苛立つ気持ちを抑えて報告書を常盤は読んでいた。
「ああ、もう!」
報告書を投げ捨てる。憲兵隊の失敗を何度も読まさせられるのはいい気分ではなかった。
「『オペレーション・イーカロス』は失敗。そして収穫は何もなし。ただ横須賀に手柄を奪われただけ!」
これで苛立つなと言う方が無理な相談だ。あの数から逃げ果せるとは思っていなかった。だが最大の誤算はそこではない。
「なんで横須賀は叢雲の確保に成功した! アタシの作戦よりも甘いのに!」
殺さずに生け捕りにしろ。そんな甘い見通しで作戦が成功するわけがない。だから常盤は若狭に取引を持ちかけた。せっかく持っている情報を無駄にするくらいならこちらによこせ、と。
だが現実は常盤の予想を裏切った。憲兵隊は失敗し、横須賀は成功した。
「しかも叢雲の身柄は寄越さない! まさか東雲クンが引き渡すのは反逆者の帆波峻のみで人質だった艦娘に関してはこちらで保護するなんて屁理屈をこねてくるとはね!」
どうせ失敗すると高を括っていた。だから細かいところまでは詰めなかった常盤に責任がある。だから常盤が苛立っているのは杜撰な確認をしていた自分だった。
叢雲は横須賀鎮守府の支部である館山基地に所属する艦娘だ。ならば反逆者として烙印を押された峻の身柄を憲兵隊に渡すことは当然だが、人質だった叢雲の管理は横須賀の管轄だと言い張ってきたのだ。
「やってくれるわ、まったく!」
常盤が言葉を叩きつける。舐めていた。東雲将生という男を。最年少で中将まで上り詰めたという実績は偶然の産物でも幸運の賜物でもなかったということだろうか。
「ここまでの腹芸をしてくるか東雲将生!」
常盤が頭を掻き毟ると艶やかに伸びた長い髪が乱れた。机を拳で殴りつけると積まれていた書類などが床にばらまかれた。
不意にドアがノック。叩かれた音が常盤を冷静にした。
切り替えろ。ここで荒ぶったところで何もならない。
「どうぞ」
「失礼」
憲兵隊の制服を着込んだ小太りの男が無遠慮にズカズカと入り込む。常盤はわずかに眉を潜めたが相手が上官だと気づき、起立すると敬礼する。
「どういったご用件でしょうか、長官」
「やりすぎたな、常盤特犯官」
「どういうことでしょうか」
「これを見たまえ」
常盤に向かって封筒が鷹揚に差し出される。怪訝な思いを胸に抱えながら常盤は封筒を受け取った。
「拝見しても?」
「構わん。見たまえ」
紙媒体。ということは少なくとも峻の捜索に関する証拠の類ではない。もしも証拠ならば、常盤のコネクトデバイスに画像データなりで送り込む。ということはこの封筒に入っているのは断じて証拠などではない。
となると入っている可能性のあるものは密書などの電子的記録を残すと困るもの。そうでなければ咄嗟に思い当たるものはあとひとつしかない。
「……どういうことですか、これは」
「見たままだよ、常盤特犯官」
渡された封筒から取り出した書類を握る常盤の手に力が篭る。その力に耐えかねて紙面が悲鳴をあげた。
紙媒体で送られる可能性のあるもうひとつのもの。それは転属命令だ。
「私が資料室勤務とはどういうことですか」
「君はやりすぎた」
資料室勤務など体のいい左遷だ。それがわからないほど常盤は鈍くない。落ち着き払った声を出そうとはするが、どこか声は怒りで震えている。
「関東圏のみでは飽き足らず、各地から憲兵隊を集めて大規模な作戦まで展開しておきながら失敗。しかも市街地においては一般市民の避難が完全に確認されていない状況にも関わらず突入を強行したそうじゃないか。もし一般人に被害が出ていたらどうするつもりだったのかね?」
「避難は完了していたと部下の報告に上がっていたはずでしたが?」
「一般人からの苦情が憲兵隊に来ていてもか? 確認が完全ではなかったのではないのかね」
「私の管轄下で起きた不祥事、ということですか」
「それだけではない。先にも言ったが、きみの権限が及ぶのは関東圏のみだ。だがきみは関東圏だけではなく他地方にまで召集をかけ、自らの指揮下に置き、作戦に参加させた。これは立派な越権行為だよ」
各地方からのクレームも殺到しているのだよ、と長官が険しい表情で続ける。
常盤が転属命令を封筒に戻して机の上に置いた。顔に能面でも張り付けたかのような無表情さだ。
「それだけではない。君には情報漏洩未遂の嫌疑がかけられている」
「私が……? いつ……」
そこまで言いかけて常盤は気づく。若狭に取り引きを持ちかけたことを。あれが情報漏洩と解釈された。盗聴されないように気をつけたが、どこから漏れたのか。
「成功していれば庇いたてもできた。だがきみは失敗したんだ」
「……つまり覆ることはない、と」
「ああ、そうなるな。実に残念だよ」
どこまで本気なのかわからない人間に、残念がられたところで慰めにもならない。むしろ腹立たしさが増すだけだ。
「ここのところ働き詰めだ。家族に顔でも見せてやればいいだろう」
長官が落ちていた写真立てを拾う。そこには常盤の家族写真が写真立てには収められていた。
「っ!」
「失礼した。これは返そう」
長官の手にある写真立てを半ばひったくるようにして受け取ると伏せて机に置く。まだ小学生くらいの常盤と両隣に立つ常盤の両親が机に隠れた。
「では私はこれで失礼する」
長官が踵を返して常盤の部屋から出ていく。
捜索の糸は切れた。東雲は叢雲を常盤に寄越すつもりがないのならばそこから情報を抜くことはできない。
そして憲兵隊を指揮する権限も失った。資料室勤務ということは今の憲兵中佐第1管区司令部付き特殊犯罪対策担当官という立場も取り上げられたということだ。
おそらく捜索隊は解隊。別の人間が今後は峻の案件に対応することになるのだろう。
「ふざけるな。ふざけるなふざけるなふざけるな!」
常盤が封筒を壁に叩きつけながら髪を振り乱す。
「テロリストを殺るのはアタシだ。それを横からかっさらうなんて許さない」
常盤がにたりと笑う。
もうどうだっていい。すべて取り上げられた。なにも残っていやしない。
じゃあ何をしたっていいじゃないか。もう失うものはなにもないのだから。
「加減はなしだ。覚悟しろテロリスト」
常盤の目はほの暗く燃えていた。
息が白い。コートを着ていなければ人が集まるため、それなりに熱が発生する難民スラム街とはいえ、かなり肌を刺すような寒さに難儀する羽目になっていただろう。
そう思いながら峻はスラム街のごたごたに紛れていた。海兵隊から奪った車は遥か遠くに置いてからここまで歩いてきた。すぐに特定される恐れはないはずだ。
「くそ、まだ痛みやがる」
腹部をさすりながら峻が歩く。度重なる右脚の連続使用からくる負荷により、臓器が悲鳴をあげていた。今でこそだいぶ落ち着いた方だ。
そして義足の付け根も痛みを発していた。そもそもまだ装着してから一ヶ月も経っていない。リハビリは終わったとはいえ、万全ではないのだ。
さらに海兵隊とやりあった際に左肩を撃たれていた。傷口は消毒した上で止血してあるが、痛みが止むわけではない。
満身創痍、と言うほどではない。だが無傷かと言われるとそれも違う。
「叢雲を帰すことができたのなら安い犠牲か」
もうこれで巻き込まなくて済む。それだけが峻にとっての慰めのようなものだった。
睡眠薬はすこしやりすぎたと思わなくもない。だがこれで人質であるという立場をはっきりと印象付けることができた。
叢雲に私を人質にして逃げられると聞いたときは気が触れたのかと思った。だがふと考え直したのだ。利用できる、と。
だから叢雲の提案に峻は乗った。爆弾を首につけて人質のように見せればいいと言うアイデアにも乗ったのだ。
そして峻は叢雲を騙した。
睡眠薬を盛った。そして叢雲の意識が落ちたことを確認してから爆弾を首に嵌めた。絶対に自分の持つリモコンのスイッチを押しても信管が作動しないようにリモコンを作り変えて。
そして東雲ならば叢雲を安易に解体処分にして殺すようなことはしないだろう。少なくとも長年、峻の秘書艦を務めたものとして聞くことがあるはずだ。そして東雲は横須賀鎮守府長官だ。階級も中将というかなり高い部類。であるならばうまく叢雲を手元に置いておこうとするだろう。最後まで何か叢雲が知っている可能性を捨てられない以上は必ず。
それが峻の狙いだ。
これで叢雲は安全を中将の権力によって保証されていることになる。巻き込まれた叢雲はここまで徹底すれば無事だろう。今後は前線に出られることはないかもしれないが、それでも無事ならば問題ない。そして叢雲が犯したと言われるかもしれない罪は全て峻が背負いこめるようになった。
仮に叢雲がやったことが糾弾されそうになったとしても、首に嵌められた爆弾のせいで脅されて仕方なくという言い訳ができる。これで全てを峻のせいにすることで叢雲は秘書艦の立場であったのを利用されて体のいい人質にされた哀れな艦娘という免罪符を下げることができる。
「お膳立てはした。だから叢雲のことは頼んだぜ、マサキ」
峻は東雲なら信用できた。だから託してもいいと考えられたのだ。あの時、殺しにかかってきた憲兵隊と違って生け捕りにしようとした東雲なら託せた。
ブルーシートの家や廃屋と見間違うような家が建てられている中をすいすいと歩く。足場はよくないが、この程度は慣れたものだった。
「……さん」
「ん?」
不意にコートの裾を引かれる感覚に立ち止まる。
「おじさん」
「おじ……」
峻はまだ三十路を超えていない。それなのにおじさん呼びは少々くるものがあった。
だがすぐに持ち直すと裾を引く人物をしっかりと見直す。まだ幼い少女だ。年齢は6歳あたりといったところだろうか。
「どうした?」
努めて穏やかな声を出すようにする。ここまで近づかれているのに気づかなかった自分への苛立ちを察されたくはなかった。
「なにかちょうだい」
「なにか、か……」
何かあっただろうか。ポケットを探ってみると、小さな飴玉が転がり出る。いつ入れたものかはわからないが飴に賞味期限もなにもないだろう。そして峻はそこまで飴に執着心はない。このまま付き纏わられるよりも適当なものを渡して追い払ったほうがいいだろう。
「ほら」
「わあっ」
少女が目を輝かせる。一袋で大量に売られている安っぽい飴程度でそこまで喜んでもらえるのなら重畳だろう。
「じゃあな」
「まって!」
くいくいと峻のコートがまた引かれる。峻が不思議に思って振り返る。
「きて!」
無垢な笑顔を浮かべて少女が峻を引っ張る。ついてこいということだろう。
ブルーシートによって建てられた家や、あばら家の群を抜けて少女のあとを追う。寒くはあるが、近郊であることと、密集することによってそれなりに熱が発生しているのか、廃墟の寒さと比べればはるかにマシだ。
「ここ!」
「なんだ、ここ?」
「ちょーろーのおうち!」
別段、他のブルーシートで作られた家と変わりはない。となりに立つ少女を見るとにこりと笑った。中に入ればいいのだろうか。
「失礼」
ドアの変わりらしきブルーシートを暖簾のように押し開けた。少し他よりも広いのかもしれないと思いつつ家の中をぐるりと見渡していると少女が中に入り込んだ。
「ちょーろー、こんにちは!」
「やあ、リリイ。お客さんかい?」
「うん! あのね、あのね、これもらったの!」
曇りのない笑顔で少女が手に乗せた飴玉を長老と呼ばれた男に向かって見せた。穏やかな面持ちで長老がリリイと呼ばれた少女を見つめて、頭を撫でた。
「よかったね。私はお客さんとお話があるから向こうへお行き」
「わかった!」
とててて、と少女が大切そうに飴玉を胸に握り込んで走り去る。ブルーシートの家には峻と長老のみが残された。
「リリイってのはあの子の名前なのか」
「本名は誰も知らない。だが呼ぶ名がないのは不便でね。リリイと私が名付けた」
「リリイ……百合か。花言葉は『無垢』だったな」
「その通りだよ。ぴったりだろう? こんなゴミ溜めにいてもリリイは輝くように笑う」
「無垢と無知は違う。あの子は無知であっても無垢とは限らないだろう」
「かもしれない。だが彼女をこんな場所に押し込んだのは私ではないんだ。私を責められても困るよ、帆波峻」
「へえ、俺のことを知ってるのか」
薄く峻が嗤う。長老が小さく肩をすくめた。
「こんなところでも情報はくる。捨てられた新聞や壊れたラジオを修理すればね。『ウェークの英雄』がこんなゴミ山にどんなご用かな?」
「あまり英雄と呼ばれるのは好きじゃないんだがな。まあ、安心してくれ。別に一斉撤去の陣頭指揮を執りにきたわけじゃない」
「はたしてそうかな? コートの下に拳銃を吊っている人間の言う事を信じられるほどお人好しじゃないつもりだよ」
「ここでぶっぱなすつもりはねえよ。そもそも俺はここに身を寄せただけだ。あんたらに危害を加えるつもりはない」
峻が両手を上に挙げた。コートの前は閉まっている。すぐに拳銃を抜くことはできないということを遠まわしにアピールした。
「……ここはただ捨てられたものが来るのみだ。来るもの拒まず。ならば歓迎こそしなくとも拒むことはしない」
「捨てられた、ね……」
「そうだよ。このゴミも、そして人も。社会から爪弾きにされたものばかりだ。あのリリイも捨てられた子だ。どこに親がいるのかわからん。親が生きているかすらわからない」
「さしずめ捨てられた記憶の集積所だな」
「捨てられた記憶の集積所、か。なかなか正鵠を射ている言葉だ。ものには記憶が宿る。そして人は記憶の宿ったものを見て、思い出す。つまりは物事から目を逸らすには捨てることが手っ取り早く思える。だから人はものを捨てるんだ。いらなくなったものを。見たくないものを」
長老が寂しげな色を滲ませた笑みを浮かべた。自分すらも捨てられたものなのだ、と暗に肯定しながら。
「私は捨てることを否定する気はないよ。逃げるということは恥ではないのだから。むしろ生存本能という意味では正しくある。逃げることを否定するのは愚か者か、もしくは自殺志願者だ」
「そういう言い方もできるかもな。で、あんたらはここで捨てられたもの同士で傷の舐め合いをしてるわけか」
「それも否と言うつもりはない。だが考えてみれば共同体というものはすべてその性質を備えたものじゃないのか? 互いの弱いところを慰め合う。そんなもの同士の集まりが結果、共同体を生み出している」
「言い得て妙だな。だがあんたと話してても俺に益はなさそうだからもう行くぜ。迷惑はかけんようにする」
「きみは……」
出ていこうとした峻の背に長老が制止をかけるように言葉を投げかけた。踏み出した右脚を止めて続きを峻が待つ。
「きみはここに何を捨てに来た?」
ふっと峻が息を吐く。笑った、のだろうか。
「元から捨てるもんなんざ持っちゃいねえよ」
「そんなことはない。人はひとりで生きられないのだから」
「なら俺はとうの昔に捨ててきたよ」
ブルーシートを開くと振り返ることなく峻が出て行く。
外に出るとリリイがにっこりと峻に笑いかける。まだ飴は食べずに大切そうに抱えたままだ。
「食べないのか?」
「だいじだからとっとくの!」
「あんまり置いとくなよ」
「うん!」
輝くように笑うとリリイが飴をポケットに戻す。食べないのかよ、と苦笑しながら峻がリリイが走り去る姿を見送った。
「無垢、ねえ……」
確かにあの現実を知らない少女は無垢だ。外の世界を知らず、ただ限られた狭い世界のルールで生きていれば変わることはないのだろう。
だが果たしてそれは本当に正しいことなのだろうか。
「この思考は無意味か」
同じ人間だとしても価値観の違うものを比べて何になる。ゴミ山の世界しか知らない子供と戦うことしか存在しない世界で生きてきた子供の価値観は全く違うものなのだから。
「しばらくはここにいるとするか。許可らしきものも降りたしな」
どこへ行くというあてもない放浪の身だ。しばらく間借りさせてもらうことに決めた。とはいえ、風よけもないのはきつい。
風よけを作るための使えそうな
こういう仮設の風よけを作ることも峻にとってはお手の物だ。少しやり方を知っていれば、何を骨にして何を張ればいいのかわかる。そしてそれさえわかってしまえばあとは組み立てるだけだ。
「ま、こんなもんだろ」
海兵隊の車両にあった緊急キットからブランケットはいただいてきている。これを被ればそれなりにこの冬の寒さも耐えられるものとなるだろう。
この先はどうするか。その答えはもう出ていた。
「ひとりだよ。これからも」
今までもずっとそうしてきた通りに。
こんにちは、プレリュードです!
今回は常盤と帆波の2人でお送りしました。相変わらず順調(?)に話数が伸びてきております。おかしい。本来の予定ならそろそろ完結してるはずだったのに……
今では完結は遥か先のことになりました。この間、ざっくりとこの更新ペースを保った場合でどれくらいかかるか概算したら今年では終わらないという結果に衝撃を受けております。
感想、評価などお待ちしてます。それでは!