北風の強く吹く屋上は酷く寒く、昼食が済んでいなかった俺と三浦は由比ヶ浜を連れて俺のベストプレイスに向かった。あそこも寒いっちゃ寒いが屋上よりはマシだ。
昼休みも残すところ後10分ほど。
昼食を済ませた俺たちに由比ヶ浜が控えめに尋ねてきた。
「あの…なぜ、あなたたちはあそこに?」
俺と三浦は顔を見合わせる。何で睨んでくるんだよ。お前が出ってんだんだろ。
「あー、そのー、またまただし。ね、八幡?」
焦って取り繕う三浦を初めて見た。これは結構レアだな。てか、はぐらかすの下手すぎやしませんかね?
仕方ないので、三浦に付き合って適当にはぐらかす。
「ああ、またまたな。またまただ」
俺の返答を聞いて、由比ヶ浜は困ったような笑顔をする。そして、予期せぬ質問を投げかけてくる。
「2人は付き合ってる……の?」
俺は飲んでいたマッカンを吹き出しそうになり、三浦は頬を赤く染める。頬染めんな、頬。
まぁあれだ。付き合ってないです。
今の俺は葉山だから……いや、だから違うって。これ以上深く考えると、ドツボにはまってしまいそうなのでやめておくことにする。
何も答えずにいると、三浦は呟くように答える。
「”まだ”付き合ってない、けど」
「まだ?」
由比ヶ浜はキョトンとした顔でそう言った。
なかなかに突っ込んでくるな由比ヶ浜よ。あんまり弄ると、怒られるぞ?
三浦は不貞腐れたようにプイッと顔を背けてしまった。なんだよ。本当、そういうのやめてね?
由比ヶ浜は”そっか”と安心したように言った。なんでそんな顔してんの?この世界の俺、モテモテだな、おい。
この世界の自分に強い嫉妬を抱いていると、今度は三浦が由比ヶ浜に尋ねる。
「ちょっといい?」
「なんでしょう?」
「由比ヶ浜さんって何組?」
「B組だけど……」
由比ヶ浜は控えめにそう答えた。
この世界では、彼女はB組に移動しているのか。
合同で行われる体育でもうちのクラスとは絡むことはない。皆が知らないも無理はない。まぁ選択科目で授業が一緒になることもあるかもしれないが、
この地味さだ。ほとんど目立つことはないだろう。
三浦は由比ヶ浜に近づき顔を覗き込む。
「ど、どうしたの?」
もじもじながら目線をそらす由比ヶ浜に構うことなく三浦はじっと彼女の顔を見つめる。
むーっと悩むように首を傾げ、さらに顔を近づける。おいおい、突然の百合展開は勘弁しろって。
「由比ヶ浜さんって目悪いん?」
「そこまでは……でも席が後ろの方なので黒板が見えにくくて、それで、かけてます」
「んじゃさ、取ってみてよ」
由比ヶ浜はどうしてそんなことを言い始めたのかと困惑した表情になる。
三浦は”いいから取ってみ?”と強引に眼鏡を外させる。
仕方なく由比ヶ浜は眼鏡を外す。すると、三浦は納得したように手を打つ。
「そっちの方が可愛いし」
「か、かわいい……?」
面を食らったように驚く由比ヶ浜。次第に顔が赤くなっていく。顔を覗き込まれているのに耐えきれなくなったのか、さっと眼鏡をかけ直して、そっぽを向く。
「なんでまたかけるんだし!ほら、よっと」
「あー、やめて〜」
三浦は由比ヶ浜から眼鏡を無理やり外す。なす術もなく眼鏡を取り上げられた由比ヶ浜は両手で顔を隠す。
三浦さん?それ端から見たら、いじめだからね?
彼女らのやりとりを見かねた俺は三浦を注意する。
「三浦。嫌がってんだろ。やめてやれよ」
三浦はさっと振り返って俺を睨み、”優美子!”と強く言う。はぁ、マジめんどくせえ……。
由比ヶ浜を見ると、俺たちが喧嘩しているように見えたのか、顔を覆っている両手の目の部分だけ開いて、”あわわ〜”と声を上げている。可愛いからやめろ。いや、マジで。
三浦はまた由比ヶ浜の向き直り、尋ねる。
「由比ヶ浜さんさ、下の名前ってなんて言うの?」
「結衣……です」
「じゃあ結衣。今からあーしら、”友達”ね」
「え!?」
おお、恐ろしいほどに強引だ。
由比ヶ浜はどうしていいかわからず、俺に視線を送ってくる。いや、俺を見られても。
「いくらなんでも急すぎるだろ。ほら、由比ヶ浜困ってるし」
「えー?なんでだし。可愛い子と仲良くなりたいって思ったらダメなのかし」
いくらなんでも直球過ぎるだろ。その言葉、160kmぐらい出てるからね?
真芯で捉えたはずなのに、バットが粉々に砕け散るレベル。
困る俺を気にすることなく、三浦はご機嫌で由比ヶ浜に話しかける。しかし、彼女からは反応がない。
「とも…だち……」
恥ずかしそうに、且つ嬉しそうに由比ヶ浜はそう呟いた。
「おい、急に変なこと言うから、由比ヶ浜がE.Tみたいになってんぞ」
「変なことじゃないし。てか、E.Tってなに?」
E.T知らねえのかよ。あの名作を知らないなんてもったいない。
そんなどうでもいいことを思っていると、由比ヶ浜は両手の人差し指を立てて、突き合わせている。も、もしかしてこの由比ヶ浜は宇宙人……?
な訳ないか。
たぶんただもじもじしているだけだろう。本当に宇宙人ならそれはそれで嬉しいが、たぶん違う。うん、違う。
「じゃあ今日から一緒に帰るし」
「え?」
三浦の提案に我に返って困惑する由比ヶ浜。
それに助け舟を出すように俺が言う。
「由比ヶ浜は放課後、部活があるんだよ」
「あー、なんかそんなことさっき言ってたっけ。何部?」
「ぶ、文芸部です」
それを聞いて、三浦はうーんと頭を悩ませる。なんか困ることでもあるのか?
「今日、あーし、バイトだし」
ほう、三浦はバイトをしていたのか。これを知らないことがバレるとまずいので、口に出さないことにする。
「ご、ごめんなさい」
「全然いいし、じゃあ明日からね」
「だから部活があるって」
「じゃああーしも部活行くし」
「はあ!?」
三浦がこんなにも横暴なやつだったとは知らなかった。
「部員、いないんでしょ?」
「そ、そうだけど……」
「なら、あーしと八幡で入るし」
「ちょちょちょっと待て」
三浦は”何か問題でも?”みたいな視線を向けてくる。なんとなくだが、この横暴さは”ハルヒ”に通ずるところがあるな。それは置いておいて。
「だって八幡、入部届け貰ったんでしょ?」
「それはそうだけど」
「ならいいじゃん」
このままでは押し切られる。三浦には悪いが、俺は今、置かれる状況から一刻も早く脱出しなければならない。そのためには由比ヶ浜にもっと接触を図って情報を手に入れる必要がある。その過程に三浦がいると、色々困る。散々、助けて貰っておきながらこんなことを思うのは自分勝手だというのはわかっている。しかしながら、他に手段がない。
だが、由比ヶ浜を目の前に入部を拒否するわけにもいかない。
どう切り抜けるかと頭を悩ましていると、校舎の方から俺の名を呼びながらパタパタとかけてくる女子生徒の姿が見えた。まためんどくせえのが増えやがった。なんでこんなときにくるかなー。
その女子生徒は俺の前で立ち止まり、ふぅーと息をついて汗を拭う仕草をする。いや、お前大した距離走ってねえだろ。
突然、現れた一色いろはは俺を見上げ、あざとさ満点に言う。
「先輩たち、ここで何してるんですかぁ〜?」
この言葉に最初に反応したのは三浦。
少しばかりきつい視線を送りながら言う。
「あんたこそ何の用だし」
「私はただ比企谷先輩を見かけたので、大丈夫かなー?と声をかけようと思って」
「大丈夫?」
三浦の疑問を含んだ言葉を最後に少しの沈黙。
一色よ、なんてことをしてくれる。この世界でも彼女こういうところは変わっていないらしい。
この空気はまずい。
それを払拭すべく、俺は一色の名を呼ぶ。
「一色」
「は?」
一色は言葉通りに口を開けて、ジト目で俺を見る。なんだよ、そのムカつく顔は。
「どうした?」
「いや、急に苗字で呼ばれたので」
しまった。俺は三浦同様、一色のことも名前で呼んでいたのか。失敗した。しかし、ここで口ごもればさらに怪しまれ、昨日のことを掘り返される。
彼女のことを名前で呼んだことなど一度もないが、というか女子の名前を自ら進んで呼んだことなどないが、やるしかない。腹を決めろ俺。
意を決して名を呼ぶ。
「いろは……す」
一色はさらに訝しむような顔をする。
何逃げてんだ俺は。
「比企谷先輩?」
やばい。何かやばいってマジやばい!
もうこうりゃやけだ。戸部風に行くか、葉山風に行くか、悩んだ末に葉山風に決断する。
「悪い、いろは」
勇気を振り絞ったというのに、一色の表情に全く変化はない。
「比企谷先輩。どうしたんですか?爽やか風にイメチェンでもしたんですか?」
一色は小馬鹿にしたようにそう言った。なぜだろうか。この心を抉られた気分は。
しかし、落胆している暇を与えてくれるほど、彼女は優しくなかった。
「八幡」
「な、なんだ?」
返答してすぐに三浦の方に向き直ると、すこぶる不機嫌な様子。どうやら女王さまの機嫌を損ねてしまったようだ。原因はわかっている。
「なんでいろはのことはすんなり呼んだし」
「いや、ハハッ」
「何笑ってんだし」
何この状況。女子2人に詰め寄られて問い詰められている。これなんてエロゲ?
柄にもなく、苦笑いを浮かべて後ずさる俺。もう嫌だ。リア充ってこんなに大変なの?
由比ヶ浜に助けを求める目線を送るも、彼女はどうしていいのかわからず、立ち尽くしている。この由比ヶ浜ではさすがに無理か……。
しかしここで昼休みの終了を告げるチャイムが俺を救った。
「あ!もう行かなきゃ。これから移動教室で授業なんですよ」
一色は思い出したようにそう言った。
「じゃあ比企谷先輩。また後で詳しくお話し聞かせてくださいね?」
またしてもあざとさ満点にそう告げて、身を翻し、颯爽と去っていった。
なんなんだよ、さながら台風のようなやつだったな。まぁすぐに引いてくれたことには助かったが。
三浦の方に目をやると、彼女も諦めたようにため息をついていた。
「もういいし。早く戻ろ。結衣も早く」
急に話しかけられた由比ヶ浜はどもりながらも精一杯答える。
「ご、ごめん。私、これから体育だから。急いで戻らないと……」
「そっか。じゃあまた後でね」
足早に去る彼女の視線に俺は手を挙げて答える。彼女の顔には少しだけ笑みが浮かんでいたような気がした。
「さて、俺らも戻るか」
「うん」
そう言葉を交わして教室に戻る。
その道中、三浦からあの話題が出る。
「八幡さ、お礼ってなんだと思う」
屋上であの女子3人に問い詰められていたとき、由比ヶ浜はお礼がしたかったと言っていた。俺が由比ヶ浜にお礼をされること。全く見当がつかないわけではない。入学式の事故の件だ。だが、この世界でも同じことが起きているかどうかわからない。三浦にそのことを尋ねるにもまた怪しまれるのではないかと思い、口に出せない。
「心当たりがないな」
「そか」
「さっき聞けばよかったか」
「そんな野暮なことできないっしょ」
「なんで?」
「女にはいろいろあんの」
三浦は由比ヶ浜の気持ちを汲み取ったのだろう。由比ヶ浜は優しい女の子だ。三浦も彼女と同じくらいに優しい女の子なのだ。
三浦は手に持っていたものを俺に差し出してくる。
「今日あーし、バイトだからこれ放課後に部室行って返してきてよ」
彼女が手に持っているのは、由比ヶ浜がかけていた眼鏡。このやろ、返しそびれたな。
「俺1人でか?」
「当たり前だし。そんときにお礼のこと聞きなよ」
「マジか」
「マジだし」
まさかこいつそこまで計算していたわけではあるまいな。
そんなことを思っていると、三浦は真面目なトーンで話し始める。
「八幡。内容はわかんないけど、ちゃんとしなよ」
「なにを?」
「女の子がお礼したいって言ってんだからそれを邪険にするのはよくないって言ってんの!」
「お、おう」
なんでちょっと怒ってんだよ。
しかし、まだ会って間もない由比ヶ浜のためにこんなことが言えるとは、三浦マジおかん。
「ん」
立ち止まり俺の目の前に眼鏡を差し出してくる三浦。わかったよ。行くよ。
仕方なく眼鏡を受け取る。
すると、三浦は怪訝そうな視線を送ってくる。
「なんだよ」
「女の子と2人きりになったからって変なことしないでよ?」
「ばっか。この学校に俺以上に紳士な奴いないくらい紳士な俺がそんなことするわけないだろ」
「へー」
適当に返事するならそういうこと振るんじゃないよ。しかしまたなんでこんなことを急に言ってきたのだ。
「だって八幡、前みたいに目が濁ってきてるし」
「さいですか……」
そんな会話をしながら教室へと辿り着いた。
×××
午後の授業を受けながら由比ヶ浜と今の自分に関して考え込んでしまった。
昨日、俺があの部室に行かなければ彼女はあんな目に遭うことはなかった。だが、結果的にはあの女子たちから解放することができた。すべて三浦のおかげだ。あれだけの剣幕でどやされたんだ。あの女子たちもそう易々とは何もできまい。
俺はあることに気がついた。
この世界での俺と由比ヶ浜の立場は逆転している。
方やトップカーストに属し、もう一方はボッチ。
なんとも言えない気分だ。
もう1つわかったことがある。
それは過去に由比ヶ浜が俺に抱いていた感情だ。
彼女は入学式の事故で俺がボッチになったと思って俺に優しくしてくれた。
正確なことはわからないが、彼女はボッチになった俺を放っておけなかった。
今の俺も一緒だ。
俺のせいで変わってしまったかもしれない由比ヶ浜を放っておけなかった。
彼女はあの時、こんな感情を抱いていたのか。もう居ても立っても居られない。そんな感じ。
そう思うと、俺はあの時、由比ヶ浜に非常に申し訳ないことをした。彼女の感情を理解することなく、ただ自分の考えを押し付けて断ち切ろうとした。
経験則からくるものもあったし、彼女を思ってのことだったなんて言い訳をする気はもうない。
ここに来て、いろんなことを知った。
あのままの俺では、絶対に気付けないことに気がついた。
畜生。誰だ。こんなお節介をやいた奴は。
何にしても、放課後にまたあの部室に行かなければならない。
彼女の言っていたお礼の件も気になる。
この現象を解決する”鍵”を見つけ出さねばならない。
その後の時間は、解決するために考え得る可能性について考察を続けた。
しかし、昨日とは打って変わって時間が経つのがやけに遅く感じた。
最後の授業の終わりを意味するチャイムが鳴ると、どっと疲れが出た。
しかし、うだうだ言っている暇もない。
帰りのHRの終了とともに三浦に言われた通りあの部室に向かう。
こんな気持ちを抱いて部室に向かうことになるとは、夢にも思わなかった。
逸る気持ちを抑えつつ、早足で歩き慣れた廊下を歩く。
部室の前までやってくる。中には既に明かりが灯っている。早いな、由比ヶ浜。雪ノ下並みだ。
ガラガラと音を立てて戸を開けると、昨日と変わらず、由比ヶ浜が読書をしていた。
「よう」
「あ、こんにちわ」
「悪い、来てよかったか?」
「う、うん」
由比ヶ浜は恥ずかしそうにそう答えた。三浦との約束を果たすために俺は彼女の座っているところまで近づいていく。近づいていくにつれて由比ヶ浜の表情が曇り、困惑、そして最後には怯えたような顔をした。
俺は両手を上げ、弁解する。
「大丈夫、狼藉を働くつもりはない」
「え、いや、その」
何とか取り繕おうとする彼女に俺は鞄から眼鏡を取り出す。
「これ」
「あ!あ、ありがとう」
驚いたように立ち上がり、眼鏡を受け取る。
「三浦はバイトで来れないから代わりに返しに来た」
「そ、そっか」
由比ヶ浜は受け取った眼鏡に視線を落とし、見つめていた。その眼鏡をかけることなく、隣に置いてあった鞄からケースを取り出してその中にしまった。なぜかけなかったのだろう。まぁなんでもいい。俺に眼鏡属性はない。
彼女は立ち上がったまま、再度お礼を述べてきた。
「いや、さっき聞いたよ。そこまでのことじゃない」
「あ、そ、そうだよね」
取り繕うように笑う由比ヶ浜はまた俯く。その姿を見つめていると、俺の視線に耐えかねたのか、モジモジしながら頬を染めた。な、なんだこれ。可愛いじゃねえか。
彼女は苦し紛れに絞り出すように言う。
「す、座ったら?」
そう言われて教室の奥に積み上げられている椅子を手に取って由比ヶ浜の座っている長テーブルの反対側に椅子を置いて腰を下ろす。ここがいつもの俺の定位置。たった1日座らなかっただけだというのにかなり久しく感じる。
これはあの部室を取り戻したいと俺の願望が現れているのだろうか。
席について、いつものように鞄から読み差しのライトノベルを取り出そうとするも、鞄の中にはそれは入っていない。というか今日の朝まで気がつかなかったのだが、鞄の中身が変わっていた。俺の持ち物とは思えない品々が入っている。整髪料などなど。
手持ち無沙汰をどうしたものかと考えていると、由比ヶ浜がまた立ち上がった。そして勢いよく頭を下げる。
「あ、あの、ありがとうございました!」
「いや、何回お礼してんだよ」
口に出してから気がつく。
これは俺の知っている由比ヶ浜へのツッコミだ。少々強い口調で言ってしまったことを後悔する。
案の定、彼女は頭を下げたまま固まってしまった。やばい。どうしよう。
なんとか場を和ませるようと言葉を繋ぐ。
「ああ、悪い。いつも友達に言うみたいになった。気を悪くしないでくれ」
よくもまぁこんな虚言が出たもんだと自分で感心する。だが、由比ヶ浜からは反応がない。ああ、どうしよう。
停止したロボットよろしく固まる由比ヶ浜。
少しの間をあけてようやく再起動する。
「その、ごめんなさい!」
おう、今度は謝られたぜ。
まぁ謝られたおかげでようやくなぜ彼女にお礼を言われているのかを理解した。
「に、入学式の時、私の飼い犬のサブレを助けてくて……」
やはりこの世界でもあの事故は起きていたようだ。
「なんで謝るんだ?」
俺がそう尋ねると、由比ヶ浜は申し訳なさそうに身を捩りながら、言葉を捻り出す。
「すぐにお礼が言えなくて……」
あの時の”お礼がしたくて”という言葉はやっぱりこのことについてだったようだ。
由比ヶ浜は両手を胸の辺りで合わせて握りしめる。
「比企谷くんが入院してた病院にお見舞いに行こうと思ったんだけど、勇気が出なくて、それで、学校に復帰したらお礼を言おうと思ったんだけど……」
そこで言葉に詰まってしまった。
俺は臆せずに続きを尋ねる。
「えっと、その、三浦さんとか折本さんとかと一緒に居て、声をかける勇気が……うぅ」
再び言葉に詰まる由比ヶ浜。目には涙が浮かんでいる。
「な、泣くことないぞ?俺こそ悪かった」
出来るだけ優しい声音で言う。
彼女は顔を横に振る。
「ううん、私が、私がダメな人だから……」
「そんなことはない」
とうとう彼女の瞳からは涙が溢れた。
胸がキュッと締め付けられる感覚がする。
「でも昨日、比企谷くんがここに来てくれて、それで今度こそと思ったんだけど、やっぱり勇気が出なくて……」
だから次に繋ぐために入部届けを渡したのか。
「また来てくれるかなんてわかんないのにバカだよね、私」
なんと言えばいいかわからず、返答を返せない。
「そんなことウジウジ悩んでたら、また助けられちゃって……」
由比ヶ浜はそう言って涙を拭い、笑顔を浮かべるものの、その奥には複雑な感情が隠されているように見えた。
彼女の話から察するに俺は入学当初になんかがあってリア充に成り得たようだった。だが、それは今はどうでもいい。
「だからありがとう。そして遅くなってごめんなさい」
彼女はもう一度頭を下げた。
なんて答えるか迷った。以前と同じように答えるか。この世界の俺として答えるか。それとも今の俺として答えるか。
答えはすぐに出た。
「まぁ無事でよかったよ。俺も大したことなかったし、だからもう手打ちにしよう。こんなこと言うとあれだが、あんまり気にされると、こっちもやりづらい」
「ありがとう」
由比ヶ浜は最後にそう言った。
ずっと心につっかえていたものが取れ、憑き物が落ち、スッキリした顔で優しい笑顔を浮かべて。