prologue
8月31日(月)
比較的最近まで、子供たちの夏休みは本日8月31日まであったらしい。らしい、というのは即ち現在は違うということであり、現役高校生であるところの折木奉太郎は、すでに二学期が始まってから一週間もこの通学の路を辿っていた。
空には真白な入道雲がそびえ立ち、アスファルトは七色に煌いている。昨夜の記録的な豪雨も、照り付ける灼熱の太陽の前に水たまり一つ残らず蒸発しきってしまったらしい。
赤信号で足を止める。ぼうっと何をするでもなく前を見ていると、集団登校する黄色い帽子の子供たちが横断歩道を横切っていった。背の高い男の子を先頭に、そこから背の順に7人。アヒルか何かのように連なって、一様に右手を高らかに上げて上級生の後を歩いていく。ぴんと伸ばされたはずの7本の腕が揺らめいて見えるのは、奉太郎が眩暈を起こしているわけではなく、彼らが陽炎に弄ばれているからだ。
「えらいな」
「何がえらいのさ、奉太郎」
意図せず出た呟きに、隣を歩いていた男が反応した。横目で男を――福部里志を見る。締まりの無いニヤケ顔がこちらを向いていた。
里志はさして興味など無いだろうに、扇子で顔に風を送る作業を中断してまで強引に会話を始めた。一緒に登校していたのにも関わらず、暑さのせいで長く無言が続いていたのだ。おそらく話題枯渇に窒息しかけていたのだろう。
先に、この男と示し合わせて一緒に登校している訳ではないことを明記しておきたい。今日はたまたま通学時間が被っただけだ。
「あれだ」
あごで前方の集団を示した。ゆびを指すのは失礼だと思ったからではない。腕を上げて前を指さすという行為よりも、あごを動かす方が消費するエネルギーが少なくすむと折木奉太郎の本能がそうさせたのだ。
「あれって、あの子供たちかい」
「そうだ。横断歩道を渡るのに、きちんと手を上げているだろう。それも8人全員だ」
「なるほど、そうだね」
里志は一つ頷いてから眉を寄せて、
「え、それだけかい?」
と続けた。
「そうだ。殊勝なことだ」
「ははっ、交通マナーを遵守することが殊勝なら、清掃ボランティアに参加するような人は君からしたら聖人君子に見えるんだろうね」
けらけらと笑いながら、里志は一歩前に出る。
「でも、確かに今日の彼らは気合が入っている。なぜだかわかるかい奉太郎?」
「……なにか謎かけか? すまんがこの炎天下で座興に付き合うだけの余剰エネルギーはない」
「今日は小学校の始業式だからさ」
「なんだと? それじゃあ連中は、昨日まで夏休みだったのか?」
「昨日は日曜日だから僕達も休みだったけど、まあ、そういうことだね。思い出してごらんよ奉太郎。君、二学期始まってから登校中に小学生を見かけたことあるかい?」
言われてみれば見ていないような気がする。
「実は夏休み期間ってのは明確に定められてはいないんだよ。自治体どころか、学校ごとに休みの期間は自由に――って言うとさすがに語弊があるけど、必要に応じてかなり融通を利かせて設定できるんだ」
「ほ、本当か?」
「もちろん本当さ」
どうしてそんな重要なことを小学生の時に教えておいてくれなかったのか。そうと知っていれば、自分はもっと夏休みの多い学校に転校することもできただろうに。
「朝三暮四だけどね」
「なに?」
「学校は、夏休みを何日間って具体的に決められてるわけじゃないけど、年間の授業時間は文部科学省にキッチリ決められているんだよ。だから夏休みが多い学校ってのは、自然と冬休みが少ないんだ。その逆も然りってね」
なんだ、つまらん。
わかり易いように大きく肩を落とすと、似た仕草で里志は肩をすぼませて見せた。
「待て、里志。ところで、なんでお前が近隣の小学校の始業日を知っている?」
福部里志に小学生の弟や妹はいないはずだ。
わざわざ近隣の小学校の始業日など、なにか理由が無ければ知りようもはずもない。
「ちょっと、なんだいその目は。これでも僕はデータベースを自称する男だよ。そしてそんな僕の友人たる折木奉太郎は省エネを自称する男だろう。奉太郎が興味を持ちそうな情報を日頃から蒐集するくらいは甲斐性のうちさ」
「おい、なぜ俺が小学校の夏休みに興味を持つわけがある」
「小学校のって頭に付かなければ、奉太郎は夏休みに興味絶大だろ」
そういう言い方をされると否定できない。
折木奉太郎は夏休みに限らず、休暇とか休日というものに人一倍興味のある高校生だと自負していた。
「なるほどな」
「良かったね。君の友人が性犯罪者予備軍でなくて」
「隣を歩く男が性犯罪者予備軍だったなら、そいつとは即刻縁を切るから友達でもなんでもないけどな」
「ははっ、なんだい奉太郎、今日はずいぶんとご機嫌ナナメじゃないか」
「別にそんなことはないと思うが」
「いや、原因はわかるけどね。この暑さ、それに月曜日の朝とあっては折木奉太郎でなくとも気が滅入るってものだよ」
里志と馬鹿な話をしているうちに信号は変わり、ようやく歩き出す。
これ見よがしに里志が手を高らかに挙げて、
「ほら、奉太郎も手を挙げなよ」
などと宣ったので、それはしっかりと無視した。
思い返してみても、自分が小学生の時には、横断歩道を渡る際に自発的に手を挙げたことなど無かったように思う。見通しの良い交差点を渡るのに、手を上げるという行為はまったくもってエネルギーの無駄遣いだ。それもこの茹だるような炎天下ではなおさらだろう。車が来ないと分かっている以上、わざわざ誰に見られるでもなく不要なエネルギーを消費するなど、信条に反する。
「やらなくて良いことはやらない。やらなくてはいけないことなら手短に、かい? 僕は時々奉太郎の将来が心配になることがあるよ」
交差点を渡りきると、華奢な肩をすくめるようにして里志が溜息を吐く。同時に巾着から取り出したハンカチで頬の汗をぬぐった。
失礼なことを言われたものだ。なぜ里志のような浮泛な男に将来の心配までされねばならないのか。
「趣味の雑学蒐集ばかりに精を出して、学業にまるで興味を示さないお前こそ先々の心配をすべきだと思うが」
なるべく辛辣な表現を探して言ってやったつもりだったが、里志は飄々としたものだ。
「わかってないな奉太郎。学校で学べる知識なんて所詮平均化されたバロメータでしかない。実際に社会に出て役に立つ知識・技能とは一致しないと思うよ」
「そういうのを屁理屈と言うんだ」
「言わないさ」
「いいや、言うね」
「ま、奉太郎がそう言うならそれでもいいけどね」
押し問答にはならない。
すぐに里志が引いたからだが、別に里志が引かなければ俺が口を閉じるだけだったので、この場面だけを切り取って、折木奉太郎と比べて福部里志の方が落着いた少年だという評価を下すのは早計だ。
「ところで見てくれよ奉太郎! このスーツ! 昨日、夏風邪をひいたことにして家に引きこもって作ったんだ! 文化祭当日を楽しみにしててくれよ! 本番にはこのスーツに合わせて凄いモノを準備する予定なんだ」
言いながら取り出した青いタイツを広げて見せる里志は、後ろ歩きのせいで前から来た自転車のご婦人に轢かれそうになった。
と、このように、福部里志という男はむしろ落ち着きのない男なのだ。
今更確認するまでもないが、なにも福部里志は将来の自分にとって無価値だからという理由で学業を疎かにしているわけじゃない。こいつの思考回路はそこまで厳格でもないし反社会的でもない。里志の行動はすべて里志自身が面白いと思うか否かによって決定されると言っていい。
里志の学校での成績は芳しくない。俺の方が校内順位にして100位ほど上位にいるだろう。だがこいつと知識の量、質で競うようなクイズ勝負になった場合、俺は手も足も出ずに惨敗する。里志は自分が知りたいことだけを知り、面白いと思うものだけを受け入れる。すなわちこいつの知的好奇心にとって学校の授業は優先順位が低いというだけの話だ。
「そのタイツはお前が着るのか?」
「もちろんさ! 奉太郎がどうしてもって言うなら貸してあげないこともないけどね」
「いらん」
ただでさえ暑いのに、そんな里志と話していると余計に体感温度が上がるようだ。
1
神山高校は年に一度の文化祭を数日後に控え、月曜の朝だと言うのに生徒の士気は高い。早朝から音楽系の部活の演奏する金管木管種々のメロディが校舎を席巻し、昇降口にはすでにポップ体で大きく『カンヤ祭』と書かれた看板が立てかけられていた。薄い青地の看板で、カラフルな文字とキャッチーなキャラクターが描かれており中々見ごたえがある。まだ文化祭までは日があるのだが、我らが古典部と比べてずいぶんと気合いの入っていることだと思い、奉太郎は感嘆の息を吐いた。
もっとも、古典部と比べるならまだしも、折木奉太郎と比べるならば、神山高校のゆうに9割9分以上の者が、凄まじい気合いでもって文化祭に備えていることになる。奉太郎にとって文化祭は面倒事以外の何物でもない。当日出席を取るらしいので休むというわけにはいかないが、許されるのであれば一日中部室にでも篭ってジッとしていたいと心から思う。
学校行事とはいえ文化祭は「まつり」だ。真面目に参加しようものなら、その疲労は折木奉太郎の耐圧限界値をあっさり凌駕するだろう。死因は窒息になるか心臓発作か、さもなければ筋肉痛かもしれないが、いずれにしろ折木奉太郎という生物は、文化祭に耐えられるほど頑丈にはできていないのだ。
横目で校庭を見れば、野球部が朝連をしていた。カキンという高らかな金属音とともに白球が地面を這い、それに泥まみれになりながら男が飛びついて歓声があがる。手前の芝生では、夏だと言うのに長袖長ズボンのジャージに身を包んだ女子達が、野球部の練習を見ながら柔軟体操をしていた。一方で校舎の脇を見れば、花壇に水をまく老教師。さらにその向こうでは、朝から何をしでかしたのか2人の男子生徒が壮年の教師に叱責されて、それを若い別の教師が宥めている。
「はぁ……」
そのエネルギーの塊のような光景に、思わず圧倒されて溜息がこぼれる。見ているだけで疲れそうだった。
だが勘違いしないでもらいたい。折木奉太郎という男はそういった年中行事や部活動、もっと広く高校生活と言ったものに情熱を傾ける人のことを、斜に構えて馬鹿馬鹿しいなどど侮辱する気は毛頭ない。むしろ得難い、素晴らしいことだとすら考えている。自分がそこに混ざりたいとは思わないが、そこで汗や涙を流す人を尊いと思う程度には己は善良だと考えていた。
昇降口に立てかけられた、この色鮮やかな『カンヤ祭』の看板も、どうして立派なものだと思い、つい製作者の名前でも書いてないかと額縁に目をやったほどだ。(裏を覗き込むまではしない。立て掛けられた看板を覗き込むためには一度しゃがまなければならないからだ。それでは消費するエネルギーと得られる好奇心的価値が釣り合わない)
しかし折木奉太郎にとっては立派な芸術作品でも、総務委員である里志からしてみれば、褒められた物ばかりではないらしい。
「あー、この看板は総務委員の許可印が押されていないね。むむっ、あの奥のポスターも無許可だ」
なるほど昇降口の掲示板は、先週末には見なかったポスターなどで溢れかえっていた。中には掲示板を飛び出して、玄関脇に貼られたものまである。電子ロックの操作盤に被さるように貼られており、これは確かに大変よろしくない。総務委員の里志としては看過しえぬ物だろう。
「回収するのか?」
以前、女郎蜘蛛の会という胡散臭さ極まる団体の掲示物を、里志が承認印なしという理由で撤去した場面を見たことがある。あれと今回のポスターとでは経緯も状況も全く違うが、総務委員会の承認印がないという点においては同じだろう。
「流石にこの玄関脇に貼られた物については、ね。これはいかにも邪魔だよ」
言いながら、里志はトランプとシルクハットの描かれた奇術部のポスターを丁寧にはがしていく。おそらくは張った団体に返却するのだろう。
「こっちのはいいのか? これと昇降口の看板も、承認印はなさそうだぞ」
目の前にある暗色のポスターを指さして言った。掲示板のド真ん中に貼られていた天文部のポスターだ。画力があまり高くないのか、太陽系と思しき絵の上に大きく天文部と銘打たれ、さらに軽いコメントが書かれている。曰く、
『あなたも一緒に夜空を彩る星に願いを祈りませんか。天文部代表:沢木口美崎』
代表の沢木口という名は、どこかで聞いたことのあるような気もするが、残念ながら思い出すことはなかった。
ところで神山高校の文化祭は日中しか開催しないはずだが、天文部はどうやって夜空の星に祈りを捧げるつもりなのだろう。
「そっちのは、とりあえず保留かな。一応従来の掲示スペースに貼ってあるし、後で担当者さんに申請書を書いてもらって、上から承認印を押せるよ」
端を破くことなく、里志は奇術部のポスターを無事にはがしきった。器用に筒状に丸めるとポンと音を立てて肩に担ぐ。
「総務委員だって生徒の集団にすぎない。杓子定規ばかりじゃ他の生徒から支持してもらえなくなっちゃうから、そのあたりは匙加減ってやつさ」
なにやら偉そうなこと言っていた。
一般生徒である折木奉太郎に言わせてみれば、そもそも総務委員が具体的に何をする団体なのかもよくわからない。総務というからには校内の様々な活動に関わっていることくらいは想像に難くないが、日頃どんな活動をしているのかは不明だ。
神山高校における総務委員が、生徒会に匹敵するほどの発言力を持っているという話は小耳に挟んだことがあるが、だからといって折木奉太郎にとって福部里志が敬意を払うに値するかというと、そんなことはない。
「うぅむ、さっきの僕の台詞、奉太郎どう思う?」
「ん、何を聞かれているのかわからん」
「察しが悪いなあ。ワンセンテンスに杓子って言葉と匙って言葉が出てきたじゃないか。非常に類似性の高い道具だよ。言ってから気付いたけど、一つの台詞に同居させるにはなんともリズムが悪い気がしてさ」
「さいですか……」
どうでもいいとしか答えようがなかった。
「あの看板はどうするんだ?」
再度、玄関前に立てかけられた看板を指さす。
あそこは昇降口であって掲示スペースではない。
「うん、あれも保留だね」
「何故だ? あそこは昇降口だぞ。明らかに掲示スペースじゃないだろう」
「奉太郎がアレを運ぶのを手伝ってくれるって言うなら検討するよ」
己の指差す先にある看板は、高さ約800mm・幅約2000mmのベニヤ板をさらに補強のために裏に別の木材を打ちつけた、それはそれは重そうな看板だった。
「そうか。それは無理だな」
総務委員室へ寄るという里志と別れ、俺はまっすぐ教室へ向かった。
あっという間に放課後になる。
そのまま帰宅してもよかったが、窓から見える校庭は灼熱の太陽に焼かれて揺らめく陽炎が立ち昇っていた。折木奉太郎が歩くには、あまりにも過酷な環境だと言える。帰宅してすぐにクーラーの効いた部屋で冷えた麦茶でも頂戴したいという思いも無いではなかったが、それでも足は昇降口ではなく部室である地学準備室へと向かった。日が傾いてから帰る方がいくらかマシだろう。
部室の戸を開けると、そこには一人の女生徒が先に来ていた。カバーの付いた文庫本を右手で広げ、窓から吹き込んだ風にその長い髪を乱されないよう左手で抑える仕草が凛として絵になっている。
彼女は俺の入室に気付くと、読んでいた本を一度閉じ、座ったままではあれ、こちら側に体を向けて会釈こぼした。
「こんにちは、折木さん。ふふ、制服姿の折木さんをお見かけするのは久しぶりですね」
彼女に会うのは一昨日のプールの一件以来だが、その前日にも学校に来ている。
「別に久しぶりということもないだろう。先週も会ったと思うが」
「いいえ、先週は始業式の日だけしか折木さんは部活にいらっしゃいませんでしたよ」
そうだっただろうか。
「折木さんの氷菓の原稿は、もうあがってましたから」
氷菓とは、古典部に代々伝わる文集の名前だ。古典部は毎年文化祭でこの「氷菓」を作成するのが慣わしであり、忌々しいことに今年もその慣例は遵守されることになった。
言われて思い返してみれば、確かに先週は色々あって部活に顔を出さなかったかもしれない。どうやら例の入須の一件は、自分自身が考えている以上に折木奉太郎にとって精神的ダメージだったらしい。
「もしかして迷惑をかけた、か?」
「はい?」
千反田は小首を傾げた。
「いや、なんでもない」
彼女、千反田えるは古典部の部長であり、俺、折木奉太郎はその古典部の部員である。
千反田は、長く整った黒髪と落ち着いた佇まいから醸し出される大和撫子然とした雰囲気に騙されて、大人しい物静かな深窓の令嬢だと思われがちだが、それは違う。
彼女のパーソナリティを描写するのに大事なのはその大きく深いアメジストのような両の目だ。
普段の千反田は、たしかに礼儀作法に通じ慎み深く、言葉遣いや仕草にも気品を感じる窈窕淑女たる少女と評価されることだろう。大人びているけれど気取ったところはなく、人当たりが良いうえに心根の清らかさも感じる。丁寧で落ち着きのある所作は、今時珍しい本物の大和撫子だと美辞麗句を並べ立ててもまったく嫌味にならない。そのうえ彼女はこの神山市でも有数の名家である豪農千反田家の一人娘でもある。いわゆる正真正銘のお嬢様ということだ。
しかしそんなお嬢様である千反田が、ある条件を満たすと豹変するのだ。一度彼女の眼が謎という餌を見つけたが最後、千反田えるは好奇心の権化と化す。さながら発情期の猫のように見境無く、ブレーキの壊れた暴走列車のように脇目もふらず突き進み、納得いく答えにありつければ向日葵のように破顔する。
この千反田の習性のせいで、高校入学以来今日まで折木奉太郎はいくつかの謎に対面し、そしてその内のさらにいくつかの謎を彼女に提供するために解き明かしてきた。ただし、それらはどれも状況証拠から想像した、推理とも呼べないような御粗末なものばかりであり、実際に思い出すのも憚るような赤面ものの大失敗もしでかした。それでいて千反田えるは折木奉太郎という人間を、実際の値段以上に高く見積もっているらしく、最近はほんの些細な疑問でも彼女はとりあえず俺の所へ持って来るのだ。
「ところで折木さん、ちょっと聞いていただきたい話があるのですが、今よろしいですか?」
「ダメだ」
「お忙しいですか?」
「千反田よ、お前も知ってのとおりだ」
「……お暇、ですよね?」
彼女との付き合いはまだ半年に満たないのだが、ずいぶんと明け透けに物を言うようになってしまわれた。
「いいや、俺もお前も、これからここに顔を出すであろう里志の執筆作業を監視するという仕事があるだろう」
「福部さんなら、総務委員の方に呼び出されたとかで少し遅れて来るそうですよ」
里志め。
居ても居なくても迷惑な男だ。
「折木さん、私、気になることがあるんです!」
もはや千反田の好奇心を阻む屁理屈も尽きた。
こちらの観念を察したのか、千反田はすぐにノートを開くと、テーブルから身を乗り出して渋る俺にグイと押し付けてきた。
目と鼻の先まで近づけられては焦点が合わない。わずかに顔を下げると、ページには見慣れた千反田の文字で小さなメモが書かれていた。
・歴史研究会
・占い研究会
・手芸部
・囲碁部
・天文部
・お料理研
・ジャズ研
・2-D休憩所
・2-F映画
・1-B神高縁日
・文化祭用看板
「なんだ、この箇条書きは」
「今朝、昇降口の掲示板にあった広告物の一覧です」
千反田に言われて思い出した。そういえば今朝、登校した時に昇降口に様々なポスターが張ってあった。今朝は気づかなかったが、自分が所属する1-Bのポスターも張ってあったらしい。それに昼間から夜空に祈りを捧げる予定の天文部の名前もある。
「まさかお前も昼間から夜空の星に祈りを捧げる天文部が気になったのか?」
「なんのことですか?」
「いや、違うならいい」
もしかしたらと思って聞いてみたが、どうやら千反田は別のことが気になっているらしい。小首を傾げると、少し考えてからその不思議に気づいたようで一つ頷いた。夜空に祈るというポスターの文言を覚えていたようだ。
「あぁ、そうですね。それも気になります。あまり遅くまで学校に残っていては先生に注意されてしまうでしょうし。もしかしたら夕方に活動するのかもしれませんね。まだ日は長いですが、金星なら夕方に見れるかもしれません」
なるほど。しかしそれでは夕空に祈ることは出来ても、夜空にできないのではないだろうか。もちろん、そんな野暮なことを千反田に向けて言ったりはしないが。
千反田相手に無計画に話を広げて脱線を試みるのは極めて愚かな行為だ。まして、まだ彼女は解明すべき謎を一つ握ったままでいる。これをその場しのぎで誤魔化すと、後ほどより大きな問題を招きかねないということを、折木奉太郎はすでに経験から理解していた。
「それはいい。違うなら千反田が気になっていることは何だ」
「そうでした」
千反田は再びノートを前に突き出した。急に前傾姿勢になったせいで、ふわりと石鹸の香りが鼻をくすぐって、慌てて椅子の背もたれに体を預けて後ずさる。
「折木さん、いったいどうやって張ったのでしょうか! 私、気になります!」
「待て待て待て、順を追って話してくれ。どうやって張ったって、あのポスターのことか?」
一度立ち上がり、しかし何もすることがないので黙って席に戻った。
「はい。いったい何時どうやってポスターを張ることができたのでしょうか。先週末にはあのポスターはありませんでした。なのに今朝にはもう張ってあったのです」
「みんな真剣に文化祭に向けて準備しているんだ。土日の間に誰かが張ったんじゃないか」
一階の昇降口前は、全校生徒の目に留まる絶好の広告場所だ。二階や三階などの廊下にも掲示スペースはあるが、そちらは特定の学年しか前を通らないから、必然的に昇降口前の掲示版よりも価値は下がる。宣伝目的でポスターを作るなら、まっさきに張りたいのが昇降口前だ。
「ですが、そうだとすると看板はいつ誰が持ってきたのでしょうか。昨日はひどい雨だったのに」
「濡れても良いように加工ずみだったとか?」
「いいえ、今朝それも確認しました。看板は板に紙が貼られていて、その上にスプレーのような物で絵が描かれていたんです。雨に耐えられるような作りではありませんでした」
「なら、やっぱり今朝、気合の入った連中が置いていったんだろう」
他に考えようがないと思ったが、しかし千反田は首を横に振った。
「私は比較的早く登校しているんです。今朝はクラスでは私よりも先に来ていた人は、朝練に出ていた運動部員さんが数人だけです。それにB組にはまだ一人も生徒は登校していませんでしたよ、折木さん」
さいですか。どうもすいませんね、B組の生徒が不真面目で。
「それに、文化祭用の掲示物は、全て総務委員会が取り纏めているはずなんです。古典部のポスターも摩耶花さんにお願いして描いていただこうと思っていたんですけど、氷菓の原稿が終わってからという話になっていまして」
なるほど。考えてみれば当たり前だ。掲示物には総務委員会の承認印を押すわけだから、それを総務委員が取り纏めているのは道理だ。神山高校に例えば掲示委員などの専門的な組織が存在しないかぎり、当然総務委員が校内に貼っているはずだろう。
「それならもう初めから答えは分かりきっているじゃないか。土日のうちに総務委員が貼ったんだ。そして承認印なしのポスターは、それぞれの団体が今朝勝手に貼った。他に可能性がない」
「ですけど、天文部さんのポスターは、承認印も無いのに掲示板の真ん中に貼られていました」
なるほど。
ようやく千反田の言わんとしていることがわかった。確かに言われてみれば、未承認である天文部のポスターが、ちゃんと手続きを踏んだ他の団体よりも目立つ場所にあるのは不自然だ。
総務委員は当然端から順番に張っていったはずだ。なのに、わざわざ一番目立つ中央にスペースを残しておく必要はない。
思わず右手が前髪に伸びる。つまり、どういうことだ。
「折木さん、何かわかりますか」
「そうだな」
考えはある。ただしあくまで憶測の域を出ないし、確認するためには昇降口まで行ねばならない。暑いし、できればそれは避けたいところだ。
考えながらもう一度千反田のメモに目を通す。
「なあ千反田、奇術部のポスターは見なかったのか?」
「え、奇術部、ですか?」
「ああ。今朝、今まさに千反田が気にしているとおり、総務委員会の承認印なしという理由で、里志が奇術部のポスターを剥がして回収したんだ」
「福部さんが回収したなら、私が見ていないのは当然だと思いますけど……」
「ちっとも当然じゃないだろ。俺と里志が登校したのは始業の5分前ってところだぞ。お前の方がずっと早く登校している」
「折木さん、もっと早く登校しないといけませんよ」
「……それは、今はいいだろ」
千反田は少し不満そうにしていたが、同級生から生活態度についての小言なんて絶対にもらいたくない。
「奇術部のポスターは掲示板ではなく下駄箱に貼られていたんだ。思い出せないか?」
「……いえ、私が通った時にはやっぱり奇術部のポスターはありませんでした」
「そうか」
千反田の記憶違いという可能性は、この際排除していいだろう。
俺と里志が見たポスターを、千反田が見ていない。
それはすなわち、一つの答えを示している。
一呼吸おく。
「すべてバラバラに起きたできごとが、たまたま一つに繋がって見えただけだ」
「どういう意味ですか?」
問題は時系列とモラルだ。
「まず正式に承認印が捺されてあるポスターだが、これを張ったのはやっぱり総務委員だ。昨日のうちに、総務委員が文化祭への意欲向上のために校内にポスターを張ったんだ」
今朝、里志は『昨日夏風邪をひいたことにした』と言っていた。昨日は日曜日だから休みだったのに、わざわざそんなことを言う以上、何か公的な用事があったと見ていい。十中八九、総務委員会の活動があったのだろう。
「里志は不参加だったらしいが間違いない。理由は総務委員で承認印を押したポスターを、わざわざ彼らの代わりに掲示する人間が校内に他にいないからだ」
「はい」
「次に、承認印ナシのポスター。これもやっぱり各団体の人間が勝手に張ったんだ」
「え、ですがそれじゃ、どうして天文部さんは掲示板の真ん中にポスターを貼れたのですか?」
「可能性は二つある。天文部が総務委員より先に張った可能性と後に張った可能性だが……」
考えるまでもないな。
「総務委員より先に天文部が張ったと考えるのは無理だろうな」
「そうですね。もし総務委員さんたちより先に張ってあったならば、総務委員さんたちに回収されるはずです」
それはその通りなのだが、今朝の里志の行動を鑑みると、後から許可印を押すつもりで放置した可能性がある。里志は天文部のポスターを、後から担当者に申請書を書いてもらって上から許可印を押すと言っていた。そういう柔軟な対応が必要だというようなことまで言っていたかもしれない。
だが今朝の里志と昨日の総務委員とでは、一箇所だけ異なる点がある。それはつまり、昨日の総務委員はまだ張らなければならないポスターを複数枚手元に持っていたという点だ。手元に正当な手続きをすませたポスターがあれば、当然そちらを優先させるだろう。
やはり、天文部のポスターは総務委員の活動後に張られたものだ。と、すると――。
「たぶん、天文部は別の掲示物の上に自分たちのポスターを貼ったんだろうな」
「え!?」
「いや、別の部活のってことじゃないぞ。たぶん天文部は、熱中症予防か、夏風邪予防か、とにかくそういう学校保健委員あたりが貼ってるポスターの上にでも被せたんだろう」
あの掲示板は、なにも文化祭広報のためだけにあるわけじゃない。
おそらく天文部の代表は、今朝登校して昇降口の掲示板に貼られた各団体のポスターを見て慌てたことだろう。せっかく作ってきた自分達のポスターを貼る場所が無くて困ったはずだ。
そしてそいつは暴挙に出た。多少の葛藤はあったかもしれないが、結局は自身の良心がギリギリ許すラインとして文化祭とは関係ない掲示物に被せて貼ってしまったんだ。
「そうだったんですか……」
「そして千反田が見ていないのに里志が回収した奇術部のポスターについてだが、連中はたぶん今朝天文部がポスターを貼る場面を目撃でもしたんだろうな。慌てて自分たちもポスターを貼ろうと思ったようだが、彼らはいよいよ何処にも貼るスペースがなくて下駄箱に貼ったんだ」
千反田は小難しい顔をして何回か頷くと、かと思ったらそわそわしはじめた。
「天文部のポスターが気になるなら見てくればいい。でも義憤のためにポスターを剥がしたりするなよ。揉め事に巻き込まれるのはごめんだ。後で里志とか総務委員に言えばいい」
「はい! 私、ちょっと見てきます!」
軽く手を振って、千反田が部屋を出て行くのを見送った。一緒に来いと言われるんじゃないかと身構えていたのだが、幸い今日は部室で待機することを許されたようだ。
特にすることが無くなった俺は、手元に残された千反田のメモをもう一度覗き込んだ。千反田の書く文字は、女性にしては堂々とした力強い書体をしている。
さて、最下段に書かれた『看板』について、戻ってきた千反田が忘れてくれている可能性はどれほどだろうか。福部里志が到着しない以上、千反田の言うとおり折木奉太郎は"お暇"に違いない。お暇つぶしに少し考えておこうか。
「折木さん! ありました! でも、もうありませんでした!」
あっという間に千反田は帰ってきた。嬉しそうに笑いながら駆け寄ってくると、そう言ったのだ。
「なんだと?」
「あ、すみません。天文部さんのポスターはもう誰かが剥がしたみたいでありませんでした。代わりに、今朝天文部さんのポスターがあった場所には、図書委員からのお知らせが張ってありました! 夏休み中に借りていた本を速やかに返却するようにという内容でした!」
「そうか。それじゃ里志以外の優秀な総務委員が気付いたんだろう。よかったな」
「はい! ありがとうございます!」
小さな両の拳を握りしめて目を輝かせていた千反田は、一瞬の満足感の後に首を傾げた。
「ですが折木さん、それでは、あの看板はなんだったのでしょう? 先程見に行った玄関には、看板も無くなっていました。やはりあれも今朝どなたかが設置したのでしょうか?」
「ちっ、覚えていたか」
残念ながら、世の中そうは上手くいかないらしい。
「流石に状況証拠も不足しすぎているから、これは俺の想像に過ぎない」
「はい! 是非、拝聴します!」
「あの看板は、たぶん昨日のうちに玄関に運ばれていたんだ」
「え、それじゃあ雨に濡れてしまいますよ」
「いや、今朝置いてあったあの玄関前ではなく、おそらくは玄関の中だ。壁に立て掛けて帰ったんだろう。看板は男二人でもいないと運べない大物だ。昨日、看板を描いていた何者かは、雨から作品を逃がすために苦肉と策として玄関に運び入れたんだ」
「あの看板は外で描かれていたのですか?」
「俺はよく見てないから確信があるわけじゃないが、スプレーで描かれた絵だったんだろ。なら常識的に考えれば屋外での作業じゃないか」
「あ、そうでした!」
「それに、あの看板はたぶん未完成だ。雨が降ってくるギリギリまで作業していたんだろうな。突然の雨で、作品を濡らすわけにいかなかったから校舎に運びいれた」
「未完成でしたか? とても綺麗に描かれていたように思いますけれど……」
「あぁ、俺も見事なものだと思ったよ。だけど千反田、看板にどんな言葉が書かれていたか覚えているか?」
「はい。看板中央に大きく『カンヤ祭』、その下に『Welcome, to a Kanya festival』、描かれていた動物達は、左から猫、ネズミ、犬、フクロウ、ウサギ、猿、羊ですね」
そんなに色々描かれていたのか。
中央の『カンヤ祭』の文字しか覚えていないぞ。
「はっ!? 折木さん、もしかして干支と何か関係がありますか?」
「え? あ、あぁ動物達か。どうかな、何らかの意図があるのかもしれんが俺にはわからん」
「違いますか……」
千反田が残念そうに肩を落とす。
「絵じゃなくて文言だ。あの看板には製作者や広告団体名などは無かったよな。○○部とか△△委員みたいなヤツだ。そういう団体名が無いとしたら、あれは特定団体の広告用の看板じゃない。校門なんかに飾る文化祭全体のための看板ということだ。だとすると、あの看板にはまだ書かなければならない言葉がある」
「校長先生のお名前ですか?」
「そんなもの書いてどうする?」
千反田は相変わらず洞察力や記憶力に秀でている分だけ察しが悪い。
校長には申し訳ないが、俺は校長の名前を知らない。
「普通、『第○○回』って書くだろう」
「46回ですよ、折木さん。ですが、なるほど。言われてみればそうですね」
「だからあの看板は未完成なんだ。一応昨日は雨の予報は出ていたはずだが昼間は快晴だったからな、あんな急な降り方をするとは思わなかったんだろう。中庭で作業していた製作者は、作品を濡らすわけにいかず慌てて校舎に運びいれた。ここからは本格的に俺の想像で、何の根拠もないからそのつもりで聞いてくれ」
捜せば見つかるかもしれないが、また千反田に玄関まで行ってもらうのも悪い。
「看板の製作者は、急な雨に大事な看板を濡らすわけにいかず、おそらくは邪魔にならない場所として玄関脇にでも立て掛けたんだろうが、これが逆に良くなかった。玄関脇には電子ロックの操作盤があるからな。生徒達にとっては問題ないが、施錠当番の教師が帰る際には大問題だ。操作盤が覆われていたら玄関の鍵が締められない。で、その教師はしかたがないから看板を移動させた。おそらくは生徒用の下駄箱に立て掛けたんだ。あの看板は大人だとしても一人じゃ満足に運べない代物だからな」
チラと千反田を見ると、彼女は神妙な顔をしていた。
「そして今朝だ。玄関の鍵を開ける教師は今度は関係ない。問題は朝連をする運動部の連中だ。彼らは千反田よりも早く登校したが、どうしたことか玄関を塞いでいる看板のせいで下駄箱が使えなかった。だから看板を外に出したんだ。彼らは部活ごとに同じ時間に登校するからな、何人かで協力して看板を外へ出したんだろう。それに、今朝登校した時に、校舎脇で教師に叱られている二人の生徒を見かけた。おそらくあの2人の生徒が看板の製作者で、説教していたのが朝練の部活教師だろう」
ふぅ。しゃべりすぎた。
千反田は腕を組んで顎に手を当て、ぶつぶつと何かを確認するように呟いていた。やがて彼女のなかで何かが繋がったのか、勢い良く顔を上げて破顔した。
「なるほど。すごくすっきりしました!」
「あくまで俺の想像にすぎんぞ」
「いえ、きっと正しいと思います!」
いったい何故、こうも千反田は折木奉太郎を買っているのだろうか。我が事ながらまるで理解に苦しむ。つい先日だって、俺は千反田の前でどうしようもない大失敗をしたばかりだというのに。
それから数分後に里志は部室に現れた。天文部のポスターのことを伝えてやると「今は総務委員の話はやめてよ」と言って、顔を顰めた。どうやら総務委員の先輩に小言を喰らったらしい。
それからさらに数分遅れて伊原摩耶花もやってきた。幸いにして里志以外のメンバーはすでに原稿が書きあがっている。今日は伊原に尻を叩かれながら執筆作業を行う里志を肴に読書でもするとしよう。
鞄から文庫本を取り出して机に置くと、催促したつもりはなかったが、千反田は何も言うことなくそっと麦茶を出してくれた。
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2
「……それから、ずっとか。もう5時になるもんね」
誰かの話す声が聞こえた。
その声は特別大きな音ではなかったが、穏やかな湖面に小石を投げ込んだときのように確かな波紋を広げて、折木奉太郎に覚醒を促した。
自室以外の場所で目を覚ましたことに気づき数秒ほど混乱する。
軽く頭をかき、己が頬杖ついて地学準備室で眠っていたことを思い出した。
今聞こえた声の主を探す。それはすぐに見つけることができた。
「学校は? ……そう」
窓際で、伊原がなにやら独言をつぶやいていた。
いや、独言ではない。左手は手遊びにレースのカーテンを繰っているが、右手には携帯電話が握られている。どうやら誰かと電話しているらしいが、面白くない話題なのか不機嫌そうに顔を顰めていた。
伊原摩耶花。古典部の部員であると同時に、マン研のホープであり、さらに図書委員も務める勤勉にして努力家にして真面目な少女だ。
これだけ聞いても折木奉太郎とは永遠に相容れない人物であるということを察してもらえると思うが、事実、俺と伊原はそりが合わない。水と油に比喩すると、日々お互いに反目し合っているように受け止められてしまうので少し違う。むしろ柳と風の関係に近い。いつも風は猛々しく吹き荒れるが柳は揺られるばかりだ。もちろん柳からしてみれば、日々平穏無事にありたいのだから風のことを好ましく思おうはずはない。なのに、神の悪戯かはたまた教師の悪戯か、かれこれ小学1年から中学を卒業するまで、9年間も延々と同じ教室で義務教育を受けていた。その上、今ではこうして同じ高校に入学して、同じ部活に所属して、春から短くない時間を共有するに至っている。因縁の相手と言ってもいい。
「わかった。もしうちにいたら連絡するわ」
伊原が通話を終えると、他の部員が何か言うより先に、「ごめん、今日はちょっと帰るわ。福ちゃんは原稿明後日までだからね」と言って、鞄を持って出て行ってしまった。
やおら立ち上がった千反田は、先ほどまで伊原が立っていた窓際に寄ると、皺になってしまったカーテンを手のひらで扱いてのばした。
「摩耶花さん、どうしたんでしょうか」
そう言う千反田も、伊原の深刻そうな雰囲気に当てられてか、いつになく表情が暗い。
伊原め。
あまり思わせぶりな挙動をしないでもらいたいものだ。こっちはまたぞろ千反田の好奇心に火がつきやしないかと内心ヒヤヒヤしていたが、幸い彼女の表情は好奇よりも心配の色が濃い。この分なら面倒なことにはならずに済むかもしれない。
と、そんな俺の楽観的な思いが透けて見えたのか、里志が混ぜっ返すようなことを言う。
「千反田さん、摩耶花は何があったんだろうね? ちょっと難しそうな顔してたけど」
「そうですね。とても心配そうでした。私、気になります!」
視線で里志を咎めても、今更この男が折木奉太郎の視線にたじろいだりするはずもない。結局、千反田の好奇心は、里志に踊らされるようにしてまんまと鎌首をもたげた。
冗談じゃない。なぜこの男はいつだってより疲れる道を選びたがるのか。別に里志がどんな茨の道を行こうか知ったことではないが、その隣で一緒に傷だらけになるなんてのは御免だ。
「やめておけ。あれは俺達が手に負えるような話じゃないだろう」
「折木さん! もう何かわかってらっしゃるんですか!?」
しまった。里志を呪うのに集中していて言葉の選択を間違った。
後悔しても遅い。すでに千反田の瞳は爛々と輝きを帯びて、小さな鼻の穴をいっぱいに広げている。そんな鼻息荒げる千反田の後ろで、いつものニヤケ面を浮かべる里志の奴がたまらなく不愉快だ。
「違う、何もわかってない。伊原の焦り様から察するに、深刻な事態じゃないかと思っただけだ」
「ですが折木さん! もし本当に摩耶花さんが困っているなら、私は――」
「もし本当に伊原が困っていて、そして俺たちの助けが必要ならば、あいつからそう言ってくる」
友人に相談できるような内容ならば、だが。
「ですけど……」
目を伏せると、千反田はそれ以上は言わなかった。
窓から射し込む西日は未だ峻烈で、逆光に立つ千反田の表情は判然としない。
だがその小さな掌を握り締めているのはわかった。
口を開け閉めして必死に言葉を探しているのも見てとれた。
そんな千反田の様子を見ていると、自然と溜息がこぼれる。
つくづく嫌気がさす。千反田にじゃない。己にだ。
以前里志に言われた言葉を思い出す。
曰く「折木奉太郎は使ってこそ」だと。それと「奉太郎が神山高校入学以来、変わったのは千反田えるのせいだ」とも言った。タロットカードに例えるならば女性に御される『力』だとも。
俺はその都度そんな里志の言葉を否定したし、今だって里志の阿呆は下世話な勘違いをしていると考えているが、同時にそれらの言葉に一抹の真実があるような気もしている。
いずれにしても、結局なんだかんだと自分自身に良い訳しながら千反田に協力してしまう俺は、自分の主義主張すらブレてばかりの主体性皆無人間だということだ。
「はぁ……。寝ていて聞いてなかったんだ。千反田、伊原の電話がどんな内容だったかわかるか」
おざなりな言い方になってしまったかと思ったが、千反田の顔はパッと華やいだ。ほとんど叫ぶように「ありがとうございます」と言うと、すぐに彼女はテーブルに戻り、開いたままの自分のノートを捲って新たなページに伊原の台詞を書き出しはじめた。
『もしもし、うん。この間はありがとね。みんな喜んでいたわ』
『うん、今も部活中』
『……どうしたの? なにかあった?』
『……詳しく聞かせて』
~しばらく無言~ (合鎚などはあったと思います)
『それから、ずっとか。もう5時は過ぎてるもんね?』
『学校は? ……そう』
『わかった。もしうちにいたら連絡するわ』
なるほど。俺が聞いていたのは後半部分だけだったが、前半部分を聞いて確信が持てた。
おおよそ見当はついていたが、確かにひょっとすると深刻な事態になるかもしれない。
それにしても本当に千反田は記憶力がいい。たった一度、それも覚えるべくして聞いていたわけでもないのに、たった一度耳に流れ込んできただけの言葉をこうまで正確に記憶しているというのはもはや才能と言っていいだろう。
「折木さん、何かわかりますか?」
「そうだな……お前の記憶力がずば抜けて良いってことが再確認できた」
「はい?」
「奉太郎、そういうのは良いから話を進めてよ」
「わかってる」
千反田は一瞬不思議そうな顔をしたが、すぐに居住いを正してこちらに向きなおった。彼女の大きな瞳が、常よりも大きく見開いている。いや、常のように大きく見開かれた状態に戻ったと言った方がいいかもしれない。
キニナリマス、キニナリマスと無数の妖怪チタンダが体中にまとわりつくような錯覚に襲われる。恐ろしい。千反田のこんな状態は、俺の精神衛生的に非常によくない。早々にこいつの好奇心をどうにかしてしまおう。
さて、どうしたものか。
「まず、一番最後の文からだな。『わかった。もしうちにいたら連絡するわ』ここから何がわかる?」
「摩耶花さんのお宅に誰かいるかもしれない、そしてもう一歩踏み込んで考えれば、電話の主はその誰かを探しているのだと思います」
小さく挙手して返事する千反田に、こちらは頷きで返す。
「そうだな。電話の主は、捜索の依頼を伊原に持ってきたのだろう」
ノートの最後の行に、赤ペンで『捜索依頼』と書き込む。
伊原の電話相手は何者かの捜索をしており、そしてその探し人を見つける為に伊原に電話をしてきた。これは間違いないだろう。
「誰かとは限らないんじゃないかな。犬とか猫とか、ペットを探している可能性もあると思うよ」
千反田に続いて里志も答えた。
里志はいつも正道を外したことを言うが、こうして物事を考える時は、そんな里志の斜に構えた意見が多角的な検証になる。
なるほどペットか、その可能性は考えなかったな。だが――。
「おそらくは人だろう。その前の『学校は?』というのは、『学校は探したのか?』という意味だ。その探し人は学校に居る可能性が比較的高い。伊原が真っ先に思いついたのが学校だからだ」
「生物部が飼育している動物って線はないかい」
「園芸部でも、たしかうさぎを飼っていたと思います」
知らなかった。
神山高校には本当に多種多様な部活がある。生物部や園芸部は比較的まともだが、中にはとんでもなくマイナーな部活もある。そんな神山高校の部活動だ。もしかしたら二人が言う以外にも、得体の知れない動物がこの校舎に生息しているかもしれない。
しかし、それでも動物の捜索依頼の可能性は――。
「ないだろう」
「なぜですか。なぜ折木さんは、動物ではないと言い切れるんですか?」
千反田は胸の前で手を組み、まるで訴えるように詰め寄ってきた。
興奮しているのか、暑い夏の日差しゆえか、彼女の頬は朱に染まっており、頤から下がる白い首筋と、その先に見え隠れする鎖骨までが……。
「ち、近い」
咄嗟に、彼女の肩をつかんで押し返すのは失礼かもしれないと思い、手をかざした姿勢のまま自分があとずさった。
「折木さん!」
離れた分だけ千反田が詰め寄る。
「か、考えてみろ。伊原は『学校は?』と聞いているんだぞ。そもそも学校で飼っている動物がいなくなったのなら、伊原の電話相手……まぁ、こいつを仮に電話主Xとして探し人をYとすれば、Xは伊原にこう言うはずだ」
一度、深呼吸してノートにXとYを書き込む。
「『もしもし伊原さん、Xです。大変なの、学校で飼っていたYがいなくなってしまったの。伊原さんは、どこかで見かけなかったかしら』ってな」
二人を見回す。
里志は軽く頷いてみせたが、千反田は釈然としない顔をしていた。
「なるほど。たしかに、それは理屈だね」
「まあ、この場合、実際の会話では『学校で飼っていたY』か、『部室で飼っていたY』か、もしくは『別のどこかの教室で飼っていたY』かは分からないが、いずれにしても電話主Xは、Yが学校にいない事態を受けて伊原に電話するはずだ」
「……どういう意味でしょうか?」
言葉足らずだったらしい。
千反田はまだ思案顔だ。
「つまり、Yが飼育動物のような常に学校にいる存在だとすれば、電話主XはまっさきにYが『学校にいない』ことを告げるはずなので、伊原がわざわざ『学校は探したのか?』という質問をするのは不自然だということだ」
「あ、なるほど。わかりました」
ようやく千反田の納得を得ることができた。
整理しよう。
電話主Xは探し人Yを探している。Yは日ごろから学校に出入りする存在ではあるが、常に学校に住んでいるような存在ではない。つまりYは生徒か教師だ。9割がた人間だと思っていいだろう。
「そうするとマン研か図書委員の誰かかな。摩耶花の交友関係っていうとそのへんだ」
「クラスのお友達かもしれません」
確かにそう思える。
伊原の交友関係を俺たちが全て把握しているわけではもちろんないが、だが探し人Yがこの学校の生徒だとすると、また腑に落ちない点がある。
「俺も初めはそう思ったが……違うな。もし探し人Yがここの生徒なら、伊原は俺たちに聞くんじゃないか。Yさんを知っているか、どこかで見なかったかって」
そう言うと、千反田と里志はそろって唸り声をあげた。
考えるに、探し人Yは俺達に協力を仰ぐにはプライベートすぎる存在なのだろう。もしくは古典部員が知る由もないような、ここと無関係の人物だ。
だが、幸か不幸か俺こと折木奉太郎は、小学校1年からずっと伊原と同じクラスだったのだ。伊原の知人で、かつ俺と無縁な人物というのはそれほど多くないだろう。
やはり探し人Yは伊原にとってプライベートな存在だ。それこそ家族や親戚のような、文字通り身内の者であると考えるほうが自然だ。
「別に捜し人Yの出入りしている学校が神山高校である必要はないだろ。おそらくだが……探し人Yは善名嘉代だ。ほら、このあいだ温泉に行っただろ」
「え! どうしてですか?」
「もっと言うなら、電話主Xは嘉代の姉の善名梨絵だろうな」
逆の可能性もあったが、それはここでは判別できないので伏せることにした。
「お、教えて下さい、折木さん! どうして嘉代さんや梨絵さんの名前が出てくるのですか?」
雀が躍るようにして千反田が詰め寄ってくる。
近い近い、そのギラギラした目のまま胸ぐらをつかむな、怖いだろう。
「い、一文目と二文目に注目してみてくれ。『この間はありがとう。みんな喜んでいた』、『今も部活中』ここでいうみんなとは、誰のことだ?」
「そうか、なるほど。みんなってのは僕たち古典部員のことだね。『今も部活中』っていう台詞を考えれば間違いない。ってことは電話主Xは、僕ら古典部のことを知っている人物ってことだ。しかも摩耶花はお礼を言っている……。確かに僕ら4人で世話になった人物という条件なら、善名姉妹は該当するね」
「ですが、それなら梨絵さんではなく女将さんかもしれません。それに入須さんや他の方かも」
女将さんというのは、善名姉妹の母親。旅館青山荘の女将のことだろう。入須というのは神山高校の先輩だ。
「他の誰かならともかく、女将さんや入須の線はない。伊原のくだけた口調から一目瞭然だ。伊原は当たりがキツイところもあるが、年長者に敬語を使うくらいの良識はもっている」
「引っかかる言い方だね。麻耶花はちゃんとした常識的な女の子だけど?」
里志がどうてもいいところを混ぜ返したが、それは無視した。
「補足すると、『もう5時は過ぎてる』という言葉だ。この言葉の真相まではわからないが、捜し人Yが善名嘉代だとすれば筋の通る仮説が立てられる」
「なるほど門限だね!」
「たぶん、な。門限が五時となると、それこそ小学生と考えていいだろう」
千反田はようやく納得したのか、落ち着いて俺の制服から手を離した。表情もなく呆けているようにも見えるが、これは何かを考えているのだろう。しばらく待てば千反田の口から結論が出るかもしれないが、それを待ってやる必要もなかったので、先に言ってやることにした。
「おそらく、嘉代が家出でもしたんだろう」
一抹の不安を残したまま、その日の部活はそれでお開きとなった。
最後まで千反田は浮かない顔をしていた。一応「明日伊原に聞いてみればいいさ」と釘をさしておいたが、どうかすれば一人で青山荘まで探しに行きかねない様子だった。
「じゃあ、気をつけて帰れよ」
玄関まで来て、自転車の千反田とはここで分かれることになる。
俯いたままの千反田に一声かけると、彼女は顔を上げた。
「あの、折木さん、何か私たちにできることって――」
「ない」
「折木さん……」
千反田はいつも無茶を言うし、何にでも首を突っ込みたがる。
だが、今回の件は『千反田える』からでは遠すぎる。
善名姉妹と彼女とでは、その人生において一度だけ会ったことがあるという、それだけの関係だ。そんな所の問題にまで顔を出していたら、千反田はともかくとして折木奉太郎の身が持たない。冗談じゃない。
「あれは伊原の問題だ。俺達は部外者だぞ」
「それは、そうですが……」
千反田は再び俯いてしまった。
「千反田さん、奉太郎の言葉を聞いたかい? あれは伊原の問題だ。俺達は部外者だ、だって」
「はい。聞きました」
「まるで自分達が当事者だったら、積極的に解決に乗り出すのにって言ってるみたいだよね。省エネ主義のくせに」
「あ、そうですね。そう聞こえるかもしれません」
「さーとーし」
余計なことを言おうとしている里志に裏手でチョップを入れる。
手が痛かった。
「とにかく、今日は解散だ。何をどうするにしても、明日の朝、伊原の様子を見てから考えればいい」
「はい。そうですね」
軽く手を挙げて挨拶に代えると、千反田とは校門でわかれた。
隣を歩く里志が急に「殊勝なことだね」と言って含み笑いを漏らしたが、それがなにを意味しているかは終ぞ分からず、おそらくは馬鹿にされているのだと思ったが、思い当たる節がなかったので怒りも沸かず、結局朝と同じように里志と連れ立って家路についた。
この時俺は、確かに違和感を感じていた。里志の言葉にじゃない。それとは別のことに……。
もっとよく考えて、この違和感がなんなのかハッキリさせておけば、少しは結末も変わったのかもしれない。
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3
早朝のことだった。
まだ出社前の父に呼ばれて居間に降りると、電話の子機を差し出された。
折木奉太郎は自分でも今時珍しいと思うが、携帯電話を持たない男子高校生だ。このご時勢なので、親に頼めば買ってもらえるだろうと思うが、携帯電話に付随するという煩わしいアレコレについて耳にするたびに、己には過ぎた長物だと思い、今日に至るまで一度も携帯電話を欲しいと思ったことがない。
それゆえ数少ない学友などからの連絡は、専らこの折木家の固定電話に入る。おそらくは里志あたりがまた奇天烈な思いつきで何かを始めようと考えているのだろうと思って手を伸ばすと、
「伊原さんというお嬢さんからだ」
しかし父の口を付いて出たのは予想だにしない名前だった。
低血圧のために寝ぼけていた意識が冷水でも浴びたかのように覚醒した。
「まあ、伊原さんってもしかして摩耶花ちゃん?」
母が嬉々として受話器をひったくろうとするのを片手で制して、逆の手で父からそれを奪い取った。両親の何か言いたそうな視線が堪らなく鬱陶しかったけれど、伊原を待たせて後でつまらない文句を言われるのは御免だったので、早々に受話器を耳に当てた。
「もしもし」
『折木、あの……おはよ』
奥歯に物が挟まるたような、という比喩表現があるが、実際に奥歯に物が挟まった場合、うっとおしくはあっても発語に支障をきたすようなことにはならない。
ともあれ伊原の声は奥歯に物が挟まったような口調だった。
「あぁ、おはよう、どうしたこんな朝早くから」
『もう7時半よ。あんた普段何時まで寝てるわけ』
伊原にこれを言われた時の俺の気持ちを率直に言うならば"辟易"だ。きっと眉間には無数の皺が寄り、受話器が拾わないように大きく鼻から溜息を吐いたはずだ。
いいか伊原、口に出して言えばどんなしっぺ返しがあるか知れないからモノローグで言わせてもらうが、俺が何時に起きようが、学校に遅刻していないのだからお前に文句を言われる筋合いはない!
「いいから要件を言え。さもなくば切るぞ」
『……。』
「どうした?」
『ごめん、やっぱりなんでもない』
「そうか」
『……あ、あのさ』
「なんだ……」
もう電話を切ってしまおうか。
だがそんなことをしたら、追々より面倒で厄介で面白くないことに巻き込まれるような予感もする。やらなければならないことなら手短に、か。
「はぁ。……どうした、家出娘は見つかったのか?」
『あ、あんた! どうして嘉代のこと知ってるのよ!?』
伊原の大声が受話器を通して鼓膜に突き刺さる。驚いているらしい。仰天して慌てる伊原はなかなか珍しいから、表情を見られないのが残念だ。
昨日の夕方、伊原が帰った後のことを簡単に説明すると、伊原は『あんたってやっぱり変』と宣った。
『折木、恥を忍んでお願いするわ。嘉代を探すのを手伝ってほしい。あんたなら、きっと嘉代の居場所を見つけられると思う』
「……。」
悪いが、断る。と言ってしまうのは簡単だ。
行方不明の女児を探し出すだなんて、そもそも折木奉太郎には荷が勝ち過ぎる。
俺はもう自分の力を過信しない。俺は千反田達が思い描くような類稀なる推理力の持ち主などではなく、平々凡々でつまらない灰色の人間だ。そんな俺に、子供の捜索依頼だって? 馬鹿を言え。そんなのやってみるだけ無駄だ。
だが、どうしたことか俺の口は否定の言葉を発さなかった。
忌々しいことに、折木奉太郎はまだ自分の可能性を僅かに信じているらしい。あの女に植え付けられて、千反田に繋ぎ止められた怖気の走るような希望の欠片を女々しく抱き続けているらしい。
やれやれ。自嘲の笑いも出やしない。
『折木、あんたがこういう風に、自分が責任を取れないようなことを頼まれることが嫌いなのは分かってるつもり』
知ったようなこと言う。
だが、伊原の言うことは正しかった。
「まあ、そうだな」
『うん。だから無理にとは言わない。私はこれから青山荘に向かう。学校はサボるわ。もしあんたが協力してくれる気があるなら、8時20分のバスで行くから』
リビングの時計を見る。
7時36分。あと50分もないじゃないか。
『それじゃ、期待しないで待ってるから』
「……ッ、まて伊原」
『なに?』
冗談じゃない。
バスターミナルは神山駅前だ。今から朝食をすませて、着替えて、自転車で駅前まで全力疾走(折木奉太郎のモノローグに『全力疾走』なんて言葉が出てくること事態すでに冗談じゃないことだが)するとして、50分で到着するなんてギリギリだ。
百歩ゆずってそれは良いとしても、今日まるまる一日を伊原とたった2人で過ごすなんて、そっちの方が無理だ。精神疲労で死んでしまう。それに昨日あれだけ千反田に自制を求めておいて、彼女に連絡せずに自分だけが青山荘に行ったりしたら、それこそ後でどんな顔をされるか――。
「千反田にはお前から連絡しろ。俺は里志に電話する」
「え、なんでよ?」
「俺と二人で学校サボって出かけたなんて、後で里志の耳に入ったら面倒だろう」
公然の秘密でもなんでもないが、伊原摩耶花は福部里志に懸想している。里志が明言したことはないが、あいつだって伊原のことを憎からず思っているはずだ。そんな伊原が、自分以外の男と学校サボって出掛けたなんてことになれば、いくらポーカーフェイスの里志だって眉間に皺くらい寄せることだろう。
「う、そ、それは……でも二人を私の都合で学校サボらせていいのかな」
至極まっとうな意見だ。
だが伊原よ、それを言うなら俺はいいのか。
「とにかく必ず千反田に連絡しろ」
それだけ言って、受話器を置いた。
依然として両親は朱鷺の雛でも見るような温かい視線をこちらに向けていたが、それには一切取り合わずにすぐに里志の携帯に電話を掛けた。早く支度しないと本当に間に合わない。
田園風景の一部と化した緑とカーキ色のバスに、我ら古典部は一人も欠けることなく無事に乗り込むことができた。
早朝とは言えまだまだ夏の香りが色濃く残る9月1日。結局駅まで自転車をこいだ折木奉太郎は、バス酔いに打ちのめされるまでもなく、早々に満身創痍でカビ臭い座席に崩れ落ちるように座っていた。
「大丈夫かい、奉太郎。その虚弱体質も君のアイデンティティだって理解してるつもりだけど、君はちょっとくらい体を鍛えた方が良いかもしれないね。ひとたび風邪でも拗らせたら、奉太郎の場合そのまま死んじゃうんじゃないかって時々思うことあるよ、あはは」
「……余計な、お世話、だ」
冒頭にこそ気遣いの言葉がついていたが、里志はまるで愛玩動物でも見るかのように楽しそうに、幸せそうにこちらを見降ろしている。睨みつける力さえも残っていなかった俺は、その一言を搾り出すと、後は目を閉じて思考から里志を締め出した。
本当にいったい何故俺は福部里志という男と友人などやっているのだろう。もしも友情というのが契約制だとしたら、次は絶対に契約更新すまいと心に決めた。
田舎道を走るバスの車内は閑散としたもので、我ら古典部の他にはご老人が数人乗っているだけだった。そのおかげと言ったら申し訳ないが、二人掛けの席に倒れこむことを躊躇わずにすんだのはありがたい。
しばらくそのまま横になっていると、不意に額に冷たい布が押し当てられたのが感触でわかった。
驚いて目を開くと、目の前に千反田がいた。
「大丈夫ですか、折木さん」
彼女がハンカチで俺の汗を拭いているということを理解するのに数秒かかった。
逆の手にペットボトルの水を持っていたので、それで即興の濡れタオルを作ったのだろう。ヒンヤリとする感触は水の冷たさだ。
「悪いな」
慌てて体を起こし、ほとんどひったくるようにしてハンカチを受け取った。
白地に水色の花を散らせた上品なハンカチだった。
「今度、洗って返すから」
「あ、もう。ジッとしていてください。私がやりますから」
ハンカチを取り返そうと伸ばす千反田の手をすり抜けるように避けて立ち上がると、俺は疲れていたことも忘れて伊原と里志のいる席の方へ移動した。
「くくく、奉太郎、もう少し千反田さんのお世話になればいいのに。まだ顔が赤いよ……痛ッ!」
何も言い返さず、俺は里志の靴を踵で踏んでやった。
里志の隣に腰を下ろすと、すぐに千反田も駆け寄って来て前に座る伊原のとなりに腰掛けた。
千反田はまだ何か言いたげにチラチラとこちらの様子を伺っていたが、さすがに里志と伊原の目の前で甲斐甲斐しく俺の世話をするのは彼女も恥ずかしいのか、そわそわするだけで先ほどのような暴挙に出ることはなかった。
「里志、青山荘まであとどれくらいだ」
「あと1時間でこのバスは降りなきゃだけど、そこからまだ10kmくらいある。今回は迎えのバンは来てくれないから、タクシーを拾わないといけないね。焦ってもしかたないし、奉太郎は眠っておいた方がいいんじゃないかい」
「いいや、大丈夫だ」
目を閉じていたら、またぞろ千反田が何かするかもしれない。
幸い前の席に座る千反田は、ようやく俺の様子を伺うのを止めたようで、伊原と話をしていた。
「私、学校サボるのって初めてです。なんだかすごくいけないことをしている気持ちになりますね」
「ごめんねチーちゃん。迷惑かけて」
「いいえ、迷惑なんてことはありません! 私だって心配だったんです。昨日、折木さんの話を聞いてから、ずっとずっと心配でした。今日になって嘉代さんが見つかっていなければ、一人でも青山荘にお邪魔しようと思っていたくらいです!」
昨日、帰りしなに釘を刺したつもりだったが、このお嬢様にはまったく利いていなかったらしい。
「でも千反田さん自身は良くても、千反田さんのご両親には申しわけないことをしたかもしれないね。ほら、客観的に見てごらんよ奉太郎」
「なぜそこで俺に振る」
眉間に皺を寄せるだけの力を回復していた俺は、しかしその力を使うのは勿体無い気がしたので口だけを動かした。
「今の千反田さんは、高校に入学してから悪い友達ができて、そのために学校をサボるようになってしまった典型的な堕落していくお嬢様だよ。そして千反田さんを唆す悪魔が君じゃないか奉太郎」
「だ、堕落……ですか?」
「悪魔って、おまえ……」
里志の話を聞いていた千反田は、目をしばたかせてからチラとこちらを伺った。見られているのには気づいていたが、目を合わせても何も言うべきことはない。
「失敬な、千反田に連絡したのは伊原だぞ」
「チーちゃんに連絡するように私に言ったのは折木だけどね」
確かにそうかもしれんが。
だが昨日の千反田の様子を鑑みれば、今朝の段階で千反田に連絡しないという選択はありえない。そんなことをすれば、後で世にも珍しい激怒する千反田えるに平身低頭謝ることになりかねないぞ。
「私の両親なら心配いりませんよ。今朝、学校をお休みすることと、嘉代さんを探しに行くためという理由をちゃんと説明してきましたから」
「へ?」
伊原と里志は口を開き、珍しいものを見る目で千反田を見ていた。
二人して同じような顔だ。オノマトペを振るならば「ポカーン」といったところだろう。
確かに気持ちはわかる。高校生が学校をサボるというのは、まさに彼女自身が口にしたように"いけないこと"なのだ。両親にそれを告げるというのは、普通の親子関係であれば勇気のいることであろう。まして千反田の家は、里志曰く桁上がりの四名家の1つ。つまり神山市でも有数の名家なのだ。良い所のお嬢様が学校をサボるというのは、いかにも外聞が悪い。当然両親には言わないし、言えないだろうと思ったが、偏見だったらしい。
「それで、チーちゃんのご両親はなんて?」
「はい。若いうちは、己が正しいと思うことをしなさい。大人になれば様々なしがらみが私を縛り、正しいと思うことばかりできなくなるかもしれないから、と言われました」
「はぁ……モラトリアムだね。豪農千反田家の名家たる由縁を見た気がするよ」
「なんだよ、モラなんとかって」
聞くと、里志はピンと人差し指を立てて説明を始めた。
「僕ら子供達に許された社会的猶予のことさ。奉太郎が日々怠惰に過ごせるのもモラトリアムと呼べるかもしれないね」
よくわからなかったが、馬鹿にされているような気はした。
「私は、ママに黙って来ちゃったわ」
「僕もそうだね。誤解しないでほしいけど、正直言って今回の件は進学校に通わせてもらっている身としては後ろめたい気持ちもあるよ」
「嘘をつけ、お前がそんな殊勝なことを考えるわけあるか」
「失敬だなぁ、奉太郎は」
言わなかったが、俺は一応親には掻い摘んで説明してきた。すると我が親は「遅くなるようなら電話しろ」とだけ言って、それ以上何も言うことはなかった。うちの両親が極めて放任主義なのは我が姉を見ていればわかろうというものだ。
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4
三週間ぶりに訪れる青山荘は、大きく様変わりしていた。
前回来た時には改装中だった本館は、ブルーシートが取れて白磁の雄大な建屋に姿を変えていた。草花も、前に来た時よりもより青々と茂り、人類文化と大自然の調和が一層旅館の趣を深いものにしている。
割り勘でタクシー代を払い、アスファルトの上に立つと、とたんにセミの鳴き喚く声が全身に絡み付いてきた。煌めくアスファルトの照り返しは否応無く盛夏を突き付け、車内の冷房に守られていた体中の汗腺が、思い出したように仕事を始めた。
生命活動に支障をきたすほどの暑さだ。頭上に茂った広葉樹が日陰を作ってくれていなければ、早々に卒倒しかねない。
「暑いな」
「夏だからね。それでも神山市よりは標高が高いわけだし、いくらかマシなはずなんだけど……いや、温泉街だしそうとも言い切れないのかな」
言いながら、里志は自分の巾着を左手に持ち替え、右手で俺の荷物を引き取った。
「持つよ。今日の僕はワトソンの立場に甘んじることにしよう」
「俺はホームズじゃない。それにホームズはワトソンに鞄を押し付けたりはしないだろう」
「するんじゃないかな。ホームズが熱中症で前後不覚となればなおさらね」
恐ろしいことを言ってくれる。
しかしどうやら折木奉太郎が暑さにまいっていると思っているのは里志だけではないらしく、気付けば千反田は自分の帽子をウチワにして俺に風を送り、伊原は遅々として前に進まない俺を助けるべく小さな体をさらに小さくして背中を押してくれていた。正直伊原のこれが一番助かったと思う。
幸い、里志の不吉な予言が成就する前に梨絵に会うことができた。彼女が青山荘の前の道で待っていたからだ。
「マヤ姉ちゃんッ!」
梨絵は伊原の姿をみとめると、走って近寄ってきた。
そのまま腰にぶつかってきた梨絵を、伊原は腕を広げて受け止める。
善名梨絵。
小学6年生で善名姉妹の姉の方だ。快活な少女で年上の人間にも物怖じしない性格をしている。以前、千反田の企画した小旅行の際に、伊原の親戚家である旅館『青山荘』に世話になることがあり、善名姉妹はその旅館の娘だ。
「梨絵、あなた大丈夫なの? あんまり寝てないんでしょ?」
「へーき」
梨絵は首を横に振ったが、彼女の目元は腫れぼったく、小学生には似つかわしくない睡眠不足の証がくっきりと見て取れた。
梨絵の案内で、青山荘の裏手に回り、勝手口から旅館の中に入る。
勝手口と言ってもそこは従業員用の玄関のような場所で広く作られていた。土間には大人物のサンダルが一足出たままになっていたが、梨絵はそれを下駄箱に入れて、そこから4人分のスリッパを出してくれた。
「ここで待っててください」
梨絵が通してくれた部屋は、前回も使わせてもらったのと同じ部屋だった。
彼女は俺たちを部屋に押し込むようにして入れると、自分はすぐに階段を下りていってしまった。
畳張りの部屋は、以前使わせてもらった時とほとんが変わらなかったが、テーブルは壁に寄せられていたため、座布団だけ借りて車座になって座った。
家人の許可を得ずに使うのは躊躇われたが、どうしても暑かったので、親戚である伊原のゴーサインでエアコンのスイッチを入れた。
一度階下へ消えた梨絵は、ほどなくして麦茶を持って戻ってきた。それほど歩いたわけじゃないが、そこに居るだけで身体の水分が奪われるほどの暑さだ。冷えた麦茶ほどありがたい物はない。
四人分の麦茶を配ると、彼女は自分の分のグラスを持って伊原の隣に座った。
「叔父さんと叔母さんはいないの?」
「うん、二人とも嘉代を探しに朝から出かけちゃった」
「そっか、そうよね」
まずはご両親に詳しい話を聞こうと思っていたのが当てが外れたな。
仕方ないので両親が戻ってくるまで休ませてもらおうと畳に寝転がろうとする俺を、誰かが腕を取って阻んだ。
「ちょっと、折木」
伊原がこちらを見ていた。
いや、正確には伊原だけではない。千反田と里志も、一様に俺に視線を投げかけている。無遠慮に人の腕を掴みあげたのもやっぱり伊原だった。
「なんだよ」
「あんたが話を始めなさいよ」
あごを振って、伊原は何事かを伝えようとしている。
それはおそらく、"梨絵に話を聞け"という意味のジェスチャーなのだろう。なるほどご両親が不在であれば、実際に伊原に電話してきた梨絵に事情を聞くというのは道理だ。だが、
「なんで俺が?」
そう言うと、返って来たのは大きなため息だった。
「あんたが一番適任だからでしょ」
千反田も大きくうなずく。
里志は腕を組んだ姿勢のままウインクをしてみせた。男のそれを見ても、腹がたつばかりだと奴はわかっているのだろうか。
梨絵を見る。
彼女は妹の嘉代と違って、年上の俺達に対しても物怖じしない性格をしている。よく言えば天真爛漫、悪く言えばお転婆な娘だ。
はっきり言って折木奉太郎は子供が苦手だ。それに己が子供に好かれるタイプでもないと自覚している。こんなことが無ければ、小学生女児なんて絶対まともに会話したりできないだろう。
「あー……梨絵。嘉代がいなくなった時のことを説明してもらえるか?」
「うん、昨日は始業式だったから、お昼で学校終わったの。それで嘉代やみんなと一緒に帰ってたんだけど、家についたらいつのまにか嘉代がいなかったの」
驚愕の事実だ。
どうやら梨絵たちの小学校も一昨日まで夏休みだったらしい。羨ましいことこの上ない。
「何時いなくなったか正確に分かるか?」
「うーん、わかんない。嘉代は後ろの方を歩いてたから……でも、保育園のとこでユキちゃんの靴紐なおしてたから、保育園まではいたよ」
「ユキちゃんってのは誰?」
「下の家のオオタユキちゃん。1年生」
言って、梨絵は窓の外を指さした。そこからは残念ながら家屋は見えなかったが、おそらく大田家という隣家が彼女の指差す先にあるのだろう。
ばさりと音がしたかと思ったら、里志が巾着から紙を取り出して広げた音だった。畳の上に広がったのはA3ほどの大きめの紙で、そしてそれは――。
「地図か」
「持ってきたんだ。必要になるかと思ってね」
用意のいいことだ。
いや、用意がよすぎる。里志には今朝電話したというのに、いったいいつの間にこの青山荘付近の地図を用意することができたのか。不自然だ。実は里志が梨絵を誘拐した犯人じゃないだろうな。
「さっすが福ちゃん、準備いいわね」
「へへへ、実は昨日のうちに用意してたんだ。部室での千反田さんの様子じゃ、もしかしたらこういうことになるかもって思ったからね」
さいですか。
俺はちっともそんな予想はしていなかったぞ。
いや、もしかしたら俺も深層心理では考えていたかもしれないが、同時に俺の表層心理がこんな面倒くさい事態になることを忌避して考えないようにしたのかもしれない。
里志の持ってきた地図を覗き込む。
梨絵と嘉代の通う小学校から、青山荘までは3.5kmほどある。小学生の通学にしては距離がある方だと思ったが、ここのような山間部では普通のことなのだろうか。
梨絵の言う保育園というのは、おそらく学校と家のちょうど中間にある「いずみ保育園」のことだ。いずみ保育園から青山荘までは直線距離で約2km。東に弧を描くようにして道なりに進み、温泉街に入るところで左折する。そこから脇道に入り、神社から小さな橋まで歩く。そこから100mほど南下したところにある旅館「やまと」の第二駐車場を通り、そこから青山荘までは一本道だ。
保育園まで2kmか。往復で4km。距離があるな。
「誰か、ちょっと保育園まで行ってもらっていいか?」
「はい、行きましょう!」
千反田は元気よく立ち上がった。
いや、そうではなく……。
「奉太郎、今日ぐらい君の信条を曲げて率先して歩いても罰は当たらないと思うよ」
「俺は罰が当たるとか御利益があるとか、そういう非科学的なことは信じていない」
間髪いれずに里志のチャチャを制した。
しかし里志はここからが長い。百の言葉を弄して俺を操ろうとするのだ。と思って、身構えた俺を助けてくれたのは、以外にも伊原摩耶花だった。
「いいわ、折木にそういう仕事は期待していないから。あたしが行ってくる」
「私も行きます!」
「え、摩耶花? ちょっと、ここは言葉遊びをしながら千反田さんに奉太郎を動かしてもらう場面だろう」
里志、貴様いつもそんな風に考えていたのか。
「折木、私たちは保育園……ううん。一応学校までの道を、嘉代を探しながら歩いてみる。何に気をつければいいの?」
「伊原……おまえ」
普段と違う伊原の態度に、つい二の句が出てこなかった。
ただ数秒伊原の顔を見て、彼女が本当に従姉妹のことを心配しているのだということを改めて理解させられてしまった。
「なによ。一刻を争うかもしれないんだからね。早く指示を出してよ」
「ん、そうだな。ならこの地図には書かれていない情報をなるべく詳しく見てきてくれ。どんな店があるだとか、こんな看板があっただとか、町の雰囲気だとか、そういう些細なことでいい」
こういう仕事は俺のような森羅万象に無関心なヤツよりも、四季の移り変わりや花鳥風月を楽しめる千反田のようなヤツか、データベースを自称して雑学の蒐集に余念のない里志のようなヤツか、常に注意深く万事に気をはらって生きている伊原のようなヤツの方が向いている。何も自分が歩きたくないというだけの理由で他の人に行ってもらおうと思ったわけではない。
「わかった、行ってくる。福ちゃんも一緒に来て」
「仕方ないね。摩耶花が行くなら僕も同行するよ」
「あの、折木さん、折木さんはその間……その、何を?」
「俺は――」
別に何かをする予定はない。
「いいからチーちゃん、行きましょう。時間がもったいないわ」
「あ、はい」
露骨に後ろ髪を引かれる様子の千反田を、伊原は押すようにして部屋から飛び出していった。里志も観念したのか、聞こえないほど小さく溜息をついて、二人の後を追って青山荘を出て行った。
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5
残された俺は、一人で畳にあぐらをかいたまま、梨絵の出してくれた麦茶をチビチビ飲んでいた。グラスを傾けると、中の氷が揺れてからんと音が鳴る。
「お兄ちゃんはさ、安楽椅子探偵なの?」
その視線には先ほどから気付いていた。
三人が出て行ってからずっと、梨絵はチラチラと横目でこちらを伺うようにしていたのだ。
特別広いわけでもない空間に2人の人間が残されれば、必然的に互いの様子を意識してしまうとは思うが、そこはさすが子供。視線にも発言にも遠慮というものがない。
「なんだって?」
「だって、助手はみんな走り回っているのに、お兄ちゃんはこうやって客間で一人ボーっとしてるから」
助手とは伊原達のことだろうか?
もし本人が聞いたら烈火のごとく怒り狂うぞ。
「梨絵、勘違いしているようだから言っておくが、俺は探偵ではないし、まして安楽椅子探偵だなどと気取った存在ではない。伊原たちも別に俺の助手じゃないんだ」
「でも、マヤ姉ちゃん言ってたよ。この前」
「なんて?」
「私の知り合いに探偵がいるんだって。今朝電話した時も、必ず探偵を連れて行くって」
「……そうか」
「マヤ姉ちゃんの言う探偵ってお兄ちゃんのことでしょ?」
「だろうな」
極めて不本意だが。
「探偵役のお兄ちゃんが、こうやって何もせずにいるっていうのは、やっぱり安楽椅子探偵なんじゃないかな」
残念ながらこの客間に安楽椅子はない。
「座布団探偵だと格好がつかないか」
「ふふ、そうかもねー」
たしかに今日は急いでいたので文庫本の一冊も持ってきていない。
あとで伊原に怒鳴られるのも嫌だし、なにもすることが無いのだから少しだけ考えてみるか。
まずは状況を整理しよう。俺たちが解決すべき問題は何か。
これは単純、行方不明の善名嘉代を探し出すことだ。
8月31日、午後未明に姉の善名梨絵を含む友人達と帰宅中に、嘉代は忽然と姿を消した。9月1日11時現在においても、未だ発見されていない嘉代を見つけることが、我ら古典部の目的ということになる。
さて、では善名嘉代は何故に行方不明なのか。
これは現時点では不明だが、可能性は大きく3つになるだろう。
1つ、家出した可能性。これが最も穏当で、かつ望ましい展開だ。
小学生の家出が、どのくらいの確立で生家との断交という結末に至るのかは知らないが、おそらく数%もないだろう。家出ならば、何もせずとも嘉代は帰ってくる。この線は後回しにしていい。
2つ、何らかの事件に巻き込まれた可能性。単刀直入な言い方をすれば誘拐された可能性だ。
女児が誘拐される場合、犯人は二種類に分かれる。営利目的と性犯罪者だ。営利目的の線は考えなくていいだろう。青山荘に身代金の要求が無いからだ。もちろん昨日のうちに要求の電話があって、今まさに女将さん達が犯人との交渉に赴いている可能性は否定しきれないが、その場合ただの高校生にすぎない自分達の出る幕はない。ここでただ祈っているくらいなら、他の可能性を考えた方がいい。
一方、性犯罪者による犯行の可能性だが、現時点ではこれを否定しうる論拠は存在しない。
一応、友人と一緒に歩いていた嘉代をターゲットには選ばないはずだという主張はできなくないが、世の中には様々な人間がいる。異常者の犯行を考慮する場合、そこに理屈は介入できない。『そういうことをする奴がいた』という結論が、いやがおうにも突き付けられるからだ。
この場合、梨絵を救出するためには犯人の思考を読み解いて、潜伏先を特定する必要が有る。何の権限も土地勘もない我ら古典部がこれを解決するのはほとんど不可能に近いだろう。
3つ、事故の可能性。
この場合、嘉代は負傷している可能性が高い。そして行方不明になってすでに20時間近く経過している現時点において、もしも嘉代が自力での帰宅ができず、かつ助けを呼べないという状態だとすれば、それはかなり逼迫した事態だと言えるだろう。
このあたりは山中の町ということもあって極端に車幅の狭い道路や、落下の危険性がある谷沿いの道も多い。緊急性を考慮すれば、まずは事故の可能性を考えていった方がいいかもしれない。
あらためて広げられたままの地図に目を落とした。
温泉街だけあって、そこらじゅうに旅館やホテルがある。青山荘の周りも商売敵だらけだ。周囲のちょっとした広場は、いずれも宿泊施設の駐車場だ。
青山荘のすぐ北側には『旅館やまと』、その隣に『ペンション太田』、そして我らが青山荘は町のほぼ一番南端に位置する。青山荘より南側には山が広がっているだけで何もない。青山荘の立地はあまりよくないのだろうか。
梨絵たちの通う昭和明星小学校は町の中心にある。すぐ近くにはちょっとしたスーパーマーケットもあり、小学校の周辺がこの町でもっとも人の集まる場所なのだろう。
先ほど里志が引いたラインマーカーの通学路を指でたどる。
小学校を出てしばらくは直線だが、県道を一本越えたところから道が左右に蛇行し始める。途中に酒屋が一軒、大衆食堂が一件、消防署が一箇所、それ以外はずっと何もないまま嘉代が最後に目撃された保育園にたどりつく。
保育園からは、西側にそびえる小白山の渕をなぞるように東向きに弧を描いてずっと歩く。谷側は地図からでははっきりしないが渓流が流れているようなので、まさしく谷になっているのだと思われる。分かれ道などは無い。
山を半周弱歩いて、そこから東側に橋を渡る。川を超えると再び温泉街となり、道の両脇に旅館や民宿などが立ち並ぶようになる。
ここから里志の地図では道が消えているのだが、梨絵曰く『人は歩けるけど車は通れない道』が南東方向に伸びており、そこを通って神社の境内に出る。神社は広い敷地があるものの神殿以外には建物はないらしく、境内を突っ切って逆側の道へ出られるらしい。
少し進んだ所にある旅館やまとの駐車場を抜けて、先ほどタクシーを降りた道に出て、ようやく青山荘にたどり着いた。
「ふぅ」
地図を目で追いかけただけなのに少し疲れた。
いつのまにか注ぎ足されていた麦茶をもう一杯もらって、同時に眉間に寄った皺を指で揉み解す。
「なにかわかった?」
あくびを噛みころしながら梨絵が聞いてきた。
さて……。
最後に嘉代が目撃された保育園から先には谷沿いの道が長く続き、さらには一本とはいえ橋を渡っている。加えて一昨日は酷い大雨で、このあたりも大量に雨が降ったはずだ。滑落事故という簡明で安易かつ絶望的な回答は、折木奉太郎が飛びつきやすいところで揺れている。客観的な事実から物事を公平な目線で見渡せば、その答えが最もソレらしいと言わざるを得ない。
ただ、何かが引っかかる。
これまでの情報の中に、今回の件が事故ではないということを意味する何らかの手掛かりがあったような気がしてならない。それは昨日、下校時に感じた違和感と酷似しているのだが――。
「いいや、まだなにもわからん」
結局俺がそう答えると、梨絵は大きな音で溜息をついた。
本当に子供は遠慮ってものがない。
ところで里志たちは地図を持たずに行ったが、迷ったりはしないのだろうか。いや、里志のことだ、どうせ地図のコピーを人数分用意してあるのだろう。あいつはそういう男だ。
何をするでもなくボンヤリと考えていると、急に部屋のテレビがついた。
一瞬おどろいたが、いつの間にやら梨絵の手にリモコンが握られていた。梨絵は考える俺を待つのに飽きてしまったのだろう。
次々とチャンネルを回すが、しかし平日の昼間ということもあって、小学生の彼女のお気に召すような番組はやっていない。結局はローカルテレビのお天気キャスターが、見たこともないユルキャラと一緒に今晩の天気を予報する様をぼんやりと見つめることに落ち着いた。
テレビの横に、小さな置時計があった。
こつ、こつ、こつ、と歩みを進める秒針の足音をたっぷり100回ほど聞いてから、そのあいだずっと黙って隣に座っていた梨絵に、いよいよして話しかけた。
「梨絵。眠いのか?」
「……んーん。まだ平気」
とてもそうは見えない。先ほどから繰り返しあくびをしているし、目元は何度も擦ったせいで赤くなっている。
だが、いま梨絵に脱落してもらうと困るのも事実だ。可哀想だが、もう少し彼女には頑張ってもらおう。
「それじゃ梨絵、もう少し聞いてもいいか」
「うん、いいよ」
何を聞くべきかまだ判然としない。ただ、おそらくはまだ情報が足りないのだろうことは直感でわかっていた。
「昨日の嘉代がいなくなった時のことをもう一度教えてもらえるか」
「え、もう一回? いいけど。えっと……昨日は学校終わって、嘉代とみんなと一緒に帰って……」
「そのみんなっていうのは何人だ?」
「え? 7人だよ」
ずいぶんと多いな。
「私と嘉代と、ジュンちゃん、アダチくん、タッくん、リョウちゃん、ユキちゃんで7人」
「友達が多いんだな」
別にそれを羨ましいなどとは思わなかったが、単純に高校生の自分よりも社交性に優れた小学生に内心感心していた。俺は小学校時代、友達と呼べるような相手は何人いただろうか。
「んー、友達はジュンちゃんだけだよ」
「え?」
「だから昨日はみんなで帰る日だったんだってば」
「あぁ、集団下校か」
なるほど、たしかに言われてみれば小学校の始業式ってのはそうだった。あまり大した意味はないかもしれないが、これで新たな情報が1つ得られた。
「それじゃあ6年生の梨絵が班長で、副班長は?」
「ジュンちゃん」
「そのジュンちゃんは同級生なのか」
「そうだよ。おんなじクラス」
「……副班長は、登校班の最後尾を歩くんじゃないのか?」
自分が小学生の時はそうだった。
折木奉太郎少年は、とても班長などという大役が務まるような小学生ではなかったので、専ら副班長として登校班の殿を努めたものだ。
ジュンちゃんという少女が副班長であれば、嘉代のいなくなった場面を見ているかもしれない。
「そうなんだけど、ジュンちゃんはあたしの隣を歩いてたの」
「あぁ、そうか。友達だからか」
梨絵が申し訳なさそうに俯いたのは、彼女も多少の責任を感じているからだろう。おしゃべりするためにルールを破った級友を、その時に諌めていれば妹は無事だったかもしれないという自責の念に苛まれているのだ。
なるほど。それで4年生の嘉代が登校班の最後尾を歩くことになり、結果姿を消したということだ。
「そんな申し訳なさそうにしなくてもいい。俺は教師じゃないからな。小学生のおしゃべりを咎めたりしない」
「うん」
梨絵に嘉代の部屋を見せてもらえるかと頼むと、梨絵は案内を快諾してくれた。
ようやく利いてきたクーラーを止めて、梨絵に連れられて廊下へ一歩踏み出すと、全身に熱気がからみついて一瞬で額に汗が滲んだ。部屋に戻りたい。けれど『やらなければならないことは手短に済ませてしまう』こそ我が信条だ。早々に情報収集を済ましてしまおう。
引き戸を開けると、そこはまさしく女の子の部屋といった感じのパステルカラーの部屋だった。
善名姉妹は二人で1つの部屋を使っているらしく、部屋には二段ベッドと学習机が二つ置かれていた。ベッドには上下のいずれの段にもヌイグルミが点在しており、そこで本当に人が眠れるのかと純粋に疑問に思う。
「こっちが私の机で、こっちが嘉代の机だよ」
言いながら梨絵は二つの机を指差す。
梨絵の机には桃色のランドセルが掛かっていたが、嘉代の机にはそれがない。代わりに数冊の本と一枚のカードが置かれていた。
本は学校の図書館で借りてきたものらしく、背表紙にバーコードがラミネートされている。カードの方は――。
「ラジオ体操のカードか」
いわばそれはスタンプシートだ。
夏休み中の小学生は、毎朝6時に起きてラジオ体操をするために公会堂のような場所に集まらなければならない。いったい誰に何の権利があって子供達にそんな苦役を強いるのか皆目見当も付かないが、大人たちは夏休みを楽しんでいる怠惰なる小学生を朝早くに叩き起こすのだ。そうして子供たちは朝から身体を動かし、そこで係りのおばさんに体操に参加した対価としてスタンプを押してもらえるようになっている。
嘉代のラジオ体操カードを手に取り、俺は驚愕に目を見開かざるをえなかった。
信じられないことに、嘉代のラジオ体操カードには、夏休み初日の7月21日から最終日の8月30日に至るまで、全ての日に赤いスタンプが押されていたからだ。
それはすなわち夏休みの全ての日に、嘉代は一日も欠かさずに早朝ラジオ体操に参加しているということだ。ずらりと並んだスタンプの上から、赤いペンで大きなハナマルまで書かれている。
「す、すごいな」
「嘉代って、そういうの絶対守るんだ。私なんかこのとおりだよ」
どこか自慢げに見せてきた梨絵のラジオ体操カードには、前半こそまばらに参加しているものの、後半は一日も体操に出ていない。年長者としては一言注意すべき場面だとわかってはいたが、折木奉太郎にとってそれは正常であり、シンパシーを感じて口元が緩むことはあっても、偉そうに説教するようなことはできようはずもなかった。
「嘉代は要領が悪いんだよ。あの子ラジオ体操の片付けとかまで手伝わされてたし」
「いや、要領が悪いは言いすぎだろう……」
真面目で愚直な人のことを要領が悪いなどと蔑んではいけない。そういった傲慢は巡りめぐって己の首を絞めることになると人の歴史が証明している。
だがしかし、確かに信じがたい積極性だ。世の中にはいろんな人間がいるものだ。
「このカードは学校に提出しなくていいのか」
「うん、これは出さないんだよ。お母さんに出すの」
なるほど、もう一度注意してみてみると、ラジオ体操カードの右上のところに、他のスタンプとは別に『善名』という印が押されていた。女将さんが押したものだろう。
もしも家出ならば、机の中などに置手紙でもないものかと考え、梨絵に調べてもらうことにした。
相手が小学生とは言え、さすがに女子の机を勝手に漁ったりするのは憚られたので、机の捜索はすべて梨絵に頼んでしまう。
引き出しから出てきたのは、いくつかの冊子とペン、色鮮やかなビー玉が数個とB5サイズの植物図鑑が一冊。
もしかして何かのヒントのようなものがないかと思ってパラパラと図鑑をめくってみたが、特に変わったところはなかった。冊子の方も、犬の飼い方、山の歩き方、アサガオの育て方などの簡単なハウツーに関する薄いフリーペーパーだ。梨絵に聞くと、どうやらそれらの冊子は小学校の図書室で貰える物らしい。
残念ながら手紙のような物はどこにもなかった。まあ、置手紙なんてものを書くとすれば、もっと誰かの目に留まるところに置くだろうからな。
「しかたない、他のところも見せてもらっていいか」
「いいけど、これはどうしたらいいの」
彼女が妹の机から発掘してしまった宝の山を指さして、
「片付けておいてやってくれ」
そう言ってしまう折木奉太郎という男は、きっと俺自身が自覚している以上に人付き合いが下手だ。
だが梨絵は少しも嫌な顔をせず、テキパキとペンとビー玉を引き出しに入れ、イラストが描かれた冊子を、植物図鑑で押さえ込むようにしてムリヤリ本棚に捻じ込んでくれた。
睡眠不足で疲れているだろうに申し訳ないことをした。
次に見に行ったのは台所だ。
客に出す食事を作るキッチンと家族の食事を作る調理場は一緒らしく、一般家庭では考えられないような広い厨房に通された。今はまだ改装中なので調理スタッフはいない。ありがたい。自己紹介などという面倒くさい行事を回避できたことに心の底から安堵した。
「けっこう片付いてるな」
娘が行方不明だというのに、台所はきちんと片付けられており食器も洗ってあった。
「うん。今朝わたしが洗ったんだよ」
「そうか」
相槌を打ってから一拍おいて、あわてて「えらいな」と続けた。
我ながら気の利くようなことを言ったものだ。
よく片付いているということ以外には、特に引っかかるような物は見当たらない。
業務用の巨大な冷蔵庫に、マグネットで小学校の給食献立票と業務改善目標という紙が貼り付けられているのがなんとも不釣合いだった。
昨日の給食のメニューは何だったかと献立表に目を走らせると、残念ながらその献立表はすでに9月のものであり、8月31日の給食は記載されていなかった。
「梨絵、昨日の給食のメニューを思い出せるか」
「昨日は給食なかったよ」
あぁ、そうだった。
昨日は始業式だけで放課だったんだ。
「なら、朝食は?」
「ええと、目玉焼きと、ウインナーと、お味噌汁と、あと納豆。そうだ、嘉代は納豆嫌いだよ。あの子、納豆が嫌で家出したのかも」
「俺も納豆は好きじゃないな」
何せあれは食べられるようになるまでに、こちらで手ずから混ぜなければならない。食卓に並んでなお食べる者に労働を課すようなメニューを俺は認めない。が、嘉代はそんなことで家出するような反骨精神旺盛な娘ではないだろう。
厨房を後にするべく出口のドアへ向かうと、木製の扉には『業務改善目標』という紙が貼ってあった。冷蔵庫に張られていたものと同じ紙だ。カロリー表示がどうとか、衛生管理についての小言だとかが書かれている。改めて厨房全体を見ると、まったく同じ紙がガスコンロの正面と裏庭に通じる勝手口のドアにも張られている。
「この紙、こんなにいくつも貼らなくもていいんじゃないか」
「うん。イタチョーさんも嫌がってた。でも保健所のカンサさんにそれ貼っておけって怒られちゃったんだって」
カンサさん? ああ、監査か。保健所の監査が入ったのだろうか。
小学生の梨絵には『保健所』は分かっても『監査』まではわからないようだ。彼女より5年も長く生きている現役高校生であるところの折木奉太郎をしても、監査とは何かと聞かれたら返答に困る。もともとそういうのは福部里志の領分だ。折木奉太郎が理解していなくても問題はない。
それにしても、こんなにそこらじゅうに改善目標が張ってあったんじゃ、ここで働く人はさぞや窮屈な思いだったことだろう。
「料理長さんも大変だな」
「リョウリチョーさんじゃないよ。イタチョーさんだよ」
さいですか。それはわざわざ訂正されるほど違うものなのだろうか。
厨房には他に見るべきものは無さそうだった。
元の部屋に戻り、元いた座布団に元の姿勢で座りなおすと、しばらくして千反田たちが戻ってきた。
「ただいまもどりました」
軽く会釈して、心の中でお疲れ様と言って3人を迎えた。
梨絵は、さすが旅館の娘とでも言おうか、玉のような汗を浮かべる三人にすぐにタオルと麦茶を持ってきた。
両手でグラスを持ってゆっくり飲む千反田の隣で、里志と伊原は天井を見上げるようにしてグラスを呷り、一息に飲み干してしまった。
「それで、どうだった。何か気付いたことはあるか」
3人は顔を見合わせ、視線で話し合ってから里志がしゃべることに決まった。
「まず、何人か道行く人に聞いてみたけれど、嘉代ちゃんらしき女の子を見たって人はいなかったよ」
「そうか。……って、嘉代の名前を出して聞き込みしたのか?」
「まさか。僕だってそのくらいの気は利かすよ」
青山荘は、改修工事を終えて新装開店を待つ状態だ。今この時に、末娘が行方不明なんてことになれば、有らぬ噂が立って今後の経営に支障をきたしかねない。だからこそ女将さんたち夫婦は、警察に連絡するのではなく自分たちの足で嘉代の行方を探しているのだろう。
「悪かったわね……」
「すみません……わたしたち気が利かなくって」
「あ、いや、僕は別に二人を責めたわけじゃないんだよ!」
横を向いてむくれる伊原と肩を落として小さくなる千反田を、里志が慌てて励ました。
どうやら伊原と千反田は、道行く人に嘉代の名前を出して聞いて回ろうとしたようだ。おそらくは、里志がそんな2人を止めたのだろう。
「まあ、それはどっちでもいい」
正直言えば、小学生の娘が行方不明だと言うのに、一晩たっても警察に連絡しない善名夫妻の方が遥かに理解に苦しむ。家の事を思って夫妻がそういう判断をしたという理屈はわかるが、万が一を考えれば愚かな行為だ。
「何か3人が気付いたことはあったか」
改めて聞くと、まっさきに口を開いたのは伊原だった。
「ここ」
伊原が地図上に指差したのは、山沿いの弧を描くようにカーブしている道だった。道に沿うように指を滑らせて、何度も上下させる。
「ここずっと、ちゃんとした柵がないのよ」
里志に視線を投げると、里志は大きく一つ頷いた。
「車道と歩道を分けるガードレールはあるの。でも歩道と谷との間には、点々とこれ位の壁があるだけなの」
言いながら、伊原は手を平らにして自分の胸あたりで振ってみせる。座ったままの伊原の胸の高さとなると、せいぜい50cm程度の壁だろう。
「アスファルトだって端はボロボロで、全然直線じゃないし!」
道自体が大きく弧を描いているので、たとえ整備が行き届いていてもアスファルトは直線ではないだろうと思ったが、そんな野暮なことを言える雰囲気ではなかった。
「ところどころ、斜面にも滑ったような後があったし。もしかしたら嘉代、下の谷に落ちたのかも……」
そう言う伊原の目には、すでにうっすらと涙が浮かんでいた。
千反田が伊原の肩を抱き、里志も彼女の手をとる。
「里志、谷の下は見たのか」
「一応ね。上から見える範囲だけだけど。でも木が生い茂っていて視界は悪い。申し訳ないけど下にはおりていないよ」
当然だな。
一昨日の激しい雨のせいで川は増水している。自分で現場を見たわけではないが、里志が降りられないと判断したのであれば今日は谷を確認するのは不可能と考えていいだろう。
「伊原、あまり悪い方に考えすぎるな。嘉代は梨絵たちと一緒に帰っていたんだぞ。もし嘉代が足を滑らせて落ちたなら、梨絵や他の誰かが悲鳴を聞いているはずだ」
集団下校の列の最後尾を歩いていたのであれば、気付かれない可能性は大いにあるが、今はそれを言うべきではないだろう。
「だけど……」
「ところどころ斜面が滑ったように見えたのは、おそらく一昨日の雨のせいだ。水が流れただけだ」
「そう、そうよね。うん」
伊原はハンカチで目元をぬぐい、千反田と里志に礼を言った。だが、その表情は優れない。どうやら伊原は、嘉代が谷へ落ちたのだと思い込んでしまっているらしい。
不安定な伊原には悪いが、少しだけ待ってから話を進めることにした。
「他に、何か気付いたことはないか」
次に反応したのは里志だった。
里志は巾着から少し汗でふやけたように見えるメモ帳を取り出し、先ほど伊原がそうしたように地図のある一点を指差した。
「ここに消防署があるよね」
里志が指差したのは、地図の中央よりやや北。保育園と小学校のちょうど間あたりにある消防署だ。
「地図ではここ、消防署になっているけど、実際には消防団だったんだ」
「それは……なにか違うのか?」
「まったく別物さ。消防署っていうのは奉太郎もわかるよね」
「そりゃ、まあな。火事の火を消し止める人たちだろ」
「小学生みたいな答えだけど、まぁそうだね。有事の際に出動して救助活動に当たるという点はどちらも同じような団体だと言える」
里志は、一度言葉を切って、注ぎ足されたばかりの麦茶をひとくち舐めて舌を湿らせた。
「だけど、消防署と消防団はまったく別の組織だよ。消防署員っていうのは地方公務員だ。365日24時間体制で消防署には消防隊員がいる。だけど消防団は、いわば有志だね。消防活動中は準公務員あつかいだけど、基本的には町のオジサンやお兄さんで構成される団体なんだ。当然団員にはそれぞれ別に仕事があるから、常備隊員なんていない」
「つまり、昨日嘉代がいなくなった時も、その消防団に人はいなかったってことか」
「そう思う」
なるほどな。
里志の言わんとしていることはなんとなくわかった。おそらく里志は今回の一軒を、事故や家出ではなく誘拐の可能性が高いと考えているのだろう。
消防署は警察とは違うが治安維持組織だ。通学路にそういう施設があるかどうかが、誘拐事件の発生確率に影響するという考えは理解できる。今、里志が具体的に『誘拐』という言葉を出さないのは、動揺している伊原を慮ってのことだろう。
だが、誘拐はどうだろうか。
ない。とは言い切れないが、あまり考えたくないな。
「千反田はどうだ。何か気付いたことはなかったか」
「私は……綺麗な神社があるな、と思いました」
いったいこのお嬢様は何を見てきたのか。
この炎天下のなか、本当に散歩してきただけじゃああるまいな。
「神社が綺麗ならいいことじゃないのか」
「はい。私もそう思います」
もしかしたら流石の千反田えるも暑さで多少まいっているのかもしれない。
ただ、こいつの直感が侮れないというのはこれまでの実績が物語っている。千反田えるが引っかかるというのなら、それは何らかの不自然がそこにあるのかもしれない。
「……どう綺麗な神社なんだ」
「はい、地図には描かれていませんが、この神社は本殿の後ろは竹藪になっていて、ここに小さな石碑が二つありました。境内は白石が敷き詰められていて、ゴミ一つなくて、庭園のような趣を感じました」
「ほう」
「それと本殿には縁の下があったので、もしかして嘉代さんがいないかと思って『どなたかいませんかー』と呼んでみたんですが返事はありませんでした」
「なぜ縁の下に呼びかける」
「え? 子供って縁の下に隠れるじゃないですか」
「いや、隠れないだろ」
今時そんな純朴かつ腕白な子供がいるものか。
「私はよく隠れましたけど」
身近にいた。
思い出を共有できなくて申し訳ないが、そもそも我が家には子供が入っていけるような縁の下はない。だいたい『縁の下』なんて諺以外で聞いたのは本当に久しぶりだぞ。ところで縁の下の力持ちというのは、いったいどんな由来から生まれた言葉なのだろうか。縁の下を支えるなんて、よくよく考えてみれば正気の沙汰じゃない。
「昔はよく荒楠神社まで遊びに行って、そちらのお嬢さんとかくれんぼしたんです。なつかしいです」
俺の思考が逸れたのと同時に、千反田の話も逸れ始めた。話を戻そう。
「千反田。その話は後で聞かせてくれ。今は嘉代の行方について考えよう」
「そうでした。すみません」
いけません、と小声で呟きながら千反田は表情を難しそうなそれに戻した。
「ですが折木さん。正直、私達は嘉代さんの手掛かりになるようなものは見つけられませんでした」
「そうだな」
「すみません」
目を伏せる千反田には悪いが、はっきり言って三人が手掛かりを見つけて来るとは始めから思っていなかった。土地勘の無い三人が歩いただけで見つかるような手掛かりが通学路にあったならば、すでに女将さんたちが嘉代に辿り着いているだろうからな。
「ただ一つだけわかったことがある」
言うと、三人は目を見合わせた。
「通学路に決定的なヒントは無かったということだ」
そしてすぐに肩を落として溜息を吐いた。
「折木、あんた、真面目にやってよね!?」
「お、俺は別にふざけてる訳じゃないぞ!」
今にも殴りかかってきそうな伊原を、両手を交差して制する。
俺は至極真面目にやっている。通学路に手掛かりがないならば、他の場所にヒントがあるはずだと思考フェイズが進むじゃないか。
伊原の冷視線に晒されながら、まとまらない思考の欠片を追いかけていると、部屋に悲鳴が響き渡った。
「え、ちょっと、梨絵!? どうしたの!?」
それは伊原の声だった。
思考を中断して何事かと視線を向けると、善名梨絵が崩れ落ちた瞬間だった。座った姿勢のまま、伊原の膝の上に体をあずけて意識を失っていた。
「摩耶花、大丈夫かい?」
「わ、わかんないよッ! 梨絵、しっかりして! 梨絵ッ!」
伊原は梨絵の肩を掴んで前後に揺する。
「伊原、ちょっと落ち着け」
「うるさい、折木は黙ってて!」
「摩耶花さんッ!」
千反田の声に、ようやく伊原は止まった。
たっぷりと涙を溜めた瞳が、千反田のアメジストと交錯する。
「梨絵さんは眠ってしまったようです」
「え……?」
里志が2人に近づいて、眠る梨絵の腕を取った。
「うん。呼吸もしているし脈も正常だよ。ただ、もしかしたら少し熱があるかもしれない」
「お部屋に運びましょう」
「僕が運ぶよ」
里志が梨絵を抱えて立ち上がった。
「あ、福ちゃん――」
「大丈夫だから。摩耶花は心を落ち着けて、ここで待ってて」
「里志、部屋は階段上がって突き当たりを右だ。ドアにネームプレートが掛かってるから間違う心配はないぞ。二段ベッドの上が梨絵だ」
「了解」
「私、濡れタオルを作ってきます」
「ありがとう、千反田さん」
パタパタと里志と千反田は部屋を出て行った。
2人が部屋から出て行くのを見送ってから、はたと気付いた。この部屋に決壊寸前の伊原と2人きりという状況になってしまったという事実にだ。
なんと浅はかなことだろうか。梨絵の部屋を知っている俺は、極自然に案内役を買って出ることができたはずなのに、その瞬間に階段を登るという行為に対する忌避感で頭がいっぱいになってしまって失念した。
不味いことになった。
これは、何か話さないといけないのではないだろうか……。
畳に座ったまま、伊原はその小さな体に色々な物を爆発寸前まで溜め込んでいる様子だった。
その表情には、複雑な感情が次々と浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返している。「ダメだ」と小さくつぶやいくと、伊原は手で両目を覆い、かぶりを振った。
「折木……ごめん」
何に対する謝罪なのかわからなった。
日頃の俺への辛辣な態度についての侘びならば謹んで頂戴しておくところだが、たぶん違うのだろう。
「あまり思いつめるな」
「で、でも……」
「別にお前のせいで梨絵が倒れたわけじゃない」
「……ううん、私のせいだわ。私がちゃんと梨絵の体調を気にしてあげてれば、こんなことにならなかった」
それは責任過剰だ。
隣を歩いていた友人が転倒した時に、自分が助けて上げられなかったから怪我をしたと思うのと同じだ。
「どうしよう……嘉代はまだ全然見つかる気配もないのに、梨絵まで倒れちゃって……私、どうしたらいいのよ」
なんと声を掛ければいいのもかわからず、結局俺は広げられたままの地図を見ている振りをしながら、何をするでもなくそこにいるしかできなかった。
しばらくすると、千反田と里志が戻ってきた。
俯いていた伊原が顔を上げて二人を迎え入れる。
「梨絵さんはもう大丈夫ですよ。熱は思ったほど高くありません、やっぱり寝不足で疲れていたみたいですね」
「ごめんね、ちーちゃん。ありがと」
「いいえ。摩耶花さんは大丈夫ですか?」
「うん、もう大丈夫。私がしっかりしなきゃよね!」
先ほどまでの萎びたトマトとのような様子はなりをひそめ、勇ましく両の拳を握る仕草は普段の伊原のように見える。
だが、それが過剰な責任感から来る空元気だということに、部屋の三人はもちろん気付いていた。
「福ちゃんも、本当にありがとう。本当なら梨絵の介抱なんて従姉妹の私がすべきことだったのに……」
「気にしないでよ。望んでここまで来ている以上、僕達にも責任の一端はあるさ」
里志が肩をすくめて見せると、伊原の表情がようやく少し和らいだ。
「あ――」
2人の会話をわきで聞いていた俺は、前触れ無く訪れた閃きの福音に、口を開けたまま止まった。
つい無意識に伸びた手が前髪をつかむと、それが合図になったかのように、脳内で散らばっていたピースが組み合わさって、いくつかの断片が一つの答えを成していく。
「……そうか、本当なら……そうだ、よな」
「折木、どうしたの?」
「ちょっと待ってくれ……」
そうだ。
なぜ気付かなかったのか。
本当ならば『そう』あるべきだ。
だが、あいつは『そう』しなかった。
何故だ……?
「待って摩耶花! 奉太郎がなにか気付いたみたいだ! そうなんだね、奉太郎!?」
伊原のわきから里志の腕が伸びてくる。
「肩をつかむな、揺らすな、おまえは千反田か!?」
「僕、気になります!」
「私もです! 私も気になります!」
その里志のさらに横から顔を出した千反田までが、俺の腕を取って揺らしはじめたので、こっちはほとんど這うようにして下がることになってしまった。
「ま、まだ全てわかったわけじゃない! 1つ見落としがあったことに気付いただけだ!」
前日の大雨――。
集団下校――。
最後の目撃現場である保育園――。
梨絵の電話――。
出しっぱなしのサンダル――。
商売敵だらけの立地――。
常駐人員のいない消防団――。
滑落の危険がある谷沿いの道――。
綺麗な神社――。
片付けられた厨房――。
業務改善目標――。
三冊のフリーペーパーと辞書――。
ラジオ体操のカード――。
見つけたぞ。
明らかな不自然……。
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6
見つけたぞ。
明らかな不自然……。
一つの決定的なヒントが、集めた情報の価値を次々に判定していく。
「折木さん! 教えてください、何に気付いたんですか!?」
「ちょ、ちょっと待ってくれ! あと少しなんだ!」
もう一度広げられた地図に目を落とす。
青山荘のまわりは旅館やホテルだらけだ。
探せ、本当に自分が間違っていないか、探すんだ。あるか、ないか……。
穴を開けるほどに地図を睨みつける。
「……無い」
「折木さん?」
地図を見る限り、青山荘の近くにそれは見当たらなかった。
思わず胸を撫で下ろす。
「よし、無い。伊原、と千反田も」
「なによ」と「はい」という声が重なる。
「すまないが、もう一度梨絵の部屋に行って来てくれ。そうしたら嘉代の机の上の本棚に辞書がある」
「辞書を取ってくるのですか?」
「いや、その辞書を退かすと、後ろに薄い冊子が3冊あるはずなんだ。持ってきてもらいたいのはそっちだ」
「わかりました」
すぐに二人は嘉代の机から、三冊のフリーペーパーを取ってきてくれた。
山の歩き方、アサガオの育て方、そして……。
「犬の育て方、これだ」
「その冊子がどうしたんだい、奉太郎?」
「こいつで嘉代の居場所の検討がついた」
「え!?」
「教えてください! 折木さん、嘉代さんはどこにいらっしゃるのですか!」
「たぶん、だが、神社だ。拝殿の中にいると思う」
「え?」
三人は顔を見合わせた。
なんだ、何かおかしなことを言っただろうか。
「……奉太郎、それはどうかな。神社の社殿は、さっき僕達も探したんだよ」
「忘れちゃったの? ちーちゃんが、神社の縁の下に向かって誰かいないか呼びかけたのよ。もちろん返事はなかったわ。それに、さっきは必要ないと思って言わなかったけど、正面の唯一の入り口である格子戸には南京錠がかかってたわよ。誰も入れないわ」
「南京錠だって!?」
それは予想外だ。
すると、つまり……どういうことだ? 俺の考えが間違っているのか。
「そうよ」
「……そうか」
「そうか、って何よ! 真面目に応えなさいよ、折木!」
俺はいつだって概ね真面目だ。
勤勉でないだけで。
「里志、お前、鍵開けはできるか?」
「あの南京錠をってことなら、たぶん大丈夫だと思うよ」
「なら頼む」
もう一度三人は顔を見合わせて、里志は肩まですぼめてみせた。
「まっ、奉太郎がそこまで言うなら行ってくるよ。別にそう遠い距離でもないしね」
「私も行きます!」
「折木は?」
誰か梨絵の様子を看る者が残ったほうが良いとも思ったが、万が一にも一人で留守番しているところに女将さんたちが帰って来た場合、不信感を与えない説明ができる気がしない。
それに、現場に足を運ばずにいられるほど、自分の考えに自信があるわけでもなかった。
「行くよ」
千反田が言ったとおり、そこは小奇麗な神社だと感じた。
朱色の鳥居には傷一つ無く、入母屋の屋根は陽の光を浴びて白く光って見える。境内は青々と大きな葉を広げる木々に囲まれて、どうかすると鬱蒼とした雰囲気になりかねないが、それが逆に静謐な趣に一役買っている。神社全体を囲むように植えられている木は桜だろうか。
「ソメイヨシノか?」
「はい。そうですね、全部ソメイヨシノだと思います。春は境内でお花見ができそうですね」
「奉太郎が花の品種を言い当てるなんて、珍しいこともあったものだね」
「桜はソメイヨシノくらいしかわからん」
拝殿の前にたどり着く。
まず目に入った賽銭箱に、財布から取り出した五円玉を転がし入れておいた。
「嘉代、そこにいるの?」
伊原が声をかけるが返事はない。
戸は格子になっているので中を覗くことはできるのだが、残念ながら暗くて奥までは見えない。
「やっぱりここにはいないわよ」
「どうかな」
伊原の言うとおり、もしここに居なければ振り出しだ。
また一から情報を精査して、自分だって何の自信もない都合のいい妄想をでっち上げなければならない。そんなのはもう御免だ。
万感の思いを込めて、俺は呼びかけた。
「嘉代。安心していいぞ、俺たちは大人じゃない」
怪訝そうな3つ視線が、背中に突き刺さっているのを感じる。
「ちょっと折木、あんた何を――」
不機嫌になる伊原の声を背中に聞きながら、だがしかし、反応があった。
ガタガタと物音をたてて、拝殿の中で何かが動いたのだ。
「ほ、ほんとぅ?」
闇の向こうから、そいつは不安そうな声で問うてきた。
「あぁ、本当だ。高校生ってのはお前が思っているよりずっと子供なんだよ」
そいつは一歩あゆみ寄る。
差し込む斑な斜光に照らし出されたのは、不安に愁眉を寄せる善名嘉代だった。
「か、嘉代……」
格子戸の向こうに現れた嘉代の姿を認めて、伊原は境内の砂利の上に崩れかけた。すぐに千反田が抱き止めたが、どうやら腰が抜けたのかそのままヘタリと座り込んでしまう。
「里志、開けられるか?」
腰付きの格子戸には、先ほど三人が言ったとおり小さな南京錠がかかっていた。
ホームセンターどころか、100円ショップでも買えそうな簡素な南京錠だ。
「うーん。こう見えて僕は信心深い方なんだけどね」
「今さっき詫び両を入れた」
「さっきの5円玉のことかい? ずいぶんと慎ましやかな慰謝料だね。でも、まぁ神様も子供を助けるためだったら多少の無礼は多めに見てくれるかな」
言いながら里志は巾着からゼムクリップを取り出して、それをいったいどう使ったのか、鍵穴に差し込むと簡単に錠を開けてみせてた。
嘉代はおずおずと社殿から出ると、伊原に手招きされるままに駆け寄って、そのまま力いっぱい抱きしめられていた。一晩埃っぽい拝殿に居た嘉代は泥だらけで、抱きしめる伊原の洋服もドロドロになってしまったけれど、そんなことを気にする者はここには誰もいない。
「嘉代ぉー。よかった、無事ね。どこもケガしてないの?」
「う、うん。大丈夫だよマヤ姉ちゃん。でも、苦しいかも」
「ダメよ! たくさん心配したんだからね! ちゃんと心配かけたぶんだけ抱きしめられなさい!」
「ご、ごめんなさい」
押し殺した微かな嗚咽が聞こえてきたが、それは嘉代のものではなかった。
千反田はもらい泣きをして、里志は満足げに微笑んでいる。
「まさか伊原が泣いているのか?」
小声で里志に訪ねると、目を細めて睨まれた。
「別に茶化したりしない」
ただあの勝気な伊原でも、泣く時もあるのだと思っただけだ。
「とにかく良かったわ、嘉代。なんでアンタが神社にいたのか聞きたいところだけど、今はまず帰りましょう。嘉代は丸一日なにも食べてないんだから」
「うん。あ、でもマヤ姉ちゃん、ペロも連れて行っていい?」
「ペロ?」
「うん。あのね、この子」
嘉代が抱え上げたその子犬は、ぺろりと伊原の鼻を舐め上げた。
伊原の悲鳴が境内に響き渡るのを聞いて、ようやく一件落着。
折木奉太郎の思考労働もようやく終業と相成った。
めでたしめでたし。
その後、無事に青山荘に帰ることになった嘉代と我ら古典部は、タイミングよく戻ってきた女将さん達と玄関前で鉢合わせした。
嘉代は抱えていた子犬を後手に隠したが、その拍子に犬は身をよじって地面に着地してしまい、慌ててそれを捕まえようとする嘉代を嘲笑うかのように彼女の足の間をくぐって女将さんにじゃれ付いた。
結局、怒られてもいないうちにベソをかき始めた嘉代に負ける形で、ペロと名付けられたその茶色い子犬は、無事に青山荘の裏庭で飼われることになった。
後々このペロと青山荘の板長が、宿の残飯を巡って死闘を繰り広げることになるのだが、それはもう折木奉太郎とは無縁のお話だろう。
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7
女将さんが厚意から言ってくれた「昼食を食べていかないか」という申し出を固辞して、我ら古典部は帰路についた。伊原と千反田が、午後からでも登校すべきだと主張したからだ。
生憎と俺にそんな気はさらさらなかったし、温泉街まで来て汗だけかいて温泉につからずに帰るなんて正気の沙汰じゃないと思いの丈も述べた。そしてそれは似非粋人たる福部里志も完全に意見を同じくしていたが、ヤツは伊原の押しに弱い。そして俺も、たった1人で青山荘に残って料金も払わずに温泉を満喫していけるほど厚顔無恥にはできていなかった。
結局は女性陣の主張にまともな反抗もできぬまま駅まで送ってもらい、来た時に乗ったのと同じカーキ色のバスにいそいそと乗り込んで、昼食もとらずに神山市に向けて出発したのだった。
帰りのバスに揺られながら、しかし俺はせっかくの寸暇を睡眠に費やす事を禁じられていた。
「教えてください! 教えてください! 教えてください! 折木さん、どうして嘉代さんの居場所がわかったんですか? それに、折木さんは嘉代さんが子犬を抱えていることを分かっていました。どうして折木さんは、そんなことがわかったんですか!?」
と、このようにほとんど首を絞められるような格好で、千反田に詰め寄られていたからだ。これだけなら普段とたいして変わらないが、今日は伊原と里志も千反田と同じようにして事の真相を聞きたがった。
「わかった、わかった。説明するよ!」
神山市までは一時間半かかる。
手短にすませて、残った時間を睡眠に当てよう。
さて、どこから話せばいいものか……。
「今回の嘉代の事件は、当初は彼女の行方不明による失踪事件だっただろう」
「ん? そうだね、当初というか最後まで失踪事件だったと思うけど」
「いいや、結果的には家出だった。そして、それが一番重要で価値のある情報だったんだ」
「それは……どういう意味だい?」
里志がするのと同じように、伊原と千反田も首を傾げた。
「今朝の段階では、俺達は全員、嘉代の失踪の理由を断定できないまま――いや、理由というか理屈かな。彼女の失踪の理屈を定められないまま捜索しはじめてしまった」
「どういう意味だい、奉太郎?」
「里志、お前は嘉代の失踪を、誘拐の可能性が高いと思っていたんじゃないか」
「え、特別意識してなかったけど、なんでそう思ったんだい?」
「消防署と消防団の違いを気にしていただろ」
「あぁ、確かに。言われてみれば、無意識に誘拐の線を考えていたのかもしれない」
たぶん、二人だけの時に聞けば、里志はもう一言付け足しただろう。『その方が福部里志好みだからね』と。
もちろん伊原の前でそんな不謹慎なことを宣うほど里志は馬鹿ではないし、そしてそれを指摘するほど俺も里志のことを嫌っていない。そしてそれ以上に不要な面倒ごとを嫌悪している。
「次に伊原、お前は事故の可能性が高いと思っていたな」
「うん、確かにそうね。今だから言うけど、間違いなく谷に落ちたんだと思いこんでいたわ」
「そして千反田は、家出だと思っていた」
「どうでしょうか……。だったらいいな、くらいには考えていたかもしれませんが」
「そうだな。俺も家出なら話が楽だと思っていた。だけど、一応事故と誘拐の可能性も常に考慮しなければならなかったんだ。このせいで、いくつかの情報を提示されても、それをどう解釈するのか判断が出来なかった」
失踪事件を追いかけるなんてのはもちろん初めての経験だったが、たぶん警察などのプロが捜索する場合も失踪者が何故いなくなったのかという部分は事件の根幹を担っているだろう。だから新聞記事などにこう書かれるのだ。事件と事故の両方の可能性を考えて捜査している、と。
「それじゃあ奉太郎は、この件が途中で家出だと確信したわけだね?」
「あぁ。だが、本当はこれは一番初めに分かっていたはずだったんだ」
「一番初め……? 梨絵さんの電話ですか?」
「千反田にしては察しがいいな。そうだ、昨日の夕方、伊原が部室で受けた電話こそが、嘉代の失踪が家出だと判断する決定的な材料だったんだ」
千反田の顔を見る。その表情は先ほどまでの鼻息荒げる暴走モードのそれではなく、やや伏せ目がちで落ち着いた面持ちだ。俺の言葉を咀嚼して、一生懸命になにかを考えている。
「ですがあの時、折木さんは電話の内容を分析してくれました」
「分析って……そんな大仰なことじゃない」
「会話の内容には、折木さんが答えてくれたこと以上の内容はなかったと思います」
「そうだな。会話の内容は問題じゃない。電話そのものが、なにより不自然だったんだ」
「そうでしょうか。別に梨絵さんが摩耶花さんに電話するのは、それほどおかしくはないと思いますけれど……」
後ろでは伊原と里志が顔を見合わせて首を捻っていた。
たしかに、言われないと気付きにくい。
「いいや、明らかにおかしい」
すると里志が申し訳なさそうに小さく挙手して発言を求めてきた。こちらも小さく頷いて里志の言葉を促す。
「それは、距離の話かい奉太郎? 確かに僕もそれは思っていたけど……青山荘から神山市に行くには、みんなも知ってのとおり最寄の駅まで10km、さらにそこからバスで1時間半もかかる。確かに小学生が家出して行くには遠すぎるね。だから梨絵ちゃんが摩耶花に電話するのは変だって話かい」
「たしかにそれもある。が、梨絵が妹の失踪で気が動転していてそこまで考えが及ばなかったと言われれば、それ以上そこを追求する必要はないだろう」
「それじゃ、折木は何に引っかかってるっていうのよ」
伊原は腰に手をあて、少し苛立たしげにしていた。
「俺が納得いかなかったのは、伊原に電話したのがなぜ梨絵だったのか、という点だ」
「え?」
そう。
これはどう考えてもおかしい。
「俺も気付かなかった」
小学生が行方不明なったとして、まず真っ先にその子の友人や親戚に連絡するというのはわかる話だ。だが、今回のケースはいささか異常と言えるだろう。
「末の娘が行方不明になって親戚に電話する。それは理解できる。だが、本来それは姉である梨絵がすべきことじゃない。両親の役目だ。電話する先も、伊原の携帯ではなく伊原家の固定電話にかけるのが普通だろう」
「……。」
一瞬の沈黙、そして口に手を当てた千反田が「あっ」と声を上げた。
「つまり、あの時の梨絵の電話は、彼女の独断だったわけだ」
「……。」
一瞬の沈黙を破ったのは、ガタンというバスの揺れだった。
「わっ、とと」
一番小柄な伊原が、慣性に弄ばれて千反田に寄りかかる。
「大丈夫ですか、摩耶花さん」
「うん、ごめんねチーちゃん」
「折木さん、続きを聞かせてください。梨絵さんがご自身の判断で摩耶花さんに連絡をしたのは理解しました。でも、ではいったい何故そうしたのですか?」
昨日、梨絵が電話をかけてきたのは午後の5時過ぎだ。
女将さんたちは嘉代の不在に気付いていたかもしれないが、仮に気付いていたとしてもなりふり構わず娘の行きそうな場所に連絡をするには早すぎる。
「梨絵がなぜ独断で伊原に連絡をしたか。厳密には伊原にというより……まあ不本意だが、探偵であるところの俺に、だな」
「くくっ、そんなに嫌そうに言わなくてもいいじゃないか奉太郎」
「笑うな。俺だって自分で滑稽だと思ってる。だが、梨絵がそう言っていたんだから仕方ないだろ」
「奉太郎のことを探偵だって?」
「ああ。忌々しいことにな」
横目で伊原を見てやる。
「なによ?」
何にも分かっていないようだ。
「話を戻す。なぜ梨絵が女将さんたちに無断で探偵役の俺に連絡を取ろうとしたのか。まず考えられるのは、妹の失踪に気が動転して判断力が低下していたせいで、思い付くままに行動してしまった可能性だな」
そしてこれはおそらく間違っていないだろう。
梨絵が嘉代の不在に気付いたのは下校後すぐだ。小学校は半日で授業が終わり、その後伊原に電話するまで5時間ある。子供が胸中に抱える不安に、いてもたってもいられなくなるには十分な時間だ。
「だが、ただ気が動転しただけじゃない」
「そうだろうね。冷静さを欠いて、とにかく遮二無二に動き回ったにしては、今日の梨絵ちゃんの様子は大人しすぎた」
「単に眠かっただけかもしれんが、それにしては俺達の麦茶やタオルを手配したりと甲斐甲斐しく働いてくれていたな」
「それじゃ折木さんは、梨絵さんが摩耶花さんに電話したのは、何か明確な理由があったからだと考えているのですね?」
「そうだ」
「どんな理由よ?」
「冷静さを欠いていたという他に考えられるの可能性は一つだ。梨絵は、初めから嘉代の失踪について何か知っていたんだ」
「そ、そんな訳ないでしょう? だとしたら、なんでそれを両親や私達に秘密にする必要があるのよ」
「梨絵は、妹の失踪の原因は自分にあると思ったんだ」
「どういうことよ!?」
話すにつれ伊原のボルテージが上がっていく。
このまま続けると、噴火しかねない。
「伊原、落ち着いてくれ」
「落ち着いてるわよッ!」
とてもそうは見えない。
「なら俺を睨むのを止めてくれ」
「摩耶花さん」
千反田が伊原の視線を遮るように、彼女の前に身を乗り出す。
「ちーちゃん。だって……」
「続けるぞ。梨絵は、嘉代が自分のせいでいなくなったと考えていたんだ。そう考えると不自然な梨絵の行動に説明がつく」
「そうか、なるほど。梨絵ちゃんが妹の失踪の原因が自分にあると考えていたなら、大事件になる前に自分で解決したいと思うのは道理だね。いや、もっと言えば、ご両親に怒られるのが怖かったからこそ、自ら事件解決の為に手を打ったとも考えられる」
「ま、待ってよ福ちゃん! 梨絵を悪者にする気!?」
「まさか、そんなつもりは全然ないよ。ただ、梨絵ちゃんが責任を感じていたとすれば、あの行動は納得できる」
「伊原、俺も梨絵を責めるつもりは全く無い。おそらく梨絵に悪気もなかっただろうしな」
伊原が気炎を撒き散らすのを制するように、千反田は伊原の両手を包むように抱えていた。
「ですが、もし梨絵さんが嘉代さんの失踪について心当たりがあったなら、どうしてそれを私達に教えてくれなかったのでしょうか」
「それこそが、今回の嘉代失踪が家出だと結論付ける手掛かりたりえる」
「どういうことだい?」
「梨絵は、嘉代の失踪について心当たりがあった。だが、それを誰にも話さなかった。理由は、自分に責任の一端があると思っていた梨絵が、それが露見した場合に怒られるのを怖れたからだ。だが、だとすると俺達をここに呼び寄せたあの電話自体が彼女の心情と矛盾することになる。事件の露見を恐れるならば、探偵を現場に招くようなマヌケはいない」
「それじゃ、つまりどういうことでしょう?」
「二律背反だな。おそらく梨絵の本心は彼女自身にもハッキリわからないだろう。梨絵は嘉代を見つけたいから探偵を呼んだ。しかし事件が露見してほしくないから情報を秘した」
「僕達に自力で見つけて欲しかったのかな?」
「そこまで明確にビジョンを持っていたとも思えんが……。ただ、そこから一つわかることがある。それはつまり、梨絵は事態がそれほど逼迫していないと確信していたということだ」
「なるほど、そうですね。梨絵さんの心当たりが事故や誘拐ならば、おそらく梨絵さんは私達を呼び寄せたりせずに事件が迷宮入りするのを望むか、さもなければ逆にすべて打ち明けて事件解決の手助けをしてくれたはずです」
「そう。梨絵の行動はあまりに中途半端だ。解決を望んではいるが、それを急いではいない。急ぐ必要がないと思っていた」
「つまり、いずれは嘉代ちゃんが自然に帰ってくると思っていたわけだね」
「確信していたわけではないだろうが、深層心理にそういう意識があったのは間違いないだろう」
「それなら折木、梨絵はいったい何をしたの? 何をしたせいで嘉代が家出したって思っちゃったわけ?」
「それを知るための手掛かりがあの小冊子だ」
「これだね」
里志が、巾着から先程の薄い冊子を取り出して、ぺらぺらとページを捲ってみせる。
「ふ、福部さん、持って来ちゃったんですか?」
「あれ。まずかった? 奉太郎が謎解きをする時に、必要だろうと思って拝借してきたんだけど」
なんて男だろうか。
控えめに言ってもそれは泥棒だぞ。
「まあ、今はありがたい」
「犬の飼い方。それにアサガオの育て方と山の歩き方。発行元すら記載されてないけれど、なんだいこれは?」
「それは嘉代が学校の図書室から貰ってきたフリーペーパーだそうだ」
「奉太郎。フリーペーパーというのは、主に営利目的で複数もしくは単一の広告主が発行費用を投じて作成する、言わば宣伝紙だよ。こういった広告を載せない冊子は、厳密にはフリーペーパーと呼ぶべきじゃない」
さいですか。
閉口するとはよく言ったものだ。里志、お前の博識にはほとほと感心するが、今そんな揚げ足を取るようなこと言うと、俺よりも先に伊原が怒り出しかねないぞ。
「とにかく、それは嘉代が学校から貰ってきたものだ。その三冊には、それぞれ創刊ナンバーが振ってある。No.02、No.05、No.07とな。無作為に選んだ可能性も否定できないが、アサガオは子供の夏休みの宿題の定番だし、山の歩き方もこの山間の町で暮らす嘉代が興味を持っても不自然じゃない。だから、この冊子は嘉代が明確な意思のもと持ち帰ってきた物だと当たりをつけたんだ」
「それじゃ、つまり嘉代は犬を飼おうとしていたってこと?」
「当然そうだろうな。だが、実際にはそうはならなかった。何故だと思う?」
「旅館だからだね。多種多様な客層を考えれば、本来なら動物の飼育なんてのは好ましいことじゃない」
「だな。千反田はさっき厨房に濡れタオルを作りに行ってたよな。その時、張り紙に気付いたか?」
「はい。業務改善目標の張り紙ですね。広い厨房でしたから、いっぱい貼ったのかなって思っていたのですけれど、あれが何か意味があったのでしょうか」
「最近、保健所の監査が入ったそうだ。これは梨絵に直接聞いたことだから間違いない。あんなに張り紙しているところを見るに、どうやら辛口の評価を頂戴したようだな。そんな時に犬を飼いたいなんて話を持ち出せば、家族が反対するのは当然だ」
「うぅ、確かにそれはそうかも」
嘉代自身も、家族が子犬を飼うことに諸手を挙げて賛成してくれるとは思っていなかったはずだ。おそらく犬を持ち帰った嘉代は、まず姉の梨絵に見せにいったのだろう。両親に話を通すためか、もしくは隠れて犬の面倒を見るための協力者として姉の助力を得ようと考えた。だが……。
「梨絵は、まっさきにソレに反対したんだ」
「そうか。梨絵ちゃんは、嘉代ちゃんに犬を捨てて来くるように言いつけたんだ。そして、それが妹の家出の原因として責任を感じちゃったんだね」
仕方の無いことだろう。
大人から見れば小学6年生と4年生なんて等しく子供だが、この年頃の二歳は大きい。4年生の嘉代にはわからなくても、6年生の梨絵には家の事情がなんとなく見えてくるころだろう。
「わかりました! お姉さんに叱られて、嘉代さんは泣く泣く犬を捨てに行ったんですね」
「あぁ、そうだ。だが、嘉代は姉に言われたとおりにはしなかった」
「自分で犬の面倒をみることにしたんですね」
一つ、頷いてみせる。
理屈がわかれば誰でも辿り着く答えだ。
前回俺たちが青山荘に訪れたときの一件を思い出す。
あの時も嘉代は、姉の梨絵と比べると大人しくて自己主張のできない少女でありながら、しかしそれでいて目的の為には手段を選ばない大胆さがあった。
彼女の性格を鑑みれば、家族を説得するというのは難しい。しかし、だからと言って諦めるような潔さもなかったのだろう。
ゆえに推論――
「嘉代は、家族に内緒で犬を飼うために家出したんだ」
「うん。僕は納得だね。千反田さんは――」
里志は目を輝かせる千反田に一瞬視線をきり、
「聞くまでもなさそうだ。摩耶花もいいかい?」
「……うん、折木が嘉代の失踪を家出だと結論付けた理由には一応納得したわ。でも、それでなんで折木は嘉代の居場所まで当てることができたのよ?」
「そうです! そうでした! 折木さん、ぜひぜひ教えてください! 私、気になります!」
「わかってるよ。最後まで順を追って話すから落ち着いてくれ」
どうせ今面倒だからって誤魔化しても後でまた聞かれるだけだ。
折木奉太郎はシャツの胸ポケットから四つ折にした地図を取り出して広げた。
「場所については簡単なことだ。神社の他に適当な場所が無いからだ」
半日近く睨みつけた青山荘周辺の地図を、千反田たち三人は改めて穴が開くほどに見つめた。
「適当な場所ってなによ?」
「だから、嘉代が隠れて犬を飼えるような場所だよ」
「そういう場所は、他にもたくさんありそうに見えますけど……」
山間部の地図には、いたるところに雑木林や竹林などがある。大人の目から隠れて犬を飼う場所と言われると、確かにどこもかしこもが怪しい。この中から神社だけが犬を飼うのに適しているとはとても思えないだろう。
「えっと、だな……。嘉代は両親だけじゃなく、姉の梨絵にもバレないように犬を飼う必要があったわけだ」
「梨絵さんが、犬を飼うことに反対したからですね」
「そうだ。生活のリズムが異なる大人の目を避けるくらい、あの娘には大した問題じゃないだろうが、二歳しか違わない姉を欺き続けるのは難しい」
子供の行動パターンは似るからだ。
「嘉代が、犬を飼う拠点を選ぶには2つの条件がある。1つ、毎日彼女自身が訪れることができること。2つ、家族を含む他の誰にも見つからないこと。特に姉の目を盗むのが彼女にとって困難だった」
ついでに言えば、雨風に晒されない場所であるというのも大切だ。
この条件を満たす場所というのは、考えてみると非常に少ない。
「だが、嘉代には一日に一度、必ず姉と別行動できるタイミングあったんだ」
この説明に、珍しいことに千反田が反応した。
「わかりました! ラジオ体操です!」
「そうだ。千反田は以前見たことがあったな。嘉代と梨絵の机の上には、それぞれラジオ体操の出席カードがあった。嘉代が毎日欠かさず出席していたのに対し、姉の梨絵は夏休みの後半は一日も出ていない。だからラジオ体操の会場こそが、嘉代が犬を飼っている場所であり、家出の潜伏先だと思い至ったんだ」
「それで神社だと思った、と?」
「そうだ」
ばさりと音を立てて、伊原が地図をひったくった。
もう一度ザッと視線を走らせると、
「ちょっと折木、 子供たちがラジオ体操するために集まれそうな広場なんて、神社以外にもいっぱいあるわよ?」
「いや、そんなことはない。神社以外の広場は、どこも全て旅館や温泉宿の駐車場だ。夏休みは書き入れ時だからな。どこだって好んで子供たちに駐車場を貸してはくれないだろう」
伊原は三度地図を覗き込むと、何故か顔を歪めて歯噛みしていた。
「でも、でもでも! まだ分からないことがあるわよ! 折木の推理が正しいとしたら――」
「俺のは推理じゃない。ただの当てずっぽうだ」
「どっちでもいいわよ! 折木の当てずっぽうが正しいとしたら、嘉代は昨日の午後からずっと神社の境内にいたことになるじゃない」
「そうだと思うぞ?」
誰にも邪魔されず、無垢な犬と二人きりで暗所に立てこもるという行為には、折木奉太郎としては魅力を感じないこともない。だが実際に自分がやるかと聞かれると、絶対にしないと言い切れる。後に心配をかけたとして方々に頭を下げるようなことになっては、その精神疲労たるや……想像するだけで全身を襲う虚脱感に打ちのめされそうだ。
「でも、私たちは今朝神社だって探したのよ。その時は間違いなく嘉代はいなかった。それに、私たち以外にだって少なくとも一人は嘉代が拝殿に入ってる状態で神社を訪れているわ」
「あの南京錠を付けたヤツのことか?」
「そうよ、おかしいじゃない。嘉代が本当にあの拝殿に閉じ込められていたのなら、いくらでも助けを呼ぶチャンスがあったはずだもの」
確かに南京錠をかけた何者かに嘉代が監禁されていたとするならば不思議なことだらけだ。だが、それは違う。
「嘉代が閉じ込められていたのは結果だ。実際には嘉代はあそこに隠れていたんだ」
これは大きな違いだ。
伊原たちが探しに来た時も、嘉代は社殿の中に居たはずだ。
「厳密には、大人たちから隠れていたんだ。さっき、梨絵が嘉代に犬を飼えないことを言い聞かせたって話しただろ。その時、梨絵はなんて言って妹を説得したのか。これもただの予想でしかないが、そんな時の常套句があるだろう」
「常套句?」
「よく言わないか? 『野良犬は、大人に見つかったら保健所に連れていかれて殺されてしまうぞ』って」
伊原は両手を組みなおし、眉間に寄せた皺を少しだけ緩めた。
「言うかも……」
「ま、これも結果ありきの当てずっぽうにすぎないけどな。最終的に嘉代は神社に閉じ込められていた。そして伊原が言うとおり、誰かに助けを求めるチャンスはいくらでもあった。だが嘉代はそうしなかった。と言うことは出来なかったんだろ」
迂闊に誰かに助けを求めれば、大切な子犬が殺されてしまうかもしれない。
それは決して子供の幼稚な疑心暗鬼というわけではなく、現代日本の抱える社会的な必要悪の一端であり、嘉代の犬にとって充分起こりうる未来像であっただろう。
「折木さん、最後にもう一つだけ教えてください。そもそも、なぜ嘉代さんは南京錠がかかるような社殿の中に入れたのでしょうか。そして、嘉代さんが社殿に入った後に、いったい誰が社殿に南京錠をかけたのですか」
もう一つと言って口火を切った千反田の質問は二つあった。
もちろんそんなことに文句を言ったりしないが。
「それは俺も疑問に思ったよ。本当はそのあたりも含めて全部梨絵に聞ければ確認できたことなんだが、気付いたのはちょうど梨絵が倒れた後だったんだ。だから後はまた明日にでも伊原が電話で聞いてみてくれ」
「でもでも、折木さんなりの考えはあるのでしょう?」
目を見開いてにじり寄る千反田から逃げようにも、バスの座席はリクライニングしなかった。
「お、落ち着け。一応あるが、なんでもかんでも根拠無い不確かな事を話したくないんだ」
「さては奉太郎、間違っていた時に後で千反田さんに笑われるのが怖いんだね」
里志が下卑た笑みで妄言を吐いたので、今出来る精一杯の反撃として睨みつけてやった。ヤツの脛を蹴り上げてやることもできたわけだが、そんなことをすると自分のつま先も痛そうだったのでしない。
「そうなんですか折木さん! 大丈夫です! 私、笑ったりしません!」
「別に笑われるのが嫌なわけじゃない」
「おや、そうなのかい奉太郎?」
「そりゃそうよね。折木はちーちゃんに笑われるのが怖いんじゃなくて、失望されるかもしれないのが怖いのよねぇ」
「いや、お前たちな――」
もう我慢ならん。
一度ドツいてやろうかと振り上げた拳を、しかしふわりと千反田の両手が包み込んだ。
「折木さん。私、折木さんに失望なんかしません。折木さんは凄い人です。私、信じています!」
「あ、う……なぁッ!」
羞恥心というものが欠落しているんじゃないのかこの女は! いいや、欠落しているのみならず、本来羞恥心があるべき範囲にまで好奇心が侵食しているに違いない。
このハッキリ思わせ振りな素振りなんて、そもそも全て千反田の好奇心から来ている行動に過ぎないのだ。それ以外の感情など千反田は一切持ち合わせていない! 騙されるな、折木奉太郎!
いや、そもそもの話をするならば、いったいどういう思考回路をしていたら高校一年の女子がお礼も兼ねて、だなんてアバウトな理由で男女混合の温泉旅行なんてものを提案するわけがある。いくらなんでも無防備が過ぎるぞ。俺と里志だったからいいような物の! 万が一そういうことに物怖じしない、いわゆる今時の若者だったら、前回の『正体見たり事件』の時に何が起こったか知れたもんじゃない。
「折木さん?」
胸中を渦巻く複雑な感情は、しかし言葉と成って口を飛び出すことはなかった。
立ち上がらんと浮きかけた腰も、すとんと元のかび臭いシートに落ち着く。
「あれ、奉太郎?」
「折木?」
皆して人の名を呼ぶな。
聞こえている。
「いいか、千反田」
「は、はい」
「今すぐに手を離して、その両手で自分の口を力いっぱい押え付けて余計な事をしゃべるな。さもなければ続きは話さん」
「えぇっ、そんな――」
抗議の声を上げつつも、千反田は素直に自分の口を押さえた。
「もう一度前置きをさせてもらうけどな、これもやっぱり何の確証もないただの当てずっぽうだぞ」
千反田はカクカクと頷いて話を促した。
「千反田が綺麗な神社があったって言っただろ。実際に自分の目でも見たからわかるけど、確かに綺麗に掃き清められていたよ。でも、それはおかしいだろ」
「何がおかしいのよ?」
沈黙を強要されている千反田の代わりに、伊原が合いの手を入れる。
「一昨日の雨だ。記録的な大雨でそこらじゅうに落ち葉やゴミが散らばっているじゃないか。だけどあの神社だけは綺麗になっていた。千反田が感じた違和感はこれだ」
ついでに言えば、千反田の鋭敏な嗅覚が社殿の中にいた犬の臭いに気付かなかったのも雨の影響だと思われる。
「神社が綺麗に片付いていたから変だってこと?」
「そうだ」
「そんなの神主さんとかが掃除してるんじゃないの?」
「思い出してみろ。あの神社には拝殿以外に何の建物もない。専任の神主なんていないさ」
「むぅ、確かに社務所みたいな建物は一切なかったけど……それじゃいったい誰があの神社を掃除したのよ。それも一昨日の雨の後から、今朝私たちが嘉代を探しに行くまでの間に」
「それは当然、そこを使っていた人が片付けたんだろ」
「使っていた人って……ラジオ体操の子供達ってこと?」
「いや、子供達の親だろうな」
ラジオ体操をするにしても、大人の同行は当然だ。
「結論を言うぞ。あの神社には拝殿以外に一切の施設がない。だから専任の神主なども居ない。神主が居ないならば、境内を掃除したのは誰か。ラジオ体操に参加していた子供の親御さんたちだ」
律儀に口を押さえたままの千反田に視線で確認する。
彼女はコクリと頷いた。
「するとそこからもう一つの答えも見えてくる。簡単にラジオ体操をするって言っても、案外用意するものが多いよな」
「音楽を流すためのスピーカーでしょ?」
「ラジカセでいいとは思うが、他にも必要な物はある。まずスタンプセット一式、そしてそれを置くための机なんかも当然用意しなくちゃならない。ラジカセだけならともかく、机を毎朝どこぞから持って歩いてくるのは難儀だ。俺ならそんな方法は採用しない」
「そうね。私なら……あ、そっか! 社殿の中に入れて管理してたんだわ!」
「そういうことだろうな。だから夏休み中は、嘉代はラジオ体操の時に自由に拝殿に出入りできたんだ。逆になぜ今日は南京錠が付いていたかというと、ラジオ体操が終わって拝殿を開ける必要が無くなったから境内の掃除の後に施錠したってところだろう」
おずおずと、千反田が挙手して発言を求めてきたので、会釈で許可する。
「ですけど、折木さん。それだと嘉代さんは夏休み中にペロちゃんを拾ってから、ずっと拝殿でペロちゃんの世話をしていたことになります。その間、どうして大人の人たちはペロちゃんに気付かなかったのでしょう?」
「これは梨絵から聞いたから確かな情報だが、嘉代はラジオ体操の準備や片付けを手伝っていたらしい。おそらくは率先して働いたんだろうな。うまく立ち回って大人を中に入れないようにしたんだろう。少しくらい中を見られても、奥の方に隠しておけばあの暗さだ。見つかる心配はほとんどない」
「あ、そう言えば、ハナマルがありました!」
「なに?」
「嘉代さんのラジオ体操カードには大人の方の字で『いつもありがとう』っていうメッセージと、大きなハナマルが描かれてありました! きっと嘉代さんは、毎日いっぱいお手伝いをしたんですね!」
「あぁ、そうだな」
信じがたい積極性だと思ったものだが、目的の為の最善手だとすれば一応理解できないことはない、か。
「ですけど、ペロちゃんは吠えたりしなかったのでしょうか?」
その疑問には里志が反応した。
「生後間もない子犬が吠えないのは、そう珍しい話じゃないよ。遅い子になると、生後1年くらいまでほとんど鳴かないこともあるんだ」
「そうなんですか」
さすが福部里志。データベースを自称するだけのことはある。
「俺からの説明は以上だ」
「うん、納得したよ」
視線で千反田と伊原にも確認する。
伊原は不満げに頷き、千反田は嬉しそうに頷いた。
「私もすっきりしました。折木さん、ありがとうございます」
「今回は、私も認めるわ。折木のおかげで嘉代を見つけられた。本当にありがとう」
「あぁ、何事も無く終わってよかったな」
やっと終わった。
さて、これでようやく眠りにつけるぞ。
しかし、そんな俺の思いとは裏腹に、いつの間にかバスは山を下りきり、車窓を流れる景色も見慣れた神山市のものになりつつあったのだった。
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epilogue
今からでも学校に行くという伊原に千反田は賛同した。
俺はやっぱりその気は起きなかったし、つい数時間前に熱中症で倒れかけた俺に登校を強いるほど千反田と伊原も強情ではなかった。幸い学業にまったく執着を見せない里志という共犯者がいたおかげで、俺達二人は晴れて駅からまっすぐ家路に着くことができた。
「それにしても――」
自転車で並走しながら、里志が思い出したように口を開く。
「今回も見事だったね奉太郎。高校入学以来の君の活躍はすごいよ。僕が新聞記者だったらどんなにか良かったろうね。君の隣にいるだけで食いっぱぐれることがない」
「そんなに良いものじゃない」
「ははっ、過ぎた謙遜は嫌味だよ」
「別に謙遜なんかじゃないぞ」
「やれやれ……何か理由があるのかい? 摩耶花と千反田さんは気付いてなかったみたいだけど、ずいぶんと不機嫌じゃないか」
「別に……」
「ま、奉太郎が言いたくないなら無理に聞かないけどね。僕じゃ千反田さんのように奉太郎の心を動かすのは無理だろうし」
「変な言いがかりはよせ」
別に、機嫌なんて悪くない。
折木奉太郎の無気力面はいつものことだ。
そうとも。別に何か嫌なことがあったわけじゃない。
ただ俺は、己の浅はかさに嫌気がさしただけだ。
梨絵の電話が不自然だと気付いた時、俺はすぐに今回の嘉代の失踪は家出だと決め付けた。だからその瞬間、かなり気が緩んだ。小学生の家出なら、数日中に自分から音を上げて帰ってくるのだから、無理に探す必要もないだろうとすら思った。そうしなかったのは、ただ伊原の様子が尋常じゃなかったから。放り出して帰った場合、そうする方が結果的に消費するエネルギーが高くつくだろうという打算でしかない。
だが、実際はどうだ?
確かに梨絵は自分の意思で神社に赴き、自分の意思で社殿の中に隠れてはいたものの、実際は南京錠を掛けられて閉じ込められていたではないか。もしも家出だから心配ないと結論して俺達が帰った場合、最悪の事態も起こり得たかもしれない。
まただ。
また、俺は読み違えた。
錯覚していた。
つい先日、入須に散々思い知らされたというのにだ。
俺は、やっぱり何も特別なんかじゃない。今まで千反田の提示する疑問に答えを示してやれたのだって、本当にたまたまなのだ。折木奉太郎に何か特別な力が備わっているからではない。たまたま六の目が出続けてきただけ。
きっと次も間違う。
最後の最後で間違えて、きっと千反田たちに――。
「それじゃ奉太郎、僕はここで」
気付けば、里志と分かれる交差点まで着てしまった。
「あ、あぁ。じゃあな」
「奉太郎……サイクリング上級者として助言させてもらうけどね、自転車運転中に考え事はしないほうがいいよ」
「お前はサイクリング上級者なのか?」
「んー、訂正するよ。僕はサイクリング似非上級者だ」
相変わらず、拘らないことに拘る男だ。
それでも似非とはいえ上級者からの助言だ。真摯に受け止めることにしよう。
「わかった。気をつけることにする」
「それがいい。じゃ、また明日」
「あぁ」
里志がペダルを踏み込むと、自転車は勢い良く走りだした。
あっという間に小さくなっていく背中に向けて声をかける。
「里志、今晩こそ氷菓の原稿すすめろよ。もう明日には印刷所に連絡しなきゃならんらしいぞ」
「うへぇ、奉太郎にまでそれを言われるなんてね。大丈夫、わかってるよ。耳タコってやつさ。今晩のうちに書き上げて明日朝一で摩耶花に渡すことになってるんだ」
「発注は伊原がやるのか?」
「ほら、摩耶花は専門家だからね」
あぁ、なるほど。
確かに伊原摩耶花は専門家だ。
里志とわかれると、もうすぐに我が家だ。
玄関の扉を開けると、見慣れない女物の靴があった。
今朝は見なかったが、そういえば姉貴が帰って来ていたのだった。
リビングに一言「ただいま」と声を掛けると、ソファに横になっていた姉貴からも「おかえり」と返事がある。
昼飯がまだだったので、てきとうに冷蔵庫の中にあった漬物を齧ってすぐに台所を後にする。
自室に戻る前に汗を流すために浴室へ向かった。
シャワーを浴びていると、そこに姉貴の声がふりかかってきた。
「こら、不良高校生。平日のこんな時間になぜ家にいるのよ」
「んー……」
「んー、じゃないでしょ、奉太郎。説明なさい」
「……疲労困憊で、学校に辿り着けなくなった」
「へぇ。そういうこと言うわけ……」
本当のことを言ったまでだが、姉貴の声から温度が消えた。
曇りガラスの向こうにいるので表情はわからないが、もしかしたら返答を誤ったかもしれない。
「ふむ。少しかび臭いわね。あと汗の臭いもするわ」
「は?」
「ズボンの裾に汚れ……このあたりの土じゃないわね」
「おい、姉貴、何をやっている!?」
僅かに扉を開けて外を覗くと、俺が今脱いだばかりの衣類を漁っていた。
「情報を集めているのよ」
「やめろ、この!」
手を伸ばす。が、ひらりとかわされてしまった。
「そういえば、さっき聞こえたのは自転車のブレーキ音よね。貴方、いつもなら徒歩通学のはずなのに」
「ぬっ! やめろ、人を見透かすんじゃない!」
「あら、あらあらあら。シャツからスキンケアクリームか何かの香りもするわ」
「は、ハンドクリームくらい使う!」
「嘘をお言いでないよ。これは女物ね」
しまった!
さんざん千反田に触られたからだ。
「お母さんは特に何も言ってなかったし、朝はアンタ普通に出て行ったのよね。すると、出発は8時前後。そして15時前には帰ってきている。このカビ臭から察するにバスを使ったのね。駅前のターミナルから出るバスの目的地は4箇所だけど……スラックスの汚れはたぶん山の方の土だわ」
「や、やめてくれ!」
これ以上姉と話していると何もかも筒抜けになってしまうような気がして、奉太郎はバスタオルだけ掴んで裸のまま自室へと逃げ帰った。
「ま、奉太郎ったら、少し見ないうちに大きくなったわね……」
ベッドに倒れこみながら、脱衣所に残してきた着替え一式のことを思って一層憂鬱になる。
もう本当に、早くまた自分探しの旅でも何でも行ってくれればいいのに。
「はい、これ持ってなさい」
夕食後に自室で本を読んでいると、ノックもなしにドアが開き、そこからヌッと伸びた腕がそう言った。
突然のことに面食らっていると、腕はその先に握られていたモノをぞんざいに放って寄越した。空中で緩やかに回転しながら飛んでくるソレが受話器だと気付いて、慌てて持っていた文庫本を取り落としてまで受話器を受け止める。
「こ、こんなモノを投げるな。落ちたら壊れるぞ!」
「ドンくさいアンタでも落としようがない所に投げたでしょ」
そう言って一度だけヒラリと手を振ると、腕はすぐに引っ込んでドアも閉まった。
なんなんだ、いったい……。
ためつすがめつ受話器を見るが、どこにも変わった点はない。我が家の電話機(子機)だ。
あの姉貴が持っていろというくらいだから、おそらくは持っていた方がいいのだろうとは思うが、古今東西に受話器が魔除けや幸運のアイテムだったことなどないだろう。いったい姉貴は何故こんなものを寄越したのか。
それに万が一に今これが鳴ったらどうしてくれる。
大きな精神疲労を覚悟して自分が電話に出なければならないではないか。
するとまるで俺の心配を察したかのうように、その受話器が鳴動した。暢気な電子音が一人きりの部屋に響き渡る。
「はぁ……勘弁してくれよ、もう」
姉貴の思惑に踊らされているようで気持ち悪かったが、観念して通話ボタンを押した。
「はい、折木です……」
「夜分に恐れ入ります。私、折木奉太郎さんの学友の千反田えると申しますが、奉太郎さんはご在宅でしょうか」
言葉が見つからない。
受話器越しの沈黙が部屋に立ち込めた。
「もし? 奉太郎さんは――」
「……あ、はい。ご在宅です」
「あら? もしかして折木さんですか?」
「はい。そうです」
「ふふっ、どうしたんですか折木さん。変な喋り方になっていますよ」
「うん。動揺しているんだ。こんな時間にどうした」
時計を見る。時刻はすでに9時半だ。
記憶するかぎり、こんな時間に千反田から電話がかかってきたことなどない。
「すみません。ご迷惑でしたか?」
「いいや、そんなことはない。意外だったんだ」
「ふふふ、私も意外でした」
「何がだ?」
「折木さんって、ご自宅にかかってきた電話を率先して取るようには思えなかったので」
「……そうだな。たまたまだ」
本当にたまたまか?
ついさっきだぞ、姉貴がこの受話器を放って寄越したのは。
姉貴にこの電話を取らされたように思えてならない。
「今日は、本当にありがとうございました」
「もとは伊原の依頼だろ。別におまえが俺に礼を言うようなことじゃない」
「でも、折木さんが居てくれなかったら、きっと私は今日一日モヤモヤしたまま過ごしたか、さもなければ今頃まだ青山荘の周りをウロウロして嘉代さんを探していたかもしれません」
どうかな。
案外千反田ならそれほど時を置かずに嘉代を見つけ出したような気がする。
こと直感というものに関して、千反田えるのそれは人間離れしている。実際、千反田だけは嘉代が隠れていた神社に違和感を感じていた。
「実は今日の放課後、摩耶花さんのお家にお邪魔してきたんです。改めて折木さんの考えが正しかったかどうか確認したいと思いまして」
「そうか」
「やっぱり折木さんの言っていたとおりでした。梨絵さんが嘉代さんに保健所の事を説明して、それを重く受け止めてしまったために嘉代さんはあんな無茶をしてしまったそうです」
それを教えてくれるためにわざわざ電話してくれたのか。
知ってはいたが律儀というか真面目が過ぎるというか。
「でも一つだけ、追加の情報があるんですよ折木さん!」
「なに?」
「一つだけ、折木さんの考えを訂正する部分があります」
なんだとッ!?
思わず声を荒げそうになるのを堪える。
いや、もちろん自分でも、とてもじゃないが完璧な推理だなんて思ってはいなかったが、それでも千反田に正面から間違いを指摘されるのは言いようのない敗北感があった。
「すまん、なにが……間違ってた?」
「うふふ、聞きたいですか?」
「……たのむ」
「ふふふ、実はあの社殿、奥の畳を剥がして床下に出られるようになっていたんですって。だから嘉代さんは、こっそりご自宅に帰って、ご自分とペロちゃんのご飯を賄いながら籠城するつもりだったそうですよ」
「え?」
なんだそれは。
それは、どういう意味だ。
「ね、私の言ったとおりでしょう?」
「何が、だ?」
混乱していた。
自分の考えの何が違ったのか。
何が、千反田の言ったとおりなのか。
「やっぱり子供は、縁の下に隠れるんですよ、折木さん」
「……。」
「折木さん?」
「くくッ――あはは」
「えぇ? どうしたんですか、折木さん。私なにか可笑しなこと言ったでしょうか?」
「いや、違うんだ。悪い、笑ったりして」
声に出して笑うなんて、あまりにも折木奉太郎らしくない。
でも、そうか。あの神社には抜け道があったのか。
「千反田、今日は本当に――」
いや、これも自分らしくないか。
「はい?」
「――今日は、おつかれさん。歩き回らせて悪かった」
「いいえ、とても楽しかったですよ」
「そうか。ならいい」
それから二言三言挨拶を交わして、通話を終える。
不思議と悪くない気分だった。
受話器を戻すために廊下へ行く。
姉貴は、またリビングのソファに座って読書していた。
「姉貴」
「んー?」
「姉貴は、千反田から電話があることを知っていたのか?」
「千反田って、あの千反田さん? へぇ、あんた千反田家の人と友達なの? たしかあそこのお嬢さんがあんたと同い年だっけ。嘘、まさか彼女だなんて言わないでしょうね?」
「違う」
「そうよね。我が愚かなる弟よ。いくらなんでも、あんたの甲斐性で彼女なんてムリよね」
それはその通りなのだが、姉貴にわざわざ言われると腹がたつ。
性格破綻はお互い様だ。
「姉貴は千反田のことを知っていたわけじゃないのか?」
「さぁねぇ」
それだけ言うと、姉貴は読書の邪魔よと言わんばかりにヒラヒラと手を振った。
もうこれ以上は、姉貴に何を聞いても無駄だ。
追求してもノラリクラリとかわされるだけ。徒労に終わると分かっている謎にまで邁進するほど折木奉太郎は千反田えるに感化されていない。
「一応、礼を言っておくべきか?」
「別に必要ないけど、あんたが私に感謝を伝えたいっていうなら聞いてあげる」
「必要ないことはしない主義だ」
「んまっ、かわいくなーい」
別に可愛くなくていい。
だが、千反田相手ならいざ知らず、この姉貴相手に"らしい"とか"らしくない"とか考えるのも馬鹿ばかしい。どうせ彼女がその気になれば、折木奉太郎が考えていることなんて全て悟られてしまうのだから。
「姉貴」
「なによ」
「ありがとう。姉貴のおかげで助かったのかもしれん、よくわからんがな。おやすみ」
「はいはい。おやすみ、奉太郎」
部屋に戻り、まだ就寝には早い時間だけれど灯りを消してベッドに横になる。
今日はいかにも折木奉太郎らしからぬエネルギー消費の多い1日だった。
だが、言うほど悪くない。
たまになら、こういう日があってもいい。
Fin
友人に強く勧められてアニメ氷菓をいっきに見ました。
その勢いのまま書いたものです。
こういう物に挑戦してみたことは何度かありますが、一応とは言え最後まで書ききれたのはこれが初めてですし、こうして投稿してみるのももちろん初めてです。
読んでいただければ嬉しいです。
よろしくお願いします。
追記 28年3月20日
いくつか気づいた点を修正しました。
追記 28年4月5日
感想でご指摘いただいた点を含む何箇所かを修正しました。
また、解決編の最後で里志くんが時系列を気にするシーンがあったのですが、あらためて読むと蛇足に思えたので削除しました。(8日、さらに誤字修正)