ミックス・ブラッド   作:夜草

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戦王の使者Ⅲ

教会

 

 

 学校の裏手にある丘の上に、小さな教会がひっそりと建っている。

 屋根に刻まれたそのレリーフは、2匹の蛇が絡みついた『伝令使の杖』と、西欧系の教会のシンボルではあまりお目にかかれないシンボル。

 おおよそ、築数十年ほどはあるか。罅割れた礼拝堂の壁には幾重にも蔓が絡まり、十字架も随分と傾いている。敷地は雑草が伸び放題で、ここが廃墟となってから幾年かの時が過ぎたのだろうと思われた。

 そんな教会の廃墟に、朝寝起きの悪い兄を、朝から出迎えに来てくれたひとつ上の友人に任せて、暁凪沙はひとり立ち寄っていた。

 立てつけの悪い――ところを先日、ある少年が直した――木製の扉を開けると、そこに、

 

「あれ?」

 

 十数匹の、猫。その幼い小さな猫は、今年度から別々のクラス分けとなってしまったが凪沙の友人の少女が拾ってきたもので、こうして時折、凪沙もその面倒を見るのを手伝っている。この教会に既に人は住んでいないけれど、割とこまめに猫たちの世話や清掃をしているので、それほど動物の臭いはしないくらい。

 

「もう、ご飯食べてる。……今日は夏音ちゃん来られないって言ってたはずなんだけど。誰が準備したのかな」

 

 しかし、子猫たちは凪沙の登場に気づかないくらい器いっぱいに盛られたキャットフードに夢中だ。きっと食べ盛りなんだろう。そうやって食欲旺盛なのは見ると気持ちのいいもので―――そう、あの少年も同じように食べてる姿は見るだけで幸せになりそうなくらいで……

 

「はぁ、アスタルテさん、綺麗だったなぁ」

 

 誰もいない教会だから、ついそんな言葉を漏らしてしまった。

 

「身長も高くてすらりとしてるし、スタイルもよくて、顔も美人さんだよね」

 

 髪型も同じポニーテイルだからか、凪沙の大人バージョンみたいなくらいの戦力。そう、まさしく子供と大人の戦力差。敵わない。

 

 ……とはいえ、少年が新しく入った“後輩”というからには明らかに年上のお姉さんというのは、おかしいと思うのだが。

 

「古城君もそうなんだけど、やっぱり男子ってああいうのがタイプなのかなぁ」

 

 兄が兄の友人と鑑賞していた(今はもう廃棄された)そういうグラビアの物を参照するとそうなるのか。

 

 でも、お姫様な雪菜ちゃんでもクラスの男子の中で唯一、普通に話しできるし、そういうのにはまだ興味がなさそうなのか。いや、それはそれで困るというか……

 

「はぁ……」

 

 いつごろからかはわからない。

 けれど、最初の印象は、恐怖で最悪に近いものだった。

 それから、警戒してなのか、それとも罪悪感からか、視界に入ればずっとそれを目で追っていて……気づけば、最初とは反転したものになってた。

 そして、昨日、女の子から手紙を受け取っていたのを見て、それを自覚した。

 

「人気があるんだよね、ホント」

 

 ああやって無邪気な様は、高等部の先輩お姉様方から、弟みたい、と可愛がられてて、そして学園にも彼に助けられた女子も割といるそうだからその方面からという噂を耳にしたことがある。

 いい人で、腕っぷしも強く、足も早い、ちょっとおバカだけど、それがいい、と。

 うん、古城君もだらしのないように見えるけど、元バスケ部エースの人気が根強いのか意外と結構人気があって、凪沙のクラスの中にも狙ってる子はいる。

 といっても、そこに強敵な2人の美少女が周りにいるから諦める子も多くて、で、その子たちは兄の後輩でついて回ってる彼に目を付けて……

 

「あーっ! もーうっ!」

 

 ぶんぶんと頭を振る凪沙。

 そこへ足元へ一匹の子猫がすり寄る。靴をひっかいてから、まるで先導するよう凪沙の前を歩く。

 

「どうしたの、って―――なに、これ、血!?」

 

 子猫が教会の椅子の下に潜り込んで、それを引っ張り出そうとしてる。

 執事服と思われる礼服。けれど、それはびしょ濡れで、大きく右肩から裂けており、そこから出血したと思しき赤い染みがついている。

 そして、凪沙にはそれがなぜか彼の着ていたものだと……

 

「クロウ君……」

 

 その傷跡を指でなぞり、凪沙は沈むように呟いた。

 

 

 

 廃墟となって吹き抜けた教会の窓に止まる一羽の鳥。

 

「……、」

 

 その視界から、中の様子を窺えて、少女の誰もいないところだからこそ吐露した呟きまで拾ってしまった。

 昨夜から、その剣に付いた血痕から位置を割り出す探索術式で追っていて、その終着に辿り着いたわけなのだが、

 

「これじゃあ、近寄れないじゃない。……ホント」

 

 

彩海学園

 

 

「………なるほど。それでまたあの馬鹿犬は帰ってこなくなったというわけか」

 

 パーティの翌日。

 彩海学園高等部後者の最上階にある校長室よりもランクの高い一教師の部屋に呼び出された暁古城と、それについてきた姫柊雪菜は、那月から昨夜のことを話すよう言われ、その一部始終を話した。

 聞き終わった後、回転式の革張りの高級椅子に深く腰かけていた那月は開いていた扇子を閉じ、不快げに鼻を鳴らす。

 

「<蛇遣い>の軽薄男め。本当に奴は余計な真似しかしないな。無論、それに良いように振り回されたお前らもお前らだが」

 

「クリストフ=ガルドシュって男の情報が知りたい」

 

 それを真面目な顔で古城が言い放った途端、さらに空気は威圧的なものになる。

 

 ヴァトラーが言っていた。

 絃神島の攻魔師たちも、黒死皇派を捕まえようとしていると。

 カリスマ教師でありながらこの絃神島で五指に入る攻魔師である南宮那月ならば何かしらの手掛かりをつかんでいるはずだ。

 

「ほう」

 

 ただし、それを教えてもらえるかは、その西洋人形のような見た目で放つには不条理すぎる息苦しいほどの圧迫感を覚えれば、難しいのがわかる。

 

「あいにく、“エサに使えそうな”馬鹿犬がどこかにいっていて困ってる。確か、斬り捨てられて海に落ちたと聞いてるんだが。なぁ、商売敵の転入生」

 

 皮肉を向けられ、雪菜が怯む。

 

 那月が彼の保護者であり、監督者。そして、そうと見せることはないが大事にしていることは、雪菜もわかっている。

 そもそも獅子王機関と国家攻魔師は仲が悪いのに、主たる自分に一言も入れず使い魔を殺傷さえ考慮に入れて捕縛しようとしたのだ。槍を直接向けなかったとはいえ雪菜もまた同罪だ。情報を渡してくれと頼んでも、拒まれるのがオチだろう。

 

 それでも、これ以上雪菜が圧されているのは見ていられず、古城が口を挟もうとしたとき、すっと頭を低くし。

 

「それについては大変申し訳なく思ってます」

 

「……つまり、獅子王機関が否を認めるのか?」

 

 一剣巫として頭を下げた雪菜に、那月は意外そうな表情で訊き返せば、はい、と首肯し、

 

「今回、我々は性急でした。もっと慎重に事を運ぶべきだったと今は後悔しております。紗矢華さん……舞威姫も、同じ意見です。

 ……ですが、アスデアル公と接触する前に黒死皇派の残党は確保しなければなりません」

 

 顔を上げ、端整な面立ちに、静かな決意を浮かべて雪菜は己の主張を展開する。

 

「これは、第四真祖の監視役としての判断です。第四真祖をテロリストと接触させるわけにはいきませんから。相手が真祖を殺そうとしているのなら、なおさら」

 

 抑揚のない硬い声で雪菜は言う。傍目には冷静そうに見えるが、それでも負い目に感じている節があるようにも古城は見える。なまじ生真面目な性格なだけに、責任を感じればそれを挽回しようと躍起になるというか、頑固になる。

 那月もまたおおよその事情は察している。黒死皇派の残党との戦闘になれば、<蛇遣い>は絃神島に甚大な被害が出ようが構わず、喜々として自分の眷獣を暴れさせる。雪菜はそれを止めたい、そして、黒死皇派の残党さえ捕まえれば、<黒死皇>の血を引いてるクラスメイトへの警戒も解ける、そう言っているのだ。

 だが、那月は瞑目し、口を開かず……と、

 

「アスタルテ―――そいつらに茶なんか出してやる必要はないぞ。もったいない。それよりも、私に新しい紅茶を頼む」

 

命令受託(アクセプト)

 

 停滞する沈黙の中、メイド服の少女が麦茶を運んできた。

 古城と雪菜も話には聞いていたけど、実際に会うのはあれから初めてだ。

 銀色のトレイを抱いて立っている藍色の髪の少女。ロタリンギアの殲教師が連れていた眷獣憑きの人工生命体(ホムンクルス)

 執事教育に失敗したご主人が忠実なメイドが欲しかったと、保護観察処分中のところを身元引受人になって引き取ったのだ。

 メイド服という珍妙な格好であるも、ケープ一枚よりは遥かにマシで、今も那月に命令されたとおりに紅茶の準備を始めている様は、無表情ながらどことなくやり甲斐みたいなものを感じてるようにも見える。

 と、

 

「意見。先輩の安否については問題ないかと思われます」

 

 先輩……つまり、那月の使い魔たるクロウのことだ。

 アスタルテは元々医療系の研究所で制作された人工生命体。治療に関する知識が医者と同等にあり、以前、重傷を負った南宮クロウの身体を診察し、その高い治癒能力を持った性質についても理解している。

 一太刀浴びせられて、夜の海に飛び込んだとしても、生存してる可能性は十分高い。

 

「アスタルテ。いつ私が馬鹿犬の心配をしていると言った?」

 

「否定。言ってません。ですが、教官が今手に取っているのは、紅茶ではなく、麦茶です」

 

 紅茶ではなく、先ほどアスタルテが運んできた麦茶を持っていることに那月は指摘されてようやく気付く。

 それに渋い顔で眉根を寄せる那月に、古城が、ぷっと思わず吹き出してしまい。

 

「那月ちゃん。心配してんなら無理に―――ぐおっ!?」

 

 頭蓋骨に衝撃を受けて、床に沈んだ。

 

「せ、先輩!?」

 

 ぐおおお、といつもより強めな強打に苦悶する古城を雪菜が慌てて抱き起す。

 そんな様子を冷え冷えとした目つきで那月は見下し、もう一度扇子を振るい―――ゴン、とより顔面をカーペットに埋めさせる。

 

「私のことを那月ちゃんと呼ぶなと言っているだろう。いい加減に学習しろ、暁古城」

 

 嘆息してから、じろりと雪菜を睨み、

 

「それと転校生。無駄だからやめておけ」

 

「南宮先生。それはガルドシュを捕まえても無駄だという意味ですか?」

 

 古城を気遣いながらも、雪菜が食い下がる。

 その生真面目さに観念したのか、那月は仕方なくといった調子で口を開く。

 

「捕まえても無駄とは言ってない。お前たちがそんなことする必要はないと言っているんだ」

 

「え?」

 

「黒死皇派どもはどうせなにもできん。少なくてもヴァトラーが相手ではな。 奴はあれでも、“真租に最も近い存在”と言われてる怪物だ」

 

「ですが、黒死皇派の悲願は、第一真租の抹殺だと聞いています。この絃神島には、彼らはそれを実現する手段があるのではないですか?」

 

 ヴァトラーが仄めかしていたが、第一真祖を討つことを目的に掲げた黒死皇派の悲願が叶うだけのものがこの絃神島に眠っており、それを手にすれば、真租に近い戦闘力を持つと言われている吸血鬼の貴族すら殺せるものではないのか。だが、それを理解してなお、那月は首を振った。

 

「そうだな。だから無駄なのさ。ガルドシュの目的は<ナラクヴェーラ>だ」

 

 その単語に聞き覚えのない雪菜、それに古城に、一応教師らしい口調で那月は説明する。

 

 <ナラクヴェーラ>

 南アジア、第九メヘルガル遺跡から発掘された先史文明の遺産のひとつ。かつて存在した、無数の都市や文明を滅ぼしたといわれる、神々の兵器。

 表向きは絃神島には存在しないということになっている―――が、実は『カノウ・アルケミカル』という会社で、遺跡から出土したサンプルの一体を非合法に輸入しており、それが秘密裏に強奪されて黒死皇派の手に渡っている。

 

「何が無駄なんだよ!? テロリストが下手すりゃ真祖をぶっ殺しちまうヤバい代物(シロモン)もってんだろ!?」

 

「9000年も前に造られた骨董品だ。お前は、なにを焦っているんだ?」

 

 起き上がって慌てふためく古城を眺めて、那月が蔑むように言う。

 

「奪われたのは、遺跡からの出土品だと言ったろ。とっくに干からびてガラクタだぞ。仮に動いたとしても、それをどうやって制御する気だ?」

 

「……制御する方法に心当たりがあったから、黒死皇派は、その古代兵器に目をつけたのではありませんか?」

 

 雪菜の冷静な指摘に、那月は少し愉快そうに口角を上げる。

 

「ふん、さすがにいいカンをしてるな、転校生。たしかに、<ナラクヴェーラ>を制御するための呪文だか術式だかを刻んだ石板が、最近になって発見されたらしい」

 

「だったら、やっぱりその兵器が使われる可能性があるってことなんじゃねーかよ」

 

「世界中の語言学者や魔術機関が寄ってたかって研究しても、解読の糸口すらつかめていない難解のブツだぞ。テロリスト如きが、ない知恵を振り絞った所でどうにもならんよ」

 

 不安げに唇を尖らせる古城を、那月がやる気のない口調でさらに言う。

 先日、石板の解読に協力していた研究員は捕まえた。そいつを吐かせれば、黒死皇派の残党は見つかるだろう。密入国した国際指名手配犯たちが、戦車並に馬鹿でかい骨董品を抱えて潜伏できる場所は限られており、特区警備隊は、今日明日にも黒死皇派を狩り出せると状況を見ている。

 それは、那月もほぼ同意見だ。

 

「とにかく、あの<蛇遣い>がなにを言ったところで、お前たちの出る幕はない」

 

 那月は、基本的に嘘はつかない。

 なぜならば、ウソや駆け引きというのは弱者が生き残るための手段であり、圧倒的な強者である那月にはいずれも不要なものだ。

 欺く者がいれば実力を以て報復し、

 行く手を阻む者がいれば敵味方関係なく粉砕する。

 それが唯我独尊の魔女のやり方であり、カリスマ性の源だ。ただの人間でありながら、古城よりもよっぽど真祖に近い存在だ。

 だから、これまでの情報に虚偽はなく、事実なのだ。

 

「強いて言えば、追い詰められた獣人どもの自爆テロに気をつけることだな」

 

 自爆は、テロリストに考えられるヴァトラーにダメージを与える数少ない手段だ。絃神島の住人――古城たちも、それに巻き込まれる可能性もけしてないとは言えない。

 

「それからもうひとつ忠告してやる。暁古城、ディミトリエ=ヴァトラーには気をつけろ」

 

 と今度は紅茶を啜りながら、那月が古城に語る。

 ヴァトラーが“真祖に最も近い存在”と言われる所以は、『貴族』である自身より格上の『長老(ワイズマン)』――真祖に次ぐ第二世代の、それも同族の吸血鬼を、これまでに二人も喰らっていることだ。

 だとすると、『世界最強の吸血鬼』でありながら、未覚醒な古城は恰好な獲物だろう。

 

「精々、お前も喰われないようにするんだな」

 

 色んな意味で。

 たとえ捕食する気がなくても肉体的関係敵に喰われそうだ。

 緊張で強張った古城が無言で頷くのを見て、那月が不敵に笑い、そして、それで話は終わりだと古城たちに背を見せるよう、腰かけた回転椅子を窓の方へと向けて、

 

「それと、もし馬鹿犬を見かけたら、貴様の今日の晩飯は缶詰のフルコースだと伝えておけ」

 

 

???

 

 

『儂にはもう、死ぬ権利すらない』

 

 異名が名に関するほどの組織の長であった彼は、おかしなことだが、戦争時以外は常に地下牢に自ら幽閉されていた。そう、自分が親以上に歳の離れた彼と友誼を結んだのも、この陽の光の届かない地の底であった。

 

 この夜の帝国に飼われた一軍人だった自分は、この同族の反乱を鎮圧するために首謀者たる彼を討伐しにきたのが最初の関係だ。

 敵対しており、そして、敗北した。

 その腕を一振るい。おそらく消えることのない爪痕を体に刻まれ、圧倒的な力を見せつけられた。

 それで運よく、一撃をもらって息があったのが珍しかったのか、生かされた。

 他の組織幹部、友の弟からも、同族でもあることから捕虜として、同じこの牢獄に入れられた。

 軍人として死に場所を奪われ、生き恥を晒されたと最初は恨んだものの、今となってはこの傷も誇らしくさえある。

 

 そんな彼が、ある日、遠い血縁者であるものの、当時まだ正式に組織へ加入していなかった自分を呼び出し、遺言を告げた。

 半世紀前から段々と正気である時間が減ってきた老獣、もう一日に分があるかないか、けれどその一瞬は、珍しくも久々に正気に戻って言葉を残そうとした。

 

『命はすべて等価値。己の命すら同じこと。じゃが、儂はもう何千も殺し、あまつさえ何万の死を弄んだ。彼奴らの死を喰ろうて腹が膨れてしまったから、儂は儂の死を喰らうことはできん。儂の死は、誰にも喰らわれぬまま、何にも残せず、弱肉強食の野生の理から外れた無となるだろう。生物として死ぬことができず、惨めなまま、な』

 

 だが、この首を取ればお主は元いた地位に戻れるだろう、と。

 

 軍人であった自分は、討伐作戦に失敗してから、帝国に戻ることができず、かといってテロリストの組織にも参加していなかった。

 きっとこの老獣は、先が見えていたのだろう。

 もう、自分らは終わりだと。ならばそれに付き合うこともない。己のように惨めになりたくなければ、この友の亡骸を錦の旗代わりとし、出世の道具として使うがいい。

 

 これが、老いた獣の話し相手に付き合ってくれた礼じゃ、と。

 

 ―――だが、その介錯を自分は断った。

 

 何年も帰ってない故郷(くに)にも古巣(ぐん)にも、戻る気はとっくの昔に失せた。

 それに、この摂理として、強者の肉を弱者が喰らうのは反している。

 友は強い。誰よりも。老いてなお一度として勝てたことのない、自分には食えない。

 それは単純な力によるものだけではない。

 

 そう、老獣が、<黒死皇>などと呼ばれる前、獣王であった最初のころ。

 真祖により人間と魔族の不可侵条約が結ばれた当初、

 『殺し合いとなれば、人間よりも強い』と、霊地のためと住処を追われた人間に虐げられたことを根に持ち、しかし、真祖に逆らうこともできかった同胞たちに、友はそれがウジウジとしていたのがあまりに情けなかったと言っていた。

 そんな腑抜けた獣人たちに自信をつけさせ、勇気と希望を与えようと反乱を起こしたのが、そもそものテロの始まり。

 永遠に不滅で最古の夜の帝王に、この神殺しの末裔たる獣王が摂理から外れた絶対的な上位者などありはしないと皆に知らしめよう、と戦いを挑んだ。

 特別人間への復讐だとか獣人を上位にした支配世界などと関心がない。

 獣王は、弱い者が許せなかったのだ。信じられるのは、何事にも揺るぎない強い力だけだと。

 それが歳の離れた<死皇弟>と自らを称した弟がそれをさらに思想を過熱に戦争を激化させていき―――

 

 そして、友は、遺言を残したその日の夜に、地下牢に忍び込んだ<蛇遣い>の手にかかり、暗殺された。

 

 世界を敵に回した結果として、獣王の血族側近もことごとく討ち果たされた。

 血も家族も何も残らない。呪われた名だけが残された。

 

 今の獣人たちに、獣王の最初の志を知るものなど、己の他にいなくなった。

 それをわざわざ広めようとも思わない。最期の遺言も、誰に伝えようとも思わない

 そんなことをしても仕方がない。

 

「だが、我が古き盟友の死だけは、無駄にしない。無にしてなるものか!」

 

 

彩海学園 屋上

 

 

 あの後、古城は独自にその神々の兵器<ナラクヴェーラ>――を密輸したという『カノウ・アルケミカル・インダストリー社』錬金素材関係の準大手企業について調べた。

 とはいえ実際に調べたのは藍羽浅葱で、古城がしたのはネットに繋がった生徒会室に忍び寄るのに付き合ったくらいなのだが。

 その際に生じた過度な接触事故で貧血に陥った古城は、浅葱に屋上へと連れられて、ついでにお腹がすいたから弁当をいただいて、飲み物を買ってくると浅葱が一度離れたところで、昨日の嫉妬女――煌坂紗矢華が登場。

 『こっちは朝からあんたの後輩を捜し回ってたのに、授業さぼってクラスメイトと逢引とは、ずいぶんいいご身分なのね、暁古城』

 ヴァトラーが就寝中で、一時監視役の任から外れた彼女は昨夜から行方不明の後輩を捜していてくれていたらしい紗矢華は、いちゃいちゃと綺麗な女の子と楽しんでいるように見えた古城に激怒。

 うやむやになっていた雪菜の吸血行為の件も再熱して、長剣を振り回す舞威姫に襲われる古城。

 そんな主の危機に、血に宿る眷獣が暴走してしまい、彩海学園一帯を破壊的な超音波が襲う―――そこへ、<第四真祖>の監視役たる雪菜が登場し、<雪霞狼>にて暴走を鎮めた。

 だが、買い出しを終えて戻ってきた際に眷獣の暴走と出くわしてしまった浅葱が急激な気圧の変化に耐えきれず、意識を失って倒れた。

 その後騒ぎを聞きつけて、妹の凪沙が屋上へ駆けつけてきて、彼女と一緒に、紗矢華に槍を預けた雪菜は昏倒した浅葱の身体を保健室へ運ぶ。

 その際、二人はしっかりと反省するように、と言いつけて。

 

 

 

 それから一時間。

 雪菜はなかなか戻ってこないが、それはその分だけ反省しろということなのだろう。

 最初は険悪だった雰囲気も、時間とともに薄れていくもので、けれど、

 

 『あなたがいなければ、あの子が危険な目に遭うことはなかったのに!』

 

 最中、怒りに我を忘れた紗矢華から放たれた、その古城の最も触れられたくなかった部分を抉る言葉。

 その傷跡が疼くように胸が落ち着かず、ついに古城は口を開く。

 

「なあ」

「ねぇ」

 

 と同時。古城が見計らっていたように、向こうもタイミングを待っていたのか、しかし、間の悪いこと。うんざりしたように息を吐いた紗矢華は、先に言いなさいよ、と促すので、古城はやれやれと肩をすくめてから改めて口を開いた。

 

「その……なんというか、悪いな。いろいろ」

 

 古城の謝罪に、紗矢華は不意打ちを食らったように目を丸くする。

 

「なんであなたが謝るのよ?」

 

「うるせぇな! ていうか、煌坂がさっき言ったことは正しいと思ってる。姫柊はオレのせいで面倒な事件に巻き込まれたんだ。だから姫柊の友達が怒るのも無理はないかな、とか」

 

「……自分のせい、って素直に認められると、逆に自慢されているように聞こえるんだけど。

 ええ確かに、あなたのせいであるのは間違いないんだけど、雪菜は任務だから仕方なくあなたの監視をしているだけで、好きで協力してるわけじゃないんだからね。別にあなたが気にする必要はないじゃない」

 

「あー……まあそうなんだけどな。助けてもらったのも本当だし」

 

 不服そうに唇を尖らせる紗矢華は、古城に対抗心を燃やし過ぎて、途中からなんだか励ますような形になっており、それに気づいた彼女はますますばつの悪そうな表情になって、

 

「あなたって変な吸血鬼ね……普通、自分を監視してる相手に感謝なんてしないと思うけど。もしかしてそういうのが好きな人?」

 

「断じて見られて悦ぶような性癖は持ち合わせちゃいねーからな。

 ただまあ、監視は迷惑だけど、姫柊は良いヤツだからな」

 

「いいやつ、なんて表現は陳腐で雪菜を褒めるには不足だけど、まあ、少しは見る目があるってことは認めてあげてもいいわね」

 

 とはいえ、紗矢華はかなり嬉しそうで、やはり大事な雪菜を褒められるのは自分のことのようにうれしいらしい。

 と、そこで不意に笑みを消して、調子を落としたような表情を紗矢華は浮かべて、

 

「その……なんというか、私も悪かったわ。いろいろ」

 

「はぁ?」

 

 今度は古城が、紗矢華の不意打ちの謝罪に目を丸くする。

 

「なんで煌坂が謝んだよ?」

 

「だって、あなたの後輩のこと、怪我をさせたのも、ひとりにさせてる状況を作っちゃったのも、私のせいだし、その」

 

 視線を落とし、指と指と突き合わせながら、言い難そうにしながらも、それをしっかりと自分の口で伝える。

 

「いいわけに聞こえるかもしれないけど。あの子、責任感じてひとりで飛び出しそうだったじゃない。だから、それは何が何でも止めなくちゃって思ったのよ。単独行動なんて許しちゃったら、私と雪菜じゃ管理できないってことになるし、そしたら機関から警戒度が上げられてしまうことになるわ……結果的に、こっちの勝手で迷惑かけちゃって、あなたのこと言えないわ」

 

「いや、あれは那月ちゃんにも言われたが、ヴァトラーのやつに振り回されてああなっちまったことなんだし。っつか、あの時、冷静でいられたのって煌坂だけだったじゃねぇか。一番嫌な役を煌坂に押し付けちまったっつうのに、俺は結局、説得に回りもしないで喚いただけで何にもできなかった。逆に俺が癇癪起こさなければ姫柊だってクロウのこと止めに回れて、こんなことにならなかったかもしれねぇ」

 

 と今度は逆に古城が消沈する紗矢華を励ますような形になっており、一体これはどんな状況なんだと髪の毛を掻き毟る。

 しかし、こう責任感じて落ち込んでるのは雪菜に似ていて、意外とかわいいところがあるというか。

 

「そう。……でも、殺すつもりでやったのも事実よ。私の武器と相性がいいんじゃないかってことを予想してたけど、あの子、相当強いから手なんて抜けなかったし、雪菜の汚点になるかもしれないって考えたりもした」

 

「それは煌坂がそう思い込んでるだけなんじゃねぇのか。言っちゃあなんだが、姫柊だけじゃなくお前もあの時、クロウに情が湧いてたんだろ。じゃなきゃまず止めようとか考えないだろうし。傍から見てたら、なんとなく辛そうな感じしてたし。クロウのやつも無茶してるって言ったたぞ」

 

「……なんか、それ私が未熟だって聞こえるんだけど」

 

「なんでお前はこう素直に受け取れねーのかなぁ!? 意外と可愛いところあんだなーって見直してきたっつうのに」

 

「か、かわ……あなたの前で……素直になんかなるわけないじゃない!」

 

 

 その時。

 古城たちの視界の片隅で、強烈な閃光が瞬いた。

 

 

道中

 

 

 迂闊、だった。

 

 

『―――警告。校内に侵入者の気配を感知しました』

 

 黒死皇派の彩海学園襲撃。

 予期せぬ事態に対応が遅れ、運悪く、武器も預けてしまっていた。

 

『総数は二名。移動速度と走破能力から、未登録魔族だと推定されます』

 

 しかし、その程度の戦力ならば、先輩は―――だが、その予想は外れる。

 

『予想される目標地点は、現在地、彩海学園保健室です』

 

 狙いがわからない。

 相手が少人数で、電撃戦を仕掛けてきていることはわかる。

 

『嘘』

 

 思い出す。

 彼と親しいから忘れがちになるも、彼女は重度の魔族恐怖症。

 

『どうしよう、雪菜ちゃん……あたし……恐い……』

 

 初めて、それを見た。

 普段の明るさのない、別人のように弱々しい様子を。

 これでは走って逃げることもできず、

 

『よくわからないけど、逃げるわよ。ここにいなければいいんでしょ!』

 

 相手も待ってはくれない。

 

『―――獣人?』

 

 敵性魔族は、獣人種――黒死皇派のテロリスト。

 それが二体。一体だけならば、白兵戦を挑めたのに。

 

 同時、保護対象の少女が、悲鳴を漏らし、気を失ってしまう。

 民間人二人を庇って、獣人たちの相手をするのは、不可能。

 

『見つけたか、グリゴーレ』

『この三人の誰かですな、少佐。一人ずつ嗅ぎ比べれば、すぐにわかりますがね』

『日本人の顔は見分けにくくていかんな……まあいい。まとめて連れていく。交渉の道具には使えるだろう。人質にもな』

 

 そして、『少佐』と呼ばれた相手は、<雪霞狼>がなければ相手にするのは至難なほど、強い。

 

『―――人工生命体保護条例・特例第二項に基づき自衛権を発動。実行せよ(エクスキュート)、<薔薇の(ロドダク)―――』

 

 反応も判断も、迅速。

 相手がどんな切り札を持っていようが、それを出す前に仕留める。

 人工眷獣を呼び出すことが叶わず、自分と同じ戦力となる人工生命体の少女は、6発の弾丸を撃ち込まれて戦闘不能。

 

『ああ、すまない。この少女から妙な魔力の流れを感じ取ったのでな』

 

 つい反射的に、と。

 それは戦士として、相手がか弱い少女の姿をしていようが躊躇わない。

 

『安心してくれ。 大人しく従ってくれれば、君たちに危害を加えるつもりはない』

 

 銃弾を、直前で見切って、躱すことはできるかもしれない。

 けれど、銃弾から後ろの民間人二人を庇うことはできない。

 自分一人であるなら、この場から逃げることもできただろうが、もう、ここは相手の要求に従うほかない。

 それほどに、この目の前の古参の(つわもの)は、隙がない。

 

『君たちの中に、アイバ=アサギはいるな。我々のためにちょっとした仕事をしてもらいたい』

 

 それが終われば、三人とも無事に解放すると約束する。

 

『……あんた、何者なの?』

 

 恐怖におびえる妹分の少女を見て、気丈に己を奮い立たせたか。

 指名され、何も力を持たないはず彼女は自分たちを庇うように前に出て相手を睨む。

 その勇気を賛辞するように、口角を上げ、

 

『これは失礼。戦場の作法しか知らぬ不調法な身の上ゆえ、貴婦人(レディ)への名乗りが遅れたことは詫びよう』

 

 秀でた額に尖った鷲鼻。知的でありながら、苛烈な威圧感を持つ老人の顔。

 その頬には目立つ、大きな、絶対的な強者につけられた古傷が残されている。

 ―――あの『混血』の少年のように。

 

『我の名は、クリストフ=ガルドシュ―――『戦王領域』の元軍人で、今は革命運動家だ。テロリストなどと呼ぶ者もいるがね』

 

 

 

 そうして、捕縛された姫柊雪菜たちはテロリストとたちのアジトである目的地を悟らせぬよう、目隠しをされて校門前に停められていたワゴン車に連れ込まれる。

 後部座席で、運転手の席後ろの逆側の左端。そして、右端に意識を失った――錯乱状態に陥りかけた彼女を雪菜が当身で眠らせた――暁凪沙。藍羽浅葱は一番後ろで、獣人ら二人に挟まれる形で。

 そして、自分の前の助手席には、手足を縛られているとはいえ唯一の戦闘力を持った雪菜の一挙一動の気配に常に気を張り巡らせてるガルドシュ。

 

(一瞬でも、隙さえできれば―――)

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「ああくそ、本当にロクでもねぇ眷獣だ! 暴走しただけで俺の<音響結界(サウンドスケーブ)>がずたずたじゃねぇかよ! 古城の野郎!」

 

 <禁忌四字>――『矢瀬』

 この一族は代々、稀だと言われている<過適応者(ハイパーアダプター)>を多く輩出する家系だ。

 彩海学園高等部の男子生徒にして、クラスメイトの親友でもある<第四真祖>暁古城の真の監視役である、矢瀬基樹もまた<音響過適応>という聴感覚に特化した特殊体質の持ち主――つまり、超能力者だ。

 <芳香過適応>と同じく、一種の念動力で拡張された聴力は、音響制御で大気を自在に操り自分の肉体を突風に乗せることだけでなく、目で見るように音響を観測でき、その精度は軍に使われる高性能なレーダーに匹敵する解像度を誇る。

 だが毎日、約74分をかけて彩海学園に構築していた感知網は、音に敏感――つまり繊細で、超音波なんてものはまさに天敵。第四真祖の暴走に生じた爆発的な大音量で、結界はずたずたに引き裂かれて、侵入者の察知に遅れてしまった。

 

「ったく、クロ坊がいないってときに浅葱を狙ってきたとは」

 

 魔女の猟犬にして、学園の番犬。

 自身と同じく、魔力に頼らない超能力の感知網を敷いていた後輩。合わせて二重のセキュリティを布いていた彩海学園。

 その失踪を矢瀬は悔やむが、同時に、心配もしていた。

 

 調べたことはないが、ひょっとすると、人間時は自分ら一族と髪色の似ている彼は、『混血』の半分である『人間』の血に<禁忌四字>を使っているのかもしれない、と考えたこともある。

 接していると、ふとした瞬間に、親近感のようなものを覚えたりもする。

 咎神の末裔の正当なる血筋が、ケダモノの中に混じってると確かだった場合、そしてもしそれが知れたら、あの親父は殺してでも存在を抹消するだろう。

 けれど、自分にとっては、親友と同じく後輩で、また親戚の従弟のようなものだ。

 最初、学園から怪物と迫害され、それでもなお担任の使い魔としてこの街や学校を護っていた彼を、出来損ないの<過適応者>と蔑まれ、一族から監視道具(センサー)として使われていた矢瀬は密かに応援していた。それに監視役上、直接的な干渉を禁じられていた自分の代わりに親友や幼馴染の周囲を警護してくれるのは助かっていた。同じバスケ部員だった奴らよりも、後輩の中では最も気にかけているだろう。

 

「ヘリポート?」

 

 現在、絃神島東地区(アイランド・イースト)を逃走中のワゴン車が向かう先にあるのは、民間航空会社のヘリ発着場だ。

 既に飛行準備を終えてるヘリも一機。

 

 絃神島の外に出るつもりか……?

 

 ならば、それを阻止する。

 合理主義の塊のような異母兄から渡された増幅薬(ブースター)。<音響過適応>の体質に合わせて合成されたケミカルドラッグは、服用すれば一時的に超能力を400倍にまで増幅させる。それは万が一の時の保険として渡されており、その無茶は寿命を削るものだ。

 

 だが、頼れる後輩が不在である以上、先輩の自分が無茶をするしかないだろう。

 

 取り出した錠剤を一気に、それも手づかみで大量に呑み込む。

 

「いけぇ―――っ!!」

 

 狙いは、逃走手段の破壊。まだ幼馴染たちが乗っていない、離陸前のヘリ。

 矢瀬の遥か前方の、ヘリポートの真上の空間に発生する乱気流。それがやがて、超能力者と瓜二つの外見に形作る。

 空気によって、肉付けされ、血管も神経も作り出された矢瀬基樹の分身体<重気流躰(エアロダイン)>。本体の感覚が極端に低下するが、幽体離脱の如く肉体の枷が外れたそれは―――

 

「悪いね」

 

 突如、出現した閃光のような魔力に呑まれた。

 

「今はまだ、彼らの邪魔をしてもらっては困るんだ」

 

 大丈夫、殺しはしないさ、と。

 分身体の消滅の反動で、ダメージを受けた矢瀬はその乱入者に太刀打ちできずに迎撃されるだろう。

 だが、その意識が闇に呑まれる寸前に、“聴こえた”。

 気配を断つ獣のように、やわらかく大地を踏みしめるよう疾走する聴き馴染みのあるそのかすかな足音を。

 

「―――おっとそこにいたのか」

 

 それに逆光の中に立っていた長身の男も勘付いたが、

 

「やらせるかよっ……!」

 

 最早、形のない暴風の塊となった分身体の残骸。

 それを一瞬の足止めにでもなればと特攻させ―――あえなく、弾かれたところで矢瀬の意識は途切れた。

 

「ま、それは『彼に手を出さない』ようにと言われてたしネ。ここは見逃してあげようじゃないか。でも―――」

 

 そっと人影は昨夜に突き付けられたこめかみのある側面を撫でて、その赤い目が語る。

 できれば、あの活きの良い獲物を横取りしたい、と。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 姫柊雪菜にチャンスが訪れたのは、逃走車がヘリポートに着く直前。

 

 

「―――」

 

 “それ”は、着地と同時に爪形の生体障壁を纏った右拳、ワゴン車両のエンジンフードを容易く突き刺して、エンジンのシリンダーブロックを破壊―――

 水冷エンジンのウォータージャケットを粉砕し、溢れだした冷却水がエンジン熱で蒸発して白煙を上げて、運転手の目の前の視界を奪った。

 さらにそのまま振り抜かれた左拳の二撃目がクランクシャフトまでもへし折ってしまえば、エンジンは完全に停止。

 瞬間的に動力源を断たれた車両は、流体クラッチに減速を余儀なくされ、ドライブシャフトがガラガラと嫌な音を立て、4つの車輪をロックさせながら停車。

 

「―――少佐!」

 

 そして、強襲者は車のフロントガラスを突き破り、群れの中で最も強いリーダーを狙う。

 車一台を廃車にしたその凶拳が真正面に放たれた。

 

「騒ぐな」

「―――っ!」

 

 一言。

 それで、部下たちの混乱を鎮めた。

 その拳打を片手で受け止めたガルドシュは、相手の顔を見て限界まで目を見開くなど大きく反応し、これまで抑えられてきた獣性を溢れ出す。

 

 この時、雪菜への警戒は一時緩まった。

 けれど、凪沙は昏倒しており、そして、浅葱は部下たちに挟まれている。

 

「凪沙ちゃんをお願い!」

 

 そんな雪菜と同じく状況を悟り、判断に迷ってる自分を押す浅葱の声。

 

「私は、大丈夫。連中、させたい仕事があるようだから」

 

 どちらか一方しか助けられない取捨選択ならば、単なる人質要因の少女ではなく、替えのない利用価値を持った自身を後回しにして―――

 

(すみません―――!)

 

 目隠しされていても、霊視霊感等直感に優れた雪菜は車内を把握している。

 縛られた両腕で掬うように凪沙の身体を抱き上げて、肩から車のドアにぶつかる。

 

「―――拆雷(さくいかずち)!」

 

 密着した状態から放たれた爆発的な衝撃に、車のドアが吹っ飛んだ。

 剣巫が修める業たる『八雷神法』は、呪力を物理的な攻撃力に変換する術であり、今の技はそのゼロ距離の体当たりだ。そのままの勢いで地面に倒れ込むよう前転して、それでも体で挟んで凪沙の身体は衝撃から守るよう、脱出。

 

 そして、周囲に豪風が吹き荒れた。

 

「―――はははっ、会いたかったぞ、<黒妖犬>!」

 

 攻撃を阻むだけでなく、強引に押し返したガルドシュ。

 それは歓喜の雄叫びをあげて、この念願の相手と対峙する。

 潜伏先にあった教会の神父が着るカソックを纏い、身ひとつで黒死皇派に挑もうとした、南宮クロウと。

 

「奴はおまえらでは相手にならん。非戦闘員に構うな。ヘリまでもう近い。<電子の女帝>アイバ=アサギの身柄だけを運べ」

 

「少佐は?」

 

「私はこやつの相手をする。グリゴーレ、お前は残ってもいいが、邪魔をしてくれるなよ」

 

「はっ」

 

 統率された戦士の手段たる獣人たちは、命令が下されてすぐ浅葱を抱えて車を出て、ヘリポートへ自らの脚で駆けだした。

 

「姫柊」

 

「クロウ君。あの……」

 

「凪沙ちゃんを頼む」

 

 その間、雪菜と凪沙の身柄を拾い上げたクロウが、ガルドシュから距離を取る。

 それから目隠しと手足の束縛から解放する際、昏倒している凪沙を見て、少し、目を細めた。それをさらに研ぐように尖らせて、ガルドシュへと向ける。

 

「心配はするな。我々は統率された戦士の集団だ。非戦闘員を辱めるような品のない真似をするものはいない」

 

「……本当だな」

 

「今は亡き我が盟友、<黒死皇>の名誉にかけて誓おう」

 

 その言葉は親戚の子供を宥めるように穏やかだった。

 クロウはそれでも油断なく、鋭い視線で警戒を解かない。

 

「オマエ、昨日の船にいた奴だな」

 

 ―――え、と雪菜はクロウを見る。そして、それに首肯するガルドシュも。

 

 何故?

 『戦王領域』からの使者、<洋上の墓場>の主は、アルデアル公。

 かつて、<黒死皇>を暗殺したのがアルデアル公で、テロリストたちがその命を狙っている相手のはず。

 なのに、そこの乗組員としてガルドシュがいた……

 

「不老不死の吸血鬼の狂った考えなんぞ理解できるとは思わんが、互いの利益が一致したのだよ、剣巫。これ以上は、まだ話せなんがな」

 

 だが、そのガルドシュの言葉というピースに、隙間だらけのところ人間(こちら)の常識を当て嵌めて埋めていた思考のパズルが、一度バラバラに形を組み替えて雪菜の頭の中で出来上がろうとしてる。

 考えもしなかった考えへと……

 

 いずれ彼女は我々が隠してきた真相へと至るだろう。

 だが、それはいい。もう時間の問題だ。

 それよりも――――

 

「オマエが、ガルドシュだな」

 

「そうだ」

 

「アスタルテを傷つけたな」

 

「返り血の匂いを嗅いだか。それはもしや、あの人工生命体のことを言っているのか?」

 

「オレの後輩だ」

 

「おお、それはすまないことをした。だが、あれは戦闘の道具だった。殺しはしないが力尽くで無力化させてもらったよ」

 

「そうか。じゃあ、オマエも殺さない程度にブッ飛ばしてやる」

 

 人型のまま、裡に眠る獣性を起こす。

 『獣の皮を纏う者(バーサーカー)』の通りに、その生体障壁を爪と牙に変え、装甲の如き野生の衣で体を覆う。

 

「ふふふ、強い覇気だ。そして、その目は懐かしいな。あの頃に戻ったように、盟友につけられた傷が疼く」

 

 戦闘態勢のクロウを眺めて、ガルドシュは愉快そうに頬の傷を撫でた。そして、背に隠した肉厚なナイフを抜くと、彼の骨格が音を立てて軋み、全身の筋肉が膨れ上がった。

 その野生を解放する獣人化。

 どれほど理知的に見えても、我々の本質は闘争を望み、破壊を好む、獣であると。

 強者との殺し合いの予感に、もう我慢ができないと。

 相手の出方など待っていられないと。

 

「シャア―――!」

 

 これより、我はケモノに戻る。

 一将校から、一匹のケモノに帰った男は走りだした。

 ナイフを片手に、地を這うような腰の低さで路上を疾走する。

 一直線。ただ純粋に、立ち尽くしたままのクロウめがけて。

 重心を低め、人間の武術の、この絃神島で身に着けた基本的な構えを取るクロウに対し、ガルドシュは人間の動きをしていない。

 蛇のように蛇行する。

 ひらけた路上は、野獣にとっては広すぎる狩猟場だ。

 クロウが目と肌で感じ取る警戒網を、狩りを極めた老練なケモノのように素早く擦り抜けてくる。

 そう―――見えているのに、その動きを捉えさせない。

 そして、クロウにとってはまだ半歩分遠く、ケモノにとっては必殺の間合いにまで距離が縮まった時―――その動きを猛獣のモノへと変えた。

 爆ぜる火花のような、迸り。

 ケモノはクロウの頭上へと跳躍して、その頭部へとナイフを突き刺す。

 きぃん、とナイフと気爪が衝突した。

 クロウの脳天を狙ったナイフと、防ぎに行ったクロウの気爪が衝突する。

 ケモノもまた、生体障壁、己が生命力を武器へと変える術を身に着けており、その武練はケモノになってもなくさず、ナイフはクロウの爪牙と同じく獣性の気を纏い硬化されている。

 一瞬―――互いの生命力()が混ざり合うように、両者は視線を交錯させた。

 沸々と怒りを圧し隠しているクロウの瞳と、歓びに満ちたケモノの瞳。

 にやりと笑って、ケモノは大きく跳ねた。

 クロウから逃れるように後方に跳んで、蜘蛛じみた動作で着地する。

 その一度の跳躍で5m以上は離れたガルドシュは、手足を地面につけて、獣のような息を吐いた。

 明らかに、これは人間を凌駕した種同士の戦闘。“人間のままでいるのがおかしい”闘争。

 

「何故」

 

 とケモノは言った。

 

「何故、獣化をしない」

 

 小手調べ(あいさつ)は終わった。

 なのに。

 その腕に血を流した際は歓びに満ちた表情を浮かべたのに、未だに変わりようのないその姿にケモノは抗議の声を上げる。

 <黒妖犬>と魔女の眷獣たる少年は応えず、ただ自分を――『自分の背後()』を見るこの相手を見つめている。

 

「……巨人の心臓を喰らいて生まれし魔狼の末裔。今は神話と同じく、その神々が鍛えし封鎖に縛られようと、その神殺しは健在なはずだ。

 さあ、昨夜のように、早く我が盟友と同じ、その気高き姿を私に再会さ()せてくれ」

 

 荒い、今にも呼吸困難で倒れそうなほど荒い。そんな心臓そのものから吐き出すような息遣いが響く。

 そんな興奮冷めやらない相手に対し、全く付き合わない冷めた対応で返す。

 

(何故……)

 

 だが、ガルドシュの言うとおり、ここで獣化をすべきだろう。

 紗矢華と同じ、加減ならぬ相手。

 この古参の兵は、ただの獣人兵ではない。そうであるなら、雪菜でも制圧できた。その雪菜と互角に近い、人型のままでは勝てない。

 

(まさか―――)

 

 雪菜が抱える、少女。その意識が失っているとはいえ、暁凪沙。かつて自分が怯えさせてしまった重度の魔族恐怖症の彼女。

 その前で、獣人という姿になるつもりはないのか。

 

 察した雪菜は、気づかれぬよう、そっと眉を曇らせた。

 けれど、あらゆる感覚が人間を大きく上回るケモノは視線から外していても、その変化を見逃さない。

 原因にすぐに至ったケモノはにやり、と口元を歪に吊り上げる。

 

「人間の少女に構うことはない。そいつは非戦闘員――弱者だ。その“血”が最も許せないものだ。そして、今見るべきは敵であるこの私だ。強者の私であるはずだ。さあ、出し惜しみなどせず、全力で殺し合う戦闘本能にだけ従えばいい」

 

 クロウは応えない。

 依然、獣人の姿に変身する気配はない。

 それに、ケモノは、最後の提案を口にした。

 

「……そうか。これだけ言ってもなるつもりがないか。ならば、仕方あるまい。無益な殺戮は好まぬところだが、獣を縛る『鎖』は“(コロ)す”しかないな。人に繋ぎとめている者がいなくなれば配慮することもない。グリゴーレ、無粋にも戦いの邪魔を取り除いてこい―――」

 

 と雪菜の動きを警戒していた獣人に告げる。

 忠実なる部下へ速やかに執行しろ、とナイフを持った腕を上げ、それを降ろした。

 

「オマエ―――」

 

 部下へ命令を下した。だが、グリゴーレは動かない。

 ガルドシュのナイフを持っていた手首から血が噴き出している。その早業に、そして、殺気に部下は固まったのだ。いつの間に切られたのか、ガルドシュ自身さえ理解できてなかった。

 気配を察知していれば、防御の構えくらいしただろう。それほど前に、一瞬、この殺意に圧倒されたのだ。

 

「―――殺スゾ」

 

 依然と獣化せず、人型でありながら、それは人外の暴威を振るう。

 それは闘争というにはあまりに空々しい―――まるで日常にある不幸な事故のようだった。無意味な災厄のようだった。

 俗に<黒妖犬>、その陰は死の前兆、と言われるまでの理不尽であった。

 

 ケモノは本能的に後退した。

 切り離された手首を、切断面につけながら、ナイフを拾わず。そして、腕は獣人種の驚異的な生命力で即座に癒着する。

 だが、放たれる殺気は刃物になって、この全身を刺し貫いている。

 初めに感じたのは恐怖。

 そのあとは、ただの歓喜だけがケモノを支配した。

 

「……いい。いいぞ、それが君の本性だ。盟友はその“血”に息づいている!」

 

 間違いなく、自分と同じ世界に棲むべき存在だ。

 獣の皮を被った人ではない、人の皮を被った獣だ。

 たったその子の少女を殺すと仄めかしただけで、クロウが自分より遥かに上質なケモノに帰ったことを、彼がきちんと理解した。

 アレが、逆鱗だ。

 ならば、それを殺せば―――

 

 

 

 一瞬の、アイコンタクト。

 そのとき、ガルドシュの部下グリゴーレは、長官の命を正しく理解する。

 

「我ら獣人種に栄光あれッ!」

 

 それを雪菜が阻まんと対峙―――しかし、グリゴーレは雪菜を見ていない。その視線の先にいるのは凪沙だった。雪菜を無視して凪沙に迫るグリゴーレの左手にはリモコンが、右手には爆弾が握られていた。口元には、笑みさえ浮かべ、グリゴーレはスイッチを押す。

 

 爆発。

 轟音と共に、グリゴーレの巨体が爆炎に包まれる。

 そして嵐の如き暴風が、辺りのものをすべて吹き飛ばした。

 

 自爆。

 

 直前で凪沙を抱えて跳んだ雪菜たちが紙屑のように路面を転がり、刹那に遅れて割り込んだクロウがその爆風から壁となった

 爆風が収まり、耳鳴りが止むまでに30秒ほど要した。クロウは顔を上げたが、宙を漂う粉塵で視界は利かない。けれど、嗅覚が二人の生存、そして、僅かながらグリゴーレと呼ばれる軍人も微かに息があることを感知する。

 しかし―――

 

「クロウ君! 私たちは大丈夫です、抑えてください」

 

 その声に、ハッとした少年は、血に染まった指先を無頓着に一振りし、路面に赤い(さざなみ)を描き捨てた。けれど、両の瞳だけが(らん)と静止した光をたたえている。

 そうして、クラスメイトである剣巫の声に、一端は気を落ち着けさせて、問い掛ける。

 

「なぁ」

 

 敵意も悪意もなく、ピントの定まらない。宙に浮いたような声だった。

 

「なんで、こんなことするんだ?」

 

「目覚めさせるためだ。君に流れる我が古き盟友の“血”。それは神さえ殺す殺戮機械だ」

 

 ガルドシュは己の宿願を告げ、クロウは唇を噛み、血を流す。

 

「―――オレのせいで、また」

 

 痛みにも似た自責が、そんな言葉を呟かせた。

 時間稼ぎが終わり、完全に腕が癒着したケモノが嗤う。

 五指をそれぞれ動かして、一度その調子を確かめて、

 

「いくぞ。かつて我が盟友たる獣王より教わりし、獣人拳法。その真髄である四つの秘奥をその身にとくと味あわせてやろう」

 

 再び、ケモノが跳ねる。

 一直線に襲い掛かってくる敵を前にして、それでも少年は動かなかった。

 

「玄武百烈脚!」

 

 それは、秒間に百の打撃。

 高速移動による分身で挟み撃ちにし、残像が生じるほどの連蹴。

 

 全身くまなく、滅多打ちにされ、

 

「白虎衝撃波!」

 

 咢の如く合わせた両手から、紫電迸る気功砲を飛ばす。

 気功術の奥義たるそれは、人間のが拳銃だとすれば、人間以上の生命力を誇る獣人種が放てば、それは大砲だ。

 

 そのどてっぱらに、諸に喰らった。

 

「青竜殺陣拳!」

 

 軸足に腰の回転を乗せて繰り出す拳。

 実際に当てずとも、当てる、当身の極みたる遠当て。

 空間を裂くそれは、生体障壁の纏いをズタズタに霧散させた。

 

 ついに、無防備に晒されたカラダ。

 そして、ココロは既に折れかかっている。

 

「―――クロウ君!」

 

 悲鳴が聞こえた。けれど、それに反応する気力も湧かない。

 もはや立っていることさえ苦痛で、生きていることも息苦しい。

 これ以上、周りに危険をするくらいなら、いっそ―――

 

「朱雀飛天の舞!」

 

 獣人種が編み出した、獣人種のための武技。

 その四つある最後の奥義。

 一帯に充溢させた闘気で、空間に歪みを起こし―――

 

 

「おっと。いつまで僕を待たせるつもりかい」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「いやあ、お楽しみのところ割って入るような真似はしたくなかったんだけど、ちょっと遊びに時間をかけ過ぎじゃない? ボクとの“契約”、忘れてもらっちゃ困るよ」

 

 昨夜、顕現させたのと同じ、灼熱の炎の蛇。

 それに襲われ、中断したガルドシュは間一髪でそれを避ける。

 そして、現れた純白の三つ揃え(スリーピース)を着こなす金髪の美青年――ヴァトラーを一睨みし、

 

「……そちらも私との“協定”を破るなよ」

 

「ああ、“ボクからは”彼に手は出さないさ」

 

 言って、ガルドシュは去った。

 それを呆然と見やる雪菜。

 もはや、事の真相は明らかだった。

 

「アルデアル公、貴公は……っ」

「―――おっと、大丈夫だったかい? ガルドシュに襲われていたようだけど、“助けが間に合ってよかったヨ”」

 

 雪菜を封殺するように、ヴァトラーは飄々とした口調でそれを言う。

 

「それからこれ、あそこで拾ったんだけど」

 

 そして、何食わぬ顔で、“それ”を目の前に投げた。

 どさっと落下し転がったのは、高校の制服を着た男子生徒。そのツンツンに逆立てた短い髪と、首にぶら下げたヘッドフォン―――

 

「矢瀬先輩!?」

 

「あれ、もしかして知り合いだった?」

 

 ぎょっとする雪菜の反応を眺めて、ヴァトラーは愉快そうに笑う。

 命に別状はなさそうだが、“強い熱を間近で浴びせられたように”、白い蒸気をその身体は発している。

 そのことに雪菜が問い詰めようと―――だが、それは隣の気配に口を閉ざされた。

 そう、ついに裡に圧縮していたものが、抑えきれなくなったのだ。

 

「………」

 

 念動力で拡張された特異な嗅覚は、その感情を読み取る。

 それが虚偽だらけというのも、誰よりもわかり切っていた。

 そして、貴族の青年も、目の前の『作品』を誰よりも“愛して”あげられる自信があった。

 

 

「知ってるヨ、君の正体を」

 

      「なんで矢瀬先輩を傷つけたんだ?」

 

 「魔女に育てられ人間になったようだけど」

 

     「古城君もホントは殺すつもりだった」

 

  「でも、その本性は何にも変わっていない」

 

    「奴ら連れてきて姫柊を困らせて楽しんでる」

 

    「君はケモノだ。それもとびっきり上等のネ」

 

   「……ミンナ、オマエのせいだ」

 

     「もし、ケモノとは、違う、と言えないなら」

 

  「………わしてやる………!」

 

      「救ってあげられるのは、ボクしかいない」

 

「ブッ壊して、やる」

 

「オマエを」 「キミを」

 

 

 

 

 

   「

     喰ラウ

         」

            」

 

 

 

 

 

 ぎりぎりと絞り出すように先鋭化した害意が形になったように、周囲を巡る生体障壁が荒れ狂う。青年は律儀にそれを待つ。だが、手を出せば正当な自衛権を使うつもりだ。だから、一撃。一撃で仕留められなければ、この絃神島を壊滅させる眷獣が解き放たれる。

 だから、最初から全力でヤる。

 

「―――契約印ヲ解放スル」

 

 契約印たる『首輪』を解放した。<守護者>に傷つけられた首筋にまで走る古傷に激痛が発し、そこから流れるおぞましい獣気が身体を侵食。どうしようもない気持ち悪さと引き換えに、獣人種としての身体能力を、限度を超えて飛躍的に増大させる。

 身体の底から噴き出すようなチカラの渦。汚泥を呑みこむかのごとき不快感。―――そして、相反する心地よさ。

 

 どんなに縛られていても、この本質は変わらない。

 これは蹂躙するための力だ。

 これは破滅させるための力だ。

 

「イイヨイイヨ! 全部終わったら、ご褒美に接吻(キス)してアゲルヨ」

 

 その真祖クラスの眷獣さえも葬りかねないモンスターへの昇華に、歓喜乱舞するヴァトラー。青褪める雪菜。

 そして、ついに人間から獣人の過程を飛ばして、一気に完全なる獣と化―――

 

 

 

 

 

「―――<神獣化(それ)>の許可は出してないぞ、馬鹿犬」

 

 

 

 

 

 寸前、複数の魔方陣がクロウを取り囲む。さらにその魔方陣から出現した銀の鎖が、ケモノの形態へ膨らもうとするのを人型に圧し込めるよう身体を何重にも縛り付けていく。

 

「まったく手間のかかる。これでは主の躾が温いように思われるではないか。おい、あまり暴れるようなら、“ハウス”にするぞ」

 

「ゴ、主人」

 

「様を付けろ馬鹿犬め」

 

 と自らの意識を断ったのか、強制的に変身は止まり、元の、人間のままで意識を失ったクロウだけが残る。

 そして、虚空から現れたのは高価そうな日傘を差し、装飾過多の黒いゴシックドレスを身に纏う―――この絃神島で、そんな恰好をしている物好きは、ただひとり。

 

「ひどいなァ。あと少しでお預けなんて、生殺しもいいとこじゃないカ」

 

「蛇にはお似合いだろう? それより、私の眷獣(イヌ)に、“狂犬病”をうつすな、と言ってなかったか、<蛇遣い>」

 

 絃神島で五指に入る国家攻魔官であり、魔族を大量虐殺した魔女。

 そして、『混血』の主たる、南宮那月が現れた。

 

 

 

つづく


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