☆ ☆ ☆
冬の名残ともいえる肌寒さを感じる、三月の初めのこと。二年連続で生徒会長へ就任したわたしは今、生徒会室で一人うーんうーんと頭を抱えていた。その原因は、もうじき迎える卒業式の送辞原稿について。
去年はせんぱ、奉仕部の手助けもあって無難に終わらせたものの、今年はわたし一人でなんとかするしかない。そのため、こうしてインターネットで見本を漁りつつペンを握ってはいるのだが、とある超個人的な理由のせいで未だ空白のまま。
もどかしさからくる苛立ちに、原稿の白紙部分をペンの先で一定のリズムでとんとんと叩く。ただそうしたところで文字が浮かび上がってくれるはずもなく、無機質な音が虚しく響いただけだった。
「はー、駄目だー……」
もう無理マジ無理と机に突っ伏し、ぐでーっとしながら置時計を確認する。すると、数分後には一日の学校生活が終わることを知らせるチャイムが鳴ってしまうことがわかった。
……結局、今日も全然進まなかったなぁ。はーっと大きく息を吐き、諦めてパソコンの電源を落とす。
と、その時ちょうど生徒会室の扉ががらっと勢いよく開かれた。
「失礼するぞ」
進捗確認ついでに様子を見に来たらしく、平塚先生が白衣をはためかせながら中へ入ってくる。
「……先生、ノックくらいしてくださいよー」
「おや、ついに一色まで雪ノ下みたいなことを言うようになってしまったか」
「なんですかそれー……」
からかいの色の含ませた声で言われ、むーっと唇をとがらせた。だが、こちらの不満具合など気にもせずに平塚先生は続ける。
「で、どうだね調子は? いい加減そろそろ提出してもらわんと困るのだが」
腕を組み、平塚先生がじーっと見つめてきた。問いただす瞳に耐え切れず、わたしはおどおどきょろきょろと目が泳いでしまう。
「……あ、え、えーっと、……あはっ」
実質悪あがきに他ならない時間稼ぎの末にきゃぴるんっと笑って誤魔化すと、平塚先生が盛大にため息を吐いた。や、だってわたしにもいろいろと私じょ、事情がありましてですね……。
「最近はしっかりやっているなと感心していたんだがなぁ……」
「す、すいませーん……」
書きたくないとか、やる気がないとかそういうわけじゃないんだけど。でも、結果的に時間の余裕をなくしてしまっているのはわたしだ。
「というより、何をそんなに手間取っている? 去年使った添削済みの原稿だって君は持っているはずだし、書き方や見本だってネットを探せばいくらでも転がっているだろう?」
はい、仰るとおりです。返す言葉もないです。ていうかさっきまで見てました。
「も、もうちょっとだけ待ってください! 絶対なんとかしますから!」
「一色、先週も今とまったく同じことを言っていたな?」
「………………それは、まぁそうなんですけど」
参ったなー、見逃してくれないかなー、でもだめだろうなー。顔をぷいと逸らし、ばつが悪そうに口の中だけでもにょもにょ呟く。
あ、平塚先生に事情を説明して……や、だめだ、それじゃここまで悩んだ意味がない。でも正直手詰まり感は否めないしー……うーん、どうしたらいいんだ……。
「うすうす気づいてはいたが、何か理由があるようだな」
ああでもないこうでもないと考えていたのが顔に出てしまっていたらしく、平塚先生はふーむと顎に手を当て納得したように頷いた。
「仕方ない、そういうことならもう少しだけ待とう」
その言葉を聞き、わたしは一転してほくほく笑顔になる。やったー! また締め切り延びたー!
「ありがとうございますー!」
「ただし!」
ほわぁと心が軽くなったわたしを叩き落すかのように、平塚先生がぴしゃりと言って続ける。
「どうして詰まっているかを私に説明してみたまえ。それが条件だ」
「……へ?」
「随分と悩んでいるみたいだからな。なに、教師らしくアドバイスの一つくらいしてやれればと思っただけさ。まぁ、単なる私のお節介だよ」
あぁ、なるほど。思い悩む生徒のために一肌脱ごう的なやつですか。うーんでもなー、話してみろって言われると逆に話したくなくなるというか、なんというか……。
別の意味で頭を唸らせていると、平塚先生は一度くすりと笑ってそのまま言葉の先を繋げる。
「もちろん断ってくれてもいい。その場合、締め切りの延長はなかったことになるがな」
……ずるくないですかね、それ。がっくりと肩を落とすわたしに平塚先生は今度はしたり顔で微笑み、「さてどうする?」と視線で尋ねてきた。
「わかりましたよ……。言えばいいんですよね、言えば……」
「そう拗ねるな、悪いようにはしないさ」
ぶっすーとほっぺたに空気を溜め込んだわたしを見て、平塚先生がやれやれと苦笑する。ただ、その表情は子供を見守る母親のように優しいせいで、これ以上反抗する気をなくしてしまう。
実質命令、あるいは脅迫以外の何物でもない提案をしぶしぶ受け入れた矢先、すっかり耳に馴染んだチャイムの音が学校中に響き渡った。
「……話は明日だな。今日はもう帰りたまえ」
フェードアウトしていく鐘の音を背景に、平塚先生はすっと手を差し出してきた。どうやら代わりに戸締りを済ませてくれるらしい。
わたしはお礼を添えて鍵を預け、鞄を手に生徒会室を後にする。そうして平塚先生と別れた後、昇降口へ続く廊下を歩いている途中なんとなく足を止め、窓の外へ目を移す。
「卒業、か……」
赤と青の二つの色が溶けるように入り混じった空を見上げたまま、一人ぽつりと呟いた。だが、わたしの言葉は吐き出した息と共に、ただただ、静かに消えていくだけだった。
☆ ☆ ☆
翌日の放課後、普段より速度が落ちた足取りながらも職員室へ運ぶ。ノックの後そろりと扉を開けると、わたしの姿に気づいた平塚先生がひらひらと手を振ってきた。
「お、来たか」
「だって先生、ほとんど強制だったじゃないですか……」
「君の場合、そうでもしないと意地を張り続けるだろう?」
じと目で言ってみたものの、図星を突く綺麗なカウンターを貰ってしまった。いつも思うけど、間違いなくわたしよりもわたしのことわかってるよなーこの人……。
反論できずぐぬぬと歯噛みしていると、平塚先生はおかしそうにくすっと笑う。しかしその後、他愛のないお喋りはこれでおしまいと言いたげにちらりと目配せをした。
「すまないが、先にあっちで待っていてくれ」
何か急ぎの仕事でもあるのか、平塚先生はそう告げて職員室を出て行ってしまった。一瞬呆気にとられぽかんとしてしまったが、ここで立ち往生していても仕方ないので従うことにする。
平塚先生の視線の先にあったのは、職員室の一角にある応接スペース。今は誰も使っていないらしく、革張りの黒いソファが寂しげに佇んでいる。そこに腰を下ろすと、思っていたより身体が深く沈み込んだ。
……なんだかんだ結構疲れたまってんのかな、わたし。
ふいーっと息を吐き、ぼーっと天井を眺める。そのまましばらくの間過ごしているうちに、かつかつとヒールが床を鳴らす音が近づいてきた。
「待たせたな」
戻ってきた平塚先生の手にはミルクティーの缶。わざわざ買いに行ってくれたようで、熱いくらいに温かい。受け取った両手から、じんわりとした温かさが広がっていく。
「……ありがとうございます」
「気にするな」
わたしの頭をぽんと叩くようにして撫でた後、平塚先生は対面のソファに腰掛ける。こちらから話し始めるのを待っているのだろうか、穏やかで優しく、温かみのある眼差しでわたしを見つめている。
その瞳を見て、どうしてあの捻くれ者がこの先生を信じていたか改めてわかった気がした。きっとどんな些細な変化も見逃さず、気遣いも忘れず、こうして見守ってきたのだろう。
「……あの、それじゃあ、相談、お願いします」
だからこそ、途切れ途切れながらも素直な気持ちがすんなりと口から出ていった。
「うむ、話してみたまえ」
「はい……。うまく言えるか、わかんないですけど……」
すーはーと深呼吸して、これはいる、これはいらないと頭の中で思考や記憶を整理する。そうして残ったものを一つにまとめ、一つの思い、あるいは願いとして。
「……えっと、わたしらしい送辞を書きたいんです。……その、お世話になった先輩、……たちのために」
意外だったのか、平塚先生がぱちくりと目を丸くする。
だが、言葉を挟むことはない。なら、言い切ってしまおうとわたしはさらに独白を重ねていく。
「でも、わたしの言葉が見つからないというか……うまく形にできないんです。だから、全然書けなくて……」
平塚先生の言うとおり、ただ書くことや言葉を飾り立てること自体はわたしにもできる。けど、そこに特別な思いを込めるとなると話は別だ。
――自分の思いを、自分なりに、自分の言葉で。
それをどう書けば自分がちゃんと納得できるのか、どう言えば相手にちゃんと伝わるのか。未だにわからないその問いかけの答えが、わたしは知りたい。
「まぁ、そんな感じです」
「……ふむ。自分の言葉、か」
洗いざらい胸中を吐き出すと、平塚先生はソファの背もたれに身体を預けていた。ぎしっと革の軋んだ悲鳴じみた音が、小さなスペース内に響く。
「どうやら君は難しく考えすぎているようだな」
「難しく、ですか」
「ああ」
そこで平塚先生は白衣のポケットから煙草を取り出し、「いいかね?」と尋ねるようにそれを見せてきた。頷きを返すと、火打石のかちりとした音の後に白い煙がもわもわと立ち込めていく。
すぱーっと煙を吐き出し、平塚先生がもう一度わたしの方へ向き直る。
「……たとえば、そうだな。君が先輩たちに助けてもらった時、添える言葉は時々で変わっても基本的に言うことは同じだろう?」
「まぁ、はい」
「それと同じことだよ」
「はぁ……」
掴めているようで掴めていない、そんなわたしの様子を見た平塚先生は柔らかな笑みを口元にたたえる。
「君は毎回いちいち難しく考えながらお礼を言っているのかね?」
「……あ」
そっか。そういうことなのか。
まだ全部が見えたわけじゃないけど、なんとなくわかった。
簡単でよかったんだ。綺麗な飾りとか、そういうのはいらないんだ。
たとえ支離滅裂でも、拙くても、それでいいんだ。
「……後は君の仕事だ。頑張りたまえ」
わたしの心情が顔色に表れたのを見て、平塚先生は安心したようにもう一度煙草の煙を吐く。白煙の中に浮かぶその表情はどこかの捻くれ者と同じで、底抜けに優しい、温かいものだった。
☆ ☆ ☆
卒業式の当日。
順調に予定通り進行していく式を、ここでぶち壊すことになるなんて誰が思うだろうか。罪悪感や緊張感を覚えながら、一段、また一段と、床を鳴らして壇上へと上がる。
視界の端から端までずらりと並んでいる人のかたまりの中には、静かに時間が過ぎていくのを待っている人、しみじみと物思いに耽っている様子の人、口元を手で押さえ既に泣いてしまっている人と様々だ。
いろいろな感情が込められた生徒や先生の視線を一身に浴びながら、マイクのスイッチを入れる。もちろん手には原稿なんて野暮なもの、存在しない。
「――厳しい冬の寒さの中にも、春の暖かさを感じることのできる季節となりました。本日、晴れてこの総武高校を卒業なさる三年生の皆様、本当におめでとうございます。在校生を代表し、心よりお祝い申し上げます」
あたりさわりない送辞の冒頭部分を読み上げると、ただでさえ厳かだった空気がより厳粛さを増していく。
最初のくだりを継ぐのは、学校生活についてから始まり、やれ夢だの希望だの将来だの、といったものが大半だろう。また、それが普通で無難な送辞だ。
けど、わたしは。
顎を引いて目を閉じ、胸に手を添えて一呼吸する。そしてスイッチを切り替えるように、ゆっくりと瞼を開けながら、確かな意志を込めて顔を上げた。
「……さて、ここからは個人的な話を含みますがご容赦下さい」
総武高校の生徒会長としてじゃなく、在校生の代表や模範生としてでもなく。
ただの後輩として。
――また、一人の女の子として。
「最初にわたしが生徒会長になった時は、仕方なくでした。ぶっちゃけ嫌々でした」
場にそぐわない、くだけた声と口調がマイクという媒体を通して体育館中に響く。送辞としてはふさわしくない雰囲気に、周りからはざわざわと戸惑いの声が上がる。
「だから適当でいいやって。めんどくさくなったら押し付けちゃえ、助けてもらっちゃえ、どうせ来年になったら辞めるんだし、それでいいやって」
自業自得とはいえ、勝手な悪意を押し付けられて。けど、まさか利用されて乗せられるはめになるとは思わなかった。もしかしたら、この時にはもうわたしは変わり始めていたのかもしれない。
「でも、ある日気づくことができたんです。このままじゃだめだ、嫌だ……って。ちゃんとぶつかんなきゃわかんないこともあるって、教えてもらえたから……」
決定打になったのは、心に波紋を呼んだ一昨年の冬の出来事。忘れない、忘れたことがない、忘れられないあの時間。
だから欲しくなって追いかけたんだ。わたしでも手が届くかな、手に入れられるかなって。
「それを教えてくれたのは……他でもない、先輩、方でした」
いつだって頭の中に浮かぶのは、三人の先輩の姿だ。いつだって頭の中に残っているのは、時間さえあれば足繁く通っていた、あの空き教室の風景だ。
「特に……一番お世話になった先輩は、どよーんって死んだ目をしてて。わたしの扱いも、ほんと雑で、酷くて……」
いつだって心の中に焼きついているのは、一人の先輩の姿だ。いつだって心の中から離れなかったのは、理由をかこつけて出来る限り一緒に過ごしてきた、先輩との時間だ。
「なのに、わたしが困ってたらめんどくせぇだのやりたくねぇだの言うくせに、しっかり最後まで手伝ってくれて……いつも助けてもらいました。いつも、最後まで……」
初めて奉仕部へ依頼をした時も、その年のクリスマスイベントも。
翌年のバレンタインイベントも、城廻先輩の卒業式や小町ちゃんの入学式も。
おまけに文化祭や体育祭と、数え切れないくらい、たくさん。
「だからいつも甘えちゃって、頼っちゃいましたけど……。でも、そんな先輩方は、先輩は、今日……卒業、していっちゃうんです……よね……」
口にした瞬間、これまでの出来事が短い間の中で鮮明に再生されて。がらがらと、何かが音を立てて崩れ落ちていった。
「……先輩」
歯止めが利かなくなったせいで、心の隙間が大きく広がって、我慢できなくなった。
「せん、ぱい……」
熱い気持ちが胸の奥からこみ上げてきて、そのまま瞳に浮かんだ。
「わたし、……ちゃんと、生徒会長、できてましたか? いい学校に、できましたか……? これでも、頑張って、きたつもり、なんですよ……。今は、やっててよかったって、思ってるんですよ……」
こぼれ落ちないよう、こらえながら、拙くても、繋いで。
「できるなら、もっと、そばで、見ててほしかった、です……。いつもみたいに、失敗したら、怒ってもらいたかった、です……」
綺麗な飾りなんか捨てて、支離滅裂でも、感情のままに、紡いで。
「卒業なんか、して欲しくない……。ずっと、一緒に、いたい……。でも、どうしようも……ないし、わたしも、このままじゃ、だめなのは、わかって……るから……」
けど、あっけなく伝って、こぼれ落ちていった。
ぽたっ、ぽたっと、わたしの気持ちを表すように、ただただ、そこに滴って。
「……卒業、おめでとう、……ございます」
マイクのスイッチを切り、袖口でぐしぐしと目元を拭いながら壇上を降りる。
すると、しーんと静まり返っていた空間を裂く拍手の音が、一つ。
卒業生の列のほうからだろうか、ぱち、ぱちと遠慮がちに、弱々しく、目立たないように、ただただ、らしく。
その後、すぐに近くからもう一つ、また一つ、少し離れた位置からさらに一つ、また一つと増えていった。
最後に、教員席の方からも、一つ。
温かい、紅茶の香りは。
優しく、明るい賑やかな声は。
そして、わたしにとって『特別な先輩』の姿は。
――あの部屋にはもう、存在しない。
でも。
だからこそ、わたしも、先輩たちから『卒業』しなくちゃ。
そうですよね?
――『 』先輩。
それでは、ここまでお読みくださりありがとうございました!