灰と幻想のグリムガル 聖騎士、追加しました 作:2222
ひどい耳鳴りが収まった後に訪れたのは、漆黒の闇だった。
かなりの時間が経ったが、辺りはまだ土がまばらな雨のように降っている。
サクマは必殺の一撃で完全に殺したと思ったのか、それ以上の追い打ちはなかった。
もしも巨大なムカデの体が壁となり爆風を防ぐことが出来なければ、そうおもいながらアイラは口一杯の泥を吐きだす。
息を吐いて苦労しながら兜を取って頭を振る。ぬるりとした感触。
兜はいくつかへこみが出来ていて、再び被ることは難しいだろう。
周囲は 焦げ臭いにおいが充満している。
痛みと熱さで吐き気がするし、もしここに水場があれば迷いなく飛びこむだろう。
よろめきながら手探りで壁のようなものを背にして再び座り込んだ。
周囲に触っても、崩れた岩や土、それからよくわからないぐにゃりとしたものしかないようだ。
この暗さでは、剣は見つからないだろうと結論付ける。
それからゆっくり自分の体を触ってみた。
四肢は揃っている。
道具はいくつか足りない。
明かりになるようなものもないが、食料と短剣はある。
何度か瞬きし、顔に触れると怪我はしているが瞼はある。おそらく眼球を痛めたわけでもない、はずだ。
周囲が見えないのは、明かりがないせいだ。
手探りで皮水筒をとりだして軽く口を漱ぐと、気分がだいぶマシになった。
ぴったりと身に着けるようにして持っていた荷物の中をいくつか取りだして、まずは干した果物を探り当ててひとつ口に含む。
とろけるような甘さにプラムだろうと見当をつける。
確か、シホルが好きだったはずだ。
しばらく大粒のソレを口の中で噛みながら、心を落ち着かせる。
生き物というのはたいてい火を恐れる。
ムカデももしかしたら火が苦手かもしれない。
なら、しばらくはこの辺は安全だろう、と思いたい。彼女はそう結論付ける。
どのみち今はまだ動けない。
布を取りだし右足の脛に置き、左手を添える。
暗闇に目を凝らしながら、何とか手探りで滑らないように何度も掴み直して深呼吸する。
それから右手で右足の脛に突き刺さっている棒状のものを一気に引き抜き、布で傷口を押さえた。
しばらくして、震えながら手当し終えた自分へのご褒美としてもう一つ食べると、今度は甘酸っぱいベリーだった。
こっちはユメが好きだったはずだ。
今度会ったら、二人は笑ってくれるだろうかとアイラは少し思った。
謝らなくちゃいけない。
手探りで何とか立ち上がる。
間違った方向へ進めば死ぬ。
ここにいても、いずれはムカデの死体の匂いに誘われたモンスターが来て死ぬ。
前に進んでも、今度こそ止めを刺されるかもしれない。絶望的な選択肢しかなかったが、ここにいるのが自分一人だというのが彼女の救いだった。
クズオカたちが助けに来るとは、毛頭思わなかった。
もともと金を稼ぐのに必要だからと集まっているパーティだ。
ハルヒロたちともレンジたちとも、比べることすらできない。
「くそ、バカマナト。バカなんだからほんとに!」
小声で罵ると、心の中に巣食っていた重たい塊がわずかばかり減った。
彼は、もっと先を走っていたから、もう外へ出ているかもしれない。
サクマと完全に引き離すことはできなかった。どうしてあんな扱いを受けていたのか、理由はわからない。
ねえ、マナト。今度こそ、振り向かずに走って。こんどこそオルタナまで帰って、みんなにただいまって言ってあげてよ。
そう思ったアイラは、不意になぜか寂しいような気がして足を止めた。
理由はわからない。じゃあ、きっと、大したことはないと言い聞かせて頬を拭い前を見据える。
何度か足を止め、萎えそうな足を必死で動かし前へ進んでいると、やがて遠くにちらりと光るものが一つ見えた。
目がおかしくなったのかと思い、立ち止まってもう一度見るとさっきよりも大きくなったような気がして足を止める。
揺らめくオレンジの火がだんだんと近づいて、それを持っているのは薄汚れた神官服の男だという事が分かった。
気が付いた瞬間の気持ちを何とか抑え、ゆっくり息を吐いて相手を見つめる。
何があったのやら、全身泥だらけで血塗れだ。
胸元の辺りもたいまつの火で照らされてぬめぬめと血で光っているように見えるから、お互い碌な目に遭ってないらしい。
彼女は壁から手を放して何とか立ち、腕を組んで軽く顎を上げ、顔を顰めじろりと彼をみる。
何を言うべきなのか混乱していたはずなのに、言葉はするりと出た。
「遅いよ」
「ごめん」
マナトは、微かに頬を歪めてそう答える。
泥だらけで、たいまつの薄暗さの中だって疲労困憊という態なのに、張り付けた笑顔だけ変わらない。
そのことに胸を痛めながら、アイラはあえて軽く頷いて見せた。
「そっち側、なんかヤバそうなのいた?こっち側はしばらく大丈夫だと思うから、問題ないならちょっと休憩しよ」
そういってアイラが座り込むと、マナトは眉を顰めて振り返り、迷いながら腰を下ろした。
北方向も漆黒の闇に包まれているように、見える。
「怪我を」
「うん。治してほしいけど、その前にそっち先にしよ?神官優先だよ」
そういうと返事を待たずににじり寄り、身体を強張らせるマナトの血だらけの胸元にそっと触れた。
痩せすぎて骨と皮ばかり、まるで上から骨が掴めそうだと思いながら、傷を癒す。もう少し上ならば致命傷だった。
義勇兵種をつなぐ紐も今にも千切れる寸前だったので、そっと引っ張ると繊維が切れて銀色の義勇兵章は手の中に収まる。
記されている名前はユダ。
寂し野前哨基地には義勇兵団の事務所はなかったはずだから、義勇兵章は発行されない。
「ユダって誰?」
アイラがひっくり返しながら義勇兵章を返すと、マナトは薄く自嘲的に笑った。
「知らない。サクマが義勇兵章がないと不便だからって俺に寄こしただけだから。それにさ、俺に相応しいと思ったんだ。この名前が」
荒んだ声色にアイラはきょとんとした顔で義勇兵章とマナトの顔を見比べて、首を傾げる。
「温泉が?」
「おんせん?」
目を丸くして本当に訳が分からないという顔でアイラが呟くと、マナトは目を開き同じ言葉を繰り返す。
予期した罵倒も非難も軽蔑もないことに拍子抜けし、落としていた視線を上げた。
泥だらけで血だらけで、おそらくは殺されかけたのにかかわらず、相変わらず子猫みたいな表情をしていると彼は思った。
「なにが?温泉?」
「・・・いや、なんかそんな気が。なんでだろ。まあ、いいじゃん?」
困惑し、自分でもよくわからない顔をしながら笑うアイラにマナトも微かに頬を緩めた。
壁に立てかけたたいまつがちらちらと揺れている。
よく見ると、たいまつの棒の代わりに錫杖を使っていた。
「マナト、あと他に怪我は?」
「・・・・・・無いよ」
掠れた固い声にアイラは軽く首を斜めにし、半眼で見つめてから泥で汚れ、削いだように痩せた頬に触れてみた。妙にざらついている気がした。
彼がいきなりの暴挙に目を見開いたまま完全に固まっているのを無視して、彼女は上から順繰りに丁寧に触れていく。
「ふうーん・・・とりあえずは、大丈夫かな。あとでまた確認するからね、痛くなってきたら言ってよ?」
手が離れたことに内心安堵していたマナトが頷いて見せる。
「俺は自分で治せるから、気にしなくていいよ」
その言葉に、アイラはぼんやり顔を眺めて足を投げ出した。
「じゃ、悪いけど。こっちの怪我治してもらおうかな。≪罪光≫覚えてないし。あ、知ってる?聖騎士が自分の怪我治せる魔法なんだけどね。一回しか使えないの」
「知ってるよ。元聖騎士って奴は結構いるから」
≪罪光≫は、聖騎士が自分を唯一癒すことのできる光魔法だ。
だが代わりにルミアリスの加護を失うことになる。
足の怪我を治すと、アイラはゆっくりと息を吐いた。
相当痛んだはずだとマナトは察したが、口には出さなかった。
「とりあえず、これで大丈夫。ああ、いや、耳の調子がヘンかも?音聞こえないと困るから念のためにお願いしたいけど、魔法力は大丈夫?」
「今日は結構使ったから心許ないけど、耳は治さないと」
「ごめんね、治してくれてありがとう」
他愛無い会話にマナトは目を瞬かせ、少し困惑した愛想笑いを浮かべている。
「・・・さてと。・・・・・・どうしようか。念の為にいうけど、私サクマに殺されかけたんだけど」
「知ってるよ。というか、ずっとそうだっただろ。だから早く抜けろって言ったんだ。こんな目に遭う前に」
マナトが言うとアイラはえへ、と笑って視線を逸らし泥のついた頬を掻いた。
血と泥がぱらぱらと下に落ちていく。
言いたいことは山ほどあるが、今言うべきことじゃない。
「う、うーんと、すっごく命中率が悪くてタイミングとか何もかもどうしょうもなくツイてない人なんだという事にしてたから」
眉を顰めるマナトにアイラは引きつった笑いを浮かべる。
「何もかも悪いように受け取るのって、なんかどうかなって思って、それ以上考えないようにしてたし」
驚きと呆れで言葉を失うマナトから目を逸らしていたアイラは、不意に上を向き困惑した顔で周囲を見渡した。
「今、誰か喋らなかった?」
マナトが無言て立ち上がり緊張感を漂わせながら警戒する様に、アイラも続いて立ち上がって耳を澄ませる。
何か人の声のようなものが聞こえた気がしたが、気配はない。
息を吐いて少し視線を上げ、警戒したままの横顔をながめる。
「あのさぁ、マナトだけなら、無事にワンダーホールから出られたりする?サクマどうにかなる?」
「いや、サクマはもう俺の事も殺す気だよ。君のことだって、大した理由はない。たぶんね、そういう人間なんだ。
・・・脇道があればよかったけど、ずっと直進だったのが痛いな。後ろはムカデの巣か、歩くのも気をつけないと。ここまで来るのもかなり陥没していたから、割れ目に落ちれば終わりだよ」
たいまつを持ち、暗い笑いを浮かべるマナトの肩に軽く体をぶつけ、アイラは口元を歪めた。
「なんでそこまでわかってるくせに戻ってきちゃうの。馬鹿ね」
思いがけない言葉にマナトは瞬きし、ぼんやりと暗闇に視線を向ける。
確かにその通り。どうして自分は戻ってきたのか。
彼女とは、同じ義勇兵宿舎で暮らしてゴブリンと戦ってごくわずかな日々過ごした。・・・たったそれだけだ。
それだけでしかない。
期間だけなら、クズオカたちといた日々の方がずっと長い。
「さあ、なんでかな・・・。もともとサクマは金を欲しがってた。自由都市か王国本土に行くとか・・・そのために金が必要で。俺は道具でしかなくてさ。色々あったんだ」
アイラはそっと手を伸ばしかけてやめると、盾を持ち肩を並べた。
「それはそれは。じゃあ、後でゆっくり聞くことにしよーか」
そして不意に何かに気がついて、一人笑みを浮かべ、もう一度肩にぶつかった。
「なに?」
「あーとーで。私にもね、色々話すことあるんだからね」
彼女の上機嫌な様に、どういうわけか心が軽くなりマナトは知らず知らずのうちに表情が緩む。
「覚悟しておくよ」
「楽しみにしておくね」
***
暗闇に黒い魔法使いの姿は溶け込んで見えた。
目印にもなる明かりは、少し遠くに置いてあるのがみえる。
音を立てないように口に手を当ててこっそりとため息をつく。
諦めてくれたことを期待していたが、まあそんなもんだろう。とマナトは思った。
神官のいないパーティは貧弱だ。
おそらくクズオカもカトーもキクチも、すでにワンダーホールの外へ逃げてしまったのだろうと判断する。
いたとしても、牽制の役には立たない。
だがもう少し歩けばムリアンたちの巣穴だ。その先の道のりも短くはないが、おそらく戦わずに凌ぐことができる。
外へ出ることができる。逃がすことができる。
平坦だったはずの通路は、先の魔法のせいで何ヵ所も崩れてアイラを探し出すのも一苦労だった。
歩いている途中で何度も割れ目に足を取られ、危うかったこともあるし、今もわずかな振動で土塊が降ってくる。
かなり不穏な兆候だ。
たいまつ用の油布を巻きつけた錫杖を持ち直し、マナトはゆっくりと歩く。
結構歩いたせいもあり、もう火は消えそうだ。もう予備はない。
物音に気がついたのか、サクマが立ち上がった。
杖をいつでも発動できるように構えている魔法使いの表情は暗くて見えないが、おそらく相当怒っている。
ただでさえ低いハードルが、さらに下がっていることは間違いないだろう。
「やあ、サクマ」
足を止めて彼は笑いかける。実を言えば、足が竦む。心臓が高鳴り、顔が引きつっているような気がした。
だけど手首に光る小さな六芒星が、励ますようにほんのりと暖かい。大丈夫。
「俺そこを通りたいんだ。どいてくれない?」
「アタシに向かって、よくもそんな口を聞けるもんだね。恩知らずの裏切り者」
彼はぎくりとした。
確かにそうなのかもしれない、自分は少なくとも善人じゃないのは確かだと思いながら、良く見えるように錫杖を持ち替える。
サクマの手前に一つ穴がある。真っすぐに走れば足を取られるだろう。
「確かに、ゴブリンに追われたのを助けてくれたのは感謝してる。恩だといわれればそうかもしれない。けどさ」
マナトは片目を瞑って笑ってみせる。
それを恩だというなら、十分に借りは返した。
あの夢を見てもわからなかったその気持ちは、彼女が姿を現してからやっとわかった。
「俺は好きじゃないんだよ。嫌いな奴に頭下げたりするの」
本性を知れば、自分みたいなやつは嫌われるかもしれない。軽蔑されても仕方ない。
それでも、みんなのところに、帰りたかった。
錫杖に緩く巻き付けていた火のついた油布を奥へ放り投げると、すぐに周囲は真っ暗になった。
怒気を露わにするサクマに、音を立てないように防具の大半を外したアイラが抜身の短剣一つだけを持ってサクマに跳びかかる。
先行して暗い壁際から近寄っていたことにサクマは気がついていなかったようだったが、突然の攻撃に対して、サクマは意外な反射神経の良さを発揮し杖を振り弾き逆に殴り返した。
「てめっ!」
「くっ」
振り回される杖の方が射程は長い。渾身の力で打ち据えられて、アイラがわずかに怯む。
「堪えろっ!」
マナトも走りだし、距離が狭まる。
サクマはかなりのベテランだ。隠し技の一つや二つ持っていてもおかしくない。
体術の一つや二つは覚悟していた。
エレメンタル加工された刃物も持っていると伝えてある。
それでも
真上からぼろ布を被ってお化けごっこをしている子供のような姿が、アイラのまっすぐ上に降ってくる事だけは想定していなかった。
「キャハハハハハハハハハハハハハハハハ」
甲高い、不自然に子供っぽくしたような不気味な笑い声が周辺に反響する。
「バーカッ死ねッ泥棒猫ッ薄汚いコソ泥をぶっ殺しなッ!」
「ッぁっ」
サクマの足元で転がった身体が赤く染まっていく。
合間に聞こえる何度も刃物で肉を突き刺すような音。
馬乗りにされた体はずるりと地面に倒れて動かない。血だまりが広がっていく。
ソレは両腕が包丁を思わす尖った作りをしていた。
そして無邪気な子供が甘えて両腕を振り回して叩くように、無造作に
「やめろぉ!」
彼は全力で走りそいつに向かって、錫杖を思いっきり叩き付けた。
予期していたようにふわりとソレは背後に飛ぶ。
「クソっ」
ぼろ布の下から覗く不気味な眼、一見人間のように見えたがソレはやけに手足が蜘蛛のように長く縞模様をしていた。
こんなモンスターは見たことがない。けれど一つだけ思い当たるものがあった。
「悪霊ッ」
振り回した錫杖が宙を切る。
≪悪霊≫は、暗黒騎士だけが使役できるスキル。
サクマは魔法使いのはずだった。
「キャハハッキャハハッ」
耳障りな笑い声。
遊んでいるように縦横無尽に跳ね回る悪霊に目を奪われ、動揺しているマナトは、完全に無防備になっていた。
その背後でサクマは杖を振り上げる。
「デルム・エル・ヘン・バルク」
「・・・る・・・かっ」
「邪魔だよ死に損ないッ!」
≪悪霊≫に完全い目を奪われていた彼の耳にふと自分を呼ぶ声が聞こえた気がして振り返る。
彼の眼に映ったのは、サクマの杖を奪おうと必死で足掻く彼女の姿。
「マナトッ早く、逃げ・・・ッ」
「邪魔だって言ってんだよッ!」
振りかぶった杖で額を割られ、今度こそ彼女が崩れ落ちる。
その体をサクマは憎々しげに手前の穴に蹴り落とすのをスローモーションのようにゆっくりと動く一部始終をマナトは見ていた。
走りながら。
何か考えるよりも先に体が動いていた。
大した穴じゃない。幅は一メートルぐらいだ。
それでも間に合わないという予感はあった。
それでも、
マナトが渾身の力を込めて踏み込んだ足元は一緒に崩れたが、手は届いた。
血だらけの上着を身体を掴み引き寄せるという離れ業までしてみせたことに、サクマは少し感心した。
二人が落ちた音は聞こえなかった。
サクマは刃物のような手を打ち鳴らして笑っている自分の≪名無し≫を疎まし気に一瞥し、穴に視線を移した。
「落とし穴だよバァカッ!見えてるとこだけだと思って安心してたんだろ。このド低能が!ざまあみろ、アタシをコケにするからこうなるんだ」
そうやってひとしきり嘲笑うと、穴の上で杖を構えたまま少し考えた。
穴はかなり深い。暗いからわからないが、物を落とした感触では相当深い。
落ちればただでは済まない。そもそもそれを計算して待ち構えていたのだから当然だ。
石でもあればありったけ落としてやりたかったが、あいにく見当たらないのが残念だった。
「よし」
にこりと笑い、杖を掲げる。
使う呪文は何にしようかとワクワクしながら考える。
穴に向かって魔法を放つのは初めてた。
初めて人間を殺した時もこれぐらいわくわくしただろうかと考えても、その時の気持ちは思い出せなかった。
「まあいいや。デルム・エル・ヘン・・・・・・」
魔法を唱えようとして口を開いたが、溢れてきたのは生暖かく鉄臭い液体だった。
体に重い衝撃が伝わってきて、少しかかってそれを痛みというものだと思い出す。
魔法使いに鞍替えしてから、ほかの連中を盾にし相手を散々痛めつけてきたが、怪我一つ負わなかったというのに、いまさら
「ごふっ」
よろめきながら振り返ると、見知った顔が短剣を握って立っている。
赤く染まった刃先とそいつの顔を見比べて、やっと自分が刺されたのだと思い当たり怒りがこみ上げてきた。
誰であろうと自分を傷つける奴は許さない。そうやって生きてきたのに、
「てめ・・・っ」
周囲を見渡すと、犬のような姿の≪悪霊≫に自分の≪名無し≫が食いちぎられているのが見えた。
「ダメだぜぇサクマ、いやきっとお前の名前はサクマじゃねえんだろうな。どこで拾った名前だ?おおかたオルタナに来たばっかりの新兵ぶち殺して名前を盗ったんだろうな。まさかこのタイミングしっぽ出すとは思わなかったけどよ」
男はにやにやと下卑た笑いを浮かべながら、もう一度サクマを刺した。
生暖かい息を吐きかけられ、サクマは顔を歪ませ言葉を吐こうとしても溢れるのは血だけ。
「苦労したぜぇサクマ。お前はいつだって一人じゃなかったからな。けど、ドジったな?間抜け。町中ならともかく、ワンダーホールで独りになるのを選ぶとはなあ」
あふれんばかりの乳房で守られている肺や心臓は避け、みぞおちにするりと差し込み捩じりながら引き抜く。
サクマは目を大きく見張り傷を押さえながら、自分のエレメンタル加工された短剣を抜こうとした。
引き抜いたはずだった。
「案外オマエの事気に入ってたんだぜ?だけどなぁ。魔法使いが、暗黒魔法使っちゃダメだろ?逆だったらよかったのになァ」
地面に白い蛆虫が落ちていく。
ぴくぴく動いているのは自分の指だと気がついたときには、腕も落ちていた。
「なんでバレたのかわからねぇ、って面だな。まぁそうだろうな、町中に死体がありゃあ、辺境軍共がすぐ燃やす。義勇兵の死体なら尚更だ。外なら獣が食い荒らすしな。誰もお前の仕業とは思わねえ」
どすんともう一度切っ先が腹にめり込む。
「まぁ時間もねえし、ネタバレしちまえば死んだはずのお前のツラを覚えてたヤツがいただけって話だ。化粧を濃くしても、女の眼はごまかせないってことだな。そいつはお前に直接聞かずにギルドに確認するだけの分別があったのが、お前の不幸だったな」
サクマと名乗っていた女は深いため息をつく。
うまく立ち回ってきたはずだった。当時の顔見知りは全部殺したし、嗅ぎつけられそうになればうまく始末した。
完全に顔見知りがいないとかえって怪しまれると思って男も切れないように気を配ってきて
「スカルヘル様は嫉妬深いから、仕方ねえよな。じゃあな、裏切り者」
自分が殺した男と同じように首を掻っ切られる寸前、―――は最期に、自分の悪霊に名前を付けてやれば良かったと思った。
***
それがいつだったのか、覚えていない。
ありふれていて、毎日そんな日々だったような気がする。
暖かくて穏やかで微睡むような日々。
みんながいる。
ハルヒロもシホルもモグゾーもユメもランタもマナトもいる。
食べているのは半分は買ったもので、もう半分はモグゾーと作ったごはんだからとびきりおいしい。
けしてすごく豪勢っていうわけじゃないけど、自分たちの得たお金で買ったものだし、みんなが満腹するほど食べれるんだから、それで十分。
モグゾーが買ったものを一口食べて、なんだか作れそうだと呟くと、シホルが嬉しそうな顔で何度も頷いて楽しみにしてるって言う。
褒められていることに焼きもちしたランタが減らず口を叩き、ハルヒロが微妙なツッコミをし、さらにユメがまぜっかえしてみんな笑う。
なのに君だけが笑っていない。
だから、これは夢なんだと気がついた。
実際にあった出来事じゃない。ただの夢、虚しい願望、悲しい希望に過ぎない。
けど、もしも叶うというなら、アタシは何度だってきっと―――
「アイラ?」
「ぅ・・・ん・・・」
彼女は朦朧としたまま目を開こうとした。
周囲は仄かに明るく朝焼けのような温かさがある。
眩しいのでちょっと寝返りを打つと体がぎしぎしひりひりと痛んだ。
少し、疲れた。もうちょっと休みたい。誰か許してくれないだろうかとぼんやり思う。
「・・・・・・あと五分」
「五分でいいなら、いいよ」
反射的な言葉に優しい回答が帰って来て、アイラは明確に意識が戻った。
腕をついて体を起こすと、泥で汚れた顔のマナトが心底安心した顔をして座っている。
座っているというか・・・・・・。
「もしやとは思いますが、膝枕してもらってた系?」
「ああ、ごめん。他に枕になるものもなかったしさ」
「いえ、むしろありがとうございます?」
てきぱきとした動きで体を上げて、律儀に正座になって頭を下げるアイラに、マナトはこらえきれずに少し笑った。
「重かったでしょ、ごめんね」
正座を崩さないまま済まなそうな顔をするアイラにマナトも姿勢を変えて胡坐を組む。
「そんなこと、気にしなくていいのに」
「そういう問題じゃないの」
マナトはなぜか怒られたが理解できなかったが、不思議とそんなに悪い気はしなかった。
お互いの怪我の状態を再確認してから、マナトはほっと息を吐く。
細かい傷はあるものの、今すぐに命に関わるような怪我はない。
「俺また魔法力切らしたみたいでさ、全然使えないんだ」
「あの状況じゃね。私もかなり微妙」
マナトの言葉にアイラは軽く頷き周囲を見渡した。
泥だらけで血塗れ。食料も水も心もとない。武器も念のために仕込んである小刀一本。
即席の武器はどう作ろうかと半分考えながら軽く頷いて見せる。
長い棒とかほしいところだ。
「じゃあもうちょっと良さげなところ見つけたら休憩しよ?少し寝た方がいいよ私が見張りするから」
アイラはできるだけ明るい表情を心掛けつつ、血の付いた自分の腕を見ながらゆっくりと息を吐いた。
耳を澄ましても生き物の気配はない。腐った臭いも生臭いのもなし。
ただし滑らかで乾いた地面、斜め上の方から明るい光が差し込んでいる。
「あのさあ、・・・・・・あの明るいのって、何?」
アイラの指差す方向をマナトも向き、少し首を振る。
「さぁ、ヒカリバナかな」
逃げて怪我を治すのに必死で、あまり気にしていなかったが、確かに明るい。
「それにしちゃ明かりの種類が違くない?けど、外・・・ってわけでもないよねぇ?」
「かなり地下だから、そういうことはないだろうね」
二人顔を合わせて、どちらともなく立ち上がった。
お互い明るい所でみれば本当にひどい姿だ。血と泥でまみれた衣類の大半が刃物や爆風でちぎれている。
「とりあえず、歩いてみない?」
「・・・・・そだね」
マナトの提案にアイラも頷いた。
少しでこぼこしているが、歩くのにそれほどの支障はない坂道を登っていく。
暗闇の道に比べれば、大したことはない。
「そーいえばさぁ、私、サクマに落とされたよね?なんでそっちまでいるの?逃げられたでしょ。ひとりなら。」
マナトは前を向き黙って見つめたまま少し頷く。
それをみて、アイラは心底呆れた顔をした。
「いや、逃げなよ。アホか、あのさぁ、今ここがどこかわかってんの?出られるかもわからないのに、何考えてんの?バカじゃないの?」
「二度も見捨てるわけいかないだろ」
彼女の言葉にマナトは自嘲的な笑みを浮かべた。
「君を見捨てて逃げるのは、一度で十分だよ」
「は????いつ?何の話」
眉を顰め、低い声で問い返すアイラにマナトは俯き、左指を鉤爪のように曲げてずたずたになった胸元を掻き毟った。
泥で汚れた肌から血が滲む。その辺りには、もう白くなったりかさぶたのようになった同じような傷がいくつもある。
「ゴブリンから、俺だけ逃げた。怪我してる君とハルヒロを置いて」
アイラは足を止める。
わずかばかり行き過ぎてから、今までのように浮かべていた表情のままマナトは振り返った。
アイラは不審そうな表情を浮かべて彼を見ていた。
「ね、逆。そっちが怪我治ったばっかりで具合悪いのにゴブリンの囮になってくれたおかげで、私とハルヒロが逃げられたんじゃん」
眉を顰めるアイラにマナトは首を振る。
言い訳は好きじゃない。
だけど、聞いてほしいのか許してほしいのか。わかってほしいのだろうかと自嘲しながらマナトは微笑んでみる。
「違うよ。俺は――戻らなくちゃいけなかったのに、戻らなかった。あのとき・・・あの日、あの後俺はゴブリンに追いかけられて、オルタナの町のすぐ近くで殺されそうになったんだ。だけどサクマがゴブリンを倒して、・・・・・・気がついたらもう深夜で。サクマはもうみんな死んでるって言って、俺はそれを確かめるのが怖くて逃げたんだ」
彼の表情を見て、アイラは頬の内側を噛んだ。
きっとそれだけじゃないはずだ。残念ながら、マナトはそんな簡単な男じゃない。
けど言いたくないなら、言わなくたっていいよと思った。
言わないことが辛いなら、いつか誰かに言えるようになれたらいいとは、思うけど。
「アタシは待つより、自分の命を優先したんだから。何も言う資格ないよ。あえていうなら、神官が囮をするなんて、どう考えても間違ってたって事だけ。
わかってたんだし。アタシは絶対に賛成するべきじゃなかったんだから」
聖騎士なんだから。
本当はパーティは7人で組んだりしない。
義勇兵事務所の前で声をかけなければ。
きっとモグゾーはハルヒロが心配して仲間に入れて、お節介で、なにかとしゃしゃりでる邪魔者の自分さえいなければ、今だって6人でちゃんとやって行けたかもしれないのに。
きっと6人で助け合ってやっていけたのに。
短く息を吐いてアイラはなめらかな岩壁にぺたりとてのひらをつける。
少し、支えが欲しかった。
「大体ね、ひとりくらい別にいなくたってどうにでもなるの。人間なんか、いくらでも代りがいるんだから。神官のくせに責任感じすぎ気負いすぎ。自意識過剰なんじゃないの?あんたがいなくたって、みんな何とかやってけるんだし。・・・アタシだって、アンタがいなくて、つまんなかっただけだし」
そういって、アイラは皮肉気に笑って大股で歩き出す。
別に嘘じゃない。
けどそのことを並び立ててめそめそしたって意味はない。
自分より辛い思いをしている人間はたくさんいる。自分なんか、大したことはない。
それに、きっといつだってマナトにとって自分は、笑って皮肉を言うくらいがちょうどいいはずだ。
強くなきゃいけない。でないと隣に立って対等になることも、前に立って庇うこともできないから。
顔を上げて目指す方向は、明るさがどんどん増している。
どんな光景が待ち受けているとしても、聖騎士が神官の後ろに立つわけにはいかないと、光の差す方向へアイラは迷わず進んだ。
暗闇を抜けた先にあったのは、岩ばかりが目立つ荒涼とした大地だった。
見覚えのない風景に戸惑い立ち尽くし、慌てて周囲を見渡す。
僅かばかりの茂みすら、生えているのは見たことのない草木だ
「なに、ここ?」
冷たい風に吹かれ、寒さに体を竦める。
わけがわからなくて混乱する。こんなこと、想像していなかった。これからどうしよう。
恐怖で体が強張る。
何とかしなくちゃいけない、アイラは震えを隠そうと腕を組んだ。
「ここ風早荒野?全然見おぼえないかも。わかる?」
半歩後ろを歩いていたマナトが横に立ち、空を見上げた顔を寄せて囁いた。
「ねえ、みてごらんよ、空」
不安で強張った顔を隠すようにアイラも空を見上げ、眼を開き感嘆の息を漏らす。
見上げた空は青紫、橙に染まった薄い雲は風に引き伸ばされまばらに引き千切られていく。
胸が痛くなるほどに美しい空。
先ほどまでの恐怖心を払拭しても余りあるそれに、アイラは心を奪われ呆然と立ち尽くしていた。
隣で柔らかく微笑む気配がして、我に返り二人は顔を見合わせる。
「凄く綺麗だね」
「うんっホント、きれい」
マナトは自分でも驚くほど穏やかな気持ちでもう一度空を見上げる。
そしてふと気がついた。
強い風にあおられる髪を押さえながら遮るもののない広い空を見渡しても、光の源である太陽の姿は見えない。
ならばと月の姿を探しても、淡い色合いの空に浮かぶものは雲の他には何もなかった。
マナトは疑問で微かに眉を寄せる。
唐突に、異世界、という言葉が浮かんだ。
ワンダーホールの地下奥底は異世界につながっているという噂があった。
かの有名な義勇兵もそれを求めてワンダーホールを探索しているという話だし、あながちあり得ないことでもないのだろう。
恐らくそうだ、ここは確かにグリムガルではない。
ではさしあたって考えるべきことは・・・・・・。
「今は、夕暮れ、なのかな」
「暗い所から出てきたんだから、これから明るくなるのかもよ」
アイラの冗談交じりのふざけた口調につい笑いを誘われる。
「うん。そうだね。夜明け前なのかもしれない」
たしかに、これから月も星もないまま暗くなるよりは、明るくなる方がいい。
条件反射のように同意する自分に、少し前までは嫌悪を感じていた。
腹の中に蟠るどす黒い絶望感と、それでも生きることを諦められない、自分の生き汚さに。
明るい空の下でよく見れば、朗らかに笑っているがその実はかなり消耗しているのが分かった。
いつもそうだった。
あまり体力がないのに重い装備を身に着けて剣を振り回しているから、帰り道ではいつも今にも崩れ落ちそうなほど疲れ果て。
みんなの手前、皮肉やジョークでごまかして意地を張っていた。
そういえばと、記憶の奥底の箱をひっくり返すと、溢れ出すのはたわいのない言葉ばかり。
共に過ごした日々は短くとも、自分の中ではみんなの比重がずいぶん多かったのだと、マナトは今更ながら驚いた。
ならば・・・やる事は決まっている。善は急げだ。
青ざめた顔に疲れた笑みを浮かべるアイラの肩にそっと触れるとやけに驚いた顔をされて、それが妙におかしい。
「じゃ、そろそろ帰ろう。オルタナに」
あたたかな光に照らされたマナトはそう言って、爽やかに笑った。
***
「前さ、モグゾーが作ってくれたおむすびおいしかったよね」
「ああ。・・・・・・そういえば、そんなことあったっけ」
懐かしさに目を細めると、嬉しげに頷かれる。
吹いてくる風は微かに甘い。
「ハルヒロ達、まだ義勇兵舎で泊まってるみたい。サイリン鉱山に通ってるんだって」
「そうなんだ。頑張ってるんだな」
「巨人は見た?」
「覚えてないな」
「凄いらしいよ。辺りの動物がみんな逃げちゃうんだって」
「あ、巨人」
「えっ!?」
「ウソだよ」
「流石腹黒神官黒い・・・・・・あっ」
「えっ?」
「うっそー」
「偏屈聖騎士」
「竜鳥に乗った?」
「いや」
「試しに乗ったらね、お尻がすごく痛くなってなんか色々きつかったからたくさん乗るといいよ!」
「ははは。いやだよ」
「そういえばね、南町の職人通りにオデン屋っていうのがあるんだけど、すっごくおいしいから帰ったら行くといいよ。ハルヒロ達と」
「君は誰といったの?」
「レンジさん」
「は?二人で?」
「二人じゃないし。アダチ君とレンジさんの三人だし」
「なんでレンジだけさん付け」
「そう呼ぶとあの鉄皮面が微妙に嫌そうな顔するから」
「・・・・・・」
「そういえば俺、ハルヒロ達と飲みに行く約束してたんだ。怒ってるだろうな」
「あー怒るわそれ。完全におごりだわ。頑張ってねぇ」
「全然スキルも覚えてないからさ、ルミアリス神殿にもいかないとならないし。また大声で怒鳴られるのかと思うと気が重いよ」
「やーい」
「そうだ思い出した。髪飾り買う約束もあったね」
「そうそう。高いの買ってあげて」
「そうだね」
たわいのない話をしながら風早荒野を歩いていく。
高い声で鳴きながら飛ぶ鮮やかな色をした鳥の姿に気がついて、マナトが足を止めると少し前を歩いていたアイラが後戻りして横に並んだ。
「どうかした?」
「春なんだなと思って」
そういってマナトが眩しいものを見るような顔をするので、アイラは訝しく思いながら周囲を見渡した。
辺りに敵の気配はない。
緊張を隠す微笑みを浮かべて、マナトに合わせて頷いてみせる。
「そうだね」
横に並んだ肩は、記憶にあるよりも少し高い位置にあることに少し驚き、暗闇の中でもそう思ったことを思い出してアイラは少しだけ顔を崩した。
「・・・マナトは、ちょっと背が伸びたよね。ちょっとだけだけど」
「そうかな?」
思いがけないことを言われ、マナトは思わず視線を逸らした。
視線の先に、淡い色をした花がひと群れ咲いている。
「ねぇ、見てごらんよ。花が咲いてる」
マナトは細い肩を叩いて指差す。
摘んだところですぐに枯れてしまうのが分かっているから、指し示すだけで十分だ。
視界の隅で揺れる深い色をした髪だって、ずいぶん伸びている。髪紐は似合うものをゆっくり探そうと思った。
「ほんとだ。そうか・・・もう春なんだ・・・・・・」
どこか呆然としたように呟き、風にそよぐ花をしばらく見つめていたアイラはわずかに俯いて歩き出した。
「ね、いこ。何か出たら、困るし」
足早に歩く様にマナトは少し驚いてしばらくその背中を見送っていた。
どこかで獣の鳴く声と小鳥の囀りが聞こえ、がむしゃらに前へ進もうとする靴音ばかりやけに耳につく。
マナトは少しばかり我慢して、そのうち辛抱しきれなくなったので大股で歩いて彼女に追いつくと、手を伸ばして濡れた頬を拭ってやった。