左から綺麗にかじられた風に大きく穴が空き、黄色の三日月がまるで笑ってる様に黒色の空へ浮かぶ頃、あやかは私の部屋で上品にカップに口をつけた。
高価そうな生地で作られたロング丈の白いネグリジェは、胸元や袖に丁寧に沢山のレースがついていて、あやかの雰囲気と合わさって気品が見えた。寝間着はジャージしか持っていない私とは対象的で、私の部屋であるのに自分が浮いた存在にも思えて少し可笑しい。
「紅茶の入れ方はよく分からなくてな、市販のパックですまない」
透明なガラスの台がついた丸テーブルの向かいで座るあやかが、音も立てずにカップを皿の上に戻してから、ゆっくりと頭をふる。
「いえ、高価なものが全てではありませんわ。友人とこうやって飲める紅茶は、どんなものでも美味しいですわ」
そう言って、あやかは私に笑いかけた。
最近になって、あやかは頻繁に私の部屋に訪れる。長谷川さんが何回かこの部屋に来ているという事実を聞いたからなのか、ここに来る遠慮などが減ったらしく、気軽に寄っていく。……そもそも最初から遠慮などすることなかったのだけれど。
初めは部屋にある虫篭に驚いて気が気ではない様子だったあやかも、今や大分慣れたようで、きっちりと虫達に背中を向けるような場所を自分の定位置としていた。時々かさりと音がなる度にビクリと肩を震わしてはいるのだが、それにもそのうち慣れるだろうと思っている。
私達は二人で紅茶を飲みながら、他愛のない会話続けていた。それこそ、最近あの人があんなことをしていただとか、まるで女子中学生がするような話で、私も随分と馴染んでいるなとしみじみと思う。
あやかの実家に最近入った執事が天然だという話題を終え、話はちょうど一つの区切りを迎えた。短い間訪れた静けさに気まずく感じることもなく、お互いに紅茶を喉に流そうとした時、玄関の扉からコンコンと控えめに音が鳴るのが聞こえる。私は、少し見てくる、とあやかに告げて、飲もうと持ち上げたカップをそのまま下げてから立ち上がった。
一日に二人もの来訪者が来ることを珍しく思いつつも、私は扉を開ける。冷えた風が私の頬をそっと撫でるように過ぎ去っていったのだが、肝心のノックをしたものが見当たらない。悪戯か、と再びドアノブを握る力を強め扉を閉めようとしたとき、声が私を引き留めた。
「あ、あの! 七海さん。少しお話宜しいですか? 」
顎を引き、視線をちょっぴり下に下げると、我がクラスの担任の先生がいた。私が室内の分高い位置にいるのと、先生が子供であるのが合わさって、目に付かなかったようだ。
「……どうぞ、中に入って下さい。今は紅茶くらいしか出せませんが」
私は自分の身を引くようにして、ネギ先生を迎え入れる。頬の強ばりを緩め、失礼します、と礼儀正しく言って部屋に入ったネギ先生を見て、あやかが嬉しそうな顔になったのは言うまでもない。
○
ネギ先生の話を要約すると、こうだ。次の期末テストで我がA組を学年一位のクラスにしないと、彼は先生ではなくなってしまうらしい。
あまりに無茶な言い分であるとは思ったが、学園長からの課題となると、魔法使いの修行とやらに関係しているのかもしれない。
わざわざ私の元に来たのは、過去に私がバカレンジャーへ勉強を教えた時に学年二位にまでなっていたことを知り、参考にまで話を聞きに来た、ということからだ。
「しかし、学園長も厳しいですわ! 安心してくださいネギ先生! こんなに頑張ってるネギ先生をクビにだなんて絶対させませんからね!」
物珍しそうに私の部屋をキョロキョロとするネギ先生の手を、あやかは半ば無理矢理両手でぎゅっと握りこんだ。
私が言えたことではないかもしれないが、あやかはネギ先生に甘い。それがあやかが子供好きだからか、亡くした弟とネギ先生を重ねているからかは分からない。だが、どちらにせよ、あやかの優しさからの行動であることは確かである。
目を爛々と輝かせて手を取り続けるあやかと、軽い苦笑いを浮かべるネギ先生を前に、私はいつか彼女達に勉強を教えた時のことを思い出していた。
「ネギ先生も分かっているとは思いますが、まずは成績最下位五人の点数をあげなければいけません」
私がそう話かけると、彼は手を握られているからか、体をあやかの方にしながら、顔だけを此方に向けた。
「あの五人の中でも、それぞれ出来る教科と出来ない教科があります。夕映は国語の教科書を読ませれば国語は高得点をとれるし、他の教科も要点を掴ませれば短時間で平均は取れると思います。楓は数学なら少し教えれば解けるでしょう。クーは英語は苦手ですが、理科も今の範囲はならそこまで苦手ではない筈ですのでそちらを優先した方が効率が良いと…………って、どうかしましたか? 」
ネギ先生を見ると、彼は口を開け目をパチクリとさせていた。あやかから手を解放されると、体を私の方にしっかりと向けて、はにかむ。
「あの、七海さんはクラスメイトをよく見ていて凄いなぁって」
「……そんなに驚くことではないですよ。彼女達には何度か勉強を教えていますし」
「いえ! 人の得意不得意を知るのがそんなに簡単ではないことは、教師になって身に染みて分かりましたから! そうですね、まずは出来る教科を伸ばすようにして、その後 全体の底上げを……」
ネギ先生はテーブルに身を乗り出して、生き生きとした表情になる。そういった時の顔はまさに少年の顔つきであった。
しかし、そんな彼の横で、あやかが少し考えるような顔をしながら言う。
「ですけど、バカレンジャーの成績を上げたくらいで学年一位になれるでしょうか」
「…………え? 」
あやかが呟いた言葉を受けて、ネギ先生は固まる。先程までの顔とあまりに差が激しくて、彼の感情が豊かであることが見えた。
私は間を置いて、同意を示すように頷いてから続ける。
「確かに、それだけだと確実に一位が取れるとは言えないかもしれません。そもそもあの五人を抜きにしても、私達のクラスは点数をとれていないものが多いのですから」
過去に私があの五人に勉強を教えた時も、学年一位とはなれなかった。確か一位のクラスとの差は僅差であった筈だが、ネギ先生のクビがかかっている状況で、再び同じ手で行くのはギャンブルが過ぎるだろう。
「で、でも、英語だけならまだしも、僕そんなに沢山の人を教えられるでしょうか」
他の生徒にも時間を割いて、あの五人に時間を使えなければそれこそ本末転倒だ。加えて、期末テストは5教科ある。テスト範囲の要点を把握している英語はまだいい。しかし、いくらネギ先生の頭が良いと言っても、残りの教科をバカレンジャーのレベルに合わせたやり方で多くの生徒に教えるのは無理があるだろう。
不安で縮こまるネギ先生を前にして、私は横目でちらりとあやかを見た。同じタイミングであやかも私を見たようで、目を合わせてから二人で同時に笑みを浮かべて、頷きあう。
「心配は」
「いらないですわ」
あやかと私の声が重なってネギ先生の耳へと届くと、彼は少し呆けた顔となった。
「私達のクラスは普段手抜きの人達が沢山いますからね。私はその人達に声をかけて真面目にやるように言っておきますわ」
「なら私はバカレンジャーに隠れた成績下位者五人ほどの勉強を見よう。クラスの下10人の成績が上がればかなり違うだろう」
私とあやかの二人で今後の計画を淡々と立てていく。手抜きの生徒とは、長谷川さんなどほどほどの点数さえ取れればいいと思っているもの達だ。私の見立てでも確かに他にもそのような生徒は多い。
あやかと二人で意見を出しあっていると、少し遅れてネギ先生が私達の間に入った。
「だ、だめですよ! これは僕の課題なんですから! 二人には迷惑をかけれません! 」
アドバイスは聞いても、課題は自分一人でやるべきだ、と真面目な彼は考えているんだろう。
「何を言っているんですか。ネギ先生はバカレンジャーの成績を上げるという最も高難易度な課題があるんですから、そちらに集中してください」
「後のことは、私達がクラスのために勝手にやることですわ。先生は課題のために精一杯手を尽くしてあの人達を教えてあげてください」
それでも、ネギ先生は苦い顔をしたままであった。彼の中でも、私達に手伝ってもらうのが最良だという答えは出ているのだろう。しかし、良心や先生としてのプライドから安易に頼めずにいる。なんとか訳を作ろうと、彼は声を絞り出す。
「でも、二人も勉強があるのに……」
「私達の心配こそ、いらないですわ」
「授業をしっかり受けて課題も真面目に取り組んでいる。他の人に気をとられるなんて不覚はとりません」
それに勉強を教えるのもまた勉強です、と続けてきっぱりと言い放った私の言葉に、ネギ先生は、うう、と唸った。
葛藤に悩まされる様子のネギ先生を見て、あやかはそっと彼に声をかける。
「……ネギ先生、教師としての課題というからには、一人だけで頑張るのは果たして正解なのでしょうか」
それを聞いて、ネギ先生ははっとした顔をした。それから、声も出さず彼は紅茶の水面をじっと見つめるようにして、目を瞑って考え込む。私達二人も、ネギ先生の答えを静かに待った。
しばらくして、ネギ先生がゆっくりと顔を上げた。そのまま、私達に真剣な眼差しを向ける。
「皆の力をお借りすることを、お願いしても宜しいでしょうか」
「「勿論」」
私とあやかが、声を合わせて即答した。
○
それぞれがやるべきことを把握するために、二人は私の部屋を後にした。急に広く感じる部屋の中、私は嘗て行った小テストでクラス全員の順位が書かれていた紙を、記憶を頼りに探す。
学校からの資料を纏めたファイルから一気に紙束を抜き出し、パラパラと手早く捲っていく。心当たりのある文字が一瞬目に止まり、捲り過ぎた資料の束を、少し遡るようにじっくりと紙を確認していく。
目的の紙を見つけ、スッと抜き取り順位を下から目視していった。当然のようにバカレンジャー五人が並んだ後、そこの上に存在する五人の名前を私は注意深く見た。
柿崎、エヴァンジェリン、桜咲、ザジ、茶々丸と書かれた名前を指でなぞって、私は軽く息を吐いた。
…………これは、ある意味バカレンジャーより大変かもしれない。
参列する名前を目にしながら、私は頭を抱えそうになった。
○
「エヴァンジェリン、期末テストは大丈夫か」
度々通う、人形に溢れたログハウスの中で私がそう聞くと、エヴァンジェリンは一気に不機嫌な顔になった。
「貴様……仕事の日でもないのに珍しく来たと思ったらそんな質問か……。私を嘗めているのか? 」
シルクの布を掛けられた木製で大きめのテーブルに肘をつけ、ジロリと私を見る。向かいに座る私が答えようとすると、横からすっとお茶の香りがした。
「どうぞ」
「ありがとう茶々丸」
メイド服で湯呑みを運ぶ姿に違和感を感じなくなるくらいには、私もこの場所に慣れてきたらしい。濃緑の陶器を両手で持ち、ゆっくりと口を近づける。少し熱いくらいの適温で、体を暖めながら嫌みのない苦味が口の中に広がった。
「相変わらず美味しいな。茶々丸のお茶は」
「そう言って頂けると嬉しいです。遅れてすみませんがお茶請けもあります」
「それは楽しみだ」
微笑ましく二人で会話をしていると、目の前にいるエヴァンジェリンがぷるぷると震え出していた。
「ええい! 無視をするな! 茶々丸私にも茶を出せ! 」
がぁーと吠えるようにそう言うと、茶々丸は了承の言葉を発してからお茶を取りにトテトテと台所に戻っていった。私は気を取り直して先程の質問に答える。
「もうすぐテストがあるだろう?エヴァンジェリンはあまり成績が宜しくないから心配になったんだ」
「それが嘗めていると言ったんだ。私が本気で挑めば中学レベルなど容易いに決まっているだろう。ただ今更真面目に解くなどバカらしいから気分でやってるだけだ」
想像した通りの回答が返ってきて、私はなんと言えばエヴァンジェリンに少なくとも平均以上の点を取ってもらえるのかと考え込む。
「ふん。貴様がわざわざそんな事を言いに来るということは、あの坊やがクビになるかもという話は本当らしいな」
そう言って、エヴァンジェリンは茶々丸がお茶ともに持ってきた羊羮を楊枝でズブリと刺してから、自分の口に放っていた。
「……やはり知っていたか」
先日、柿崎に勉強を教えていた時に彼女もその話題を私に出した。木乃香がうっかりと口を滑らした用で、段々と輪をかけて広がっていき、もうほとんどのクラスメイトはその話を耳にしたのだろう。しかし、そのおかげかクラス全体のやる気は上がっているし、事実柿崎も要領よく要点を理解していった。
ザジもその噂を小耳に挟んでいたらしく、私が勉強を見ようかと提案したら綺麗に丸のついたプリントをゆっくりと見せ、ありがとう。でも自分で出来る、と言った意味の表情を見せてくれた。……声は発していなかったので、あくまで私の推測であるが。
「……何で私がそんなことに協力しなければならない、と言いたい所だが、今あの小僧に学校を辞められると困る。ほどほどにはやってやるし、茶々丸にも同じようにさせてやる」
意外にも、私が何かを言わずとも彼女はやる気になったようだ。しかし、エヴァンジェリンが何故困るかなど私には検討がつかなかった。
私は、助かる、と一言いって羊羮をかじった。餡の甘味が凝縮されていて、お茶ととてもよく合う味だった。
「おい。明智七海」
「なんだ」
「……一つ忠告しておくぞ。あまりあの小僧には引っ付くな。特に、これから先はな」
「……何故? 」
「…………」
エヴァンジェリンは私の問い掛けには答えず、余裕そうな表情でズズズと茶を啜った。こうなったらもう質問に答えてくれないのは、短い間ながらも把握していたため、それ以上は聞かなかった。
その後も一言二言ぽつりぽつりと会話をし、茶々丸にお茶と羊羮の礼を言った後、私はログハウスを後にした。
……残りは、桜咲だけである。
小ネタ
『計算』
○
「柿崎は計算は間違えないな。少し時間はかかっているけれど」
「得意ってほどじゃないけどさ、嫌いじゃないかも。計算。私恋愛にもある程度計算って必要だと思ってるタイプだし」
「その計算と数学は関係しないから心配しなくていい」
「だよね」
「何か自分の中でコツがあったりするのか?」
「計算の? 恋愛の?」
「計算の」
「まぁそっちだよね」
「そっちだ」
「うーん、あるっちゃあるかも。私さ、計算するとき一々ほかの物に置き換えて考えたりしてるんだよね」
「イメージ化か。それはいいな」
「そうそう。例えばさ、簡単だけど5000×10ってなったときに」
「うん」
「5000円の化粧水10本かぁーって考える」
「高いな」
「高いし一気に10本も買うことないね。だから、うわー今の財布の状況で50000は痛いぜ、って思っちゃう。そんで少し凹む」
「……イメージがリアル過ぎて計算遅いんじゃないか?」
「うん。そうかも」