ミックス・ブラッド   作:夜草

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奈落の薔薇Ⅲ

彩海学園

 

 

 自動車爆弾によるテロ事件の映像は、その数分後にはインターネットを経由して、全世界に配信されていた。

 雲ひとつない青空へと濛々と立ち昇る爆煙。あまりにショッキングで映像あるため画像処理はされていたが、車内から飛び出た“中年男性と思しき肉片”……

 

 この自動車爆弾に巻き込まれた犠牲者は、運転手に秘書の人工生命体(ホムンクルス)、そして、人工島管理公社の矢瀬名誉理事。

 この身元は、特区警備隊の科学捜査――DNA判定で明らかなものとされている。

 

 

 

「……古城君」

 

 南宮クロウは、彩海学園の保健室にいた。

 登校のためではなく、調査のために。

 <タルタロス・ラプス>の構成員と思われる<白石猿(ハヌマン)>の襲撃。そして、上級理事殺害の方を受けて、すでに学園は授業を中止し、生徒たちを帰している。

 

『あの男がくたばるはずがない! 絶対に何かの間違いに決まってる!』

 

 矢瀬基樹は、ここにはいない。管理公社の室長であり異母兄である矢瀬幾磨と、<タルタロス・ラプス>と父である矢瀬顕重の死亡が本当であるかと情報交換をするため、キーストーンゲートへと向かった。自動車爆弾を警戒し、車での移動は控えるようにと決めたため、空間転移のできる仙都木優麻に付き添ってもらい。

 そして、本部で確認を取っている間に、南宮クロウは、アスタルテをお供にして現場へと赴いたのだ。

 

「―――心臓衰弱、神経及び骨格筋の麻痺、内臓機能低下、呼吸困難、弓ぞり反射、瞳孔散大、そして、急激な血圧の上昇低下が全身の各部位で無作為(ランダム)に発生……毒性の分析失敗。表出する症状の確認困難。

 ―――推定。この毒は被害者の肉体組成(たいしつ)に応じて、自ら性質を変化しているものと思われます。解毒剤を投与したところで、その解毒剤に耐性のある性質に自律変化するものと予測。毒の変化パターンを解析し、完全な解毒に至るには、変化以前の原液(オリジナル)が必要とします。

 ―――……現状を放置すれば、いずれ<第四真祖>すら致死するものに化ける恐れがあります」

 

「っ」

 

 その荒唐無稽な診断結果を聴き、笑うものはひとりもいなかった。

 『意思を持つ武器(インテリジェント・ウェポン)』の細菌兵器版―――『意思を持つ劇毒(インテリジェント・ウィルス)

 死んでも復活する不死身の真祖ですら時間経過で自然治癒するどころか、悪化の一途を辿り、“死に続ける”事態になるという。

 

 この刻一刻と変化する毒性を相手にして、診断するアスタルテは視線を伏せ、記憶――記録の海へと、手を伸ばしている。

 元々医療用の人工生命体として生み出された彼女の記録回路から治療法を検索するもなにも掴めず。

 

 だが、解毒を諦め、目的を別に向けた時、細い細い糸のような吉報があった。

 

「―――対症療法の効果確認」

 

 どうしようもないほど細い呼吸―――それが少しずつ深くなり、

 止め処なく口元の端から拭き出していた泡―――それが少しずつ小さくなり

 一分間に何度となく起きた突発性の全身痙攣―――それが少しずつ頻度が減り、

 クロウらが到着した時には、聞くに堪えない呻きが反響していた保健室内は、今はくぐもった苦悶にまで落ち着いていた。

 最悪から最低になっただけのものでも、見ていられるまでにはなっていた。

 完全な回復は望めなくても、しばらくは延命できる。そう、判断した。

 

「古城は無事なの!? 助かるの! ねぇ!?」

 

「藍羽さん……」

 

 告げられた診断に、髪を振り乱して反応したのは、騒ぎを聞きつけて古城を探しに来た浅葱だった。

 

「古城は<第四真祖>じゃないの!? だったら、毒くらい、血とか吸えば元気に―――」

 

「現状、第四真祖は吸血行為にも及べぬほどその力を喪失しております。治療にはまず原液を入手し、一時的でも吸血鬼性を取り戻さなければなりません」

 

 そして、制限時間はおよそ半日。

 

「この薬が切れたら先輩は……」

 

 その展開を予期して言い淀む雪菜。

 心配するのは、薬の量。

 唯一、『意思を持つ劇毒』を抑えられたのは、彩海学園の半ば私有化されている理科準備室に保管されていた、『冬虫夏草』を材料に南宮那月の作り置きしていた万能薬(パナケア)のみ。

 その材料も稀少であるが、何よりも秘薬を作れるための魔女本人がいないのだ。

 

「どの道……オレのやることは変わってないってことだな」

 

 重く、呟きをこぼすクロウ。

 この現場で見るべきものは見た。この校舎内にあった“残り香”は嗅ぎ取れた。下手人を捕縛する。その際に下手人が有する薬丹を入手することが書き加えられただけのこと。

 

「アスタルテ、どのくらいまで頑張れそうだ?」

 

「……保って半日と推定」

 

 薬の量を逆算して、対処療法で維持できる時間を機械的に予測する。

 彼の取るだろう行動を、アスタルテは訊かずとも把握していた。

 この誰よりも真っ先に最前線に行ってしまうような先輩なら、きっと暁古城を救うべく、襲撃者たちを捕えようとするだろう。医学知識のあるアスタルテとは違い、治療面で役立てないことは彼自身が一番にわかっている。

 でも。

 果たして、それで間に合うだろうか。

 挑む敵は彼の主人に師父をも降すような相手だ。それもまともにやり合うことさえも至難。

 それでも行くだろう。

 可能とか不可能とか、そういったことは彼の足を止める理由とはならないのだ。

 故に、できるのであれば、先輩についていきたいが……そうではない。アスタルテは、この後輩として、入力(インプット)している限りの薬品と治療を検索する。まだ教官(マスター)の私物化してる準備室を探せば、役に立つものが見つかるかもしれない。

 

「他の薬剤を試験し、もう数時間、引き伸ばしてみせます」

 

「わかった。ここは任せたのだ」

 

命令受託(アクセプト)

 

 保健室から出ようとする、その前に、未練げに呼び止めようと腰を上げる雪菜をクロウは何かを言う前に制した。

 

「姫柊は、古城君の監視役だろ? なら、ここにいてくれ」

 

「クロウ君、ですが私は獅子王機関の剣巫として、この事態を看過しておくのは」

 

「うーん、別に姫柊が頼りないとか言ってるわけじゃないけど、今の姫柊はあまり集中できそうにないのだ」

 

 っ、と図星を突かれ、表情を歪める雪菜。彼女自身も、この場を離れることはできない、とわかっているのだろう。こんな苦しむ古城を放置するのはできない、と……

 

「こっちはこっちでやるから、姫柊は古城君のことを頼むな」

 

 そして、その判断を下す前に、クロウは雪菜を置いて部屋を出た。

 

 

 

 学園を出る前に、クロウは宿直室に寄った。

 覗いてみれば小部屋に最低限ではあるが、接客の形が整えられている。勝手知ったる我が家とばかりに、クロウの師父でもある笹崎岬がわざわざ最上階にある国家攻魔官(せんぱい)の自室よりティーセットを取り出し、人数分プラスひとり分の茶葉を入れ始めているところだ。

 笹崎岬、それからソファで眠っている暁凪沙――今も昏睡している彼女は実兄が苦しむ様子を伝えさせぬようにと配慮し、こちらに移されて――と彼女を看護する叶瀬夏音とニーナ=アデラートら、この四人分プラスひとり。

 

「お、ちょうどいいとこに来たり。お茶が入ったよ、クロウちゃん」

 

 見つかった岬に、クロウは勧められる。

 

「師父、オレ、ちょっと急いでるからあんまりのんびりしてられないのだ」

 

「まあまあ。めまぐるしくて大変だったでしょ。だから、ちょっとここらで一服するぐらいは必要だったり。心身の休息は取れるときにしっかり取るってちゃんと教えたよね? でも、今日はお昼ご飯を抜かしてたりするんじゃないクロウちゃん?」

 

 茶目っ気たっぷりに片目を瞑り、ポットの蓋を置く。

 すぐに、いい香りが空間に広がった。

 きっと先輩の那月に後輩指導の一環で仕込まれているのだろう。岬師父の淹れるお茶は、いつも嗅ぐ“匂い”ととても似ていた。

 

 きゅぅ、と鼻腔が擽られて、気と一緒に内臓筋も緩んだのか、腹が鳴った。それを聴かなかったことにしたいように、そっぽを向きながら。

 

「……一食くらい抜かしても平気なのだ」

 

「だーめ。ね、叶瀬ちゃん、この子、朝ちゃんと食べた?」

 

「いいえ。いつもの半分も食べてませんでした」

「うむ。夏音の言う通り」

 

 この師弟のやり取りを邪魔しないようにしていた夏音も、めっとあまり迫力はないもののクロウを叱りつけるような目でみて、ニーナもそれに同意するよう何度も頷いた。

 

「やっぱり。これじゃあクロウちゃん、半分もチカラがでなかったり。ほら、今、レンジで肉まんを用意してあげるから、おいで」

 

 と、紅茶を淹れたティーカップを前に差し出して、『うん、上出来だったり』と岬は軽くその香りを楽しんだ。

 クロウも師父の誘いをこれ以上は拒み切れず、部屋に上がり、一口茶を口に含む。

 

「クロウちゃんは、那月先輩の先生とやり合ったんだって?」

 

 と、宿直室の冷蔵庫にある冷蔵肉まんの袋を開けながら、岬が訊いた。

 もう一口。

 紅茶を飲んで、言葉を考える時間を稼いでから、

 

「そうだぞ」

 

「感想は?」

 

「……すごそうなやつだとは思ったぞ。サンガシャショクズとか言う魔導書を使ってたのだ」

 

「そっかそっか、<山河社稷図>ねー……そんなものまで見つけてくるなんて、ちょっと驚いたり―――でも、それだけじゃないでしょ、クロウちゃん」

 

 クロウは言葉を窮する。ややふて腐れるように、

 

「師父は何でもお見通しだな」

 

「はっはっは、これでも教師やってるしね。それに弟子の考えてることくらい師父にわかって当然なのだよ。でも、クロウちゃんの顔が特にわかり易かったのもあったり」

 

 むぅ、と唸りながら、自分の顔を触るクロウ。

 そういえば、ここにいる夏音や後輩のアスタルテにも指摘されたがそんなに顔に出てるのだろうかと少し悩む。

 

「まあ、私はちょっとすぐに戦線に出れるような状態じゃないけど、悩める弟子の愚痴くらいは聞いてあげたり」

 

 岬は、<白石猿>との戦闘で負った怪我で、日常生活には支障はなくとも戦闘での動きには後れを取ってしまう、とみている。

 

「ほら、お食べ」

 

 チン、となった電子レンジから取り出した肉まんを前に出される。正直、紅茶の香りに混じる肉の香りは色々と台無しにしてしまってる感はあるものの、それでもそういうのに頓着しない育ち盛りの少年には大変いいものだ。

 師父に礼を言うと、肉まんを頬張り、口いっぱいにもぐもぐと咀嚼し、呑み込んでから、ぽつりと呟くように、

 

「なんとなく、“匂い”が気に入らなかったのだ」

 

「そんなに臭かったり?」

 

「違うぞ」

 

 そう。

 誰かと訊く前に、振り向く前から、南宮クロウにはわかってしまった。

 

 

「ご主人と、“匂い”が似てたのだ」

 

 

 この男が、主人の先生であると……

 どうしようもなく、よりにもよって、わかってしまったのだ。

 

「クロウちゃん、クロウちゃんがすごく便利で不便な超能力(ちから)を持ってるのはわかるけど、それがすべてじゃないってことも教えたよね……?」

 

「う、わかってるぞ。『鼻』にばかり頼っちゃダメなのは。でも、オレはオレの意思で選ぶためにも、オレがオレの感じたことをウソだってことにはしたくない」

 

 たとえそれがどんなにウソだと思いたくても―――

 

 そして。

 胸の裡をいくらか吐き出して、それでも結局迷いは晴れぬまま、クロウは席を立つ。

 

「夏音、ちょっと古城君が大変だから、凪沙ちゃんをこっちのマンションで泊めてやってくれないか? あそこは結界が張ってあるから安全なのだ。……ご主人がいないけど、ニーナなら稼働でき(つかえ)るだろ?」

 

「うむ。この大錬金術師であるニーナ=アデラートには造作もない。大船に乗ったつもりでいるとよい」

「はい、でした。クロウ君、あの……」

 

 夏音は呼び止めようとして、けれど言葉がまとまらず。喉が固まって、その先から声は出なくなってしまう。

 岬もまたこの<過適応者(ハイパーアダプター)>独特の感性にはそう易々と踏み込めるものではなくて、言葉を投げかけることはできないでいる。

 

 主人は捕まり、

 師父は倒され、

 先輩は苦しみ、

 

 後輩も同級生も頼れる状況状態ではなく、考えれば考えるほど、クロウは肩に重いものを感じる。

 

 心音は静かで、武者震いもない。

 この重圧を乗り越えたのでも押し潰されたのでもなく、何も感じていないからだ。これからどうするのか、自分は何を選ぶのか、まだ決めきれていないからだ。

 ただ、ここで勝たなければ破滅するというだけがわかっている。

 だが、これを戦う理由とするのは、森を出る前の“成り行きで”死に場所を彷徨っていたかつての『九番(おのれ)』と同じになってしまうような予感がする。

 でも、このまま憂いに沈んでいられる場合ではない。

 

 

「ぁ、ふ……」

 

 

 そんなときであった、小さなあくびをクロウの耳が拾ったのは。

 

「良い匂い……紅茶と、肉まん? ……それに……」

 

 うん? と思ったクロウの鼓膜を、もう一度、そのちょっと舌っ足らずな、子供っぽい発声が叩いてくる。

 振り向けば、寝惚け眼をくしくしと擦りながら、ソファから起き上がる眠り姫の少女。

 そのまだぼやけてる目の焦点が、クロウにあった時、

 

「やっぱり、クロウ君だぁ」

 

 ぱあっと、少女の顔が輝いた。

 あまりに嬉しそうな笑顔なので、クロウは驚いて足を止めてしまったぐらいだった。

 

「凪沙、ちゃん?」

「うん!」

 

 もう名前を呼んだだけで、こんな笑顔で祝福されるのは嬉しくも思うが、クロウはきょとんと瞬きする。

 

「ね、クロウ君、お隣来て」

 

 なんだか不安になるくらい精神年齢が低下してるというか、すごく頭がぽやぽやとしてるが、こちらは急がねばならない事情がある。

 そう立ち止まったままでいると、凪沙の顔が、くしゃりと歪んだ。

 

「来て、くれないの……?」

 

「むぅ……」

 

 その顔をされると、少年は眉をハの字にして困ってしまう。

 ついでにこの1:4の男女率でアウェーであり、視線が刺さって針鼠な状況。

 師父も、同居人も、大錬金術師も、『ここで行くのはダメだったり(でした)』や『据え膳食わねば男の恥じゃな』と目で訴えてくるのだ。

 だったら、側にいるくらいで満足するなら、もう少しぐらい腰を落ち着けてもいいようにも思えてくる。

 

「う、ん……ちょっと、だけな?」

 

「やったあ!」

 

 あっさりと、少女の表情が笑顔へ反転する。

 万歳して体全体で喜びを表現するその仕草は、ひどく幼く映る。高めに見積もっても、精々が、5、6歳の女の子の反応である。

 

「ね、クロウ君、お隣に来て」

 

 と、二人きりの空間ではないはずのだが、何も言わず女性陣はスペースを空ける。

 それから、どうぞどうぞ、とか、ファイトでした、など口ほどに訴えてくる眼力に誘導されて、退路を失ってるクロウは歩み寄り、ソファの近くに来たところで、袖を引っ張られる。

 蒼銀の法被の袖を掴む柔らかな力。しかしどうしてか、振り払うことは無理だなとクロウは思う。抵抗する以前にその選択肢も考えられないというような、力の有る無しに関係ない問題である。そんな優しい力に、ソファの隣にこてんと座り込まされた。もちろん、合気のような特別な技術など使ってはいない。

 それから腕に抱きつくようにしなだれかかり、肩に顎を乗せてべったりな体勢から、間近で見上げるようにして、凪沙が言う。

 

「クロウ君、背高くなってるよね?」

「そうか?」

 

 頭を掻く。

 そのクロウを、むー、と凪沙がジト目で頬をぷくっと膨らませて睨む。

 

「ん、オレも成長期に入ったんだなー」

「ダメ。私よりも先に成長期に入るなんてダメだからね!」

 

「ぬ。そ、そうなのか?」

 

 当然、と言わんばかりに、少女がこくんと頷いた。

 

「うん。不公平。クロウ君はまだ小さいままでいいの。大人になるとクロウ君は危険なんだから」

 

「よくわからんけど、なんか凪沙ちゃんより、オレの方が理不尽な気がするぞ?」

「だって、私は毎日頑張ってるのに、全然おっきくならないし、もう~~~っ!」

 

 ポカポカと駄々っ子パンチをやられる。

 理解はできていないのだが、不条理に嘆いているのはわかったのでクロウは甘んじてサンドバックとなる。

 

「わかってる? クロウ君、私の話をちゃんと聞いてなきゃダメだよ!」

 

「うんうん、ちゃんと聞いてるぞー」

 

 言いながら、ふと、自身の唇がほころんでいることにクロウは気づいた。

 なんだか、いつもと違うようで、根っこのところはさほど変わってないような気がする。わかるのは、きっと普段より素直になってるのだろう。

 ―――そう。

 素直になるということは、きっと難しいものだ。

 それも年をとればとるほど、どんどん難しくなっていく。

 分厚い仮面の上に、年々さらに仮面をつけ重ねていくのが、多分、大人になっていくことなのだろう。堂々と素顔を晒すのは、とても怖くて、そして恥ずかしいこと。今は何枚か仮面を夢の中にでも落としてしまっているのだろうが、この少女もそれは変わらない。それから、主人も……

 

 肉体の時間は止められても、それ以上の仮面をつけてきた主人は、どんな理由で重ねてきたのだろう?

 

 きっとこの『鼻』は素顔の本心まで暴いてしまうような、恥知らずな力で、それに頼るのをクロウは望まない。

 

「……何か、他の(ひと)のこと考えてるでしょクロウ君」

 

 むぎゅ、と横から頬を抓まれる。

 なんだかよくわからないが、やっぱり自分の顔はそんなにわかりやすいのだろうか、とクロウは思い、それから隣の少女がご立腹なのが“匂い”を嗅かずともわかる

 

「べつに私につべこべ文句言う資格はないけどさー。そういうの、マナー違反だと凪沙は思うよ」

 

「むぅ、そういうものなのか?」

 

 と置物のように傍観してる女性陣に視線を投げて訊けば、うんうん、と頷かれて―――ぐいっと、凪沙に両手で挟まれて顔の向きを真正面に修正される。

 それから、笑顔で。

 

「マナー違反、だよクロウ君」

 

「わかった、理解したのだ」

 

 よし、と頷く凪沙を見て、人間関係の難しさを悟るクロウ。

 と物分りの良いことに機嫌を良くした凪沙はにこにこ……とから、ぽやーっと熱に潤んだ視線を向けたまま、動かなくなった。

 

「凪沙ちゃん? 大丈夫か?」

 

「……ううん、なんでもないよクロウ君」

 

 クロウの身体に腕を回し、胸に顔を埋めて、この実感を味わうように目を瞑る。

 

「やっぱり、落ち着く」

 

 そうマーキングのように頬を擦りながら満足げに、凪沙は微笑んだ。

 童女のような笑みだった。ほんの5、6歳までの間の子供が、安心できるものにだけ見せられる、純粋な笑み。

 

「クロウ君は、怖くない」

 

「そうか」

 

「クロウ君は、温かい」

 

「そうか」

 

「だから、クロウ君は、強いんだね」

 

「そう、なのか?」

 

 相槌を打つのが固まり、疑問符を浮かべる。

 

「怖くないのに、強い? それなんかおかしくないか?」

 

 強いから怖い、怖いと思えるのならばそれは強い。この両立する比喩に、異論をはさむ余地はないはず。

 

「おかしくないよ。クロウ君は強い」

 

 その発音は、普段の少女のものだった。

 表情も、すっと大人びている。

 この今あるのは、年相応の顔で。

 でも、ひどく素直に、真っ直ぐにこちらを見つめてる―――それだけは変わらない。

 今よりもずっと多感で敏感な超感性に冴えていた幼い凪沙と、今の凪沙が、秒瞬の間に、交錯しているよう。

 

「クロウ君は、怖くなくて、温かくて……だから、強いの……私は、そう信じてる」

 

 ―――――かっくん、と。

 言い切ってから、凪沙は頭と目蓋が落ちて、クロウの膝を枕にまた眠りについてしまった。

 少年は言葉の意味に首を捻りながら、困った風に微笑んだ。

 安らかに寝息を立てているこの少女を、一体どうやってどかせばいいか。クロウはなるべくそっと動いて、今度こそ(ソファ)を立つ。

 

「良いこと言ったね、凪沙ちゃん」

 

 と、にやにやと笑ってる師父の岬は頷きつつ、

 

「クロウちゃん。すごく大変な相手なのはわかってるけど、それでも手加減を止めちゃダメよ」

 

『人類史で人類が積み重ねた悪業の総集のひとつであり、人間の獣性から生み出されたも同然の殺神兵器―――俺が先生ならばもっと強くしてやることができた! それこそ<空隙の魔女>や<黒死皇>以上に……っ!』

 

 主人の……主人と同じ“匂い”のした先生は、殺し技を教え込めなかったことを、大層悔やんだ。

 ―――だが、徹底して人並みの加減を仕込んだ己の師父は、それを鼻で笑った。

 

「手加減を止めて本気を出そうなんて、そんなのは逆効果だったり。殺戮機械(むかし)みたいにわかりやすい攻撃力を出そうと意識すればするほど、クロウちゃんはどんどん弱くなる。これは絶対。だから、間違っても暴力で張り合おうとしちゃダメ」

 

 そんな師父の言葉に、クロウは何も返せない。

 そもそも少年は自分の本当の価値に気づいていない。それを意識していないからこその強みなのだから当然ではあるのだが。

 

「きっとそれは先輩が望んでいるものだろうから」

 

「……う、わかったのだ、師父」

 

 そこまで言われれば、南宮クロウは頷く他ない。

 そして、それから、と弟子の背中に送る言葉を続ける。

 

 

「先輩はクロウちゃん以外を、“自分のもの(サーヴァント)”だなんて呼んだことはなかったり」

 

 

 

 で……

 

 

 

 “夢”を見ている(と思っている)少女。

 

「あ、目が覚めました」

 

 心の清らかさが声に表れているかのような聖女の呼びかけに応じ、意識を眠りから浮上させる。

 

「……んぁ、夏音(かの)ちゃん?」

 

 視界を傾ければ……何か微笑ましいものでも視るようにこちらを見ている親友の姿。

 それを訝しむも、“夢”を思い返して頬を緩める。

 とても、心地の良い“夢”であった。

 でもありえない“夢”であった。

 あんなにも“彼”にベタベタにくっつくなんて今の凪沙には無理で、三文字(なまえ)を意識するだけでも表情温度が上がってしまう。下手すれば鼻血を噴く恐れだってあるのだ。

 まあ、それができないとわかっているからこそ、ああ“夢”なんだなあと理解できたわけなのだが。

 

(……でも、いい“夢”だったなあ)

 

 そう、昼休みからの記憶が抜け落ちているのに、“夢”の内容は鮮明に覚えているくらいに。

 寝起きのぼんやりした頭のまま、凪沙は赤面した。思い返した“夢”の自分が、あんまりも幼いというか、ふわふわし過ぎていて恥ずかしくなったのだ。

 ちょうどこの部屋で、このソファで、“彼”にこれでもかと甘える―――そんな“夢”。

 

(今日のクロウ君は何か感じが変だったけど、夢の中のクロウ君はやっぱりクロウ君で―――)

 

 ほっと夢の余韻に浸りつつ安堵する笑みを零す。

 恥ずかしかったが、再確認できて安心した。

 じゃあ、そろそろ時間を確認して、どれくらい自分が眠っていたか―――

 

「凪沙ちゃん、昼ご飯食べてなかったみたいだからお腹減ってたり? はい、紅茶と肉まん」

 

 と前のテーブルに置かれたのは、温め直した紅茶とレンジで蒸かした肉まん。

 その葉の香りと肉の匂いでなんかか台無しにしてる感のある組み合わせは……………嗅いだことがあるような気がする。

 いや、厳密には何かひとつ大事な匂いが欠けているというか……でも、夢の中で見た光景と重なる。

 ……うん、そう。改めて思い返してみると、この部屋の内装、今まで眠っていたソファも、記憶と合致している。不思議なことに。

 

(う、ううん! 違う違うあれは夢だよ夢! だって、ここにクロウ君はいないし! ねっ―――)

 

 視界に、この四人しかいない部屋の、テーブルの上に、五人目の空のティーカップが、入った。

 答えに一気に近づいてしまった気がする。

 熱っぽくて、ふわふわした感じで、思い返せていた“夢”が急に醒めていく。

 できれば答えは知りたくないのだが、ここまで想像が進んでしまった以上は確認しておかないと気になって安心できない。だから、看護してくれた(みていた)と思われる夏音に凪沙は言葉少なに主語を省いて尋ねた。

 

 

「ね、ねぇ……………来てたの?」

 

「はい。クロウ君はもう行きました」

 

 

 かっちんと、時間が止まった音が聴こえた。

 温かみのある聖女のお言葉に、瞬間冷凍。もう早送り映像のように、“夢だと思っていた”記憶が高速で舞い戻ってきて、脳が処理落ちした。

 そう。

 あれは、“夢ではなかった”のだ。

 

「……………ぃぁ」

 

 再起動直後、小さな悲鳴が唇から零れて、

 

 

 

「きゃあああああああああああああああああああああああああああああっ―――!」

 

 

 

 校舎内全体に響き渡るほどの絶叫を上げてから、卒倒。

 こてんとソファに三度倒れ込んだ凪沙に、まあ、と夏音は口元に手を当てて、

 

「凪沙ちゃん、また寝てしまいました。どうしましょう」

 

「仕方があるまい。これ以上ここの世話になるわけにはいくまいし、暗くなる前に家につきしな。今日は帰ってこんだろうし、小僧の部屋にでも放っておけばいいだろう」

 

 この古の大錬金術師の気遣いで、“彼”のベットの上で目覚めた凪沙は、禁句(クロウ)過敏症がさらに症状が悪化した。

 

 

???

 

 

 『魔族特区』は最先端の建築技術の粋をこらした超大型浮体式構造物(ギガフロート)であり、魔術的な意味を持つ『祭壇』である、絃神島。

 東西南北と四分割した四基の人工島で構成されており、それぞれが独立して可動することで暴風波浪の影響を上手く躱すように計算されて設計されている。

 そしてそれぞれの地盤には、四聖獣の属性が付与されている。

 北には玄武が座して、霊脈の力を引き寄せる。

 東には青竜が座して、霊脈の力を増幅する。

 西には白虎が座して、霊脈の力を制御する。

 南には朱雀が座して、霊脈の力を留め置く。

 すなわち風水における四神相応の理であって、それらを包括する絃神島はそれ自体が巨大な風水呪術装置として活用できるものなのだ。

 その絃神島の構造自体を利用して、法奇門の要とする。つまりは絃神島そのものが動力源となっており、だから半径百km以上という、途方もなく巨大な結界を展開することが可能だったのだ。

 そして、この八卦陣を呼び水として、『四聖』の守護の属性の対極である『四凶』の人類悪(ビースト)を絃神島に召喚するように改変(リライト)したのが、今回、絃神島で千賀毅人の描く<タルタロスの黒薔薇>―――

 

 

 

 その場所は、かつては多くの人々で賑わう商業施設であった。

 ポップな装飾やカラフルなワゴン車―――そんな楽しげな雰囲気の忘れ形見たちが、この寂れた広場に放置されている。

 そんな広場の片隅に積み上げられたゴミの山。動かなくなった建設機械や廃車の部品。テレビや冷蔵庫などの家電製品に粗大ごみ。これらは忘れ去られた『宴』の跡地――人工島旧南東地区(アイランド・オールドサウスイースト)が廃棄された後に、心無い人々に不法投棄されたものだ。

 

 その廃棄物の中に紛れて、真新しい発電機と通信機、そして防水処置を施された大型のコンピューターが稼働していた。

 

 ここが、破滅を祈願する儀式の基点――<タルタロス・ラプス>における『七星壇』だ。

 

 粗大ごみの下に隠してあり、そして、コンピューターに繋がるネットワークケーブルの一部が、地面に直に体育座りをしているひとりの少女と接続されていた。

 

「―――『特区警備隊』のセキュリティ、ハッキング完了」

 

 そこそこに整った顔立ちだが、無表情で目つきが悪い。首には長いマフラーを巻いて、だぶだぶの分厚いコートを着ている。

 

 彼女は、首と背中の端子(コネクタ)を経由して、脳が、直接コンピューターネットワークと繋がることができ、それにより並の技術者では比較にならないほどのハッキング能力を有している。

 ただし、戦略級コンピューター並の情報処理の能力を手に入れるために脳内で常人の16倍もの微細化された神経回路が張り巡らされており、無論、生きた人間の脳がそんな膨大な情報処理を行うのは無理だ。細胞の代謝だけでも神経は焼き切れる。

 ―――だから、彼女の肉体は、死霊魔術(ネクロマンシー)によって動く死体。いわば、『魔族特区』の違法な実験の果てに生み出された脳改造版人造人間(フランケンシュタイン)なのだ。

 ―――だから、彼女にも『魔族特区』に復讐する権利があり、<タルタロス・ラプス>の一員としての資格がある。

 

「ラーン、<タルタロスの黒薔薇>の楔は打てたかい?」

 

「カーリとロギ、ディセンバーの仇を討った」

 

 千賀の問いかけに、ラーンと呼ばれた少女は起伏の乏しい声だが、しっかりとVサインを作った。

 表情は相変わらず変化のない無表情であるものの、達成した仕事に誇らしげな風である。

 

「よくやった、ラーン」

 

「先生、ディセンバーは、無事?」

 

「安心していい。捕まったけど、傷ひとつないよ。まあ、子供たちの前で辱められたせいか、今はちょっと機嫌が悪いみたいだけどね」

 

 隠れ家を出る前に千賀が見たときは、状況を理解してから生娘のような悲鳴を上げたり、地団太を踏んでうんうんと魘されてたりした。顔は真っ赤だったが、元気な様子で問題はないだろう。

 

「……許さない、<黒妖犬(ヘルハウンド)>。よくも、ディセンバーを……」

 

 淡々としているだが、ラーンの声に深い憤りが篭っているのがわかる。

 代々と継いで『魔族特区』を破滅してきた<タルタロス・ラプス>の次世代の若者たちは、3人ともディセンバーの恩人であり、その人柄に惹かれている。彼女のために役立てるのであれば、その命さえも惜しくないだろう。

 ディセンバーが泣けば、ディセンバー以上に悲しむ。

 ディセンバーが喜べば、ディセンバー以上に嬉しい。

 ディセンバーが怒れば、ディセンバー以上に憤怒する。

 千賀も先生として尊敬はされているが、やはり優先するのは、恩人であり家族でありリーダーであるディセンバーの意思だ。

 

 つまり、理事長暗殺を阻止された以上に、ディセンバーを捕まえたことが彼らの逆鱗に触れたのだ。

 

「残念だが、ラーン、<黒妖犬>の『首輪』は、魔族登録証とは別物だ。君には干渉できない」

 

「わかってる。でも、許さない」

 

 やれやれ、と千賀は嘆息する。

 嫌な色を帯びた瞳。

 これはラーンだけではない、カーリもロギも、同じだ。

 

 人間と魔族のどちら側にもつけなかった半端者(カーリ)

 倫理を無視して超能力を植え付けられた実験体(ロギ)

 生物の限界を超え戦略兵器に改造された違法物(ラーン)

 

 同年代で、“同族”。

 教え子のどれにも当てはまる被害者の総まとめした経験をしながら、

 誰よりも<タルタロス・ラプス>であるべき在り方をしていながら、

 千賀たちと敵対する、この滅ぼすべき『魔族特区』の守護獣となっている。

 もしも千賀が教育できていれば、<黒死皇>のように強大な次世代のリーダー、そして、<タルタロス・ラプス>を率いるに相応しい復讐者(アヴェンジャー)となれていたはずだろう。

 

 だから、この素性を調べて、彼が歩んだ経歴を知ったからこそ、“どうして”、という想いが強くなるのだ。

 

 <黒妖犬>は、危険だ。

 ある意味で、『特区警備隊』や他の『魔族特区』の戦力が<タルタロス・ラプス>を危険視するよりも、遥かに根源的な地点であの少年は“毒”を秘めていた。

 これまでの生き方を、根こそぎ破壊しかねない“毒”。

 その“毒”は、絶対と信奉している価値観を大きく揺さぶり、後ろを向かず突き進んできた道のりをごくあっさりと台無しにしてしまう。『芳香過適応(リーディング)』という感性が子供たちの事情を嗅ぎ取ってしまうために、抵抗し難い甘さと浸透力さえ備えている。

 だから、許さない。

 この存在を許してしまえば、<タルタロス・ラプス>でしてきた自分たちの活動は意義を失いかねない。

 決して相容れてはならない在り方と相対して、ラーン、カーリ、ロギらははじめて己自身の憎しみに愉悦する。

 

「なら、そのためにも、ラーンはラーンの仕事を果たすんだ」

 

 それを千賀は特に止めたりはしない。

 計画に支障をきたすほど一個人に執着するのは問題だが、彼らはより懸命に任された仕事をこなしている。ディセンバーを害した怒りだけでなく、あの分からず屋の同年代で同族に負けていられるかとばかりに燃える対抗心が加算されている。

 そして、千賀にも、教え子たちの心中が我がことのように理解できるのだ。

 何故、気づかないのだ?

 何故、わからないのか?

 何故、自分たちを裏切ったのか?

 

 この街に護るべき価値などないことに、この街はいずれ世界を滅ぼすというのに、どうして護るのか。

 

「―――ひっひ、若いの、<黒妖犬>は儂の獲物だと最初に言うたであろう?」

 

 広場に音もなく現れる白眉白髪白髭の翁。

 別行動でディセンバーからの依頼と、“ひとつの仕込みをしていた”<タルタロス・ラプス>の同士。

 

「まあ、儂が喰うにはもうちょい“熟れて”欲しいがの」

 

「<白石猿(ハヌマン)>、やってきたのか?」

 

「おうともよ。きっと姫もお喜びになるだろう」

 

「そうか」

 

 千賀は笑みを翁と同調させる。

 これで我々は、計画を無視してでも『魔族特区』を破滅させる“隠し玉”を手に入れられたということなのだから。

 

「儀式の仕込みは済んだようじゃが、発動までにはまだ時間がかかる。じゃが、それまで休むつもりはないんじゃろう?」

 

「ああ。上級理事の首はもういい。次は兵糧を狙う」

 

 

人工島東地区 大規模食糧備蓄庫

 

 

『申し訳ござらん! 『特区警備隊』のネットワークがウィルス汚染されて、拙者そちらのサポートに回る余裕がないでござる』

 

 通信機から電子的に合成された野太い声での謝罪。

 対テロリストチームである<戦車乗り>だが、元々は『侵入者の撃退』を得意とする凄腕の『迎撃屋(インターセプター)』として人工島管理公社に雇われていた非常勤職員(アルバイト)

 だから、公社の用心棒は、軍事用の強力なウィルスプログラムにやられた『特区警備隊』のフォローに回らなければならない。ただでさえ自動車爆弾テロで指揮系統が混乱している最中に、治安維持組織本部の中枢サーバーをほぼ完全に機能を狂わされたのだ。

 

『もともと『特区警備隊』の電子防壁(ファイアウォール)はザルだというのをよく女皇殿と愚痴ってたでござったが、泣き所をやられたでありますな』

 

 迂闊にウィルスを処理しようとすれば、接続した途端に逆にこちらが感染してしまうため、作業は慎重にやらなければならない。

 

『ですが、拙者、『大規模食糧備蓄庫(グレートパイル)』内の防犯用監視カメラは制御を取り戻しましたでござるよ』

 

 そして、怪しい輩を映像に捉えたからそちらへ向かってほしい―――

 

 

 

「ここにいるんだね、クロウ君」

 

「う、あいつらの“匂い”はここでしている」

 

 もうすぐ夜闇の天蓋に切り替わろうかという斜陽がさす刻。

 再び集合したのは、人工島東地区の倉庫街。四ヶ月と少し前、絃神島で連続魔族襲撃事件が起きていた頃に、“とある真祖の災厄級の眷獣”が暴走して、あたり一面を焼き払われた地帯で、ようやく再開発が終わった場所である。

 なので、建て直されたばかりの倉庫は小綺麗だった。余計な“匂い”が染み付いてないせいか、“異物”をより強く感じ取れる。

 

「<タルタロス・ラプス>の狙いは、『大規模食糧備蓄庫(グレートパイル)』にある絃神島の食料か」

 

「そうだね。テロリストは基本的に住民の危機感を煽らせて、社会不安を引き起こすのが目的だ」

 

「まったく、イヤなところばかりついてきやがる」

 

 舌打ちする矢瀬。それに同意するように嘆息する優麻。

 船舶事故や自動車爆破事件がニュースに流されても、今はまだ島全体でパニックとはなっていない。

 元々『魔族特区』はテロの標的になりやすい街であり、特に絃神島は台風や高潮などの被害も多い。そのぶん治安対策や防災への備えも充実している。交易が封鎖されていても、食料や燃料の備蓄も十分だということを絃神島の住人は良く知っているのだ。

 だが、自分たちの生活に直接的な影響が出るとなると話は違う。

 もしも絃神島の台所事情を支える倉庫街がまたも更地となったとすれば、民衆で暴動が起きかねない。

 上級理事たちも頼りとならない状況下で、上も下もパニックとなればこちらも相当厳しいものがある。

 

「一応、動かせるだけの警備隊を倉庫街で動かしちゃいるが、あんまり当てにはならねぇ。ついでに俺も戦闘面には自信がない。だから、頼りにしてるぜ、二人とも」

 

「ボクも戦闘は本職じゃないけどね」

 

「ん、任せるのだ矢瀬先輩、優麻」

 

 上級理事を殺害した爆破テロだけではなく、他の破壊工作の影響もあり、今回現場に赴いているのは矢瀬基樹、仙都木優麻、南宮クロウの三人。

 アスタルテは暁古城の延命に、リディアーヌ=ディディエは中枢サーバーのウィルス処理にかかりきりのため、こちらには回せない。

 そして、相手に強力な支配能力や厄介な変化能力を持つ者がいる以上、それらを無効化および識別する<黒妖犬>の傍に固まって行動している。

 

『皆さん、その位置から左斜め前方、ポイントC-7の位置でござる』

 

「あそこだね」

 

 『迎撃屋』の仕事と並行しながらも、こちらの案内(ナビ)をしてくれる<戦車乗り>に従い―――

 

 

 次の刹那、三人は、炎に呑まれた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 倉庫街を瞬いたのは、自動車爆弾の閃光だ。

 高性能の爆薬を満載し、金属片を撒き散らす自動車爆弾。軍用装甲車の性能でも容易には防げない威力を誇る爆弾と化した車両を事前に配置していた。

 そして、“誘導”されてきたところを、爆破。

 3年前に先生から、<タルタロス・ラプス>に合流したロギが教わった、自身の固有能力を最大限に活かせる“人殺し”の技術だ。

 

 爆弾の取り扱いにおいて、もっとも困難なのは爆薬そのものではない。意図通りのタイミングで確実に爆弾を起爆させる装置の調達である。優秀な起爆装置さえ準備できれば、爆薬などそこらにある肥料や小麦粉でも十分なのだ。

 また爆発物の捜索や解体においても、起爆装置の存在は重要な手掛かりとなる。当然、自動車爆弾に隠された起爆装置を特区警備隊は探したことだろう。

 しかし、それは見つからなかった。

 何故ならば、“起爆装置はない”からだ。自在に炎を操る超能力をもった天性の放火魔に、着火に道具に頼るような真似は必要ない。

 

 ロギは、6年前に<タルタロスの薔薇>で破滅させた『イロワーズ魔族特区』で『発火能力者(パイロキネシスト)』として生み出された軍用人工生命体(ホムンクルス)の実験体だ。

 もちろんそれは違法な実験だ。

 聖域条約により人工生命体には、準魔族としての権利が与えられており、軍事目的の生体改造は、国際法に違反している。

 そのため、存在が暴露された軍用人工生命体は、危険な存在として廃棄処分が決定されることになった。

 ―――そのとき、ディセンバーが彼を救った。

 

「やった! やったぞ! 誘い込まれたことを知らずにノコノコと……これなら人間ごと<黒妖犬>を―――!」

 

 感情の変動閾値の低い人工生命体が歓喜の声を上げる。

 ディセンバーに害し、被害者(ロギ)たちの存在価値を破滅させる<黒妖犬>は、必ず屠る。自動車爆弾で、この『魔族特区』の上級理事を爆殺した時のように―――

 

 

「自動車爆弾の件は聞いてたからね。当然、警戒していたとも」

 

 

 炎の中から声がした。透明感のあるアルトヴォイス。自動車爆弾を至近で受けながら、三人は、無傷でこの爆心地に立っていた。

 

「―――カーリ!」

 

 ロギが通信機に叫んだ。彼の焦燥が伝わるよりも早く、チカッと一瞬、遠くのビル屋上が光る。かすかに大気が振動し、大気を切り裂いて飛翔する弾丸―――それをレーダーのように敏感な肌が捕捉。

 ―――来たな。

 

「<黒雷(くろ)>―――ッ」

 

 バチンッと生体電流が弾けて迸る音が響き、クロウの<隠れ蓑(タルンカッペ)>に刻まれた身体強化呪術増幅回路の補助が働く。

 

「―――<若雷(わか)>ッ」

 

 膂力が倍加し、拳速が加速。衝撃変換をさらに加算。クロウの拳打が神速で飛来する膨大な魔力を篭められた貫通弾を捉える。炸裂音に似たインパクト音が倉庫街に響き渡り、衝撃波が爆破の残り火を吹き飛ばす。

 捻じりながら繰り出された拳は、霊視でさえ肉眼で捉えきれぬ音速の二倍以上で約1kmを突き抜ける対物ライフルによる超長距離狙撃に反応して、迎撃した呪式弾を残らず砕き破壊する。多重魔力障壁の防御さえ突破し得る呪式弾を粉砕せしめたのだ。

 

「そこか―――」

 

 本来聞こえるはずがない、狙撃手が驚愕に息を呑む音を、耳に当てていたヘッドフォンを外した少年は聴いた。

 

「どうやら、この案内(ナビ)は偽者。まんまと一杯喰わされたようだ」

 

 と言いながらも、余裕あるよう軽く肩をすくめて優麻は“合成音声で”指示を出していた携帯機器の通信を切る。

 <戦車乗り(バックアップ)>は、管理公社のサーバーのウィルス処理で二次感染されたらしい。

 この分だと応援の特区警備隊も偽情報に踊らされ、あらぬ方へと誘導されている可能性が高い。

 

「いや、探す手間が省けたぞ」

 

 こちらの作戦にかかっておきながら、真っ直ぐに視線を外さない不屈な金瞳。

 

「っ―――」

 

 ロギは、震える唇を千切るほどに噛み締めた。

 何故、通用しない。何故、何故、お前が敵に回る―――!

 

 

「落ち着くんだ、ロギ」

 

 

 倉庫街に新たな声が現れる。

 彫りの深い、渋い顔立ち。枯れた喜劇役者のような雰囲気が付き纏っている。

 

「先生……」

 

「どうやら彼女は魔女のようだ。魔導書の扱いがなかなかうまい」

 

 先生、千賀毅人はすっと指をさして、教え子に示す。

 <蒼の魔女>、仙都木優麻が手にしている魔導書を。

 そして、語る。いつもの授業のように教え諭す。

 

「魔導書は専門外だがね。見たところあれは、人為的に起こされた現象を拒絶する『予定調和』のものだ。だったら、あるがままの自然で対抗すればいい」

 

「ご謙遜を。<図書館>にも保管されていない仙界の魔導書を収集してるだけあって中々の博識ぶりじゃないか、千賀毅人。こうもあっさり魔術(マジック)の種を看破するなんてね、『東洋の至宝』は伊達じゃないってところかな」

 

 <図書館(LCO)>第一類『哲学(フィロソフィ)』<アッシュダウンの魔女>が所有し、現在、絃神島管理公社に回収された『No.193』―――今回のテロリストを相手に優麻が借り受けた魔導書。

 その力は、『予定調和』。

 張られた結界は如何なる攻撃も傷つけることはできず、逆に相手の如何なる防御もこちらの攻撃を防ぐことはできない。空間制御系の魔術以外はほぼ完全に遮断する、特区警備隊の一個師団が総攻撃を仕掛けようとも傷をつけることさえも敵わぬ鉄壁の守りを読み手に与える。

 しかし、人間の肉眼には追えない、超音速の飛来物等といった術者が脅威という認識の間に合わないものや、光や重力、大気といった最初から世界に存在する調和を乱すことのない自然の現象を、結界は拒むことはできない。

 

「そういうことか、先生!」

 

 ロギは両手に魔力に頼らない、自然発生させた『発火能力者』の炎を灯す。

 手軽に爆弾で攻撃するのではない。人の手の加わらない、この自然発生させた純粋な火力でならば、『予定調和』を通り抜ける―――!

 

「そういうことだ、ロギ」

 

 風水術士の足元より、倉庫街の地面に光り輝く血管のような亀裂が無数に浮き上がった。この土地一帯に流し込まれる龍脈を掌握し、集めた膨大な呪力でもって人工の大地に埋め込まれていた石と金属の塊に仮初の命を与える。

 起き上がったのは、全高7、8mにも達する人型の怪物、巨大な巨石傀儡(ストーンゴーレム)だ。

 そして、出現と同時に、倉庫街は濃霧に呑まれ、優麻たちを囲うように竜巻が発生する。

 

「嵐と波浪を操る傀儡―――そうか、これは<石兵>か……!」

 

 と<蒼の魔女>は、判断した。

 『法奇門』の奥義。

 かつて蜀漢皇帝の軍師、諸葛亮が設置して、呉の武将率いる5万の軍勢を壊走させたという、これが戦争に利用された風水術。龍脈から汲み上げた呪力を使い巨石を操り、天候をも自在に変動させる。優れた風水術士はたったひとりで、数万の軍勢に匹敵するのだ。

 

「させないよ―――<(ル・ブルー)>!」

 

 <蒼の魔女>の背後に、無謬の騎士像が浮かび上がり、キン、と耳障りな音を立てて大気が軋む。人工的な空間の歪みが大気を圧縮し、不可視の衝撃波を作りだしたのだ。

 撃ち出された衝撃波の弾丸が、倉庫街を見下す巨石傀儡を襲った。

 降り注ぐ衝撃波の雨に滅多打ちされて、傀儡の堅牢な体躯をゴリゴリと削る。が―――

 

「失策だな。攻撃しようが<石兵>は、ただ数を増やすだけだ」

 

 削り飛ばされた傀儡の破片、瓦礫の塊が、それぞれ人の形となって起き上がる。<石兵>は龍脈の力がある限り、無尽蔵の動力源を得ており、そして、断片からでも再生できるのだ。破壊すればするほど、結果的に傀儡は数を増やしていく。

 これが、5万の兵を壊走させた力の正体。

 

「そして、<石兵>を動かしているのは、この大地の気脈そのもの。『予定調和』で防ぎようがない」

 

 <石兵>は、自然に属する傀儡であるために、『No.193』の魔導書の結界を通り抜けてしまう。

 そして、自然発火した焔もまた―――

 

「燃え尽きろ―――!」

 

 軍用人工生命体がトドメの第二陣と備えて、両手に大火を溜める。

 <石兵>を<守護者>で盾にしたとしても、次は『発火能力者』。今度こそ防げまい。結界の守りがない限り、骨も残さずに消失する!

 

 

「そうだね。『予定調和』は通じない―――でも、忘れたのかい?」

 

 

 若い魔女の唇を、淡い微笑が刷いた。

 

 

「あらゆる自然は彼に屈服することを」

 

 

 ぞんっ、と一体の巨石傀儡が跳ぶ。

 数mの巨体は、一切の鈍重さと無縁だった。

 真上から大木にも匹敵する剛腕が、戦車の砲弾の如く若い魔女の痩身へと突進―――それを片手で受け止めた、銀の狼。

 

「ふっ―――」

 

 短く呼気を発す。

 巨大な石の拳を真正面から受け止めて、獣化した銀人狼は歯を食い縛る。

 ぎりっ、と奥歯が、軋む。

 身長だけで8m、腕を振り上げれば10m以上の高さから、これまた百kgを超えていそうな拳を、渾身の力で叩きつけてきたのだ。潰れていない方が不条理だ。

 だがしかし。

 この強靭の肉体は、人間離れどころではなく、遥かに超越したところにある。巨石傀儡の鉄槌を止めたことで、若干、表情を顰める―――それにしてみれば、たった表情を変える程度の負荷で、受け切られた。

 

「<填星/歳破(しん・さい)>!」

 

 があっ、と銀人狼が牙を剥き出す。

 吼える。

 火事場の馬鹿力とばかりに高濃度の獣気が体内に充ち、獣化した肥大した体躯が、また一回り、二回りと、内圧に押されるように膨れ上がる。

 受け止められた巨石傀儡の拳が、徐々に持ち上がっていく。

 ばかりか、一定まで持ち上げられたところで、土塊の腕がごきりと捻り返され、総重量1tを軽く上回る巨石傀儡は、その場に倒れ伏したのだ。

 凄まじい量の土煙があがり、束の間轟音が倉庫街周辺を支配した。

 

 しかし、まだだ。

 巨石傀儡を退けたところで、まだ第二陣が控えている。

 藍色の髪をした軍用人工生命体は大火の津波を放って―――遠吠えの一喝で霧散した。

 

 

「■■■■■■■■―――ッッッ!!!!!!」

 

 

 ……かつて、『宴』において、<黒妖犬>は、倉庫一棟どころか旧南東地区と一区画を一気に呑み込んでしまうほどの大津波を起こしたことがある。

 『芳香過適応』の芳香付与(マーキング)は、高位精霊術士の自然干渉に匹敵するかそれ以上の支配力をもっていた。

 超能力で自然発火させた炎は、同じく、そして、それ以上の、神々と謳われた超古代人種『天部』の域にも達している超能力の自然干渉で“上書き”されたのだった。

 

「う、そだ―――」

 

 己の焔が、獣の咆哮に掻き消されて、呆然とする人工生命体の少年。

 これが、獣化した――その獣性を解放させた<黒妖犬>の力か。

 『予定調和』とこの『自然支配』、互いの穴を埋める異種の能力らの連携が、<タルタロス・ラプス>の罠を防ぎ切り、そして―――

 

 

「龍脈に干渉できるのが風水(そちら)だけの専売特許と思うな」

 

 

 銀の獣毛が婆娑羅髪のようにざわりと伸び、昂る獣の笑みを浮かべ、牙も露わに咆哮を放ち、その左手を、硬く、硬く、握りしめて―――

 大地に叩きつけた。

 ドンッ、とインパクトが龍脈を伝って周囲の地面を隆起させ、噴火爆発が起こったように衝撃が天高くへ噴き上げる、そして、それに巻き込まれた巨石傀儡らが吹き飛んだ。

 

「なっ、<石兵>が―――!?」

 

 地に墜落した<石兵>は、再生しない。どころか、難を逃れた巨石傀儡も形が保てなくなって自壊していく。傀儡の動力源である龍脈とのラインが断たれたのだ。

 

 『邪神の花嫁』という神という名の意思を持った龍脈に身に宿せる存在があるように、単身で龍脈に干渉することは、けして不可能ではない。

 だが、それはあまりにも特異な例であり、力業で龍脈を止めるなど出鱈目すぎる。

 戦乱の時代で活躍したのは軍師だけにあらず。人数的不利を覆す天下無双の猛将。その覇気は、山を抜き、世を覆うもの。その世の常識に留まらない怪力は時に、神算鬼謀の策略を覆し、軍師を青褪めさせる。

 

「カーリッ!」

 

 狙撃手に援護射撃を要請。

 だが、通信機から応答は返らない。

 

 

「狙撃手なら、もう潰している」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「―――どう、して!?」

 

 

 軍用人工生命体が炎を消し飛ばされた時と同じく、神域の獣人狙撃手は、超長距離射撃を拳ひとつで防がれたことに動揺した。

 この結果は、狙撃銃を己の半身とするほどの絶対的な価値観に大きな揺さぶりをかける。

 カーリは落ち着くまで数秒の時間を要してしまい、その間が、彼女に再び引き金に指をかける機会を与えなかった。

 

『スキアリダ……!』

 

 大気を裂くような叫びと共に、凄まじい暴風がカーリを襲った。

 衝撃で伏射姿勢のまま固まっていたカーリの身体は屋上を転がり、半身(じゅう)を手放してしまう。

 忘我してしまうカーリの視界に過ぎったのは、大気の屈折が生み出した奇妙な人影。

 その人影の輪郭は、<黒妖犬>と行動を共にしていた少年の姿によく似ている。

 

大気精霊(エア・エレメンタル)!? いえ、生き霊(レイス)ですか!」

 

 大気圧によって形成された少年の分身。

 もし、ここでカーリが冷静であったのならば、即座に分身を携帯している拳銃で撃って、術者本体に衝撃を逆流させようとしたことだろう。

 分身が破壊されれば、術者にも相応のダメージを喰らう、と彼女は先生から学んでいた。

 

 だが、今、不意打ちの強い暴風をもろに喰らい、その反動で重い対物ライフルを手放してしまった。そして勢いよく離れた狙撃銃は、屋上のヘリにぶつかって、そのまま地上へと落下してしまう。

 

「銃……が!」

 

 彼女はまだハンドガンを装備している。しかしあのライフルはカーリにとって、<タルタロス・ラプス>との絆の象徴だ。もしそれを失ってしまったらと考えてしまうだけで、ディセンバーとの繋がりも断たれてしまうのではないかと不安がってしまうくらいに、なくてはならない半身なのだ。その恐怖がカーリから冷静さを奪った。

 ―――この致命的な隙を逃す理由はない。

 

『オオオオオオ―――ッ!』

 

 少年の声で咆哮する暴風の塊より衝撃波が放たれた。屋上から落ちてしまったライフル銃を目で追う。余所見をしてしまった獣人の少女は反応が遅れ、不可視の(ハンマー)となった暴風が、彼女を弾かれたライフルの後を追わせた。

 狙撃地点として選ばれたビルの屋上から、獣人の少女が宙を舞う。

 受け身を取らせぬよう荒れ狂う大気は狙撃手を翻弄し、吹き降ろす強烈な突風に抱かれて、地面に垂直落下。

 小柄な身体が地面にバウンド。

 がはっ、と急き込む彼女の唇から鮮血が零れた。

 彼女のすぐそばに、落下の衝撃で壊れて部品がバラバラのライフル銃が転がっている。全身を襲う苦痛を無視し、必死にそれに手を伸ばそうとして、しかし届かず。途中で力尽きて、腕は落ちた。

 

「……ごめんなさい、ディセンバー……私……こんなところで……!」

 

 渦巻く風の化身が、狙撃手の頭上を通り過ぎて消え去った。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 相手の位置から行動まで、音を使って知覚する<音響結界(サウンドスケープ)>と矢瀬自身が名付けた己の<過適応能力(ハイパーアダプター)>。

 生まれつき持っていた超能力を使い、1km以上も離れた狙撃手を捕捉。狙撃手の位置。銃口の向き。銃の作動音。そして狙撃手の心音や呼吸まで、その動揺した状態を正確に把握。そして、彼はそれを好機と覚り、能力増幅剤(ブースタードラッグ)を口に含んだ。

 そう、矢瀬基樹は、優麻とクロウに護られている間に、敵の後衛を叩いたのだ。

 

「クロ坊の出鱈目っぷりにショックを受けてる隙だらけのところをこっちで仕留めさせてもらった」

 

 能力増幅剤の過剰摂取で、一時的に限界突破した矢瀬の<過適応能力>が作り出す、音の振動を伝える大気で身体の輪郭だけでなく、筋肉から神経細胞まで再現された分身体<重気流躰(エアロダイン)>。

 霊能力者の幽体離脱と原理は同じであるが、そのために分身を飛ばしている間は本体の意識は極端に低下してしまう。

 普通ならば戦闘してる間に本体を捨てるような真似など命とりであるが、矢瀬には『予定調和』と『自然支配』の穴のない二重の守護があった。

 そうして、奇襲に成功し、狙撃手を仕留めた。

 

「ふぅ……荒事なんて慣れない真似はするもんじゃねぇな、ったく」

 

 能力増幅剤の過剰摂取が原因で、悪酔いしたように気持ち悪いが、これでひとり。三対三の状況だったから、これでノルマを果たしたと言ってもいいだろう。矢瀬は達成感に人心地をつく。と、

 

「おまえ、カーリをやったのか!?」

 

 そんな矢瀬を、軍用人工生命体の少年が睨む。

 中性的な整えられたその容姿は、今は歪んでいる。これは彼の『発火能力』が生み出した高温の大気が陽炎となって周囲に揺らめいているだけではない。ありありと表情に憎悪の面が浮かんでいた。

 

 隠そうともしない、殺意に満ちた視線を受けた矢瀬は、無意識に失笑を洩らした。

 この少年の正体には既に気づいている。

 矢瀬の父親を自動車爆弾で殺した<タルタロス・ラプス>の『発火能力者』だ。つまりは矢瀬にとって彼は父親の仇であり、そして今、矢瀬は彼にとって仲間の仇となったわけだ。

 ただ、矢瀬は彼とは違って、父親の死をさほども憤っていないわけだが。そんな温度差に矢瀬は思わず笑ってしまったのだ。もとより『魔族特区』破壊集団の一員と、その『魔族特区』に飼われた密偵(スパイ)―――どのような形であれ、出会ってしまえば殺し合うしかない関係だ。

 

 だが、ここでこの力を使い切った矢瀬を感情的に注視するのは間違っていただろう。

 

「おい、クロ坊を無視していいのか?」

 

 ひとり倒され、イニシアティブは<タルタロス・ラプス>にはない。

 

「くっ―――」

「させないよ」

 

 狙撃手の邪魔が入らなくなり、攻めに転じた銀人狼。

 倉庫街を、駆け出す。

 あまりにも大きな歩幅は、解き放たれた矢に等しい。

 千賀が木製の呪符を、教え子を内に入れるように周囲に巻く、だが呪符に刻まれた空間制御術式を見抜いた優麻が、同じ空間制御干渉をぶつけて逃亡を阻止する。

 ―――これで……

 局所的とはいえ儀式場に等しき龍脈を荒らされたことは風水術士にとって、精密な計算に齟齬を生じさせる。たった一個の小石が歯車に挟まっただけで止まってしまう機械時計のように、龍脈の流れを再計算している間は、いかに『東洋の至宝』といえど<石兵>のような大規模呪術を発動することはできない。また、軍用人工生命体の『発火能力』もすでに格付けは済んだ。

 そして、真っ向からぶつかれば、<黒妖犬>は神をも殺せる逸材だ。逃げ道を封じた時点で、こちらの勝利はほぼ確定していた。

 ―――行ける!

 そう、矢瀬が思ったときだった。

 すべてを叩き潰す重撃が、クロウを掠めて、鋼の大地を割った。重撃の余波で、クロウが矢瀬たちのいる後方へと圧し返された。優麻も、突風に煽られたように髪を振り乱し、背後によろめいた。

 

「……なっ」

 

 と矢瀬が呻き声を洩らした。

 あの銀人狼の進撃を、止めた。突進してきた眷獣をも殴り飛ばせる後輩を、逆に殴り飛ばすその威力はどれほどのものか。これまでに親友の事件を監視し()てきたが、なかなかそう拝められないものだった。5mは超える長大な棒を携えて倉庫街に乱入したのは、ニンマリと不吉な笑みを湛えた、波乱の白翁だ。

 

「―――ひっひ、会いたかったぞ、<黒死皇>最後の末裔」

 

 白翁がふてぶてしい笑みを浮かべながら、後輩をねめつけ、

 DNAに刻み込まれた本能からか、一目でその正体を悟った、後輩は唸る。

 

「オマエが、古城君たちをやったんだな―――」

 

 最新と最古の『獣王』が、今この時、邂逅した―――

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 ―――相対した両雄に、これ以上の言葉は必要なかった。

 

 

「グオオォォォオオォォォ―――――!!!!!!」

 

 常に細められていた火眼金睛の双眸が猛々しく見開かれていた。ドロリと滴るような魔力が、白翁<白石猿(ハヌマン)>から漂わせて、獣化する。老いぼれた人の皮を破り、白い獣毛に生え変わる肌と石のように硬質な筋骨に化けた。1m半としかなかった老体は、ひと回り、さらにひと回り、もうひと回りと、内側から溢れる力に圧されるように膨れ上がっていく。

 現れたのは、2m近い鍛え抜かれた巨躯を持った白猿人。両端に金環のついた棍を肩に乗せ、僅かに前のめりになる白猿人は歯を剥き、銀人狼をねめつける。

 

 そう。

 これは、わかっていたことだ。

 宿敵が死して、その末裔が残さず屠られたと知り、呪縛から解放されようが不滅の己は永劫の孤独を味わうものと諦観させられたときに、この懐かしき馳走が目にすれば、抑えきれぬ、などと。

 枯れ果てていた身体に、水を与えられたかのように、瑞々しさが蘇る。

 

「辛抱たまらん!」

 

 お気に入りの『宝貝』まで取り出して、それはまるで子供のはしゃぐ姿と似ていた。

 秒速数千の勢いで棍を振り回して、銀人狼へ襲い掛かる。

 縦に、横に、上に、下に。常人にはもはや動きが霞んで見えただろう。武術の達人であれ、ここまでの手数と速度を作り出せない。人間には。

 だが、この程度では、臆しない。

 

「―――」

 

 銀人狼は躊躇なく前に出ると、生体障壁を両腕に集中させて、白石猿の棍撃を捌こうとする。

 

 みしぃ―――と。

 

 銀人狼の左腕に、白猿人の振るう棍が炸裂。

 クロウは、呪式弾も巨石傀儡も受け止めた自分の腕が痺れる感覚を味わった。それを意識するほどの間を与えず、ひとつの暴風が収まる前に棍の金環の装飾が着いた末端を地面に突き刺し、白猿人は身体を複雑に捻って回し、バネの力を蓄えて、シームレスに次の一撃へ移る、冴え渡る武技。

 その一撃が重いのは、最初で知れている。まともに応対すれば、反撃の隙なく削り殺されるだろう。だが、こちらも“まだだ”。

 

「―――っ!」

 

 呼吸と共に、外気を取り込む。

 臍の下まで気息を落とし、丹田にて凝縮する。廻りながらも上昇する螺旋のイメージで方向性を意識し、正中線の気脈を通してぐるぐると体を巡らせる。

 七つの霊的中枢(チャクラ)全開(フルスロットル)に廻して、仁獣覚者に等しき金色の獣毛に生え変わる<神獣人化>。その踏みこみで倉庫街の舗装を砕き、大出力の獣気が風を巻いて唸りを上げた。その余波を浴び、優麻は思わず<守護者>を風除け(まえ)に出し自らを庇う。

 薄皮一枚にまで圧縮させた生体障壁、そこへ神気を練り込んで重ねるは<疑似聖楯(スヴァリン・システム)>。北欧最高峰の防護性能を誇る結界は、物理衝撃を隔絶してしまう。

 

 抉り込むように直線的に迫る棍を、金色に瞬く右手が掴む。

 

「ぐ、ぬ―――」

 

 衝撃波、殺した。はずだが、重い。想定以上に重すぎるインパクトは、クロウをしても阻み切れず、圧し飛ばされた。

 

「ひひっ、これを受けても壊れん肉体とはな―――ますます嬲り甲斐のあるものよ!」

 

 金環棍を携えた白猿人の手が、奇術師の手管で操られるステッキのように、軽々と横に流れた。

 

 ―――巨棍が、唸る。

 

 いや、振り回される過程で遠心力に引っ張られていくように伸長し、建物の大黒柱を連ね束ねたかのような巨棍と化したというべきだろう。

 その異常な光景は、日本人でもある武器の名前に辿り着くことだろう。

 

 

「海底をならすこの<如意金箍棒>! ヌシの身は星よりも硬いか?」

 

 

 『海の重り』として製作された、地殻を潰す『宝貝』。

 その重量は、1万3500斤――現代の単位になおせば約8tである。変幻自在に伸縮する神珍鉄の棍棒をもって、超質量の重撃がこの倉庫街ごと銀人狼を薙ぎ倒そうとする。

 総戸数棟を吹き飛ばしながらも、勢いが微塵も留まらぬ一閃―――その暴虐を、迎え撃つは神殺しの剛腕。

 

「―――忍法、雷切の術!」

 

 ダメージを承知で、神気の防護を攻撃に転じる。<疑似聖拳>の左手刀を横合いから打ち込み、そのまま下に鍔迫り合いながら滑り込ませた手の甲に『如意棒』を乗せる。そして、神狼の豪力でもって強引に払いのけて、軌跡をずらす。

 その大胆さと繊細さの入り混じる衝突は、闘牛士と闘牛のそれを連想させた。

 あれだけの力を誇る<黒妖犬>が、真っ向から力をぶつけるのを回避して、そして、それでも、被害は免れなかった。

 白猿人が振り回した扇状の範囲にあった全ての建物が打ち砕かれ、その軌跡を逸らした銀人狼の腕もまた骨が折れてしまう。

 しかし、

 

「次はこっちだ」

 

 振り回した、あとに大きく開いた身体、その隙を見逃さない。

 戦意は依然と衰えぬ金人狼は、白猿人へ、無数の気分身を作りながら疾駆。

 それに、猿の翁は懐かしむように目を細め、

 

「ほう、彼奴の拳法かそれは」

 

 さらに繰り出してはなった紫電迸らせる気功砲。

 ―――それを、<白石猿>はあっさりと躱す。

 

「型は正しい、力も十分―――じゃが、“意味”がない。『四聖』を冠しておる“意味”を理解しておらん。

 そのような“猿真似”がこの儂に通じるものか!」

 

 <石兵>とともに発生し、そして、“<石兵>の術式が破壊されてからも”残っていた濃霧。それが渦巻いた。

 濃霧は、風水術で呼び込んだのだけで敷設されたものではなかった、とようやく悟る。

 異様なまでに凝縮された霧は、ありえないほどの干渉力を持つに至り、その“小賢しい”分身を悉く、圧し潰していく。

 

「な……っ!」

 

 残像だけではなく、己の気を別けて固めているはずの分身らが、この凝集した霧に捻り潰されていく。そして、本体の自身でさえも、疾走を半減するほどに鈍らせる。まるで海中にいるかのように、空気が重くさせる濃霧の圧。

 

「じゃが、血を継いでる。力もあるのは確かよのう。なら、あとは肝心な破壊衝動さえ育てば、彼奴との殺し合いの続きができるか」

 

 にんまりと白猿人は、嗤う。それがあくまでも“老婆心めいた親切から”でてきた“匂い”だと覚り、クロウは身体だけでなく表情も強張らせてしまう。

 

「そのためにわざわざ“隠し玉”を用意したのだからのう」

 

 ひひ、と白猿人は笑った。

 ひひひ、ひひひ、ひひひひひ。

 ケラケラケラケラケラケラケラケラケラ。

 ケラケラケラケラケラケラケラケラケラ。

 ケラケラケラケラケラケラケラケラケラ。

 

 深く覗いてはならないものを孕んだ嘲笑。

 その危機感に突き動かされ、一秒でも迅速にこの標的を仕留めようと獣気で濃霧を吹き飛ばした刹那―――稲妻がこの身を貫いた。

 

「な、んで―――!?!?」

 

 濃霧から現れたその人影。

 雷撃に痺れ動けぬ人狼は、ただそれを拝む。

 

 

「見てわからない? ちょっと強引だけど“彼”、私たちの仲間になったの」

 

 

 旧いスクーターによりかかった小柄な少女が、脇に従える“少女と同じアカい目の色をした少年。

 ヘルメットを頭に被り、スタジャン姿の少女は、微苦笑しながら、少年の肩に手を置いて、その名を呼んだ。

 

 

「ね、暁古城?」

 

 

彩海学園

 

 

 それは、『大規模食糧備蓄庫』突入前に遡る。

 

 唐突に、保健室のベットに寝かされていた暁古城が、目を見開いた。

 薬が効いてきたのか、苦鳴が小さくなり、看護していたアスタルテらは症状が落ち着いたと思ったその時のことだ。

 

「先輩―――!」

 

 ごふ、と開いた口からこぼれ出た嫌な音とともに、粘っこい血の塊が、少年の口元から胸元を滴った。

 瞳孔が収縮して、眼球が裏返る。それからほとんど人体の限界まで背筋を反り返らせ、何度となく少年の身体が痙攣し―――強張ったまま、横倒しに崩れた。

 

「第四真祖!」

 

 その頸動脈へ触れ、アスタルテは表情を強張らせた。

 

「心停止を確認……!」

 

 すぐさま、白衣が翻った華奢な身体が予めいざという時に薬を用意していたテーブルへ向かう。

 そこで背を向けた判断は、誤った。

 アスタルテが目を外したその時、ずっとそばに張り付いていた姫柊雪菜へベットから伸びた手がその腕を掴んだのだ。

 

「え、……っ!」

 

 細腕を握り掴まえられて、雪菜は呻いた。

 けして、先輩が回復したのではなかっただろう。

 だが、この力。

 訓練された剣巫でも振り解けぬほど強い握力。

 上半身をもたげた監視対象の、瞳孔を収縮させた目が、虚ろに監視役を映している。虚ろなままで、今や万力の如く雪菜の細腕を握り潰さんとしている。それは少女の骨格だけでなく、暁古城の指や腕の筋骨もまた、ぎちぎちと嫌な音を立てていた。

 今も、この真祖の心臓は止まったままだ。

 毒にやられてか吸血鬼の再生能力が働かず、わずかに―――細胞が壊死しない程度の微かな脈動こそあるものの、止まっていると判断しても間違いない状態だ。

 それがこんな筋力を出せるはずもなく、

 

「先輩、どうし―――――あ……っ!?」

 

 掴んだ腕から、電撃が走る。

 宿した眷獣の力を一端を引き出して、雪菜は気絶させられる。その騒ぎを察知して、アスタルテが振り向けば、目に映ったのは、正気を失い、無残な涎を唇の端から垂らした暁古城の姿があった。

 

 

人工島東地区 大規模食糧備蓄庫

 

 

「古城!?」

 

 優麻らもまた、濃霧から少年の人影がくりぬかれたのを視認した。

 間違いない。古城だ。

 でも、瞳の焦点は定まらず、首も斜めに傾いでいる。肌の色も灰色にくすみ、その横顔からは壮健な少年の面影は失われている。歩いているその動作もまた、まるで壊れたロボットのようにぎこちない。

 

「彼に何をした!」

 

 明らかな異常に優麻が強い言葉で問い質す。

 白猿人は、にたりと嗤いながら、応える。

 

「実はのう、第四真祖が自害した<化血刀>は、血を変えて、『僵屍鬼(キョンシー)』とする毒じゃったのよ。いわば、『ゾンビ・パウダー』というやつじゃな」

 

 元来、動死体(ゾンビ)とは、映画に出てくるような“死体の化け物”ではなく、“死体のような従順な僕”のことだ。

 猛毒にて仮死状態に追い込み、自意識を失わせた上で好きに操るという呪法。この呪法で用いられる毒素を、『ゾンビ・パウダー』と呼ばれている。

 その毒を投与した昼から陽が落ちるまでの時間をおいて、<第四真祖>――暁古城は、限りなく意思の抵抗力が落ちており、この状態であれば難なくとディセンバーに支配するに足りた。

 

「オマエ……っ!」

 

 その意気通りに比例して強まる、濃霧を蒸発させんばかりの滾る体熱を発している人狼に、飄々と肩をすくめて、最古の『獣王』は言う。

 

「何を憤るか、この程度はまだましじゃろう? ヌシに流れる血――<黒死皇>は殺した上で骸を弄んだからな」

 

 白猿人の言葉はあくまで軽く。

 続く台詞は、クロウの過去を抉った。

 

「はて、ヌシも家族を人形としたのは聴いておるのだがの。カエルの子はカエルということか」

 

「―――っ!」

 

 抉り抜いた。

 瞠目と共に、クロウは硬直してしまう。

 

 そこへ、そんな動揺する姿を憐れんでか、優しく囁きかける少女。

 

「アンディシンバー、あなたが批判したい気持ちはよくわかる。私としても不本意なのよ。もっと彼の意思で私たちについてほしかったんだもの」

 

 黙ったままの古城の頬を、ディセンバーは愛おしむように撫でた。

 

「でも、手段は選んではいられないみたいだし」

 

 暁古城の肉体を、支配することはできた。

 だがしかしだ。

 『世界最強の吸血鬼』の象徴である、純粋で濃密な魔力の塊であり、それぞれが自立した意思を持つ眷獣までもが従えるだろうか。

 かつて、その10万人分の生贄にも勝る膨大な魔力をもった肉体を借り受けた<蒼の魔女>は、眷獣の召喚までも自在にすることは不可能であった。

 

 しかし、先程、金人狼を撃ち抜いたのは、まぎれもなく雷光の獅子の一撃。

 そして、ディセンバーは白い牙を剥いた、吸血鬼特有の鋭く巨大な牙を。

 

「“お願い、<獅子の黄金(レグルス・アウルム)>”―――!」

 

「な……に……!?」

 

 彼女の呼びかけに応じて、暁古城の全身の血液が沸騰したように膨大な魔力が放たれ、虚空に巨大な獣を顕現させる。荒ぶる雷霆でもって、“かつてこの倉庫街を破壊した”、黄金の鬣を持つ獅子。凄まじい勢いで宿主の生命を喰らう。召喚し、使役できるのは、無限の負の生命力を持つ吸血鬼のみ。それ故に、吸血鬼は最強の魔族として周知され、その中でも、この災厄に等しき怪物は、世界最強の吸血鬼――<第四真祖>の眷獣である。

 

「―――やらせるかっ!」

 

 人狼は、震える感情を噛み砕いて、強引に呑み込む。

 今は、迷っている場合ではない。

 相手が、先輩を死霊術に類するもので操縦しているのであれば、<黒妖犬>にその呪縛は解ける。

 クロウは走る。

 雷光の獅子が完全に実体化する前に、これを止めるため。

 

「本当に、私の後輩は敵に回すのは厄介よね」

 

 困ったように言って、すべてを魅了する少女はぽんと手を叩く。

 

 

「仕方ない。もうひとりの子に頼りましょう」

 

 

旧南東地区 回想

 

 

『……我は、汝の望みを叶えた……次は……次は、古城の番……』

 

 

 え? と少年は息を止めた。

 彼女の言葉はなにをいっているのか理解できない。だが、恐怖した。

 

 

『アヴローラ!?』

 

 

 少年の右腕が、少年自身の意思に反してゆっくりと持ち上がる。その手に握られていた金属製のクロスボウ、装填を終えていた銀色の杭が、彼女の心臓へと照準が合わせられる。

 間違っても、そんなこと少年は望んでなんかいない。

 

 

『やめろ……!』

 

 

 輝く彼女の瞳で、少年は全てを悟る。

 少年は彼女の――『血の従者』だ。そして、主人である彼女には、従者の少年の肉体の支配権がある。

 こんな展開を望まずとも、彼女の意思ひとつで、少年は彼女を撃つ。

 

 

『やめろ、アヴローラ!』

 

 

 そう、どれほど必死に抵抗しようが、血の呪縛には逆らえない。

 彼女は望む。

 この絃神島を、少年の世界を守るために、『原初(ルート)』の完全なる抹消を。

 

 

『兵器として造られた“呪われた魂”は、我と共に、ここで消える……だが……』

 

 

 そして、この『原初』から解放された<第四真祖>の“力”を少年に。

 

 そのために、彼女は、『原初』とともに消滅する。

 

 

『<第四真祖>の力のすべては汝に託そう。受け取れ』

 

 

 やめろ、アヴローラっ!

 少年は最後まで制止を呼びかけるも、その手は彼女――アヴローラの意思に導かれるままに、引き金に指をかける。

 クロスボウに装填された、真祖殺しの破魔の聖槍が撃ち出された。

 

 

『古城……』

 

 

 最後に少年の名前と、その想いの言葉を紡いで―――羽毛のような軽い音を立てて銀槍が突き立った左胸より、少女の鮮血が散った。

 純白の光が、視界を染めて、

 荒れ狂う魔力の奔流の中で、純白の雪が舞う。

 

 

 そして、少年――暁古城は、深い深い忘却の眠りへと誘われた。

 

 

人工島東地区 大規模食糧備蓄庫

 

 

「仕方ない。もうひとりの子に頼りましょう」

 

 

 そう言って。

 ディセンバーの唇はこう動いたのだ。

 

「古城、従者の娘に命じて」

 

 そして、深い濃霧をくりぬいて現れるその小さな人影。

 天使のような虹色の翼が羽ばたき、濃霧を振り払う。

 アスタルテだった。

 その身に宿した人工眷獣<薔薇の指先>を召喚している―――(まご)うことなく臨戦態勢。

 しかし、それが彼女自身の意思ではないことは、金人狼の視界いっぱいに映り込む表情から明らかだった。泣いている。感情表現の希薄な、人工生命体の少女が、涙をこぼしていた。

 

「本当、嫌がることはさせたくないんだけど」

 

 ディセンバーが心底残念そうに溜息をついた。

 

「でも、思ったより強いから仕方ないわよね」

 

 その焔色の瞳の輝きが、強まる。

 

 アスタルテは、暁古城の『血の従者』だ。

 人工生命体には養うのはあまりに寿命を削り過ぎる、人工眷獣の魔力を賄うために従者とした。

 だから、暁古城を支配すれば、アスタルテの服属も容易であった。

 

「せん―――ぱい―――」

 

 『血の従者』は、主人には逆らえない。

 その命令には、抗えない。

 どれほど泣き叫ぼうとも。

 

「く……そ……」

 

 <第四真祖>の眷獣召喚を阻むための最短距離に、立ちはだかる障害。

 魔力を反射する巨人の腕、それに抱かれる人工生命体の少女は、儚く脆い。

 力任せに、強引に薙ぎ払うことなど、できたとしてもできようがなかった。

 

 

「くっそ、おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」

 

 

 結局、少年は、前回、この倉庫街で下したものと同じ選択をした。

 

 

 

つづく


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