ミックス・ブラッド   作:夜草

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奈落の薔薇Ⅵ

人工島旧南東地区 廃棄区画 七星壇

 

 

 真正面から跳躍した獅子の影法師が、人間には反応しようもない速度で、少女の頭部へと爪を振り落す。

 

「―――!」

 

 正面から降り落ちた獅子の爪が、硬い音を立てた。

 空を断ち割るような音だった。

 その音が響き渡った次の瞬間、姫柊雪菜は大きく背後へ飛び退っていた。

 霊視にて獣の行動を先読みした彼女は、銀槍の武神具の柄で、獅子の爪を受け止めたのだ。爪を迎え撃った獅子王機関の秘奥兵器は、『神格振動波』を展開する刃先ではなかったものの柄が真っ二つにさせるということはなく、少女が背後へと跳躍する隙を作ったのであった。

 

「っ、……!」

 

 喘鳴と共に、一先ず相手から距離を取った雪菜は目を険しく細める。

 嫌な汗と、一条の血が、こめかみを伝った。

 紙一重どころではなく、獅子の爪は少女の頭皮を切り裂いていたのだ。僅かに掠めただけで衝撃は脳を揺さぶり、ごく軽い脳震盪の症状まで引き起こしていた。

 

(……強く、なってきている)

 

 “脅威”を、噛み締める。

 発生しているのは、命の危機のある魔導災害だ。

 ただ国家の魔導対策組織で養成された剣巫に対処できないほどの威力があったわけではない。与えられた<雪霞狼>であれば、容易く一撃で滅することができる程度だ。しかし、数が数。槍ひとつ身ひとつで数体の眷獣を相手にしなくてはならないのに、加えて、相性の悪い金属傀儡を突破したい。

 だが、ディセンバーが宣告したように、状況は刻一刻と悪くなってきている。

 

「ほら、また追加よ」

 

 ディセンバーが、空に視線をやって言う。

 上空の魔方陣、その『黒薔薇』の花弁がはらりとまたひとつ影を落としたのだ。ひらひらと風に乗り揺れる中で、それは忽ち盛り上がり、新たなカタチを携えて、この廃墟区画で起き上がった。

 たとえば牛であり、たとえば豹であり、たとえば新たな獅子であった。

 『黒薔薇』の眷獣製造は止まらない。

 

「このままだと人間のあなたは体力切れ。それとも、対処できる限界が来ちゃうかも」

 

 ディセンバーが、好戦的に歯を剥きだした。

 鋭く尖った糸切り歯に焔色の長髪は、彼女を<焔光の夜伯>と呼ばれた伝説の吸血鬼と認めるに足る。<第四真祖>を独断で処刑する権限の与えられた監視役に、本気になればどちらが上であるか力関係を確かめる必要もないと、無言の内に主張している。

 しかし、

 

「いいえ……!」

 

 雪菜が否定し、

 

「<雪霞狼>―――!」

 

 風前の灯とばかりに小さくなっていた銀槍の霊光が勢い増す。

 あらゆる魔力を断ち、高密度の魔力で肉体が構成される眷獣には天敵といえる力の一振り。剣巫の一閃に、一気に数体の影法師が霧散した。

 それでも。

 また次々と。

 蛇。

 鴉。

 馬。

 はたまた象と、<タルタロスの黒薔薇>より影法師の眷獣は追加生産されていく。

 もはや、この廃棄区画だけでもその総勢は数十でも足りぬ。ざっと見ただけでも百体以上……地上だけでなく、空中にはまだまだ落着していない漆黒の花弁は舞っており、しかも徐々に眷獣の強度と狂性が上がっていっている。最初、『神格振動波』の霊光があたるだけで牽制できていたのが、今では臆さず雪菜へ果敢に飛び掛かってくる。

 必然として呪力の消費量はあがり、また先輩との距離は遠ざけられていっている。切り札の<神降し>も眷獣を相手にしていては発動に集中できない。

 

「あんまりムキになると死ぬわよ。だってこれはまだ“前座”なんだから」

 

 ディセンバーが言う。

 ふるふると集まってくる猛獣たちは、その息遣いでこの世界を歪ませるようだ。無限の“負”の生命力を持つ吸血鬼が召喚したものではないにしても、眷獣の肉体を構成する魔力はさらに黒々と澱み、さらに濃密に深まっていく。

 

「これが、“前座”……!?」

 

 さしもの雪菜は、これに動揺は隠しきれない。

 この脅威度が中級にまで達した眷獣でもこれだけの多勢があれば、『魔族特区』に壊滅的なダメージを与えられるだろうに、まだ先があるのか。

 ディセンバーは、見渡す限りにある『黒薔薇』の眷獣を視界に入れた途端に支配下に置いている。

 ぞろぞろと『七星壇』を囲う眷獣の群は、少女に付き従う軍隊のようでもあった。

 

 でも、これはまだ“本隊”ではないという。

 

 雪菜の霊的直感もまた告げる。

 ひしひしと感じている嫌な予感の正体は、この恐るべき眷獣軍隊ではないと。

 あまりの穢れを見過ぎたためか、奪われていく気力のためか、朦朧とした視界に、

 

 

 

「―――獅子の舞女たる高神の真射姫が請い奉る!」

「極光の炎駆、煌華の麒麟、其は天樂(てんがく)と轟雷を統べ、噴焰をまといて妖霊冥鬼を射貫く者なり―――!」

 

 

 

 凛然とした声が、その意識を揺さぶり起こした。

 高速で飛翔する二条の軌跡より、人間には再現不可能な高密度の呪文詠唱が轟き―――凄まじい轟音と共に、巨大な閃光が絃神島上空を駆け抜けた。

 

 

「「雷霆(ひかり)、あれ―――!」」

 

 

 まさしく、それは天罰だった。

 『旧き世代』の眷獣にも匹敵するほどの圧倒的な魔力量が込められた鳴り鏑矢が、中空で破裂する。

 戦艦砲にも匹敵する威力を秘めた光の矢が、たちまち豪雨の如く抉り落ちる。たとえ濃密な魔力の集合体であろうとも、その礫にすれば紙も同然。半径数十mを打ち砕く天よりの裁きは、無尽の如く降り続いた。

 ああ。

 この術式は、魔弾の多重目標固定(マルチロックオン)

 一矢でさえ地表を破壊するに足る神鳴りの連続発生。

 途轍もない轟音と粉塵の渦が区画内を埋め尽くし、あたかも世界の終りの如き様子を現出させた。

 そして、この圧倒的な制圧の中でも、雪菜の周囲だけは外すという精度。眷獣だけを正確に射抜いて殲滅する。

 数十体の『黒薔薇』の眷獣たちが、その攻撃に呑み込まれて、悲鳴を上げる間もなく消滅した。

 

「雪菜―――!」

 

 雪菜は勢いよく顔を声がした方角へ向ける。

 視界に飛び込んだのは、鳥に似た小さな黒い影だ。それは獣龍の背に乗ってこの廃棄区画へとやってきた雪菜と同じように、大気を切り裂くようにして、海面スレスレを滑空していた。ちっぽけだったその姿が、絃神島に近づくにつれて、かなりの巨体であることに気づく。絶滅した太古の恐竜に似た蛇身と、片翼十mを超える巨大な翼を持つそれは、鋼色の鬣を持つ『龍族(ドラゴン)』だ。

 

雪菜(ゆっきー)!」

 

 そして、その『龍族』の背中には、四人の少女。

 銀色の長剣を構える剣巫に、双叉槍(スピアフォーク)を回す太史局の六刃神官。

 そして、今の呪術砲撃を行った二人の舞威姫。

 呪矢を放った魔弓<煌華鱗>を掲げて、こちらに手を振っている彼女の名を、雪菜は知っている。各々の武神具を展開し、臨戦態勢を取る彼女たちを、姫柊雪菜は知っている。

 

「紗矢華さん!? 唯里さんに、志緒先輩……それに、妃崎さんまで……!」

 

 雪菜が驚きに目を瞠る。

 『龍族』の背中にいるのは、雪菜が獅子王機関の攻魔師になるために養成訓練を受けた『高神の社』の同室の先輩(ルームメイト)たちだ。それだけでなく、獅子王機関と同じ魔導対策機関であり、別派閥である太史局の黒の剣巫までいる。

 『青の楽園』や『神縄湖』で獅子王機関と太史局の上層部は、互いに利権を取り合う政争をしていたはずなのだが、上層部ではない若手の攻魔師らは呉越同舟と手を結んでいた。

 

「あなたは、グレンダさんですか!?」

 

『だーっ!』

「わーっ! グレンダ待って待って!? すぐ私の上着着せるから!」

 

 無事、少女たちをこの場所まで送り届けた鋼色の竜は、雪菜へ挨拶しながら、人化。巨大な『龍族』から、髪の長い小柄な少女へと変身した。

 もちろん変身を解除した直後の『龍族』の少女は、服を着てない素っ裸なのだが、そこはすぐに先輩たちの中でも特にお世話焼きな羽波唯里が自分のコートを羽織らせた。

 

「ああっ!? 頭から血が……大丈夫、雪菜っ!?」

「紗矢華さ―――むぐっ……!?」

 

 そして、雪菜の元へ真っ先に駆け付け、飛び付き、ぎゅぅ~~~っ、と力一杯に抱きしめたのは、やはり煌坂紗矢華であった。

 大事な妹分の無事を確認、とついでに雪菜分を補充するかのようにその豊満な胸に雪菜の小顔を埋めさせるようにハグしている紗矢華……そんな絶賛狂乱中な訓練生時代からの舞威姫の好敵手(ライバル)を、冷ややかに一瞥するのは、斐川志緒。志緒はその自分にはない大きな脂肪の塊にぴくっと頬筋を強張らせながら、孤軍奮闘していた後輩よりお邪魔虫を無理やりひっぺ剥がして、

 

「鬱陶しいから下がってろ煌坂紗矢華―――姫柊雪菜、疲労しているところ悪いが、話を聞けそうなのが他にいない。状況の説明を頼めるか?」

 

「ちょっと、斐川志緒! 雪菜は怪我してるのよ! 今すぐ休ませないと!」

「ああっ、私なら全然大丈夫ですから紗矢華さん! はい、志緒先輩。でも、一体どうやって絃神島に……?」

 

 過保護っぷりに火が点いてる姉貴分を宥めて、雪菜が問うと、比較的冷静な志緒はこれまでの経緯を簡単に語る。

 

「八卦陣に妨害されて近づけなかったんだけど、元々絃神島の近くまで来てたんだ」

 

 獅子王機関、と太史局もそうだが、絃神島へ其々任務のために人員を派遣していたのだ。

 だが、ちょうど昨日の今頃、彼女たちを乗せた貨物船が、別の輸送船と衝突。

 急激な濃霧とレーダーの不調、操舵手の不注意が重なった不幸な事故だ。不幸中の幸いで負傷者は出ず、船体の損傷もすぐに沈没してしまいそうなくらい致命的ではない。ただ両船とも航行能力を喪失し、船内は浸水。結果、乗客は傾いた甲板の上で不安な一夜を明かす羽目となった。

 して、若い攻魔師たちは、すぐこの付近に同じように航行不能となり、漂流している船が30隻近くあることを知る。

 機関部の故障に障害物の激突など、そのどれもが突発的な事故によるもので、人為的な破壊工作の痕跡はないが、偶然で片づけるにはあまりにも事故が多発している。パッと海を見渡して、漂流している船が8隻も確認できるなんて普通にありえない。絃神島への海上交通は、ほぼ完全に麻痺しているとみた。

 そこに、組織本部より絃神島で要人を狙った暗殺未遂事件が発生しているとの報が入り、この現状が魔導テロに関わっている可能性が高いと結論付ける。

 そして、呪術の専門家である舞威姫が、漂流船多発事故が八卦陣の呪法にかかっていると推理。舞威姫の尊厳(プライド)にかけても、敵の呪いにやられっぱなしとはいかないので、八卦陣を内側から破ろうと解析を試みて……

 

「それで相手の呪法を解析したから、見つけた抜け道に沿ってグレンダに飛んでってもらって―――」

「八卦陣の術式を、内側から読み解いたんですか……!?」

 

 キラキラとした尊敬のまなざしを向けられて、志緒はややたじろいだ。

 

「あ、いや、まあ……私ひとりでやったわけじゃないんだが……」

「そうよ! というか、あんたあとからちょっと口出ししてきただけじゃない!」

 

 と雪菜から頼れる先輩だと崇められてるのが、大変気に喰わない紗矢華が二人の間に割って入る。

 

 そう。

 八卦陣の解析は、舞威姫二人の共同作業で導き出したものだ。が、顔を突き合わせるたびに張り合う好敵手との協力は口にするのが大変憚られる志緒である。

 だから、口籠ったのであって、別に評価を独り占めしようとか考えてない。

 

「私が雪菜に説明しようと思ってたのに、まるで自分の手柄みたいに言わないでちょうだい、斐川志緒!」

「そんなこと言ってないだろ煌坂! だいたい私が手伝わなかったら三奇六儀のところで計算式が止まってたじゃないか!」

 

 額を突き合わせていがみ合う先輩二人。

 唖然としてしまう雪菜の耳が、やれやれと嘆息が拾う。

 

「獅子王機関の舞威姫は、こんなときでも元気ね。だけど、そんなじゃれ合ってる場合でないのは、プロならば一目瞭然ではなくて?」

 

 皮肉気(シニカル)な笑みを向けるのは、妃崎霧葉。

 獅子王機関とは別派閥の構成員からのごもっともな指摘に、ぐぬぬ、と悔しげにする舞威姫たち。けれどそれも雪菜が、コホン、と一度咳払いをすれば、二人とも慌てて姿勢を正した。

 

「―――説明します。状況は、この通り絃神市全域を対象とした無差別攻撃です。首謀者は<タルタロス・ラプス>と名乗る『魔族特区』破壊集団。クロウ君から教えてもらった構成員は、発火能力を持つ人工生命体に狙撃手とハッカー、それから、古代猿人種の獣王、風水術士の千賀毅人―――そして、ディセンバーと名乗る<焔光の夜伯>のひとり」

 

 キッと視線を向けて、雪菜は示す。

 ゆっくりと粉塵が晴れていく中、『六式重装降魔弓』と『六式降魔弓・改』による制圧ですべてを吹き飛ばしたはずの儀式場に、依然と人影は立っていた。

 煙の向こうに炯々と瞬き揺らめく焔色の眼光を湛えて。

 

 

「あら、お話はもう終わりでいいのかしら?」

 

 

 そこに密集していた眷獣たちの八割は吹き飛んでいた。

 しかし、“無数の宝石の障壁に護られた”『七星壇』を破壊することは叶わず。

 

「え、どうして、暁古城が……!?」

 

 ディセンバーの隣に侍る少年――世界最強の吸血鬼<第四真祖>暁古城はその腕を振り上げていた。

 彼の前に君臨していたのは、絶対無謬の大角羊。

 その<焔光の夜伯>の『一番目』の眷獣は、<神羊の金剛(メサルテイム・アダマス)

 そして、その災厄の化身を血に宿し、たった今召喚したのは、暁古城。

 

 古城が敵側についているのを視認して、瞠目している紗矢華らを見やり、一度目を瞑る雪菜は、説明を続ける。

 

「その能力は、眷獣を含む相手を精神支配するものです。それで先輩は……」

 

「なんですって……!?」

 

 まさか、<第四真祖>が敵の手に落ちるなんて―――

 ……いや、無人島に置いてけぼりにされたり、真祖の肉体を交換されたりと割と隙が多いからそうでもないのだろうか。そうだ。世界最強の吸血鬼という物騒な肩書な前情報があったけど、第一印象は可愛い雪菜に迫る変態野郎で……吸血鬼なところを除けば、普通の男子高生であった。

 最初はショックだったが、これまでのことを思い返した紗矢華は冷静になり、持ち直した。

 

「あああっ! もうっ! 世話が焼けるわね暁古城!」

 

 ちょうどいいからこれまでの分の鬱憤をぶつけてやろうかしら! と容赦なく舞威姫は、呪矢をつがえた『六式重装降魔弓』をディセンバー、と古城のいる『七星壇』へ向ける。

 

「お願いします。私を先輩のもとに行かしてください。そうすれば、先輩を……!」

 

 他の三人も雪菜の説明でやるべきことを把握した。

 

「うん……わかったよ雪菜(ゆっきー)

 

 グレンダを下がらせた同じ剣巫の羽波唯里は、真っ直ぐに頷いて『六式降魔剣・改』を構える。

 

「本当、この島は退屈しないわね」

 

 狩るべき獲物が選り取り見取りな状況に妃崎霧葉は、好戦的な笑みで『乙式呪装双叉槍』を構える。

 

「私も全力でサポートしよう」

 

 <第四真祖>の監視役という重責を担う後輩に斐川志緒は、狙いに眼光を眇めて『六式降魔弓・改』を構える。

 

「行きなさい雪菜。私の分まであの変態真祖をブッ飛ばしてちょうだい」

 

「はいっ!」

 

 最後、煌坂紗矢華に送り出されて、雪菜は『七式突撃降魔機槍・改』を構える。

 

「ふふ、いいわよ。古城を奪えるものなら奪ってみなさい」

 

 五人の巫女攻魔師を受けて立つディセンバー。

 その頭上には『黒薔薇』の眷獣が降り落ちてきていて、『七星壇』を守護する<石兵>が鋼質な巨体を起こす。

 

 

キーストーンゲート 前

 

 

 絃神島全土に眷獣の脅威を落としていく<タルタロスの黒薔薇>。

 しかし、この『魔族特区』の基盤を支える重要な中央区画に、『黒薔薇』の眷獣の侵攻は及んでいなかった。

 この最新と最古の獣王同士の激突で発生する余波の影響で、舞い落ちる花弁が暴風域から弾かれるように、眷獣の悉くが近づくことができないのだ。

 

 

 優に三桁に届く群体に、中心と言う概念などない。故に、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、それらもまた統合されている。昆虫の複眼を処理する脳のように有象無象の感覚器を統合する全体としての意識を持ちながら、同時に流れるように各々の個体へ意識を移すこともできるぞの感覚は、最早“ひとつの視点”しかもたない生物には共感不能なものなのかもしれない。

 あえて喩えるなら、もはや生物と言うよりもシステムに近い。

 無数のモニターが並ぶ遠く離れた警備室から、無数のカメラを切り替え、検索して、標的を常にとらえ続けるような感覚なのかもしれない。

 

「「「「ほれ、行くぞ」」」」

 

 <如意金箍棒>、だけではない、<九歯馬鍬>、<降妖宝杖>……とその手に各々の武器を構える。

 百を超える『宝貝』が、ただ放り投げるのではなく、一級の戦士に振るわれて、一斉に“人狼ではない、人間のままの少年”へ突きつける。四面楚歌。巨大な花や打ち上げ花火のように、南宮クロウを中心に据えて。

 たった一撃で眷獣を屠れる武具の真価が、人海戦術の津波と化して全方位から<黒妖犬>へと襲い掛かった。

 その数、威力もさることながら、感覚を共有している<白石猿>の群体に死角など存在せず、この包囲から敵を逃すことは、万が一にもありえない。

 

 すぅ……―――

 

 故に。

 右に左に生物的な流線型を描いて回避挙動を続ける南宮クロウだったが、その努力が報われることはない。

 グワッ!! と景色の一部が歪む。南宮クロウを巻き込んで、空間そのものを圧搾するために。

 

 

 

「甘いな」

 

 直撃の一秒手前、その身体が滑り寄る。まるで間合いを盗んだかのような、ぬるりとした接近。獣化もしていない身体能力からの白猿人が対応できぬ歩法をもって、クロウの左腕が唸りを上げた。

 

「それは、“(まえ)”に攻略されたものだぞ」

 

 クロウの拳が手近にいた白猿人の一体の胸板をまともにぶち抜いた。そのまま振り回す。白猿人自体の肉体を盾とするように。

 

「それに、たった今も、オマエは死霊術(さいのう)を保証してくれたな」

 

 <白石猿>は、獣化応用技術である<身外身>を極めて、身体の一部、その毛一本から武神具を生み出せるバケモノだ。だけど同時にそれは、その武神具はあくまでも化け物と比較すれば毛一本程度の価値しかない。材料が同じバケモノの身であれば攻撃を抑え込めるだけの性能を持った防御が可能だ。

 そう、矛と盾の話と同じ。

 

「だから、死んで盾にしてやればいい」

 

 この状況を整理して。

 百体以上、適当に腕をただ突っ張っただけでも当たってしまうくらいにどこにだって白猿人が存在する。

 つまり、選り取り見取り、補給し放題だ。

 

 まるで詰将棋の解答例を見ながら駒を打つように、<黒妖犬>が動く。

 

 敵群体は、間髪入れずに次々と襲い掛かってくる。

 命を奪い、死霊術で傀儡とする。傀儡の身を硬化するように命令し、盾とする。盾とした白猿人が原形を失ってぼろぼろに崩れるより早く、呼吸と間合いを盗み取るように疾走したクロウは次の白猿人に襲い掛かり、急所を一撃で貫き抉る。死霊術で道具とし、硬化させて新しい盾にして再利用。

 あとはそれの繰り返し。

 盾を使い倒すことで安全を確保しながら、同時に総体としての<白石猿>の数を減らしてジリジリと追い詰める。敏捷性が先ほどより上昇したのではない。“まだ人間形態”。むしろ獣化するよりも運動性能は下がっているだろう。ただ、判断速度に躊躇い(ブレーキ)がない、余計な思考感情をカットし、戦闘にのみこの極限の集中を注ぐ。

 悪夢のように残虐で、しかし一石二鳥の最適解。

 

 

 

「「「「甘いのう」」」」

 

 無数の<白石猿>の口から、示し合わせたように同じ言葉が溢れる。

 一撃必殺で処理される自身の死体を盾にされているが、それも見慣れているように、涼しい顔で。

 

「「「「それに儂はこう次の手を打ったはずじゃ」」」」

 

 警戒させるより早くに。

 乱闘に巻き込まれる<白石猿>の一体が、身体を膨張させる。一気に空気を吹き込まれた風船の如く。クロウは思い切り腕を振り回して、胸板を貫通した白石猿の盾を投げ飛ばして、異常個体を撥ね飛ばして遠ざけさせる。

 

「「「「<開天珠>―――接触すれば、爆発するぞ」」」」

 

 瞬間、獣毛すべてを“爆弾”と変じた白猿人の上半身は赤黒く、カボチャのような形に膨らみ切って、破裂した。腹から上が丸ごと爆ぜ飛んだ。血飛沫をあげて爆発四散し―――四方八方で次の爆発が続く。

 “爆弾宝貝”と化した異常個体は、一体だけではない。この群体の中に複数体紛れ込んでおり、そして、当たり(ババ)引いた(ふれた)ら、爆破する。これで迂闊に盾にはできなくなる。

 そして、一度でも爆発に巻き込めれば、あとは圧倒的数量で押し潰す。かといって臆せば、動きは鈍り、群体は捕まえられるだろう。

 これで、<黒妖犬>は詰んだ―――

 

 

 

「甘いな」

 

 はずだが。

 イソギンチャクのようにへばりつかせている自爆した個体の残骸を拭い捨てて、クロウは、迷いなく近場の白猿人を蹴っ飛ばして、カーリングのように複数の白猿人を巻き込む。

 パズルゲームのように連鎖爆発を誘発させて、個体数を減らしていく。自爆する個体を看破している動きであり、対処法も熟知したものだった。

 ―――上手な殺し方を教えてやろう。そう『混血』の中に潜む悪意の歴史が囁くのを聴いた。

 軍隊で包囲し、一斉に攻撃を仕掛ける。というのに、一度も致命打(クリーンヒット)がなかった。そして、白猿人を一体屠るごとに、気持ちの熱が冷めてゆくような、奇妙な感覚がした。それに身を委ねるように動くたびに眼光は鋭く、冴えていく。

 己の意思で、呼吸や筋肉の緊張まで100%に制御し続けることはありえない。だが、80%が限度とされるその不可能を成している別次元の肉体制御。

 爆弾と化した白猿人が複数体、それも別角度より迫る。だが、それを阻むのは、交錯の間に“心臓を抉り抜かれた”白猿人。度を越して合理的な挙動は熟達した奇術のように近くの隙間に潜り込む……と絶命したことに気づかず、人形とされたことにも気づかず、数体の左胸に風穴の空いた白猿人は死に動かされた遮蔽物として、自爆個体の進撃を阻む。接触すれば、自動設定で<開天珠>が発動するそれらは、操られた死体に抱き着かれて、誤爆を起こして周りを巻き込んで自滅した。原形を留めないほど損壊した肉体は、死霊術の支配からは解放される。先ほど、盾としてきた者と同様、胴体から外れる四肢がおおかた外れ、ほとんど一本の棒のような形状になった頃、ようやく地に倒れることを許されるのだ。

 

 

 

「……やられたのう。なんと30分と掛からず300体が皆殺しされるとはなあ」

 

 <黒死皇>

 幾千と屍の山を築き、死体を戦争の道具として利用した修羅。

 この記憶に焼きついた悍ましき情景が今ここに蘇っているようで―――<白石猿>は感涙の笑みを浮かべていた。

 同性能(スペック)の個体の群体が、屍の山となっているというのに、白爺の口調に苦いものはない。

 

「よい。実によい! これならば、あれからの“続き”ができよう!!」

 

 “準備運動”は終わった。

 本番はこれからだ―――

 

 

 

「―――」

 

 これまでズレていた周波数のチャンネルが直っていくような奇妙な充実感。

 

「―――」

 

 今、この意識が至っているのは、“知り尽くした”妖仙の武技仙法が、一切届かない高み。

 

「―――っ、呑まれるな」

 

 だが、クロウは、<黒妖犬>が辿り着いてしまう可能性のあるひとつの最終形(こくしこう)ではない。あの殺戮機械に戻るという選択は選ばない。

 能力増強剤(ブースタードラッグ)で数百倍に拡張された超感性は、<白石猿>からだけではなく、<白石猿>の闘争の歴史に感化されてか、クロウ自身からも血に宿る『固有堆積時間』までも取得させていく。そして、それはすでにこれまで生きてきた年数分を超えて、百年近くの量だ。だからか、取得した己の記憶を上回るほどの“情報”量の分だけ、『南宮クロウ』と言う自我が薄れていくような錯覚を覚える。

 

「だが、まだだ―――アイツの底には、まだ至ってない」

 

 “試運転”は、これで終いだ。

 この一気に引き上げられる感覚になれるまではと控えていた、“さらに感覚を鋭敏とする”獣化(アクセル)解放する(ふんだ)―――

 

 

人工島旧南東地区 廃棄区画 七星壇

 

 

 島の上空を覆い尽す『黒薔薇』の魔法陣からは、今の眷獣たちが召喚され続けている。

 降下を続ける眷獣の群れを、舞威姫たちの呪術砲撃が迎え撃つ。

 まず<煌華鱗>の性能を最大限に発揮できる紗矢華がこの一帯を覆う巨大な魔方陣を展開し、志緒が多重目標固定で狙いを定めた小型魔法陣を無数展開してその撃ち漏らしを消滅させる。

 これまでに互いに連携訓練を受けてなどいないが、その呼吸は知っている。協調性に多少の問題はあれど、やはりこの二人は優秀な攻魔師であり、相手の得意分野を生かす役割分担で合わせれば、その呪術砲撃に一部の隙間もなくなる。

 

「さて、姫柊雪菜は小娘だったけれど、こっちの“本家”はどれほどの腕をしているのかしら」

 

「あははー、あんまり期待しないで。雪菜(ゆっきー)はとにかく、“影”を踏まずに動ける自信はないから」

 

「へぇ……言ってくれるじゃない」

 

 ……なぜだか、ギスギスと刺々しい雰囲気を醸している剣巫の光と影。

 この二人に左右両脇を固めてもらい並走する雪菜は、ただいま居心地の悪い。好戦的な霧葉は雪菜にも挑発じみた真似をしたことはあるが、彼女とは正反対に人が良い唯里から対抗心を出しているとは後輩としても驚きである。

 ただそれは基本内気な姿勢の剣巫には、良い刺激であったのか。

 

「『六式降魔剣・改』―――起動(ブートアップ)!」

 

 これより先を阻む守護神たる<石兵>の金属傀儡へ、剣を携え果敢に唯里は前に出た。

 剣巫の技で振るった銀槍の刃を通さない鋼の巨体に、龍脈を動源としている<石兵>は、雪菜とは相性が悪いものだった。しかし、紗矢華の<煌華鱗>と同様、疑似空間切断呪法が刻印されたその剣は、眷獣にも通用する武神具だ。剣の軌道に生じた空間の断層は、あらゆる物理衝撃を遮断する。儀式場へと立ち入る敵を撃退する金属傀儡の突進は、唯里の剣が空を薙いで張られた絶対防御の衝撃に防がれ、動きを止められた。

 盾役として前衛に出た唯里―――その剣巫の影より現れたかのように後ろから追い越して、次に前に出て金属傀儡の背後に回り込んだのは、六刃神官。

 

「我が影は、霧にして霧に非ず、刃にして刃に非ず―――」

 

 魔族よりも、この巨大な<石兵>の体格(サイズ)の魔獣を相手する霧葉にはむしろデカブツの方が慣れている。

 そして、太史局が開発した双叉槍の武神具の効能は、『魔力の模倣(コピー)』だ。

 

「斬れば夢幻の如く、啼哭は災禍を奏でん!」

 

 今の『乙式呪装双叉槍』に霧葉が借りた魔力は、唯里の『六式降魔剣・改』に刻印された疑似空間切断呪法―――

 あらゆる物理衝撃を遮断する盾は、あらゆる物理干渉を切断する刃となる。

 

「<霧豹双月>―――!」

 

 金属傀儡の地に根を張ったようにどっしりとした重厚な両足が、物質の硬度を無視する空間切断で、切り払われた。

 巨体殺し(ジャイアントキリング)の対処法の鉄則は、足元を狙うことだ。その巨体を支える足を削れば、自然、態勢を崩すもの。

 また、<石兵>は、直接接続された大地から龍脈の力を得ているため、両足を切断されるというのは、同時に動力源を絶つということになる。

 

 そして、ただの石塊となった傀儡が地面に落下する前に、剣巫の光と影は素早く各々の得物を振るっていた。

 

 斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬―――――ッッッ!!

 

 鍔競り合うように、または光と影のように連動して、金属傀儡を前後挟む唯里と霧葉は一心に刃を交わす。

 両足を断たれて両腕までも斬り飛ばされてダルマとなった守護神を、容赦なく、フードプロフェッサーに放り込まれたように細切れとしていく剣と槍の乱舞。

 掠りでもすれば、疑似空間切断の反発が生じて、自身らも傷つけることとなるというのに、剣巫と六刃の刃は擦過ギリギリを通っていく。見るだけでも背筋の震えるその心臓に悪い交錯。だが、闘争心に火が点いている両者は、ミックスアップしているかのように、この打ち合いを禁じた斬撃の応酬を加速させ―――もはや無視されていた<石兵(サンドバック)>は、いつのまにか砂礫となって突風に飛ばされた。

 

 

 

 眷獣の影法師も、石兵の守護神も、なくなった。

 雪菜の疾走を阻むものは、あとひとつ。

 

「我が同胞(はらから)よ……“お願い”……」

 

 <第四真祖>・暁古城が、突き出した腕に従い、絶対無謬の大角羊が吼えた。

 瞬間、煌く宝石の魔弾が、雪菜へ放たれた―――だが、“神懸った”動きでそれを回避する。

 

「なに……!?」

 

 天災に等しき<焔光の夜伯>の猛威を、少女は躱しながら進んでいく。

 <神懸り>。高次存在を巫女の身に降ろすことで、その霊力の純度と霊視の精度を増す、姫柊雪菜が、<第四真祖>の監視役と選ばれたその資質を開花させたのだ。

 そして、何より、監視役―――ずっと、誰よりも先輩のことを見てきた彼女に、<第四真祖>の眷獣の動きを余さず未来予測している―――

 

「―――獅子の神子たる高神の剣巫が願い奉る」

 

 神に勝利を祈願する剣士のように、

 勝利の予言を捧げる巫女のように、

 高純度の人工神気を纏う戦乙女は、高らかに呪句を謳い上げ、

 

 

「破魔の曙光、雪霞の神狼、鋼の神威をもちて我に悪神百鬼を討たせ給え!」

 

 

 宝石の魔弾を回避して、接近した大角羊を、『七式突撃降魔機槍・改』の一閃でその片角を切り落とした。

 真祖をも殺せる聖槍の真価。

 完全に消滅することはできなかったが、それでも切り捨てて雪菜は先へ急ぐ。

 ―――しかし、<第四真祖>の眷獣は一体だけではない。

 

「我が同胞――『二番目』よ、“お願い”!」

 

 <焔光の夜伯>として他の<焔光の夜伯>の力を知るディセンバーが、暁古城の肉体より喚び出そうとする(えらんだ)のは、牛頭神(ミノタウロス)の眷獣<牛頭王の琥珀(コルタウリ・スキヌム)>。

 大地そのものを武器とするこの眷獣は、<石兵>と同じく『神格振動波』とは相性がいい。

 頭上へと振り上げた暁古城の両腕より桁外れに膨大な魔力が解き放たれる。その衝撃は大気を歪め、噴出した濃密な血の魔力は渦を巻きながら、雄々しい牛頭神のカタチへと実体化しようとしているのを視て、一度目を閉ざしてしまう雪菜は―――たまらず、ディセンバーの声をかき消すように彼に向かって叫んだ。

 

「―――先輩っ!」

 

 召喚された琥珀色の溶岩の肉体を持つ牛頭の眷獣は、身の丈ほどもある戦斧を振り上げた。攻撃目標は、『七星壇』へ迫る姫柊雪菜―――

 しかしその振り下ろされた戦斧を阻む、宝石の障壁。自分を傷つけたものにその傷を返す、吸血鬼の不死の呪いを象徴とするその力が宿った、攻撃を『報復』する守護。

 そして、それを展開したのは、<雪霞狼>で斬られたはずの大角羊であった。

 

「『一番目』……!? まさか、古城、あなた―――!」

 

 『二番目』の溶岩の戦斧と『一番目』の宝石の障壁が、衝突。両者ともに<焔光の夜伯>の眷獣。力は拮抗し、相殺されて、実体化した魔力は霧散した。

 『十番目(ディセンバー)』も想定していなかったイレギュラーに大きく動揺し―――それを、雪菜は見逃さなかった。

 

「すみません先輩! ―――<(ゆらぎ)>よ!」

 

 素早く古城の懐に飛び込んだ雪菜が、その心音を確かめるように左胸に重ね合わせた双掌を当てて、打ち込む。

 不死身の吸血鬼であろうと『破壊ではなく、生態の機能を狂わせる』ことを主眼とした気を浸透させる打撃は、一時的に真祖としての力を発揮させないようにする。

 

「ぐっ……!」

 

 と剣巫の渾身の一打を受けた暁古城の肉体は頽れて、そのまま雪菜に寄り掛かるように倒れ込む。それを抱きしめて受け止めて、混乱から回復したディセンバーに邪魔される前に、雪菜は呼んだ。

 

「グレンダさん―――!」

 

『だー!』

 

 呼びかけに応じ、着せられた上着を豪快に脱ぎ捨てると鋼色の『龍族』へとグレンダは変身し、すぐ羽ばたくと地面スレスレの低空を滑空しながら、古城を抱えた雪菜を掻っ攫った。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「やられたわ……」

 

 雪菜に古城の身柄を奪還され、『龍族』に拾われて逃避行するその様をディセンバーは見やるが、彼女たちを己自身の眷獣を使ってまで止めようとはしていなかった。どころか、妙に晴れた、小鳥の巣立ちを見送る親鳥のような面差しだ。

 

「ディセンバー……」

 

「問題ないわ、ラーン」

 

 心配そうに声をかけるラーンに、なんでもないように笑って見せる。

 ディセンバー個人として、古城は傍に置いておきたかったが、でも、<タルタロス・ラプス>として守らなければならないのは、<タルタロスの黒薔薇>の基点となる儀式場の『七星壇』である。

 もとより、暁古城を認め、“眷獣となった”同胞の<焔光の夜伯>の力にあまり頼るつもりはないのだ。<第四真祖>の力で、絃神島を壊滅させようと考えなかったのはそのあたりが理由。最終段階までの時間稼ぎとなれば儲けモノと言う考えだった。

 だから、計画に問題はない。

 

「できれば強引な手段はとりたくないの。魔方陣、止めてもらえないかしら」

 

 こちらに呪矢を狙い定めながら、紗矢華がディセンバーたちに投降を呼びかける。

 仲間のラーンがいるが彼女は電脳世界の情報戦は頼れるが、現実世界における戦闘はからっきしだ。<石兵>、そして、<第四真祖>はいない。その守護に頼るべく駒を失い、陣営を丸裸にされた王将に逃げ切れる術などない。

 霧葉と唯里に刃を向けられ、紗矢華と志緒に矢を向けられるこの状況下。すでにこちらが相手の精神を支配する能力が知れている以上、下手な動きを見せれば彼女たちは眷獣を召喚するより早く仕留めにかかるだろう。

 

「奇遇ね。あたしもよ」

 

 <石兵>も、<第四真祖>もいない。

 ―――だが、もう十分、お役目を果たした。

 

「何を言ってるの? 早く『七星壇(そこ)』から離れなさい」

 

「ねぇ、空模様、気にならないの?」

 

 からかうように上を指差すディセンバー。

 逃げる必要はない。何故なら詰んでいるのは、<タルタロス・ラプス>ではなく、そちらの方だ。

 

「待って、煌坂! 上を見ろ!」

「なによ!? 何か文句でも―――」

 

 志緒にも促され、条件反射で文句を言おうとした紗矢華が、、志緒の表情を見て言葉を呑み込んだ。

 志緒は頭上を見上げたまま、戦慄したように震えている。唯里と霧葉もまた注意の矛先を上に向けたまま固まっている。

 絃神島上空を覆う魔法陣に、異様な変化が起きていた。

 すべての薔薇の花弁が散って、四つの巨大な種子だけがそこに残っている。

 これが、<タルタロスの黒薔薇>の最終形態。萎びて枯れた漆黒の花弁が散り、新たに種が生み落されたのだ。

 空を埋め尽くす夥しい数の『黒薔薇』の眷獣らは、この四つの種子に魔力を奪われ、干乾びるように次々と消滅していた。そうして種子たちが取り込んだ魔力の量、そして濃縮された質は、もはや紗矢華たちの理解できるスケールを超えている。

 だが、ひとつだけわかるのだ。

 あれの誕生を許してはならない、と。

 

「<煌華鱗>―――!」

 

 ディセンバーへと固定した矢を即座に天上へ飛ばした。志緒の方も紗矢華と同じように条件反射的にあの四つの種子に狙い定めて魔弾を撃ち放っていた。

 二本の呪矢は、眷獣の軍勢を八割壊滅させた舞威姫の業をまた一度披露してくれた。絃神島上空を眩く閃光が染め上げ、一時、漆黒の魔法陣を掻き消した、かに見えた。

 だが、爆心地にあったはずの四つの種子は、依然、そこにある。眷獣を消滅させた破壊力を受けて、種の外殻に欠けたところはなく、罅ひとつもいれられていない。

 

 

 そして、何事もなかったかのように異常な魔力を内包した種子は、割れた。

 

 

 魔法陣の殻を破って出現したのは、四体の獣たちだった。

 どれも全長20mを超えるサイズで、吸血鬼と同じ濃密な魔力の集合体で出来上がった怪物。

 

「毅人の受け売りだけど、この絃神島って、『四神』に対応して造られた都市なのよね」

 

 巫女たちが息を呑む最中、ディセンバーは歌うように、または勝利宣言するように語る。

 

 東西南北――四基の超大型浮体式構造物で絃神が構築されているのは、風水術を応用して人工島の安定化を図っているためである。

 天の四方を司るとされる四体の幻獣――風水術における力の象徴『四神』の四聖獣に当てはめているのだ。

 それを卓越した風水術士の千賀毅人が知らないはずがなく、そして、<タルタロスの黒薔薇>の術式は、彼が手がけたものである。

 

「だから、その“島を繁栄させ、地盤を護る”ための『四神』が、属性を“反転”させちゃったらどうなると思う?」

 

 栄光守護の加護をひっくり返してしまえば―――それは、破滅しか残らない。

 

「っ、来たわよ―――!」

 

 そして、この『廃棄区画』へと怪物のうち二体が降り立つ。

 前門の虎、後門の狼、四人の巫女は危機を悟りそれぞれが背中合わせで状況を打開せんとする。

 

 

「人工島の構造を利用して、人工島の何もかもを破滅するものが実体化するんだから、あの『四凶』は、真祖の眷獣以上の化け物でタチが悪いわよ。早く絃神島から逃げた方が賢明ね」

 

 

キーストーンゲート

 

 

「―――『檮コツ(トウコツ)』」

 

 それは、東夷の始祖であり、四罪・(こん)が死後怨霊と変じた化身。東方にあって暴虐を起こす、猪牙を生やす人面虎の魔獣。

 

「―――『饕餮(とうてつ)』」

 

 それは、西戎の始祖であり、四罪・三苗(さんびょう)が死後怨霊と変じた化身。西方にあって万物を喰らう、捻れた角が持つ人面牛身の怪獣。

 

「―――『渾沌(こんとん)』」

 

 それは、南蛮の始祖であり、四罪・驩兜(かんとう)が死後怨霊と変じた化身。南方にて悪徳を歌う、盲目聾唖の熊犬に似た醜獣。

 

「―――『窮奇(きゅうき)』」

 

 それは、北秋の始祖であり、四罪・共工(きょうこう)が死後怨霊と変じた化身。北方にあって戦乱を呼ぶ、翼のある人食い虎の妖獣。

 

 『四神』を反転させ、『四凶』と見立てた魔の名を口ずさんだのは、千賀毅人であった。

 四神相応を冠する『四聖獣』と対照的に、四方の土地に存在すると言われた、四凶相克の大陸の怪物たち。

 今、ここに彼の計略は成る。

 毒を以て毒を制す、悪を以て悪を滅するがごとき、禁忌。

 千賀毅人という稀代の風水術士が、その生涯において持てる才のすべてを尽くして達成した、最高の呪法。

 

「我々の勝ちだ」

 

 <タルタロス・ラプス>の勝利の(いさおし)を静かにあげる。

 乾いた唇が、会心の笑みに歪む。

 

「これで君たちの勝ち目はなくなった。だから、早く去るといい。若者がそう命を散らすものではない」

 

「勝利宣言にはいささか気が早いんじゃないのかな」

 

 絃神島を支える要石があるキーストーンゲート最下層へと行く足を止めさせたのは、ショートカットの利発そうな少女だ。今、防護結界の張られたシェルターを破る虹色の巨人を背にして振り返った千賀は物事の道理を説くように撤退を進めた。が、仙都木優麻の返答は、魔女の<守護者>たる青騎士の一刀だった。

 

「彼にも南宮先生を取り戻すと言ってあるしね!」

 

 <蒼の魔女>と契約せし、<(ル・ブルー)>は対価とし、純血の魔女に与えたのは、空間を制する術だ。

 振り降ろされた青騎士の剣が何もない虚空に吸い込まれ、千賀の背後の空間から、その刃だけが出現する。空間制御を応用した奇襲攻撃。如何なる達人にも予測不能なその一撃を、千賀は予め見切っていたかのように回避する。

 

「感化されたか。だが、未だにあの世迷言に囚われていると己を滅ぼすぞ、若い魔女よ」

 

 続けざまに千賀が隠し持っていた拳銃を引き抜いて優麻に向けて弾丸を見舞いする。

 

「<(ル・ブルー)>!」

 

 拳銃を向けられるよりも早く、<守護者>に命じた優麻が青騎士と共にかき消え、千賀の頭上へと現れる。そして振り降ろした腕の先から、優麻は不可視の衝撃波を放った。

 完全な死角からの奇襲だが、それもあっさりと千賀は回避する。

 

空間跳躍(テレポート)と、空間の歪みが生み出す衝撃波か。まるで那月の物真似だな。おかげで、読み易い。多少の誤差はあるがそれも癖を把握すれば容易く紐解けるようになる。それで、そんな教え子の劣化版で俺に通用すると思っているのか?」

 

 <空隙の魔女>の師であった千賀に、<蒼の魔女>の術はわかりやすいのだろう。優麻は再び空間跳躍で千賀から距離を取った。この攻防で千賀が消費したのは弾丸一発であり、優麻は二度の空間転移と部分転移、衝撃波と魔力を多く消費している。

 

「ああ、そういえば、『予定調和』の魔導書を持っていたか。だが、魔力に頼っている防御では、これは防げない」

 

 優麻の背後、千賀と挟み撃つよう、半透明の巨人の腕が伸びる。

 

「<薔薇の指先>。あらゆる魔力を跳ね返す、『七式突撃降魔機槍』を除けば、これほど魔女と相性の悪い力はないだろう」

 

「―――っ!?」

 

 この場にいるのは千賀だけではない、操られ、彼の命に動く眷獣共生人工生命体――アスタルテ。最下層まで最短距離で結界破りを行っていた彼女は、千賀の指示で、優麻に向けて人工眷獣の剛腕を放った。

 優麻は反射的に青騎士に防御を命じる。しかし<守護者>の分厚い装甲を、人工生命体を身体に埋め込んだその巨人は障子紙も同然に殴り破った。装甲の破片が爆ぜたように砕け散って、青騎士が苦悶の咆哮を放った。

 優麻は舌打ちして空間を歪めた。空間転移で、千賀の死角へと再三回り込もうとしたのだ。が、

 

「そこか」

 

 すでに転移座標を見切っていた千賀がそこへ置くように銃弾を放っていた。風水術は、龍脈を利用する術だけではなく、占術にも秀でている呪術体系だ。巫女の霊視などもたなくとも、占うことで相手の行動を先読みすることも可能なのだ。

 <薔薇の指先>に破られた障壁を張り直す間も与えられなかった優麻は、銃弾を右肩にもらってしまう。

 それでも、優麻は自分の足で相手から距離を取り、片腕のない青騎士を従える。その目の光は、まだ強い。

 

「っ! まだ―――!」」

 

「……そうか、この後に及んで降参する気はないか。計画はもう仕上げの段階に入った。ここで俺が手間取ってるわけにはいかないのでね」

 

 早々につませてもらおう、と千賀はその仙界の魔導書を手にした。

 

「<山河社稷図>。この宝図から読み解けるのは『幻』の術理だ。幻像(なつき)を封じ込めるのに用いたが、これにはもっと別の利用法がある」

 

 キーストーンゲートの硬質な床が、地面に。そして、通路だった間は、広々とした石柱の並ぶ荒野へと塗り替わる。

 『彩昂祭』にて幼馴染のクラスが出店していた仮想現実(VRMMO)のように、優麻の視界だけでなく、肌を撫でる空気、風を切る音や風の匂いに風に含んだ砂の味などと現実のものと変わらない。錯覚と知らなければわかりようのないほどに高精度で再現されている。

 

「宝図に描かれた幻の地形を、現実世界に広げる。これは人間の五感だけでなく、世界をも騙してしまう『幻』だ。現実の地形と変わりがない。つまり、いつでもどこでも俺に有利な地形を張れることになる」

 

 ―――現実と同一の地形を自在に喚び出せる。

 かつて優麻と組んでいた<アッシュダウンの魔女>メイヤー姉妹は、森そのものを眷属とした悪魔契約を行い、悪魔と化したアッシュダウンの森を<守護者>にしていたが、地形を召喚することはありえない話ではない。

 だが、画像エフェクトで背景を変更するように、地形を思うがままに切り替えることができる魔導書を、地形の力を利用する稀代の風水術士が手にしているのは、悪夢じみた組み合わせだろう。

 地形に左右される特性故に、一国を滅ぼせるだけの力があっても準備と手間に時間を要する風水術だが、その工程を省略してしまえるのだから。

 

「子供相手に大人げないが、これも物分りが良くなるよう先達からの餞別だ」

 

 東洋風水界の至高にして『至宝』。

 彼の宣告は、短く。

 

 

「圧倒的な敗北を教授してやろう」

 

 

キーストーンゲート 前

 

 

 矢瀬基樹は、絃神島中心区にあるまだ原形は保っているビルの屋上で目を覚ました。

 

 空はまだ夜でもないのに黒く染められ、そこから吹いてくる魔風に肌寒いものを覚えた。猛獣の咆哮に、悲鳴はこの付近にはないみたいだが、この耳は確かに拾っている。血に濡れた制服がずっしりと重い。

 人工島西地区にある幼馴染の自宅近くで<魔導打撃群>と遭遇し、口封じに撃たれたことは覚えていた。気流(かぜ)を操って自ら背後に跳ぶことでどうにか致命傷を避けたのだが、記憶が残っているのはそこまでだった。

 

「気が付きましたか、基樹―――」

 

 横たわる矢瀬のすぐ隣で声がした。彩海学園の制服を着た少女が、矢瀬の目覚めた気配を感じ取ったのだろうが、開いた文庫サイズの本から目を離したりはしない。こんなときであっても、いつもと変わらぬ彼女の素っ気ない態度に、矢瀬は苦笑して息を吐いた。

 

 そして、ちょうどこの眼鏡をかけた地味な印象の女子生徒の周囲へ海鳥の群れが集まっていた。

 

 艶やかな光沢をもつ純白の海鳥たち――呪符によって生み出された式神の群れ。

 その数は二百羽、あるいは三百羽を超えているだろう。

 それら膨大な数の式神を、少女は、たったひとりで操っているのだ。

 目的は監視と、そして魔導犯罪者の捜索。

 けして今起きているテロ騒ぎの事態収拾に本腰をあげているわけではなく、彼女はもっと大きな視野で現状を見据えて動いている。

 絃神島全土に散らばっていた式神たちは、操り手である少女のもとに帰還するとそれぞれが一枚の呪符へと姿を変え、そして、少女が広げていた一冊の本へと戻っていく。

 やがてすべての鳥たちを綴じこみ終えて、彼女が本を静かに閉じたところで、矢瀬少年は声をかけた。

 

「あんたか、先輩」

 

 そう言って上体を起こし、全身を貫く激痛に悲鳴を洩らしかける。苦悶する矢瀬を無感動に眺めて、日本最強の攻魔師のひとり<静寂破り>――閑古詠は静かに口を開いた。

 

「まだ起き上がらない方が良いですよ。風穴を開けられた箇所は埋めておきましたが、応急処置です。退院したばかりで未だ癒えていない傷にも障るでしょうね」

 

「どうやらそうみたいだな」

 

 再び屋上に突っ伏して、矢瀬は乱れた髪を乱暴に撫でつけた。

 古詠はそんな矢瀬の姿を見ても、膝枕はおろか、彼の汗を拭おうともしない。まるで自分の血塗られた指先が、彼に触れることを恐れているかのような態度だ。

 

「もはやこれ以上、怪我人の出る幕はありません。前線に出るのは止めて、大人しくしているのが賢明ですね」

 

 こうして助けてくれたところを見ると、矢瀬の活躍も監視()ててくれたようだが、その評には厳しいものがある。それはそうだ、逃げ足には自信はあるが、戦闘力なんて一般人に毛が生えた程度のものなのだ。あくまで、監視と諜報。なのに、戦場に出ていた矢瀬のことを、ひょっとしたら、彼女はハラハラとした思いで視ていたのかもしれない。

 つまるところ、やるべきことはやった、もうあなたは休んでいてもいい、あんな危ない真似はしないでとても心配したんだから……と言ってくれている―――なんて意訳は少しばかり夢見すぎか。

 

 だが、矢瀬にこのまま眠るつもりはないし、眠れる気もしない。

 

「浅葱は……どうして浅葱のことは見逃した? 助けてもらった俺の言える義理じゃないが、あんたの能力なら、アイツらを止めれたはずだぞ!」

 

 傷の痛みも忘れて、取り繕う余裕もなく荒々しく詰め寄る矢瀬を、古詠はどこか満足げな表情で眺める。誰かの愛情を独占しようとする幼い子供のような、無邪気に残酷な表情で。

 

「今、手を出すのは得策ではないと判断したためです。彼らが奉ずる『カインの巫女』の命は保証されていますから」

 

 <静寂破り>と呼ばれた少女が、突き放すような口調で宣告する。

 

「獅子王機関の役割は、大規模な魔導災害や魔導テロから日本と言う国家を護ること―――彼らの行動は、今はまだ、わたくしたちの目的を妨げてはいません」

 

「先輩、あんたは―――」

 

 無感情に見える古詠の瞳が、かすかに潤んで揺れていた。彼女は理解している。自分の判断が、この先どれだけの不幸と悲劇を呼ぶのかを。そして、こんな自分に懐いてくれる彼を利用することになるのかを。

 それでも彼女は止められない。

 獅子王機関『三聖』の筆頭である彼女には―――

 

「獅子王機関は、咎神カインの存在が『夜の帝国』に対する抑止力になると判断しています。ですが、無意味にそれを実行するというのなら、見逃すことはできなくなるでしょう」

 

 古詠がそっと眼鏡に触れ、その仕草で自然に矢瀬から視線を外した。

 それは、目を合わせてられないほどに、恥知らずなことを口にすると思ったから、無意識の行動なのかもしれない。

 

「絃神千羅の盟友であった矢瀬顕重が爆殺され、そして絃神島そのものも破壊されようとしている。ですが、これら<タルタロス・ラプス>の行動までもが、彼らの計画の一部だとすれば見方は変わります。

 <タルタロス・ラプス>は何も知らないまま、彼らに利用され、計画を進めさせているだけなのかもしれない―――だから、先の事態に備え、矢瀬家当主の正統な後継者資格を持つあなたを手札に加えておく必要がある」

 

 矢瀬本家の当主は、古来より政財界に影響力を行使してきた、巨大資本グループの総帥だ。

 手に入る絶大な権力と引き換えに、求められる器量は並大抵のものではなく、老獪な一族の重鎮たちを黙らせるだけの政治力がなければ、たちまちのうちに押し潰されて、悲惨な末路を辿らされることとなるだろう。

 矢瀬基樹は、自身が当主の器ではないことをわかっている。それをいうのならば、同じ愛人の子であっても管理公社の室長にまで上り詰めた異母兄の矢瀬幾磨の方が跡継ぎに向いている。

 しかし、異母兄は<過適応能力者(ハイパーアダプター)>が発現していない。

 代々優秀な<過適応能力者>を多く輩出してきた矢瀬一族は、必然として、当主には<過適応能力者>であることが求められる。申し分ない実力がありながら異母兄は、矢瀬家の当主に選ばれることはない。

 ―――だから、優秀な異母兄よりも、矢瀬基樹の方が<禁忌四字(やぜ)>の一族の正統後継者に相応しいのだ。

 

 そして、傀儡としたいであれば、それは無能であるほうが好ましい。

 

「……残念だ、先輩」

 

 思わず天を仰いだ矢瀬。

 超能力者であり、政治力はない、そして、相続権を放棄すれば母親を守る術を失う。この矢瀬基樹の条件は、<禁忌四字>を管理するための“けして裏切らない駒”とするには最適である。

 獅子王機関の長として、矢瀬に近づく理由はこれで十分だ―――そんなことはもうとっくに矢瀬もわかっている。

 

「もっと洒落たプロポーズを俺からあんたに言うつもりだったんだけどな」

 

「―――」

 

 息を止めた古詠に、矢瀬は笑ってしまった。

 これまで告白(アタック)してきた中で、一番の手応えだ。内心で、してやったりとガッツポーズを取る。

 すぐ彼女は、そんな自分に目の温度を下げてしまったが、先よりは自傷気味な気持ちは和らいでくれたのかもしれない。そうであってくれれば望ましい。矢瀬はこんなことで彼女との付き合いに失望してしまう気なんて、さらさらないのだから。

 

「起きられるのであれば、すぐに行動した方が良いでしょう。ここは、“眷獣も寄り付かない”ようですが、安全地帯とは言い難いので」

 

 逸らすように話題を変えてきた古詠は、静かに状況を語る。

 これからの人工島管理公社を監視するには、絶好の場所にある屋上であるのだが、彼女は今、キーストーンゲートの方を見ていなかった。

 

「全盛期の<黒死皇>の所業は、お伽噺じみたものでしたが、これを見る限り、あながち誇張したものではなかったみたいですね。(くらき)と縁堂があの子を気にかけるのもわかります」

 

「なに……」

 

 まだ矢瀬たちの世代が生まれてくる前の、昔話でしか残っていない悪逆の限りを尽くした真祖への反逆者にして当時最強の獣王。

 それは『三聖』の中でも若い古詠には、直接はその脅威を知り得ないものなのだろう。

 そんな日本最強の攻魔師が驚きの感想を洩らしたことが物珍しく、矢瀬は彼女が向ける視線の先へ感覚を合せて―――――息を呑んだ。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「出し惜しみは無しじゃ。存分に振る舞おうぞ。全てを平らげてみせい! ―――<黒死皇>!」

 

 <身外身>を窮めた最古の獣王は、体毛より無数の実体分身を作り出して、また数多の『宝貝』に変化させる。

 数量で押しても無為と理解した<白石猿>は、実体分身に余分な集中を割くことを止めた。

 

「まずは、<金蛟剪>。これの使い方は簡単でのう―――」

 

 白猿人の“人さし指と中指が”変化したのは、黄金の鋏のようなものだった。

 それを、そのまま鋏で糸でも切るような恰好で、開いた二枚の刃を閉じた。

 シャキン、と。

 その空間に裂け目が生じて、そこより蛟竜が顔を出す。

 

 蛟竜を召喚する『宝貝』。

 貯水湖の堰を外した放流の勢いで、鋏で断ち切った異空間の出入り口より、次々と蛇竜が現れる。

 その形態は『神縄湖』で遭遇した『蜂蛇(ドローン)』と似ているが、翼を持たない蛇のよう。だが宙空を群泳するそれらすべてが10mを超える体長をしており、空気を引き裂く大音量に恐るべき重低音を付加している。

 怒涛と大洪水が迫り来るような猛威。

 対して、獣化をした銀人狼はその左拳を強く握りしめて構える。

 

 “匂い”で引き出すまでもなく、『竜殺し』の術はすでに学習している。

 

「<歳星(さい)太歳(たい)

 <太白(たい)大将軍(たい)

 <塡星(ちん)太陰(たい)

 <辰星(しん)歳刑(さい)

 <塡星(ちん)歳破(さい)

 <太白(たい)歳殺(さい)

 <羅睺(らご)黄幡(おう)

 <計都星(けい)豹尾(ひょう)>」

 

 詠唱をテンカウント代わりに紡いでいく。

 蛇竜の洪水を迎え撃つは、『八将神法』の極み―――

 

「我が身に宿る“疫病”に命じる、栄えよ―――」

 

 素戔嗚神と同一視される『牛頭大神』、この身に秘める毒性と引き換えとして、『竜殺し』の加護を得た拳打が、<金蛟剪>で異空間の堰を切った竜群の激流を真っ二つに割る。群れを割かれた蛇竜は、群体としての有利性を失い、勢いが半減。渾身の一打で仕留めきれずに、群れから逸れた蛇竜を一体一体を一撃で銀人狼の拳打蹴撃(しし)が雲散霧消していく。

 

「お次は<禁鞭>じゃ」

 

 ドンッ!! という轟音が炸裂した。

 皺だらけの指、その今にも折れてしまいそうな指が槍のように凄まじい勢いで伸長してさらに枝分かれする。先端の爪先が刃となり、たちまちのうち、<白石猿>の真っ白な獣毛に包まれた左腕全体が鞭を数十本まとめた『宝貝』へと変じる。爆発的な射出があった。より正確には、数kmも打ち据えられる長さに刃鞭が弧を描きつつ、様々な角度から一斉に銀人狼を取り囲んで襲い掛かったのだ。

 間にまだ残っていた蛇竜の隙間を掻い潜るように、ではない。

 易々と貫いていた。

 まるで昆虫。細長く鋭いピンで、壁に縫い止められた昆虫。そして、その肉の壁は人狼からは刃鞭を死角と隠しており―――だが、奇襲は成功することはない。

 

「だから、“前”と同じ手は食わん」

 

 霊視による未来視は、視認して得た“情報”より計算して未来を予測する高度な情報処理技能。

 であるから、その“情報”の量があればあるほどに、より正確な未来予想図を覚ることができる。

 目で捉えた情報だけではなく、超感性により目に見えぬ“匂い”を取得する<黒妖犬>は、剣巫(にんげん)よりも“情報量”が多い。それ故に<黒妖犬>の霊視の予測は、もはや測定とも呼べるほどに正確な精度を誇っていた。

 それが今、巫女を圧倒するその生まれ持った『芳香過適応(さいのう)』を、能力増強剤にて数百倍に高めている。

 相手がどのような手段をとってきた“過去”に、相手がどのような手段を取るつもりかという“感情”まで嗅ぎ取ってしまう鼻は、今は神懸った―――すでに死に絶えた亡霊に乗り移られたかのように、冴えていた。

 

 だから、視覚に入らないからと不意を打てるはずがない。

 この嗅覚で嗅ぎ取れる制空圏内にあるものすべてはとうの昔に暴かれている。

 

 迫りくる大量の刃鞭を逆に掴み取り、末端からの引力で吸い寄せられるように、無数の刃鞭は一気に千切れた。根元の<白石猿>の身体もビクリと震えた。

 

「では、最強の<雷公鞭>を見舞おうか!」

 

 最古の獣王、その右腕が変貌する。実体のある武具ではなく、眩い閃光そのものと化す。相当の高エネルギーを秘めているのか、まるで誘蛾灯の虫を焼く高圧電流のような音まで発しており―――

 

 ゴバッ!!!!!! と。

 あまりにも恐ろしい、白い光が噴き出した。

 何百、何千本もの光線が一斉に発射されたのだ。それも障害など貫通した最短距離で、<黒妖犬>を捉える。ロボットアニメのビームサーベルのように、白猿人本体の輪郭すら塗り潰す凄まじい光量が永続的に放出され続く。

 この光景を目撃したものがいるとすれば、その者の視界に凄まじい光の乱舞による残像が焼き付き、まともに機能しなくなったことだろう。鈍い頭痛すら誘発させる閃光の渦の中、その人影は依然とそこにあった。元素の塵にまで分解して、魂まで焼き尽くすほどの攻撃が、纏う金色に輝く護りが拒絶していた。

 物理現象遮断の聖護結界<疑似聖楯>を生体障壁に練り込ませた薄皮一枚の絶対防護。

 光が、光と鬩ぎ合う。

 最強の威力を誇る『宝貝』の光と、その精神力に比例して輝きを増す光とが激突し、拮抗する。現実にはあり得ざる光景は、熱量と言うよりも魔力と魔力、そして、意思と意思の拮抗であった。

 そうして―――やがて、光の放出は止まる。

 

「―――そろそろ、こっちから行くぞ」

 

 最強の攻撃を防ぎ切った―――

 攻防に一瞬の間が空いた刹那。

 ごお、と壮絶たる火炎が吼え猛った。

 

「ひっひ、これは対策済みと知っておろう<黒死皇>!」

 

 太陽のフレアさえ思わせる、見るものの眼球さえ焼け爛らせる劫火炎の渦。<黒妖犬>の口腔より放たれた神獣の焔に、<白石猿>は咄嗟に左手を扇型の『宝貝』へ変化。扇ぐことで風を起こし、災火を跳ね返す<五火七禽扇>。耐火炎に特化した逆風が、白猿人が炎に焼却させるのを免れさせる。

 

「ああ、知ってる―――」

 

 地面が爆発した。

 地面を蹴った自分の足が、余波で周囲の残骸を吹き飛ばしたのだ。

 疾駆する。

 走破も、覚知も、ただ全力で加速する。

 風景が色を失うほどに集中を高め、一切合切の力をこの数秒に圧縮する。

 

 ―――来るかっ! クるかクルかクルカァァッ!!

 

 過去、幾度となく鳴らした警報が、今、頭の中で再び鳴り響く。

 この存在の消滅させられる予感に、最古の獣王は、歓喜し、狂喜する。

 強襲を察し、そして、それからは逃げ切れぬことを承知している<白石猿>は防御を固める。

 <九竜神火罩>。籠の中に閉じ込めた対象物を、あらゆる干渉から隔絶させる最硬の『宝貝』。丸くなった白猿人は、全身の獣毛で編み込んだ籠の『宝貝』に包まれる。

 

『型は正しい、力も十分―――じゃが、“意味”がない。『四聖』を冠しておる“意味”を理解しておらん。

 そのような“猿真似”がこの儂に通じるものか!』

 

 かつての『獣王』が強敵との闘争の中で編み出した奥義を、このかつての宿敵との闘争の最中で憑依経験するかのように理解する。

 

 風水の概念である四神相応。

 

 北には玄武が座して、霊脈の力を引き寄る―――山となる。

 東には青竜が座して、霊脈の力を増幅する―――川となる。

 西には白虎が座して、霊脈の力を制御する―――道となる。

 南には朱雀が座して、霊脈の力を留め置く―――(いけ)となる。

 

 その幾百幾千と積み重なっていく蹴りは“山”であり、拳打が突き抜けた軌道には“川”ができる。

 師父から知識を教授されたその動作に獣の動きを取り入れた『象形拳』や、世界を構成する五つの要素を型に現した『五行拳』と同じように。

 風水的な“意味”をもたせて、<黒死皇>ではない、<黒妖犬>における完成形に至らせる。

 

「『玄武百裂脚・山(かめやま)』―――!」

 

 亀と蛇の顔を持つ『玄武』は、陰陽が合わさる『四聖獣』とされる。

 ただひたすらに多く分身を作るのではない。

 『混血』の魔力と霊力に二分するように陰と陽の気分身体を行う。

 疾駆する中途で、<黒妖犬>が別れた黒銀の人狼と金色の人狼による影に映らぬほどの速さで行われる挟撃。

 そのまったく同じタイミングで挟み撃つ無影脚は、白猿人が籠った殻にいくつもの凹凸を作り、蹴り込んだ残像を磁石のように貼り付けていた。分身体の陰と陽の性質から、対面に蹴り込んだ残像は互いに引き寄せ合い、それで間に挟まれた対象に貼り付いている。

 残像は実体がほとんどない残り香。されど、塵も積もれば山となる。百の挟撃の残像に挟まれた相手はその影を縫い止められたかのように一切の身動きを封じられ―――

 

 百の蹴撃を浴びせて歪ませても破れぬ堅牢な(から)から、距離を取ると陰と陽の分身体が合体し、一体となった金人狼は蹴撃の合間に力を溜めていた左腕をそこへ目掛けて昇竜拳(アッパー)気味に振り抜いた。

 

「『青竜殺陣拳・川(たつかわ)』―――!」

 

 っぱぁん!!

 

 音速超過の衝撃波。いや、音速の何倍何十倍かも知れぬ。それは掠めただけで、<九竜神火罩>の外殻を持っていったのだ。

 そう。

 かすめた。

 雲の彼方に消えた。空間に亀裂を生じさせるほどの威力。掠めただけで吹き飛び消滅するほどの威力だった。ただひとつ、すべてを消し飛ばすほどの範囲と命中には至らない、極一点に絞り込まれたもの……

 

 しかし。

 白猿人は、殻にこもったままだった。

 大振りで隙を晒しているというのに、絶対の守護から外へ出ない。

 まだ、終わっていない。

 むしろ、これはここからが―――

 

 傍観していた監視者の男女は、すぐ異変に気が付いた。

 遠当てが突き抜けたその軌道が、未だに目に見えて残っていた。(ソラ)の彼方、遥か先まで突き抜けた真空の軌跡ができていた。それはまるで天の川のように、煌めいて―――

 

 青竜の極みが至ったのは、日輪。光が降る。

 

 

 ッゴォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ―――!!!!!!

 

 

 直径数十mの光輝の柱が降り注いだ。それはもはや直視できるような光ではなく、暴徒鎮圧用の閃光弾のような、一瞬でも目蓋を上げられぬ輝き。

 黄道――太陽までの空間が短絡されていた。

 光の正体は、太陽光。

 空間を貫いた業は、太陽の間近にまでそれを直通させ、“流れ”を作ったのだ。

 “力業”で日輪まで届かせてしまうなど常軌を逸した怪力乱神だが、それはそう。全盛期の<黒死皇>が真祖を屠るために、弱点である陽光を利用せんとしたものなのだから。

 

 そして、日輪の大瀑布に呑まれた、九竜の火炎にも耐え抜く『宝貝』の殻が、ドロドロに熔解して原型が保てず―――一先ず距離を取っていた金人狼は、全身より金色の電気を迸らせながら、大地を踏みしめ、両手に気を篭める構えを取り、

 

「『白虎衝撃波・道(とらみち)』―――!」

 

 放たれた気功砲。

 それは龍脈(みち)の上に沿って、駆け抜ける。

 昨夜、<石兵>が吸い上げる龍脈を強引に封鎖してみせたが、今度の“力業”は龍脈を開拓していた。

 錐揉み回転する気功砲に、細い糸上なモノが巻き付けられていくように集まっている。

 龍脈の力を取り込んでいるのか、気功砲はより雪だるま式に巨大化し、最終的に直径十mの大玉サイズで獲物に喰らいついた。

 

「こりゃたまらんわい―――!?」

 

 羽化した蛹のように、溶解した鐘を内側から突き破って、複数体に実体分身を作り飛び出した白猿人。防御を捨てたその判断は賢明であった。最古の獣王が持つ最高の護りも、完成された奥義三発には耐えきれず、跡形もなく消滅している。

 

 だが、蜘蛛の子を散らしたように逃げようとも、最新の獣王は逃す気はない。

 

「『朱雀飛天の舞・澤(とりいけ)」』―――!」

 

 『黒薔薇』に属性を反転され、『四聖獣』なきこの『魔族特区』にて、我こそが守護神と吼え猛るように解放された獣性。

 それが呼び水の役割を果たしたかのように、引き込まれる。

 この殺神兵器の『器』は、今、力を留め置くための空の領域。そこへ流れ込むように金狼に霊脈が集う。<冥き神王>の依代であった『花嫁』のように身の裡に龍脈を取り入れ、高次存在に至るほど一時的に極大化した存在感で威圧する。

 この黒天体(ブラックホール)じみた神威が、場の空間ごと守りを捨てた白猿人を圧し潰す。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 しかし、それでも、『不滅』の異名は伊達ではない。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「天晴じゃ。ここまで<白石猿(わし)>を殺してくれたのは久方ぶりじゃのう<黒死皇>」

 

「オレは、クロウだ。エテ公」

 

 たった今の戦闘に参加していた白猿人は、全滅させた。

 しかし、まだ予備がある。戦闘に参加せず、己がやられる様を喜々として観戦していたものが、一体。そして、一体あれば、ネズミ算式に、同時多発的に、個体を増やせる。

 数の概念に縛られず、偽者と本物の区別はない。

 全個体を同時に欠片も残さず破壊しない限り、この存在が消え去ることはなく、またそれを果たしたものは神代のころから存在しない。故に『不滅』。

 

「このまま殺し合おうとも、ヌシは体力を消耗するだけの徒労と終わろう。儂はいくらでも儂を増やせるのだからなあ。どうじゃ、ここらでお開きにしても構わんぞ<黒死皇>」

 

「オマエの底もそろそろ見切りをつけそうだけど、オレはまだ満腹じゃない。それとも、もうネタ切れか。だから、オレはクロウだ」

 

 逃す気はない。この存在を許す気はない。

 これの変化が厄介であり、己の生活を破滅させ得るものだとは、暁古城先輩を嵌めてくれた時に証明されているのだから。

 そして、この白爺は、どうあってもけして、己への執着を捨て去ったりはしないだろう。

 

 クロウの尽きることのない戦闘意志に、ハヌマンは会心の笑みを浮かべる。

 

 

「安心せい。新ネタじゃ」

 

 

 皺だらけの指が、絡み合う。

 まるで瀕死の蛇がそうするように、ぶるぶると震える指は悍ましくも甘美に、一定の法則を以て重なり合う。

 そのとき、白爺の傍らにそれが降り立つ。

 

「さあ、きたれい!」

 

 それは、20mもの巨体をもった、人面牛身の怪獣――西の『四凶』の『饕餮(とうてつ)』。

 真祖の眷獣と同等以上の破壊の化身を従えるのか。否。

 悍ましき『四凶』を目の当たりにして、じゅるり、と白爺の口から涎が垂れたのだ。

 

「ヌシは、『宴』の時に、吸血鬼の眷獣を喰ったようじゃな」

 

 喜色満面に、その顎が開かれる。

 そこより大量に溢れた涎は、明らかにありえない量となり、地面まで滴った。しとどに獣毛を濡らして、喉を伝わり、胸を流れ、足元を覆う。水溜りさえ作り上げた。

 

 ―――儂もそれを見習おう。

 

 止め処ない涎の代わりに、何かが口に吸い込まれていく。

 巨大で、膨大で、絶大で―――それでいて曖昧な流れ。

 クロウには、それがわかった。

 魔力、反転させられ穢れた龍脈、その『四凶』の怪物の身体を構成するものを吸い取って理うのだと。

 凶猛なる貪食の怪物が、枯れる、萎む、干乾びていく。根源的なものまで、最古の獣王に喰われていく。

 ―――そして、存在感が増す。人型の枷を外し、裡なる獣性を解き放つ。

 

 <神獣化>。

 

 完全なる獣に変貌した<白石猿>は、5mに肥大化した獣身に金属質な肌を持ち、四つ目牛角の異形の面貌。猿人種の<神獣化>とは形状が異なる、明らかに『四凶』を喰らった影響が出ていた。

 魔神がここに、降臨する。

 

 

「そうさのう、折角じゃから、この出し物(ネタ)は、<蚩尤>、とでも名乗ろうか」

 

 

 つぅ―――とそのとき、クロウの鼻元より、血が垂れた。

 

 

キーストーンゲート

 

 

 千賀毅人が宝図の頁をめくるたびに輪郭が歪む景色―――

 その土地の力を変換して、暴風に似た荒々しい魔力の奔流が吹きつける。気づけば、この幻の大地には複雑な魔方陣が浮かび上がっている。

 その前兆だけで、震えが走る。

 これが攻撃として転用されたのであればそれは<守護者>を盾にして防ぎきれるであろうか。

 

「南宮先生とは比べるのもおこがましいほど未熟なのは否定しないけど、間違ってるよ、千賀毅人」

 

 <蒼の魔女>は、足元の地面へと手を当てていた。大地の上に魔力を流し、表面の一部だけを変色させる。

 浮かび上がったのは、整然と並ぶ文字の羅列。魔導書に記された文字列である。

 そうして、完全に実体化していく文字の羅列は、強烈な魔力の波動を撒き散らしながら、一冊の本となる。

 

「ボクの力の本来の持ち主は、南宮先生ではなく、仙都木阿夜―――魔導書の扱いはお手の物なんだ」

 

 優麻は、自身が“複写”して投影した本を開いた。

 それは、東洋の言語で書かれた本。

 革の表紙に人間の目を象った図形が描かれている、異国の仏塔(ストゥーパ)に描かれたものと同じ、『真実の目(アイズ・オブ・トウルース)』と呼ばれる紋章だ。

 

「魔導書の『複写』!? 仙都木……―――そうか、おまえは、<書記の魔女>の娘だったのか……!」

 

 魔導書とは長い年月と人々の強い思念によって、自ら魔力を持つに至った“力ある書物”だ。普通ならば、その文章を写し取ったところで、それ自体が力を持つわけではない。

 にもかかわらず、彼女が描いた文字列は、魔導書へと変じた。

 

「生まれたから、『司書』となるために実家では様々な本を読まされてね。おかげで今でもナンバー三桁番のものは大体暗記してるんだ」

 

 複製体(クローン)として造り出され、家に仕えていた人工生命体らに純血の魔女としての教育が施された。<空隙の魔女>に対抗するべく空間制御魔術を磨くだけではなく、その才能の本質を鍛えていたのだ。

 『記憶の中にある魔導書の再現』という、<書記の魔女>の娘としての力を。

 

 魔導書に魔力を流し込んだ―――瞬間、ガラスが砕け散るように景色が揺らいだ。

 完全なる幻に支配されたはずの世界が、万華鏡のように波打って、元のあるべき姿へと帰っていく。

 

「その中でこの『No,121』は、アジア大陸西域より伝承された<実相儀教(ブッタ・タタータ)>――あらゆる邪悪を退け、幻覚を破る、失われた原始仏教の外典だ」

 

 風水術が失敗する。これまで一度たりとも失敗したことのない『至宝』の技巧が、この虚構の風景と共に崩れ行く。

 

「魔導書を自慢していたみたいだけど、あまり<図書館>を甘く見るんじゃない」

 

「……っ!」

 

 <蒼の魔女>の冷ややかな言葉に、幻の地形は消滅した。

 そして、魔導書に頼って、組み上げていた彼の戦術が、そこですべて瓦礫と化す。

 術が失敗した千賀は動揺し、だが、まだ彼に手札がある。

 

「アスタルテ―――!」

 

命令受託(アクセプト)

 

 <薔薇の指先>を展開している眷獣共生人工生命体。

 虹色の巨人は、兵火器では傷がつかず、あらゆる魔術を反射する。真祖の眷獣でさえも結局は単独では倒しきれなかった対魔力の人工眷獣が、その腕を振り上げる。

 

「大陸系の呪法を修めているあなたには、釈迦に説法だろうけど―――『実相』とは、飾らない真実の有様だ。あらゆる現象の仮の姿の奥にある真実の相で、一切の煩悩から離れて清浄であることのことをいう」

 

 つまり―――

 

「この『No,121』の力は、目を覚ます、ってところかな」

 

 巨人の拳が向かうのは、男の方。

 

 

「感謝します、ミス仙都木優麻」

 

 

 おかげで先輩からの命を果たせます―――とアスタルテは、アスタルテ自身の意志での感謝を述べる。

 

「いいや、王子様の目覚めのキスを奪ったみたいで悪かったね」

 

「否定。先輩に、王子様は似合いません」

 

 血の従者としての強制に、千賀が操縦するための服従の令呪を施していた、二重の縛りが利かされていたアスタルテが、自由意思を取り戻す。

 

「それに目覚ましは後輩(わたし)の仕事です」

 

 ドンッ! と。

 <薔薇の指先>の腕に千賀の身体が殴り飛ばされた。まさかの不意打ちに対処が間に合わず、もろに眷獣の攻撃を受けた千賀の腕から宝図が落ちた。

 

「ぐっ……!?」

 

「―――教官を、解放させてもらいます」

 

 巨人の手がカルタのように千賀の手を離れた仙界の魔導書――南宮那月を閉じ込めている――<山河社稷図>を叩き、魔力を喰らい尽して、圧潰した。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「これでもうあなたに打てる手はない、千賀毅人。投降を進めるよ」

 

 アスタルテを解放し、<山河社稷図>を破壊した。なのに、優麻がわざわざ呼びかけるのは、何も単なる温情を出したわけではない。

 読み解き、策を崩し、少しでも相手のカリスマを折る。仙都木優麻とてこの男の威名は知っている。しかも人工島上空全体に魔法陣を描くなんて言う、これだけの大掛かりなことをやってのけた相手だ。こうでもしなければ足が挫く。母と同格の特一級の魔術師という最強像に呑まれてしまう。

 

「魔法陣を新たにしこうが、あなた自身が言った、魔術の天敵であるアスタルテさんがこちらについている。空間制御も呪符に頼らなければあなたよりもボクの方が早く展開できる。打つ手なしとみるべきだと思うけど!」

 

「威勢がいいのは結構だ」

 

 幾たびの戦場ですれてきたジャケットを揺らし、立ち上がりながら『至宝』が口を開く。

 

 

「だが、技ありを取った程度。まだ試合は終わっていないし、すでにもう手は打ってある」

 

 

 そう、『東洋の至宝』が誇る最大の技は何だ。

 仙界の魔導書に頼った戦術などではない、それはもうすでに外に出れば誰の目にも止まるものだ。

 <タルタロスの黒薔薇>。

 この絃神島そのものを利用した風水術で生み出された怪物、その一体を使役する権利が、術者にはある。

 

「魔導書から解放しても、新しい依代を用意しなければならない。那月が新しく幻像を拵えて戻るまでは、早くて半日だ」

 

 自らの夢の牢獄に囚われた<空隙の魔女>本体を傷つけることは容易くできることではない。だから、生かしたまま封じ込める策を取っていた。

 しかし、魔力の依代となるべき人形がなければ、現実の世界で動けるようにはならない。だから、再び活動するためには新しい依代を用意するしかない。

 

 そして、それまでに『至宝』と対抗できる術者はこの絃神島に存在しない。

 

「君たちを子ども扱いしたことをここに詫びよう―――だから、『四凶』をここに呼ばせてもらっても構わないな?」

 

 開き直りともいえるその態度で、男はこの場に呼び寄せた。

 キーストーンゲートに強襲を仕掛け、術者の下にはせ参じたのは、北の『四凶』。

 翼をもつ虎の眷獣『窮奇(きゅうき)』が、若い魔女と人工生命体に咆哮をあげた。

 

 

人工島旧南東地区 廃棄区画 七星壇

 

 

 北と西の『四凶』は、本丸を攻めるハヌマンと千賀毅人へ譲渡された。

 そして、東と南の『四凶』は、この旧南東地区にある『七星壇』を守護してもらう。

 

 

「ごめんね、この子たち、荒っぽいから、手加減できないわ」

 

 

 人面虎足の魔獣の『檮コツ(トウコツ)

 盲目聾唖の妖狼の『渾沌(こんとん)

 その暴虐悪辣な魔力は、霊視能力を持つ巫女らには視るのも辛いほどに穢れていた。

 

「くっ、<煌華鱗>!」

 

 魔弓の形態から長剣に切り替え、疑似空間切断の障壁を張る紗矢華。しかし、妖狼の一哭きで、自然は混沌に乱れる。絶対とされた法則そのものが、秩序を失い、空間切断の護りは破り捨てられた。

 

「煌坂っ! この―――!」

 

 紗矢華を救助しようと、志緒は呪矢を放つ―――しかし、『風を切れば音が鳴る』という常識とされている自然法則が混沌となっている空間にその鏑矢は圧縮呪句を轟かすことなく、妖狼の肌に制圧兵器としての力のない“ただの矢”は突き刺さることなく弾かれる。

 

「なっ!?」 「きゃあっ!?」

 

 妖狼の突進に防ぐ術なく、舞威姫は吹き飛ばされる。

 

 

 

「っ、<霧豹双月>!」

 

 模倣した空間切断の呪術付加を纏う双叉槍が、魔獣の肌を裂いた。しかし、怯まず。戦乱を好み、死ぬまで戦い続ける様は、六刃神官が臆す程の戦闘狂であり、猪牙の強襲で撥ね飛ばした。

 

「妃埼さん! はぁ―――っ!」

 

 疑似空間切断の刻印に呪力を通した長剣が、剣巫の技で脅威の猪牙へと振るわれる。しかし、その切先が不意に鈍った。その名にある『檮』とは『無知』を意味し、『難訓』という別名を持つ魔獣。その呪力は無差別にあてられた人間の技能を狂わせてしまう。まるで武神具の発動の仕方さえもわからなくなってしまったかのように、疑似空間切断の効力は消え失せて、猪牙に唯里も撥ね飛ばされた。

 

「この―――!」 「なんで―――!?」

 

 魔獣の暴力を止める力はなく、剣巫たちは膝をつく。

 

 

 

 『四凶』を斃すものなど存在しない。

 この『魔族特区』を滅ぼすまで、『四凶』は蹂躙の限りを尽くす―――

 

 

 

「<焔光の夜伯>の血脈が継ぎし者、暁古城が、汝の枷を解き放つ!」

 

 だが、それを許さぬ、世界最強の存在がここに君臨する。

 災厄の化身である『四凶』に、同じ災厄の化身がぶちあたる。

 暴風を纏う双角獣と雷光が迸る獅子。膨大な魔力で構成された眷獣は、『四凶』の怪物を少女たちから引き離した。

 

「やっぱり来たわね」

 

 ディセンバーが、魔力の発生源である空を見る。

 そこに一時撤退した鋼色の『龍族』がいて、その背中に彼がいた。世界最強の吸血鬼――<第四真祖>暁古城が。

 

 そして、古城は上空を舞う竜グレンダの背から少女ひとりを抱えて飛び降りた。

 

 重力を制御し、落下速度を減速させることで無事着する。古城の全身は、渦を巻く漆黒の粒子に包み込まれており、<第四真祖>の『七番目』である<夜摩の黒剣>の重力制御の能力を限定発動している証左である。

 ただ復活したのではない。より眷獣の力を制御できるようになっている。

 それが隣の姫柊雪菜によるものだと推理するが、そこで確認を取るなどという野暮な真似は、ディセンバーはしない。

 問うべきことは、ひとつだけ。

 

「ディセンバー、今すぐ儀式をやめて、こいつらを消せ」

 

「あたしを止める気なのね、古城」

 

「ああ」

 

「『魔族特区』は滅ぶべき。虐げられた子たちがそう願うことは間違ってるとでも言うのかしら?」

 

「それを判断するのは、俺じゃない」

 

 意識を囚われていた間も、暁古城の意思は聴いていた。

 アスタルテに対して、彼女と同じ境遇の者たちが訴える理不尽を。

 

「確かにその子たちの怒りには、正当な理由があるのかもしれない。この島のせいで、大勢の犠牲者が生み出されるのかもしれない」

 

 その『黒薔薇』より生み落された『四凶』は、被害者らの破壊意志が宿っていると言っても過言ではないのだろう。

 『魔族特区』の悪行を知らない古城は、理不尽に戦い続ける<タルタロス・ラプス>からすれば、盲目聾唖と思われているのだろう。

 しかし、この憎悪と戦う者たちもいるのだ。

 

「だけど、お前らが絃神島を壊したいと思ってるのと同じくらい、俺はこの島で暮らしてる連中を護りたいと思ってんだよ!」

 

「あたしは認めない! そんな理屈―――!」

 

 ディセンバーが、古城の言葉を否定する。

 だが、この絶叫する少女と同じ顔をした彼女――アヴローラは、この島を、古城たちの居場所を護るために、戦ってくれた。そして、世界への破壊意志を引き受けて眠りについた彼女は、この世界最強の力を古城に託してくれた。

 

「いいや、認めてもらうぞディセンバー! 俺が<第四真祖>だ!」

 

「だったら、このあたしを倒して、証明してみせなさい! でなければ、<第四真祖>とは認めないわ!」

 

「ああ! 俺は、お前らを止めるぞ、<タルタロス・ラプス>! ここから先は、俺の戦争(ケンカ)だ!」

 

 ディセンバーの背後より浮かび上がるのは、眷獣の影。“まだ完全な召喚ではない”とはいえ、その妖しく輝く瞳より放たれる魔力は、古城の意識を捕え、血に宿る眷獣をも操縦してみせた。眷獣の精神攻撃に、古城の身体がぐらりと揺れた。しかし、堪えた。

 子供たちの憎悪を背負うディセンバーの強烈な意思に、古城ひとりでは振り払うことはできないかもしれない。しかし、ひとりではない。

 この世界最強の力の重責を半分、一緒に背負ってくれる少女が古城にはついている。

 

 両者の間に走った鋭い銀光の一閃が、<焔光の夜伯>の圧倒的な支配力を断ち切った。

 

「いいえ、先輩。わたしたちの戦争(ケンカ)です」

 

 破魔の銀槍を携えた姫柊雪菜が、古城の隣に立つ。

 そして、その後ろには、煌坂紗矢華、斐川志緒、羽波唯里、妃崎霧葉がいる。

 そして、こことは別の場所で、戦っている者もいる。

 

 

キーストーンゲート

 

 

 登録証をつけた魔族たちが、我を失い、魔力制御を暴走させる。

 絃神島で現在多発しているこの現象は、これまでの<タルタロス・ラプス>――ディセンバーとの交戦記録から検索した、眷獣の制御も乗っ取れる精神支配をされた状態と、酷似している

 おそらく関連性はあるのだろう。

 <タルタロス・ラプス>の眷獣の能力を解析して、それを再現する術式を構築したのだと推測する。

 ―――であるのならば、同じ精神支配の力であれば、この暴走ウィルスを相殺できる鎮静ワクチンとなることができる望みはあるはずだ。

 

 

 毒を以て、毒を制す。

 <焔光の夜伯>――“世界最強”の吸血鬼の精神支配に対抗できるのは、やはり同じく“世界最強”の力しかない。

 

 

「―――セッティング、準備完了したでござるよ」

 

 と“潜水艦の形をした電脳頭脳媒体”との接続コードを超小型有脚戦車から外した<戦車乗り>リディアーヌ=ディディエ。

 管理公社で『迎撃屋』を任されるほど凄腕ハッカーの彼女は、普段は全寮制のお嬢様学校でつつがなく学校生活を送る小学生である。

 その絃神市内きっての名門校として知られる天奏学館小等部にある手芸クラブというごくごく平凡な女子らしい部活に、リディアーヌと共に属する知己がいた。

 

「結瞳殿、お願いするでござる」

 

 リディアーヌが古めかしい時代劇口調にて呼びかけると、それまで待機していた、白いワンピース型のセーラ服に学校指定のペレー帽――名門小学校の制服を着た少女が立ち上がる。気難しいネコを連想させる、大人びた少女は、同じ小学校、同じクラス、同じクラブのリディアーヌの知り合い――江口結瞳だ。

 

「はい、こっちは大丈夫。いつでも行けます。とっくに準備万端ですリディさん」

 

 真面目な口調で、精神統一は済ませたと応じる結瞳。

 彼女は、今はこの管理公社の室長・矢瀬幾磨の預かりとなっている<夜の魔女(リリス)>――世界最強の魔獣(レヴィアタン)をも支配してみせた世界最強の夢魔(サキュバス)なのだ。

 そして、リディアーヌとは天奏学館よりも前に、『青の楽園』ですでに顔合わせを済ませていたりする。同じ場所に流れ着いて、たまたま趣味が似通っていて、互いの人格を尊重し合える知人。いわゆる、友人である。

 逆立ちしても敵わなかった<電子の女帝>藍羽浅葱にはない、リディアーヌの力とは、この人脈。

 そして、女帝にはない経験。

 

 リディアーヌ=ディディエは、『クスキエリゼ』――太史局――の依頼で江口結瞳が<夜の魔女>としての力を発揮できるようにする補助具<仮想第二人格(LYL)>の器を設計構築した技術者だ。

 当然、夢魔の力の解析はそのときすでに済ませており、また管理公社には、<黒妖犬>が正しく『蘇生(かんせい)』させた<LYL>が保管されている。魔族研究の分野に非常に興味深い物件として、幾磨が江口結瞳と一緒に回収していたものだ。

 

「もうお外は大変みたいですし、お兄さんもピンチだって聞いてます。早くやりましょうリディさん」

 

「流石に編み物と同じようにとはいかないでござるが、これでも超特急で<LYL>の改修を済ませたで候」

 

 一からまた補助演算電脳を組み立てるのはさすがに無理があるが、元々あったものをまた使えるように調整するのであればそれほど手間はかからない。

 

「では、結瞳殿、反撃の狼煙を、お願い致す」

 

「はい! 絃神島の皆に迷惑をかけた“莉琉”の力を、今度は護るために役立てたい!」

 

 電脳装置を積んだ潜水艇『ヨタカ』――それを基に改造したステージに見立てたような台の上に結瞳は立って、胸に手を添え、目を瞑る。この内なるものを呼びかけるように。

 

 

 そして、島に争いを眠らせる鎮魂歌にして、少女の精一杯の応援歌(エール)が響き渡る―――

 

 

キーストーンゲート 最下層

 

 

 『魔族特区』を壊滅させる『四凶』が召喚された。

 もはや破滅は免れない。しかし、それでも戦いを止めない子供たちがいる。

 <タルタロス・ラプス>は、破壊を止めない。だが、子供たちは諦めない。

 

「愚かだ……が、俺には眩しいな」

 

 かつて、理想を諦めてしまったものとすれば、土竜が太陽を見上げるように直視すれば目が焼かれてしまうくらいに。

 

 だから。

 だからこそ。

 あの子供たちを護るためには、一刻も早く、この絃神島を終わらせる、幕を下ろしてやるべきなのだ。

 千賀はそう自分自身に言い聞かせるように、通路を降りていく。

 『四凶』の一体を足止めに使って、千賀が向かっている場所は絃神島の中心。アスタルテが途中までしか防御障壁を破壊していないが、それでも封印術式を知っている千賀は単独でも、このキーストーンゲートの最下層へと至ることができた。途中までとはいえ、障害が破られているおかげで、大分、時間短縮(ショートカット)できただろう。

 

 そして、千賀はキーストーンゲート最下層へと踏み込む。

 懐かしい匂いがした。

 薄暗い空間、直線的な通路の奥へと進んでいき、見た。

 

「な……っ!? なんだこれは……!? どういうことだっ!」

 

 この絃神島で魔術的にも物理的にも最も堅固とされるその場所にあったのは、テロを恐れシェルターへと避難していたが絶命させられた、首なしの死体が四つ。

 どれもこれも、一介の職員とは思えないほど高級なスーツを着込んだ死体だった。そして、中途半端に残った首からは、最高ランクのIDカードがぶら下げられている。切り捨てられた頭部の代わりとでもいうように、カードの中の証明写真は皆不気味に微笑んでいた。

 壁、床、天井。

 そのすべてに、悪い冗談みたいに鮮血がこびりついていた。

 上層部、<タルタロス・ラプス>が標的とした上級理事の死。

 それもあまりにも鮮やかな切口で、首を落とされている。

 辺りに付着している血痕の乾いている色を見る限り、おそらくは半日以上すでに経過しているだろう。

 

 しかし。

 だとすると、不可解なことが浮かび上がる。

 

(俺たちが矢瀬顕重を爆殺してから上級理事連中はこぞってシェルターへと引き籠った。そこは厳重な警戒態勢が取られていたはずだ。『食糧備蓄倉庫』だって、あそこに派遣された人員もほぼ最小限だったとみてもいい。だが、この現場から察するに、もう昨夜の時点でこいつらは死んでいる!)

 

 <タルタロス・ラプス>は、特区警備隊に魔族管理局の部門を仕切る上級理事らを暗殺しようとしていたが、それは阻止されたはずだった。千賀毅人がこの場に侵入したのも、これが初めてのことだ。

 そして。

 この最下層から、特区警備隊にあの子供たちへと指示を出していたのは……誰だ?

 

(上層部連中が皆殺しにされている。だが、これをやったのは俺たちじゃない! 何故これが知られていないんだ!? そして、何故死体がここに在る!?)

 

 『魔族特区』を運営する憎き復讐対象が揃いも揃って首を落とされている。のに、こんな宙ぶらりんのまま歯車は回っていたというのか。

 そして、この最下層には、立ち入ることができるのは、絃神千羅とその盟友矢瀬顕重が死去した今、千賀毅人しかいないのに、何故死体がここにあるのか。ここまで通ってきたが、この空間転移すら侵入不可能な完全禁層区域まで、<薔薇の指先>のように強引に結界を破った痕跡など見当たらなかった。

 

「わからない。一体何が、誰が、何のために―――」

 

 カツン、と千賀しかいないはずの最下層で、足音が響いた。

 

 

 

つづく

 

 

 

眷獣(サーヴァント)としてある程度の窮屈さは知ってもらうが、本当に自由となりたいなら、その時は、お前を縛りはしない。それだけの権利を与えてやろう。もし破れば、その顎に差し入れた(貸してやった)片腕だけじゃなく、私の魂まで丸呑みして(喰らって)も構わんぞ』

 

 

『あまり失くすなよ。携帯と違って、首輪は他に預けてもしょうがないからな』

 

 

『お前は、私の…眷獣だ』

 

 

『馬鹿犬の前では絶対にこんなことは言わんが、獅子身中の虫を取り除けるとは、実に優秀なサーヴァントを私は持った』

 

 

『“蜘蛛”如きに、私の眷獣(サーヴァント)の幉を引かせてやるとは思わないことだ』

 

 

『怪獣退治の管轄は、私の眷獣(サーヴァント)に任せている。『神殺し』に不完全の邪神程度など“役不足”だ。むしろ、絃神島の心配をするべきだと私は思うがな』

 

 

『森を出ることも、私の眷獣(サーヴァント)となることも、ヤツ自身の意思で、選ばせた。この先どうなろうが、あいつの意思で私はでき得る限り尊重させてやるつもりだ。貴様の言う運命に殉じようが、逆らおうが、あいつの勝手であって、私や、誰の意思に振り回されるものではない。

 私は、縛らない―――そう、約束したのだからな』

 

 

次回予告

 

 

『こんな、聞いてないっ。契約(ヤクソク)だなんて、知らない、のだ。……そんなの、忘れた。う、全然、覚えてないぞ! そうだ、時効だっ! だから……』

 

 

 

 

 

『わか、った……その命令は、従えない……だから、オレ……サーヴァント、……やめる』

 

 

 

 

 

『だから……“卒業”、だ……、……ご主人様っ!』

 


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