ミックス・ブラッド   作:夜草

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奈落の薔薇Ⅴ

彩海学園 回想

 

 

 俗世に降りた少年がまず覚えたのは、息苦しさだ。

 俗に、この絃神島という『魔族特区』が属している本国の空気には味噌と醤油の臭いがしみついている。しばらく海外暮らしして見れば誰でも感じるなどと言われているが、そんなレベルではない。

 獣以外はほとんど寄りつかぬ、自然だけの森の“匂い”は、いわば単調で薄味な、味気ないのかもしれないが、それに慣れていた少年にしてみればとても優しいものだった。

 それと比較すれば、人間と魔族、多種多様な感情がある人工島は刺激が強いし、慣れない。時に鼻が曲がるほど嫌悪する強烈に臭いものもある。魔導犯罪者らの捜索をする際は特に。

 だが、生きていく以上、呼吸は止められない、

 また何もかもが初体験で、これまでとは違う環境でまず相手を嗅ぎ分けなければ不安であり、

 となれば、この『魔族特区』に住まう以上、呼吸をするたびに否が応でも鼻腔から脳髄を侵略される生活に順応しなければならない。

 だけど、どうすれば、このあまりにも雑多な空気でも平気になれるのか、最初、少年は自信がなく、無意識の防衛本能からあまり慣れない“匂い”には近づかないようにしていた。

 

 

 

『ほう、珍しい。馬鹿犬が話しかけられるとはな』

 

 それは昔の彩海学園。

 銀髪の少女との初めての会話を終えて、ふ、と前触れもなく少年の主は現れた。

 おそらく、魔女の使い魔(サーヴァント)の様子を見ていたんだろう。少年クロウは立ち去ったばかりの、教えてもらった少女の名を復唱する。

 

『カナセカノン、だ』

 

『ふむ。聖女とか言われて騒がれてる小娘に叶瀬というのがいたな』

 

 ゆるゆるとクロウは頭を左右に振って、

 

『……でも、もう会わない方が良いのかもな』

 

『何故そう思う?』

 

『あいつ、オレのこと怖がってた』

 

『ふん』 と主人の魔女は同意を示さず、億劫そうに溜息を吐き、『お前はなまじ『鼻』で嗅ぎ“分けてしまう”から、無理もないが。だが、世の中の大半は馬鹿犬のように単純にはできてない』

 

『む、オレは“匂い”を間違えたことなんかないぞ』

 

『違う。よく聞け。感情の“匂い”だけでその人間のすべてを判断するな、ということだ。逆に言えば、その感情を相手から隠そうとする意志こそが、お前の知るべき人間の本質だ』

 

『むぅ、ややこしいな。そんなこと考えてたら、犯人を逃がしちまうぞ』

 

 混血の学生だけでなく、魔導犯罪者の捕縛に駆り出される猟犬としての顔をもつ少年は口を尖らせる。

 

『それに難しいことはぶっ飛ばしてから考えろ、って前に師父から教わったのだ。余計な考えに囚われてると動きが鈍くなる、って』

 

『そうだな』

 

 あっさりと認める。その上で主人の魔女は少年に注文を付けた。

 

『だが、おまえは鋭敏な感覚を持っているが故に、簡単なことも見落とす馬鹿犬だ』

 

 ―――貴様から逃げることを禁ずる。

 これは主としての命令だ、とわざわざ言いつけて、

 

『向こうから来るのなら話くらい付き合うのが礼儀だ。奇異な感覚などに頼らず、ありのままで接してみろ』

 

 不満を呑み込んでその命を受けた少年は、やがて知る。

 たとえ“匂い”が、こちらを警戒し、恐れていたとしても―――いいや、それだからこそ、懸命に、態度で訴えようとしてくれる叶瀬夏音(ひと)の気持ち。

 主人の言わんとしていたことが少女との付き合いの度に少しずつ理解していく。そして、ひとつ悟る。

 他人とのコミュニケーションを拒絶しようとしていたのはほかならぬ自分だった。そのときの自分は“匂い”に頼り過ぎて、傷つくのが――壊すのが怖くて、人の気持ちに触れようとしてこなかった。

 ―――難しいぞ……

 ひとりを知り、意識の持ちようで呼吸が楽に慣れたが、また悩み事が増える。

 “匂い”の判断法にだけ頼るのはどうも違うというのはわかったが、ただそうなると、いままでの単純な物事の見方が通じなくなった。

 この世は敵と味方、二極に分かれているものだけではない。

 好意を持ちながら敵意を抱き、その逆に恐怖する相手をも愛することもある。

 そこまで極端な例でなくても、人は誰しも、混在した“(におい)”を内側に抱えている。クロウはそれを知った。だから簡単に匂いと臭いで分別することができなくなった。

 だが、そうして怖がりながらもこの清らかな聖女の善性を始めとして様々な人間性に触れていくうちに、殺戮兵器として仕込まれて(そだてられて)きた野の獣は、多くの認識と共に人間味というのを獲得するようになる。

 

 だが、それとは引き換えにか、その特異な感性に鞘でも被せたかのように、香除けの首巻ではない、知らずのうちに少年自身の無意識で制限がかけられた。

 

 

人工島旧南東地区 廃棄区画 七星壇

 

 

 人工島管理公社からも見放されたその場所は絃神島と同じ人工の大地だが、その面積の大半はすでに海中に沈んで、三日月のような歪な姿を晒している。

 海上に残されたわずかな土地は、壊れかけたビルだけが建ち並ぶだけの、無人の廃墟。本島との間に存在した連絡橋は、今はもうなく、行くには船に頼るしかない。

 絃神島からわずか数kmの海上に存在する不気味な街。

 そこは初期の絃神島の跡地であり、かつて『焔光の宴』の中心地である、人工島(アイランド)旧南東地区(オールドサウスイースト)――通称、『廃棄区画』。

 

 かの蜀漢皇帝の軍師、諸葛亮は破滅の大火をもたらす東南の風を祈祷により起こしたといわれている。

 

「そう、ほんの9ヵ月前に沈んだこの場所で皆は戦い、あの子は呪いを破った」

 

 『廃棄区画』の退廃した風を浴びながらディセンバーは、ゴーグルを外し、ヘルメットを脱ぎ捨てた。

 今まで隠されていた長い髪が、解けてふわりと広がる。

 光の加減で虹のように刻々と色を変えていく、燃え上がるような金色の髪はここで果てた同胞(はらから)と瓜二つの容姿―――

 

 古代ローマにおいて、毎年三月が一年の始まりであった。

 故に、現代の暦とは二ヶ月のズレが存在して、今ならば『十二月』を意味する“ディセンバー”という単語は、『十番目の月』を表すものであった。

 

「そして、彼――暁古城が、あの子を聖槍で撃ち抜いて、終わり……こうして、古城は世界最強の吸血鬼<第四真祖>となった。それがここで起きた真実よ、聖槍使いさん?」

 

「先輩を、返してもらいます」

 

 くるりとステップを踏んで振り返って、ディセンバー――『宴』に参加できなかった『十番目』の<焔光の夜伯(カレイド・ブラッド)>はその炎のように輝く碧い瞳を、招かれぬ少女へ向ける。

 この忘れられた廃墟の人工島にある寂れた広場に、翼を持つ白き獣龍が着地し、運ばれた世界最強の吸血鬼<第四真祖>―――その監視役である獅子王機関剣巫・姫柊雪菜は背から飛び降りた。

 すでに楽器ケースより引き抜かれている銀槍の武神具『七式突撃降魔機槍(シュネーヴァルツァー)(プラス)』を引き抜いている雪菜は、ディセンバーと数機の演算機体に囲まれる『七星壇』に座すラーン、そして、暁古城……ディセンバーの語る、かつてこの『廃墟区画』で、アヴローラ=フロレスティーナを殺した直後を再演するかのように固まっている古城を、雪菜は悲痛な目で見やる。

 

「残念だけど、それはできないわ。他の皆が認めたのだとしても、あたしはまだ彼を<第四真祖>だとは認めてないもの。だから、あげない」

 

「でしたら、力尽くでも先輩を奪い返して見せます!」

 

 これ以上、雪菜に対話をする心の余裕はなかった。

 先輩が操られ、そして、昨夜にその災厄の力でもって相当な被害を及ぼした。それは彼の意思ではないにしても、<第四真祖>の眷獣で行った以上、このままでは負わぬ責任を負う破目になる。

 それは監視役としても見過ごせず、またこの『宴』の終幕を飾った場所で今の先輩を見ていられぬ。

 担い手のより固くなった決意に応じて、破魔の銀槍に帯びる冴えた霊光にさらなる深みが増す。

 

「獅子の神子たる高神の剣巫が願い奉る―――」

 

 表面が幾重もの魔法陣に包まれる銀槍。

 青白く輝くそれはありとあらゆる結界を斬り裂き、魔力を無効化する『神格振動波』の光。

 

「大人しく眠っててもらえないかしら?」

 

 ディセンバーの瞳が輝きを増し、濃密な魔力の奔流が大気に溢れた。

 しかし、その間に張り巡らせる壁が、その妖光を呑みこむ。

 

「雪霞の神狼、千剣破の響きをもて盾と成し、兇変災禍を祓い給え!」

 

 ディセンバーの輝く双眸より放たれるその魔力を、青白く輝く『神格振動波』の光の盾が防ぐ。

 あらゆる魔術を打ち消し、魔力の干渉を遮断する霊槍は、ディセンバーの精神支配をも無効化し、打ち破る。

 

「やるね、さすが<第四真祖>の監視役」

 

 ディセンバーが称賛するように言った。ただの人間に過ぎない雪菜が、<第四真祖>の支配を振り払ったのだ。武神具の力を借りているとはいえ、中々できる真似じゃない。

 

「でも、ちょっと余裕がなさ過ぎるかな」

 

 自身の能力が通用しないことを悟ったディセンバーは即座に、不法投棄された廃棄物(ゴミ)の山に手を伸ばす。それを合図とし、廃棄物の中に仕込まれた術が起動。

 地鳴りのような震動と共に、廃棄物の山が盛り上がり、多数の金属の残骸で出来上がった人型巨人が出現する。それは法奇門によって生み出された傀儡(ゴーレム)だった。千賀毅人が事前に仕込んでいた、<石兵>だ。

 轟、と生命を持たぬはずの金属傀儡(スチールゴーレム)が咆哮。

 全身を金属の鎧で覆われた<石兵>が、巨体に似合わぬ敏捷さで雪菜へ襲い掛かる。

 雪菜はそれを『神格振動波』の刃を展開する<雪霞狼>で受けるも、その華奢な身体は大きく弾き飛ばされた。

 

「……っ!」

 

 体勢が崩れたところで、二撃目が剣巫に迫る。

 霊視の未来予測で見切っていても、身体が動けない。

 

「みみーっ!」

 

 そこを<守護龍>が身を盾にしてカバーした。

 そちらの現場にはかけつけられない同級生が先輩の単独捜索をする雪菜へ寄こした応援。そのおかげで雪菜は船での移動手段よりも早くこの場へ駆けつけることができた。金属傀儡と比較すれば、2mの体躯は小さなものだが、爪も牙もない龍母は、主人に似て頑丈な身体を張って雪菜が態勢を立て直すまでの壁役をこなした。

 

「ありがとうございます」

 

 だが。

 <石兵>の動力源は、大地の気脈そのもの。

 魔力を打ち消す『七式突撃降魔機槍・改』でも、金属傀儡と龍脈のパスを断絶するのは無理がある。つまり、相性が悪い。

 剣巫は、この5万の軍勢を壊走させ、刃の通らない鋼の身体を持つ巨人を相手に、槍術ひとつで渡り合わねばならない。

 

「“退け”―――!」

 

 白き獣龍を捉えたディセンバーの双眸が妖しく輝く。その背後で揺らめく、銀水晶のような巨大な影。彼女が召喚した眷獣が、銀色の魔力の輝きを放って、<守護龍>へ強制退去を命じる。

 

「なかなか幉を取るのが重いけどっ、宿主が近くにいないんじゃ綱引きは負けないわよ!」

 

 他者の眷獣・使い魔(サーヴァント)を操る眷獣―――

 その透き通った眷獣の魔力を浴びた白き獣龍は、現世より姿を消して、主の同級生の元へと戻ってしまう。

 退くだけでも<守護龍>を退去させた負担は、ディセンバーの肉体に悲鳴を上げさせ、全身の毛穴から鮮血が流れ出す。逆流した魔力の反動から苦痛に唇を歪ますディセンバーだが、すぐにそれは勝ち誇ったものへ変わる。

 

 これで、この場に姫柊雪菜を護るものはいなくなった。

 

「あなただけじゃ、毅人の術式は破れない。壊せてもただ数を増やすだけ。だから、そこで大人しくしてて。私たちも必要以上に害そうとはしないから」

 

 降参宣告を受けて、雪菜は割れんばかりに奥歯を噛み締め、槍を握る手に関節が鳴るほど力が入る。

 その先には、目の光を失ったまま立ちぼうけしている、蒼白な顔色の先輩があった。

 

「先輩……、せんぱい」

 

 雪菜は、金属傀儡の攻撃を激しく動いて全身で捌きながら、無酸素運動で息切れる喉から掠れ声を押し出した。

 

「先輩っ! いいんですか、このままでっ!」

 

 大きく退けられた雪菜だが、今度は、金属傀儡は追撃をかけない。ディセンバーたちのいる『七星壇』を護るように設定された<石兵>なのだろう。龍脈依存の法奇門なのだから行動範囲が限定されるのは当然か。

 こちらから仕掛けなければ、攻撃されることはない。だがそれは逆に、誘いにおびき出されることがないためにどうあっても雪菜を近づけさせないものだ。

 不動の守護は、まさしく鉄壁。

 それでも通る声に、思いの丈を篭めて少女は叫ぶ。力を精一杯振り絞り、絶叫する。

 

「けっしてこのようなことを看過したままで、世界最強の吸血鬼なのに相手にいいようにされたままで、先輩は満足なんですか!!」

 

 先輩がこの場所で受けた心の傷は大きい。思い出そうとするたびに抗いがたい頭痛が襲い、荒療治でもってしても全容を掬いだすことはかなわなかった。きっと、心の奥底に封じ込めていても、けして自身の意思によるものでなくとも、アヴローラを殺してしまったことを、悔やんでいるのだろう。あの『宴』の終わりからずっと。

 そう、すべてを思い出していない今でも心の多くを占める彼女は、先輩にとって大きな存在だったのだ。もしかすると、好き、だったのかもしれない……そんな相手を、あの彼は手にかけてしまった。

 でも。

 そのアヴローラと面影が重なる、同じ顔をした、同じ眼をした、同じ髪をした、同じ<焔光の夜伯>が相手なのだとしても。

 

「先輩は、私が半分の重荷を請け負ったとしても! 動けない吸血鬼(ヒト)だったんですか!!」

 

 旋回した銀槍を構え直し、再び果敢にディセンバーたちに挑む雪菜は激情のままに吼えた。

 

「世界を相手に戦争をできる<第四真祖>の力を、先輩が持て余してるのはわかります! だからって、<第四真祖>だと認められないと言われたままでいいんですか! どんな相手でもこの絃神島を護るために戦ってきた吸血鬼(ヒト)が……過去の後悔に囚われて、いつまで他の女のものに甘んじてるつもりなんですか! いいえ! 先輩にそんなことをしている暇はありません、それとも、こんなところで、先輩の、私達の“戦争(ケンカ)”は負けてもいいものなんですか!!」

 

 

 

 そのとき。

 ラーンの座る『七星壇』より、打ち上げ花火のように黒い何かが絃神島上空へと昇る。

 

 

 

 ざあ、と東南の風が吹いた。

 それはまるで天が、啜り泣くよう―――

 

「―――<タルタロスの黒薔薇>、状況開始(スタート)

 

 機械的に破滅の始まりを告げるラーンの声は、終末の喇叭であったか。つられて頭上を振り仰いだ雪菜は、絶句した。この場所の真上を基点として、暗雲よりもなお黒い染みが、解読不可能な幾何学文様を描いて広がる。それは一気に直径十数kmにまで達して、絃神島上空を埋め尽くした。

 舞威姫の鳴り鏑を用いた巨大魔法陣と似ているが、それとは効果範囲(スケール)がかけ離れている。それどころか、かつての<冥き神王(ザザラマギウ)>を凌ぐ膨大な魔力だ。その質も信じられないくらい高密度で―――不浄に汚染されている。

 これが対魔族撃退ではない、対魔族特区壊滅を目論んだ<タルタロス・ラプス>の儀式。

 

 いったい何を……

 

 オーロラが密集したかのような魔力の渦。あるいは、枯れた花弁。魔力によって生み出される漆黒の妖花。

 この幾重にも折り重なった複雑な文様の集合体であるところまでは解ったが、どんな現象を引き起こすのか。

 蒼白な顔で身構える雪菜は、気づく。

 魔法陣によって形成された黒薔薇から舞い落ちた数枚の花弁。

 それらは実体をもつほどに濃密な魔力の集合体であり、やがて意思が芽生える獣と成る。―――そう、眷獣へと。

 

「状況は刻一刻と悪化する。この盤上は、私達のものとなった。チェックメイト、ね」

 

 <タルタロスの黒薔薇>から生み出された眷獣が、魔力を帯びた咆哮を放つ。禍々しい黒焔を巻き散らし、絃神島へ降り注ぐ。

 

 

 

 

 

 ちり。

 

 少年の光のない双眸の奥に、遥か遠い恒星のように幽かに揺れる光。魂の熾火を思わせる弱々しさで、とくん、とくん、と脈を打ち始めた。

 

 

キーストーンゲート

 

 

 超小型有脚戦車<膝丸>。

 それは市街地戦を目的として設計構造されたディディエ重工の兵器であるが、リディアーヌには移動式の高性能電算機(スーパーコンピューター)という意味合いが強い。

 ひんやりとした空気の中、戦車内部はいくつものコンピューター画面が電子光を湛えていた。

 

 状況は、すこぶる悪い。

 

 至極、面目ないことに守護側(こちら)は情報戦で後れを取ってしまっている。

 『迎撃屋』として強いていた防衛対策を破ったサーバーのハッキングもそうであるが、修復作業でウィルスに感染されて、乗っ取ったこちらの回線より流された偽情報(デマ)に、特区警備隊とチームが踊らされて、敵の罠に嵌められるという始末。

 その窮地から島津の退き口とばかりに攻めの姿勢で脱したチームには大変頭の下がる思いだ。利用された電信音声ではない、そのままでは相手に舐められるということで仕事では滅多に出すことのない舌足らずな生の声音で彼らに謝罪をした。これでとても償えたわけではなく、これからの働きに汚名返上はかかっている。

 

「そうですな……まずは認めるでござるよ」

 

 ハッカーとしての尊厳をもっているが、認めよう。

 相手の情報工作は自分よりも上だということを。

 そして、改めてサーバーを洗い流し、そのウィルスを見つけ出し、相手の計略を自ずと悟った今、とても、とてもとても悔しいが、手遅れ。電子作業でもはや自分には手の付けられようがないことを。

 かつて自身を一敗地に塗れた<電子の女帝>であっても無理であろう。

 

(ですが、<C>ならば……)

 

 ルーム<C>―――キーストーンゲート第零層に設置された特殊区画。

 完全気密処理された空間内に、絃神島を管理する五基の超電算機(スパコン)のコアユニットが詰め込まれ、神経のように張り巡らされた島内ネットワークのすべてに接続。そして、それを核弾頭の直撃や、水深二万mクラスの水圧にも耐えれるほど頑丈な外殻で護られている。

 演算性能に防護性能も、このリディアーヌがカスタマイズして高性能電算機を積んだ超小型有脚戦車とは比べ物にならない。

 さらに、<C>経由の命令は、人工島管理公社が所有する全端末に対して、最優先のアクセス権を有している。

 当然<C>への入室は厳しく制限されており、人工島管理公社の上級理事や絃神市長ですら立ち入りを許可されていないという。

 そのために<C>は実在しない幻の部屋と噂されてたりするが、リディアーヌはすでに調べた。<C>は実在し、そこへの入室を許可された正規ユーザーは、『カインの巫女』―――<電子の女帝>藍羽浅葱……だと。

 ノートパソコン程度では『カインの巫女』としての能力を十全に発揮できず、事態を解決することはできないだろうが、もしも彼女が<C>に投入されれば、電子情報戦どころかこの『魔族特区』そのものさえも掌握してみせることだろう。

 

(そのような無い物ねだりをしてもどうしようもなかろう)

 

 いずれにしろ、リディアーヌには当然、場所は知っていても<C>に入ることは認められないし、乗っ取ることなど許されない。というか、とても無理だ。

 加えて、ノートパソコンだけの満足のいかない装備の<電子の女帝>に、<膝丸>完全装備で負けた<戦車乗り>。

 自社から最大限のバックアップを受けられる神童リディアーヌ=ディディエであるが、装備も、才能も足りていないのだ。

 

 <タルタロス・ラプス>の情報戦を担当する少女は、戦略級コンピューター並の情報処理能力をもち、直接コンピューターネットワークに介入する。

 

 才能を厳選され、英才教育を受けたデザイナーチャイルドと比べれば、生きたい人間には耐えられないほどの脳を改造され、人間の限界を超えたフランケンシュタインは技能も経歴も何もかもが格上なのだろう。

 この鬼才に敵うとすれば本当に、生身で人間離れしている<電子の女帝>という真の天才だけだ。

 そんな鬼才が、己の命さえも賭してでも戦いを挑んできている―――だが、その心構えでも負けているつもりはない。

 

『騎士道は誰かを護るために死ぬものだけど、武士道は自分のために死ぬものだぞ。だから、お前はこんなところで死んじゃいけないのだ』

 

 そう、己を介錯して、見事に救って見せた、真似事だけのリディアーヌよりもよっぽど武士(もののふ)らしいチームメイト。『彩昂祭』での事を忘れていない。

 『武士道とは死ぬ事と見つけたり』という有名な言葉があるが、それはけして死を恐れるぬものではなく、自分のために死ねるように、常に死を迎えても後悔せぬ生を謳歌することだ。

 

 して、その恩人である彼は、今回の相手と直接会い見えて、こう評価した。

『死んだような奴らが何をしたところで、オレは怖くない。それはもう昔に超えたものだからな』……と。

 相手はたったひとりのためにその命を惜しまずに捨てられる、ただひとりのためにすべてを尽くし、その正義に一切の懐疑も不満ももたない騎士道のよう……でそれは、否。

 

 彼らが想うのは、彼女であって、テロ組織でも、彼女の正義でもない。一度たりとも彼女の正義に関心を持ったことがないというであれば、騎士道をはき違えた思考停止だ。彼らは騎士道など意識したことがないのだろうが、それでも彼女のためを思うであれば、その在り方は間違っている。

 

 ああ、そうだ。

 義憤を覚えたのは、貸し出した<薄緑>に音声記録が残っていた会話。

 

 あの<黒妖犬>に身柄を捕えられた時、彼らは、“意識半分”昏倒していた彼女の前で、平気で、簡単に『捕まるのなら死ぬ』と問いかけに答えた。

 そして、彼女自身を助けるために命懸けの捨身でかかる姿勢であった。

 

 だから、相手は子供たちのためにもより手段を選んでいられなくなったのではないだろうか?

 それが、彼女の正義を曲げさせることとなっても、だ。

 

 たとえその身が死体であろうとも、心魂まで死しているわけでもないのに、死を容易く選べるその思考思想。きっとその大事な彼女から彼らの命を貴く、大切に思われているだろうに、そんな自殺志願も同然な考えが彼女にとってどれだけの重荷となるだろうか何故気づかない。

 それでは、彼女のために、ではなくて、彼女のせいで、死んでしまうと彼女は思うだろう。

 そして、それを彼らは気づかない―――

 

「そのようなモノに、拙者は負けたくないでござる」

 

 武士道というものをはき違えて、介錯されたリディアーヌ=ディディエは、二度も同じ失態はしない。甘んじて死を易々と受け入れる思考停止はしない。死に物狂いでやってやる。

 

 

「女帝殿にもない、拙者だけの秘策でお主の策を破ってみせよう!」

 

 

キーストーンゲート 前

 

 

 絃神市街は、かつてない大混乱に陥った。

 吸血鬼の眷獣が暴れ回り、巨人(ギガス)の精霊魔法が荒れ狂い、妖精(エルフ)が無秩序に自然霊を召喚し、獣人が獣化して本能のままに目につく物を壊す。

 至る所で火災が起き、人々の悲鳴や緊急車両のサイレンの音が、街中から絶え間なく聞こえてくる。

 『特区警備隊』が総出で事態の収拾にあたっているが、多勢に無勢。何しろ絃神島の魔族人口は全体の4%に過ぎなくとも、その数は2万人を超えている。そして、その9割以上が暴走状態なのだ。

 

 力の制御に失敗してしまうことは、必ずないとは言えない。コンディションが最悪であれば、事故を起こす魔族も出てくる。

 だが、その不運が一斉に見舞うなど、天文学的確率だ。これは、偶然ではなく、意図されたもの。

 

 『魔族特区』に住まう魔族がその装着を義務付けられる『魔族登録証』、それが今、金属製の腕輪に彫り込まれた幾何学模様の隙間より異様な紅い光を放っている。

 

 『魔族登録証』には、魔族の体調モニタリングや位置情報の特定のために、簡易的な魔術を発動するための回路が埋め込まれている。

 簡易的な回路と言えども、ほとんどすべての魔族が四六時中、直に身に付けているものであって、呪術の触媒とすれば相当強力なものだ。『魔族登録証』から遅効性のウィルスが流し込まれてしまえば、魔族の意識を乗ってしまう程度は容易だ。

 

 先日、『特区警備隊』の本部でハッキング騒ぎがあったが、それはサーバーを乗っ取るためではなく、絃神島内すべての『魔族登録証』を一斉にウィルス汚染するのが狙いであった。

 『魔族登録証』にかかってる防壁(プロテクト)は強固であり、装置のメモリ容量では複雑な魔術は実行できない。あくまで、暴走させるだけ。ハッキングするメリットもないから普通は誰も狙わない。だから、見落とした。

 そして、さらに今の『魔族登録証』は、『特区警備隊』のネットワークからも切り離された独立可動モードであるため、魔族らへのアクセス経路(ルート)はなく、駆除(ワクチン)プログラムを送り込むことも不可能。

 『特区警備隊』の遠隔操作にて、魔族らの暴走を阻むことはできない―――だが、“力技”で無理を押し通して、道理を引っ込ませるものが、ここにひとり。

 

 

 

「が■■■■■ァっっっあ!!!!!!」

 

 

 

 咆哮。

 まるで爆発したかのように、一気に解き放たれた発声。それだけだった。

 にも拘らず、吸血鬼が、巨人が、妖精が、獣人が、暴走した魔族たちが、動きを止めていた。いいや、彼らの身体は小刻みに震えていた。猪突猛進していた熊型の吸血鬼の眷獣はそれ以上前へ進むことも退くこともできず、精霊魔法を無造作に放っていた巨人は大きく腕を振り上げた万歳した状態のままから腕を振り降ろせないでいる。

 蛇で睨まれた蛙。または、泣く子も黙る。

 圧倒的な上位者からぶつけられた威圧、そこに下手な動作ひとつで命が危ういと本能に覚えさせることができれば、こうまで動きとは止まってしまうものか。

 はたして狂った、意識レベルが限りなく下がっている魔族からはどのように『獣王』が映っていたのやら。もしかすると、比喩表現ではなく彼らには押し潰しにくるそれが実際に“視えて”いたのかもしれない。大きな声に耳がやられて怯んだとかではなく、思わず魔族らの魂が超越者の畏怖より屈服した可能性もある。

 

 でも、これは虚仮脅し。初手の猫騙しで吃驚させられたのと同じ、刺激に慣れてしまえばもう通用はしない。停滞もほんの一時―――

 

 

 

「契約印ヲ解放スル―――」

 

 

 

 ドッ!! と、その人影は膨張した。

 この一時。彼らに猶予を与えたその一時。彼の『鼻』はこの一区画の勢力分布を一瞬で把握すると、“制限されていた”暴威を解放する。

 すでに標的は定めてあった。

 誰を、ではなく、場所を、という次元で。

 最も被害の大きい狂化した魔族らの密集している自然公園広場へ、それは軽々と高層ビルを跳び越える躍動をみせて、躊躇なく突撃していく。

 

 

 

 今度は、音さえ、消えた。

 隕石の直撃のように、千人規模の魔族が全方位へと薙ぎ倒された。

 

 

 

 ただ、ジャンプして、降り立つ。

 それだけで、一騎当千の無双を成す。暴徒と化した魔族の総数をゴッソリと削り取ってしまう。そして、これだけの破壊力で、死者がひとりも出ていないのは奇蹟を超えた人為によるもの。この少年の身体制御能力は、すでに完全なる獣の状態であったもこなせる域に達している。

 脳を揺さぶられ、誰も彼もがろくに起き上れることもできずに、倒れ伏す中、君臨した現在の殺神兵器は、その一瞬だけの、千の魔族を瞬殺で制圧した<神獣化>を解く。

 それから彼は轟々と燃える市街に目をやって、

 

「せー、のっ! ―――ふーーーーっっっ!!!!!!」

 

 技名すら叫ばない、間の抜けた掛け声とともに、思いっきり息を吹いた。

 

 ズァ!! と。

 圧倒的な烈風が、ビル群を支配する真っ赤な炎と灼熱を蝋燭の火のように吹き消してしまう。

 

 童話の中の悪食の狼が、豚が隠れる藁ぶき家屋を一息で解体した光景でも再現されたようだ。違うのは、建物は無事だということ。が、不満とでもいうかのように少年は、チラチラと残ってしまった残り火を見て、うーん、と眉をしかめる。

 

「一気に消せないとは、オレもまだまだなのだ」

 

 この結果に慢心せず、さらなる精進を胸に誓う。

 常識という壁を超えた強烈な存在感を持った者は、暴力をより圧倒的な暴威で上塗りしてしまうように、混沌とした騒ぎにもいても輝きが翳ることはない。

 

「なんだか再会する(あう)度に、出鱈目さ加減がすごくなってるね、キミ……」

 

 と騒ぎを強引に鎮圧した(かたづけた)クロウへ呆れた声をかけたのは、優麻だ。

 意識を奪われた魔族らへの対処をクロウに任せてる間、優麻は優麻で人間の要救助者たちを空間転移で安全な所へと送り飛ばしていた。

 

「う、成長期だからな。もっともっとすごくなる。背だって大きくなるぞ」

 

「ははっ、キミはやっぱり将来はとんでもないことをしでかしそうだ」

 

「でも、まだまだ暴れてる奴らはいるのだ」

 

「そうだね。リディアーヌさんが対処策に時間がかかってしまうとは言ってたけど……」

 

 『魔族特区』はこれまでにない大混乱に陥っている。

 だがしかし。

 魔族を催眠状態に落として、魔導テロの道具とすることが、テロリストの真の狙いではない。

 この無差別テロは、副産物で前座。本命は、空にある。

 

「薔薇の、黒薔薇の魔方陣か」

 

 短く、若い魔女は息を吐いた。

 そして、急に冬の風に当てられたかのように、二の腕を撫でたのだ。

 

 『魔族特区』の上空をべったりとした大規模な幻像がはりついている。これが夜でなければ、おおよそ空の三割ほどが漆黒に染め変えられているところを観察できただろう。そしてその異様を視界にとらえた一瞬、少年の知覚にも背筋をぞくりとさせる何かが走り抜けた。

 まるで、神経の上を蛞蝓に這いずられたような嫌悪感だった。

 

 それを実体化させるために、絃神島の登録魔族者二万人から魔力を供給させている。魔族たちのほとんどが意識を失って倒れているのは、魔力の暴走だけが原因ではなく、巨大な魔方陣を形成するために魔力を奪われているからだ。

 

「あれは、眷獣なのか……!?」

 

 そして、黒薔薇の魔方陣より生み出されて、絃神島に降り注いでくるのは、3mから5mほどの獣の輪郭をもった魔力塊。

 それは統率されず、無秩序に暴れ狂う眷獣。

 これが、『魔族特区』破壊集団と呼ばれる所以か。

 登録魔族から吸い上げた魔力による、無制限の眷獣召喚。加えて、敵対者の地盤を奪い去る戦略効果。人間と魔族が共生する『魔族特区』でなければ実現しえない究極の破壊工作だ。

 対抗できるものは、『特区警備隊』が保有する大型魔術兵装か、一部の国家攻魔官が持つ強力な魔具、そして同じ吸血鬼の眷獣かそれに匹敵する魔族の力。

 しかし現在、各地の『特区警備隊』の隊員は、こちらと同じように暴走した魔族の鎮圧と救助に追われており、眷獣に対処する余裕はない。それは国家攻魔官たちも同じだろう。

 そして登録魔族たちは、<タルタロス・ラプス>のハッキングによって、ほぼ全員は意識不明の状態に陥っており―――つまり、粗方片づけた自分らしかいない。

 

「優麻、あの空に『門』をあけてくれ―――」

「―――そういうことか。わかったよ」

 

 獣化した<黒妖犬>が、大きく息を吸い込む。<蒼の魔女>の影より無謬の騎士が現れ、前に出した両手の間の空間を歪ませる―――そこへ頭を突っ込んだ人狼が、咆える。

 クロウは大地にめり込ませるほど四肢を強く踏ん張り、高周波の咆哮を奏で立てる。

 

 そして、思い切り溜めを作って解き放たれた神獣の劫砲は、暗夜の如く黒薔薇の魔方陣が展開された上空を、火の海に呑み込んだ。

 

 天と地ほどの距離に勢いが減衰することなく、“射程外の空間を跳び越えた”<黒妖犬>の吐息(ブレス)は、絃神島へ振り落ちていた眷獣の群れを焼き払う。

 原理とすれば、獅子王機関の舞威姫が『六式重装降魔弓』に備わる二つの能力を同時使用することで成す、超遠距離狙撃と同じ。空間切断で生み出した空間の裂け目に、『鳴り鏑』の呪矢を射通す―――

 その一矢は瞬間転移して標的の至近の座標位置に現れ、魔方陣成型の呪句を奏でて、篭められた呪力を解放させる、という。

 舞威姫の中でも武神具の機能を分割させた量産モデルではない、『六式重装降魔弓』を単独で十全に扱える煌坂紗矢華にしか使えないような、空間制御魔術を応用した舞威姫の切り札を今、優麻とクロウは、<煌華鱗>の転移(けん)殲滅()を役割分担でこなしてみせたのである。

 幸いなことに『黒薔薇』の眷獣たちの力は、大したものではない。最新鋭の戦車と同等以上の戦闘力を有する『旧き世代』の眷獣よりは下の、比較的若い吸血鬼の眷獣クラス。それでも家屋を丸ごと吹き飛ばす程度の脅威であったが、その程度は『獣王』の息吹に灰塵と散る。

 これならばあと二、三同じことを行えば、ほぼ全滅に追いやれる。優麻がそう判断し―――すぐに否と変えた。

 

「だめだ。倒してもあれは復活する!」

 

 渦を巻く『黒薔薇』の花吹雪。

 全体でひとつの群体の如く、不気味に蠢動しながら、神獣の劫火に灼かれたはずの『黒薔薇』の眷獣たちは、蒸発霧散した灰塵が集まり再び獣の形へ戻っていく。

 術式本体を破壊せねば、『黒薔薇』の眷獣に魔力は供給され続け、怪物生産工場は活動を停止することはない。こちらの攻撃に刺激されてか、『黒薔薇』がより花弁を散らす。増殖速度が加速した眷獣たちはすでに桁違いの数に達している。

 二十や三十ではない。

 二ケタ(じゅう)を超えて、三ケタ(ひゃく)に届こうかというところだ。

 しかも、まだその数は途上だという。

 一部を焼き払われたはずの、しかし地上から供給される膨大な魔力によって再生してしまっていた『黒薔薇』の魔方陣より次々と眷獣の花吹雪は勢いを増していく。

 

「まずい、かな……どうやら、怒らせてしまったみたいだ」

 

 仲間を大勢焼き尽くしたことから危険対象とみて、落下の軌道を修正し、優麻たちを狙う『黒薔薇』の眷獣。

 そこに、巨大な蝙蝠がいた。

 そこに、巨大な蜘蛛がいた。

 そこに、巨大な肉食魚がいた。

 数は圧倒的。形姿も多種多様。完全な意思を持っていないからこそ、躊躇なく捨身特効。全身に魔力の黒炎をまとい、獲物を目がけて真っ直ぐに突っ込んでくる。

 

「でも、それだけだ」

 

 拳ひとつ(ワンパンチ)で『黒薔薇』の眷獣が吹き飛んだ。眷獣と比較すれば小さな爪拳ひとつが一番槍に飛び掛かった恐竜型の眷獣の鼻先を殴りつけると、巨体はコンクリートの瓦礫へと叩きつけられ、そのまま夢見るように霧と化した。

 

「生まれてるのなら、必ず死ぬ。それはどんなものにも当てはまる理屈なのだ。少なくとも、オレはオレの手で壊せないと思ったものはない」

 

 至って平静に、現代の殺神兵器はさばさばと言ってのけたのである。

 この、無限とばかりに生み出されていく復活と再生の『黒薔薇』の眷獣の群れに視界を埋め尽くされて、臆するところは微塵もない。

 

 そして、優麻の隣で人狼は、北欧の主神殺しよろしくとばかりに、その世界ごと喰らわんと『黒薔薇』の魔法陣へ咢を開き―――

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「っ、来たな!」

 

「え……?」

 

 刹那。

 ほとんど爆撃のような衝撃波が、地表を洗った。

 見えない巨人に殴られた如く、地殻の瓦礫がまとめて吹き飛ぶ。魔神の玉突き遊戯(ビリヤード)を思わせて無数の破片が散乱し、一帯の大地がズタズタに切り刻まれた。あまりの突然の破壊劇の中で、クロウの周辺だけが凪の如く静かだったのを誰が見ただろう。

 

「おお、と失敗してしもうたか」

 

 法奇門の気配遮断。

 魔女に勘付けなかったその隠密を察し、奇襲を防御した人狼は、邪魔をしてきた相手を睨み据える。

 

「すまんな、毅人よ。これならばヤツらを迂回した方が良かったかもしれん」

 

「いや、正解だ。今、阻止しなければ<タルタロスの黒薔薇>は破壊されていたかもしれない。そうなれば、我々の計画は破綻していた。やはり、ここで倒しておくべき障害だ」

 

 建物(ビル)の屋上よりこちらを睥睨するのは、『東洋の至宝』と謳われた風水術士と『不滅』を謳う最古の猿人。そして、その傍らに立つのは、虹色の巨体に取り込まれているかのような眷獣共生型人工生命体。

 

「……、」

 

 ひとつ迷いを解消した<黒妖犬>は、主人の師も血の宿敵も見ていなかった。

 天と地で、銀人狼と虹色の巨人は睨み合っていた。

 片や無表情に、一切の感情を露わにせず。

 片や歯を噛み締め、怒りも安堵もない交ぜになってる感情を呑み込んで。

 

「それが、オマエらのやり方なのか」

 

「そうだ、<黒妖犬>。これが、<タルタロス・ラプス>のやり方だ」

 

 教え子の使い魔を見下しながら、千賀毅人は主張を唱えた。

 

「カインが復活すれば大勢の犠牲が出る。だが、真実を公表しようが握り潰され、世界は何にも変えられない! 咎神復活の計画だけが着実に進んでいく―――ならば、『魔族特区』を滅ぼすしかない」

 

「―――いいや、オマエは止まっただけだ」

 

 迷いが晴れ、曇りのない無垢な眼差しが、男の瞳の奥底を射抜く。

 

「オマエは、優しい。ご主人のように優しい“匂い”がした」

 

「……な、に……?」

 

「だから、オマエの言葉にウソはない。だけど、オマエは信じられなくなった。頑張って訴えても誰も聴いてくれないって、信じることを止めた。街を壊すのは、オマエが求めた結論(こたえ)なんかじゃなくて、“しょうがない”と言い訳した妥協案だ。オマエは進むのが疲れて、そこが答え(ゴール)だと自分に言い聞かせて、歩くのを止めただけだ」

 

「っ、何も知らないくせに……私は十数年と考えて、この答えに至ったのだ!」

 

「十数年も考えたって、言うなら。なおさら、そんなすごい努力を、どうして無駄にしてしまう」

 

「それまでが無駄に終わったからだ! 何度も訴えようが誰の耳にも届くことはなかった!」

 

「いいや、無駄なんかじゃない。オマエの、教え子だった、ご主人は、オレを救った。『魔族特区(まち)』を滅ぼさず、犠牲になるはずだった人々を助けてきた。それがオマエの本当の理想(のぞみ)だった―――そして、オレはその理想に救われた。だから、無駄だなんて言わせない」

 

「なにを……っ」

 

「ご主人は、オマエのもとを去ったと言った。それは、違う。オマエが理想に走るのが疲れて、立ち止まって、ご主人に置いていかれただけだ」

 

 と、教え子の使い魔は断じる。

 

「オレはご主人のことを知らなかったけど、オマエはご主人を見ていなかった」

 

「―――黙れ!」

 

 激昂した主人の先生が拳銃を抜いて、射撃。だが、避けるまでもなく、弾丸は狙った相手より大きく外れてしまう。

 たとえ獣人の狙撃手カーリの先生であっても、ライフルではない拳銃で長距離の的に当てるのは無理がある。

 

「裏切ったのが他の誰でもないオマエ自身だと認めたくなくて、目を背けた」

 

「―――黙れと言っているのがわからないのか!」

 

 銃声は絶え間なく連発される。

 無駄弾を撃ち尽くしても、装填してまた引き金を引く。

 クロウの言葉に、滾っているのが優麻にもわかった。

 でなければ、そもそも<黒妖犬>を相手に銃火器に頼ろうなんて考えない。教え子の超長距離射撃を叩き落とした怪物に、銃弾が通用しないなんてわかり切っていたことだ。

 

「結局、オマエは『オマエに都合のいい南宮那月(ごしゅじん)』しか見ていなかった。そして、ご主人はそんなオマエに気づいていた」

 

『南宮那月……15年ぶりか。変わらないな、おまえは』

 

『貴様は老けたな、千賀毅人。だが、中身は大して成長してないようだ』

 

 それは、長年の再会への挨拶ではなく、その内面をそのままに指していた言葉だったとすれば。

 

「だって、ご主人は、ちゃんとオマエを見ていた。憧れていた。だから、気づかないはずがないし、“匂い”だって似てしまう。そして、オマエと同じように、先生、と呼ばれるようになった。

 ―――なのに、なんでオマエはご主人を見ない?」

 

 男は息を詰めた。

 彼の問いかけは、それほどにひどく切実だった。

 

「オマエも先生なら、教え子をちゃんと見送る――“卒業”できるようにしないとだめだ。自立できるようになるのは喜ばしいことなのだ。なのに、いつまでも教え子()離れができないで、それは先生じゃない。留年しそうでも、背中を蹴っ飛ばしてでも押してやる。それが先生だ。

 ご主人は、別れるのが、いつか忘れられてしまうのが寂しくても、ちゃんと教え子を見送ってきたぞ」

 

 ああ……

 きっと、彼は出会ってからの南宮那月をずっと見てきたのだろう。だから、わかった。そして、けして言えぬ主人の想いを代弁することができた。

 

「だから、今日、負けたら、ご主人をちゃんと見送ってやってほしい」

 

「―――」

 

 硬直した。

 その嘆願に、千賀毅人は呼吸を止めてしまう。今の言葉は、仙人の中でも達人がかける不動金縛りの術であったかのように。

 やがて、

 

「俺に……我々に、勝つつもりでいるのか」

 

 噛み締めるように、千賀がもらした。

 これまで破壊してきた『魔族特区』の経験から、もうこの状況は詰んでいる。『黒薔薇』は誰に求められずに、人工島は沈むことになる。千賀にはもうその未来が視えている。

 だが、おう、と頷かれた。

 

「よう言ってくれたわい、<黒妖犬>!」

 

 そして、それに喜々として応じたのは、千賀ではなく、

 

「もうさがっておれい、毅人。こ奴の相手は今のヌシには無理じゃ。これ以上、話に付き合う義理もない」

 

「ハヌマン……」

 

「そして、あれは儂の獲物よ!」

 

 壮烈な鬼気が、その身体から発散されていた。『斉天大聖』という異名のひとつに相応しく、その力は天災にも勝ると、嫌でも理解させられるほどの、ほとんど物理的な圧力で一帯が拉いでしまう。

 <白石猿>は、無駄弾を撃ち尽くした千賀をどけて、建物から飛び降りた。

 それを見やり、クロウは構えると、大声で“頼んだ”。

 

「ご主人を頼んだぞ、優麻

 

 

 

 ―――とアスタルテ!」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 ―――!

 思わず耳を疑う。驚く。そう、驚くも何も、支配下に置かれ、これから防衛しているキーストーンゲートを破ろうとしているその自身を、頼みの綱とする。

 攫われて救うべく御荷物でも、

 操られて敵対する障害でもなく、

 この期に及んで、自分を頼りになる後輩として見ていたというのか。

 

 ドゴンドガバキドゴドンドングシャボキズドドドドドドドドド―――ッッッ!!!!!!

 

 昨夜の再演を行うかのように、

 まずは、墜落しながら手にした棍を振り落す白猿人と、それを両腕で受けて捌く銀人狼。

 一撃で止まらず、目まぐるしく次の手を次の手を、それをさらにすべて一撃必殺で繰り出し続ける。フェイントでさえも最大最速最高最強の精度で叩き込み合う。時速300kmで突っ走るレーシングカーでレース、次々高速で迫りくる状況へ一回でも失手を取れば事故を起こしてお陀仏となる。

 そんな最中に、争う両雄は会話をする。

 

「ひっひ―――――――――笑えぬな」

 

 しなった棍をフルスイングした重撃で、聖拳を弾きながら、たったの一言でその心情を丸ごとに晒してしまえる文句を吐いた。

 

「なにがだ」

 

「何じゃさっきの言葉は? 言い間違えたのならそういうてくれ」

 

「何だオマエ、耳が遠いのか」

 

「かっ、随分と詰まらないことばかりしてくれるではないか」

 

 退屈。

 いやこれは失望か。

 

「らしくない。まったくもって儂の望んだものじゃない。のう、<黒死皇>の末裔たる『獣王』。足並みを揃えるのは我慢が大変ではないか。何もこんなときまで弱者に遠慮せんでいいのじゃよ」

 

「……、」

 

「ひっひ。じゃろうのう!! そも、おヌシは何故これまで儂らの元へ特攻を仕掛けぬ? その鼻ですでに儂らの位置はわかっておったのだろうに!! たとえ、返り討ちとされる結果となろうが、その経験を糧とすることができるじゃろう!!」

 

 意図を把握できないクロウに対し、ハヌマンは勝手に話を続ける。

 

「それが、小物と行動している? つまらん。互いに役割分担で作戦を考えてる? ああつまらん。ようやくヌシから何もかも取っ払ってやったと思えば、人形に頼るじゃと? まったくつまらんなあ!! こんなにも面白くない冗談はそうないぞ!! これ以上、儂に戯言を聴かせてくれるでない! 早う儂のところへ追いついてこいと期待して待っておったのに!! 率直に言って、一番良かったのは最初に単独行動を取った時ではないか!! 姫を捕まえて、最も儂らは追い詰めてくれた!! ああ、なのに、弱い者に頼ってからは一気に鈍ではないか!! 小さくまとまって、縮こまっておる! ただ被害を少なくしようそっちの方に気を取られてばかりッッッ!!!!!!」

 

「何を……言ってる、のだ?」

 

 もう、そう返すしかない。

 それ以外の返し文句を、その憤りを共有できないクロウには無理であった。

 

「ヌシは守ることを意識し過ぎるあまり、尖った才能の切れ味を落としてしまっておると言っておるのだ。ヌシは堕落しておる。それも堕落していることにさえ気づいておらん」

 

 一端、大きくクロウを弾き飛ばして鍔迫り合いを中断。

 そして、息を整えて、決定的な一言を放つための(タメ)を入れた。

 

「ノロマな雑魚にいつまでも足を引っ張られているのでないわ、愚か者。おヌシの本気はまだそんなものじゃないだろうに」

 

 そのいちゃもんは、まだ建物の屋上にいた少女アスタルテにも届いていた。

 元より人工生命体の薄い感情を喪失した、操り人形である今だから、表情は変わることはなかった。でも、刃物でも突き刺されたように胸が痛かった。

 なぜなら、それはなんの悪意のない助言として、落ちていたゴミを拾うのとまったく同じ精神で語られているのがわかるからだ。

 

「いい加減に見限れ。あの倉庫街で、あそこの小娘が邪魔をして、止められんかったというのであれば、立派な戦犯じゃよ。そんなのとっくにわかっておったのだから、ヌシがわざわざ殺すことなどせずに、言ってやればよかったんじゃ。

 ―――邪魔をするなら舌を噛んで死ね! とな。死ねば今度こそ従順な人形として使えるじゃろう? それができる死霊術の才能がヌシにはあると儂が太鼓判を押してやってもいいぞ」

 

 呼吸が詰まり、意識が暗転しかねない言の刃だった。

 深く突き刺さるそれはアスタルテには抜けない――否定の文句が吐けないものだった。

 だって、彼女はわかっていた。

 今回の彼は、いつも通りとは違っていた。

 我武者羅で、効率や合理性なんて何もなくて、本能で正解を選んで行動するあの少年が、余裕がなかったその理由。その天衣無縫な個性を封じていた原因はなんであるか。

 それが、教官が不在だからだけではなく、アスタルテ自身を含むチームで行動することになったからだとすれば―――

 

「ヌシは、組むべき相手を間違えたのじゃよ」

 

 それは、残酷な真実を意味する。

 

「これならば、南宮那月を封じん方が面白かったろうなあ」

 

 もしも、教官が健在であったのなら。

 

 特区警備隊の指揮も、『覗き屋』より国家攻魔官が巧く、彼の邪魔にならないよう配慮できただろう。

 

 魔女としての技量、空間制御魔術は<蒼の魔女>では<空隙の魔女>には及びもつかない。

 

 ハッキング技術はなくても、情報の正誤に惑わされることなく、<戦車乗り>のように逆に乗っ取られて誤情報に振り回されることもなかった。

 

 そして、戦闘での息の合いようも、あの『人形師捕縛』のとき、初めて目の当たりにした――焦がれるように記憶野に焼きついた――絃神島最強の主従と見比べれば、<薔薇の指先>との連携は劣っている。励ますことも、自身の感情面でさえ上手く言い表せない人工生命体よりも、教官ならば一喝で立て直してくれたはずだ。

 

 そうだ。

 教官がいれば、彼は、まったく別の道を進んでいただろう。安心して背中を預けて、伸び伸びと腕を伸ばせて、思う存分己の長所だけを突き詰めて真っ向から<タルタロス・ラプス>と激突できただろう。

 だって、その組んだチーム4人全員合わせても、教官ひとりに劣るお邪魔虫なのだから。

 ならば。

 敵の手に囚われ、操られる自身は、お荷物以外の何者でないのだから、舌を噛め―――そうすれば、彼の負担はきっと軽くなる。

 震えながら口を開こうとするアスタルテは。

 

「なあ」

 

 視線は最古の獣王から逸らさず。

 けど、その声は上に向けて放たれる。

 

 

「返事は、どうした、アスタルテ」

 

 

 あの道理を説いた長広舌を。

 馬耳東風と聞き流して、改めて、こちらに。

 あの少年は、頼みごとを取り下げていない。

 

「わからんなあ!! あれが足手纏いなのは童でもわかるというのに、どうしてそこまで痩せ我慢する。そんなにもヌシにとって切り捨てるのは難しいものなのかのう?」

 

「難しいも何も、切り捨てる必要がどこにあるのだ」

 

 その返しに、頭の奥まで真っ赤に灼熱に盛る。

 カッ、と最古の獣王は目端が裂けんばかりに火眼金睛が見開く。

 そしてお気に入りの得物である棍を斜め上へ放ると一気に間合いを詰めた白猿人が、その勢いを殺すことなく銀人狼の側頭部に襲撃を見舞う。だが頭を刈り取るだけでは終わらない。上段蹴りで振り切ったまま回り、ほぼ逆立ちに近い状態で胸元の獣毛を毟り取ると、ありったけの暗器系統の魔具へ変化。真下から執拗にその“無駄口”を縫い閉ざせるように顎へと短剣を複数投げ放ち、雲の『宝貝』で一息に展開して、視界不良に嗅覚攪乱の、未来視と超感性封じの濃霧に包み込み、留まることなく逆立ちから姿勢を側転へと繋げて全身をぐるりと楯に回ると、その最中に猿人の手の元へ吸い寄せられるように最初に投げ捨てた棍が収まり、遠心力を借りて超重量で神珍鉄の剛撃を頭頂部に見舞う。

 これらの動作は刹那の停滞もなく、流れるように行われた。世界最古の獣王は、その気の遠くなるほどの年月の果てにただ武具を造り出すだけでなく、十全に扱えるだけの技量を鍛えていたのだ。

 

「ご主人がいたらよかった? 何を言う。オレはみんなといたから、ここまでやってこれた」

 

 だが。

 それでも。

 

「矢瀬先輩は、無理なお願いを聴いてくれた。パソコンなんて上手く使えないし、リディアーヌでなかったらそもそも勝負になんかなるもんか。優麻の事を空間制御だけで量ってるとしたらそれは烏滸がましいにもほどがある」

 

 血を出す額で如意棒を受けてなお、少年は口を閉ざすことなく当たり前を言い続ける。

 雲で相手の感覚を潰したことが、かえって少年のシルエットを大きくしてしまっているようにすら思えてくる。白猿人は様子見と一歩二歩と後退する素振りを見せ―――て、獣毛を飛ばし、一級品の武神具へと変じた刀槍を何本も直撃させ、同時並行で標的を自動捕縛する縄を振り回して投じる。両腕によるガードを許さず、完全に『宝貝』の縄で首を巻き絞め―――一気に手前へ引き倒す。

 猿人の剛腕を全開に引っ張った。

 だが、

 

「ぬおっ……!?」

 

 がくんっ!! と強い力につんのめったのは、むしろ縄を手に取っている白猿人の方だった。

 大きく息を吐いて、周囲を取り巻く濃霧を払い除ける。

 首に強く何重にも絡みついた縄を噛み千切り、額に血を滲ませながらも、その少年は一歩も動いていない。

 連撃の中には牽制を多く含んであったとはいえ、一体この秒間どれだけの『宝貝』を放ったと思っているのか。一発一発が並の攻魔師や魔族を屠れる威力だった。だというのに、防御らしい防御の構えもなく、両手は降ろしたまま、そして、その意思が向けている先は依然と変わってない。

 

「そして、アスタルテが後輩だから、オレは立っていられたのだ。アスタルテがオレの後輩になってくれたから、オレは先輩になれた。ご主人の眷獣だけのままだったら、オレはどうしても甘えが出ちまったな。ご主人がいなくなっただけで、もう何をしていいのか右往左往としてただろうな。アスタルテがいてくれたからだ。オレが今ここで立っていられたのは、アスタルテがオレをずっと見ててくれたからだ。むしろ格好悪いところも情けないところも見せても、愛想を尽かさないでアスタルテがオレの傍にいてくれたから、オレは自分の足で立てる。

 ―――なのに、オレの後輩を、邪魔だとか、間違いだとか、死ねだとか! オマエは一体何様だ!! オレのことをこれっぽっちも知らないくせにオレの理解者面して、オマエは何もわかっちゃいない!!」

 

 伸びた銀人狼の掌が白猿人の口を塞ぐように頭を掴む。

 

 

「オレは守りたいものを背負わないで、オレの命を賭けられるほど、戦いに狂ってないぞ!! エテ公!!」

 

 

 そのまま大きく振りかぶり、片手持ち(ワンハンド)脳天杭打ち(パイルドライバー)で白猿人を真下に叩きつけた。

 それから、倒れた白猿人を銀人狼が腹を踏みつける。

 

「訂正しろ」

 

 ……彼の怒りに、救われて、けど、納得できないものもある。

 南宮クロウは窮屈感を覚えていたのは、やはり事実なのだろう。けれどその上で、決して見限ることはありえないと宣言していた。教官より下なのは、当然だが悔しいものがある。

 

「オマエも千賀毅人(アイツ)と同じだ、オマエはオレを見てるようで、オレを全然見ちゃいない。そんな奴にあーだこーだと言われたくない!」

 

 でも、だから何だというのか。

 そこで応えない理由になどなるのか。

 

「矢瀬先輩も、リディアーヌも、優麻も、アスタルテも、オレをちゃんと見てくれるし、みんなすごいとオレは認め()てる。オマエとは違うし、オマエなんかがバカにしてもいいもんじゃない!!」

 

 防御(ガード)など頭から抜け落ちてしまうほど、がむしゃらに訴えるその少年の言葉が、アスタルテの胸に突き刺さり、様々な感情を呼び起こす。

 改善を望むのなら、ここは妥協してはいけない。絶対に。

 

「……弱者なんぞに満足しおって、強者(ワシ)を足蹴にするとは、どうやらヌシとは見えるモンが違うようだのう」

 

 心底残念そうにこの付き合いの悪さを嘆く。だが、まだ目には執着の色は消えていない。

 

「じゃが、儂の焦がれた願望は、譲れん。まだ風向きはこちらにあるのだ! よかろう、すべてを失ってから気づいた方が味わいはより深いものとなる―――毅人よ、行くがよい! この青二才の目が如何に曇ってるか、事実で教えてやれい!!」

 

「オマエ……ッ!!」

 

 踏みつけた銀人狼の足に抱き着き、仙石(いし)と化ける。片足を重石につけさせ、行動力を奪うと、援護する隙を狙い戦況を窺っていた同志に先へ促した。

 クロウもすぐ足を振り上げて、仙石を外そうとするが剥がれず、千賀は空間転移の呪符を取り出した。

 これで相手が二手に分かれてしまえば、その分だけこの立ち会いに集中ができなくなるだろう。

 それが視なくてもわかったから、少女の最初噛むつもりであった舌先は震えた。

 

 

命令(アク)……受託(セプト)

 

 

 その瞬間。

 焦りが浮かび上がりそうだったクロウの目の色がハッと変わる。

 それは、本当にかすかな声だった。風に掠れそうな、普通ならこの距離で聴こえようのないもの。だけど、自分の意思(こえ)を先輩の耳は拾ってくれた。

 

「よし―――!」

 

 そして、安心してくれた。

 

『いくら命令されてもやりたくないことは誰だってやりたくない。でも、アスタルテは『命令受託(アクセプト)』って、魔法の呪文(ことば)を唱えるだけで何でもやれるようになるすごく意志の強いヤツなのだ』

 

 あのとき、自分を認めてくれた言葉をアスタルテは忘れてない。そして、彼も変わってなかった。

 血が昇っていた頭が冷めた先輩は、獣化を一端解いて脱力。余分な力が抜けた脚から仙石の拘束はするりと抜けた。でも、すぐクロウは千賀を追うようなことはしなかった。

 

「そういうわけだ、千賀毅人はボクたちに任せたまえ。南宮先生は必ず助けるよ」

 

 と静観して見守ってくれていた仲間の魔女が銀人狼へ声をかけて、風水術士の後をすぐさまに追い掛け、空間転移した。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 チッ、と白爺は明確に舌打ちした。

 

「……折角、あと少しで、熟した果実が、儂のいるところまで堕ちてきてくれそうだったのに……ッ!! ああ、そんなちっぽけな希望(みず)など与えず餓えに餓えさせれば、<黒死皇>となれたはずだったのに……ッ! 儂は、もう、我慢の限界じゃと言うとろうがァァァああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」

 

 ドス黒い色がついたような怨嗟の咆哮が轟いた。

 あれだけ、さんざんと言葉をつくし、煽りに煽ったというのに、あんな人形の小娘の言葉であっさりと立ち直られてしまっては、イラつくというもの。

 

「そんなの知るか」

 

 それを一蹴するクロウは、不敵に笑んで言った。

 

「喜べよ、これでオレはオマエとの闘争(ケンカ)を心置きなく、存分にやれるんだぞ」

 

「はっ、安心するにはちと早いのではないか? 毅人は特一級の術士よ。小娘ごときが相手をするのは高望みだのう」

 

 その一点も曇りない眼差しを、ハヌマンは鼻で笑う。嘲笑う。失笑する。

 

「そして、ヌシはまだ熟し切ってはおらん。足りんのじゃ、何もかも『不滅』の儂を脅かすには全然足りんッ! なんなら、その思い上がりの底を、砕いてやろうかッ!」

 

 ざわ、と白猿人の獣毛が逆立つ。

 建物の陰に控えていた何かが、音もなく出てくる。前からも、後ろからも、右からも、左からも―――

 次々と影がこの戦場へ密集していく。あっという間にこの広場の周囲を埋め尽くす。

 いや。

 まだだ。

 広場どころか、この一区画を呑み込む人海。見渡す限りの建物の屋上からぞろぞろとスロットの大当たりを出した時のように影が集っていく。

 びっしりと、と表現していいほどに、まったく同じモノがクロウを囲っている。

 そして、それらの色は、すべて白。

 <白石猿>……その最初期に開発さ(うま)れてから、この現代にまで生存する『不滅』を謳う最古の獣王は、数の概念が適応されない。

 

「儂ひとりにこうも手古摺るようでは、“数百体”の儂らを相手することなど夢もまた夢よ」

 

 だから、今回は、“育てる”つもりだった。

 宿敵と同じ道を辿らせて、同じ存在にまで至ってもらおう。そのはずだったのに。

 

「『魔族特区』を潰すくらい儂ひとりでも十分。毅人が<タルタロスの薔薇>を開発するまで、<タルタロス・ラプス>は、儂ひとりで『魔族特区』を滅ぼしたこともあったんじゃぞ」

 

 一個にして複数。この獣王の軍勢は、『夜の帝国』にも『魔族特区』にも怯むことなく、圧倒してきた。

 だが、この孤独を埋め合わせてくれる同族は、いなくなってしまった……

 

「なあ、オマエにも訊きたいことがある」

 

「ほう、なんじゃ?」

 

「どうして破壊“集団”(テロリスト)になってるのだ?」

 

 クロウはそう言って、鋭い眼差しを据える。

 

「それは、<黒死皇>の血を継いだ<黒妖犬>が絃神島におるからかのう」

 

「オレが理由なら、『魔族特区』を壊すとかいう面倒な手間を取る必要はないのだ。オマエこそ、何をおいて、オレのところに特攻を仕掛けるだけでよかった。それに、千賀毅人(せんせい)ディセンバー(せんぱい)のように義憤(いかり)も大して覚えてない。子供(あいつ)らみたいに心酔してるわけでもない。オレに散々窮屈だとか言ってたけど、それだけの力があるのにオマエは遊んで、楽してるようにしか思えないぞ」

 

「儂はもう古株(OG)なんでな。ちょくちょくと手伝いするだけで十分よ。あんまり甘やかすのはためにならん」

 

「余計なちょっかいしかしてないみたいだけどな」

 

 好々爺らしい緩んだ笑みで答えるハヌマンに、クロウは率直に切り込む。

 

「オレがさっき先生(アイツ)に言ったことくらい、オマエはとっくにお見通しだった」

 

「ひっひ、じゃから望みをかなえて、毅人の手元に管理できるようにしてやっただろう? <山河社稷図>ならば、今度こそ逃げられるようなことはなかろう」

 

「古城君のことも、ディセンバー(せんぱい)操り人形にする(あんな)のは不本意だったと言っていた」

 

「<第四真祖>は、説得しても通じんじゃろう。儂なりに姫へ気を遣ってみたのじゃよ」

 

「そういうのがテロリストらしいのかもしれないけど、あいつらのためになってないものだとオレは思う。それもオマエはわかって、やっているんじゃないのか」

 

 語調こそ静かなものの、クロウの詰問は一言一言が高密度だった。その場凌ぎや誤魔化しを許さない実直さがある。ハヌマンは返答に悩む風に指先で髭をかき、しばし言葉を選んで沈黙する。

 それから、

 

「そうじゃのう……儂がその気になれば、ヌシの考えるような“まっとう”に導けたろうよ。だか、それではつまらんじゃろう?」

 

 ピクリ、とクロウが目をすぼめた。

 

「さきほどヌシが責めてくれた毅人の様は愉悦でなあ。実に見応えがあったぞ」

 

「オマエにとって、あいつらは仲間なんかじゃないのか」

 

「だのう。じゃが、結局のところ、心底では儂に仲間など“どうでもいい”ものじゃよ。いずれ儂を置いて死にゆくもののことなど、どうして気遣えるという? 儂が本心から求めるのは、この『不滅』を埋め合わせてくれる(ころせる)宿敵だけじゃ」

 

 悪意なく、率直な口ぶりで白爺はそう言った。

 彫りの深い、皺だらけの面相には、枯れた雰囲気が染みついている。そこから臭ってくるのは、孤独と達観。それらの根底にある、常人では計り知れないドライさ。あるいはそれは、一種の悟りであるのかもしれない。

 しかし、クロウは、

 

「だったら、オマエが一番、最悪だな……あの<蛇遣い(ヴァトラー)>とおんなじだ」

 

 と語気を強めて吐き捨てるように言い切ると、クロウは今一度周りに視線を走らせ、

 

「数百、か……やっぱり、これを使うことになるぞ」

 

 一国を滅ぼせる総戦力の包囲網の中、独り言のように声を零す。

 この絶望するしかない光景を目の当たりにしてもなお、落ち着きを払う彼は、蒼銀の法被の内ポケットからその紙袋を取り出し、中からカプセル錠剤を、2、3個、掌の上に落とす。

 

薬丹(くすり)か。なんじゃ仙人にでもなるつもりか?」

 

「―――能力増強剤(ブースタードラッグ)、っていうものだ。能力を“数百倍”にもする効果がある」

 

 昨夜の手合わせで、その実力はおおよそ測り取れた。<白石猿>の方がまだ多くの手札を温存し、実力が上だというのを<黒妖犬>は正確に理解していた。何よりも主人を捕らえ、師父を倒したことを知っている。

 だから、矢瀬先輩に無理を言って頼んだ。

 

『いいか、クロ坊。これは、まだ服用許容限界(セーフティライン)がわかってなかったときの旧型試薬(プロトタイプ)だ』

 

 だから、無理だと思ったらすぐに吐いて捨てろ。

 

 試しに半錠舐めてみたが、いつになく先輩が真剣な表情で忠告した危険性はわかった。

 これは、かつて自ら実験動物を志願した、<禁忌四字(やぜ)>の一族の女性をひとり、廃人とした劇薬だ。

 だがこのハイリスクに見合うだけの効能はあった。

 不思議なことに、一族の者に合わせて造られたはずの増幅薬は、クロウの身体にとても馴染んだのだ。

 

 

 ごくん、と呑み込み、すぅ、と深呼吸―――

 

 

 途端、<白石猿>は、ごっそりと裡から持っていかれた。匂いが、感情が、記憶が、そこにある“情報”を読み取られた。いいや、嗅ぐ(みる)だけに留まらず、“()われた”。如意棒も手放した白猿人は、急激な失血時のように地面にしゃがみこんだ。

 ―――ぬぐっ!? これは、姫の―――いや、『原初』の―――

 <第四真祖>が、世界最強と謳われる割に幻の存在とされたその要因、唯一足りない『固有体積時間』を埋め合わせるために行われる、記憶搾取能力。

 すなわち、絶対強者に許された補食権能。

 まさか、爆発的に高められた『芳香過適応』はその領域にまで達したというのか。

 <黒死皇>のものではない、所詮は弱者(にんげん)超能力(ちから)だと軽視していたそれが。

 

「ああ、オレとオマエは経験値が違う」

 

 能力増強剤は、きっかけだ。

 かつての戒めで無意識に制限を課していた超嗅覚の“蓋”を外すための。

 

「だがな、それは現時点ではだ。この先の未来でもその壁は超えられないと思うほど絶対的なものじゃない。だったら、オレはオマエを踏み台にして、その伝説を過去の話に変えてやる」

 

 その高みに至るための第一歩を、前に踏む。

 これから昇る(いどむ)のは、神話の時代を知る生きた化石。

 

 

 

「いくぞ、世界最古の獣王(ロートル)―――オマエが積んできた“歴史”、呑み尽してもオレの腹を、この思い上がりの底まで満たせるか」

 

 

 

つづく


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