周囲は沈黙に包まれている。
誰も動いていない。
音を立てるものもない。
やがて、風がそよぐ。
それを契機に、ずっと沈黙していた鳥たちが、一羽、二羽と、遠慮がちに鳴き始める。
爆煙が、風に流されて晴れてゆく。
平原のSU-152は、白旗を上げていた。
爆発でやたらめったらに叩かれたのだろう。ボディが傷だらけだ。
山腹に立ちこめた煙も、切れ切れにちぎれてなくなろうとしている。
だが――
晴れかけた黒煙をするどく切り裂いて、高速の光弾が飛来する。
標的はKV-2ではない。
下で支えるT-34/76だ!
すかぁんと撃ち抜かれて、T-34/76は白旗を上げる。
晴れた煙のむこう側から、オブイェークト704とIS-2が姿を現す。
無傷とは言えない。
が、どちらも行動可能な状態を維持している。
T-34/76を撃ち抜いたのは、ノンナのIS-2。
704は、IS-2の盾になりながら、すでにKV-2に照準を合わせている。
「両方とも?! しぶといわね!」
KV-2の車内で、カチューシャがこぶしを握りしめる。
しかし、カチューシャはまちがっている。
二輛ではない。
CV33に台地のむこう側まで釣り出された、クラーラのT-34/85。
カチューシャが存在を忘れていた三輛目が、前の二輛に追いつこうと、いままさに山を登っている最中だ。
状況は三対一。
おまけに、KV-2は砲塔が動かない。
T-34/76が行動不能になってしまっては、さっきのようなテクニックも使えない。
まさしく絶体絶命だ。
「
ずどんと、KV-2が榴弾を発射する。
やぶれかぶれの一発だった。
そのわりに、狙いは悪くない。
だが、爆発は、704の手前ではばまれる。
数輛ずつ山に登って、KV-2に各個撃破されたT-34/76の群れ。
704とIS-2は、その背後に隠れながら前進している。
白旗を上げた車輌を、そのまま防塁に使っているのだ。
「ノンナ!」
黒髪の副官の意図を今ごろ理解して、カチューシャが歯がみする。
#
「カチューシャさま! カチューシャさま!」
下のT-34/76から通信が入る。
話しているのはアリーナだ。
「カチューシャさま! あっちが白旗の上がった車輌さ盾に使うなら、おらたちも同じことすっぺ! がんばって耐えるから、撃てるだけ撃ってけろじゃ!!」
装填手のニーナが、カチューシャの背後から同意する。
「んだ! まだ負けって決まったわけでねえ! 最後まで戦うべ、カチューシャさま!」
「ニーナ、アリーナ……」
カチューシャが瞳をうるませる。
「ありがとう。本当によく戦ってくれたわ。アリーナたちだけじゃない。みんなもよ。みんな、よくわたしのわがままに付いてきてくれたわね。あなたたちの気持ち、とてもうれしかった。絶対に忘れないわ」
「カチューシャさま……」
KV-2の乗員たちも、感極まる。
みな、覚悟した表情である。
敬愛する同志といっしょなら、どんな運命でも受け入れると、瞳が語っている。
「もったいないお言葉ですだ。カチューシャさま」
ニーナが鼻をすすりあげる。
しかし、一瞬後――
カチューシャは、からりと乾いた声で指令を下す。
「はい。じゃあ、T-34/76組は、十数えるうちに戦車から待避。逃げおくれるとひどいことになるわよー。十、九、八、七、五、三……」
「カチューシャさま?! いま数字が飛びましたけど?!」
小さな暴君は、アリーナの疑問になど耳を貸さない。
T-34/76の乗員ふたりが、あわててハッチから逃げ出す。
KV-2が、履帯を回して位置を微調整する。
「……いち!」
ひときわ高い轟音とともに、KV-2の主砲が火を吹く。
だが、砲身は、704とIS-2の側に向いていない。
向いているのは、自分を下から支えるT-34/76だ。
KV-2の弾薬は、砲弾と発射用の装薬が別々になった、分離炸薬式。
装薬の量を調整することによって、砲弾の飛距離をコントロールできる。
やろうと思えば、火薬のつまった薬嚢だけを薬室に詰めて、空砲を撃つことだって不可能ではない。
カチューシャは、それをした。
そうすることで、味方のT-34/76を、弾丸がわりに撃ち出したのだ!!
T-34/76が宙を舞う。
地面に激突し、もんどりをうちながら斜面を下って、704にぶち当たる。
さしもの重自走砲も、戦車一輛を高速で打ちつけられてはたまらない。
ずがあんと重い音を立てながら、二輛まとめて後方にはじかれる。
それでもオブイェークト704は、白旗を上げない。
きっと、カチューシャは破れていただろう。
高速で斜面を駆け登ってきたクラーラのT-34/85が、はじき飛ばされたオブイェークト704に激突されて、燃料タンクを爆発させ、704ともろともに白旗を上げていなかったら。
#
残る戦車は、カチューシャのKV-2と、ノンナのIS-2だけ。
IS-2は、飛んできたT-34/76とはじかれた704を、ぎりぎりで回避した。
後方で白旗を上げた三輛の戦車を尻目に、きゃりきゃりと履帯を回して、いい位置を取ろうとしている。
いっぽう、KV-2の足回りは、ひどく損傷している。
砲塔も動かない。
それどころではない。
今まで下で支えていたT-34/76を撃ち出してしまったのだ。
当然、バランスが取れない。
頭でっかちのKV-2は、ゆっくり前にかしぎ始める。
このままだと、エキシビションのときのように、前に倒れて自壊してしまう。
誰もが、それを予想した。
だが――
片側の履帯が外れ、転輪が地面に食い込んでいたせいで、奇妙な作用が生じる。
KV-2が倒れきる前に、足元の地面が、ぼこっと大きくえぐれたのだ。
えぐれた土は、上にKV-2を乗せたまま、斜面を滑り始める。
周囲の土砂を巻き込んで、軽い地滑りのようになる。
KV-2は、その上に乗って斜面を下っている。
にわかには信じられない光景。
だが、火砕流の中を進む戦車がいるなら、土石流の上を滑る戦車がいてもいい。
戦車道とは、そういうことではないだろうか。
KV-2の車内はがたがた揺れまくり。
全員どこかに掴まって、衝撃に耐えている。
KV-2が、段差にさしかかる。
がつん、と軽い衝撃。
今まで振動を続けていた車内が、ふわりと静まる。
「助けてけろ、母っちゃ――!」ニーナが絶叫する。
「ちょっと! どうするの、これ!?」エリカが叫ぶ。
カチューシャはなにも言わない。
ただ、不敵な表情で歯を食いしばっている。
見ているノンナだって、発砲どころではない。
スコープをのぞいたまま、まるでKV-2を受け止めようとするみたいに、おろおろと両腕を広げている。
KV-2は、勢いにまかせて、空中で半回転。
奇跡的に、履帯から無事に着地する。
だが、勢いはまだ止まらない。
そのまま横滑りして、IS-2の横を通過。
先ほど自分が撃ち出したT-34/76の車体に衝突して、ようやく止まる。
「カチューシャ――!!」
ノンナが、席を蹴るようにして立ちあがる。
ハッチを下から押し上げようとする。
のぞき窓の外の光景が目に入る。
そこで、気がつく。
KV-2が、まだ白旗を上げていないことに。
IS-2の後部に回り込んだ格好で、主砲をこちらに向けていることに。
(――まさか!?)
そう。
土砂崩れの斜面に残された履帯の軌跡を見れば、よくわかる。
ミホーシャにできることは、カチューシャにだってできる――
カチューシャは、斜面の勢いを生かし、T-34/76をストッパーにすることで、大洗あんこうチームの得意技であるドリフトでの後方回り込みを、大重量のKV-2で実現してみせたのである!
身構えたときには、もう遅い。
ずごぉぉぉん!!
KV-2が至近距離から発射した砲弾が、猛烈な速度でIS-2のボディにぶちあたり、二輛を巻き込んで炸裂する。
そして、爆煙が晴れたとき――
ノンナのIS-2とカチューシャのKV-2は、二輛とも白旗を上げていた。
#
KV-2の砲塔ハッチが開く。
いちばんに出てきたのは、もちろんカチューシャ。
砲塔の上で腰に両手をあてて、白旗を上げたIS-2を満足げに見おろす。
「カチューシャ!!」
ノンナが、IS-2のハッチを、勢いよく押し上げる。
KV-2の砲塔に駆け上がり、自慢気に仁王立ちしたカチューシャを抱きしめる。
「なんて無茶をするんです! 怪我はありませんか?!」
「大げさねえ、ノンナは。このくらい何ともないわよ」
ノンナが、怪我がないことを確かめようと、カチューシャの後ろ頭や肩、背中に、せわしなく腕を回す。
金髪の少女が、くすぐったそうに受け入れる。
続いて、KV-2のハッチから顔を出そうとしたのは、銀髪のエリカ。
上にノンナがいるのに気がついて、そのまま中に戻ろうとする。
だが。
ノンナの次の言葉が、エリカの動きを止める。
「まったく。歯医者に行くのが、そんなに嫌だったんですか?」
……は?
なんですって??
「はあああああぁぁぁぁ!?!?!?」
おもわず奇声を上げたエリカを、カチューシャとノンナが見おろす。
「ちょっと待って! じゃああなた、歯医者に行きたくないっていうだけで、この騒動を巻きおこしたわけ!?」
「そうよ」
金髪の少女が、平然と答える。
「だって嫌じゃない、歯医者って」
黒い瞳の副官も、そんな当たり前のことをなぜ今ごろ尋ねるんです?、とでも言いたげな表情で、エリカを見おろしている。
「ジャムばかりなめているから、虫歯になるんです」
「だって、それがロシアンティーの正式な飲み方だわ」
ぼう然とするエリカを尻目に、カチューシャとノンナは平然と会話を続ける。
カチューシャの歯がひどく痛み始めたのは、エキシビション後、温泉に入っている最中だった。
おそらく、お湯につかって血行がよくなったせいだろう。
カチューシャは、すぐに歯医者に行こうというノンナの助言をいやがって、その場から逃亡。
まいわい市場をうろついていたところで、幸か不幸か、エリカと出くわしたのだった。
(そんなことで、たったそんなことで、これ……?!)
試合が始まる前は一面の緑だった平原と斜面は、履帯に掘り返され、砲弾で吹き飛ばされて、荒れ放題。
白旗を上げた戦車が、あちらこちらに転がっている。
この惨状を目の当たりにしておいて、この悪びれない態度。
わからない。
文化が違う。
エリカは頭を抱える。
頭を抱えたまま、ずるずるとすべり落ちて、KV-2の車内にへたり込む。
その横では、ニーナたちKV-2の乗員が、まだ目を回している。
カチューシャとノンナは、エリカの驚愕など歯牙にもかけない。
周囲を見渡しながら、カチューシャが小さな胸を張る。
「どう、あれだけの台数でも、ここまでできたわよ?」
「ええ、たしかに」
長身の少女がうなずく。
「じゃあ、もう歯医者に行かなくてもいいわね?」
「いけません。是非にでも行ってもらいます」
「もう。ノンナったら」カチューシャが、ぷうと頰をふくらませる。「虫歯なんか、放っとけば治っちゃうわよ」
「それはありません」ノンナは、どこまでも冷静だ。「痛み止めでごまかすにも限度があります。ここ数日、お薬なしで、痛みを我慢するのは大変だったのではありませんか?」
「そんなこと、ないけど」カチューシャが目をそらす。「ともかく、歯医者には行かない。約束でしょ?」
「ええ、引き分けです。ですから、私の言うことも聞いてもらいます」
「へえ、引き分け」
カチューシャの瞳が、きらりと輝く。
「じゃあ、ノンナのほうに、もう残っている戦車はいないんだ?」
「ええ。プラウダから呼びよせた増援も、すべて出してしまいましたから」
「それなら引き分けじゃないわ。わたしの勝ち」
ノンナが、まあ、というふうに目を見開く。
「勝利に貪欲であるのは、指導者としては優れた資質ですが、事実を曲げてまでそう主張するのはどうでしょう。足元を見てください、カチューシャ。KV-2は白旗を上げていますよ」
「でも、こっちの車輌は、ちゃんと一輛残っているもの」
カチューシャが山頂を指さす。
そこに鎮座していたのは——
無傷のままの、継続の緑のトラックだった。