ホテルで一泊。
町に帰ってからは、これまでの数日の運の悪さが無かったかのように平和だった。
街の大きさに見合わず、宿に小さいながらも風呂と呼べるものがついていたのも日ごろの行いの賜物だろうと軽く有頂天になるほどのテンションだった。
次の日も平和だった。
双子の兄が掏りの気配を覚えていたらしい。路地ですれ違った親切なおじさんから路銀を取り戻すことに成功し、露店で買い食いする程度の余裕を取り戻すことに成功した。子供に働かせて自分は何もしないという状況は腹が痛くなる。
しかし、それも嵐の前の静けさだったらしい。
--イラン某所、もう少しでトルコの国境
財布を取り戻し、腹を満たし、トルコ方面への旅を再開し数日。
集落に寄らず、野宿を中心に速度重視でイランを駆ける。
もともとカスピ海南端に沿うように西に向かっていたこともあり、最短でのトルコ入りを目指し、人目を忍びつつも体術における全力を駆使して走る。割と全力での疾走なのについてくる双子は、その純粋な才能ではやはり俺を凌駕しているのだろう。
そして、カスピ海が見えなくなり、このペースなら今日中に国境突破も夢じゃないな!などと考えたとき、文字通りの嵐が俺たちを包んだ。
数瞬で嵐は去り、数メートル先に立つ老人が言った。
「まつろわぬ神が現れ消えたと聞いて、戯れに来てみれば、その肌の色、その呪力、貴様が新しき神殺しだな?
貴様に、このカンピオーネたるサーシャ・デヤンスタール・ヴォバンに拝謁することを許そう!
名を名乗れ、最も新しき神殺しよ!」
この流れ、上から目線のこの感じ、ついこの間もあったなあと思うと同時、この人絶対勘違いしているなと人ごとのように思った。
--
サーシャ・デヤンスタール・ヴォバンは、現在公式に確認されているカンピオーネの中において最古参の魔王であり、一般的に「ヴォバン侯爵」と称され、恐れられる魔王である。
そもそも、現在の「魔王」という呼称の元となったとされる人物であり、その傍若無人な逸話は枚挙に暇がない。
孤児出身の彼は若い身空で神を斃し、成り上がり、魔術師団を壊滅させ、当時のカンピオーネを討ち斃し、数多の神々と激闘を繰り広げてきたまさしく戦闘狂である。加えて、侯爵という身分も貴族から奪い取ったもので、現在の名前はその貴族の飼い犬に由来するものであるとされている。
その保有する権能は、最古から戦い続けてきたものにふさわしく、同時に「戦争」に向いているとされる。
--
師匠のカンピオーネに対する説明は主観的過ぎて、おまけにヴォバン侯爵に対して敵意が漲っているせいであまり要領を得ない感じだった。
今思い浮かべた「ヴォバン侯爵」に関する情報は兄弟子の陸君が教えてくれたものだ。
そして、ここで最も重要な情報は、「戦争向き」の大規模大威力の権能を多数保有するというものである。さすがにそんなものから双子を守り通す自信がない。
少し焦りが生まれる。そして同時に、アフラマズダの権能が活性化しているのを感じる。これも陸君に言われたことだが、ヴォバン侯爵の悪行の数々は悪神もかくやというレベルだ。アフラマズダで対処することを考えるのと同時に、ヴォバン侯爵をここから引き離すことを決める。さすがに双子の武道の才と初歩の魔術程度では神殺しの戦いを見守ることすらできないだろう。
「この私が貴様の名を聞いているのだ、礼儀を知らぬか?神殺し!」
再度口を開く狼公に対し、静かに練り上げたアフラマズダの権能と、覚えたてながら神速を得ることのできるサタンの権能を同時に行使する。
数日試してみたが、相性がいいのが同時行使の負担が少ないことが救いだ。
そして、神速をもって近接し、胴を狙って右拳を振りぬく。
「不意を突いたと思ったんだけど!」
「名を名乗れと言っておろうが神殺しィ!!」
右拳は受け止められたものの、突進の勢いに十二翼の生み出す推進力を加え、そのまま強引に戦闘場所を移動する。
とりあえず目指したのはもう少しで着くはずだった湖、そのさらに先だ。
「あの子どもらを巻き込まぬためか…。
もうよかろう、今度こそ名を聞かせよ。
そののち、葬って見せよう」
まだ名前を聞くらしい、或いはこれから殺す男の名前くらいは知っておきたいということか。
「神殺し、カワムラです。
すいませんねえ、礼儀がなくて。
あなたのような、いろんな意味での大物は、子供の教育に悪い」
「吠えるではないか、新米が。
先手はすでにそちらがとった。
次はこちらが動くぞ!」
言いながら、影から染み出すように生まれたのは狼の群れだ。しかし、その奥には死相を浮かべた騎士や魔術師の姿も見える。
どちらも陸君から聞いたことのある権能だ。狼の群れを生み出す権能と自分が殺した死者を操る権能。
こちらも
思う間に騎士と狼が突進し、魔術師がその詠唱を開始するが、そこで窮奇の権能が「喰わせろ」というような意思を伝えてきているのに気付いた。
「現れろ!悪意を喰らう悪の聖獣!目の前の悪意はお前の贄だ!」
権能から伝えられた意志を言葉にし、悪意を喰らう聖獣を召喚する。
その姿は師匠に対して召喚した時より二回りも大きい有翼の虎であった。
そのまま、「好き放題に喰え」と指示を伝える。
空中に飛び出した虎は、姿勢を整え、狼の奥にいる死した魔術師たちに襲い掛かった。
同時に俺自身も飛び出し、近づいてきていた狼と騎士を吹き飛ばす。
サタンのときと同様に数が多いが、騎士を含めその質は神獣程度のようだ。
「悪意を喰らう虎の神獣とは、厄介なものを持っている」
「正直ここまでの効果とは思わなかったけどな!」
会話しつつも、こちらに手を休める余裕などない。
というか、虎が狼の群れを全然食べてくれないのだ。数自体は狼のほうが多いのでそちらの対処をしてほしいのだが、その指示は無視され、敵陣後方で魔術師たち
しかし、アフラマズダの加護もあり、狼や騎士程度に後れは取らない。
「埒が明かんか、ならば!」
最初に見たのと同じ嵐、しかし今度は暴風だけでなく矢のような水と稲妻を内包した嵐が叩き付けられる。
窮奇を引かせ、アフラマズダの水を操る権能と合わせ防御を固める。纏った水で雨の矢をそらし、同時に地面から延ばした水を避雷針として稲妻をそらす。
嵐はそれほど長く続かなかった。暴風は変わらず吹き荒れているが、稲妻の代わりに低いうなり声が響く。
「変身シーンは攻撃できないってのはお約束だが、変身シーンで攻撃するってどうなのよ?」
「戯言はいい!今度の一撃は痛いぞ!神殺し!!」
おそらくは狼召喚の権能の一側面であり、ヴォバン侯爵が変じたその巨狼が、その巨体に見合わない神速の突進を繰り出す。
俺自身の回避は何とかという感じだったが、窮奇の回避は間に合わず、その剛腕でもって一撃で消し飛ばされた。
なるほど、質というのは伊達ではないようだ。
しかし、それだけではなく、消えた狼とは違い、死者たちはいまだ現世に止められている。
こうなると神速とは言わないまでも、一部において高速で斬撃を繰り出す彼らが地味に厄介である。
巨狼の突進が数度繰り返された。
しかし、この数度の突進は周囲を顧みらずに行われた。結果として一番被害を受けたのは死者の軍勢である。後には少数のかろうじて神速を見ることができる程度の騎士が残っているだけである。
だがこれは形成の逆転とはならない。どちらも神速、しかし、熟練度の差か、相手のほうが優位らしい。一撃ごとに翼が抉られ、こちらの神速の速度は低下している。
アフラマズダの権能により、自身の判断力と直感を重視して強化を施し、かろうじて致命傷を避け続ける。
それも長くは続かない。翼はすべて失われた。同時に、神速も。
遠巻きに生き残った騎士たちが、そしてすぐ目の前に巨狼が立つ。
強面というレベルでないその顔は、恐怖心を湧き立てる。
「墜ちたか、神殺し。
どうだ?どういった気分だ?
次は、先達の言葉によく耳を傾けるよう、気を付けることだ!」
「…それって、見逃してくれるって…?」
「違うな、来世への手向けの言葉よ!死ぬがよい、神殺し!!」
神速を乗せずして放たれた巨狼の右拳に、左腕を横から叩き込み、その左腕を犠牲にかろうじて回避することには成功した。
しかし、それも相手が戯れているからできたことだ。ぐちゃぐちゃに弾けた左腕が音を立てながら再生する音を聞きながら、意識を巨狼以外に向ける。
その、翼をすべて失いながらもその権能が解除される気配のないサタンの権能へと。
思い出したのはアンリマンユの権能から与えられた情報。
それは死の呪い。死をつかさどる天使、サマエルとしての側面が持つ死の呪いの権能である。
右腕を上げ、こちらを見る巨狼。頬が涙で濡れているのを感じる。さすがにこの光景は怖い。
その表情は巨狼の心を擽ったようで、愉悦の声を上げる。
「怖いのか、新しき神殺しよ。
この程度の修羅場で奮い立つことができずして何が神殺しだ!
…だが、その表情はなかなかにそそる。
貴様を殺した後は従僕として我に仕える栄誉を許そう!」
しかし、俺の耳にその言葉は届いていなかった。
思案は自分の内。サタンの権能。サマエルの呪いの使い方。
その思いに反応したのはサタンの権能でもアンリマンユの権能でもなく、アフラマズダの権能だった。
つまりは、与える力の一種であると知る。
言葉とともに、再度、今度は嵐を纏った神速の右こぶしが振るわれる。
巨狼の話の間に、右手で胸ポケットからナイフを取り出していた。
そして、狼が笑っている間に、アフラマズダの付与でナイフの神格を上げ、そして、サマエルの死の呪いを付与する。
そして、最後、振るわれた狼公の右拳に対して、右手のナイフを差し込んだ。
--
どうしようもなく、俺は吹き飛んだらしい。擬音で示すなら「ぐちゃぐちゃ」に。
経験から、意識を失っていたのは数瞬であると判断する。
同時に、頭を含む上半身がそれだけの時間喪失していたことを自覚する。
爺さんとの距離は数メートルほど開いていた。
しかし、見上げた空に嵐はなく、起こした状態の先には膝をつく老人の姿が映った。
「神格を殺す毒だと!?
ええい…、これでは…」
サマエルの毒は効果を発揮したようだ。
意識を失う前の感覚を信じるなら、狼公の右腕に触れた直後、5つ位に枝分かれし、その枝分かれした先で、いくつかの何かを殺した感覚を得た。
狼公の言葉を聞くに、神格を殺す毒を付与する権能であったらしい。そして、その身に宿る権能のいくつかを殺す。まあ、爺の呪力はまだそれなり異常に感じ取れるので、例外なくすべてを殺すわけではないのかもしれないが。
上体を起こし、狼公を見据える。
「まだやるのか、爺さん?」
ようやく回るようになってきた口で話す。
「何を…!ぐっぅ…」
爺は返答のために立ち上がろうとしたのだろうが、それは成功しなかった。
立ち上がれないほどのダメージを負わせることには成功したとみていいだろう。
だが、複数の神格を殺され、これだけのダメージを受けてまだ生きているとは頑丈な爺さんだとも思う。あるいは不死か復活か、そういった権能に由来するものかもしれない。
「もうお開きってことで、どうだ?
俺ももう余力はないぞ?」
呪力的な意味では事実だ。権能的な意味ではアンリマンユがまだ使える可能性を残しているが。
「…うん?チィこんな時にか…。
もう少し後か前であれば…。
よかろう、これで終わりだ!
新たなる神殺し、カワムラよ!
このサーシャ・デヤンスタール・ヴォバンに土をつけたこと、誇るがいい!
この借りはいずれ返す、しかし今は引こう!
次、相対するまで生きていれば、その時こそ我が手で殺してくれる!!!」
すさまじい形相でこちらをにらみ、そして消えた。
どういう権能かはわからないが瞬間移動とかそういう類だろうか。
とりあえず、今日の試練はこれで終わりだろう。
「あぁ~、終わったぁ~!」
だらしない声も、今は誰も聞いていないのだし許容してもらおう。
あの爺、俺のこと最初から最後まで勘違いしてやがったなと今更ながらに思う。
双子の元へ早く帰ろうという思いと、少しだけ休みたいという思いがせめぎあう。
後者の思いに傾き、少し上体を反らした時だった。
--
今日の教訓は、「悪いことは続けてやってくる」だ。
狼公はワン公と同じニュアンスです。
サマエルの毒は活性化中の神格すべてに対して作用します。
今回はアポロンの神格を殺し、それによって、侯爵に割と深手を負わせることに成功しました。
ほかの枝分かれした先では殺しきるところまで行っていません。