体の前で腕を交差し、文醜の突撃を正面から受け止めた。砂埃が舞う。腹に響くような重低音と、骨がきしむ音が、その衝撃の大きさを表しているようだった。
その背後で、不安定な体勢で固まっていた
普段から大剣を振りまわす文醜と、身軽さが売りの牛金。支えきれず
「遅れて申し訳ないっす。怪我は、ないっすか?」
「ああ。……悪いな」
「兄ぃに謝られたら、あたしの立場がないっすよ」
泣き笑いのような顔で、曹仁は言った。
曹仁も足は速いが、牛金には劣る。ゆえに、牛金と同時に
「……またあんたか。ちっちゃい軍の中でも将にすらなれない奴が、あたいの邪魔すんじゃねーよ」
「邪魔?意味が分からないよん。そっちこそ、自分がなにやったかわかってる?」
「ただの挨拶だろ。睨まれる筋合いはないね」
「
文醜はゆっくりと牛金から距離をとり、睨みつける。
「はっ。全面戦争になったらそっちが苦しいくせに、良く言うぜ」
「何代も三公を輩出している名族が、大義名分もなしに他所の重鎮を傷つける方が大変なことじゃないかなぁ」
「旦那だぜ?無理ならさらっと躱すだろ。止められるって思ったから、正面から受け止めようとしてたんだろ?なら、怪我するわけないじゃん」
「動けなかったの!どう見ても本調子じゃないのが、見てわからないわけないでしょ!?」
「兄ぃに怪我させるつもりなら、あたしも黙ってないっすよ」
激昂し、怒鳴りつける牛金と、対照的に静かな殺気をまとう曹仁。
「ふーん。やる気?ま、旦那と遊ぶ前の準備運動には、丁度いいかもな」
文醜は首や手を回し、にやりと笑う。
「来いよ。旦那の後ろに隠れてるだけのでくの坊と、曹操の一族なのに部隊すら持たせてもらえない出来損ない」
「……っ」
放たれた言葉の槍は、牛金よりも曹仁の心を深くえぐった。
拳を握り、蒼白になって震える曹仁。
真名を許すほど大事な友人をけなされて、牛金の最後の理性が吹き飛んだ。
安い挑発だ。だが、挑発とわかっていても、許せない言葉だった。
「殺す」
「待て、牛金!」
焦ったのは
だが、こちらが悪くないとはいえ、相手は袁家。傷つけては曹操の立場が危うくなる。
曹操の夫としては、止めなければならない。
しかし、
大振りの太刀筋を文醜はあっさりと交わし、隙のできた脇腹に一発ぶち当てようと拳を握って距離を詰めた。
「甘いんだよ!」
「
「えっ!」
逆に背後から大槌で横殴りにされた文醜は、ぽかんとした表情のまま練兵場をごろごろと転がって行く。
標的を失った牛金も動きを止め、目を丸くする。
目の前には、文醜と同じ金色の甲冑に身を包んだ黒髪の女が、槌を構振り切った状態で立っていた。
「うちの文ちゃんがほんっとーに、ごめんなさい」
袁家の良心、顔良。ようやく、到着。
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