「ねぇ、アーウェルンクス君ってさ、好きな人いるのー? 」
それは、僕がこの街に来て一ヶ月を過ぎた頃の出来事だっただろうか。
社会、という歴史から現在の政治組織の構築までをも学ぶ、比較的まだ意味のあるものだと感じる曖昧な名前の授業が終わった後、教科書の端を合わせていた僕に向かって、確か同じクラスであった少女が声を掛けた。
小学校という年齢も精神も幼いものの為のこの学舎は、僕には騒がしく窮屈であまり他人とは関わろうとしていなかったが、こうして無遠慮に話し掛けてくるものはいる。
同じ場所で学んでいるという事実一つだけで、お互いの距離が近いものだと勘違いしているのだろうか。転校したての時は次々と机に人が集まるので、鬱陶しくて仕方がなかった。
その時の対応がつまらなかったからか、その後僕に声を掛けるものは一気に減ったが、ともかく、こうしてたまに声を掛けるものはまだいる。
僕はとんとん、と教科書で机を叩くようにしてから、それを机の中にしまいながら応える。
「いない」
この少女が言う好きな人、とは、他者に恋慕の想いというものを感じる人がいるか、という問いなのだろう。
人間、というよりも生物として、自分と異なる性別のものに惹かれ、ことを成すことが種の存続として必要であるのは知っている。
だがそれは僕には当然関係のない話であるし、そもそも万が一にも思い当たるものがいたところで、知り合いとも呼べないほどのこの少女に話すことではない。
僕の答えが素っ気ないものだったからか、少女は少しむっとした様子で前へと身を乗り出した。
「でも! この前トーコちゃんが見たって! アーウェルンクス君が年上の女の人と歩いてるところ! 」
「……年上の女の人? 」
「年上というか、中学生の! こうやって、髪を結んでる人! 」
少女が自分の髪の両サイドを両手で掴んだのを見て、それが明智 うい だということにようやく気付いた。
そう言えば、この少女達からしたら彼女は年上に当たるのか。僕にとっては多少の年の違いなど大した括りには思えないし、彼女の精神年齢が低いこともあってか、あまりそう言う実感がなかった。
「歩いていたかもしれないけれど、それが何か君に関係あるのかい? 」
その、トーコちゃんという者にいつ見られたかは分からないが、確かに彼女と共にいることは多かった。たまたま出会ったこともあったし、小学校の門の前で待たれたこともある。そんなときはいつも僕から何か言う前に、彼女は無理矢理僕を連れ回していた。
しかし、決して彼女とそのような話はしたことないし、そんな意識を僕がする訳がなかった。
だからといって、僕らの間がどんな関係かと言われたら、僕自身が首を傾げるしかないのだが。
「あの人は、君のお姉さんとか? 」
「違う」
「でも、その人はアーウェルンクス君のことが好きなのかもよ? 恋人ではないの? 」
いい加減にしつこい少女にうんざりとしてきた。何がしたくて僕にそんなことまで聞いてくるのか。
「違う」
もう一度同じように応えると、少女は、そっか、と何故かどこか安心した様子で呟いた後、それだけ! 、と頬を緩めてから僕の側から去っていった。
厄介事が去ったことで、自然と溜め息がでた。
幼い者達は、他人との距離の計り方が雑だ。自分がいいとすれば、どれだけでも他者に近付けると思っているし何をしても良いと考えている。それが、僕にとっては好ましくなくて、小学校という場所は柄に合わないと何度も思った。
それでもここに通っているのは、麻帆良にいたいのならば学校ぐらいは行ってもらわねばならんのぅ、と茶目っ気を込めた顔をした学園長に言われたからだ。
魔法世界の上層部を操作してこの街に正式に居られることまでは良かったが、まさか魔法生徒という扱いになるとは思ってはいなかった。
上には逆らえんが君にはちょっと面白い目にあってもらおうかの、というあの老人の思惑がはっきりと見えていたため不快ではあったが、その程度ならと我慢したら想像よりも面倒な想いをしている。やはり、あの老人は中々狡猾な存在なのかもしれない。
また誰かに声を掛けられても良い想いはしないな、と判断し、残りの休憩時間は屋上で一人にでもなろうとした。そして、静かに席を立って足を進めた所で、ふと、先程の言葉が甦ってきた。
―――『でも、その人はアーウェルンクス君のことが好きなのかもよ? 』
屋上へと向かう階段に登りながら、その言葉の意味を考える。
別に、彼女から好意を抱かれているだろうと、自惚れている訳ではない。
だが、もしかしたら彼女の行動の理由は、そういう意味を持つのだとしたら、ある意味納得は出来る。好意を持って欲しいという目的のため、彼女はいつも僕の側に来るということなんだろうか。
頭の中に、彼女の笑顔が浮かんだ。
フェイフェイ、と訳のわからない渾名で僕を呼ぶ声もした気がした。
打算などとはあまりに無関係な笑顔だ。
それに、僕からみたらだが、恋慕という表情ではないのは明らかに思えた。
――なら、彼女はなんで……。
あの笑顔は、どうして僕に向いている。
彼女は、どうして僕に近付く。
あの笑顔の答えはまだ、僕には見つけられない。
ここに来てから、一番不可解なのが彼女だった。
何か裏があっての行動の方がよっぽど分かりやすいのに、あまりにも単純そうな彼女からは、逆に考えが読めない。
彼女と近づいている内に、少しずつ、自分というものについても考えるようになっていた。
彼女はここの小学生と変わらないほどに、むしろそれ以上にぐいぐいと迫ってくるため、僕にとっては厄介である筈なのに、最近はそう思えなくなっている自分にも、気付き始めていた。
『――――おいしい珈琲淹れてお待ちしてますね。いつでもいらしてください』
あの時のことも、思い出してしまった。
珈琲を僕にくれた、あの人も。なんの関わりのない僕に、笑顔を向けていた。
○
彼女が啜るように泣く声は、止まない。
両手で顔を覆い、息を吸う度にひくひくという音が聴こえてきて、それが、どうしようもないくらいに僕の耳に残った。
涙する人の前に立ったのは久しぶりの経験であった。彼方の世界で作戦を実行している時、死に物狂いの兵士や戦闘から逃げる民間人が涙するのを見た覚えはある。が、それとはまた違った質に思えた。
泣き声とは、こんなにも胸をつくような想いにさせるものだっただろうか。憐憫の情に似通った感情が自分の中にあることははっきりと分かるが、そう思うまでの過程が分からなかった。彼女の涙が何故自分にとって重要なのかが、理解できなかった。
月光の下で、少し荒んだ建物の屋上に居座る僕と彼女。他の誰もいない。まるで、ここだけが世界から切り取られた空間となっている気すらした。
「……」
彼女の涙を見ていると、自然とこの街に来てからの風景を思い出されていった。
まだ短い時間ではあったが、その情景は頭の中に炙り出されるかのように浮かんでは、ゆっくりと消えていく。
僕が産まれてから今まで生きてきた中で、ここに来てからの時間なんて、ほんのちょっとだ。
それでも、幾つもの記憶が泡のように溢れ出して、それがパチンと消える前に僕の頭にしっかりとこびりついた。
『フェイフェイ』
その絵の中心にいたのは、彼女ばかりだった。
初めて会った時から、彼女はずっと笑っていて。
何の裏もないその表情は、あまりに率直で子供らしくて。
何故。という疑問を解消することが出来なかった。
笑顔の理由を、知りたかった。
それが僕に向けられることの意味を、知りたかった。
人形である僕は、主に作られて、使命を与えられて。それを全うするだけで良かったのに、こんな余計な思考が生じてしまう。体も、単純には動かない。
本来、この街に来た目的は、自分で力を取り戻そうとしている主の補助だった。明智 七海の魔力を感じれば、それが新しい依り代であることは察することが出来た。報告をすれば彼女の調査をデュミナスに命じられ、しばらくここに滞在することが必要となった。
そして、主が力を取り戻そうとしている今こそ、それを邪魔しようとしている者達の排除をすべきだろうに、僕はそうしていない。
この子の側を離れられない。
『テルティウム。お前は、私への忠誠や目的意識を設定していない』
いつか、我が主が僕にそう言ったことがある。他の使徒と考えの異なる自分に疑問を感じ、主に調整を申し出た時のことだ。
『お前はそれで良い。思う通りに動いてみよ』
主は、僕にそう言った。只の道具な筈の僕に、明確な命令を与えてくれなかった。
それでも、僕は主の意思に従っていた。
主の作る世界こそが、世界を救えると、そう思っていた。人形の僕が、幻で作られたあの世界を閉ざすべきだと。勝手で残酷な意味なき世界に、平等な終わりを与えることこそが、僕の使命だと、そう思っていた。
そう思っていた、筈なのに。
――どうして、僕は、彼女を無視できない。
「……一つだけ、訊いてもいいかい」
思ったよりも響いた僕の声に反応して、彼女は大きく一度嗚咽を飲み込んだ。それから、ゴシゴシと音が聞こえるほど力強く自分の涙を袖で拭き取って、なに、と聞き返す。
涙ながらも、僕の方を向いてもう一度、なに、フェイフェイ、と彼女は言う。
震える唇を無理矢理結んで、その大きな目に涙を溜めながらも、彼女はしっかりと僕を見つめていた。自分の状況も大変なのに、こんなときに声を掛けた僕に文句を言わず、じっと、彼女は僕の言葉を待っていた。
――どうして、君は。
「君は、どうしていつも僕を気にかけてくれるんだい」
彼女は。
ずびっと鼻を啜った。
自分の涙をもう一度吹いてから、呆気なく答える。
「そんなの、フェイフェイが好きだからに決まってるじゃん」
まるで何にも臆すことのない様子で、彼女ははっきりと続ける。
「私は、フェイフェイも、ななねぇも、お母さんもお父さんも、千雨ちゃんも、あすねぇも、あやねぇも、子供先生も、皆好き。大好き。麻帆良の街も、全部好き」
空を見上げた。闘う、自分の姉に、彼女は視線を向けた。
「だから、私は皆笑ってて欲しい。だから、あんな風になったななねぇは、私、嫌だ」
思わず、呆気にとられた。
が、すぐにその答えに納得がいった気がした。
彼女らしい、答えだと思った。
胸の中にあった霧がすうっと晴れていって、暖かい空気なようなものが肺を覆うような感覚がした。頬の力が、抜けそうになった。
彼女は別に、僕に特別な好意を描いている訳ではないのだ。
なんのことはない。彼女は、この世界に存在する全てのものが好きで好きで仕方がなくて、だからこそ、つまらなそうにしていた僕のことを放っておけなかったんだ。少しでも僕に笑って欲しいと思って、まずは彼女が笑顔になってたんだ。
彼女にとって、この世界は楽しいものに溢れたものに見えてるんだろう。それが例え偽物だろうが、幻だろうが、きっと彼女にとっては関係がない。
彼女は、自分の意思でそれを楽しいものだと感じ、自分の手で、それを素敵なものへと変えていって、そうやって、世界を作っている。
そして、僕にも、そんな世界の素晴らしさを、ずっと伝えようとしていたんだろう。
あの笑顔には、きっとそう言う意味があって。
そして僕は、それに影響を受けていた。
彼女の笑顔と共にあるこの世界が、悪くないものかもしれないと、心の底で思わされていた。
そんな世界の中で、どんなものだろうと真っ白であると信じて笑う彼女が、眩しかったんだ。
恋だ愛だの、そういう話ではない。人形だろうがなんだろうが、そんなことは彼女には全くもって関係なくて、ただ皆の笑顔を望む彼女に、僕が、ただただ惹かれていたんだ。
彼女を見る。真っ赤な目だ。涙の後もしっかりと残っている。
僕がこんなにも胸を裂くような想いだったのは、眩しかった彼女の笑顔が消えてしまったという、単純な理由なんだろう。
あの笑顔が、僕にとっては、とてつもなく貴重だったんだ。純粋に、自分と誰かを願った笑顔が、素敵だと、僕は、そう思ってたんだ。だから、その笑顔が曇ると、この世界までもが歪んでいくように、感じてしまった。
「……フェイフェイ? 」
彼女に近付きその頭の上に手をおいた僕に向かって、彼女はみっともなく鼻水をずぴっと吸ってから不思議そうに僕の渾名を呼んだ。
明智 七海は、言っていた。人にとっての正義と悪は、人それぞれでその人自身が決めていいと。自分にとって、自分や周りの人の幸せを願うことが、正義であっていいと。
――なら、僕は。
他の誰でもない。自分自身と、彼女のために。
「……心配しなくていい」
彼女の髪をすっと撫でる。
「君の姉は、僕がどうにかしよう」
主には、申し訳ないと思う。
だが、僕には、もっと重要なことが出来た。
「……フェイフェイ、今、笑って―― 」
彼女が言葉を言い終わる前に、僕は地面を強く蹴って、空へと向かっていった。