「いえ。逃げ場はあるわ」
車長席から降ってきたのは、自信たっぷりの声。
「照明弾のつながりを見て。切れている部分があるでしょう。あそこへ向かう」
「切れている部分って……」
たしかに、松明行列のように連々と続く光球が、前方右手でいったん途絶えて、そこだけ闇の空間になっている。
なってはいるが――
「おいカチューシャ、あそこは山だぞ!」と、アンチョビ。
「ええ。あの山に登る」
アンチョビが驚きで目をむく。
だが、一瞬だけだ。
「どうなっても知らんからな!」
捨て台詞を残して、快速のCV33はT-34/85を追い越して走り去る。
一列縦隊。
先頭はCV33、T-34/85が続き、末尾はKV-2。
T-34/85とKV-2の距離は、谷を出たときよりさらに離れている。
砲手席からエリカが叫ぶ。
「撃っていいの?!」
「射程に入ったらお好きに!」
包囲戦になるなら、相手が態勢を整える前に、一輛でも多く減らしておきたい。
ふたりともそれがわかっている。だからこその台詞だ。
「KV-2にも撃たせなさいよ! こういうときなら役に立つでしょ!」
「言われなくてもわかってるわよ!」
どなりあいながら、エリカはスコープの中の光景をじりじりと眺める。
望遠鏡に映る小さな像に、一刻でも早く大きくなってほしいのか、それともなってほしくないのか、自分でもわからない。
#
口火を切ったのは、プラウダの重戦車IS-3。
初弾にして、おまけに走行しながら発射したのに、着弾位置がすこぶる近い。
T-34/85の車体がぐらぐら揺れる。
――腕がいい!
エリカは歯がみする。
強豪校はこれだから始末が悪い。
選手層が分厚いから、ふだん試合に出ない生徒の中に、意外な伏兵がいる。
もっとも、エリカの黒森峰だって立派に強豪校だから、ふだんは対戦相手から同じように恨まれているのだが、それはそれ、これはこれである。
IS-3の主砲は、IS-2と同じ122㎜。
エリカのティーガーⅡの砲塔を、二五〇〇メートル以上離れた場所から貫通できるだけの性能がある。
T-34/85は、ティーガーIIの砲塔を側面から抜くのでも、八〇〇から一〇〇〇メートルまで近寄らねばならないというのに。
おまけに、IS-3は車体が低い。
傾斜装甲も優秀ときている。
むこうはあの距離から、いつでもこちらを抜ける。
だが、T-34/85は、たとえ近接しても、IS-3の正面装甲は撃ち抜けない。
すくなくとも、馬鹿正直に真っ正面から撃ちあっている限り。
だから、エリカにできるのは待つことだけ。
いつまた撃ってくるのかわからない相手の姿を、スコープの拡大された視界の中で、ずっととらえたまま。
距離の接近は、自分たちだけでなく、相手にとっても有利となる。
それでも、近づくしかない。
はやく。
はやくはやくと、気だけがせく。
ずっと黒点だったIS-3の砲口が、ぴかりと光る。
一瞬後。
ごぐぃぃん、という
「やられた?!」エリカはそれでも、スコープから目を離さない。
「大丈夫、はじいた!」と、カチューシャ。
はやく撃っちゃってよ、とは、それでも誰も言わない。
車内の全員が、二台の戦車の特性を知りぬいている。
だが、遠い。
まだ遠い。
まだ、あそこが見えない。
このままでは相手に三発目を撃たれてしまう――
エリカが歯を食いしばったとき。
すぐちかくで轟音がした。
弾着ではない。発射音だ。
ほぼ同時に、IS-3の近くで火薬が炸裂して、望遠スコープの視界が盛大な土煙で真っ黒に塗りつぶされる。
――KV-2!
後方の重戦車が、IS-3の122㎜をさらに越える152㎜榴弾砲を発射したのだ。
その最大射程、じつに一二四〇〇メートル。
怪物と呼ばれるだけはある、異形にして比類なき戦車である。
「見なさい! かーべーたんはすごいんだから!!」
背後でカチューシャが勝ちほこる。
ええ、まったくね――と、エリカも心の底から同意する。
当たりはしなかったが、すくなくとも目つぶしにはなってくれた。
貴重な時間を稼いでくれた。
土煙が薄くなる。
スコープの中では、進路を狂わされたIS-3が、きゅらきゅらと履帯を回して軌道を修正している。
見えているのは、無防備な側面。
――ここ!
エリカの一撃が、IS-3後部の燃料タンクを見事に撃ち抜く。
IS-3が、派手な爆煙をあげて動きを停止する。
#
だが、ほっとしているひまはない。
散開して逃げ場をふさいだプラウダの戦車たちが、包囲を狭めつつ、次々に発砲を開始する。
ボルシチ小隊の周辺は、たちまち砲弾の雨あられ。
小型のCV33など、ときおり爆風にあおられて、車体を浮かせてしまっている。
エリカは主砲で応戦をつづける。
だが、今度の相手は、小回りのきく快速戦車BT-7や軽戦車T-70。
相手がちょこまか動くせいで、まったく当たらない。
やたらに動いているせいで、むこうだって砲撃精度が大幅に落ちているし、だいたい小口径だから、当たったところでたいして痛くはないのだが、わずらわしいことに変わりはない。
そんな中、カチューシャはハッチから上半身を出したまま、夜の闇をにらむ。
「どうするの! このままだと危ないわよ?!」
下からエリカがうるさい。
が、カチューシャは返事をしない。
闇に目をこらすうち、探していたものがようやく見つかる。
プラウダの包囲網が切れた一角、闇の山麓に、ちかちかとまたたく光。
照明弾ではない。
自然の反射でもない。
人工の明かり―― 明滅で信号を発する車のヘッドライトだ。
「いた! 方向転換! 二時の方角!!」
「ええ?! いたって、なにが?!」
「継続のトラックよ。先行してもらってたの!」
(ああ、だから一人いなかったんだ……)
エリカははじめて納得する。
姿が見えないから逃げたかと思ってたわ――とは、さすがに口にしない。
なんて言ったっけ、帽子をかぶった…… たしかミカという名前の子だ。
継続のミッコが操縦するT-34/85が、カチューシャの指示にしたがって進路を変え、KV-2がそれに続く。
先頭のCV33が反応したのは、いちばん最後。後続がついて来ていないのに気がついて、あわてて後を追いかける。
速さを生かして回りこんできたBT-7とT-70たちが、後方から一行を追う。
前方左右からじわじわと距離を詰めてくるのは、主力のT-34の群れ。
こちらが先に山へたどり着けるか。
それともむこうが先に包囲網を完成させるのか。
息がつまるような追いかけっこだ。
「エリカ、前を狙って! 主力をできるだけつぶしておきたい!」
そう命令しながら、カチューシャは後方を見ている。
見つめているのは、カチューシャお気に入りの頼れる同志、KV-2。
なにも知らないのに、騙して連れてきてしまった機体。
T-34/85との距離は、先ほどよりさらに離れている。
後方から45㎜や46㎜の砲撃を浴びて、ときおり車体を揺らしながら、それでも懸命に走っている。
平地でも遅れてしまうくらい重いのに。
山道に入ったら、KV-2は付いてくることができるのだろうか。
KV-2に山道を登らせることはできるのだろうか。
もし捕まってしまったら、あの子たちは――
カチューシャの迷いを吹き飛ばすように、KV-2が主砲を発射する。
狙いは前方。
輝く光球がカチューシャの頭上を飛び越え、並んでこちらに接近するT-34の前方で炸裂する。
「カチューシャさまー!」
砲塔上部のハッチを開けた狩猟帽のニーナが、こちらに手をふる。
「おらたちがここで盾になって、できるだけ敵を食い止めます! おらたちのことは気にしないで、先に進んでけろじゃー!」
「ばか! ニーナ! 中に入りなさい!」
自分だって外に出ているくせに、それを棚に上げて、カチューシャは怒る。
「もう、こんなときだけ察しがよくてどうするのよ!!」
その選択肢だって、もちろん考えた。
小を犠牲にして大を取るのは、基本的な戦略のひとつ。
プラウダが大会で使ったおとり戦法は、まさにその最たるものだ。
――だけど、逃げるなんて。
見下ろすのは、車長席そばの通信機。
こんなこと、普段だったら絶対にやらない。
卑怯だし、屈辱的ですらある。
誇り高いプラウダのリーダーのすることじゃない。
でも――
#
「ええい!」
カチューシャは、意を決してマイクを握る。
「仲間をおいて逃げるなんて、そんなの隊長じゃないわ!」
あらかじめチャンネルは合わせてある。
追っ手のプラウダ全車に聞こえるように。
だから、スイッチを入れて、思いきり叫ぶ。
「あなたたち、誰を相手にしているかわかってるんでしょうね! このカチューシャに砲弾の一発でも当ててごらんなさい! 卒業まで一生シベリア送りよ!!」
効果はてきめんだった。
戦列は一瞬で乱れる。
「カチューシャさま?!」
「カチューシャさまが、どうして??」
「逃亡者がカチューシャさまなの?!」
「どういうことですか、ノンナさま!!」
プラウダの生徒は、なにも権力と恐怖で押さえつけられているから服従しているのではない。
たまにちびっ子隊長と軽口を叩くこともあるが、隊長カチューシャに対する絶大な信頼と敬愛から従っているのだ。
カチューシャは、彼女たちのその忠誠心を利用した。
悪いとは知りながら。
速度をゆるめ、あるいは停車するプラウダの戦車たちを見ながら、カチューシャは唇をかむ。
「今よ! この隙に走り抜ける! ニーナ、ちゃんと付いてくるのよ!」
ニーナはハッチから頭を出したまま、目を丸くして硬直している。
「あの、カチューシャさま。いま、通信機から、カチューシャさまが逃亡者って聞こえた気がしたんですけど……」
「いいから、付いてくる!!」
#
夜の闇につつまれた斜面のふもと。
待ちかまえていた継続のトラックの前に、CV33が止まる。
つづいて、T-34/85。
KV-2が到着するまで、まだもうすこし時間がかかる。
「うまくいったな、おい!」と、CV33のハッチを開けつつ、アンチョビ。
ミカがトラックの運転席でカンテレをかき鳴らす。
口ではなにも言わないけれど、どうやら称賛しているらしい。
だが、カチューシャは黙ったまま。
表情は明確にご機嫌ななめ。
こんな状況でなかったら、まるで泣いているように見えたかもしれない。
小さな体に、クレムリンの尖塔より高いプライドを秘めた彼女である。
隊員たちに正体を明かすのが、よほど本意でなかったのだろう。
「だが、どうする。今のですこし時間は稼げたかもしれんが、あの
アンチョビが、それを気にする様子もなく尋ねる。
不機嫌を無視したのは、わざとだ。
遠慮している気配を出すと、むこうもそれを感じ取って、雰囲気がぎこちなくなり、言いたいことも言えなくなってしまう。
こういうときは、まるで何も起きていないかのように接する。
そうすることで、相手も反応しやすくなる。
アンツィオの
小さく鼻をすすり上げてから、カチューシャは言う。
「大丈夫。ちゃんと方法を考えてあるから」
「ほう。どんな手だ?」
「いやな手よ。すごくいやな手」
カチューシャの表情は、まだ冴えない。