億千万の悪意と善意   作:新村甚助

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09:裁く神、王権の守護者

 唐突だが、エジプト神話における神、アヌビスの話をしよう。

 

 

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 アヌビスは、エジプト神話の中でも古い時期から崇拝されていたミイラづくりの神であるが、「アヌビス」という名はギリシャ語の名前である。

 一般的には黒い、ジャッカルの頭と人の体を持つ姿で描かれることが多い。黒はミイラ製造の際に用いられる、タールの黒または冥界の示す闇から来るものであるともされる。

 その来歴は、神オシリスと女神にしてその妹であるネフティスの、不倫と近親相姦の末に身ごもった子で、生まれたときからネフティスの夫であるセトに命を狙われ、ネフティスによって隠された子供である。

 オシリスが死んだ後に、そのオシリスをミイラにしたとされ、この点からミイラづくりを司るとされる。同時に、ミイラづくりは神官の職務であり、祭祀の神としての側面と、オシリスの死後、その後を継いで死者を裁く役目を担ったことから裁きの神としての側面も持つ。ついでに、現世から冥界へと人間の魂を運ぶ役目まで持つために、足がとても速いともされる。

 

 

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 これが、少し調べた結果としてわかる、「アヌビス」の神話である。

 なぜ、この話をしたか。

 単純である。

 目の前にいるのだ。

 その、まつろわぬ神としてのアヌビスが。

 

 

 狼公の爺が去ってからそれほど時間はたっていない。

 左手の腕時計は、一度、腕と一緒にぐちゃぐちゃになってしまったから正確なことはわからないが、それでも数分後という程度のはずだ。

 

 唐突に神が目の前に現れた。

 あとから思うが、それはおそらく、神話において魂を運ぶための神速。

 

 現れ、こちらの胸に顔を近づけ、臭いを嗅ぎ、そして顔を放し、

 怪訝な表情で問う。

 

「おぬしが父上を殺した神殺しではないのか?」

 

 

 状況が把握できない混乱もあるが、単純にこの状況も非常にまずい。

 呪力はなりふり構わずサマエルの呪いに注ぎ込んだためにほとんど空。少しは後のことを考えておくべきだった。予想外といえばそれまでだが。

 自身に信仰が向けられているために少しずつ回復している感じはするが、まともな形での権能の行使は今のままではできないだろう。

 例外的に、アンリマンユの権能は使える感じはするが、こっちはあまり話をしてくれない。

 アヌビスは悪神として扱われる素養がそろっているような感じがするが、アンリマンユさまのお眼鏡には敵わないのか。

 いや、少し反応があった。それに光明を見出し、時間を稼ぐために会話をする。

 

「あなた様の父上様でございますか?

どのような神様か、お教えいただくことはかないませんか?」

 

 …相手が高圧的でない限りは、このくらいの猫かぶりはする。

 

「ぬぅ、勉強不足であるぞ神殺しよ。

我が父上は、その名をオシリスという。

小麦の育て方を広め、ワインの作り方を教え、多くの人の子らによって支持された偉大な神であるぞ?」

「もう少し、詳しい逸話などはございませんか?」

「うぅ、わが父は自らの弟セトによって殺され、ナイル川にばらばらに捨てられたのだ。

嘆かわしいことにな。

しかし、妻であり妹でもあるイシスさまの手を借りた私が蘇らせ、冥界において死者を裁く神として君臨したのだ!

まあ、セトは許すわけにはいかんがな!」

 

 これまでの状況と、ここまでの会話で該当する権能が思い浮かんだ。

 狼公の権能の一つ。死者を縛り、使役する、「死せる従僕の檻」

 いつどこで顕現したのかは知らないが、おそらくはその権能の行使に惹かれ、この場に現れたのだろう。

 

 だとすると、狼公の「生きていれば」の辺りの言葉はこの状況を見越してのものだったのか。

 予知か感知か、本当に多彩な権能を持っている。

 

 まあ、つまりは、ハメやがった!

 あの爺、自分の因縁を押し付けて逃げやがったのだ。

 いくつかの神格にダメージを負ったとはいえ、「戦争向き」と揶揄される権能群を用いればどうとでもなっただろうに!

 

 状況は最悪に近いが、それでも最悪そのものではない。

 まだ戦いには入っていない。この一点に尽きる。

 時間があればアンリマンユの権能を活性化させ、呪力の回復に努めることもできる。

 アフラマズダの権能を少しだけ活性化させ、自身に向けられる信仰を呪力に変えていく。

 

 それに狼公の情報と引き換えに離脱できる可能性もある。

 この手にまだ、光はある!

 

「その逸話でしたら、私にも覚えがあります。

おそらく、私と戦っていた、今はいない神殺しの方が、あなた様の父上様の(かたき)であるかと存じます」

 

 切れるカードを切らずに死ぬ気は毛頭なく、初手で切る。

 「敵」という言葉に反応を得る。

 

「ほう、よいことを聞いた。

つまりは…、ふむ、此奴か」

 

 目がどこか遠くを見ている感じだ。

 祭祀の神としての権能か、魂とのかかわりに由来する権能かで、爺を見つけ出したのだろう。

 正直、早い。もう少し稼げるつもりで切ったカードだった。自己完結しないでほしい。

 

「神殺しよ。

そなたに褒美をやろう。

そなたの言葉は我が復讐、わが父の敵を討つ確かな手助けとなるだろう。

立て、神殺しよ。

私が手ずから裁いてくれよう。

光栄に思えよ、神殺し」

 

 だから自己完結はやめてほしい!

 

 しかし、状況は最悪から一歩抜け出した。

 

 アンリマンユの権能が活性化している。

 同時にアフラマズダの権能も。

 最低限回復する時間は稼げたようである。

 

 そして、敵たるアヌビスの()()()神格。

 冷静を装ってはいるが、アンリマンユの権能が叫ぶのは、眼前のアヌビスの、嫉妬深く激情家な内面を押し隠した復讐神としての神格である。

 

 

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 アヌビスは、確かに内心ではすぐさま親の仇を取りに行きたいと思っていた。

 しかし、目の前の神殺しから目を離すとどうなるかわからないという直感から、神殺しを()()ことを優先したのだ。

 

 アヌビスは、妻の吐いた嘘、弟と密通したという嘘を信じて弟を殺し、次いで、太陽神から嘘であることを告げられた結果、妻を殺してバラバラにして、犬に喰わせるという罰を与えている。

 加えて、冥界の神であり、冥界の神の従属神としての格も持つ。アヌビスは、セトと敵対し、セトと敵対するオシリスやホルスといった勢力に味方した。冥界での役割は裁きであり、これは善か悪かでいうと中庸であるが、冥界は闇の概念の領分である。

 

 そして、この復讐にかられる悪の心と、闇に属する神格に対して、アンリマンユが反応したのだ。

 

 

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 アンリマンユの権能が勝手に活性化し、アヌビスから何かを吸い取ったことを感じた。同時に、かろうじて権能を扱えるかどうかという程度だった呪力が急速に回復したのを感じる。

 アンリマンユの権能が叫ぶ。「極上の悪意だ」と。

 

 それが聞こえたのかは知らないが、サタンと窮奇の権能も活性化する。

 サタンは奥の手まで使い切った状態で、窮奇は神獣が討ち斃され、弱体化は善に属する神格に対してのみ。

 今のアヌビスに効果はないだろう。

 しかし、ありがたいことに呪力はさらに回復する。

 

 善神としての神格と悪神としての神格が混在している今のアヌビスに対してならアンリマンユもアフラマズダも十分以上の効果が期待できる。

 おそらくは、相対的にはこれまででも最高の状態となれるだろう。

 

 アンリマンユの弱体化の権能に、アヌビスから奪い取った悪意を加えて叩き込んだ。

 同時、回復して有り余るほどの呪力により、アフラマズダの強化の権能を発動する。

 

 最悪だった状況は、優勢にまで成った。

 

 

「神殺シィ!キサマァ!!」

 

 アンリマンユの弱体化により、悪意とともに呪力を失い、なりふり構う余裕と外見を取り繕う余裕を失った冥界の裁きの神が吠える。

 アヌビスが右手に持つ杖を腕ごと後ろに引き、同時に俺の呪力か魂かが引っ張られる感触を得る。

 思い出していた逸話から、魂に作用する類の権能であると判断し、アフラマズダによって自身の神格を引き上げ、アンリマンユによってアヌビスの敵意を吸収し、とりあえずの対策とする。少なくとも引き寄せられる感覚は弱まったので良しとする。

 

 併せて、腰のポケットから新しいナイフを取り出し、アフラマズダの加護により神格を与える。

 狙いはなにがしかの効果を発揮した杖の破壊である。

 

「オラァ!」

「くぅあ!」

 

 神速には至らないまでも、高速での突貫と同時に振るわれた右手のナイフは、確かに杖に命中した。しかし傷を与えはしても切り落とすには至らない。

 

 

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 復讐を誓い、激情に支配されたように見えるアヌビスだったが、それでも切り札は残っていた。

 人間、特に王の生死にかかわる権能。神殺しも人間である。想定通りに機能すれば致死の一撃となるであろうと確信する。

 

 その条件は、神殺しの一撃により整った。

 王権の守護をその役割とする右手の杖、ウアス杖は、神殺しの魔王により付けられたその傷により、本来とは逆の効果を発揮する。

 即ち、王権の崩壊、守護の失墜、そして王の死である。

 

 そして、裁きが行われる。

 

 

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 アヌビスに近接し、杖に傷を付け、アヌビスとにらみ合った時点で、その杖から莫大な呪力が生じた。

 そして、視界が白に塗りつぶされた。

 

 油断していた、わけではないはずだが、おそらくこれはサマエルの死の呪いにも似た、死の概念を持つ攻撃の一種だと推測する。

 白い世界、目の前に穏やかな表情のアヌビスがいるが、権能の行使はできず、同様に権能としてのアンリマンユの存在も感じ取ることができない。

 そして、アヌビスの眼前に存在する秤の上には、鼓動する赤い果実、神話を信じるなら、おそらくは俺の心臓が乗せられている。

 

 アヌビスは冥界において死者の罪を量る神だ。そこで心臓から死者の言の真偽を問う。

 この場合、俺はまだ死んでおらず、秤の上の心臓が鼓動していることも確認できるので、偽りがあれば、または「悪い」答えをしたら死ぬということかもしれないが。

 

「問う」

 

 アヌビスが口を開く。

 

「汝にとって、闇とは何か?」

 

 その質問に少し悩み、しかし、一つしか答えが思い浮かばず、正直に口を開く。

 

「…うん、たぶん、親友だ。

そいつがいてこそ今の俺があるし、そいつがいなけりゃ俺はここにいなかった。

悪友とかかもしれないけど、確かに親友だと思う。

最近は話せなくて寂しいけどな」

 

 確かに本心だ。

 真なる神のアンリマンユも、義母みたいにたまには口出せばいいのにと思わなくもないほどには。

 

 穏やかな表情のままで、しかし口調には驚きをにじませながら、裁きの神が声を出す。

 

「驚いた。

本心から言っておるのか?

いや確かに偽りなき本心のようだ。

闇を親友などとは。

いや、暗黒神と語らいたいというのも真のようだな」

「あいつ見てるだけだし、あっちはいいかもしれないがこっちはつまらん。

こっちを見てるんだから、少しくらい口を出しても罰は当たらないだろ?」

「は、は、は。そなたの誠意に従いこちらも誠意を示そう。

闇とは何か。普通の人間であったならば悪い概念に従った答えを返すだろう。

そうであれば秤は傾き、死んでいたはずだった。

闇に寄った神格としての顕現であることの影響を受けなかったとは言わぬ。

しかし、神殺しとて例外なく、まず間違いなく死ぬ質問のはずだった。

だが、貴様は死ななかった。死なぬどころか親友などと。

貴様の言うまつろわぬ暗黒の神も愉快という感情を知れたであろうな」

 

 確かにそんなことは言っていたが。

 

「もう終わりだ。

この術は自身の命を懸ける必要がある。

悪人を裁くために、それが偽りの悪人でないことを示すために自身の命を懸けるのだ。

神殺しなど例外なく、神を殺すという大罪を犯しているのだ。

悪人以外の何物でもなかったはずだ。

しかし、お前の中の権能(神を殺した証)は、そのすべてがお前を裁こうとしない。

面白い神殺しだ、お前は。

だからこそ、私の負けだ。

裁きの神たる私の目も曇ったものだ。

いや、父上の復讐のために動いた時点で決まっていたことかもしれないが」

「満足したか?

俺の答えはお前の満足のいくものだったか?」

 

 笑顔が返る。

 

「満足した。

我は我の本領を取り戻した。

それ以上の(さいわい)はない。

故に神殺し、そなたの勝ちだ」

 

 

--

 

 瞬きした後、白一色の空間はすでになく、代わりに砂漠のオアシスのような風景と、穏やかな表情のアヌビスとともに立つ、義母の姿がそこにあった。

 

「選択に後悔を得てはいけない。選択に責任を持ち、裁きを下せ。

おぬしの手のひらが世界を左右しうるものであると心得ることだ。

選択を間違えた(まつろわぬ神)が言うのもなんだがね。」

 

死者の裁きを司る神はそう言い、消えた。




裁く神が裁かれる。
王権の守護者が王権を否定する。

--
?????(?????) アヌビス:
 ??????????…

アンリマンユ無反応のため、詳細不明。

160319追記
アヌビスの権能について追加しました。
掌握でき次第、明記します。

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