「よう」
道端で交わすような軽快さを込めた言葉を、彼は私に緩く投げ掛けた。いつもと同様に黒いローブに身を包み、世界樹の幹に縛られている。だがそれを辛そうにしている様子はまったく見られず、寧ろどこか愉しそうにしている節すら感じられた。
「こんにちは、でいいのか? 」
私は少し首を傾げながらそれに応える。
この世界は、どのタイミングで来てもいつも地面が白みを帯びるほど明るい光が射し込んでいて、昼夜があるのか分からない。そのため、いつも挨拶には悩ましく思っていた。
そんな私を見て、彼は愉快げに笑い声を漏らしている。
「いいんじゃねーの? そっちは昼なんだろ? 」
「どちらかといったら朝方かな」
「それじゃ、おはようだな。おはよう」
愉しそうに挨拶をする彼に、私も微笑みながら、おはよう、と返した。今更だが、今日は陽気な彼らしい。
静かな彼が出す雰囲気が夜の月だとしたら、陽気な彼はまるで太陽のようだと思った。裏がなく、まっすぐに正直なイメージが、彼にはよく似合っている。
「あんた、最近どうだ? 」
「まぁ、ぼちぼちやってるよ。君は? 」
「ぼちぼちか。俺もまぁ、ぼちぼち。いつも通りだ」
彼の顔はフードに隠れて見えないが、声の調子だけで軽く笑っている姿が思い浮かぶ。
未だにお互いの名前を知らない私達は、二人称で呼び会う。彼は私を「あんた」と呼ぶし、私も、彼のことは「君」と呼んでいる。
初めに名を訊ねた時ははぐらかすようにして答えてくれなかったし、その後も彼から自分の情報を漏らそうとはしなかった。逆に、彼が私のことを訊ねたこともないし、私の名前を知りたいという雰囲気を出すことすらなかった。
お互いにほとんど何も知らない状態だが、それでも不便には感じなかった。何せ、この世界には私と彼しかいない。
閉鎖的空間にて、誰にも邪魔されず、彼と話すこと以外何かが出来る場所でもない。名や姿など何かに気にすることもなく、現実と隔離されたかのように存在するこの世界は、私にとって心が休まる時間と成りつつあった。
いつだか彼も、毎度のように陽気な声で、私が来てから暇が潰せて良いと言っていた。その役目を果たせるだけで、私がここにくる意義は充分だと思う。
今は、お互いにこのくらいが良い距離感だと線を引いて、その中で心地よく感じられている。
「あんた、今日はなんか良いことでもあんのか? 」
どうしてそう思ったのか、と問うと彼は明るい声を出した。
「いつもより嬉しそうな顔してたからよ」
「嬉しそうな顔、してるか? 」
「ああ、微妙にだけどな」
よく見ている、と思った。この短期間の付き合いでそこまで見抜かれるとは思っていなかった。それに、あちらからは私の顔が見えるのだな。
私は、緩く笑って応える。
「今日は、リゾートに行くんだ。友達に誘われて」
「ほー。リゾート」
彼はまた、くくっと笑う。
「いいじゃねーか。楽しんでこいよ」
「ああ。楽しんでくる」
私はそう返しながら、世界樹の幹に、とん、と背中を預ける。
背中から感じる世界樹の鼓動から暖かさを感じ、安心感に包まれたような気がした。
○
「ひゃっほー! 」
黄色い声と、海の水がおもいきり跳ねる音が、高い青空に響いた。5月だというのに、南の島には容赦なく太陽の熱気が襲いかかっている。しかし、我らがA組の生徒達はそれを物ともせず、砂浜に足跡を残しながら次々と海へと踏み出して行った。
彼女達の足が海に触れたとき、波が連れてきた白い線はかき消されている。どんどんと奥に奥にと彼女達は進んでいき、若々しい肌色と透き通るような青色がどんどんと入り交じっていった。
そうやってはしゃぐ彼女達を砂浜から見ているあやかは、頭を抱えた。
「……どうしてこんなに人数がいるんですの!? 」
吠えた言葉は、波に飲まれぬように大きく空に響いた。
リゾートに行こうとあやかに誘われたのは、つい先日の話だ。
何でも、最近ネギ先生が少し元気が無さそうなので、それを取り戻してあげたいのだとか。
私がそれに行っていいのか?、と問うとあやかは、七海には来てほしいんですの、と興奮した口調で言っていた。
当時の彼女の予定ではそれは少人数で行くつもりだったらしいのだが、話をした場所が悪かった。教室でしたこの会話は朝倉とハルナにばっちりと聞かれていて、そこからはもう校内放送のごとくクラスに伝わった。その結果、A組の半分以上が来ることは避けられなかったように思える。
あやかは海を睨み、本当は私と七海とネギ先生だけの予定だったのに、と呟いた。
「ええ、そうだったんだ……。あやねぇごめんね、ついてきちゃって」
それを訊いて、私の横にいたういがしょんぼりと顔を俯いた。
実は、あやかにその話を聞いたあと、私はういを誘っていいかを訊ねていた。そもそも今日はういと出掛ける予定だったので、彼女も一緒はどうかと思ったのだ。
「あっ! いえ! ういちゃんはいいんですの! むしろお誘いしたかったんですわ! 」
「ほんと!? やったぁ」
あやかの答えを訊いたういは、ぴょんとぴょんと跳ねながら喜んだ。さくらんぼが付いたゴムに括られた真っ黒なツインテールも、釣られてはしゃぐ。
あやかはそんなういを見て、親身の情が溢れるうっとりとした表情をした。
あやかとういは、幼少の頃からの仲だった。あやかが我が家に遊びに来たときにはういも一緒に遊んだし、ういはあやかのことを「あやねぇ」と呼んで慕っていた。あやかも、まるで自分の妹のようにういのことを可愛がっていた風に私には見えた。
「あれが七海の妹か。面影はあるが性格は似てないな」
砂浜を駆けて海に飛び込んでいくういを見つめながら、エヴァンジェリンはしみじみと呟いた。
彼女は水着ではなく袖のない黒いワンピースを着ていて、日傘を差している。強い日射しはあまり好んでいないようで、更には海が好きなわけでもなく、ただ暇だからついてきたようだった。
因みに私は、デニム状のショートパンツに、袖があり体のラインを隠すような白いTシャツを着て、さらに半袖のパーカーを羽織っている。
この日の前にういにつれられて一緒に買ったものだ。必要ないと言ったのだが、手を引っ張られた私に拒否権は存在しなかった。色気のなさについては既に散々言われたが、それでも露出の激しい物を着るのは抵抗が強い。
「……エヴァンジェリンさん。貴女も付いてきてたのですね」
当然のように堂々とそこにいるエヴァンジェリンを見て、あやかは軽くため息を吐く。
エヴァンジェリンはそんなあやかに気にするようもなく視線を横にした。
「それよりも、だ」
エヴァンジェリンは眼に力を入れ、刺すように彼を睨んだ。しかし、睨まれた彼はいつものような無表情でそれを受け止めている。
「何故貴様がここにいるんだ! 」
「……何故と言われてもね」
フェイト君は、はぁ、と軽くため息を吐いた。灰色で少し地味だが、どこか高級感が溢れている気がする海パンを履いている彼は、海の中で飛沫をあげて騒ぐういに目線を向けた。
「フェイフェイ~! 早く海に入って来なよぉ! 」
此方からの視線に気付いたのか、ういは千切れんばなりに腕を振りなから笑顔でフェイト君を呼び掛けている。
そんなういを見て、彼は肩を竦めた。
「無理矢理連れてこられた僕にも分からないよ」
フェイト君は、当日に市街を歩いている所をういに見つかり、そのまま引っ張り込まれたようだった。水着についてはあやかがネギ先生のために用意してあったものが幾つかあったので、それを着用している。
ういとフェイト君は、先日会ってからも何度か顔を合わしているらしい。フェイト君は市街に行けば大体この前の喫茶店で珈琲を飲んでいるらしくて、それを見つけては連れ回しているのだとか。フェイト君が嫌そうな顔をしても、ういはそんな気を使えるような子ではないので断ることも出来なそうだと、私はちょっぴり同情した。
「七海の妹にまで近付いて、どういうつもりだ……っ! 」
「こっちからしたら勝手に連れ込まれた身だと言っただろう。文句なら彼女に言うべきなんじゃないかい? 」
「まぁまぁ二人とも」
どこか喧嘩腰に言い合う二人の間に入って、私は仲介しようとする。それでも二人は火花を散らしていたが、ういが海の中からもう一度「フェイフェイ~」と手を振るので、彼はまた溜め息を吐きながら彼女の元へと向かっていった。
「七海! 何故あいつを庇う! 」
「庇うというか、別にフェイト君は今悪いことをしている訳でもないだろう? 」
「フェ、フェイト『君』だとっ! いつの間にそんな仲にっ! 」
鬼気とした表情でエヴァンジェリンが私に迫り、肩を揺する。そんな様子を見て、あやかの方が困った顔を浮かべる。
「あの子がどうしたと言うんですの。ネギ先生と比べたらそれは少し目付きが悪いですが、まだ子供じゃありませんの」
「貴様は何も知らんからそんなことを言えるのだっ! あいつはなぁ、京都で七海を……」
「それは訊いたんだが、私にはどうしても彼の悪意が見えなくてな……」
「な、七海まで……っ! ……っく! もう知らん! 」
拗ねるようにしながらエヴァンジェリンはのしのしと歩き出して行った。砂浜を蹴りあげながら不機嫌そうに進む姿がどんどんと小さくなっていく。どうやら、あやかの所有する海沿いのホテルへと向かっているらしい。
私は彼女を呼び止めるが、白と茶の混じった細やかなな砂が舞って応えるだけであった。
そんな彼女を見て、あの人勝手にホテルを使うつもりでしょうか、とあやかは若干不服そうに呟く。それから、自然と視線を海へと向けて、ある人物がいることに気が付いた。
「あっ! ネギ先生があそこに! 」
ネギ先生~、と叫びながら、あやかも私から離れて海へと向かっていく。
照り付ける太陽の下、ぽつんと残された私は、海で思いっきり騒ぐ皆を見ながら日傘の下のリクライニングチェアにゆっくりと腰を下ろす。
……エヴァンジェリンが落ち着いたらフェイト君のことをゆっくり話し合わないとな。
感情が昂っている様にも見える今、追いかけても話は聞いてくれそうにない。
胸の内でそう思いながら、私はその場で静かに寛いだ。
○
「……なーなみ! 」
「……ぅん」
呼ばれた声に反応して、私は自分の意に反して重くなっていた瞼を上げた。どうやら、心地よさのあまりにいつの間にか眠ってしまっていたらしい。
前を見ると、スクール水着を着た明日菜が私に向かって飲み物を手渡そうと差し出していた。明日菜の後ろからは爛々とした太陽が容赦なく光を照り付けていて、彼女には黒の斜線が見えるように影が張り付いている。
「あ、ごめん。起こしちゃった? これ、ココナッツジュースらしいけど、いる? 」
ほんとに何でもあるわね、と呟きながら、私の横にある木製の椅子にすっと腰を下ろした。ジュースを持った手は、未だに私の方に向いたままである。
「ありがとう。貰うよ」
受け取ったココナッツジュースを、ストローから吸い上げ喉に流す。独特の青臭い匂いと仄かな甘さが綺麗に胃に吸い込まれていく感覚がした。
「……やっぱ、海には入んないんだ? 」
「……泳げないの、知ってるだろ? 」
私が睨むと、ごめんごめん、と明日菜は苦笑しながら言う。
私は、泳ぐのが苦手だ。どうして人間が浮くのかなんて理解出来ても実践が出来ないし、そもそも生物は古代から進化して海から陸に上がったというのに、何故わざわざまた水の中に戻ろうとするのか。陸上に適した形をしているのだから、陸にいればいいじゃないか。……などと、散々な言い訳は用意してあるが、結局は泳げないというだけなのだ。これは、運動が出来た幼年の頃から、いや前世の頃から変わらない呪いレベルのものだった。
ただ、こうして海を眺めているのは好きだし、海の匂いも好きだ。
だからこそ、あやかに誘われてここに来るのは楽しみだった。
虫は少ないが、広大な海は、心の中にも爽やかな風を届けてくれるような気がするのだ。
「ういちゃん、随分馴染んでるわねぇ」
明日菜が向ける視線の先には、少し離れた浜でクー達と混じってビーチバレーをするういの姿が見える。パンパンとリズムよくボールを叩く音を鳴らしながら、愉しそうにしている少女達がそこにはいた。
すぐ側の砂浜には、ぽつんと座ってその様子を見ているフェイト君もいる。
「あの子、随分と可愛がられてたわよ。七海の妹かぁーって」
「あんな性格だからな。馬が合うんだろう」
これだけ上級生に囲まれたら多少物怖じしても良さそうだが、彼女はいつも通りだった。知り合いのあやかや明日菜、鳴滝姉妹がいたのも大きかったのかもしれない。
「……ねぇ、あの男の子は七海の知り合いなの? ……ネギと刹那さんが随分気にかけてたけど」
あの男の子とは、恐らくフェイト君のことだろう。
「知り合いと言えば知り合いだが、私も詳しい訳じゃないんだ」
寧ろ、彼については知らないことの方が多い。その背景が理解出来ないうちは、エヴァンジェリンがあの様に警戒し、私を心配してくれる理由も分かる。だがそれでも、いや、何も知らないからこそ、ただ避けるということが私には出来なかった。
「……ふーん」
自分のジュースに刺さったストローに口をつけながら、明日菜は呟く。重力に逆らいながら液体がストローの中を通過し、明日菜の喉が揺れるのが見えた。
「……それで、何を悩んでいるんだ? 」
「あ、やっぱり分かる? 」
「付き合いが長いからな。ネギ先生関連のことか? 」
……うん、と明日菜は静かに頷いた。
先程自分で彼の名を出すときも何か不自然であったし、ネギ先生が最近元気のない様子からも、二人の間で何かあったのかと推測するのは難しくなかった。
明日菜が口を開けるのを待っていると、彼女はゆっくりと語り出した。
「七海はさ、ネギがエヴァちゃんの弟子になったの、知ってる? 」
「ああ、最近聞いた」
後からエヴァンジェリンに聞いた話だが、どうやら彼女は結局ネギ先生を弟子にとったらしい。
しかし、どんな試験をして、何を基準に選んだかなどは、私にはしてくれなかった話だ。
明日菜は簡単にそれらを私に説明した後、膝を曲げ、身体を縮めながら続ける。
「あんときのあいつ、凄かった。どんだけ身体がぼろぼろになっても、全然諦めなくて。私がもういいじゃんって言いそうになっても、全然諦めなくて。誰もがそこまでって思っても、それでも、諦めなくて」
淡々と、地平線の更に奥を見るかのように、明日菜は海を眺めている。
「私、あいつが凄い頑張り屋なのはもう分かってるつもり。魔法のこともだけど、ただの子供じゃないってのも分かる。でも、そこまでしなくちゃいけないのかなって」
「……明日菜は、ネギ先生が心配なんだな」
「……心配。……そうね。私、何でか分かんないけど、ネギが心配なのよ。だから、あいつの力に成りたいとも思うし、出来るだけ手伝ってやりたいって思う。でも、あいつは違うみたい。詳しいことは全然話してくれないし、私に何かを協力させる気なんかさらさらないみたい。それで……」
「……喧嘩か」
「そ」
明日菜は、弱々しく笑った。
「私ね。修学旅行で千雨ちゃんがした話を思い出すの」
「……秘密は自分を守る時以外にもつくる」
「それそれ」
……耳の痛い話だ。魔法のこと、世界樹の薬のこと、自分の体調のこと、……そして、前世のこと。
私も、誰にも言えないような秘密をいくつも抱えている。
明日菜は、自然と桜咲と共にいる木乃香へと視線を向けていた。
彼女達は、海の中で水の掛け合いをしながらきゃっきゃっと声をあげている。修学旅行前までの桜咲を知っている者からすれば、信じられないほど愉しそうだ。中学生らしいその笑顔は、随分と可愛らしい。
「私も、馬鹿なりに理解は出来てるつもりなんだけどね。あいつが私のために頑なに口を閉じてるって。でも、ほら。こういう時思うことって理屈じゃないじゃん? 」
よっ、と勢いをつけて明日菜は椅子から立ち上がり、身体をぐっと空に向かって伸ばす。
「ま、そんな感じの悩みかな」
「……私は」
……私には、碌なアドバイスが出来そうにない。私も、どちらかといったらネギ先生側の人間だ。秘密を抱え、それを漏らさないようにと必死に栓をして。
「いーよ。ただちょっと話をしたかっただけだし。魔法とか関係しちゃうと、こういう話が出来る相手って七海だけなのよね。おかげで少しスッキリしたわ。……後でネギと話をするつもりになれた」
ありがとっ。私の肩を叩きながら、明日菜は軽快にそう告げて、砂浜に足跡を作りながら去っていく。
何も言えなかった私の耳には、波が擦れる音だけが響いた。