「痛いわね! 気をつけて歩きなさいよ!」
ぶつかった相手が、高い子供の声で叫ぶ。
今日はついてない。
前を見ていなかったせいで、エキシビションの観戦か海水浴に来た小学生とぶつかって、床に突きとばしてしまったらしい。
「こっちは急いでるのよ! 見つかったらどうしてくれるの!」
「ごめんなさい。大丈夫? 考えごとをしていて……」
私はその子に手をさしのべる。
そうしながら、どこかで聞いたことのある声だな、と考える。
向こうも同じように思ったらしい。
声の調子が変わる。
「あら。あなた、黒森峰の」
尻もちをついたまま、抗議するように片腕を突きあげていたのは、やはり見覚えのある、小柄な少女だった。
いや、見覚えがあるどころの話ではない。
黒森峰の一員としては、忘れたくても忘れられない因縁の相手だ。
昨年の全国大会決勝で黒森峰を破った北の強豪、プラウダ高校の戦車道チーム隊長、地吹雪のカチューシャ――
セミロングの金髪。
勝ち気な青い瞳。
とがった八重歯。
タンクジャケットは濃緑の詰め襟。上下がつながっていて、下はスカートではなく、かぼちゃみたいに丸くふくらんだショートパンツ。
肌が妙につやつやして血色がよいように見える。
ついさっきまで温泉にでも入っていたのだろうか。
「あら。そうなの。ふぅん」
少女の表情が、何かを察したようにみるみるゆるむ。
「黒森峰の副隊長さんが、熊本からはるばる大洗まで、カチューシャの勇姿を拝みに来たってわけ?」
「違うわよ。ちょうど夏休みで、ちょっとだけ暇ができたから……」
「隠すことないわ。どう? 二対二のエキシビションとはいえ、全国大会の優勝校を破ったのよ。真の勝者はこのカチューシャ率いるプラウダだって、よっく理解できたんじゃないかしら?」
あれは聖グロリアーナの作戦がよかったんでしょ――と、この小さな暴君相手に口に出して言わないだけの分別が、エリカにもあった。
――やれやれ。
今日はとことんついてない。
思い出したくない昔のことを思い出しただけでもうんざりなのに、今度は聞きたくもない自慢話。
この子ったら、えらそうにふんぞり返っちゃって。
いつも横にいる、ノンナとかいう長いつっかい棒はどうしたの。
そんなんじゃ、またすぐ後ろに倒れちゃうわよ。
ところが――
エリカが、さっさと別れようと思いながら適当に相づちをうっているうちに、またカチューシャの表情が変わる。
「待って。あなた、戦車の操縦できるわよね」
なんだろう。急に真剣な顔になって。
黒森峰は基礎を重んじる校風だ。
だから、今の担当である車長以外のどの役割に関しても、基本は叩きこまれている。そこが大洗のようなぽっと出とは違うところだ。
「まあ、少しなら……」
「よかった。ついてきて。用事があるの」
「ええ? ちょっと。帰りの時間があるんだけど……」
「緊急事態よ。人助け。戦車道受講者たるもの、困っている人がいたら見捨てるべからず。教本にも書いてあったでしょ」
そんなの書いてあったかしら。
でも、さっきたしかに、急いでいると言っていた。
用事があるのは本当なのだろう。見捨てて帰るのも気が悪い。
それに、どうせケチのついた日だ。最後に人助けをするのも悪くない。
カチューシャがエリカの手を引いて走る。
半分やけになりながら、エリカがカチューシャの後を追う。
エリカの指を握ったカチューシャの小さな手のひらは、まるで雪の中で脈打つ心臓みたいに、赤く、そして熱い。
#
……おかしい。
エリカがその結論に達するまで、時間はかからなかった。
この子、人を助けるために急いでいるにしては、妙に人目を気にしている。
どこかに目的地があって、そこを目指しているのは間違いない。
だが、動きがゆっくりだし、物陰に隠れたがる。
私にも背を低くするようしつこく言ってくる。
それに、これは何だ。
さっきからプラウダの戦車が何輛も、通りをさかんに往き来している。
隊列を組むでもなく。
特定の方向へ向かうでもなく。
まるで何かを、あるいは、誰かを探しているみたいに――
日が傾き始めた頃。
カチューシャがエリカを導いたのは、まいわい市場からしばらく行ったところにある温泉施設だった。
駐車場にプラウダの戦車が止めてある。
いちばん数が多いのは、プラウダの主力であるT-34/76。
あっちはT-34/85。
エキシビジョンでカチューシャと、留学生らしい金髪の子が乗っていたやつ。
あの砲塔の長いやつはIS-2。
カチューシャの副官、ノンナの愛機だ。
KV-1にBT-7、エキシビションに出ていなかった戦車もいる。
が、黒森峰もよくやる手なので驚きはしない。
規程の台数より多めに持ってきておいて、調子の悪い機体と取り替えたり、直前でオーダーを変更して、対戦相手の予想の裏をかいたりするのだ。
「よかった。誰もいないわ」
背伸びをしてコンクリート塀の向こうをのぞき込んでいたカチューシャが、もがもがしながら塀を乗り越え、T-34/85のそばまで走り寄って手招きする。
しかたなく、私も走る。
着いたと思ったら、あの子の姿がない。
「ねえ、ちょっと。どこに行ったの」
ひそひそ声で呼びかけてみる。
返事がない。
(……帰ろうかしら)
そう思い始めた頃に、カチューシャがようやく戦車の角から顔を出す。
「早く。早く乗って」
周囲に人の気配はないのに、このおびえた声。
誰に見つかりたくないというのだ、この子は。
私は尋ねる。
「待ちなさい。どういうこと」
「どういうことって」
やはり、なにかある。
尋ねただけなのに、いたずらを見つかった子供みたいに目が泳いでいる。
「人助けって言うから来たのよ。困っている人はどこにいるの」
「それは、その」
「それにこれ、T-34じゃない。プラウダ戦車の操縦なんて知らないわよ」
「うそ」
「うそって、あなたがなにを知ってるの」
「ちゃんと知ってるわ。黒森峰はほかの学園艦の戦車の操縦も勉強するんでしょ。もしものときに備えて」
本当によく知っている。
前々からうわさはあった。
聖グロリアーナやプラウダには、ほかの学園艦の動向を探るための、専門の諜報機関があるのだと。
ただのゴシップだと思っていたけど、この様子では、それなりに根拠のあるうわさだったようだ。
「やるのは座学だけ。実際に搭乗するまではやらないわ。それに……」
「それに?」
「プラウダには生徒が山ほどいるでしょ。どうして全然関係ない私に頼むの」
「それは……」
そのとき――
「誰かそこにいるのですか」
遠くから声がした。
同時に、懐中電灯の明かりがこちらに向けられる。
まぶしい。
光のせいで、声の主がわからない。聞き覚えがある気はするけど。
でも、カチューシャにはわかったらしい。
一気に様子がおかしくなった。
「お願い。すぐに戦車を出して。後で説明するから。ほんとうに一大事なのよ」
「ええ?」
よっぽど、いやよ、と言ってやろうかと思った。
出会うなり偉そうにして。
うそをついて、人をこんなところまで連れてきて。
今日中に帰れなくなったらどうしてくれるの。
――でも。
目の前の少女を見ていると、とても言えなかった。
だってあなた、プラウダの全生徒から恐れられる、小さな暴君じゃなかったの。
それなのに、すがるような目をしちゃって。
小さく震えてるじゃないの。
いつもの偉そうな態度はどこへ行ったわけ?
私はため息をつく。
「わかった。でも、少しだけよ。こっちにも都合があるんだから」
「ありがとう!」
わあ。なんなの。
いきなり抱きついてくるなんて、大洗の生徒会長じゃあるまいし。
あわてて引きはがす。
カチューシャは満面の笑みを浮かべている。
なによ。さっきのはうそ泣き?
それとも、今泣いたカラスが……ってやつ?
「操縦席わかるでしょ。時間ないわよ」
おまけにその、人の変わったような偉そうな態度ときたら。
当然のように車長席におさまってるし。
いつの間にか戦車帽までかぶっちゃって。
サイズ合ってないわよ。ぶかぶかじゃない。
あごひもを結ばずに下でぶらぶらさせてるし。危ないじゃないの。
黒森峰だったらあれだけで懲罰ものだわ。
それに、ひょっとして、だけど。
私に飛びついたのも、戦車に飛び移るための足場にするためだったんじゃ……?
心の中で疑いながら、エリカはT-34/85の操縦席に滑りこむ。
ああもう。狭いったら。
プラウダの戦車ってどうしてこう窮屈なの。
えーっと、ティーガーみたいなハンドルはなくて、レバー式なのよね。
ギアレバーどこ? なんでこんな場所にあるの?
「ねえ、教本ないの? 見ながらやりたいんだけど」
「ロシア語のならそこにあるわよ」
「読めないわよ。さわりだけでも翻訳して」
「無理」
「なんでよ」
「わたしも読めないから」
「なんで置いてあるのよ!!」
運転席前の小窓から見える狭い視界を、懐中電灯の光が横切る。
「誰です。誰か乗っているのですか? 返事をしなさい!」
さっきと同じ声。
でも、さっきより距離が近い。
後ろからカチューシャが言う。
「準備ができたらすぐに出して。音は気にしなくていいから」
「平気? 人身事故なんて絶対ごめんよ」
「大丈夫。ちゃんと見てる」
背後をうかがうと、カチューシャは背伸びしてキューポラをのぞいていた。
ふうん。ちゃんと背が届くんだ。ぎりぎりだけど。
理由は知らないが、どうやらこの子はプラウダから逃げたいらしい。
なぜ?
チームの隊長で、絶対的な権力を持っているはずのこの子が、なぜ彼女を崇拝する部下たちから逃げようとする?
興味がないと言えばうそになる。
……が、知りたくないようにも思う。
プラウダの政争がいかに陰湿でおぞましいか、うわさは聞く。
知らないでいた方が、捕まったときに言い訳がきく。
巻きこまれただけの被害者だと。
もしくは、法律でいうところの、善意の第三者というやつだと。
それにこの子は、プラウダの戦略を改革して、戦車道強豪校としての地位を確固たるものにした知将だという。
この外見で?
この言動で?!
誰だってそう思う。
この子はいわばお神輿――つまり祭り上げられているだけで、彼女の業績とされているものは側近の手腕なのではという説も、黒森峰内部では根強い。
本当に名司令官なら、きっと学べることがある。
お神輿だったとしても、それがわかれば、それだけで収穫だ。
いや、ちがう。
いくら計算高いふりをしても、それは本心じゃない。
問題はこの、胸の中のもやもやだ。
これを吹き飛ばしたいという私の気持ちだ。
彼女と出会ったとき。
この子なら、ケチがついたこの一日を、きれいにふっとばしてくれる気がした。
だから、ついてきた。
それが私の、本当の気持ちだ。
エンジンはたしか、ここをこう……
よし、かかった!
小窓の視界を、懐中電灯の光がふさぐ。
「そこ、乗っているのは誰です! 誰か! こちらへ!」
ホイッスルの鋭い音。
声の主が吹いたのだ。
「後退! 早く!」
頭上からカチューシャが叫ぶ。
――なにこのトランスミッション。ちゃんと整備してんの?
私は心の中で悪態をつきながらクラッチを踏み、重いギアをつなぐ。
後になって思えば、その瞬間、私の運命は決したのだった。
#
エンジンがうなりを上げる。
履帯がギャリギャリとアスファルトを噛む。
「後退しながら右旋回! その後直進して道路に出るわよ!」
カチューシャが背後から指示を出す。
ええい、無理言ってくれちゃって。
ほかの車にぶつけても責任持てないわよ!
私は腹立ちを乗せてレバーを引く。
後退しながらの旋回は、奇跡的にうまくいった。
でも、前進しようとしたところで、がこん、と重い音。
戦車が止まり、車内が不安定に揺れる。
頭上から鋭い叱責が降ってくる。
「なにやってるの!」
「だから、初めてだって言っているでしょ!」
言い返しながら、講義で教わったプラウダ戦車の操縦方法を、必死に思い出す。
外から鋭い警笛の音。
「誰か! こちらへ!!」
呼びかけにこたえて、人の声と足音がこちらに近づいてくる。
ええと、こうか?!
ぐん、と動力の伝わる衝撃。
履帯がふたたび回りはじめる。これで安心だ。
「……って、こっち壁じゃないの! ぶつかるわよ!!」
「だーいじょうぶ! 戦車なんだから」
そうじゃなくて、壁を壊したら修繕費が大変でしょ!
試合じゃないんだから!!
――と反論する間もなく、敷地の壁にぶつかった戦車は、ごりごりとコンクリートを削りながら、それを乗り越える。
(……ああ。大丈夫だったかしら)
私は壁が壊れなかったことを心の中で祈る。
小さな暴君が冷静に命令する。
「壁を越えたら右折。速度はこのままを維持。道路にそって北上するわよ」
「追いかけてくるんじゃない?」
「大丈夫。履帯にいたずらしてきたから。しばらくは動けないわ」
だから私が追いついたとき、近くにいなかったの。
かわいい顔してえげつないわね、この子。
「でも、市街地よ。町中をうろついている戦車に見つかったら――」
「だから、出くわさないように調べるんじゃない」
背後でなにやら、ごそごそしている気配。
ふり向いてみたら、カチューシャは車長席そばの通信機をいじり回していた。
ああ、無線を盗聴するわけね。
元(?)自軍とあらば、そりゃあ盗聴もしやすいでしょうよ。
「ふふ。ノンナがあわててる。言ったでしょ。私はあきらめないって」
カチューシャが、ヘッドフォンを片耳に当てて、通信機のつまみを動かしながら、得意げに鼻をそびやかす。
「集合をかけてるわ。大通りは危険。そこの路地を直進して」
「あっちの高架に入っちゃえば?」
「今は駄目。上は目立つし、逃げ場がなくなる」
はいはい。仰せのままに。
私は重いレバーをえっちら動かして、慣れないT-34/85を駆る。
カチューシャが不満げにほおをふくらませる。
「もう。クラーラったら、またロシア語で話しちゃって」
カチューシャの態度はどこまでも横柄だった。
だが、指示は的確だった。
通信で相手の動きを読みながら、大通りを避け、駅とマリーナに近づかないよう、路地をぬって進む。
その間、プラウダの戦車とは、一度も出くわさなかった。
姿を見かけることすらなかった。
おまけにカチューシャは、一度も地図を見ていない。
戦車道の戦車に、カーナビなんて無粋なものは装備されていない。
この少女は、地理をすっかり記憶しているのだ。
大洗はプラウダのホームではない。
つまり、今日のエキシビションのために覚えたことになる。
――なるほど。
どうやらお飾りではないらしい。
プラウダの少女を少しだけ信用する気になって、私は声をかける。
「どっちに進むの。大洗から出るなら、ここから北西へ向かって、橋を――」
「だめ。そっちのルートは川の先でさっきの高架とぶつかるから、先回りされるかもしれない。わざと遠回りする」
大洗は、関東平野の東北東の外れに位置する。
太平洋に面した町で、東は海、北と西は大きな川と湖に囲まれている。
川を越える橋の数はきわめて少ない。
車で湖は越えられない。
南は地続きだが、方向が逆。
「つまり――」
「北東よ。ゴルフ場が見えるまでは見つからないように路地を進んで、そこから108号線を一直線。アクアワールドのそばの橋を渡って、北に抜けるわ」
エリカにも異議はない。
しかし……
カチューシャの指示が間違っていたのか。
それともエリカが違う角を曲がってしまったのか。
入り組んだ路地を進むうち、ふたりは方向を見失ってしまう。
ようやく知っている道に出るまでに、何度言い争いをしたことか。
おまけに、出た場所が予定とちがう。
ゴルフ場の西側をかすめて走るはずだったのに、ここはゴルフ場の南にある神社の近く。このまま進むと海沿いを走ることになる。
「どうする、右に曲がって108号線に戻る?」
「時間が惜しいからこのまま行く。どうせ昼間も通った道よ」
車長席に戻ったカチューシャが、キューポラから周囲をうかがいながら言う。
(――ああ、そういえば)
エリカも、その様子をモールに設置された巨大ビジョンで見た。
榴弾で盛大にふっとばされたホテルが、たしかこの近くだったはず。
それに、たしかに戻っている時間はない。
「道路でいいの? それとも降りる?」
「降りて。海岸の方が見つかりにくいから」
エリカはカチューシャの指示にしたがって、人気のない砂利の海岸に降りる。
(大洗にもできたんだから……)
スロープを使わずに段差を飛び越えてみたら、着地の衝撃が意外に大きい。
車内が倒壊寸前のあばら屋みたいにぐらぐら揺れる。
「もう。下手ね!」
「この車のサスペンションがヘボなのよ!」
文句を言い合いながら、まだ破壊の後が生々しいホテルを横目に、通りすぎようとしたときだった。
カチューシャがいきなり叫ぶ。
「ストップ! 停車!!」
「何!? いきなり言われても止まれないわよ!!」
なにを慌てているのかと、エリカは小窓から前を覗く。
とたんに、視界に飛び込んできたもの――
それは、プラウダのチームカラーである濃緑に塗られた、大型の戦車だった。