「――待っていてください、隊長!!」
エリカは自分の声で目を覚ました。
見ていたのは、忘れたくても忘れられない、あのときの夢。
全国大会の決勝戦。
大洗女子の作戦で、フラッグ車同士の一対一に持ちこまれ、隊長の危機に駆けつけることができずに敗れたときの。
あんな悔しい思いは二度とごめんだと、心に誓ったはずなのに――
(……はずなのに?)
なにが「はずなのに」なのだろう。
エリカはぼんやりと考える。
――そうだ!
閃光のようなひらめき。
がばっと身を起こす。
夜じゅう続いた、BM-8の砲撃。
あれが終わったのはいつだったろう。思い出せない。
考えてみれば、その前の晩もガーガーうるさいプロパガンダ放送のせいで寝不足だった。二晩連続でまともに寝ていなかったせいで、あのすさまじい砲撃の最中にもかかわらず、ついうとうとしてしまったのか。
エリカの目の前では、プラウダのちびっ子隊長が、片手にトランプを握ったまま眠りこけている。
起きているときは小鬼みたいにやかましいのに、こうして眠っている姿は、皮肉屋として知られるエリカですら、おもわず胸がきゅっとするくらいかわいらしい。
雪のように白い肌。
長いまつげ。
ふわりとやわらかそうな金色の髪。
陳腐な表現だが、本当に天使のように見えなくもない。
「ねえ、ちょっと」
揺さぶってみるが、起きない。
寝言が返ってきただけだ。
「んー…… もう…… 伴奏はバラライカにしてって言ってるでしょ……」
どういう寝言なのよ……と思いつつ、ごそごそと移動して、操縦席のハッチを開ける。
空はすでに白んでいた。
まだ日は昇りきっていない……だろうか。
昨日まで緑におおわれていた斜面は、昨夜の砲撃ですっかり表層をまきあげられて、痛々しい赤土を晒している。
周囲はしんと静まりかえっている。
物音ひとつしない。
(相手も疲れて寝てしまった……?)
一瞬そんなことを考えてしまったのは、油断以外のなにものでもない。
相手がそんな甘い考えの持ち主でないことは、理解しているつもりだったのに。
最初に気がついたのは、あまりにも静かすぎることだった。
鳥が鳴いていない。
はげしい砲撃に晒された頂上付近だけではない。
下界からもなにも聞こえない。
それに、この、低く重い響き。
音ではないものになりかけたような、地鳴りのようなこの音は……
――いけない!
全身がさっと冷たくなる。
双眼鏡を使うまでもない。
ほど近い眼下の斜面を、きゃりきゃりと履帯をきしませながら登ってくるのは、朝の暗がりに溶けこむような濃緑に塗られた、冷たい金属の塊。
プラウダの重戦車!
一輛だけではない。
後ろに数台が続いている。
こちらに気づかれないよう、わざと砲撃を封印して、なるべく音を立てないように、じわじわと上がってきていたのだ。
(来ることは読めていたのに……!)
エリカは、疲労と睡魔に勝てなかった自分を呪いながら、狭い戦車に潜り、車長席のカチューシャをゆり動かす。
「起きて! 敵よ! すぐそばまで来てる!!」
さっきは何度ゆすっても起きなかったのに、今度は一瞬。
ばっと跳ね起きたカチューシャが、頭の戦車帽を押さえながら尋ねる。
「何輛?!」
「少なくとも三輛! ぜんぶ硬いやつ!」
「ニーナ、起きなさい! ニーナ! アリーナ!!」
カチューシャがマイクを握って叫ぶが、通信機から反応はない。
「ええい、もう! エリカ、一発撃っちゃって! 目覚ましよ!!」
「いいのね?!」
エリカは大急ぎで、下から砲手席に滑りこむ。
狙いをつけている時間はない。
先頭の戦車をスコープに入れて、適当にぶっ放す。
ずどぉん―― と、景気のいい音。
惰眠を破られた通信機の向こう側で、混乱した声が入りまじる。
「なんだべ?!」
「また砲撃だか?!」
カチューシャが叫ぶ。
「ニーナ、敵が来てる!! すぐ下! 撃って!!」
だが、返ってきたのは、悲痛な叫び。
「カチューシャさま、だめですだ! 砲塔が!!」
「ああ、そうだった!」
カチューシャが唇をかむ。
昨晩の砲撃で、KV-2は砲塔と履帯を破損している。
主砲は発射できるが、肝心の向きを調整できないのだ。
先頭を進むKV-85の主砲が、ゆるゆると上に向き始める。
こちらが撃ったということは、発見されたということ。
もはやなりをひそめる必要はない。
至近距離で重砲の撃ち合いだ。
カチューシャが、なにかを決意したように、マイクのスイッチを入れる。
「俯角は取れる?!」
「回せねえだけで、そっちならできます!」
「じゃあ、砲を下に向けて待機! 相手がいい場所に入ったらすぐ撃つのよ!」
マイクを切ったカチューシャが、砲手席を下りて再装填中だったエリカに叫ぶ。
「エリカ、そっちはいい! 操縦して!」
「装填は?!」
「わたしがやる!」
エリカは大忙し。
きゅうくつな戦車の車内をごそごそ這いまわって、また操縦席に戻る。
「前進!」小さな身体で85㎜徹甲弾を持ちあげながら、カチューシャ。
「前進?!」あいかわらず重いギアと格闘しながら、エリカ。
「いいから前進!!」
エリカがT-34/85を発進させるのと、KV-85の砲弾がいままでT-34/85のいた場所に着弾したのは、ほぼ同時だった。
履帯が赤土に爪を立て、エンジンがうなりを上げる。
とたたたた、とどこかで機銃の音。アンツィオのCV33だ。
ドライバーシート前のスリットから外を覗くエリカの視界の中で、KV-85の姿がどんどん大きくなる。
「ぶつかるわよ?!」
「ぶつけるの!!」
避けようと舵を切ったKV-85の横腹に、T-34/85は突進する。
がいぃぃぃん、と重い金属音。
「後退!!」
カチューシャの号令に合わせて、エリカはギアをバックにつなぐ。
車体が離れる。
主砲がすべりこむ距離ができたところで、カチューシャがすかさず発射。
ターレットリングとの継ぎ目を的確に狙い撃つ。
KV-85が白旗を上げる。
プラウダの後続が撃った砲弾が、KV-85の周囲につぎつぎ着弾する。
後ろにいたのは、KV-1が二輛。
だが、T-34/85は再装填が間に合わず、KV-2は向きが合わない。
「どうするの!?」
「後退! 五時方向!」
「え?! そっちは……」
「全速!!」
ええい、どうにでもなれ。
エリカはおもいきり左右のレバーを引く。
T-34/85がむかう方向にずでんと構えているのは、動きを封じられたKV-2。
がいぃぃぃん、とふたたび衝突音。
下から全力で押し上げられて、KV-2の車体後部が、ずるずると斜面をのぼる。
KV-2は砲塔を動かせない。
だが、車体の向きが変われば――
ずばうっ!
カチューシャの指示通り。
敵が射線に入った瞬間、KV-2が152㎜砲を発射する。
榴弾は、今回も直撃しなかった。
だが、大爆発に至近距離で巻き込まれては、さすがの重戦車も耐えられない。
KV-1が一輛、おもちゃかなにかのように盛大に斜面を転げ落ちて白旗を出す。
しかし、KV-1はあと一輛生きている。
おまけに、すでにこちらへ砲塔を向けている。
KV-2は装填が遅い。
再装填を終えるまで、むこうに少なくとも一発は撃たれる。
「エリカ、砲手お願い!!」
「ええ?!」
エリカは、せま苦しいT-34/85の車内を、身を細めるようにして移動して、どうにかこうにか砲手席にたどりつく。
横ではカチューシャが再装填の真っ最中。
「いいわ! 撃って!!」
T-34/85とKV-1の発砲は、ほぼ同時。
だが、T-34/85がすこしだけ速かった。
砲弾ははじかれたが、弾着の衝撃でKV-1の狙いがずれ、おかげでカチューシャたちは命をつなぐ。
「ニーナ、装填は?!」
カチューシャの問いに、通信機越しにニーナが叫ぶ。
「もうすぐ! でも、射線が合いません!」
「エリカ、また操縦!!」
「もう!!」
エリカは狭いすき間を逆戻り。
頭をぶつけ、ワンピースからむき出しの腕をすりむきながら、操縦席に潜りこむ。
「ちょっとだけ前進! がんばって支えるのよ!」
やることはわかっている。さっきの逆だ。
T-34/85が前進する。
支えをなくしたKV-2の重い車体が、斜面をずるずると滑り始める。
エリカの仕事は、それを受け止めること。
停車!
ずぐおぉぉん、と後部から重苦しい震動。
ギアをバックに入れ、重さに負けないように、必死で履帯を回す。
「カチューシャさま、いけます!」
「よし!
KV-2が発射した光弾が、T-34/85のすぐ頭上を飛ぶ。
直撃!
KV-1はきりもみしながら吹っ飛んで、白旗を揚げながら斜面の下に消える。
「よーし!」
カチューシャが車長席で片腕を突きあげる。
通信機からも、ウラーとKV-2組の歓声。
だが、広がりかけた楽観ムードは、一瞬でなりをひそめる。
KV-2の砲塔をかすめて、山頂で爆発した一発の砲弾――
「まだいたの?!」
カチューシャがキューポラから外を覗く。
近くには―― 敵影なし。
発砲したのは、下方からゆっくりと上ってくる戦車隊の先頭車両。
小さな砲塔と、それに不釣り合いなほど長い砲身。
特徴的なシルエットだ。
「……ノンナ!」
カチューシャの顔色が変わる。
濃緑の戦車は、吹雪のように冷徹な狙撃手が乗るIS-2だった。
「ニーナ、狙える!?」
「この角度では無理ですだ!」
ニーナの返事に、カチューシャがほぞをかむ。
方角が悪い。
KV-2の主砲をIS-2へ向けるには、KV-2の車体を押し上げる必要がある。
だが、さっき斜面を滑らせたせいで、KV-2はアンバランスな角度で止まってしまっている。
「どうする!? いったん離れて押し上げる?」と操縦席から、エリカ。
「だめ! 支えがなくなったら横転する!」と、カチューシャ。
つまり――
履帯が故障したKV-2だけでなく、T-34/85も動けない。
この場に釘付けになったまま、超高校級の砲手の攻撃に晒されるしかない。
「じゃあ、どうするの?!」
「操縦はもういい。砲手席へ!」
エリカも今回は不平を言わない。
切迫した状況であることがわかっているからだ。
エリカは、手脚をすり傷だらけにしながら砲手席にのぼり、スコープをのぞく。
視界には、主砲をこちらにぴったり合わせたIS-2。
相手は122㎜。
対するこちらは85㎜。
装甲もむこうのほうがはるかに厚い。
相手のほうが強くて硬いのに、相手が近づくまで待っているしかない状況――
初日の対IS-3戦の再現だ。
だが今回、こちらはまったく身動きが取れない。
(これは、危ういか……)
口には出さない。
だが、心の中で、エリカは半分敗北を認めかけている。
夜明けが来ていた。
太陽にかかっていた雲が晴れ、戦場は明るい朝日に照らされる。
その時だった。
ふもとの平地で待機中だったT-34/76の一輛が、じわりと移動を開始したのは。