× × ×
俺には一色いろはという後輩がいるのだが、こいつはときどき言葉を歪曲して、告白したわけでもないのに振ってくることがある。いつもは適当に聞き流してまともに取り合わずに済ませてきたのだが、ある時心に一つの疑問が生まれた。
――それは、一色いろはのお断りをお断りし続けるとどうなるか。
しかし、それを実行する機会はなかなか訪れず、半ば諦めていた日のことである。待ちに待っていたチャンスがようやくやってきた。
「せんぱーい」
奉仕部へと向かう途中、俺の姿を見つけた一色がぱたぱた駆け寄ってくる。
「……なんか用か」
「相変わらずリアクション薄すぎませんかね……」
ため息を吐きながらも、一色が続ける。
「まぁいいです。で、先輩。ちょっとお願いしたいことが……」
そして、これが本題とばかりにキラキラとした瞳でいつものようにぐいっと袖を掴んでくる。だからお前のそれ、あざっといっつーの……。
「生徒会の仕事なら手伝わんぞ」
先読みして言うと、一色が不満げにぷくっと頬を膨らませる。いや、だって仕事なんかしたくないし……。ていうか、手伝ってもらうことを前提にするのそろそろやめなさいよ、ほんと……。
「いいじゃないですかー。先輩、どうせ暇ですよね?」
どうやら俺に予定があるという考え自体がないらしく、首を傾げたままきょとんとして尋ねてくる。相変わらずだな、こいつ……。まぁそれはさておき、ここからどう誘導するかだが……。
「お前、もうすぐ二年になるんだろ?」
「……はぁ、それが何か?」
一色が「いきなり何言ってんだこいつ……」というように胡乱げな表情をした。ムカつく顔だが、今は我慢だ我慢……。
「だから、俺に頼らなくても何とかできるようになりなさいよ」
「う……」
その言葉に、居心地悪そうに目を逸らして一色が身を捩った。
「お前なら出来ると思うぞ。しっかりやれよ、生徒会長」
自分の中で精一杯の微笑みを浮かべる。よし、これで後はこいつが食いついてくれれば完璧だ。
「い、いきなりなんですか口説いてるんですかでもそんなありきたりな言葉じゃちょっとしかときめかないですごめんなさい」
距離をとってわたわたと大げさに両手を振る仕草に、見事引っかかってくれたなと内心でほくそ笑む。っつーか、よくよく聞くともう断ってねぇなこいつ……。まぁ、今はそのことはとりあえず置いておこう。
「こっちこそお断りだけどな……」
「えっ……」
聞こえるか聞こえないか程度の声量で呟くと、一色の顔が歪んだ。え、なにその反応……。
「あ、あの……」
「いや、なんでもない」
つい本音がとばかりにあたふたとしつつ顔を背ける。本来ならこれが演技だと見抜けるレベルではあると思うのだが、動揺しているのか、一色はただおろおろとするだけだった。
あまりのうろたえっぷりに思わず意地の悪い笑みがこぼれそうになるのを我慢していると、一色がしょんぼりとしながら、今度は袖をちょこんとつまんできた。……あ、あの、一色さん? なんでそんなに落ち込んでるのん?
「先輩、もしかして、怒ってますか……?」
「別に怒ってねぇよ。だから、離せ」
つっけんどんな俺の態度に、一色が肩をびくつかせる。う、うーん、なんかもう可哀想になってきた……。雑に扱いすぎてるかな……。しかし、ここまできたらもう後には引けないと自分に言い聞かせ、つまんでいる手を振りほどく。
「じゃあな」
そう言って場を離れようとすると、一色は縋りつくように再度手を伸ばそうとしてきた。だがそれは届くことはなく宙を切って、力なくだらりと垂れ下がる。
そんな一色のどこか寂しげな視線を背中に受けながら、俺は止めていた足を動かして奉仕部へと向かった。ご、ごめんないろはす……。でも、出来心には勝てなかったよ……。
まず、一回目の結論としては。
一色いろはのお断りをお断りすると、彼女はしょんぼりとしてしまう。
とりあえずは、こんなところだろうか。
× × ×
翌日の昼休みのこと。
廊下ですれ違った一色が、顔色を伺うようにちらちらと見てきた。その視線を無視してベストプレイスに向かっていると、背後から足音が近づいてくる。
「せ、先輩、待ってください」
一色の慌てたような声に足を止め、首だけ振り返る。
「なんだ」
「あ、あの、昨日は失礼なこと言って、ごめんなさい……。謝りますから、その、手伝ってもらえませんか……?」
俯いて声を震わせながら、一色が先日の謝罪を口にした。
実際、一色は普段通り接してきただけでそういう意味では彼女に何も非はない。きっと、俺のためにあれから散々考えて、自分の何がいけなかったのか、どうして俺が怒ったのかを振り返っていろいろと反省していたのだろう。少なくとも、表情にはそんな色がある。
「気にするな、お前が悪いわけじゃない」
そう、これは俺の興味本位だ。ただ単に俺の好奇心を満たす行為でしかない。それだけのために振り回され、しおらしくなってしまった姿に罪悪感を覚えなくはないが、俺もこいつには散々振り回されているし、まぁ、おあいこってことでいいよね? むしろおあいこにしないとさすがに心がですね……。
「じゃ、じゃあ……」
一転して、一色の表情が明るくなる。そして、期待に満ちた色を瞳に滲ませてこちらを見つめてくる彼女にうむと頷き、口を開く。許して、いろはす……。
「いや、手伝うつもりはない」
「えっ……」
予想外だったらしく、一色がぽかんとした顔をする。その後、ようやく状況が飲み込めると瞳を揺らしながら、「えっと、えっと……」と繰り返し呟き始めた。なんだそれ可愛いなお前。
ついつい庇護欲がかき立てられ手を差し伸べてしまいそうになるが、なんとか抑え込み、どうしたらお断りを引き出せるか考えを巡らせているとふと気づく。
もし、俺の仮説が正しければきっと。そう思い、混乱している一色に口元を緩めてかっこつけながら言葉を放つ。
「昨日も言ったが、今のままじゃお前のためにならないんだよ」
聞くなり、一色がぴくっと肩を震わせた後、くわっと目を剥いた。
「なんですか口説いてるんですかそうやってまたわたしのためとかいってポイント稼ぎですかでもさすがに露骨すぎるのでできればいい雰囲気の時にお願いしますごめんなさい」
……もしかしてこいつ、複雑なようで案外単純なのでは。しかもやっぱり断ってねぇし。
「だから、こっちだってお断りだっての……」
「……あう」
昨日と同様にかすかに聞こえるくらいの声で呟くと、くしゃりと顔を歪め、一色が泣くような声を漏らす。……そ、そろそろやめたほうがいいのかな? なんか本気でへこんでるっぽいんだけど……。
「じ、時間なくなるし、もう行くわ」
「あっ……」
口を開けては閉じてを繰り返す一色をその場に残したまま、俺はベストプレイスで昼食をとることにした。……フッ、比企谷八幡はへたれて去るぜ。
ニ回目の結論としては。
一色いろはのお断りをお断りした後にもう一度お断りすると、彼女はどうしたらいいかわからなくなるようだ。
× × ×
その日の放課後、奉仕部で本を読み耽っている最中、こんこんとノックの音がした。タイミング的に一色だろうなぁ……。むしろあいつ以外ありえないまである。
「どうぞ」
雪ノ下の声に、やや遠慮がちに扉が開かれ、一色いろはが姿を現した。……やっぱりなぁ。
「こ、こんにちはですー……」
いつもの馴れ馴れしさはどこへやら、そわそわと落ち着かないご様子。こいつも普段からこのくらい控えめなら可愛い後輩って認識なんだけどな。や、まぁなんだかんだ面倒見ちゃう俺も俺だけど。
「こんにちは、一色さん」
「いろはちゃん、やっはろー!」
雪ノ下と由比ヶ浜が挨拶を済ませるのを見届けると、手元のラノベに視線を戻す。一色は何も言わない俺にちらちらと視線を送ってきてはいるが、全て無視する。……気まずい。
「あ、あの、今日は、先輩に用があって……」
「断る」
声のするほうに瞳の先を合わせることなく、淡々と短く返す。
「ヒッキー、どしたの? なんかいろはちゃんに冷たくない?」
「いや、別になんもないぞ」
不穏な空気を感じ取ったのか、由比ヶ浜が不思議そうに尋ねてきた。そう言われても、俺は別に一色のことが嫌いなわけではない。俺はただ、お断りをお断りし続けているだけなんだ。……もう心臓が持たなくなってきてるけど。
「……部長命令よ。行ってあげなさい」
本のページを繰る手を止め、雪ノ下が目を伏せながらそんなことを言ってきた。
「ゆ、雪ノ下先輩……」
思いがけない援護射撃に、一色が瞳をうるうるとさせる。
「もし、それを断ったらどうなる」
「平塚先生に報告するわ」
勝気な笑みをこちらに向け、雪ノ下が言う。平塚先生を引き合いに出されると強制力が働いてどうしようもない。なぜなら、俺が物理的に死んでしまいかねないからだ。
「ちっ、わかったよ……」
しぶしぶ承諾し、鞄を手にして席を立つ。
「いってらっしゃーい」
お菓子をぽりぽりと食べている由比ヶ浜に見送られる中、部室を後にする。
「あ、あの、生徒会室に……」
「わかった」
身体をふるふると震わせて一色が口を開いたので頷き、生徒会室へ向かうことにする。そ、そこまで怯えなくてもいいんじゃないかな……。や、俺のせいだけどさ……。
とぼとぼ歩く一色の姿に胸のあたりをちくちくと刺されるような錯覚に陥りながらも、歩調を合わせて昇降口へと続く廊下を歩いているうちに生徒会室に着いた。
促されるまま中に入ってみれば他の役員の姿はなく、毎度のように俺と一色の二人だけ。いやだからなんでいつも他の役員いねぇんだよとため息を吐く。
「……先輩」
一色が後ろ手で扉を閉め、弱々しく俺を呼んだ。その直後、不意にぽとりと床に滴が落ちる音がした。なーんか、嫌な予感がする。嫌な予感しかしなくてやばい。
「わたしと一緒にいるの、そんなに嫌、なんですか、うぇっ……」
……今こいつうぇって言った? なんだかやけに幼すぎる声音に手遅れな感じがしつつも目を向ければ、一色が顔をひくひくとさせながら大粒の涙をこぼしていた。俺、もしかしなくてもやらかしたよねこれ……。
「ひっ……」
「お、おい、一色……?」
「せ、せんぱいに、ひぐっ、わたし、嫌われ、っ、……うぁぁぁぁん!」
こらえきれなくなったのか、一際大きな声をあげて一色が泣き出した。ねぇ待ってガチ泣きするとか聞いてないんだけど……。
さすがにこれはまずいと思い、なんとかなだめようと彼女の頭に手を乗せる。
「お、俺が悪かった。だから、泣き止んでくれ……」
よしよしと小町にするように優しく頭を撫でさすると、一色が力いっぱい抱きついてきた。瞳を潤ませたまま顔を上げた彼女には、いつものあざとさは見えなかった。
「せ、せん、ぱい、わ、わたしの、こと、嫌い、じゃないん、ですか……?」
「ああ、嫌いじゃないぞ」
ぽふぽふと頭を軽く叩くように最後に一撫でしたところで、一色はようやく泣きやんでくれた。よ、よかった……。こいつが泣いているのを誰かに見られてたら、問答無用で俺が悪者になっていたところだった……。いや、まぁ、どっちにしろ俺が悪いことには変わりないんだけど……。
「なんですかそうやってまたわたしの傷心につけこんで口説こうとしてきて一体なんなんですかなにがしたいんですか嬉しいですけどごめんなさい」
「いやそれは絶対ないから安心してくださいごめんなさい」
涙を流しているにもかかわらずなおもお断りしてくる生意気な後輩に、ついもっといじめたくなり彼女の真似をしてお断りのセリフを吐く。……ふっ、俺のターンはまだ終了してないぜ!
「………………な、な」
な?
「な、なんで口説いてくれないんですかわたしの何が気に入らないんですか」
肩をわなわなと震わせ、俯きつつも一色が尋ねてくる。いや、そもそもなんで最初から俺が口説く前提なのん?
「なに? お前は俺に口説いて欲しいの?」
「えっ、あ、いや、別にそういうわけじゃないというか、そういうわけというか……」
なんだかよくわからないことを言いながら、そしてもじもじと身を捩りながら一色が俺をちらちらと見てくる。仕草はあざといくせに、今のこいつなんか素っぽいんだけど……。
「どっちなんだよ……」
本当、こいつはよくわからない。思わず呆れたような顔をしてしまった。
「や、やっぱり、先輩、わたしの、こと……」
そんな表情をしている俺を見て、一色が小さな嗚咽を漏らし始めまた目を潤ませる。……あーもう、これ以上こいつを泣かせてもしょうがないし、俺の負けだな。ていうか、これ以上は俺がもう無理。マジ無理。
「だから、別に嫌いじゃねぇよ」
「じゃ、じゃあ、どうして、どうしてわたしじゃだめなんですかー!」
俺の言葉に駄々っ子のようにぽろぽろと涙を流して逆ギレしながら、一色が俺の胸元に顔を埋めてぽかぽか叩いてくる。なんだそれやっぱり可愛いなお前。
すんすんと鼻をすすっている一色を見て、明らかにやりすぎたなと反省しつつ彼女の頭にもう一度手を触れさせる。
「本当にお前が嫌いだったら、こんなことしてねぇから」
「ぁ……。ぐすっ……、はい……」
普段のあざとさがすっかり抜けてしおらしくなってしまった一色の姿に、今度こそ手を差し伸べる。こんなこと言うのはらしくないが、俺の勝手で泣かせてしまった可愛い後輩へのせめてもの罪滅ぼしとするか……。
「責任、とってやる」
「ふぇ?」
涙を目じりに残したまま気の抜けた顔をする一色に、ふっと微笑みかける。
「責任、とって欲しいんだろ」
「……はいっ!」
それを聞いた一色は、満面の笑みを浮かべて抱きつく力を強めてきた。俺もそれに応えようと彼女の背中にそっと手を回し、優しく包む。……こいつの身体、華奢なくせにやわらけぇな。
この後、めちゃくちゃご奉仕した。
最後の結論。
お断りを重ねられてどうしたらいいかわからなくなってしまった一色いろはは、余裕がなくなったのか、すぐに泣き出してしまうようだ。
そして、罪悪感からうっかり白状してしまった俺に一色が更に責任追及してきたことで、彼女と正式に付き合い始めるようになったのはまた別の話である――。
それでは、ここまでお読みくださりありがとうございました!