その1
まったく、カチューシャにも困ったものだ――
闇が迫る中。
ノンナは、走行中のIS-2の車長用ハッチから上半身を出して夕風に当たりながら、ため息をつく。
ブリザードのノンナ。
凜とした長身は、極寒のシベリアにそびえる針葉樹のよう。
瞳は氷河の青。
長い髪はオオワシの翼のような黒。
ダークグリーンの襟元から赤がのぞく、プラウダのタンクジャケット姿。
プラウダ戦車チームの副隊長。
大口径長砲身のIS-2でレンジ外から敵を撃ち抜くスナイパーである。
(まさか、ここまで強情だとは……)
そう思いながらも、表情は変えない。
もしかしたら心の中では、まあ、そこがカチューシャのかわいらしいところなのだけど、などと考えているのかもしれないが、そこは徹頭徹尾の鉄面皮。
真実を知るのは氷の女王本人のみである。
ともあれ、珍事にして怪事である。
偉大なプラウダの戦車長が、こともあろうに、チームを捨てて逃亡するとは。
ことが
なんとしてでも、そうなる前に追いついて、戻ってくれるよう説得しなければ。
温泉の駐車場からカチューシャのT-34/85が逃亡したとき、それを
逃亡した方角と部下の報告から、T-34は北に向かったと判断し、信頼できるクラーラにだけは真実を伝えて、大洗の北側にある二個所の橋両方に部隊を派遣するため、隊を分割。
先回りするため、クラーラには51号線を北上してもらい、ノンナは可能性の低いもう一本の橋を選んだのだが、この時間になってもクラーラから報告がないところをみると、どうやらこちらの線が濃厚なようだ。
(……あるいは、完全に裏をかかれて、南進でもされたか)
カチューシャならそれもありえないことではない、とノンナは思っている。
だが、大洗近辺には、後詰めとしてまだ数輛、戦車を残してある。
いくらカチューシャでも、まったく見つからずに行動するのは不可能だろう。
事実、大洗の路地を北上するT-34/85の姿は、部下に数回目撃されている。
気になる報告もある。
民間人がひとり、カチューシャと行動をともにしていたというのだ。
ノンナ自身、駐車場でT-34を見たとき、内部に複数の人物がいたように感じた。
あの動きは視界の限られた操縦手ひとりでできるものではない。
しかし、誰が?
何のためにカチューシャと同行している?
他校のスパイ、という可能性もあるだろうか。
服装は完全に観光客風だったというが。
(まさか、一般人を人質にとるつもりでもあるまいが……)
カチューシャがそんなことをするとは思えない。
だいたい、意味がわからない。
人質をとることに価値があるような状況ではないのだ。
インカムがざーっとノイズを鳴らす。
「T-34発見! 9時の方角です!」
僚機からの報告に、ノンナは双眼鏡を覗く。
高台に、緑の戦車が一輛。
夕闇にまぎれるように、こちらに背を向けて逃げてゆく。
あのシルエットは、間違いなくカチューシャのT-34/85だ。
「あの狭い峡谷へ向かっています。発砲しますか!?」
「いえ」
同行する部下たちは、T-34/85に搭乗しているのがカチューシャであることを、まだ知らない。逃亡者とだけ伝えてある。
強固な統率力は、プラウダの偉大なる長所だ。
他校はそれをうらやんで、校風が全体主義的だと揶揄したり、あるいは、生徒会が秘密警察を使っているとか、秩序を乱した者には陰湿なまでの処罰があるのだと陰口をたたく。
だが、それはいずれも正しくない。
過酷な北の大地を支配する法則は、太古からつねにひとつ。
統率力の正体は、いつだって、強力なリーダーに対する個人崇拝だ。
(……それが乱れるのは、まずい)
逃亡者の正体を知ったら、部下たちは激しく動揺するだろう。
脱走者を甘く遇していては、プラウダの統率は守れない。
しかし、カチューシャを傷つけるのも論外だ。
なるべく穏便に。
そして、なるべく短時間でかたをつけるしかない。
「許可があるまで、けして発砲はしないように。小隊をふたつに分けます。二輛は私に続きなさい。あとの二輛は別ルートで先行。渓谷の出口をおさえて、挟み撃ちにします」
「了解」
後続のT-34/76の二輛がノンナのIS-2に従い、二輛が隊列を離れて動き出す。
#
「砲塔が旋回しています!」
部下の声が緊張を帯びる。
双眼鏡をのぞくノンナにも見えている。
T-34/85が逃走を続けながら、こちらに主砲を向けていることが。
だが、カチューシャは撃たない。撃たないはず――
ノンナの願いもむなしく、こちらに目をつけたT-34/85の砲口が光点を生ずる。
砲弾の風切り音――
そして、着弾。
先頭を行くIS-2の手前で土砂がはじけ飛び、ノンナの頭上から降り注ぐ。
「どうします。応戦しますか?」
――いまのは威嚇のはず。
ノンナはまだ冷静である。
情報が正しければ、あのT-34/85の乗員は二名。
走行を続けているということは、ひとりは操縦にかかりきりで、手が空いているのはひとりだけ。
カチューシャは操縦より指揮を好むから、撃ったのは砲手席に近いカチューシャ。
装填も彼女がひとりでやるから、すぐには次弾を発射できない。
「落ち着きなさい。ただの脅しです。当ててはきません」
だが。
ノンナの予想に反して、T-34/85はすぐさま二発目を発射する。
しかも、初弾よりも正確に。
がいん!
悲痛な金属音。
後続のT-34/76が一輛、黒煙を上げながらきりもみし、IS-2の視界から遠ざかる。
――早い!
――そこまでしますか、カチューシャ!
ノンナの心の中で、二つの驚きが交錯する。
「被害状況は!」
「履帯の破損です! 修理は可能ですが、しばらくは……」
(追っ手の足をつぶすつもりか――!)
こうなっては仕方がない。
ノンナは全車に号令を発する。
「発砲を許可します。だが、T-34/85には当てないように。動きを妨害できれば十分です。崖を崩して、進路を封じなさい!」
「了解!」
狭い峡谷に入るT-34/85を、IS-2とT-34/76が追う。
残り二輛のT-34/76は、先回りのために、峡谷のある台地を全速力で迂回中。
自分たちがカチューシャの思惑通りに動いていることを、彼女たちはまだ知らない。
#
「ホントにやるんですかぁー、ドゥーチェ?」
低木の茂みに隠れたCV33の中。
エンジンを暖機しながら、ペパロニが尋ねる。
まるで疑問を持っているかのような口ぶりだが、瞳が輝いているし、笑いを抑えきれずに白い歯が見えちゃっているし、レバーを握る手にも力が入っているし、どこからどう見てもすっかりやる気だ。
エキシビションに間に合わなかった鬱憤をここで晴らす気だろう。
もちろん、尋ねられたアンチョビにだって否はない。
「悪い話じゃないだろ。食料一年分だぞ。うちの欠食児童たちがどんなに喜ぶか」
「プラウダの食料って言ったら、やっぱ麦ですかね!」
「おう。やつら学園艦の上でも麦を育ててるっていうくらいだからな!」
「パスタ作り放題じゃないっすか!!」
ペパロニの鼻息が荒い。
無理もない。
アンツィオ高校はただでさえ金欠な上に、生徒がそろいもそろって大飯喰らいの美食家と来ている。
食料はいくらあってもあるだけ足りないのだ。
もしかしたら生徒が大飯喰らいだから金欠なのかもしれないが、その疑問を口にしたり、のみならず是正を図ろうとすると、どんな名指導者でも政権が危うい。それほどまでに、アンツィオ生徒の胃袋は幸福に直結している。パスタと
「ドゥーチェ、来ました!」
ハッチからオペラグラスで外を覗いていたカルパッチョが報告する。
「予定通り、T-34/76が二輛です。まだ気づかれていません」
「ふん。やるな、プラウダのちびっ子め」
元は味方で、しかも指揮をしていた当人ということはある。
それでも、ぴったり当てるのは簡単ではない。
カチューシャの洞察力を、アンチョビは憎まれ口半分ながら称賛する。
#
「――いい? エキシビションに来ていたのはたしかにプラウダの一軍だけど、追ってくるのは全員じゃないの」
場所は、薄暗い林の中。
たき火の炎に照らされながらカチューシャが説明したのは、つい先刻のことだ。
「戦力が各地に分散していることは、通信傍受で確認済み。だから、そのごく一部を、短時間だけ足止めできればそれでいい。逃げるにはそれで十分だから」
聞いているのは、黒森峰女学園の逸見エリカ(なぜか私服)と、継続高校のミカ、アキ、ミッコの三人(なぜか全員無口)、そしてアンツィオ学園の統帥ことアンチョビ(なぜ自分がここにいるのかまだよくわかっていない)である。
アンチョビが尋ねる。
「ごく一部って?」
「五~六輛」
「逃げるには十分って、逃げてどうするんだ、その先は」
アンチョビとしては、ごく当然の疑問を提出したつもりだったのだが、それを聞いたカチューシャは、林檎だったら破裂している勢いでむくれまくった。
「どうするって、逃げて、逃げて、もっともっと逃げて、逃げて逃げて逃げまくるだけよ。でも、それに付いてこいって言ってるんじゃない。協力してほしいのは、あくまで、この周辺区域での話」
あまり建設的な答えとは思えない。
が、アンチョビにとって、カチューシャの動向は重要ではない。
大事なのは、仕事の内容と、それにともなう報酬だ。
「われわれはこの場で足止めを手伝うだけでいい。そういうことだな?」
「ええ」
カチューシャがうなずく。
「ノンナはおそらく発砲を避ける。私が谷に向かえば、部隊をふたつに分けて挟み撃ちにしようとするはずよ。アンツィオさんは、谷を迂回する戦力にちょっかいをかけて、先回りを失敗させてほしいの――」
#
「よし、行くか。ものども、覚悟を決めろ!」
アンチョビが鞭をふりかざす。
マフラーから小気味よい破裂音を響かせながら、CV33が茂みから飛び出す。
目指すは、前方を走行する二輛のT-34/76.
快足で知られるタンケッテだ。
追いつくのなんてわけはない。
あっという間に併走に持ちこむ。
……が。
「どーやって足止めするんです、ドゥーチェ?」
そこまで考えていなかった。
まずは注意を引く必要がある。
が、たぶんこいつら、横にCV33がいることすら気づいていない。
「とりあえず銃でも撃ってみるか」
カルパッチョが、前方の暗闇めがけて、ぱらぱらと8㎜機銃を撃ちこむ。
機銃を横に振って挑発もしてみる。
二輛とも無反応。
「聞こえてないんじゃないでしょうか」と、カルパッチョ。
「前に出ましょう、ねーさん。例のあれです!」
ペパロニがアクセルを踏み込む。
一段と速度を上げたCV33が、T-34の前に滑りこむ。
アンチョビが号令する。
「よし行け! 二回戦で大洗の八九式を苦しめ、疲弊させ、多大なる戦果を上げた(※ことにアンツィオではなっている)CV33ターン、別名ナポリターン!!」
ペパロニがブレーキを踏み、左右のレバーを倒す。
ドリフトしたCV33が、華麗な180度ターンを決める。
すかさずペパロニがギアをバックに入れる。
タンケッテはそのまま全速で逆進。
進行方向はそのままで車体の前後だけを入れ替える、アンツィオの超絶テクニックである。
カルパッチョからそれを伝授された大洗のⅢ突が、今日のエキシビジョンで同じターンを決めたと知ったら、カルパッチョは大喜びしたに違いない。
もっとも、不用意にターンしたせいで、Ⅲ突は直後にやられてしまったのだが。
「撃て、カルパッチョ! ドアをノックして、やつらの目を覚まさせてやれ!」
CV33の二連8㎜機銃がふたたび火を吹く。
前面装甲が弾丸をはじく、かんかんかん、という景気のよい音。
弾丸はT-34に間違いなくヒットしている。
にもかかわらず、二輛ともまったく反応しない。
砲塔どころか、機銃のひとつも動かさず、平然と走行を続けている。
アンツィオ一行は車内で頭を抱える。
「全力で無視されてるな」
「さすがはプラウダ。規律正しいです」
「地元の不良にからまれてると勘違いされてるんじゃないですかね、うちら」
「うむ。うちの子たちも、これくらいきちんと命令を守ってくれたら……」
「ねーさん、そりゃないっす。うちの連中は、気持ちじゃどこにも負けてないですよ。ほかの学園がいいなんて言わないでください!」
「いや、すまん。よくわかってる。そういうつもりじゃなくてだな」
「ちょっと運転かわってくれますか」
「え、なんて? おい、ちょっと、なにを」
「ちくしょープラウダめ。ねーさんの心をもてあそびやがって。文句を言ってやらなきゃ気がすまねー!」
操縦をアンチョビに押しつけ、立ち上がってハッチを開けたペパロニが、後方のT-34めがけて拳を突きあげる。
「やい、プラウダのせませま戦車! おまえらの戦車は狭っこいから、子供しか乗れないって聞いたぞ!」
なにを低レベルなことを……と、車内でアンチョビが頭を抱える。
むこうだって、CV33に三人乗りしているやつらに言われたくなかろうに。
「どうした、出てこーい! それとも、出したくても出せないのか? すぐ逃げ出そうとするから、ハッチに外から鍵を掛けられちゃったんだろー!」
恥ずかしいからやめてくれ……と、アンチョビが中からペパロニを引っぱる。
と、反対側のカルパッチョまで立ち上がる。
「そうだそうだ! ピロシキ頭! 粗製濫造の雨漏り戦車! くやしかったらルーデルに勝ってみろー!!」
「カルパッチョ、おまえまで?!」
「このお、いいかげんにしろー!」
T-34/76の操縦手用ハッチが、中からガチャコンと押し上げられる。
「黙って聞いてればいい気になって! 機銃だけの豆戦車に、そんなことを言われる筋合いはない!!」
「よっしゃ、釣れた!」
喜々として運転席に滑り込んだペパロニが、レバーを押し込む。
CV33は履帯を正回転。
後ろ前で走っていたCV33は、半分横滑りするようにして、今までとは逆方向に走りだす。
先頭を走っていたT-34/76が、待てこらと言わんばかりに、Uターンで後を追う。
「うまくいきましたね、ドゥーチェ」
ペパロニが白い歯を見せて笑う。
それに同意しながらも、プラウダの連中に悪いことを言ってしまった……と、ドゥーチェは心の中でしきりに謝るのだった。