七海の薬を改造していた女は、その濃度を著しく上げたものを完成させた。どのようにそれの安全性を考慮したかは分からないが、日が落ちているのを見て残り時間の少なさを心配したのか、女は勢いよく自らそれを飲んだ。
女は飛ぶように意識を失った。おそらく、世界樹の世界、という所に意識を持っていかれたのだろう。それなりに心配した私がとりあえずベッドまで運んだところで、女は息を荒くしながら目を覚ました。
「……エヴァちゃん。すぐに、あの人の所へ行って」
「……!? 一体どうしたというのだ。詳しく説明しろ」
「あの世界には、今は一人しかいなかった。その人は私の知り合いで、いい加減な感じがあまり好きではないし、こんなところにいたのか、とか色々思うことはあったのだけれど、今はまぁそんなことはどうでもよくて」
女は焦っているからか、らしくない話し方をしていた。落ち着いて要点だけを言え、と伝えると、女は一呼吸ついてからゆっくりと言った。
「彼が言うには、今、あの人は他の人に体を乗っ取られている」
「……乗っ取られる、だと? どういうことだ。何が起こっている」
女は、掛け布団の端を強く握りながら、慎重に話していく。
「……この薬は、世界樹の世界と繋がる道であると同時に、精神を通す門でもあったのかもしれない。だから、元からあそこにいた人の心が、あの人に……。乗り移られたあの人が、どう動くかは分からない。ただ、いい予感はしないわ。だから、止めにいかないと……」
……簡単に信じて良い類いの話ではなかったが、嘘は言っていないと感じた。この場でそんな嘘をつくメリットがないし、何より女の真剣な表情は、それが真実であると判断するのには充分過ぎた。
「……貴様はどうするんだ」
「私は、またあの世界に行ってみる。他に分かることがあるかも知れないし、こっちの世界から何らかの干渉が出来るかもしれない」
何が起きているのか、しっかりと把握した訳ではない。七海が誰に乗り移られて、どんな状況になっているかも分からない。
だが、ただひとつ。すぐにでも七海の元へと向かうべきだということは、頭の底から理解していた。
「……頼んだぞ」
女に背を向け、小さく言う。こんな風に誰かに物を頼むのは、久しぶりであった。
「……ええ」
芯の籠った返事をした女にその場を任せて、私は移動をした。
○
雲間から射した月明かりは、金色の髪をきらきらと光らせていた。闇夜の中で空を泳ぐように舞うそれは、一本一本がまるで高級な繊維から作られているようにも見える。
少女の後ろ姿は、小さい。クラスの中でも下から数えた方が早い彼女は、僕と大して変わらない身長である。
しかし、この威圧感はなんだろうか。
小さな身体に留まっていられない溢れ出る力は猛々しく、少女の姿を大きく見せていた。
僕と刹那さんがその背中に目を奪われていると、いつまで呆けているつもりだ、と此方に目線を寄越さぬままに言われた。
「……師匠。あの、七海さんが……」
その言葉を最後まで言うことに抵抗を感じて、自然と語尾は小さくなる。
師匠と七海さんは、誰が見ても分かるくらいに仲がよかった。身長差もあり、片や強い口調をすることが多い面倒くさがりで、片や常に優しさの籠った言葉を口にする真面目な人で、そのコンビは凸凹にも見えたけれど、二人でいる姿はとても自然であった。その時の師匠の無理のない表情は、年相応の少女を思わせるものだった。
だからこそ、彼女には、七海さんの現状を伝えにくかった。
しかし彼女は、未だに僕達に背を向けたまま、全てを把握していると語るようにゆっくり頷いた。
「……ああ。知っている」
小さく呟いた後、師匠は渇いた声で続けた。
「ある程度の事情は知っているさ。貴様の姉が、身を張って教えてくれた」
「……っ?! どうして、ネカネお姉ちゃんが……? 」
思いよらなかった登場人物に僕は困惑した。お姉ちゃんは、どこかで身体を休めていたのではなかったのか。そのことを詳しく問い詰めようとしたが、それよりも早く彼女は僕達に冷たく言葉を放った。
「貴様らはここから去れ」
僕達に振り向くことなく、師匠は静かに言った。強い口調だった。
「……そういう訳には、いきません 」
この状態の七海さんを放っておける訳がない。自分の意思を示すかのように、杖を強く握り、姿勢を正した。
師匠は力の籠った僕の声に怯む様子もなく、静かに顔の半分だけ此方に振り向くようにした。
「……聞こえなかったのか? 」
「私が、ここから去れと、そういったのだ」
心の芯まで凍っていくような、冷たく強い言い方だった。堪らずに、背筋に幾つもの汗が流れる。
どっ、と彼女から魔力が湧き出すのが分かった。黒く、凍てついた空気は、辺りを渦巻くように流れ、鋭い棘のように皮膚を刺激している。
恐れのあまり自分が生唾を飲み込む音がはっきりと聞こえた。
「……ネギ先生。ここは、エヴァンジェリンさんに従いましょう」
震える僕の肩に手を置いて、刹那さんが首を振った。
「……でも! 刹那さん……! 」
「さっきの攻撃を見たでしょう? 分かってください。私達は、ここにいるには明らかに実力不足で、足手まといです」
そんなこと、僕だって分かっている。あの力を見て、恐怖しないだなんて事が、あるわけない。
でも、だからと言って、素直に引ける筈がない。引いていいとは、思っていなかった。自分の力不足を言い訳にして、この場を放棄することは出来なかった。
彼女は、僕の生徒なんだ。
「……でも、刹那さん! いいのですか! あなただって ――」
「ネギ先生! 」
反論しようとした僕を遮るように、刹那さんは大きな声を出した。僕の肩を掴む刹那さんの手に更に力が籠る。
「ネギ先生。私だって、悔しい。悔しいのです。自分の恩人を目の前で救えもせず、のこのこと逃げ出すしか出来ない自分の無能さが、恨めしいほど辛い」
刹那さんは、震えていた。無念という想いが、確かにその身から溢れている。
「でも、私達がここにいては、駄目なのです」
彼女の言葉ははっきりとしたものだった。自分達がどうすべきかを、彼女のために、何をしなければならないのかを分かっているのだ。
「ここで私達が怪我などして、後で悲しむのは誰か考えて下さい……」
「……刹那さん……」
頭を下げて、悔しそうに口を強く結んだ彼女を見て、僕は自分の短絡さを恨んだ。
この場で本当に考えなしだったのは、僕だけだった。
「……貴様らにも出来ることはある。多分な。何をしたらいいか考えて、自分に出来ることをやれ」
「……師匠」
突き放した言い方だ。でも、僕には分かった。短い間だけれども、僕は彼女に師事してもらっていたのだ。
師匠は、僕らのことも考えて、ここから去れと、そう言っているのだ。
「……後は宜しくお願いします」
また前を向き直して言い放った彼女に対し、僕はしっかりと託した。
彼女は小さく笑った。
「……はっ。誰にものを言っているんだ」
いつも通りのその強気な物言いが、頼もしかった。
○
「七海、少し見ない間に随分とイメージを変えたじゃないか」
「……」
「無視、か」
軽く溜め息をついてから、目の前にいる少女をもう一度見据える。
何もかもを吸い込んでいくかのような漆黒の瞳に、存在しなかった筈の魔力。七海の特徴でもあった、周りを何となく安心させる不思議な空気も、今や面影すら感じない。
相対したら、やはり実感する。
七海は、本当に七海ではなくなっている。
私が忌々しげに舌を打つ音が響いた。
坊やの姉が言っていたことは、全て真実だったのだ。
私達の間に、古びたストーブが吐き出したような生暖かい風が吹く。誰かが適当に放り投げて、そのまま適当に削られたような形をした月が、間抜けに空に浮かんでいた。月の形にすら、苛立ちを覚えてしまう。
そんな月の下にいる七海は、私がここに来てから何の動作もない。ただ、虚空を見つめるかのようにじっと留まっている。
「……彼女、中々動きを見せないですね」
「しかし、まさかこんなことになっているとは思いもよらんだわい」
「……貴様らか」
タッ、と軽快な音を立てて私の後ろに現れたのは、学園長の爺とアルだった。
「随分と遅い到着じゃないか、なぁ? 」
「……大抵のことは、若いやつらに任せるつもりだったのじゃがのう……」
爺は、自分の髭を擦りながらしゃがれた声で続ける。
「彼女の状態は、放っておく訳にはいかなそうじゃ。それに、世界樹の薬が影響しているのだとすれば、儂にも責任の一旦はある」
「……お前はどうなんだ、アル」
私は目を伏せているアルだけを睨むように見つめた。
「……貴様は、七海がこうなることを本当に予想出来なかったのか」
爺の横でアルがそっと目を開き、顎を引いて静かに答えた。
「……世界樹の発光に合わせて、彼女に何らかの変化が起こる可能性があることは、分かっていました。幾つもの予想パターンのうち、こうなる道も想定していなかったといえば、嘘になります」
「……そうか」
「……怒らないのですね」
全てを受け止める、というつもりの自白だったからだからか、咎めなかった私を予想外に思った声だった。
「怒っているさ。腹底も煮えくりかえってるかもしれん。だが、今貴様に怒鳴り散らしてもこの状態は変わらん。それに、結果として七海がどんな状態に陥るとしても、あの薬はあいつには必要だったのだ。あれがなければ学園祭前にはあいつの命は危なかっただろう。とすれば、こうなるのは必然だったのかもしれん」
勿論納得はしていないがな、と続けると、アルは目を伏せて申し訳なさそうに微笑し、爺はまた髭を擦った。
「……本当に、丸くなったのう」
「黙れくそ爺い」
儂にはいつも冷たいのう、という嘆息混じりの声を無視する。
「過去のことを今はごちゃごちゃは言わん。だが、これからのことは別だ。貴様らはあいつのためにその命を使え」
語調を強めると、それに反応するように二人の気も引き締まったことが分かった。
前にいる七海が、ようやく動きを見せる。
彼女の後ろに、大量の魔方陣が一瞬で展開され、光った。
「七海を無傷で拘束しろ。あいつの体に傷をつけたら貴様らを殺す。貴様らも無傷でいろ。自らの体に傷を付けて後々七海に罪悪感を感じさせるようなら、いっそ死んで消えろ」
「中々厳しいこと言いますね」
「老人には気を使って欲しいのじゃが」
「黙って従え。……行くぞ」
私の声を引き金にしたかのように、七海の背にある魔方陣から、無数と呼べるほどの魔法の矢が放たれた。
○
降り注ぐ魔法の矢を、各々が避ける。紙一重に、自身の身体が通るギリギリの隙間を見つけて、踊るように掻い潜った。
七海は、次の攻撃に移ろうと、また別の魔方陣を展開する。それからは影から出来た手のようなものが幾つもの召還され、私達を捉えようと勢いよく伸びてきた。爺は老年さを感じさせない身軽さでかわし、アルは自らの前に重力の球体を発生させてそれを潰した。
七海が魔法を使う度に、私の心は苛ついた。
あいつは、今まで何にも汚されていなかった。誰かに暴力をするという選択肢すら浮かばないあいつの手は、純粋で、貴重だった。魔法に関わっても、その未知に惑わされることもなく、あくまで自分の興味の範疇にだけ目を向けていたあいつは、ある意味無邪気で、素直だった。
それが、こんなことに巻き込まれて、変わっていく。
私は激しい憤りを感じていた。あいつを、早く解放してやりたかった。
「……キティ」
「その名で呼ぶな。なんだ」
七海の攻撃を避けながら、私の側に寄ってきたアルが、いつになく真面目な顔で私に声を掛ける。
「あの子は、まだ完全に体を乗っ取られてはいません。証拠として、精神が不安定です」
「……どういうことだ」
「本来、彼に乗り移られたものは、完全に身体の主導権を奪われ、精神の自我も塗り替えられます」
……こいつは、一体どこまで知っているんだ。
彼、という言い方をした以上、七海に乗り移った人物のことを、それなりに知っているということだ。聞きたいことは大量にあったが、ひとまずアルが言葉を続けるのを待った。
「ですが、彼女は意思を持っているように見えない。動きにもどこか鈍さがあり、先程のように停止することもある。おそらく、彼女の意識をまだ完全に剥がすことが出来ていない。此方への攻撃は、防衛本能のみで無意識でしているものなのでしょう。彼女の中で心の天秤が釣り合っている状態では、上手く主導権を握れていない」
七海の中で、心の統率がとれていない。ということは、つまり。
「……それは、七海がまだ頑張っている、という解釈でいいんだな? 」
アルは、小さく頬を上げた。
「ええ」
「なら、どうすればあいつを元に戻せる」
「それは、はっきりとしていません。ショックを与えればいいのか、何らかの方法で精神を補助出来ればいいのか。 どちらにせよ、彼女の動きを止めて、何らかの処置が出来る間が必要です。 ただ、時間を掛けてはいけません。時間が掛かれば掛かるほど、彼女の心はきっと押し負けていく」
「……成る程な」
頷く私達の前に、七海は更にまた新たな魔方陣を出現させる。
私の胸の底で苛立ちがまた針のように逆立つ。