重々しい瞼を、ゆっくり持ち上げる。淀みのある動きであった。意識もまだはっきりとはしない。
僅かに開けたぼんやりとした視界から、この場所をひっそりと確認する。
ここはまるで、影の中だった。
想像よりもずっと暗く、濃厚な灰色の光がどんよりと包み込んでいる。荒れ果てひび割れた地面には、緑の自然が入り込む余地など当然感じられない。
これでは目を閉じて見える風景とそう変わらないではないか。
陰鬱とした空気が流れているのを肌に感じ、ぞっと皮膚が泡立ったのを実感した。目を開けているのすら辛く、私は、もう一度視界を閉ざそうとするが、そこで、なんとか思い止まった。
……ここは、どこだ。
おぼつかない思考を段々とクリアにしていこうと、頭の中で疑問の言葉が加速する。しかし、まだ意思が薄れているからか、疑問に対する答えは一切浮かばなかった。磨りガラスの向こう側を一生懸命に覗いてるような気分になる。
目線を左右にし、手を動かそうとした。すると、ぎぃ、ぎぃ、と軋むような音が静寂としたこの空間に鳴り響いた。
どうやら、私の手は何かに抑え込まれているらしい。次は足を動かそうとしたが、同じ結果が得られた。背中には、ごつごつとした感覚がする。もしかしたら、何か大きな物にでも縛りつけられているのだろうか。
……眠ってしまおうか。
自分の行動を制限され、頭すら満足に動いてない状況で、私のやれることは何も思い付かなかった。ならば、もう意識を失っても良いだろう。誰も文句は言うまい。
濃霧の掛かったような眼前に黒い幕を下ろそうと、目を閉じる。スリープ状態に陥ろうとしている電子機器のように、徐々に脳はシャットダウンをする準備をしてく。意識が飛ぼうとしていた。
が、そうはいかなかった。
ぴりり、という小さな、ほんの小さな痛みが、神経から走り直接私の胸をつついているのを感じたのだ。
……まだ、駄目だ。
何故かは自分でも分からないが、眠ってしまってはいけないと感じた。
どれだけ瞼が重くのし掛かってきても、この眼を閉じてはいけないと思った。そう、誰かが言っているようにも聴こえた。
……何故、踏ん張る。もういいだろう? 何のために耐える。眠ってしまえばいい。
頭に直接声が響いた。
それが何なのかを考えることもできない、朦朧とする意識の中、私は辛うじてほんのちょっぴりだけ首を横に振った。
……いや、駄目だ。眠る訳にはいかない。
口を開けたわけではない。頭に響いた声に応えるように、私は強く自分の言葉を念じた。
少し間を置いてから、また言葉が返ってきた。揺さぶるようなその声により、軽い頭痛がした。
……分からんな。何に希望を感じている。この世界に、救いがあると思うか? ここに、何が見える。ここにはもう、何もない。
低く、粘りつくように聴こえる声は、私の意識を引っ張っていた。
この世界に拡がる景色を再び見る。
暗く、寂しい世界だ。まるで重力を持っているかのように重々しく吹く風は、泥々とした闇を砂塵の如く舞い上げる。渇いた空気が、私の周りをぐるりと覆うようにした。
諦めろ。
やめてしまえ。
そんな類いの言葉が砂塵ともに私にまとわりついて、この意思を刈り取ろうとしているのを、確かに感じた。
心が、徐々に侵食されていく。考えることが、だんだんと苦痛になっていく。
……本当に、ここには何もないのか。
こんなに。こんなに寂しい世界が、この世にはあったのか。
……ああ。
救いようがなく、ただ絶望だけを助長するようなことが、この世にはある。
ならば、もう。
……もう、いいのだろうか。
諦めの籠った私の意思に、強く、頷いているかのように、声は返事をした。
……ああ。もう、いいだろう。
囁く声には、もはや優しさすら込められている気がする。
私は――何故。
何を、何のために頑張っているのだ。こんなところにいるのならば、楽な方に身を任せて、委ねてしまえばいい。
そうするのが、きっと、一番楽だろう。
そう、決心して、目を閉じた時に、胸の底に、どす黒い泥が勢いよく流れ込んできた。木々を薙ぎ倒しながら流れる川の濁流のように、荒く激しい勢いが身に染みる。
私はもはや、それすら心地好いと、感じ始めていた。
○
自分の眼鏡に映るあの光景が普通ではないということは、すぐに分かった。
私は、色んな非日常を目にしてきた。
馬鹿みたいな運動能力を持つ学生達。アホみたいにデカイ木。この間は、ついに幽霊の存在まで確認してしまった。 しかも、それがクラスメイトだと言う。自分で言って笑ってしまうほど、可笑しな話だった。そういえば、私達の教師は小学生並の年齢の人だった。
この世は可笑しなことだらけだ。
昔は、そんな現実味のないモノが、嫌いだった。テレビや本の中が普通なのに、現実の方がファンタジーに近かった。どうして私の周りだけ普通じゃないのだろうか、と何度も頭を悩ませていた。
でも、最近は違う。
麻帆良の無茶苦茶さを、非日常さを、段々と受け入れることが出来るようになった。
ガキみたいな教師にも、幽霊やロボットのクラスメイトにも、嫌悪感を感じることはなかった。この無茶苦茶さに諦めをつけたから、という訳ではない。
こんな世界もいいかもしれないと、気付けるようになったんだ。
非現実的で、あほらしくて、馬鹿みたいでも。そんな世界をあのクラスで過ごすのは良いかもしれないと、思えるようになっていた。
だから、さっきの世界樹の光を見て。金と銀に輝く世界樹の光を顔に受けながら
――あぁ。こういうファンタジーも悪くないじゃねぇか。
そう、一人で小さく微笑みながら見ることが出来た。
それも、この麻帆良という土地を私が少しずつ好きになれたからなのかもしれない。
……しかし。
私は首を上げて、上空に浮かぶスクリーンを再び見る。
そこに映るのは、学園長と、知らない青年と、私の知り合いが二人。そのうち一人は、私が仲が良いと胸を張って言える数少ない人物で、その彼女が、まるで他のものと敵対するかのように位置している。
明智が腕を振ると、激しく何かが光だし、それこそアニメで見るもののような、ビームが勢いよく打ち出された。それを、他のもの達が避ける。
近くにいる観客が、おおっ、と歓声を上げた。周りの皆は、これを只のイベントと捉えているのだろう。
だが、私には分かる。分かってしまう。
これは、そういうものじゃない。あそこにいる人は全員本気で、それと闘う明智も、本物だ。
今まで、散々意味の分からないものは見てきたが、あんな創作物に出てくるようなバトル展開までもがこの世界にあるとは思ってもみなかった。アニメや漫画でよくあるその闘いを、昔なら強く憧れたかもしれないが、今はそんなことを思ってもいられなかった。
「――っ千雨さん! 」
「……委員長か」
私の後ろから力強く肩を掴んだのは、誰が見ても分かるような不安で歪んだ顔をした委員長だった 。
呼吸と共に上下する胸は、彼女が咄嗟に全力で動き出したことを示していた。額には汗が光り、彼女を印象付ける綺麗で潤いのある髪が、今ばかりは乱れている。
――委員長も、気付いているのだろうか。あれが、明智が普通ではない、ということを。
「……千雨さん。あれは、本当に七海なんですよね……? 」
彼女の視線がスクリーンに向く。その横顔にはいつものような自信満々な色は一切なくて、ただ強張った表情だけが残っていた。
「……わからん」
首を振って私は答える。
本当に、分からなかった。何が起こったら、明智がああなるのか。あんな、薄暗く不気味な顔をした彼女は今まで見たことがなかった。
私は、あれが明智だと、思いたくなかった。
私の返事を訊いても、委員長はその表情を変えなかった。きっと、彼女の中には既に漠然とした答えがあるのだろう。あれは確かに明智だけれど、何か大変なことが起こっていて、変わってしまったのだと。委員長は麻帆良に起こっていた不思議な事は分からないだろうが、仲が良かった明智のことだけは、勘付いたのかもしれない。
「……助けましょう」
委員長は震えが混じりながらも決意の籠った声でそう言ってから、 その唇をきゅっと結んだ。
「……助ける? 何をいってんだよ」
「千雨さん! 貴方ならわかるでしょう! 七海を、救うのですよ!」
「助けるっつっても、どーすんだよ」
淡々と言った私の言葉を否定だと感じたのか、委員長はきつい目で私を見る。その目は、少し赤みがかっていた。
「分かりません……!分かりませんが、このままではいられませんわ! そうでしょう!? 七海が、あんなことになっているのですよ! それなのに、何もせずにこの場にいられるんですか!? 」
半ば悲鳴とも言える叫びだった。見損ないますわ、という言外の意味も私にぶつけているかのような言い方だった。
迫り来る委員長に対して、今度は私が彼女の肩を勢いよく掴む。
「……っ! いれるわけ、ねぇだろうが!! 」
肩を掴む自分の手が震えていることに、ようやく気付いた。
怖かった。
不安だった。
友達が変わってしまったことを目の前にして、恐怖が私を覆っていた。何も知らないということが、怖かった。今まで何も感じずに楽しんでいた日常が訪れなくなるという可能性を思うと、不安で仕方がなかった。
それを振り払うかのように、私も大声を出すしかなかった。
「私だって……! 私だってなぁ! 何が起こってるかなんて、一つもわかんねぇんだよ! 何なんだよ! なんであいつがあんな目にあってんだよ! 私は、友達が大変な目にあってんのに、何にもわかんねぇんだよ!
でもだからってどうしろってんだ! 」
どうしたらいいかが、分からなかった。
「あんな空の上で! あんな闘いをしてるあいつらに私らが出来ることがあるかよ! 私らに何ができるってんだよ! 」
無力だった。
私は、ただただ無力でしかない。
人外のような運動能力がある訳じゃない。賢い訳でもない。ちょっとひねくれた一般の女子中学生でしかない。
どう考えても、あの場に私らが交わることは不可能だ。
――こんなことならば。
不意に、そんな思考が頭に過った。
こんなことになるならば、私もこの麻帆良にある不思議な力が欲しい。明智が教えてくれた、麻帆良の昆虫が持つような、不思議パワーのような物があれば、それを手にしたかった。
何かを、変えてみせるような力が欲しかった。
でも、現実にはそんなものは持っていない。アニメや小説のキャラクターにどれだけ憧れようと、私達が彼等のようになることは不可能だ。私は結局、ここで震えているしかないのだろうか。大事な、大切な友達が辛い目にあっているだろうに、何も出来ない。
ひねくれた私を救ってくれた、窮屈だった世界を拡げれてくれたあいつに、私は何の恩返しもできない。
唇が僅かに揺れていて、頬に水滴が流れるのを感じた。自分の弱さを恨めしいと思ったのは、初めてだった。
「千雨さん……」
くそ、くそ、くそ、と小さく呟く私。
弱い自分が、憎くてどうしようもなかった。
委員長はそんな私の呟きを噛み締めるように訊いていた。
委員長の肩を掴んでいた私の手は、力無くずり落ちていって、私の元にぶらりと帰ろうとする。
――委員長は、そんな私の手を、拾い上げるようにとった。
「……千雨さん。まだ、諦めるには早いですわ」
「……私達に、何ができるってんだよ」
いつまでも唯を捏ねる子供を慰めるかのように、委員長は優しく語りかけるようにする。
「私だって、何ができるかなんて一個も分からないですわ。それでも、このまま諦めてはいけないということは、分かります。千雨さん、もがきましょう」
私は、下げていた視線を上げて、彼女を見た。
「分からないだけで、やれることがないと決まった訳ではありませんわ。もがいて、もがいて、もがきましょう。それで駄目なら、なんて考えるつもりはありませんが、しかし、ここで立ち竦んでいるだけでは、必ず後悔しますわ」
彼女の顔を見た。私を元気づけようと、無理矢理に笑顔を作っている。
自分だって、相当辛い筈なのに。明智をあんなに慕っていた委員長が、あんな明智を見て不安を感じない筈がないのに。
それでも、こいつは目の前の私をまず気にかけていた。
委員長のその強さを、眩しく思った。凛々しくて、立派な強さだと思った。
それなのに、私は……。
弱い自分を呪うばかりで、立ち上がろうとしていなかった自分が、恥ずかしく、どうしようもなくみっともなく思えた。
「――私は……」
「貴方達に出来ることは、ちゃんとあるヨ」
私達二人に向かって、突然一人の少女声をかけた。
「……超、さん? 」
振り向けばそこにいた超は、私達に手を差し向けた。
夜風に髪を揺らされながらも、超は力強く言葉を続ける。
「力なんてのは、必要じゃない。そんなものなんて、本当に大切なものじゃないヨ」
私の想いを読んだかのように、彼女は、私の求めていたものを、はっきりと否定した。
「本当に大事なものは、もっと、もっと根本的なものだヨ。二人とも」
涙ぐむ私達を気にする様子もなく、超は、ゆっくりと独りで頷く。
「貴女達二人に、頼みたいことがある」