新章突入となりました! 気がつけばもう第4章です。投稿始めた時から既に半年も経過してたんですね。ここまで息が長くなるとは思いませんでしたが、終わりはまだ見えません()
完結までどれだけかかるんでしょう……
とにかく本編参りましょう!
紙コップの底
右腕を振りぬく。左手の人差し指を引く。バシャッとぬめりのある液体が全身に降りかかり、手の甲で顔をぐいと拭う。下ろした手に視線を落とす。
その手は赤い。
紅い。
朱い。
アカイ。
──殺したな。よくもやってくれたな。
違う。そんなつもりがあったわけじゃ……
──嘘をつけ。お前は……
『だぁぁぁあ! 早く執務室に来いって言ってんでしょ、このアホ司令官!』
キーンというスピーカーのハウリングで峻は目が覚めた。がばっと起き上がり、荒い息を吐く。
「木陰で休んでるうちに寝ちまったのか……」
ぐっしょりと背中が濡れており、額に浮かぶ玉のような汗を拭う。大丈夫だ。手は赤くない。
『ちょっと! 聞こえてるの! 早く来なさいよ!』
秘書艦どのが大変お怒りのご様子だ。恐らく少し前から呼び出していたのだろう。慌ててコネクトデバイスから通信を飛ばす。
「悪い、寝てた! すぐに行く!」
『早くする! はい、駆け足!』
「アイ、マム!」
半ばやけっぱちに叫び、急いで立ち上がると執務室へ向かって駆け出した。走りながらさっきの夢が頭をよぎるが、首を降って余計な思考を振り払う。やはり寝るときは1杯引っかけてからにするべきだった。寝るつもりがなかったとはいえ、今後は寝落ちするような事態がないように気をつけようと心に誓う。
執務室の扉を乱暴に開ける。仁王立ちした叢雲とその隣で苦笑いしているゴーヤと天津風、その様子を少し離れたところで北上がぼんやりと、だが面白そうに眺めていた。
峻が入ってきたのを見て、叢雲が口を開き怒鳴ろうとした。だがその顔は驚きに変わり、徐々に不安げに変化していく。
「あんた……顔色悪いけど大丈夫なの?」
「えっ……あ、いや大丈夫だ。体調はばっちりだから心配しなくていい」
手を振って何でもないことを主張する。本当に大したことではないため、必要もなく心配をかけるのは申し訳なかった。それに言えるわけがない。悪夢にうなされてました、なんて。
「で? なんで基地内放送まで使って呼び出したんだ? あとここに集められてるメンバーは?」
「説明するより見た方が早いわ。これよ」
「っと」
軽く放られた封筒をキャッチして中身を取り出し、素早く確認。一部が電子化しているデータだったため、コネクトデバイスで読み込み、内容を噛み砕いていく。
「輸送任務? またえらく急な話だな」
「それは同感だけど横須賀からきた命令書なんだから仕方ないじゃない」
「そんなもんかね……」
ついこの間、ヨーロッパに行ってきたばかりでこんなに早く次が来るのはいくら何でも時間を空けなさすぎではないか。確かに日本海軍は人手が足りていない。だとしてもそんなに連続してうちにさせなくてもいいだろう。
「露骨に嫌そうね、あなた」
「天津風、俺の立場になって考えてみろ。やってられるか? せっかく束の間の休息だと思ってたらそれを潰されたんだぜ?」
「まあ……それに関しては同情するわよ」
「ま、提督もいいことあるよ、きっとさー」
「ほら、たぶん信用されてるんでち」
「他人事だと思いやがって……」
恨めしげに言いながら命令書の内容を反芻する。東南アジアのラバウル泊地へ輸送船を引き連れての輸送任務。艦娘輸送艦に乗って護衛すればいいらしい。唯一引っかかるのは連れていく艦娘が指定されていることだろうか。ここにいる叢雲、天津風、ゴーヤ、北上の4人だ。
「艦娘まで指定とは珍しいな」
「同感ね。でもそういう命令ならしかたないでしょ?」
その通りではあるのだが、なにか釈然しない。だが考えても仕方ないため、先にやるべき事として工廠へ通信を繋ぐ。
『はい、提督! どうしました?』
「明石、輸送任務だ。輸送艦に載せるためのモルガナとパラレル用の自律駆動砲をスタンバイしといてくれ」
『了解しました! ただ自律駆動砲の方は私で全部できますけど、モルガナの方は提督がやってくださいね?』
「わかってる。機材だけ出しといてくれりゃいいから。じゃ、よろしくな」
用事は手短に。あまり引き止めては作業ペースが遅れてしまう。
明石は工廠の中にある仮眠用の部屋で寝ている。ちゃんと自室は与えているが、すぐに対応するためらしい。
ともかく工廠への手回しは終わった。出発の時間には間に合うだろう。執務机の椅子を引いて腰掛けてもう一度さっきの書類を透かすようにして眺める。
「ねー、提督ー。あたしたちもう行っていい?」
「んあ? ああ、いいぞ。各自でコンディションは整えといてくれ。あと荷造りな。結構長い時間を船の上で過ごすことになるからな」
「わかったー。んじゃねー」
「おう。じゃあな」
ぐいっと伸びをしながら扉から消えていくのを見送って、さり気なく置かれた冷茶のグラスを手に取り、ぐいっと飲み干す。渇いていた喉がキンキンに冷えたお茶によって潤い、流れ落ちていく。
「サンキュー、叢雲」
「水分補給くらいしっかりとしなさいよ」
「以後気をつけますよっと」
汗ばんだシャツの胸元で扇ぎながら窓を開けると、まだ湿度が高くてじっとりとした秋風が執務室に吹き込んだ。溶けた氷がバランスを失ってカランと音を立てる。窓の外で揺れる木の葉を見ながら峻が口を開く。
「そうだ叢雲。今度、新兵装のテスターやってくんね?」
「新兵装? どんなのよ?」
「それはまだ秘密だ。だがかなりピーキーな仕上がりになりそうでな。ぶっちゃけお前くらいしか使えんかもしれん」
「……ふうん。ま、いいけど事故だけは起こさないでよ」
「わかってるって。安全策は何重にもセットしとく」
「そ。ならいいわ」
ともかくよろしくな、と峻が欠伸混じりに言いながら窓のアルミサッシに腕を乗せて木の葉が揺れているのを泰然と見ている。
「その新兵装とやらに意識取られるのはいいけど、ちょっとは真面目に仕事してくれないかしら? そこの山、あんたの承認が必要なのよ」
「判はお前に渡してるだろ?」
「あのねえ……職務怠慢でしょっぴかれるわよ?」
「そこんとこは上手いことマサキが握り潰してくれてるみたいだな。ま、書類はしっかりと上がってるから気づく事はありえんさ」
「東雲中将もよくやってくれるわよね……」
こめかみに指を当てて叢雲が頭を抱える。もしも、書類がまったく上がっていなければさすがの東雲も手を打たなくてはいけなかっただろうが、館山基地の書類はしっかりと横須賀に送られているため放置しているのだ。8割がたやっているのは叢雲なわけだが、そんな細かいことを言っていては館山基地においては生活できない。
「で、この山に判子を押してけばいいのか?」
「そうよ。一応ミスの確認もね」
「お前に限ってミスなんてやらかしてるとは思えねえが……まあやっとくよ。念のためな」
珍しく、本当に珍しく峻が判子を手に取り書類の山を切り崩しにかかる。別に峻自身は書類仕事が一切できないわけではない。ずば抜けて有能というわけではないが普通程度にはやれる。いつもやろうとしないのは単に面倒がっているだけだ。
「にしても輸送任務か……」
「諦めなさい」
「まだなんも言ってねえよ!?」
「雰囲気でだいたい何が言いたいのかわかったのよ」
はー、と気のなさそうな返事。やれと言われた以上はやらざるを得ないが、スパンの短さに身内で文句を言うことくらいは許されるだろう。
ひたすら判子を押す作業を機械のように繰り返し続けながら峻はふと思った。
こういう案件でマサキの奴が何の連絡も寄越さないなんて珍しい。大抵はなにか一言くらいは言ってくるものだが……単純に忙しいだけかもしれない。
「ねえ」
「ん? どした?」
「…………やっぱりなんでもないわ」
「……そうか」
カラン、とグラスの氷が音を出して再び崩れた。
「やあ、東雲」
「若狭じゃねえか。パーティー以来か」
埼玉県にある海軍本部の休憩室で、カフェラテを飲んでいた東雲に若狭が声をかける。若狭はコーヒーサーバーに付いているブラックコーヒーのボタンを押し込むと、沈黙を守っていたサーバーが起動し、コーヒー豆を挽き始める。事務仕事に疲れた軍人にせめてこれくらいの癒しをと設置されたもので、内部で豆を挽くところからやってくれる。時間は多少かかるが、味のクオリティは下手な店を上回るそうだ。わざと時間をかけることによって心の余裕を持たせるという噂があるが、さすがにこれは眉唾ものだろう。電子音が鳴り、取り出し口に紙コップが湯気を立てながら置かれた。この紙コップは隣のリサイクルボックスに入れると紙繊維になるまでドロドロにして、殺菌してからまた新しいコップに作り直す、リサイクル思考の賜物だったりする。
「珍しいじゃないか、東雲がカフェラテなんて」
「甘いものが欲しかったんだよ」
「お疲れかい?」
「まあな」
紙コップを傾けて東雲がカフェラテを飲む。確かに心なしかいつもより覇気がないような感じがしなくもない。中将という役職だけあって心労も他より多いのだろうと勝手に結論づけて若狭もコーヒーを飲んだ。豆から挽いているだけあって、缶コーヒーよりはうまいが、どこが違うかと問われれば具体的に答えられないあたり、別に自販機でもいいんじゃないだろうかと個人的には思う。
「珍しいといえば本部に東雲がいるのもなかなかレアケースだね」
「色々あんだよ。この前のヨーロッパについてとかウェーク島基地についてとか」
「まだウェーク島はまとまってないのかい?」
「知ってるくせに。……まだだよ。山崎中将がゴネやがる。んな細かいとこ関係ねえだろってとこまでいちいち突っ込むもんだからこちとらずっと横須賀に帰れずに本部で調整しては折衷案だして、そしたらまたグチグチ言われるもんだから修正しての繰り返しだ。いい加減、本部ぐらしから解放されたいぜ、まったく」
「それは大変だね。甘いものを取りたくなるわけだ」
「そっちはどうだ? 仕事の方は順調か?」
「まあまあさ」
「その様子だとまだピースが足りないってとこか? 例のシャーマンって奴の正体を暴くには」
「……なんのことかな」
若狭が空とぼけてみせるが、無駄だという事は本人が一番よく分かっていた。東雲は木偶ではない。むしろ頭はかなり切れる。場合にもよるが、広い範囲を見る状況においては峻よりも能力は上だ。
「本部勤めじゃなくとも、中将だ。ある程度の情報は入ってくる。それに俺自身も気になってはいるんだ、矢田の裏で操ってた人間はな。お前ほどエキスパートじゃあないが、何も調べてないわけないだろ?」
「へえ。で、どこまでわかった?」
「お前の方が俺より持ってる情報量は多いだろ。それに防諜部の人間からすれば推論だらけで確証なんて一切ないからな」
「教える気は無いってことかい?」
「いや。どうせお前のことだから全部知ってる話だと思うってことだよ。海軍所属で地位もそれなりにある人間であるってこととかな。それと……」
「それと?」
「いや、なんでもない。それよりお前は何の用だ? まさかなんとなく休憩室に行ったらたまたま俺がいて話しかけたなんて言わないよな?」
「……さすがは横須賀鎮守府司令長官」
「そういう心のこもってないお世辞はシュンの専売特許じゃなかったか?」
確かに若狭は東雲を待っていた。休憩室に入ってコーヒーサーバーからカフェラテを取り出してどっかりと座り込むところまで見た上でタイミングを見計らって接触をしている。
「俺はお前に協力することに関しては構わねえ。こっちにもメリットがある」
「メリット?」
「俺の部下にちょっかい出してくる輩を排除できる。十分すぎるメリットだ」
若狭は内心で溜息をこぼした。まさかこの状況で自分が東雲を疑っている事など言えるわけがない。いくらその疑いが薄れてきているとはいえ、だ。限りなくシロに近いグレーはクロだと思え。これは鉄則だ。
「……わかったよ。とは言っても特に何もしなくていいんだ」
「ほんとにか?」
「うん。それに僕が外部に情報を渡すわけないじゃないか。上層部ってことは東雲も容疑者リストのお仲間だよ?」
「……そうかよ」
ぶっきらぼうに東雲が言い捨てた。東雲に背を向けた若狭は特に何も思わないとでも言うように紙コップを傾けてブラックコーヒーを飲み干す。
「そういえば東雲が横須賀に帰るのはいつになりそうだい?」
「お前は教える気が無いのにこっちの情報は言えってか……一週間くらいを見積もってる」
「そっか。それは大変だね。ウェーク島基地計画、頑張って。じゃあもうそろそろ行くよ」
「もうちょっとゆっくりしてけよ」
「あんまり長い時間かけて休憩してると長月の機嫌が悪くなるからね。それに防諜部は人手が足りてないからさ。あんまり僕一人が空けとくわけにもいかないんだよ」
これ以上、話す事はないというメッセージ。意図をくんだ東雲はもう引き止めることはない。
「あ、これ捨てといてもらっていいかい?」
休憩室の出口まで来てから思い出したかのように若狭が机の上に紙コップを滑らせる。なめらかに滑る紙コップはピタリと東雲の飲んでいたカフェラテの紙コップの隣で止まった。
「へいへい。捨てといてやるからさっさと長月ちゃんとこに行って怒られてきやがれ」
「それは勘弁願いたいから急いで戻るよ。まだしばらく本部にいるならまた会うこともあるかもね。それじゃ」
「おー。じゃあなー」
今度こそ若狭が休憩室を後にする。残された東雲は冷めきったカフェラテをちびちびと飲んでいた。タバコを箱から取り出して咥えかけ、怒る翔鶴の顔が脳裏をよぎり、思い直したように箱に戻した。カフェラテを飲みつくすと若狭の残していった紙コップを手に取り、
《帆波から目を離すな》
紙コップの底に書かれている細く几帳面な字は若狭の字だ。わざわざ横須賀に帰る時期を聞いてきたのは先にウェーク島基地を優先し、見張りはそれから後でいいというメッセージ。そこまで優先事項ではないと若狭は読んでいるのだろう。だが例のシャーマンとやらに何かしらのターゲットにされる可能性があるということか。
「つまりお前は帆波を餌に、俺を罠の見張りに使うつもりか……」
食いついた瞬間はどうやっても姿を現すしかなくなる。そこを逃さずに捕らえる目論見なのだろう。
「ま、せいぜい利用されてやるとするさ」
ふたつの紙コップをリサイクルボックスに放り込む。すぐに殺菌消毒されて、繊維状になるまでドロドロにされたのを見届けてから東雲は休憩室を出ていった。
確かにただ利用されるのは少々癪だ。だが利害の関係は一致している。若狭はシャーマンを捕まえられて、東雲は不貞の輩を排除できる。
だがそこまで急ではないのなら先に片付けるべきタスクであるウェーク島基地計画を実行段階にまで持ち込む。せっかく取り戻した領土をみすみすまた奪われ返されるなどもってのほかだ。
「さて、翔鶴を放りっぱなしにしとくわけにもいかんしさっさと終わらせられるように頑張るとするか」
しばらくは帆波も休養のために大人しくしている。帰ってからで見張りは十分。だからこそ大事なこの仕事を余裕を持ってキッチリと完遂する。それが普段から出撃せずに横須賀の奥で座っているだけの自分に出来る最大の任務だ。
初っ端から不穏な空気を匂わせていくスタイル。違和感バリバリのスタートですが毎度の話ですねっ!
ようやく物語も中盤の半ばくらいまで来ました。ここまで趣味全開の小説についてきていただいた読者の皆様には感謝の言葉しかありません。
感想、評価などお待ちしております。それでは。