逸見エリカに憑依したある青年のお話   作:主(ぬし)
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エイプリルフール更新


そのエリカ、猟犬につき 後編の前編

『貴女は、私の夢だからよ』

 私を“夢”と言ってくれた人がいる。その人は、私に可能性を与えてくれた。私だけでは到底たどり着けなかった可能性に、手を伸ばすキッカケを授けてくれた。研ぎ澄まされた剣のような銀髪が視界に輝けば、私は万の砲弾より勝る勇気と希望を得られた。時に鋭く引き締まり、時に木漏れ日のように穏やかな声がこの耳に届けば、私は後ろを振り返らずどこまでも前に進むことができた。
 その人は、私の恩人で、世界で一番の親友。そんな人が、私のことを“夢”と言ってくれた。私と過ごす日々を、まるで死後に垣間見る刹那の夢のように幸せで楽しい夢だと、美しい横顔で囁いてくれた。
 だったら、私のすべきことは決まっている。どうしようもないくらいに単純で簡単だ。
 親友が心から楽しめる、親友と共に全力で楽しめる、最高の(戦場)を作り上げるんだ。
 もう、西住の名には呑み込まれない。私が西住流そのものになるんだ。
 親友の期待を胸に、お姉ちゃんを、西住まほを超える。
 私の歩んだ軌跡こそを新しい西住流とする。


 さあ、一緒に楽しもう、エリカさん。
 私たちの戦場で、存分に、思うがままに、暴れて魅せて。







―――ごろごろごろ……



 その鳴き声(・・・)は、まるで、



 ピクッと、豊かな茶髪が怯えに震えた。唐突に産毛が逆立ち、薄ら寒さが華奢な背筋をズズッと這い登る。突然の不可思議な悪寒に、三つ編みの少女―――グロリアーナ別働隊を預かったルクリリはわけも分からず顔を曇らせた。
 戦車長たる者、不安は常に抱えている。どこかのスピード狂十字軍(クルセイダー部隊)と違い、慎重な行動ときめ細やかな警戒心がチーム全体を救うことをルクリリはよく心得ている。自信家を標榜するからこそ、この最終決戦(リベンジマッチ)において失敗は絶対に許されない。仲間を明るく鼓舞する豪快な顔の裏では、極めて理性的な思考が駆け巡っている。
 しかし、先ほど心身を貫いた怖気は、いつもの予感とは明らかに質が異なっていた。知恵や経験から導き出される予測ではない。まるで、自身が真夜中のサバンナで彷徨う草食動物にでもなったような―――夜闇の中に、獲物(こちら)を見つめる捕食者の瞳を見つけてしまったような―――。

「……ルクリリ様? どうかされました?」
「……何か、不吉な鳴き声が聞こえたような気が……」

 言ってしまって、そんな馬鹿なと自分自身を内心に叱咤する。川沿いから(・・・・・)黒森峰を包囲しようとするこの別働隊を襲う敵などいるわけがない。1輌を撃破してから、黒森峰の残存戦力はすべて遥か前方の山中に集結しているはずなのだ。ここにいるわけがない。もし万が一にもその1輌が生き残ったとして―――川に落ちたというのであり得ないに違いないが―――重防御を誇るこのマチルダII歩兵戦車を含めた6輌に対して何が出来るというのか。
 ダージリン様なら、この不可解な感情の理由を簡単に明文化して、鼻で笑ってみせるだろう。今の自分のように、指揮下の娘たちに不安げな表情をさせてしまう愚行はしでかさないに違いない。サイドテールを軽やかに揺らしてみせ、ルクリリは平常時の自分の顔をトレースしながら笑いかける。

「いえ、なんでもないわ。きっとこの耳障りな雷の音よ。さ、早くダージリン様の下に駆けつけましょう。ローズヒップたちに美味しいところをとられちゃ、悔しいじゃない!」
「「「はいっ!」」」

 戦車長の笑顔に不安を吹き散らされた少女たちが肩を上げて各々の役割に専念する。そうだ、これでいい。きっと大丈夫だ。さっきの、まるで犬の鳴き声(・・・・・)のような音は、雷鳴の聞き間違えなのだ。



―――ごろ ぐる(・・) ごろ……


―――ごろ ぐるる(・・・) ろ……


―――ぐるるるるる(・・・・・・)……



 悪夢のような闇の中に、一対の赤眼が不気味に浮かんでいる。
 恐るべき狂犬が背後から迫っていることに、彼女たちは気づかない。







 半年前―――。

 打倒黒森峰を掲げた聖グロリアーナ学園が満を持して挑んだエキシビジョンマッチにおいて、当時副隊長としてすでに頭角を現していたダージリンは隊長(フラッグ)車の直衛兼補佐としてチームの中核を担っていた。その活躍は凄まじく、進撃を阻む黒森峰の戦車を一輌また一輌と次々に仕留めていった。しかも、ただ目の前の敵を屠るだけではなく、そこには明確な戦術があった。
『機動力に優れた戦車で獲物を追い立て、重装甲の戦車で包囲し、殲滅する。』
 現在のグロリアーナの代名詞とも称される『強襲浸透戦術』はダージリンの手腕によって確立されたと言っても過言ではない。事実、その日、ついに黒森峰の隊長(フラッグ)車を市街地の袋小路に孤立させ、母校の勝利をあとわずかで手の届くものにした功績は間違いなくダージリンにあった。全員が勝利をすぐ指先に感じていたし、ダージリンでさえ気を逸らせてハッチから身を乗り出し、勝利の高揚に総身を昂ぶらせていた。
 それは、動物的な観点で言えば“油断”に他ならず、その獣(・・・)にとってはまさに獲物が無防備な喉を晒した絶好の瞬間だった。

『ぐるるるる……』

 その時、獣が喉を鳴らすような唸り声をダージリンは確かに聞いたという。
 次の刹那、視界の端に並ぶコンクリート壁が轟音とともに爆裂したかと思いきや、粉塵を突き破って“銀髪の獣”が本隊の横合いから猛然と襲いかかってきたのだ。何が起こったのかもわからぬままダージリンは真っ先にその牙に晒されることになり、気づけば目の前には討ち取られた隊長(フラッグ)車が無残に横倒しになって、その白旗を呆然と見上げていたのだった。
 後から聞いた話で、それは「孤立した隊長(フラッグ)車を全力で救援せよ」という隊長命令を無視した当時副隊長の西住まほが独断でけしかけた、たった一輌のティーガーⅡによる強襲だったことがわかった。
 密集し、閉ざし合った複雑な市街地の中で、どうしてまっすぐにグロリアーナの本隊の場所を察知できたのかは定かではない。最初に隊長ではなくダージリンを狙ったのは、獣の勘なのか、それともダージリンがいなくてはチームが成り立たないことを知っていたから(・・・・・・・)なのかも定かではない。ただ一つ確実なことは、ダージリンの勝利を食い破った要因が、練りに練られた作戦でも、考えぬかれた用意周到な伏兵でもなく―――ただ“狂犬の手綱を(・・・・・・)解き放っただけ(・・・・・)”という救いようのない事実だった。その時にダージリンが味わっただろう苦渋を、胸が抉られるほどの自責を、頭が腫れ上がるほどの屈辱を、オレンジペコは想像するだけで痛いほどに奥歯を噛み締める。

 ダージリンの栄光に土をつけたその銀髪の獣こそ、グロリアーナが忌み名で呼ぶ『バスカヴィル家の魔犬(バスカヴィル・ヘルハウンド)』。
 “完璧な戦術で敵を圧倒する”という西住流の影響根強い黒森峰にあって、唯一戦術を果たさないことを認められた者。
 飼い主が首綱(リード)を握る手を離したら最後、作戦も何もかもを台無しにして、獲物を食い尽くすまで暴れまわる狂気の怪物。
 優秀な人材と装備を揃える黒森峰にあって、火砲、装甲、そして乗り手の全てにおいて現有戦力中最強を誇る戦車。
 西住まほすら完全に使いこなせなかった、“黒森峰の狂犬”。勇名悪名両方名高きその狂犬の名を、逸見エリカ(・・・・・)という。

 そんな、解き放たれれば戦況を覆される切り札への対処法は一つしか無い。言ってしまえば単純で簡単な話だ。飼い主が狂犬を(・・・・・・・)解き放てないように(・・・・・・・・・)すればいい(・・・・・)

「新しい飼い主さんは、頼れる犬を自分の傍から離す勇気はないようですわね」

 微かな冷笑を混ぜて呟いたアッサムの目は絶えず最大望遠のスコープに傾注したまま離れない。彼女の鋭い双眼には、闇夜を見通す暗視装置によって暴き出されたティーガーⅡのズングリと角ばった特徴的なシルエットが(しか)と映り込んでいた。隊長車(ティーガーⅠ)の隣にじっと(かしず)いたまま雨に打たれる姿は、新しい飼い主の不甲斐なさに辟易してやる気を無くしているようだった。
 決勝戦前の顔合わせでダージリンと向かい合った新しい隊長―――西住みほの顔を思い出そうとして、オレンジペコは自制する。情けを掛けてしまいそうな自分を恥じて。

「当然ね。どんなに強い狂犬でも、飼い主に扱いきれるだけの度量がなければ駄犬に成り下がる。私たちがまともに狂犬の相手をする必要なんてない。ただ、飼い主の方を攻めて攻めて攻め続けて、考えあぐねる余裕すらも奪ってしまえばいいのよ」

 切り札を有する黒森峰への対抗策としてダージリンが導き出した作戦は極めて明快だった。ここぞというタイミングで切り札を使われるのなら、そのタイミングを奪ってしまえばいい。基本的戦法である『浸透強襲戦術』をさらに激化させた『超・浸透強襲戦術』とも呼ぶべきそれは、出し惜しみなど一切せず、敵に対応を練る猶予すら与えず、優雅も気品もなく全戦力を持ってただひたすら追い立て続けるという、単純なれど容赦のない戦法だった。事実、黒森峰の新しい隊長は切り札の首綱を手放す好機を完全に逸してしまい、行き止まりの窪地に身を寄せあって己と道連れにしようとしている。

「気の毒ね、逸見エリカ。不甲斐ない飼い主を持ったばかりに望まない最後を強いられるなんて。せめてまほさんだったなら、まだまともな戦いをさせてくれたでしょうに……」
「……ダージリン様、相対距離が900ヤード(820メートル)を切りましたわ。いつでも()てます」

 声に少しの緊張を織り交ぜたアッサムが背中で指示を仰ぐ。チャーチル歩兵戦車の主砲であるオードナンスQF6ポンド対戦車砲の有効射程は1,650ヤード(1,510メートル)。普段ならば威力不足は否めない砲だが、この距離まで近づけばいかに堅牢なドイツ戦車の装甲も貫ける。そして、いかに高威力のドイツ戦車砲でも、この程度の距離ではチャーチルの正面装甲は貫けない。敵の残存勢力が全て前方に集中し、装甲の薄い後方から攻撃を受ける心配がない今、チャーチルはすでにこの戦場を制したようなものだ。いや、事実としてそうなる(・・・・)のだ。今から、そうする(・・・・)のだ。

 すうっと鼻孔から深く息を吸い込み、ダージリンは静かに目を閉じて、そして強く開く。一瞬、瞼の裏に映り込んだのは、かつて彼女が味わった屈辱と挫折の光景だ。あの敗北があればこそ、ダージリンは母校をサンダースやプラウダと一線を画する強豪校にまで押し上げる実力を持つに至った。しかし、忌々しい記憶は常に彼女の傍らにあり続けた。それも今日までだ。闇雲に放たれた黒森峰の砲弾がチャーチルの装甲に弾かれて鈍い音を響かせる。否、弾いたのは装甲ではなく、ダージリンの決意だ。
 あの時に失った誇りを取り戻すために、過去を清算して前に進むために、彼女は慈悲も同情も忘れて復讐の修羅となる。

「―――全車に通達、遠距離砲撃戦の用意。オレンジペコ、砲弾は問題ないわね?」
「はい、ダージリン様。強化薬莢と装弾筒付貫通徹甲弾、すでに装填完了しています。次弾装填もいつでも行けます」

 狂犬が駆るティーガーⅡはチャーチルに劣らない重装甲で知られている。火薬と爆薬を強化し、貫通力を極限まで高めた砲弾でなければ有効打は与えられない。その知識を有し、なおかつダージリンの戦術を理解して適確な砲弾を前もって準備できる。まだ入学して間もないオレンジペコが次期隊長候補として隊長車への同乗を許されている由縁だ。
 見事に期待に応えた後継者にダージリンは「さすがね」と誇らしげな笑みで頷く。自尊心を刺激され、オレンジペコの背筋にピリリと熱い興奮が走る。

「各車にも同じ弾種を使用することを通達して。アッサム、狙いそのまま。私の合図で、まずはバスカヴィルの側面装甲を穿ちなさい。その後で隊長(フラッグ)車を確実に撃破するのよ」
「わかりましたわ。一撃で、仕留めてみせます」

 澱みのない決然とした指示はダージリンの覚悟に満ち満ちて、それが見えない球となって全戦車を包み込んで少女たちの心を一つにする。長らく日本戦車道に君臨してきた王者を討ち取る偉業に、さしものアッサムも武者震いに震えていた。一年生のオレンジペコなら尚さらだ。
 緊張の面持ちを浮かべたオレンジペコが、手元のラップトップに視線を注いでゴクリと喉を鳴らす。幅100フィート(30メートル)の鬱蒼とした藪道が続く先に、黒森峰の集団(えもののむれ)が待っている。直線距離にして850ヤード(780メートル)。互いに有効射程内だ。いつ決着がついてもおかしくない。

「バスカヴィルと隊長(フラッグ)車はチャーチルが引き受けるわ。あとは―――“Let slip the dog of war.”」

 その場違いに流暢な台詞の意味を一瞬で理解でき、かつ行動に移せるのは、この場にはオレンジペコただ一人だけだ。短距離用無線機をラックから掴み取り、息を吸うと同時に台詞の引用元に思考を馳せる。シェイクスピア戯曲『ジュリアス・シーザー』第三章第二幕。意味は、『戦いの犬を解き放て(Let slip the dog of war)』。

「ローズヒップ隊、前進してください!!」
『ハイですわァッ!!』

 跳ね返るピンポン球のような即答がスピーカーを震わせ、エンジン音を高鳴らせた風の色の戦車―――クルセイダーMk.Ⅲ巡航戦車が待ってましたとばかりにチャーチルの真横に進み出た。
 小型軽量のボディに高出力エンジンを搭載した結果、最高出力340馬力、規定最高速度30マイル(50キロ)の俊足を誇るクルセイダーは、先頭になって敵陣をかき乱す露払い役には打って付けだ。
 恭しく無線機を差し出すオレンジペコに褒美と賞賛の一瞥を授け、ダージリンは持ち前の涼し気な声を吹き込む。

「ローズヒップ、隊長(フラッグ)車直衛の任を解くわ。作戦通り、クルセイダー4輌を率いて先行なさい。相手をポップコーンみたいに盛大に慌てさせて指揮系統を崩すのよ。我がグロリアーナにも獲物を追い立てる優秀な狩猟犬がいるのだということを、黒森峰の方々に思い知らせてあげなさい」
『了解ですわ、ダージリン様! ―――ところで、優秀な狩猟犬って何方(どなた)が飼ってらっしゃるんですの? 私、まだそのワンちゃんを見せて頂いたことがありませんわ』

 空気が結晶化し、さしものダージリンも口端をピクリと震わせる。そして、アホの子と真正面から相手をするのを諦め、匙を砲手に向かって優雅にぶん投げる。

「後でアッサムが説明してくれるわ」
「ちょッ、ダージリン様!?」
『わかりましたですわ! アッサム様、あとでそのワンちゃんを見せて下さいませ~~~っ!!』

 仰天してダージリンを振り返るアッサムのことなど露知らず、“聖グロの飛び道具”と呼ばれるイノシシ少女が持ち前の甲高い声を跳ね返してくる。顔は見えないが、彼女が目を輝かせていることは鼓膜を震わせるほど楽しげな声で一()瞭然だ。その快速っぷりには鈍足のチャーチルと並走していた鬱憤をようやく晴らせるという気持ちがありありと滲み出ていた。まるで久しぶりに散歩に連れて行ってもらってテンションがおかしくなった犬のようだ。面倒事を押し付けられたアッサムが不快気ではない苦笑を浮かべて「まったくあの娘は」とボヤく。

(勝てる。私たちは間違いなく勝てるわ。ダージリン様はやっぱり凄い……!)

 決戦を前にして士気は漲り、油断は一切なく、張り詰め過ぎない精神的余裕もある。オレンジペコは“完璧な勝利”の確信を肌で感じていた。これこそが優雅を旨とするグロリアーナの在るべき姿だ。これで勝てない方がおかしい。グロリアーナの、ダージリンの勝利は、もはや月の満ち欠けのように決まりきったことだ。完全無欠の勝者にしか作ることの出来ない空気を肺いっぱいに吸い込み、染み込ませ、いつか自分が再現するためにその味と成分を心の奥底に刻もうと必死になった。

『バニラ、クランベリー、ついに見せ場が来ましたわ!全クルセイダー、私に続きなさいませですのよ!』
『『はいっ!!』』

 第2次大戦中の戦車の中では飛び抜けて加速性能の高いクルセイダーと高速戦闘を得意とするローズヒップの組み合わせは、敵の混乱を誘うには最適だ。飛び出してきたクルセイダーの素早さとローズヒップの機敏な指揮に驚き、翻弄された敵戦車は統率に楔を打たれ、連携を失い、各個撃破の的と成り果てる。そうして丸裸となったキングに、こちらのキングがとどめを刺す。

「チェックメイト、ですわね」

 静かに、しかし自信を込めて呟き、ダージリンはカップに唇をつける。その言葉に全員が力強く頷き、各々の機器を握る手に力を込める。オレンジペコのラップトップがついに接近警報を発する。敵集団との相対距離はもう710ヤード(650メートル)もない。クルセイダー(ローズヒップ)にとってはものの数歩分の距離だ。

「“優れた能力も機会が与えられなければ価値がない”。“決戦の後で使用が予定されている如何なる予備軍は、不合理以外の何物でもない”」
「ナポレオン・ボナパルトと、カール・フォン・クラウゼヴィッツの格言ですね。どちらも、戦力の不要な温存は愚策という意味です」

 間髪入れずに返答してみせた忠実な弟子に、師は「その通りよ」と成長を肯定する。

「ここぞという時に、持ちうる最大戦力全てを投入する。相手より一分一秒でも早く。どんなに強い狂犬だって、檻から放たれない限り脅威となりえない。リードを繋がれて動きを制限されたままでは、訓練された素早い狩猟犬に群れには絶対に敵わない」

 狩猟犬の群れが次々と主人の横をすり抜け、獲物に向かって驀進していく。戦いにおいては、常に仕掛ける側に立つことが勝利の基本となる。相手より先に行動することで主導権を握り、さらに味方の闘志も促せる。先に犬を放ったのはグロリアーナだ。戦術的にも、士気的にも、アドバンテージは得た。しかし、勝利を確実にするために、まだやっておかねばならないことがある。

「ローズヒップ、アッサムに道をお開けなさい」

 その言葉に弾かれ、神託者(モーセ)を前にした大海のように4輌の戦車が飛沫を飛び散らせて左右に分かれる。瞬間、アッサムの視界に飛び込むのは憎きバスカヴィルのシルエット。闇のねぐらに隠れて明瞭定かでないが、彼女には十分だ。虎に鎧を着せたようにずんぐりと背中が盛り上がった下品で獰猛な姿は、見間違えようもなくティーガーⅡのそれだ。無防備に側面をこちらに晒しているのは、自身の鎧を頼った驕りだ。今、それを剥ぎ取ってやる。アッサムの漂白されたように白い細首がゴクリとうねる。興奮と緊張が全身を走り狂うも、トリガーに掛けられた指先はそれらと完全に切り離され、微塵も揺るがない。そのために訓練を積んできたのだ。彼女の背中に汗が滲み、そこに早鐘を打つ心臓が透けて見えて、オレンジペコも思わず喉を上下させる。鼓膜が絞り切れるような静寂の中、それぞれの高鳴る心音まで聞こえてきそうだ。不快ではない、むしろ一体感を与えてくれる音色だ。高揚感を高める心音(ハーモニー)が重なり、奏鳴曲(ソナタ)を奏で、重奏曲(アンサンブル)となり、集合し、融合し、壮大な交響曲(シンフォニー)へと至って美しい力場を形成する。
 静謐なコンサートホールに流れるクラシックオーケストラの中、一口、ダージリンが己のティーカップに口をつけ、麗しい唇で音もなく紅茶を啜り、喉を潤す。
 それはまるで、フィナーレを目前に指揮棒(タスク)を頭上高く振りかぶる指揮者。
 そして、純白のカップとソーサーが奏でる口吻(キス)は、撃鉄。

撃て(ファイア)

 轟音が炸裂した。衝撃波が降りしきる豪雨を吹き飛ばし、3.23ポンド(7.1キロ)の砲弾を884メートル毎秒で砲身から叩き出す。放たれた鉄塊はグロリアーナの少女たちの気迫を纏い、暗闇をサーベルのように鋭く引き裂き、騎馬のように雷鎚の間隙を華麗に縫って、暗視スコープの中心―――宿敵の横っ腹に見事着弾した。

「やった……!」

 まさに狙い通り、今までの鍛錬の集大成というべき人生最高の砲撃だった。拳を握りしめるアッサムの視界で、派手な炎が上がり、赤外線の白黒が逆転する。次いで空気を伝わって聞こえる、ドォンという爆発音。分厚いはずの王虎の装甲がわざとらしい(・・・・・・)ほどに広く高く散逸していく。奇妙な手応えだったが、勝利の興奮が感覚を麻痺させているのだと彼女は理解した。
 同じ光景を目撃していた操縦士のルフナが歓喜に震える。

「ダージリン様! アッサム様がやってくださいましたわ!」
「ええ! よくやったわ、アッサム! さあ、全車攻撃開始!」

 初弾でバスカヴィル(イレギュラー)の足を止めさえすれば、もはや恐れる者は無い。
 主君のために雑兵を露払うクルセイダー(十字の騎士)が、軍旗を掲げた中世の騎兵よろしく雄叫びを上げながら目の前の暗闇に向かって突進する。
 鞭打たれたクルセイダー巡航戦車はあっという間にチャーチルを置き去りにして、豪雨のバッドコンディションも何のそのと驚異的な加速を魅せる。事前に速度調整機の足枷(リミッター)を外された愛機が持てる全ての機関出力で乗り手の覇気に応えたのだ。軽量エンジンブロック内で爆炎を哮らせたナッフィールド社製『束縛無き自由(リバティー)・エンジン』が嘶きを上げて、カタログデータを越えた時速38マイル(61キロ)を叩き出し、排気ノズルが燃える炎に輝く。

『さァあ、リミッター外しちゃいますわよォ―――

 いざ、決着の時だ。凱歌を歌うように高らかに、ローズヒップがお決まりの台詞を喉奥から迸らせ、



 ―――あら(・・)?』



 不意に―――優秀な狩猟犬が何か(・・)に気づいて声を上げた。
 その首を傾げる雰囲気が、グロリアーナに流れていた熱い潮流に強烈な違和感を挟んで堰き止めた。


「どうしたの、ローズヒップ」
『あ、いえ、ごめんなさいですわ。何でもないんですの。私の悪い癖ですわ。変なものを目にしたらつい口走っちゃうんですの。本当になんでも、』
「大事なことかもしれないわ。言いなさい、ローズヒップ」
『……ただ、今しがた通りすがりざまに不思議な木を見ただけですの。大きな木の根本だけごっそり削られて、今にも折れそうになっていて―――』

 ダージリンの一瞥を受け、オレンジペコは素早い動きで覗き窓に顔を押し付ける。確かに、自車前方数ヤード先の大木が、まるで巨大なアイスクリームスプーンで掬い取られたように根本をごっそりと失っていた。しかも、道の両脇で、幾本にも渡って。真新しい焦げ跡は整然としていて、明らかに意図的な―――神がかり的に正確無比な砲撃で与えられたものだ。
 オーケストラの途中に耳元で不躾な咳払いをされたような、最良の気分を害された不快感が凶鳥の鉤爪となって思考に引っかかる。張り詰めた沈黙に、雨音と車体が軋む音が木霊する。あれだけ心地よかった静寂の舞台が今は何故だか気味が悪い。突然、「そこはお前たちの舞台ではない」と蹴落とされたような絶望感が足元から這い登ってくる。不協和音がジワジワと少女たちのシンフォニーをかき乱すが、正体を突き止められない。そうこうしている内に、奇妙な木々は目前に差し掛かっているというのに。
 俯いた顔が手元の紅茶に映り込み、焦燥する己と水面を境に目が合う。
 あれは何?何が目的?私は、いったいどんな視点を見落としてしまったの?

『え、ええっと、』

 唐突に、握りしめる無線機からバツの悪そうな声がした。自分のせいで沈んでしまった皆の気を紛らわそうとローズヒップが不得手なジョークを投げかける。

『な、なんだかおっきなドミノみたいですわねっ!? 指先でちょんと押したら今にも倒れそう(・・・・)―――』





……倒れるって、どっち(・・・)に?




ああ、ねえ、待って。待ってよ。
何時から、静寂(・・)なの?
あんなに激しかった黒森峰の闇雲な砲撃は、どうして止まっている(・・・・・・)の?
彼女たちは、何を仕掛けて、何を待ってたの?
教えてください、ダージリン様―――








 記憶の中の西住みほが、三日月のように笑って、
 
 もう遅い(・・・・)と、囁いて、

 圧倒的な砲撃音が、彼女の意識を呑み込んだ。










 悪夢のような闇の中に、一対の赤眼が不気味に浮かんでいる。

 恐るべき狂犬が背後から(・・・・)迫っていることに、彼女たちは最期まで気付かない。



 あ、あの、昨日はゴメンね。勝手にウォークマンの中身聴いちゃって。その、なんていうか、女の子に耳元でコショコショってされるの、好きなんだね。―――わああっ、待って! ここ3階だから! そっちは窓だから! 飛び降りちゃ危ないから!
 えーっとね、別に、おかしなことじゃないと思うよ? 聴いてて、私もドキってしちゃったし。ちょっとくすぐったいけど、ゾクゾクってして、気持ちいいと思う。こういうの好きだってこと、変なことじゃないと思う。だから、ね? 窓から離れて、こっちに来て。ね?
……うん、わかってくれてよかった。本当に。ごめんね、取り乱せちゃって。ううん、勝手に聴いた私が悪かったの。落ち着いてくれてよかった。
 ……と、ところで、なんだけど。この囁いてる女の子たちの声って、なんだか私とお姉ちゃんの声に似てる気がするんだけど、これってもしかして――――……あれ、エリカさん、どこ行ったの?






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