ミックス・ブラッド   作:夜草

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大変お待たせしましたm(_ _)m


黄金の日々Ⅳ

 呪われし黄金(ラインゴルド)の伝説。

 川の深くに沈められ、妖精たちに管理される魔法の、そして、魔性の黄金。

 この黄金から作れられた指輪は、持ち主に世界すら支配できる力を与えるという。

 

 ただし、呪われし黄金から支配の指環を作り、無限に等しい力と財を手に入れることができるのは、“愛なき者”のみである。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

『――那月ちゃん』

 

 声変わりする前の幼い声の主は、黒目がちの大きな瞳を輝かせる少年。2歳年下の弟。

 

『ねぇ、那月ちゃんってば。たまには一緒に遊ぼうよ。退屈だよ』

 

 うるさい、と少女は鬱陶し気に手を振った。

 優し気な顔立ち。人懐っこい笑顔。自分にはない美点を備えた弟のことが、彼女は少し苦手だった。

 

『私は面倒な魔術暗号解読の途中だ。邪魔をするな』

 

 少女の邪険な扱いに、少年は少し悲しげな表情を浮かべ、しょんぼりと肩を落とす。が、このぐらいじゃめげなかった。

 

『じゃあさ、僕にも勉強を教えてよ。今、那月ちゃんはどんなのを解読してるの?』

 

『実の姉をちゃん付けで呼ぶな。お姉様と呼べと何度も言っているだろう』

 

 無邪気に微笑む弟は、それこそ尻尾を振って駆け寄ってくる仔犬のようだ。

 邪魔をするなと言っているのに、キャンキャンとうるさい仔犬(おとうと)の額を、ちょうど手元にあった扇子で乱暴に叩く。

 

『痛いよ、那月ちゃん……』

 

 額を手で押さえ、涙目になる弟。これに多少の罪悪感を覚えた少女は小さく溜息を吐いて、机の上に広げていた本を、見やすように横へずらす。

 

『今、私が読んでいるのは、ここだ』

 

『! うんうん、うん……』

 

『読めるのか?』

 

『わかんない!』

 

『はぁ……』

 

 元気のいい返事に、額に手をやり嘆息する少女。父から簡単な魔術暗号の基礎くらいは教わっているだろうに、弟の頭にはちっとも身についていないようだ。

 落胆とした姉の様子に慌てた少年は、パッと目についたところを指した。

 

『でも、わかるのもあるよ。これって、数字の“九”でしょ?』

 

『数字の読み書きくらいはできて少しは安心した。さて、“九”には単なる計算だけでなく、魔術暗号としての意味合いもある』

 

『どんなの?』

 

『『“九”は“新しい”を示す数字』という思想が東洋西洋問わずに広まっている。それは全てのものは九を周期にして桁を繰り上げるからだ。だから、“生まれ変わり”の象徴だと捉えるところもある』

 

『へぇー』

 

『実際、多様な文化圏でも“九”と“新しい”の単語は似ている。英語の“nine”と“new”、アルディギアなどの北欧言語の“neun”と“neu”、ロタリンギアで用いられるラテン語の“novem”と“nova”、それからサンスクリット語では“九”と“新しい”はどちらも“nava”と書く』

 

『そうなんだ。“九”にそんな意味があったなんて驚きだなあ……あ、そういえば、日本で最も有名な武士(もののふ)! “源九郎義経”! 義経の名前にも“九”の字が入ってるから凄いのかな那月ちゃん!』

 

『関係のない話に脱線するな。それと、お姉様と呼べ。解説してやらんぞ』

 

 まったく。

 この弟は頭の出来は悪くはないはずなのに、どうしてこう呼び方ひとつも直せないのは、姉としての躾けを誤ったからか。タイミングが肝要だったというのに、最初のちゃん付けを注意し忘れてしまったために、おかげで癖がついてしまった。

 姉である少女は、頭が痛そうに溜息を吐いて、それから仕方なしに、隣に座る弟が指さす文章の解説を始めた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 <空隙の魔女>南宮那月。

 魔術暗号の専門家である南宮尚匡を父に持ち、聖域条約機構の職員である那々星(ななせ)を母に持つ。幼少時から魔術幾何学に非凡な才能を見せ、聖域条約機構と共に国際人身売買組織壊滅に貢献。

 ―――その報復として、魔導犯罪結社<血の天秤(イクリブリアム)>に両親と、弟を殺された。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

『我が名は空隙。永劫の炎を以て背約の呪いを焼き払う者なり。汝、墓守の軛を解き、その身は我が下に―――』

 

 どうしてあんな契約を結んでしまったのか。

 始末せずに拾った以上は面倒を見てやるが、後々のことを考えれば面倒極まりないものを拾ってしまったと今でも思う。

 請け負った任からは逸脱した行為。今更振り返ってみても、正常な判断だったとは言えまい。いっそ退治してしまった方が、“犬”にとっても楽だったろう。

 それでも、主となった以上は、安易な選択など決して許す気はない。

 

 ………

 ………

 ………

 

 <監獄結界>の『鍵』となる契約を結んだ時、その代価とは“眠り”続けること。

 だが、それとは反対に、拾い物(サーヴァント)は、不眠症だった。

 

 夜闇が怖い。

 影より血濡れた囁きに苛まれる。

 一昼夜殺し合う以前から、“眠り”などとうの昔に忘れていた。

 朝でも昏い極夜の森、濃密な“負”の匂いが染みついている中に独りでいた時は、夢を見るほど深い眠りにつくことなどありえなかったという。

 ―――けれど、それはそれまでの話。

 

 子守唄なんて上等な真似などしない。

 主従の契約による繋がりから、“眠り”につく自分への代償を噛ませて、眠りへ落とす。

 片腕分を差し出している分の肩代わりであって、種明かしをすれば呪いであるのだ。しかしこれにそれは少しずつ眠り方を思い出していくように安息についていった。

 そう、『何だかご主人に手を繋いでもらっているみたいで温かいのだ』などと能天気なことを宣って。

 

 つくづく、おかしな話だ。

 こちらは、貴様がいるからおちおちと眠ってなどいられぬ始末だというのに。

 現世とは切り離された業の如き孤独、まさか使い魔などに影響されるなど夢にも思わないが、黄金の(そうぞうしい)日々は瞑っている瞼を透過した光にくすぐられるようではあって……冷え切った自分にはありえない熱を覚えた。

 

 ………

 ………

 ………

 

 これは契約をしてから知ったこと。

 魔女の工房を漁って調べた資料に記載されていた。『黒』シリーズの9号の製造日――誕生したのは、奇しくも、破壊活動から縁を切った年月日だった。

 その日に生まれたモノと縁を結ぶことになろうとは……とそのときは、皮肉な運命だと嘲った。

 だが、奈落の薔薇を飾るに相応しい背景を背負い、<黒妖犬>などと呼ばれるようになりながら、力の使い道に悩む、己の在り方を考え続けるそれは、その古巣とは相対する道を選んだ。

 そう。

 かつて、魔女が切り捨ててきたものを、どこまでも抱え込み、いつまでも引き摺って―――自分にはない輝きがあった。

 一日中、ソレが昇ることのない極夜の森で拾った子供には、ソレのような黄金(ひかり)があった。

 

 青臭さは抜けきれないが、気配は成熟しつつある。今では当初にはなかった種類の風格を得ている。単に歳と共に成長する以上に、短期間で、激しく変わっている。

 されど、その芯たる性根は変わらず、揺るがず。あの閉ざされた森だけしか世界を知らなかったころとはもう違う、様々な世界を知った今、むしろ骨子はより重厚に、確固たるものとなっている。

 

 既に自立する個であった。もう自分の足で歩んでいる。

 そして、己は、縛りはしないと約を交わした。

 ……いや、

 

『何故、裏切った、那月―――』

 

 先生()を切り捨て、盟友(とも)を裏切った己に、何かを縛ることなど出来はしない。

 愛着など持てはしない。

 執着など芽生えることもない。

 この身を刺すように冷たい永久凍土には、熱のある(もの)が芽吹くことなどあり得ない……そんな自然の理のように、いつか訪れる離別などで揺らぐことなどない。

 そう、<監獄結界>の管理者とは、『牢獄』で最も重い罪を背負った罪人。罰として永劫の無為を与えられた、哀れな生贄。

 感情を表に出すことも、誰か触れることも許されぬ幻として現世を漂う、“愛なき者(ハートレス)”、それが己の有様だ。

 なのに、

 

『私は後悔したぞ。お前を引き止めなかったことを』

 

 どうして、あの言葉が胸を衝くほどに強く反響したのか。

 師を残してすぐに動けなかったところを置いていかれ、ひとり先を突っ走る背中に、自分は手を伸ばして何を言おうとした。『首輪』を外され反抗されたときに、あんな弱々しく『やめろ』などと懇願を発した。そう、あの一瞬、世界から光が失われたように目の前が真っ暗になった。

 ありえない。

 ありえないのに、そうなった。

 認めざるを得ない事態を、招いてしまったのだ。

 

 ………

 ………

 ………

 

 夢ならぬ逆行現象(フラッシュバック)を終えた魔女は、開眼する。

 

 

「―――起きろ、<輪環王(ラインゴルド)>」

 

 

 過去(ゆめ)を振り返るのは、もう終わりだ。

 

 約を違えて喰われなかった(はなされた)その手は、冷たい無情な鉄鎖ではなく、通う血の色を示すような紅い、許されざるものを掴み直す。

 猫の足音、女の髭、岩の根、熊の腱、魚の息、鳥の唾液……と文字に起こせるもありえざるもの。そんな()()()()()()()()()()()()の総集でつくられている禁忌の茨(グレイプニール)は、決して途切れてしまうことはない。

 

 

人工島中央区 キーストーンゲート前

 

 

 玲瓏たる声が響く。声量の大小に関係なく、威厳を漂わすその声音は大きくその場の空気を、否、空間を揺らした。

 

 途端―――

 空間が、軋む。

 時間が、歪む。

 ずっ、と重い音を立てて、時空に激震を走らせる機械仕掛けの黄金鎧。<空隙の魔女>が有する最大戦力である<守護者>。それが契約者の呼び声に応じて南宮那月の後背に現れ、観衆の古城たちは音を鳴らして息を呑む。

 

「古来より互いの意に納得できなければ勝負で雌雄を決するものと相場は決まっている。野蛮なのは趣味ではないが、口で言っても聞きやしない頭の悪い使い魔にレベルを合わせてやろう」

 

 古城は那月が、すっと目を細めたのを見た。同時にその眇めた眼差しから垣間見る瞳に魅入られるが如くゾクリと背筋に震えが走った。

 

 瞬間、宙空から数十の銀鎖で上下左右前後からクロウを挟み込まんと襲い掛かった。

 

(初っ端から微塵も容赦なしかよ那月ちゃん……!?)

 

 宣戦布告したが相手はまだ構えを取らない。迷っている。そんな最中にも悠長に待ってやる慈悲など芥も見せぬ。

 これは、戦争(ケンカ)だ。そのような甘えを期待する方が間違いだ。

 

「―――」

 

 『天部』と呼ばれる古代超人類の遺産であり、神代の怪物を捕らえるために造られた強力な魔具。同格以上の魔具をぶつけない限り、容易に破壊できる代物ではなく、ましてや力任せに引き千切ることは<神獣化>した獣人の膂力を以てしても困難な強度。

 ―――最新の『獣王』の性能は、この<戒めの鎖(レーシング)>を破れるだけのことはあるが、それでも動きは僅かに鈍る。

 <空隙の魔女>……<黒妖犬>の主人は、この僅かの隙を許せる相手などではない。

 ましてや、まだ、またも爪を立てることに、躊躇がある。

 故に。

 反射的にとった行動は、回避が必然。

 

 機鎧の人狼は知恵の輪でも解くように、複雑に入り組んだ縛鎖の陣を掻い潜る。

 

 まるで、<神憑り>をした姫柊雪菜のような反応。だが、それを神にも頼らず独力()でこなしている。速く鋭い有機的で多角的な動きが、魔女の封鎖をその隙間を縫うようにすり抜けていく。

 霊視だけでなく、超感覚に高身体能力もあるのだろうが、何よりも経験値の差だ。

 <空隙の魔女>の攻撃を知り抜いている。

 一昼夜の殺し合いを演じて、それから主従として側にあった。だから、知っている。主人自身ですら気づいていないような主人の癖も南宮クロウは知っている。

 

「…………イヤ、だ」

 

 ―――ズキン。

 頭痛。頭痛がするほどに苛む懊悩に歯噛み、この犬歯にも噛み砕けぬ反抗の文句が零れる。

 迷いは、晴れない。いいや、こんな決断迫られようとも選べるはずがない。むしろ考えれば考えるほど、自分が間違えていると思い込んでしまう。

 ご主人は、本気だ。本気で来ている。

 邂逅したときの、死に際まで追い詰められた闘争でさえ、ここまで激しく感情は揺さぶられていなかった。己で律することなどできるはずのない、閾値を超えた衝動が頭の中を暴れ狂う。

 それでも、たとえどれだけ感情のノイズに荒らされていようとも、動きの冴えは寸毫たりとも失われない。内心などとは寸断されているとばかりに、殺戮兵器として刻み込まれた反射だけが正確に機能し続けていた。

 そうして、体だけが独立して迫りくる危害に対応していたような状態から、心もまた沸々と浮上してくる。

 

「オレは、ケンカなんて、したくない……! こんなの、やりたくなんてないのだ……! だけど、だけど―――ご主人に、殺されるのは―――イヤ、だ」

 

 <空隙の魔女>が大魔女だからとか、自分を拾って育ててくれた恩人だからとかそんな陳腐な理由ではない。

 ただ、主と認められるのは、ご主人(南宮那月)だけだ。

 

「だから―――」

 

 ご主人を、やっつける! ……しかない。

 ―――もう一度―――自分の手で―――殺したようにする!

 

 五里霧中にして死中に活路を見出したのはそれ。

 ネタ晴らしもして、あの矢瀬顕重に二度も誤魔化しが効くなどあり得ないというのに、縋る。しかしそう強引にでも目標(きぼう)を設定しないと、思考停止した己はそれこそ無秩序に力を暴れさせる怪物となってしまう。果て(ゴール)の見えない砂漠を極限状態で歩き続けるとき、オアシスが先にあると信じ込まなければ足を止めてしまいかねないのと同じ。たとえそれが都合のいい蜃気楼だとわかっていてもだ。

 そんな心情を言わずとも、血滲む歯軋りで察知する魔女は一言で両断する。

 

「つくづく、甘いな。あのまま従順な飼い犬を演じてればどうにかなるなどと思っているのなら、度し難いド阿呆だ。まったくもって腹立たしい」

 

 パンッと扇子が音を鳴らす。

 同時、空間制御の魔法がより広く展開される。

 <黒妖犬>を取り囲む形で四方に展開された魔法陣が、まるで螺旋階段のようにうねり廻り昇っていく。そして、射出。数百の巨大鎖が360度を包囲して、しかも途上で鎖は枝分かれしてさらに数千と分裂拡散、空間を一切隈なく封鎖して機鎧の人狼へと雨が降り注ぐかのような勢いで伸び迫る。

 

「甘いのは、ご主人の方だろ! こんな戦争(ケンカ)なんてしてる場合じゃないのに……!」

 

 鈍色の集中豪雨に呑まれるその間際、人狼が身を屈め地面に手を突く。

 獣に還るかの如き四足態勢、である。

 

 ぎちり、と。肉体のギアを切り替えたかのように、圧が増す。筋肉のバネを縮めこんでいるにもかかわらず、身体が明確に一段膨らんだかと錯覚させられる。

 そして―――姿が掻き消えた。

 周囲の空気を劈くそれは轟音というよりもはや爆音。

 攻撃ではなく、ただ移動するだけでこの場に満ちた魔力が激しい風と化して掻き乱れた。

 機鎧の装甲表面を焦がすほどの大気摩擦を発する疾走。己の速度を爆発させた<黒妖犬>は刹那に鎖で埋め尽くされた空間を、置き去りにする。

 

 (はや)い……!

 『八将神法』による単純な身体強化だけではない。

 吸血鬼(まぞく)である古城の動体視力でさえ追いつかない、残像さえつくらぬほどの圧倒的な速度に至らせたのは、『八雷神法』。呪力を衝撃変換させる白兵戦術を打撃ではなく、加速(ブースト)に用いたのだ。器用にも足裏、それから手の平――獣には慣れた四足機動で次々に虚空を打つ。すると空間への打撃によって生じる反作用が、クロウを後押しする推進力に加算、また制限のない立体的な回避行動をもたらす。電光石火を体現した機動には精妙な操作が必要とされるが、今のクロウはそれを可能とするだけの技能が身についている。かつては技術より膂力の比重が強かった疾走だったが、今では傾いていたそれに釣り合いが取れ始めてきていた。

 

 そんな、明らかに<空隙の魔女(にんげん)>の眼球運動よりも速く動くその対象(クロウ)へ、照準など定めずに適当に放たれた鎖は、しかし正確に行動先を撃ち抜いていた。

 

「欠伸が出そうなノロさだな」

 

「くっ!」

 

 なんて言葉を零しながら、那月はその口元を扇子で隠す。斜め後ろの死角から潜り込もうとする影に視線も振ることもしない。

 霊視によって未来を予測しているわけでもない。だが魔女にはこの程度の対応は、“見るまでもない”。人間、たとえ視界が閉ざされていようが、自分の手足がどこにあるかを頭が把握している―――つまりは、使い魔の位置取りなど()()()()()に過ぎないことなのだと。

 

 

「こりゃ、まるで“躾”だね」

 

 そして、殺神兵器に相応しいだけの情報処理・学習能力を有する<黒妖犬>だが、電子演算機(コンピューター)などではなく、本質はあくまでも人、それも動物よりに大分傾いている。

 どれだけ成長しようとも三つ子の魂は百までか。卓越した技術に昇華されていようが根本の性格は変わらない。

 それでいて、クロウに那月を殺す意思などない。自然、その手は制限されている。身体が幻影でないからこそ、躊躇(ブレーキ)が大きく働く。

 飛車角落ちと言った具合で、読み合いにおいて格上に挑むなど圧倒的な不利極まりない。

 

 これらを知りながら、行く先々で先手を打つ主人のやり口を、縁堂縁は、“躾”と称する。

 

 犬の躾けは、きちんとそれが“ダメだ”と思い込ませることが肝要。

 叩くことも、怒鳴る必要もない。

 ただ、タイミングを間違えない。

 迅速に問題点を指摘する。直前か、あるいはその瞬間であれば望ましい。時間の経過はさせない。それで雰囲気を作る。間違っても笑みなど見せず、明らかに怒っているという態度でアピールする。

 

 これで勝手に行動は制限されていき、試行錯誤の果ては行き止まり。術中に嵌れば抜け出せない、出入り口のない迷宮に囚われたも同然。

 それは学習能力が高いが故に誘導される。自縄自縛に陥らせる。

 

 さながら跳弾のように跳ね飛び回る影を、尽きることなく追尾する鎖の豪雨は、やがて、回避しようがない、とわからせられた。逃げようのない盤面にまで詰めて、人狼は、逃げるのをやめた。―――反撃に、転ずる。

 

「だったら、そのままおネンネさせてやるぞ」

 

 両手の指先から、凝縮した呪力で鋼以上の硬度に『霊弓術』の刃を練り上げ、鋭く巨大な爪の形として左右の腕に沿わせるよう纏わせる。

 そして、双腕を振るう―――音速超過の速度域に塞がる大気の壁を、障子紙のように切り裂いてしまうだけの膂力で。

 紫電一閃の腕の一振りで五指と連動する五柱の爪も霞む。大地を三日月状に抉り飛ばし、鎖の束がそれに巻き込まれて砕け散った。

 豪雨を弾き飛ばす暴風は、神々が打ち鍛えた縛鎖の包囲網を裂き散らす。“隙間”なんて狭苦しいなんてものではない“風穴”をこじ開けた。

 

「袋小路に追い詰められれば力業に頼るとは、脳筋め。それならこちらも山盛りの“おかわり”をくれてやる」

 

 突破口より最短ルートで那月へ迫る、色のついた烈風と化した<黒妖犬>。

 それを迎え撃つ、より大きい――一本一本の太さが人狼の腕程もある――<呪いの縛鎖(ドローミー)>。

 容易く千切れる強度ではない。

 しかしそれでも、空間から単調に射出しただけで仕留められる弱者でもなければ理性なき獣でもない。

 そんなこと、南宮那月は重々承知している。

 だから、鎖のランクだけでなく、展開の仕方も変更する。

 

 先程のは空間を鎖一色で満たすように広げたが、今回は空間ごと捻じり込むように、四方から伸びる巨大鎖を一点に収束。そう、幾十幾百と寄り集めた紐から大きな注連縄を編むように複雑に絡まり合わせ、ひとつの大きなうねりとした。

 それを解き放つ。

 <戒めの鎖>の豪雨を露払いで一掃した『獣王』へ、今度は<呪いの縛鎖>から織り成す瀑布。圧倒的な物量を広範囲の制圧よりも破壊力・高密度に重点を置いて注ぎ込んだ鎖の激流葬が、激しいうねりを伴いながら迫る。

 

 だが、<心なき怪物>は、回避行動は取らず―――

 

「<響>―――!」

 

 眼前にまで突き進んできた巨大鎖瀑布の側面に拳を当てる。それは払うというより、感覚的に手の甲でチョンと触れた程度に見えたが、足腰から全体重がこの拳一点に集約されており、さらに()()されている。

 

 ッッッゴガン!!!! と弾ける鎖。

 どの分野においても真に達人と呼べる者は、基本を重んじる。例えば、料理人(シェフ)であれば誰でも作れる卵焼きひとつであっても心底客を驚嘆させるほど磨き上げた腕を有しているものだ。

 これは、基本にして真髄を突き詰めた―――そう、『長命族(エルフ)』が放つ一手と同じもの。

 

「恐ろしい才能だこと……雪菜らと同年代の若造があの域に到達するとは……」

 

 学習とは、単にその術技への対抗策を導き出す、または耐性を獲得するためだけではない。

 その技術を、己のモノにする。

 体技だけならば剣巫よりも尖った資質をしていると太鼓判を押されている全身凶器にして殺神兵器である獣王は、闘争の最中に獣人拳法の四大奥義を見様見真似で会得してしまったという前科持ち。

 一度目ですら対応する過適応の直感。

 二度もその身に喰らえば、真髄すら体得してしまう。

 殺神兵器の学習能力はそこまで出鱈目なものだった。

 そう、世界最強であろうが素人な<第四真祖>や本能的な力を暴れさせる怪物の<蛇遣い>などとは違い、獅子王機関・師家の術理は実に芳醇な“馳走”であったのだ。

 

 戦闘狂(ヴァトラー)が見出した通り、<黒妖犬>は戦闘での経験値でこそ、確実に着実に強くなる。

 主人の魔女(なつき)はこのたった一度の死闘で殻を破っていく成長比率を見誤った―――

 

 

 ―――いいや。

    <空隙の魔女>は、けして相手を過小評価しない。

    ましてや、己の使い魔に対して、油断慢心などという“空隙(すき)”など芥ほども存在しない。

 

 

「ではそろそろ、前戯(おあそび)は終いにしよう」

 

 

 もはや無音だった。何かの間違いのように、その一瞬は時間が伸びたかと錯覚するほどの静寂。そして、大砲の発射音にも似た轟音と共に吹き飛ばされる身柄―――それは魔女ではない。

 

「っっがあああああああああああああああああああああああああっ!?」

 

 何故と思う間もなかった。

 ハエでも叩き落とすように頭上からの強烈な衝撃に垂直落下、鋼の大地へクロウは背中から激突――激しい振動を伴う衝撃音と共に、巨大な蜘蛛の巣状の亀裂を走らせた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 クロウが、やられた……!?

 信じられないような――否、考えられないようなスピードとパワーで鎖一色に占められた盤上を覆してみせた。

 しかし、その一秒後、倒されたのはクロウの方だった。

 吸血鬼(こじょう)の目にも止まらぬ急加速を、魔女は目にも映さずとも迎撃に成功させる―――獣人(クロウ)の目にも捉えられぬ一撃で。

 

「ぐぅっ……!」

 

 鼻の奥にツンとしたキナ臭さが広がり、頭の中で何かがジワリと溶けだすような感覚

 攻撃を貰う瞬間をまるで意識できていなかった、完璧なクリーンヒットだ。ここまで綺麗に決められたのは、『人狼』の<静寂破り>による強襲をやられたとき以来だ。

 

「どうした? 私を、おネンネさせてやるんじゃなかったのか?」

 

 煽るようにその文句を囁くも、魔女の双眸は緩むことがなく、空気が乾燥して、ひりついていくのをその場にいる全員が肌に覚える。音が溢れている空間で、魔女が纏う空気は固形みたいに凝っており、それは雑音さえ遮るようだった。

 

 

「グルルオオオオオ―――ッ!!」

 

 

 吠え猛る機鎧の人狼。

 その身体が、いくつにも分身する。呪力で半ば物質化させた分身。空間そのものが一瞬揺らぎ、まるで拡散した実体を獲得している幻像が蜃気楼であるかのような錯覚を誘発させる

 着弾を感知すらできなかった攻撃に、クロウは的を増やして攪乱を試みる。

 

 

 周囲に轟々とした風切り音が木霊する。かすかに地面が震え、一拍遅れて辺りに衝撃波が発せられた。空間の歪みが遅れて視覚化されたように無数の波紋があちこちで咲き乱れる。

 見守る古城らには、そんな周囲の変化でしか、それを感じ取ることはできなかった。それくらいに、速い攻防が繰り広げられていて―――

 

 

「無駄だ。ちょこまか動こうが、この空間内は私の掌の上に等しい」

 

 

 ミシミシミシミシッ!! と、鈍い衝撃音。

 その黄金騎士の籠手()が外殻の鎧に罅入れ中身の血肉を潰す。

 鋼の大地に受け身を取れずに跳ね、転々とバウンドする人狼の身体。

 

 状況は、目まぐるしい。しかし、目に見える結果は常に一方的な顛末の繰り返しだった。

 

 クロウはしつこく突進を繰り返し、その都度叩き飛ばされ、地面に投げ出されてる。そう毬つきのように何度となく。打破などできず無駄な足掻きに終わるのを繰り返す状況だった。

 

 <空隙の魔女>にとって、魔を束縛する鎖など付属に過ぎない。

 魔女の本領はその魔術。移動距離、射程範囲を0(ゼロ)にする空間制御。

 これは単に移動ではなく攻撃に転化すれば、<ナラクヴェーラ>を問答無用で殲滅させたそれと同じ。不可避の速攻。

 

 ―――いや、それだけじゃない。

 

 この一方的な蹂躙を演出しているのは、空間制御だけで成り立っていない。

 空間制御は、確かに一瞬で終わる。

 ただし、空間を省略できても、時間を停止しているわけではない。目的地――照準を合わせる前準備が、いる。複雑な座標計算式を個人で成立させようとも、それの計算速度は、零とはいかない。その分の誤差(ズレ)がある。常に超高速で動き続ける<黒妖犬>の位置を感覚的に捉えていようが、全弾必中させるほどの精度はありえない。そんな芸当ができるスペックがあるのならば、広範囲に鎖をばら撒くような無駄は省くだろう。巫女の霊視や魔族の超人的な動体視力でも追い切れない速度域、たとえ主人の那月でも、クロウの行動は把握できていても反応し切れていないはず。

 

「もっと、視野を広くしな雪菜」

 

 師家の言葉に、雪菜ははっとした。

 

 戦闘に集中するあまり気づくのが遅れたが、いつの間に景色が切り替わっていた。

 魔族特区の中枢で繰り広げられる仮初の戦場、その天蓋を彩る景色が変わっていたのだ。

 さらに、剣巫は連鎖的に、目には見えぬ違和感を肌が覚る。

 

「これは、まさか、<闇誓書>の……!?」

 

 この世界を体感したことのある雪菜が、逸早くこの正体を看破した。

 

 黄金の<守護者>が背負う虚空(そら)は、新月の星空。暗転し、星々が散りばめられる月なき夜空は、今の時期からは数ヶ月前の星座の配置をしている。アレはあの時と同じだ。

 

「<闇誓書>って、『波朧院フェスタ』の時の奴か……!?」

 

「はい! ですが、<闇誓書>をこんな大規模に展開するなんて、先輩ほどの魔力がなければ無理なはず……!」

 

 最初の所有者であった<書記(ノタリア)の魔女>仙都木阿夜は、『世界を思うがままに作り変える』<闇誓書>を使うために、『魔族特区』を流れる龍脈(レイライン)の霊力と、星辰の力を借りる必要があった。

 空間の法則(ルール)を弄る、そんな強大な効果に見合うだけの魔力が要求されるのだ。

 <闇誓書>を個人で扱えるなど、魔女でさえも無理、<第四真祖>や<蛇遣い>などの無限の魔力を持つ真祖級の吸血鬼でもなければ発動すらできずに魔力が枯渇する。

 この不条理を覆す絡繰りは何かと霊視()を凝らした剣巫は、魔女の手に、巻き物が一つ紐解かれていていることに気付いた。

 

「あれは、魔導書……!」

 

 人の手には余る力を振るうには、場所と時間が限定される―――その制限をこの東洋の幻書<山河社稷図>でクリアする。

 魔導書の完全幻覚は、獣人と過適応の混成能力(センサー)を騙し、世界をも騙る。

実際、法奇門の達人であった千賀毅人はこの『幻』を利用して多大な儀式準備を要する風水術の工程簡略化に成功していた。

 

 宝図に記されし『幻』の術理は、現実と全くの瓜二つとしか認識させない超精密な再現性。

 目に映る風景も、風のそよぐ音や無機物から発散される微かな気配(におい)さえも誤認させる

 画像エフェクトで背景選択するように、現実の地形天候と瓜二つの空間を作り出せてしまう。

 それだけに扱いの難しい魔導書であるが、南宮那月は、獣人種の鋭利な感性さえ誤認させるほど再現性の高い幻像を身代わりにできる。たとえ文献の文化圏が異なれども、専門外ではない。むしろ得意分野だ。十二分に触媒(ほん)を起用できる。

 世界を騙ることなど、彼女にとってみれば日々の延長線上に過ぎないのだから。

 

 原本(オリジナル)は<薔薇の指先>により破壊されてしまったが、<書記の魔女>の『記憶した魔導書の再現』という力を引き継いでいる仙都木優麻が回収した断片より書き上げた写本が、今、那月の手の内にある。

 そして、<闇誓書>の叡智は、頭蓋の中に揃っている。

 <空隙の魔女>は、およそ半日とはいえ、絃神島から所有者以外の魔力というものをなくした、“世界を上書き(しはい)する力”を手にしている。

 

「……………………………まさか」

 

 魔女が戦場に出された手札を知った雪菜は瞠目して呟く。

 

 徹底して。

 絶対的に。

 ()()()()()()()()()()、なんて正しくその通りの文句で、絶対者として魔女は君臨している。

 

 

 そう、世界を上書きする<闇誓書>で、“必ず勝利を約束された世界を設計した”のだ。

 

 

 それは、<黒妖犬>が、絃神島の『墓守』として選定されて預かった恩恵と同じ類。運不運さえも書き換えて、都合よく展開を進ませるその力は、たとえ山勘で撃ち込んだ当てずっぽうでもクリーンヒットにしてしまうほどに補正をかける。

 

「がっ、ふ!!」

 

 間合いの概念などなく0秒で繰り出される黄金の籠手は、すべての分身体ごとクロウを叩き潰す。(そら)の果てにまで飛びだったはずの斉天大聖が、結局は釈迦の手の上から脱し切れることはなかったように、<空隙の魔女>はけして逃さない。

 

 <守護者>で攻撃すれば必ずクリーンヒットになるよう自動的に調整する絶対有利の世界。

 相手の攻撃は一切届かず、こちらから一方的に嬲れる条件が整えられている。

 文字通り歯牙にもかけずに降せるのだ。

 誰が何をしようが、<空隙の魔女>はあらゆる攻撃は届くことなく迎撃する。

 すべての攻撃よりも速く、もっとも効率的(クリティカル)な方角と距離から迎え撃つよう空間を制御している。因果さえも矯正されている。

 

 だから南宮那月は<守護者>に攻撃を命じるだけで良い。滅茶苦茶にボタンを操作しても自動修正が働いてノーミスでクリアしてしまえるシューティングゲームのように、ただ時間の経過を待てば確実な勝利を獲得できる。相手がどう動こうが関係なく、コントローラーを持ってるだけですべてのことをうまく運ぶのだ。

 それはどうしようもなく無敵だった。

 

「絶対に負けられぬ主従の戦争(ケンカ)……那月は、確実にクロウを屈服させるための手札を用意してきておる。少々大人げない程にのう」

 

 だが、それでも友と師の切り札を布く魔女の目に侮りなど欠片もないとニーナ=アデラートは知る。

 古城たちが蒼褪めるほどに一方的に嬲られるのは、そのまま那月の使い魔に対する脅威、すなわち評価に直結する度合いなのだと。

 世界でさえも敵に回る戦況―――だが、世界でさえ敵に回す脅威こそが殺神兵器。

 

 

「ぐおォォォおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッッ!!!!!!」

 

 

 咆哮に星辰(てん)が震撼。

 震脚に龍脈()が激動。

 大樹が根付くように踏み締めた足元より、世界は原初の姿に立ち返る。鋼の大地に在り得ざる木々が繁茂する。

 

 <黒妖犬>の<過適応能力(ハイパーアダプター)>。まるで世界の精神を魅了し、虜にして、直接支配下に置いているかのような、魔術とは、理を別にする超自然の法。

 師の<四仙拳>が目指す境地、天地と合一し、自身の気で満ちた空間を形成するように、超過適応で芳香付与(マーキング)した空間を“己自身”と再定義することで認識拡張した。最新の獣王は、そこから獣化の要領でもって環境操作(テラフォーミング)を起こした。

 <身外身>を得意とした最古の獣王の獣化応用とは違う、己自身に働きかける獣化応用。

 簡単に言えば、『マーキングした()()()()()()()()』のだ。

 

 己の生命力を浸透させる<嗅覚過適応(リーディング)>の、過剰発香(オーバーロード)

 

 『冥王の花嫁』のように単独で龍脈に干渉し得る者がいる。

 セレスタ=シアーテがもしもその特質を費やせば、龍脈に通る力に制限を掛けられるであろう。

 それと同じことがここに起こっている。

 新月の闇夜に罅が入り、禁書で書き換えた法則が乱れる。

 

「……っ!」

 

 <闇誓書>を魔力源から断たれて不能にされ、空間制御の計算式を乱す混乱が巻き起こった。

 万全に整えた布陣を、盤ごと覆してくるかのような所業に、南宮那月は一瞬の驚愕に囚われ、硬直。ほんの僅かな隙が生じる。

 

 

 ―――その刹那に、迫る。

 

 

 限界を超えて、無心で獲物を千切りに迫る捨て身の特攻。

 そのスピードはそれまでのとは比較にならない。

 そして、すべての力を攻撃へ一点極振りした拳。狙うは、魔女を庇う<守護者>の右腕。

 

 爆音すら、消えた。

 一点を中心に風景さえ歪んで爆散したかのように思えた。

 

 機械仕掛けの黄金騎士の籠手というよりも、突き抜けた先にある肩から胸部へと不可視の衝撃波が爆発した。<守護者>の真後ろにあった建物の残骸が立て続けに薙ぎ払われ、吹き飛ばす。

 

「―――<禁忌の荊(グレイプニール)>!」

 

 黄金鎧の損傷に構わず、那月が<転環王>の左手より解き放った真紅の茨がクロウの身体を包み込む。

 だが―――遅い。

 

 完全に動きを縛り切る前に、突き切った。縛り上げたとしても、この間合いでは那月を刺し貫いて、仕留める獣の爪の方が、真紅の茨よりわずかに速い!

 

 そう、あと少し心臓のない左胸へ伸ばすだけ。

 禁忌の茨も機甲の腕に絡まっている。

 首にも体にも茨が巻き付き、躊躇すれば次の瞬間に縊られると理解している。

 

「ぐぅ……っ!」

 

 肌に刺さる。全身に絡みついた茨、その棘が食い込んでいる。

 <嗅覚過適応>にほとんどを出し切ったせいで、視界が薄くなる。

 最後の一押しを入れるチャンスはこの瞬間のみ。

 全身を縛られようが、腕が自由なら、仕留めることはできる。それだけの間合いに踏み込んだ。

 

 

 ―――――ズキン。

 

 

 頭痛がする。頭痛が治まりはせず、酷くなっている。

 

 この期に及んでもどうしても、迷いは消えない。

 兵器失格。いいや、生物としても破綻している。

 相手は――南宮那月は、きっと、躊躇うことなくトドメを刺しに来る。

 だって、そういった。『怪物は、殺す』と宣告されたのだから。

 ならば、“殺される前に”仕留めなければならない。

 

 

 ―――ズキン。

 

 

 そう、だ。

 彼女を、助けれればよかった。結果、この身体をどれだけ摩耗することになろうとも。ずっとそばで見守っていてくれた、最も大切な人さえ無事であれるのなら。

 だったら、迷いなど噛み切ればいいのに。

 

『オレ……サーヴァント、……やめる』

 

 走馬灯のように刹那を刻む一瞬の中で、『首輪』を外した時、見た光景が脳裏に過る。

 震え上がらせる魔族殺しの異名を持つ魔女の主の顔が、激しく揺らいだのを。

 幼い少女のように泣き崩れそうになったのを

 彼女のパーソナリティーのひとつを、根底から揺るがした。

 何をしてしまったのかを、クロウはわからない。

 だけど、きっと自分のせいだ、と思った。

 自分が間違えてしまったから、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、と思い込んで―――

 

 

 ―――赤い鮮血の花が、戦場の空に高く高く咲き散り舞った。

 

 

「っぅぅぅ……!」

 

 突き出そうとした右腕に、左手の五指が噛みつく。肉に爪を突き刺し、骨が折れんばかりに握り締めて、無理矢理に、勢いを止める。

 震える腕に、血が滴る。南宮那月の左胸の前で寸止めされたまま、それはぴたりとも動かなかった。

 

 

「普段のお前なら、これが“(ニセモノ)”だと気づけただろうに」

 

 

 え……? と()()()()、声がした。

 答案のケアレスミスの見落としを指摘するような、教師然とした口調は、主のものだ。

 途端、目前に捉えた“南宮那月”が、ふぅ、と風に流されるように姿を消す。

 

 目の前の、ご主人は、幻……。

 

 東方の宝図、<山河社稷図>の完全幻覚。南宮那月との間合いを誤認させられていた。

 <闇誓書>の発動条件のために星辰を騙るほどに大規模に景色を塗り替えたのだと思っていたが、それだけじゃない。それと同時に用意していた。

 木を隠すなら森の中。

 “きっと最後は力業で盤上を覆してくるだろう”と読み切っていた<空隙の魔女>の本命は、“想像(創造)するのが実に容易い自分自身の幻像”だった。

 

 そして、真紅の茨が機鎧の人狼を完全に縛り上げてから、魔女は深い溜息を吐く。

 

 

「だから、お前は馬鹿犬なのだ」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

()()()()()()()

 

 深く、昏く、重い、<血途の魔女>が空想上でしか存在の許されぬ悪夢をデザインした極夜の森。

 焦げ付く妄執で闇を煮詰めたような澱んだ閉鎖空間は、陽の光さえも拒絶していた。

 奈落(タルタロス)氷地獄(コキュートス)陰府(ヨミ)、空中楼閣――世界各地に存在する異界の牢獄に並ぶような、新たな地獄だろう。

 

 そこで生まれ、育ち、過ちを犯した。

 

 八人の兄姉の骸を、魔女にいわれるがままに動かし続けた。

 

 その罪状の名は、『無知』。

 

 己の無垢さが招いた所業を悟り、罰を欲した咎人。

 果たしてその己の力の使い道に迷い続けている彼がこれまでの独断の行いに、頑固にも貫き通せる正しさなど見出せていただろうか。

 

()()()()()()()()()()()()

 

 クロウにとっては、“南宮那月と対峙している”、それだけでもう濁った泥沼の深みに嵌っている状況だ。そこで抗うのは他の何よりも疲弊するのは当たり前で。

 その様は、一歩も動けないほど心身擦り減らし、疲れ切った迷子だ。故にその吐露は、渇望と葛藤が入り混じる、喜怒哀楽全部備えた心ある者の降伏に違いなく。

 

「クロウ……」

 

 濃密にその感情が篭められた声音は、大声ではなかったが、聴く者に慟哭と錯覚させるものだった。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 力は、正しく使えず間違えれば、暴力、と成り果てる。

 そして、その正否を決めるのは己自身。

 『自分は本当に正しいことをしているのか……?』なんて小さな疑問を持ってしまえば、手は止まる。疑問が迷いを生み、迷いは動きを鈍らせる。あるいは迷いは恐れに転じて、動きを縛りつけてしまう。

 

 生き返らせて、“殺してくれ”と訴えられた。

 己の善意からなる行為を拒絶される恐怖。それがまんまこの南宮那月との対峙に繋がってしまっている。

 <禁忌の荊>に囚われた。

 それ以前に、戦意は喪失し、もはや抵抗はない。

 “きっと怪物である自分はここで始末される”、と理解しながらも、もう、動けなかった。

 

 

 ―――違うっ!!

    処刑刀の如く剣を振り翳す片腕の黄金騎士の前で、力なく首を垂れる後輩を見て、そう叫ばずにいられるほど暁古城は冷静でなどいられなかった。

 

 ニーナから事情を聞いた。

 『彼女のために髪に似合う髪飾りを買おうと時計を売り、彼のために時計につける鎖を買おうと髪を切った』なんて賢者の贈り物のお話のように、行き違って失敗してしまったのだ。

 結局のところ、主従互いにきっと互いを大事に思っていることに違いなくて。そして、古城はこの中の誰よりも付き合いが長く、二人の仲を知っている。

 だからきっと、那月ちゃんは―――

 

 

 ―――そして。

    この何の益のない闘争を最後まで俯瞰していられるほど矢瀬顕重は、寛大ではなかった。

 

 

人工島中央区 シティホテル

 

 

 ()()()()だな、<心なき怪物>……。

 矢瀬顕重の指令のままにならない。そして、敗北を喫した。

 ぷっつん、と限界以上に張り詰められた糸がついに切れてしまったように、力なく囚われるその様は、欠陥兵器。

 こんな無様を見せられれば、もはや何ら惜しくはあるまい。

 用済みは、始末する。ここで情などに絆され、あの魔女の走狗になるくらいなら、あだなす前に早急に処分した方が良い。

 南宮那月のように、“飼い犬に手を噛まれる”なんて無様を、矢瀬顕重は晒すつもりはない。反逆防止の策は仕込んであるが、これ以上、あんな欠陥兵器に付き合ってやる気はなかった。

 

「次は、もっと従順な兵器を造らせるとしよう」

 

 顕重の周囲で、大気がゆらりと揺れた。矢瀬一族は、代々続く<過適応能力>の家系だ。一族の当主である顕重も、当然その能力を持っている。いや、今では顕重しか<禁忌四字>に相応しい力が備わっていない。妾に産ませた矢瀬基樹が、己が血筋の中で超能力を行使できるが、それにしても能力増服薬に頼らなければならない欠陥品だ。

 そして、一族の者を母体として利用した<黒妖犬>でさえもこの体たらく。

 

「忌々しい」

 

 触れるのも汚らわしい、と。

 大気を操り生み出す不可視の刃でもって、矢瀬顕重は、瓶詰ごと、心臓を切り捨てた。

 

 

「さすが、咎神の末裔を自称するだけの傲慢さだ、顕重爺。だが、その傲慢さがその身を滅ぼすことになる」

 

 

人工島中央区 キーストーンゲート前

 

 

「ご主人―――!!?」

 

 緩んだ茨の拘束を振り切り、振り返れば、飛び込んできたのは、クロウが最も見たくなかった光景だった。

 

 迷う曇りのない、漆黒の瞳。

 その人形のような生気のか細いからこその儚い美しさが一瞬で網膜に焼き付いて、怖気が走る。

 

「ご主人! ご主人!!」

 

 ご主人は、返事をしない。瞳孔が開き、古井戸のように真っ暗だ。

 これが、こちらを引っ掛ける冗談の悪い『幻』だったらと思いたかったが、己の嗅覚は倒れ伏しているのは正真正銘の本物だと告げている。

 

 ―――心臓が、壊された。

 

 胸に去来するのは、目前の事実への拒絶。あらゆる理屈などかなぐり捨て、この理性を塗り潰す、圧倒的な激情だった。

 

 胸の鼓動が耳朶を打つ。体の震えが止まらない。否定と拒否以外の何もが思考停止に陥る。

 

「やだ……」

 

 クロウは、この島で様々なことを学んだ。

 泣いたり怒ったり笑ったり、そういうことができた時間が、心の底から大切であると尊んだ。山ほどの感動と出会わせて、世界を壊さないよう、感動を植え付けた。それは呪詛だとも、祝福だとも人の見方により意見が分かれることだろう。

 こうして、癇癪のひとつも起こせぬほどに、共にあった黄金の日々で醸成された“鎖”にこのサーヴァントの行動と運命は縛られた。

 最後の一線を頑なに守らせてきたものであって、それがなければ自分は取り返しのつかない破壊の化身へと踏み外していただろうことを理解している。

 そう。

 そうだ。

 だが、もうどうでもいい。

 

 

「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だァァァああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」

 

 

 “鎖”が、弾け飛んだ。

 今日、ここに至るまで。

 目には見えない“絆”というグレイプニールは引き千切られ、終末戦争(ラグナロク)を蹂躙する(マガ)ツ獣が解き放たれた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 <瓶詰の心臓(グラスハート)>が、切り捨てられた。

 

「こ―――ふ」

 

 一度だけ、口端から吐血を漏らす。

 首筋を伝い、ドレスへ流れる血液が生地を染め、生温かな湯気を立てた。

 空間を超えさせて、全身に血を循環していた心臓(ポンプ)が向こう側で割断されて撒き散らしたためか、零れるはずの吐血は那月の想定以上に酷くはなかった。

 

 ……ようや…く、………手放し…た……か―――

 

 鼓動は死に絶えたが、肺はまだ生きている。ひゅーひゅーと呼吸音が五月蠅い。この五月蠅さを覚えなくなったらいよいよ危うい。

 

 急速に、視界が狭まる。

 “眠り”とは違う、死に行くための眠り。この眠気に靡けば、夢さえ見ない暗黒へ堕ちるだろう。

 

 予測していた。予想通りの展開だ。“『墓守』が使い物にならないと判断すれば矢瀬顕重は必ず心臓を握り潰す”とわかっていた。

 だから、後は―――

 

 

「ご主人―――!!?」

 

 

 ああ、まったく。

 七面倒なことになるだから意識を落とそうとしたというのに、最後に自分を庇う真似(あんなこと)をするから最後の最後で気を緩めてしまった。

 

「ご主人! ご主人!!」

 

 キャンキャンとうるさいぞ馬鹿犬。

 この期に及んでも、“ご主人様”と呼べないとは……あとで、説教して、やる―――

 

 

 

つづく


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