無免ライダーが超人血清(仮)でパワーアップした結果 作:磯野 若二
チャランコという青年は、最近とある悩みを抱えていた。
彼が通う道場に新しく弟子が入門してきたのだが、その人物が悩みの種である。
その始まりは、彼がお昼から道場へ行こうと千段近くある階段をゆっくり登っている時だった。
「前から失礼!」
そう言って駆け下りてくる新弟子はチャランコよりも頭一つほど背が高く、身体もがっしりで筋肉質、髪を短く切り揃えたハキハキとした感じの眼鏡の青年だった。
適当に会釈し、すれ違いざまに会釈を返す姿を見て、チャランコは礼儀正しいやつだな、と思っていた。
そのまま階段を登り、三分の一ほど踏破した頃。
「後ろから失礼!」
そう声をかけてチャランコを抜き去る男の姿があった。
先ほどの新弟子である。
チャランコの通う道場では、体力作りとして道場への唯一の通路であるこの階段の昇降を課していた。
新入りにしては気合が入っているなと、一番弟子であるチャランコは走りゆく男を見ていた。
そして半分ほど登り終えた時。
「前から失礼!」
後ろからチャランコをに抜いたばかりの男だった。
これにはチャランコも驚き、あまり気張りすぎるなよと声をかけてしまった。
この階段は、険しい山の麓から頂上付近まで設けられており、その高さは軽く百メートルは超えるだろう。下から登るにも、上から降りるのにも、それなりに時間のかかるのである。本当の鍛錬はこの後にあるのだから、今から全力疾走しても意味がないという親切心から来た忠告だった。
それに対し、やはり溌剌とした口調で礼を述べた男は、それなりに早い速度で階段を駆け下りていった。
いくら後に入門したとはいえ、新弟子はチャランコより五つ年上の男ざかりである。体力は大丈夫なんだろうかと考えながら、全体の三分の二を歩いた頃だろうか。
「後ろから失礼!」
件の男だった。チャランコは驚くと同時に、その男に対してある感情が芽生えた。こいつサボってるんじゃないか、という猜疑の念である。
いくらなんでも早過ぎるのだ。今はもう辞めていったチャランコよりも格上の先輩たちでさえ、下から上へ登りきるのに十五分ほどかかるのだ。新弟子は、恐らくここまでで五分ほどしか時間をかけていない。
この階段は見晴らしがいいとは言え、地層が顔を覗かせる箇所が多々あったり、急勾配がそこかしこに点在したり、崖に根付いた松などが茂っていたりと、階段から見下ろす限りでは死角が多いのだ。
その考えに至った時、チャランコは少し激怒した。必ずや、あの新弟子の怠惰の証拠を捉えると決意した。
もしかしたら、チャランコは危機感を抱いたのかもしれない。彼の道場は、武術界でも最高クラスの実績や実力をもつ師範により創設された名門なのだ。とある事情で弟子のほぼ全てが辞め、チャランコとあの男しか属していない状況であろうと、その看板を舐められる訳にはいかない。現一番弟子であるチャランコは張り切り、新弟子の全貌を暴こうと小走りで階段を駆け上っていった。
そしてまた新弟子とすれ違い、やっとの思いで階段を登りきったチャランコは、階段を駆け降りる新弟子を視界に収めながら携帯を取り出し、新弟子が階段を登る様をビデオ撮影することに決めた。
無意識下に嫉妬や焦燥の混じったチャランコ。彼の携帯端末は、ちょうど一番下まで降り、切り返す男の姿を映していた。
明らかに人間とは思えない速度で足を動かす新弟子の姿を。
一段飛ばしは当たり前、二段や三段も飛ばし、時には五、六段以上を連続で跳ね超えながら進む姿に、チャランコは顎が外れそうになっていた。
その速度を維持し、時に加速しながら近づいてくる男が、階段を登りきり、そして再び駆け下りていくのを、チャランコは呆然として見送っていた。
最下段から頂上。高さ百メートルを超え、千段近くある階段を登りきった時間は、たったの三分。すれ違った時よりも、更に早くなっているではないか。
トップアスリートすらも置き去りにするだろう驚異の脚力に、チャランコはもはや笑うしか出来なかった。
長々となったが。
チャランコの悩みとはつまり、流水岩砕拳の一番弟子の座が脅かされつつあるということだった。
その新弟子の正体が、一時期話題になったB級ヒーローであると。
その事実を知らなかったのは、チャランコにとっては幸か不幸かだったのかは、わからない。
現B級七十位ヒーローである無免ライダーは、最近忙しい毎日を過ごしている。
朝四時に起床し、五時にはパトロール兼トレーニングとして自転車での見回り。
その後、六時には流水岩砕拳の道場でみっちり二時間鍛える。(無免ライダーの熱意を買ったバングが、朝にマンツーマンで鍛えてくれると提案してくれた。)
その後は、自らの新たな武器である円盾型変形チャリンコを使いこなすための勉学を積んだり、パトロールや怪人の戦闘などで時間を使っていた。高校時代の物理の教科書を取り出したのは、無免ライダーの記憶に新しい。そして夜十時頃には就寝するというサイクルが出来つつあった。
無論、鍛錬の時間が変更になったり、深夜から朝方にかけてパトロールしたりなどがあったりもする。
肉体が強化されたため活動範囲が広がったのもあるが、遭遇する怪人がはっきりと増加しているのが原因だろう。
無免ライダーは短期間のうちに、そのヒーローランクを三十位ほど縮めることになった。
本意では無いとはいえ、結果的にC級昇格の番人となっていた無免ライダーが一位の座を脱して、はや十日。
未だC級から昇格した者は居なかった。活気付いたC級ヒーローたちが鎬を削っているのもあるが、先日のZ市隕石騒動で新人が急激にランクを上げたことも一位争いの激化に繋がっていた。
ルーキーである現C級一位ヒーロー、サイタマの活躍が一部で話題を呼んでいたりもする。
そんなニュースを自宅で見ていた無免ライダーは、朝の出動の支度をしつつも、少しだけ物思いに耽っていた。
彼の肉体は衰えるところを知らなかった。
鍛えれば鍛えるほど筋力や神経は発達し、脳はスポンジのように新しい知識を吸収していった。
以前なら不利であった災害ランク"狼"の怪人との戦闘も、今や完勝と言えるほどに実力を伸ばしつつある。
だが、その力の由来は災害ランク"鬼"の怪人のもの。
自分の実力の向上は怪人化の予兆では無いかという不安が、度々無免ライダーの心を蝕んでいた。
次の定期検診でメタルナイトに相談しようと電話をかけたのと、来客を告げるチャイムが鳴るのは同時だった。
ひとまず来客の対応を優先するつもりの無免ライダーは、携帯電話をテーブルに置き、ボディースーツの上からジャージを纏い、玄関の扉を開けた。
そこにいたのは、二人の男性を従えた一人の美女だった。
黒いスーツに身を包んだ男性二人のうち片方は、顎髭を整えた渋い男性だった。長い黒髪を後ろで結び、並の女性よりも長いであろう下まつ毛が特徴の男だ。がっしりとした体格は無免ライダーよりも少し背が低い。恐らく百八十センチ前後。
もう一人は、無免ライダーが以前対峙したハンマーヘッド並に身長の高かった。横も分厚く、眉も太く。ゴツゴツとした顔の輪郭も相まって、岩石のような印象を与える男だった。
明らかに堅気とは思えない二人の男。しかし、そんな彼らの前に立つ女性に、無免ライダーは視線を引きつけられていた。
妙齢の美女だ。艶やかな黒髪をショートヘアに整え、女性にしてはやや高い身長を、丈の長い黒いワンピースで包んでいた。
ブランド物で所々をあしらった姿はセレブな美女を連想させるが、無免ライダーが注目したのは、かつて無いほどに凄まじい"強者"の気配だった。
後ろの二人も実力者だが、そんな二人など遥かに超えた高い位置に女はいるだろう。ハンマーヘッドとの対決時に感じたものを、無免ライダーはビリビリと感じていた。
「はじめまして、無免ライダーさん。おそらく、私のことはご存知でしょう?」
勿論、無免ライダーは彼ら三人のことを知っている。
巨人のような片方の男は、B級三位ヒーロー"山猿"。
片方の油断無い目つきの男は、B級二位ヒーロー"マツゲ"。
彼らを率いるこの女性は、B級一位ヒーロー"地獄のフブキ"。
プロヒーローたちの作る派閥の中で、B級ヒーローを多く集め、業界最大手と名高い集団ーーフブキ組の幹部たちだった。
「あなたに大事なお話があるのだけれど、都合はよろしいかしら」
白昼堂々、物々しい雰囲気を纏う三人組は、有無を言わせぬ様子で無免ライダーを連れ出そうとしていた。
「すまないが、これからパトロールに行くつもりなんだ。できれば、別の日にしてくれないか?」
「なら、ちょうど表に車を停めてあるわ。いつも自転車で駆け回っているけれど、車の方が速くてラクよ? そのほうが効率的だと思うのだけれど」
偶には別のヒーローと共闘するのもいい経験よ、と。地獄のフブキはすかさず別の手で無免ライダーの逃げ口を塞ごうとしてきた。
おそらく相手は、どう答えようとも彼を呼び出すだろう。そう考えた無免ライダーは、着替えるから待っててくれと伝え、家のなかに引っ込んだ。
ヒーローたちの個人情報は、ヒーロー協会が情報規制を敷いている。それにも関わらず、相手はこちらの住所を調べてきていた。まともな話では無いとは判っていた。
だが同じヒーローだ。きっと悪い話では無いはず。
ジャージを脱ぎながら、無免ライダーはそう結論づけた。具合を確かめるように丁寧にプロテクターを装備し、ゴーグルをつけ、ヘルメットを被った。携帯電話をポケットに入れ、背中にメタルナイト製の得物を身につければ、無免ライダーの戦闘体勢は整う。
ゆっくりと準備をしたつもりだが、時計の長針は五分も進んでいなかった。
ブーツを履き、無免ライダーは玄関から足を踏み出した。
装備を整え気力に満ちた無免ライダーの姿に、外で待機していた三人のうち二人は、一瞬、表情を険しくしていた。
だが。ふうん、と言いたげな表情をした不敵な女は、少しだけ口角を上げ、無免ライダーの格好を褒める言葉を口にした。
それに対して礼を述べながら、戸締りの確認をした彼は三人の案内に従い、歩み始める。
住宅地を抜けるように歩き、徐々に人の少ない通りへ続く三人の後をついていきながら、無免ライダーは彼らの黒い噂を頭の片隅に放り投げ、足をゆっくり動かしていた。
ーーフブキ組は積極的に勢力拡大を狙うと同時に、自らの敵となろうヒーローを潰している。
特に誰とも組んでいない無免ライダーでさえ、知っているような噂だった。
平穏無事に済むよう祈る無免ライダーの視界の端には、灰色に淀んだ雲が、ぬるりとした動きで空を彷徨っていた。