ミックス・ブラッド   作:夜草

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奈落の薔薇Ⅰ

人工島西地区 高級マンション

 

 

 それはまだ夜も完全に明けていない、午前四時ちょうど迎えたばかりの早朝。

 鎧籠手のように厚い手袋を嵌め、兜のような耳付き帽子を被る。そして、北欧の騎士団に支給されている特注の蒼銀の法被(コート)を颯爽と羽織り、準備支度(きがえ)を終えた少年は自室より出る。

 

「……クロウ君……」

 

 高級マンションの最上階を丸ごと占拠したその宅で、まだ寝起き直後でキグルミのような寝巻(パジャマ)姿の銀髪碧眼の少女、叶瀬夏音が控えめに声をかける。それに対し、南宮クロウは平坦な声で、

 

「何だ、夏音」

 

「……夏音が注意したくなるのもうなずける。気が立っているのはわかるがもう少し気を抑えろ、南宮クロウ。今のそなたがエレベーターなんて密室空間に籠っていれば、同乗する人間は窒息しかねんぞ」

 

 むっ、と無意識であったのかクロウは諭されてやっと気づく。同居人の少女の代わりに、その保護者の小人――大錬金術師ニーナ=アデラートの指摘に雰囲気を和らげたクロウは震え上がらせてしまっている夏音に頭を下げる。

 

「悪い夏音、なんかこううまく言えないけどイライラしててな。あ、全然、夏音のせいじゃないぞ」

 

「……はい、クロウ君のお気持ちはよくわかります。でも、さっきまでのクロウ君はちょっと怖かったでした。それで今日、学校は……」

 

「休む。ちゃんと公欠になると思うけど、みんなによろしく言っておいてくれ」

 

 そうですか、と沈んだ声を出す夏音。

 何事もなければ、今日は始業式。冬休み明けで最初に顔合わせする機会に、皆が揃わないことを寂しく思う。クロウもそれはわからないでもない。

 ただそれでも、何事にも優先して、己にはやるべきことがある。

 ……と、

 

「心配するな。学校はサボるけど、書を捨て街へ出よ、と何か偉い人が言ってたのだ」

 

「指摘。それは学業を疎かにしても構わないという意味ではありません」

 

「ぬ」

 

 クロウが騎士であればそれは女給(メイド)の格好で会話に割って入る無表情人工生命体(ホムンクルス)アスタルテ―――ただ、共に主人(マスター)はいない。藍色の髪を背に流す左右対称の容姿、その万年雪よりもなお温度の低そうな眼差しで、頓珍漢な先輩を見つめる。

 

「アスタルテ、お前もなんか尖ってるぞ。もっとリラックスしてだな」

 

「失礼。先日の臨時バイトと同じく、また私を置いていくのではないかと危惧していたもので」

 

「いや、あれはオレの」

「肯定。先輩の迂闊さで、これ以上教官(マスター)の気苦労を増やさぬよう、目を光らせます」

 

 ジトー……と視点を張り付かせるように見てくる後輩に、今代の『獣王』は叱られた子供のようにシュンと肩を落としてしまう。

 

「でも、アスタルテはちゃんとアスタルテの事も気をつけるのだ。絃神島は暑いけど、今は冬だ。陽が暮れると流石に寒くなるんだぞ」

 

 アスタルテは華奢と呼ぶにも細すぎる矮躯の持ち主だ。その分だけ薄く鋭く研ぎ澄まされているようで、けれどもやはり、脆そうに思えてしまう。その着ているメイド服も露出が多いので不安に拍車をかけていた。だから、視覚的な安心感の為にも厚着をしてほしいとクロウは思う。

 

 亜熱帯に属する絃神島の気候であるが、真冬の夜はそれなりに冷える。クロウは今回の事件が一日で片付かない長丁場になると睨んでいた。

 

「その……」

 

「なんだ?」

 

「……コーディネイトは、教官に任せていたので……この服装に合う上着の選択で二択にまで絞り込めましたが、判断がつかず。現在、教官代行の権限を持つ先輩が選んでいただけませんか?」

 

 後半を早口で言い切ると、遠慮がちにおずおずと上着(コート)を両腕に一枚ずつ差し出して、やや俯きがちに上目遣いでこちらの表情を確認する後輩。

 昔に比べるとだいぶ感情が表に出てくるようになったきているが、感性(センス)の方は着せ替え人形のままらしい。

 

「そうか、勝負服でお困りなのか?」

 

「指摘。その表現はいささか間違っていると言わざるを得なくもないと言いますが……」

 

 しりつぼみに小声になる後輩。

 まったく世話が焼けるなー、と少しだけ頼られたことに嬉しそうに頬をにやけるクロウは、教官代理(センパイ)として、率直な感想を述べる。

 ―――その直後、会話を聞いた聖女と錬金術師は天井を見上げた。

 

「ご主人は、『可愛いは攻撃(パンチ)力』ていうけど、実際の攻撃(パンチ)力は腕っぷしが物を言うとオレは思う。だから、装備するならアスタルテはなるべく生地の厚い方を選んでおくのだ。なんなら、二枚とも重ね着した方が防御力は高そうだぞ」

 

 うむ、ちゃんと文句の言われない実戦的な助言ができたな、と裡で密かに自画自賛する黒一点(だんし)は、皆が何も言わずにいることにうんうんと頷く。実際は、呆れてものが言えないという方なのだが。

 アスタルテは表情温度が一気に冷え過ぎた頬筋が固まったかのように、小さな△に開いた口が塞がらず、そして止め処なくなったので零れるように、

 

「(……理解。時期尚早というか精神年齢が子供過ぎる先輩にこの手の判断を任せるのはダメだとわかっていました間違っているのは先輩ではなく私でありしかし私よりも長く教官に薫陶を受けた先輩でありながら美意識が全く育っていないのはどうなんでしょうかと思わなくもありませんがそれを補佐するのが後輩である私の務めつまり私がしっかりしなければなりません)」

 

「出てる、何かいろいろと出てるぞアスタルテ後輩。なんかものすっごい無表情でそんな底冷えする声出すのは怖いぞ!! お、オレ、ダメなのか? 先輩として成長したことを噛み締めるように実感してたんけど」

 

「クロウ君。先輩どうのこうの以前の問題でした。ここで重要なのはアスタルテさんの可愛さです」

 

「でもな、夏音。アスタルテが可愛いかどうかなんて見ればわかるだろ。そんなことより防御力をn―――ぐほぉっ!!」

 

 ズドン!! と重たい音が響いた。<薔薇の指先(ロドダクテユロス)>。眷獣共生型人工生命体の背中より、透明な半実体化のまま床に潜入し、クロウの真下から実体化した虹色の指先が鳩尾を狙ってつきあがった音だった。

 

「アスタルテっ、眷獣使うのは反則だぞ……」

 

「先輩には口で言っても反省しないと判断してのことです。どうですか、後輩の攻撃(パンチ)力は」

 

 胸元を摩りながら呼吸を整えるクロウを冷たい目で見下すアスタルテだが、結局上着は見た目よりも生地の厚い方を一枚選んだりしてるなど、実際のところは健気なくらいに彼へ追従している。一見してこちらが先導(リード)をしなければと下剋上精神旺盛にも見えるが、根底には“平常ではないとおかしいはずなのにいつも通りを振る舞っている”彼を気遣う心の動きがあるからだ。預けられたから半年も経ってはおらず、感情に疎い人工生命体のアスタルテでさえも心乱れるものがあるというのに。

 

 だから、気を放ち過ぎると注意されたからといってあっさりと立て直せるものではない。

 これまでの先輩の行動記録を照らし合わせれば、もうとっくに管理公社からの呼び出しなど無視して単独行動に飛び出しているはずなのだ。

 

「その……大丈夫ですか?」

 

「ん? これくらいじゃれ合いみたいなもんだから大丈夫だぞ」

 

「否定。そうではなく、教官の……」

 

 訊きたいが、自身でも整理がつかず言い難そうに口籠ってしまうアスタルテの頭を、ぽんぽんと手を置いて、その先を封じるように一言。

 

「大丈夫だ」

 

(大丈夫、か)

 

 人工生命体の少女が危惧するのもわからないでもない。

 これまで百年を超える年月で人を見てきた古の大錬金術師は、思う。

 今が“本当の意味で”魔女の枷が外れた状態ではないかと。

 

「ご主人は、オレにとって、“お月様”だ。だから、時々、隠れたりするものだ」

 

 古来、月は理性を失わせるという。

 だから、その狂気の道標である月が隠れる“新月”は、理性を取り戻す。

 

 これまでに<空隙の魔女>の手の届かない場所で戦いを強いられることはあったが、それでも後ろで見守ってくれるという気持ちはあったはずだ。

 だが、今、それはない。あの『波朧院フェスタ』で刺された時でも本土に渡った時でも例外なく常に側にあるように嗅ぎ取れた“匂い”がしなくなっている。

 だから。

 いつも後ろ盾として見守ってくれた存在がいないからこそ―――強く、思う。

 

「だから、大丈夫だ」

 

 そう、自分自身に言い聞かせるようにクロウは唱え、玄関を出た。

 

 

???

 

 

 道術とは、この国の陰陽道の元になった大陸系の呪術。

 風水の理から正しく埋葬されず、または現世に死してなお残るほど強い憎悪執念により、魂魄の内の魄が肉体から抜けきれずに動き出す大陸系の死霊術『僵屍鬼(キョンシー)』もこの系統に入るものだ。

 陰陽五行の概念を利用しているが、道術の道士はさらに深奥にあると言われる『(タオ)』に執着する。この思想の下、自らをより高次存在――『仙人』と呼ばれるそれに引きずり上げようとするのがこの魔術体形の目的だ。

 『人間を超えて神に近づくこと』を目標として、黄金の如き完全なる存在を造り出そうとする錬金術があるが、道術は不滅の真理である『道』を体現することで、“神よりも上位の存在”となるのを究極とする。

 しかしあまりに魂の階梯を上げてしまえば、<模造天使(エンジェルフォウ)>の昇天と同じく世界と一体となる境地にまで行き着いてしまう。

 それこそが道術の目的であるのだが。

 そのように、本物の仙人となるには、先天的に聖人としての資質を有するだけでは足らず、死して脱皮のように人間の肉体を捨て去る――『尸解』を行わなければならない。

 

 この登仙の方法の中でも最上のひとつとして、宝剣を肉体の代わりに現世に残して昇華する『剣解』がある。

 

 自らの肉体を肉体にあらざる依代に託して偽りの葬儀を行うことで、抜け殻の肉体を完全に捨て去り、依代に魂を宿らせ、そして、天使と同列以上の高位存在である仙人へ至る―――

 

 

 もし、武神具開発者にさえも意図していなかった事象であるが、彼女が『七式突撃降魔機槍』を触媒として『剣解』をしたとなれば?

 

 

 人間より上位の存在に霊的進化したとしても、肉体が消滅したのだとしても、まだ縁はそこにある。

 そして、代々と<夜の魔女(リリス)>の魂を引き継がせてきた世界最強の夢魔(サキュバス)や力を持った器に『(くらき)』の意思を憑依させる一族、そして、『十二番目』の魂を宿らせる巫女という生きた実例もある。

 

 だから、後は肉体に魂を永続的に定着させる方法を編み出せればいい。

 

 欲に溺れて超常の力を失った仙人は人間の格に落ち、羽衣を奪われた天女は地上で暮らせざるを得なかった。

 目印のつけた鳥を空から落とし、その翼の羽を根こそぎ毟りとれば、もう手の届かぬ高みに行ってしまうことはない。

 

「<雪霞狼>より『剣解』した魂を引っ張り込むには、あの『混血』の肉体が最適だが、それも些細な問題だ」

 

 さて。

 本土に帰還してみれば、何やらご老体が企みごとをしているようだが、それにさほど興味もないし、関わる気はさらさらない。

 今、この死してなお活動する頭脳を占めるのは、理論の完成のみ。それ以外のすべては瑣事だ。

 

「あらあら……逃走中の脱獄囚が、こんなところにやってくるとは、何がお望みかしら?」

 

 最新鋭の医療機器で埋め尽くされた研究所の地下室―――

 そこのガラス容器にホルマリン漬けされた実験標本のように、深紅の水槽に浮かぶ美しくも歪な少女。そして、それを鼻歌混じりで観察しているこの研究所の主任研究員の女性。

 よれよれの白衣を着た童顔の彼女は、こちらに気づいて視線をやるも、ひどくどうでもよさげだ。

 研究者というのは、自身が掲げる目標(テーマ)以外には、無関心なものだ。その招かれぬ来客への対応に苦笑するも、同意する。

 

約束(アポ)なしの訪問で警戒するのは仕方ありません。しかし、すでに“上”には許可を取ってあるので、警備員を呼ぶのはやめていただけませんか、暁主任」

 

 MAR絃神島研究所の主任、暁深森は、あっそ、と白衣のポケットにあった警報機より手を離す。

 どことなく古代の仙人を連想させる雰囲気がする、ゆったりとした黒い中華服。それを着るのは、五体万全に整った、眼鏡をかけた繊細そうな面持ちの青年に、けれども深森は心を許さない。

 

「邪魔をしなければ、見物はご自由に。でも、アイスはあげないわよ」

 

 脱獄し、帰還した訪問客――絃神冥駕に、深森は肩から下げているクーラーボックスを背中に隠す。

 

「邪魔なんてしませんよ。あなたの研究は私としても実に興味深い。僭越ながら主任が知りたいのであれば、この絃神島の設計者である祖父、絃神千羅の『聖殲』の知識を教授しても構いません」

 

 やけに協力的な冥駕を眺めて、深森は小さく眉を上げる。

 これから『聖殲派』が秘匿していた切り札――『もうひとりの巫女(シュビラ)』を、『接触過適応(サイコメトリー)』の過去視で調べるのだが、彼の有する『聖殲』の知識は研究者としては垂涎もの。

 

「ふーん、聴くだけなら問題ないし、言いたいことがあるなら言って。でも、こっちは親切に質問にお答えはしないから」

 

 だが、そちらから手を差し出すのは自由だが、こちらに踏み込む許可は与えない。

 

「ここでなら快適な逃亡生活が満喫できるでしょうけど、私たちは庇い立てを一切しません。妙な騒ぎを起こして居場所が知れたら、すぐとっ捕まるわよ。むしろ特区警備隊に突き出すから、それでもいい?」

 

「あの魔女だけは苦手ですが―――猟犬の方ならばこちらから望むところです」

 

 ますます怪しい。

 あの彼にあっさりと捕まったと話には聞いていたのだけど、二度目の脱獄で本土から帰ってきてから何かあったのか。それもこの青年に触れればわかるかもしれないが、狂科学者(マッドサイエンティスト)にも触りたくないものはある。

 

「……彼、将来の義理息子(むこどの)予定(かり))だから、変なちょっかい出さないでよ」

 

「ふっ、申し訳ありませんが、主任のお言葉でも聞けないものがあります。あなたも知っての通り、彼の肉体は大変魅力的です。それを欲するのは研究者(われわれ)のような人種にはどうしようもない」

 

「……今のは一応、娘の母親としての忠告なんだけど」

 

「ならばなおさら、私にも譲れないものがある」

 

 これ以上突っ込むと面倒なことになりそうだと直感したので深くは追求せず、背中を向けて実験に戻る。

 右手に嵌めていた白手袋を外して、傷だらけの娘の首筋に接続された金属プラグより水槽の外まで伸びているケーブルに触れる。

 

 

「さあ、“生き返ったばかりで”悪いけど、視させてもらうわ。あなたが体験した『聖殲』の記憶を―――」

 

 

人工島管理公社

 

 

 絃神島は本土から遠く離れた人工島という立地上物価が高く、生鮮商品はすぐ品薄になりがちだ。一昨日あたりに春一番よりも先駆けて今年第一号の台風がやってきたが、定期船の欠航や遅滞は日常茶飯事であり、荒天が続けば一週間近く物流が止まることも珍しい事ではない。

 

 だが、昨日より絃神島に到着予定だった船が一隻もついていない。

 まだ情報を精査している段階でニュースに流れてはいないが理由は多々あり、貨物船の衝突事故に座礁、それに船内で食中毒などといった偶然の事故が“偶然ではない頻度で”発生している。

 航空もまた乱気流の影響で欠航。

 

 現在、絃神島は、孤立している状況下にある。

 

 ―――そして、国家攻魔官ひとりが行方不明。

 

 何らかの前触れである可能性が高いと人工島管理公社は判断を下した。

 

 

 

「さて、お集まりいただいたところで早速始めようか。悠長にしていられる状況ではないみたいなんでね。自己紹介省かせてもらう。その必要ないもあるけどな」

 

 まず口を開いたのは、首にヘッドフォンを下げた男子生徒、矢瀬基樹。

 まだ先日闇討ちされた怪我から退院したばかりであるが、『覗き屋(ヘイムダル)』としての能力を買われ、また“将来のためにも人を扱うことに慣れてもらう”という異母兄からの推薦があり、メンバーに召集された。いわば彼は、管理公社との繋ぎ役を担う。

 

 この会議室に集められた五人は全員が個人的に、またはある人物を仲介に挟んで顔合わせは済んでいる。

 そして、特区警備隊(アイランドガード)に所属こそしていないが、非公式な治安維持に貢献してきている、攻魔師資格(Cカード)を持った獅子王機関や太史局の構成員ではなく、管理公社の持ち札であるという共通点を持つ。

 

「そうだね、このまま何事もなく終わることは考えられない。なんといっても『世界最強の吸血鬼(トラブルメーカー)』のいる人工島(しま)だからね」

 

 そう議長(まとめ)役の矢瀬に応えるのは、聴き心地良い声に合った快活な雰囲気の少女だった。

 髪型は毛先の撥ねたショートボブ。着ているのは男物のジャケットだが、それでも彼女だと舞台主演のように映えるほど格好いい。男装の麗人は、絵になるほど様になる所作で紅茶を嗜みながら、テーブルの上に広げられた紫紺の旗を見やる。

 

「それと、洒落た挑戦状も送ってきたみたいだしね。僕の趣味には合わないけど」

 

 かつて<図書館(LCO)>の『司書』であった<蒼の魔女>、仙都木優麻。

 昨年の秋に起きた『闇誓書事件』のあと、優麻は攻魔局に拘束された。

 禁呪指定された魔導書の無断使用と、魔導犯罪組織の『総記(ジェネラル)』であり、彼女の母親である<書記(ノタリア)の魔女>――仙都木阿夜の脱獄を幇助したという剣技が拘束理由。

 もっとも彼女は未成年であり、母親の傀儡であり情状酌量の余地のある被害者であった。そのため優麻自身が罪に問われるというよりは、貴重な証人として身柄を保護されている。

 

 それで、今回の招集された理由としては、空間制御魔術に長けた<蒼の魔女>の能力を買われてのこともあるが、何よりも彼女はかつて<監獄結界>に閉じ込められた<書記の魔女(ははおや)>を脱獄させるために、『鍵』たる番人である南宮那月<空隙の魔女>を出し抜くあらゆる方策を思案し、絃神島全体に混乱を引き起こした経歴を考慮されてのこと。

 

 そして、仙都木優麻はこの依頼を受けねばならない理由もある。

 

 悪魔との契約によって、加護と力を得た魔女は、その対価を必ず支払わなければならない。その契約に逆らえば、その者は悪魔の眷属により即座に命を奪われる。

 <蒼の魔女>が悪魔<(ル・ブルー)>とした契約は、『母親を、<監獄結界>より出すこと』。

 それ故に、彼女は母親の脱獄を諦めることはできず、現在、攻魔局との交渉の結果、『<図書館>を殲滅し、<書記の魔女>としての力を失ったとなれば、仙都木阿夜を釈放する』というところに落ち着いたところであった。

 だから、それを成す前に、母親の眠る異空間の監獄の『鍵』がいなくなってしまうのは何としてでも避けねばならないのだ。

 

「これが本物であると調査結果が出た時、上級理事は血相を変えた。……ひとりを除いてだけどな。そいつのおかげで、第二種警戒態勢(コード・オレンジ)は取り下げられた」

 

 たかが“予告状”ごときに慌てふためくなど、上に立つ人物のすることではない。

 大山鳴動して鼠一匹。国家攻魔官がひとり行方不明になったくらいで何を慌てるものがあるのか、と名誉理事の一喝で、今のところは過度な反応をする上級理事はひとりも出ていない。

 

「調べがついたということは、これが何なのかわかっているのかい」

 

「大陸系統の魔具だそうだ。名前を書いた人物を呪い殺すという、死神のついてそうなシロモンだとよ」

 

 会議室のテーブルに広げられている紫紺の旗。

 そこに書かれていたのは、管理公社の上級理事五名とそして、ひとりの国家攻魔官の名前。それも攻魔官の上には殺害(キル)(マーク)のように赤線が引かれていた。

 

「ご主人は、死んでない」

 

 矢瀬と優麻の会話に反論したのは、厚着の少年。

 室内においても帽子法被手袋を外さない重装備の彼は、行方不明となった国家攻魔官・南宮那月に飼われる使い魔(サーヴァント)、南宮九郎義経。

 この五人の中で、表立って特区警備隊の治安維持活動に最も貢献している魔女の猟犬<|黒妖犬《ヘルハウンド>であり、逮捕率が100%という類稀な捜査能力を持つ人材だ。

 

同意(シェア)教官(マスター)は存命です」

 

 その傍らに座る、先程までこの会議室のお茶出しをしていたメイド服の少女が、厚着の少年を支持する。

 <黒妖犬>と同じ南宮那月の預かりとなっている人工眷獣を寄生された人工生命体(ホムンクルス)、アスタルテ。

 後輩からの後押しを受けた南宮クロウは前に突き出した左腕に、『黄金の籠手』を現出させる。

 

「昨日、ふらっといなくなってから、しばらくしていきなりご主人から<監獄結界>の『鍵』代行を任された。空間転移で無理矢理な遠隔契約だったから、顔も見てない。でも、ご主人は『しばらく預かっていろ』とオレに言っていた。だから、帰ってくる。絶対に!」

 

 咬みつくように言うクロウを、優麻は宥めるよう落ち着いた声音で、

 

「僕も南宮先生が死んだとは思っちゃいないよ。彼女の攻略法に<図書館>は十年も悩まされたんだ。そう簡単にやられるはずがない。

 ただ嫌がらせとしては効果的だ。名前を書いた相手の命を奪う呪いの旗。万が一のことがないように、上級理事は一刻も早くそれを解呪させたいだろうね」

 

「ああ。それで俺たちが集められた。そして、現在、絃神島は攻撃を受けている可能性が高い」

 

 アスタルテに淹れてもらった紅茶を飲んで気を落ち着けさせるクロウ―――その隣にあるカップだけが置かれた無人の席、彼女の分の紅茶の横にあるノートパソコンより妙に堅苦しい口調で発言が為された。

 

『仕える主人の失踪に不安がる心中、お察しいたす、獣王殿。そこで拙者、早速ひとつ情報を発見したでござる』

 

 音声限定(サウンドオンリー)でパソコンに繋がっている送信先は、赤毛の少女が引き籠る超小型有脚戦車(マイクロロボットタンク)だ。

 欧州ディディエ重工創業者一族の令嬢、リディアーヌ=ディディエ。未だ実年齢は小学生ながら(それを言うなら仙都木優麻も急速に成長を早められたが実年齢は小学生)、博士課程修了者クラスの知性を誇るエリート・チャイルド。

 

 元々、この人工島管理公社の情報管理を任されている雇われハッカーだが、『蒼の楽園(ブルーエリジウム)』での一件で、絃神島転覆を狙うエコテロリストの計画――の裏で画策する太史局に雇われた協力者であった。『闇誓書事件』での貢献や太史局からの弁護があったとはいえ攻魔局には札付きとされており、現在、公社に身柄を管理されている人材だ。

 

『では、まずこちらの資料を見てくだされ』

 

 <戦車乗り>が会議室のプロジェクターに映し出した画像には、座礁や衝突事故を起こした船の写真、絃神島周辺で発生した船舶事故の被害状況を表にし、そして、発生地点を地図にまとめたもの。

 それもすべて本日のものだ。

 未だ午前五時を回っていないというのに、事件の総数は届け出があったものだけで十数件。機関または電装系の不調による漂流が五件。衝突及び座礁が三件。船員の傷病その他もろもろが六件―――

 

「これは思っていた以上に酷いな……」

 

 矢瀬が口元に手を当てて思わず声を洩らすのも無理はない。

 想定以上の事態の深刻さ。それも表の数字が更新されていくことから被害状況は現在進行形で増え続けている。

 そして、今、リディアーヌが作成した、其々の事故現場を赤チェックで指した人工島近辺の地図から、絃神島を中心に、かつ広範囲にわたってランダムに事故が発生していることが一目でわかる。

 どこにも偏りがなく万遍なく。やはり、これは偶然によるものではなく、何者かに意図されてのもの。

 

『被害にあった船に共通点は特にないでありますな。沿岸警備隊(コーストガード)の巡視船から、漁船まで見事にバラバラでござる。この分だと報告の数字に入っていない、海外船籍や密輸船も何隻か巻き込まれているでありましょう』

 

海難事故(そっち)の方には、国家攻魔官四名からなる偵察隊(チーム)を派遣したみたいだが、これじゃあいつ帰ってくるか期待できそうにないな」

 

『唯一挙げられるこれらの共通点は、事故に巻き込まれた船は、すべて絃神島行きということでござる。そして辿り着けぬまま往生するか、漂流から脱して本土に引き返しているのが現状でありますな』

 

 これは、人為的な攻撃である。

 絃神島に近づく船や航空機を狙って事故を起こし、輸送経路を遮断させて『魔族特区』を孤立させようと目論んだ、戦術よりも遠大な戦略性のある攻撃だ。

 これは即効で混乱を起こすものではないだろうが、補給路が断たれたままではいつか、『魔族特区』は存続が危ぶまれる状況下に陥ることだろう。

 

「絃神島に近づく船を片っ端から追っ払う、そんな“膨大な魔力を必要とする”真似ができる相手はきっと片手にも満たないだろうね」

 

 被害にあった船が一隻二隻どころではない、これは事故を装った破壊工作では無理がある。

 となれば、魔術的な結界によって引き起こされている可能性が極めて高い。

 絃神島に向かう移動手段に限定して発動する呪い、あるいは侵入者を攻撃する結界のようなものが展開されていると考えるのは自然だろう。

 

 ただその場合で問題となるのが、この結界の効果範囲だ。

 優麻の言葉を拾い、リディアーヌが効果圏内に入っている海域を円で囲ってみたが、半径百km以上を超えている。面積だけならば、首都圏をすっぽりと覆い尽くすほどの大規模だ。

 これだけ広範囲に結界を展開できるほどの魔力源となれば、吸血鬼の真祖――優麻の幼馴染に、実行可能な該当者が約一名いる――くらいなものだ。

 

「僕も絃神島を揺さぶるための魔力源――10万人の生贄の代わりとして、彼の肉体を借りたんだけどね」

 

「まあ、あいつじゃないだろうな、絶対」

 

 その優麻が思い浮かべた幼馴染であり、自身の親友である少年の関与を矢瀬は否定する。

 世界最強の力を持ちながらも、基本気怠いところが変わっていない少年が、このような疲れる真似をする気はないだろうし、その理由もない。『<第四真祖>の真の監視役』というお役目上、見張ってはいたが、ここ最近の彼は担任教師に課された強化プリントをこなすのに自宅に篭っており、結界儀式の準備など当然していない。

 そして、絃神島の総人口約56万人から10万人という、およそ5、6人にひとりが生贄にされる目立った事件など当然起こっていない。

 なれば、これほど大規模で展開する呪術結界は何によるものなのか。

 

『可能性のひとつとしておそらく、風水術――土地の力、龍脈を利用した<奇門遁甲>でありましょうな』

 

 現代で一般的に知られている風水は、置物の配置や小道具の色で運勢の流れを変えるという、つまりは占いとして広まっている。

 しかし、その源流である式占は、占いであると同時に大規模な呪術でもある。

 中でも特に兵法として発達した法奇門は、天候と兵の生死を司る大規模軍事術式だ。気象条件や戦場の地形、兵士たちの指揮や体調といった重要な戦術要素を掌握操作し、自軍を勝利に導く。

 風水術は、伏竜の軍師が東南の気象風を招いた赤壁の大火で下馬評を覆して大陸を三国に分けるなどと歴史を作り、現在でも世界中の軍事組織で大規模な研究がおこなわれているのだ。

 

「なるほど、この付近の海域を流れている龍脈(レイライン)を利用すれば、絃神島を八卦陣で覆い尽くすことも不可能ではない。けど、これほどの規模の陣を誰にも気づかれず制御できる術者は実在するのかな。『魔族特区』の龍脈の力を使って“人工の異世界”を造り出している<監獄結界>の『鍵』―――<空隙の魔女>は誰よりも早く異変を察知したはずだ」

 

 犯罪組織の首魁である母親の脱獄のために、優麻はこの地の空間を支配する大魔女の攻略法を考えさせられた。だから、それが容易でないことを我がことのように理解できる。

 

『ひとり、該当者がいますな』

 

 リディアーヌが画面を切り替え、ひとりの人物写真を映す。

 

『千賀毅人―――ディディエ本社のある欧州ネウストリアの軍事顧問だった、世界屈指の法奇門使いでござるよ。国内の軍事産業を担っていたディディエ重工とも関わり深く、その後の消息は不明でありましたが、6年前の目撃情報から推測するに、金で雇われて魔導テロを行う破壊集団―――<タルタロス・ラプス>に身を置いているようでありますな』

 

「<タルタロス・ラプス>だって!?」

 

 その名を聴いた途端、優麻は大きく目を見開いて、驚きを露わにする。

 

『欧州『イロワーズ崩壊事件』――表向き、都市内の発電プラントの老朽化と大嵐による洪水が原因で放棄された大西洋の『魔族特区』でありますが、それはあらゆる国際機関が必死に揉み消した偽りの情報。その真実は、人為的な破壊工作でござった』

 

 世界全体を見渡しても『魔族特区』と呼ばれる都市は少ない。その中のひとつが破壊されたとなれば相当な騒ぎとなるはずだ。

 だがこの六年前に起きた事件を一般社会で知る者はいない。

 ろくに名前も知らされていない結社未満の少人数の犯罪組織に、都市ひとつ破壊されるなどという情報が広まれば、世界中がパニックになるからだ。特に『イロワーズ』と同じ『魔族特区』は。

 

 だから、虚偽の情報が流されたが、その情報操作で都合のいいことに真実を知る人間も少なかった。

 

『ロタリンギア正教の少数派(マイナー)な分派であった『聖団(ギゼラ)』の本拠地が置かれていた『イロワーズ魔族特区』。その強力な戦士<修女騎士(パラデイネス)>に守護された都市を滅ぼした。それも『聖団』は全滅となれば、世間には隠したがるのも無理はなかろう。

 拙者のような隠し事は何でも暴きたくなる生粋のハッカーでもない限り調べられるものはおらんでしょうな』

 

 存在そのものが隠蔽処理された、攻魔局の一般捜査官にさえ閲覧権限のない重要機密指定の情報。ハッカーの腕を駆使して掬い上げても限りある少数の情報を基に<戦車乗り>は分析する。

 

『未だに手口は解明されてござらんが、ただ、『イロワーズ』崩壊の直前、周囲の海域で不自然な事故が多発した記録を先程発見したでござるよ。これは、現在の絃神島の状況と類似していよう。

 そして、6年前の『魔族特区』を壊滅させた首謀者の一人に、『東洋の至宝』と謳われた、元本国の軍事顧問の風水術士が確認されているでござる』

 

 <戦車乗り>の結論から言って、この人工島に八卦陣を張った壊し屋集団の介入が濃厚だ。

 そして、<蒼の魔女>は、彼の風水術士の名を聴いて無反応な<黒妖犬(ヘルハウンド)>らから何も教えられていないことを察して、けれどもその筋立てを捕捉するよう、躊躇いがちに口を開く。

 

「<空隙の魔女>が、真っ先にやられたのにもそれで納得がいく。千賀毅人、彼は南宮那月を魔女にした師だ」

 

 契約を果たすための難敵となりうる<空隙の魔女>は、その卓越した空間制御能力や時空を歪ませるほど強大な<守護者>だけでなく、経歴から人間関係まで調べていた。

 

 十五年前に『魔族特区』絃神島に渡りつき、<監獄結界>という舞台装置を完成させる『鍵』となることで籠の中の自由を得た彼女は、優麻の母親である<書記の魔女>と出会い、

 十年前の『闇誓書事件』で、同じ純血の魔女であり親友であった仙都木阿夜と決別する。

 

 そして。

 去年の『波朧院フェスタ』で、禁書により<書記の魔女>が魔女としての時間を奪ったあの“ただの少女(サナ)”。

 そんな“ただの少女”であった彼女に、<輪環王(ラインゴルド)>との悪魔契約を結ばせ、純血の資質を開花させる――欧州の魔族を大量に虐殺した稀代の魔女に仕立てた先生が、<タルタロス・ラプス>に所属していた千賀毅人……

 

「クロウ君……南宮先生が<タルタロス・ラプス>の一員だったと決まったわけじゃない。仮にそうだったとしてもそれは昔の話だ」

 

 教えられた主人の過去。言ってしまった優麻は気遣うようその表情を覗いたが、あったのは意外にも凪いだ面持ちだった。

 

「そうか……」

 

 荒立てることなく、落ち着いている。感情に疎い人工生命体の後輩の方が露わにしていると思えるほど、動揺が少ない。

 

「無理を、してないかい?」

 

「ん、何でだ優麻。まあ、驚いたけど、この千賀毅人とかいうのがご主人の昔の男なんだろ?」

 

「それはだいぶ意味合いが違ってくるね。いや、君がちゃんと話を理解してるのはわかるんだけど、その表現は誤解を招く。それだと今、僕たちは絃神島の危急存亡ではなく、痴情の縺れみたいな展開を真剣に会議してることになる」

 

「じゃあ、元カレってやつなのか?」

 

「君は南宮先生に殺されたいのかい?」

 

 この命知らずな天然ボケをどう修正してやるべきか、トントン、と自身のこめかみあたりを人差し指で小突きながらいたく頭を悩ませる優麻を他所に、わりとシリアスに進んでいた会議室に笑い声が響いた。

 

「あっはっは! 流石、クロ坊。恐れを知らぬ発言、那月ちゃんが聞いてたら、どえらい目に遭うな」

 

「謝罪。先輩が空気を壊して大変申し訳ありません。この件は、後に教官(マスター)に報告させてもらいます」

 

『かかっ、それならば拙者、この会議の発言記録を録音してるので証拠物件として貸し出すでござるよ』

 

 ひーひーっ、と腹を抱え机に突っ伏す学校の先輩と、ぺこぺこと頭を下げている従者の後輩。

 それに、むぅ、と小首を捻りつつ―――

 南宮クロウは参加した会議に耳を傾けながら、粛々と進めていた、己だけに出来る作業を、終えた。

 

 

「アスタルテ、この辺りだ。この魔具にあった“匂い”の大元がいる」

 

 

 『嗅覚過適応(リーディング)』で、紫紺の旗に残る“情報”を嗅ぎ取るクロウは、補佐するアスタルテに簡潔に結果を告げる。

 その探査呪術(ダウンジング)をも掻い潜る相手であろうと見つけ出す特殊技能で、この人工島の中央キーストーンゲートにある管理公社の会議室を基点として、方角と距離を感覚的に測り取り、机に広げられていた絃神島の地図の座標位置を指差す。

 

命令受託(アクセプト)―――」

 

 直感による推論を捕捉するよう、狙われている上級理事の行動予定(スケジュール)を秘書のように記憶するアスタルテは機械的に精査し、ひとつの当てをつけた。

 

「先輩が指定した人工島西地区(アイランドイースト)のポイント付近に、二名の上級理事が宿泊したホテルがあります。該当者名は―――」

 

 アスタルテが淡々と読み上げるよう告げられたその人物名に、『魔族特区』内の政治に詳しい矢瀬基樹は瞬時に悟る。

 

「っ! ヤツらの狙いは、公社(こっち)の指揮系統の攪乱か―――」

 

 該当したのは、人工島内の治安維持と登録魔族の管理を掌握している上級理事。

 ただでさえ特区が封鎖されている状況下だというのにもしも彼ら二人が不在になれば、人工島管理公社が所有する最大の戦力――『特区警備隊(アイランド・ガード)』の指揮系統が乱れる。

 そう、相手は『魔族特区』を標的にするテロ集団。まだ完全に警戒される前に、『魔族特区』の急所(あたま)を的確に突くつもりなのだ。

 

 

「やべぇぞ、何としてでも暗殺阻止しないと、主導権を一気に向こうへ持っていかれる!」

 

 

彩海学園

 

 

「おはよ、古城。久しぶり……でもないか」

 

「うーっす、浅葱。いてくれたか、ちょっとお前に訊きたいことがあってな」

 

「なによ」

 

「凪沙のことだ。最近、妙に様子が変というかだな、やっぱ本土にいる間に何かあったとしか思えないんだが」

 

「またその話? もう何回話させんのよ。普通に本土旅行を楽しんでたって言ったじゃない」

 

「けどな、浅葱。普通に本土で旅行しただけじゃああはならないぞ」

 

「じゃあ、どう様子が変なのか言ってみなさいよ。それ教えてくれたら、心当たりが思い浮かぶかもしんないし」

 

「あー……そのだな……特定の三文字(ワード)に過敏になったというか……」

 

「だから、その特定の三文字(ワード)が何なのよ」

 

「わかってくれ頼む。俺としてもいろいろ複雑なのがあるんだよ」

 

「そう、わかったわ。あんたが立派なシスコンだってのは」

 

「何でそうなんだよ!? 別に家族を心配するくらい普通じゃねーかっ!」

 

「あんたのそれはいくらなんでも反応が過剰だって言ってるの」

 

「そりゃあ、『クロウ』って聴くだけで凪沙が過剰反応するから仕方ねーだろ!」

 

「やっぱクロウね。どうせそうだろうとは思ったけど」

 

「なあ、何があったんだ? どんな些細な事でもいい、神社に泊まった時から教えてくれ浅葱」

 

「えー、っと、まずちゃんと部屋は別けたわよ。その辺りは古城のお祖母さんがきちんと配慮してたわね」

 

「祖母さんはそのあたりきっちりする人だからな。安心できる」

 

「それでクロウに良くないものが憑いてそうだからお祓いをすることになったんだけど、凪沙ちゃんがそのお手伝いをするってついてったのよね。そこからはあたしも目を離してたんだけど、何かあったとすればここかしら。

 ああ、そういえば、そのとき凪沙ちゃんからパイロットスーツを貸してくれって頼まれたわ」

 

「なに!? あの浅葱が着てたゼッケン付きでスクール水着っぽいやつか!?」

 

「余計なこと思い出さないでよ。忘れて!」

 

「っつ、あんなモンをわざわざ借りるってことは……―――まさかっ! 一緒に風呂入ったんじゃねーだろうな!」

 

「だから、そこまで知らないわよ……でも、クロウ。あんたのお祖母さんに気に入られてたわよ。孫娘をどうかよろしくとか別れ際に言われたわね」

 

「な――――――――――――――んだ、と!?!?!?」

 

「それからはずっと一緒に行動してたわよ。まあ、明らかにクロウのことを意識してたみたいだけど、それはもう今更というか―――ちょっと、古城! いきなり立ち上がってどうしたのよ!」

 

「そんなの決まってんだろ―――戦争(ケンカ)しに行くんだよ」

 

「ああ、もう! やっぱりこうなるわね! あんたのそれはシャレにならないから!」

 

「おはよう、浅葱。それに、暁くん。あなたたちは冬休み明けでも相変わらず騒がしいわね」

 

「おはよ、お倫。でも、騒がしいのは古城だけだから」

 

「築島、悪いがそこをどいてくれ」

 

「ダメ、今のそいつを通したら、中等部の教室まで突っ込んでいくから!」

 

「本当、いつになく元気ね。でも、そうね。暁くん、もうすぐHRだし、席に着いた方が良いんじゃないかしら?」

 

「? まだ全然、クラス全員来てねーぞ。矢瀬もいないみたいだし……あれ、もうこんな時間だったのか」

 

「暁くん、今朝のニュース、見なかったの?」

 

「見てないな。何かあったのか?」

 

「絃神島に到着予定だった船が昨日から一隻も着いてないのよ。故障とか座礁とか食中毒とか理由はいろいろあるみたいだけど。あー……おかげで、あたしが通販で買った荷物も届いてないんだけど。プリン専門店の新作スイーツとパソコン用の増設量子ナノメモリ……ううー、賞味期限がー……精密部品がー……」

 

「何そのよくわからない組み合わせ……まあ、浅葱らしいけど」

 

「なるほど。航空便も欠航してるから、本土に里帰りして絃神島に戻ってこれなかった連中がいるんだな」

 

「そういうこと。絃神島の飛行機なんて、一日に3、4便だしね。こういう時に人工島は不便よね。だから、最新情報(ニュース)にちゃんとアンテナ張ってないと大変なことになるわよ古城」

 

「しょうがないだろ、朝は、俺も三文字(クロウ)のことで頭がいっぱいになってたんだし」

 

「クロウ君のことで、頭がいっぱいに……暁くん、あなた……」

 

「あー、もう! だめだ! 抑えきれねぇ! 那月ちゃんのHRをサボるのはまずいが、それでも一秒でも早く確認しねーと―――やっぱ、ちょっと行ってくる!」

 

「古城! あんた―――」

「―――ダメよ、暁くん!」

 

「お、おう、ど、どうした築島。いきなり大声で」

 

「暁くん、ここは我慢するの。それは禁じられてる行為なんだから、そんな派手なことをするのはいけないわ。あなたのその気持ちは裡に秘めるものよ」

 

「そりゃ、まあ、校則違反なのも、自重するべきなのもわかってるんだけどな」

 

「会えない時間で育まれるものもあるわ。相手のことを想って、冷静に正しいかどうか、自分の気持ちを見つめ直す。それで出した答えこそが本当に尊いものだと私は思う」

 

「……そうだな、クロウにそんな気はないだろうし。強引に迫るのはなんか違うか」

 

「ええ、そうよ暁くん。相手のことを考えることこそが大事。でも、ちゃんと自分の気持ちを伝えるのは間違っていない。あなたが本気なら妹さんも理解してくれるはずよ」

 

「そう、だよな……ありがとな、築島、目が覚めたわ」

 

「お倫? 古城? 説得されてるところ悪いんだけどな、あんたらなんか絶妙に意見が食い違ってないかしら?」

 

 

人工島西地区

 

 

 人工島である絃神島には、地盤強度の関係上、所謂超高層ビルというものが存在しない。代わりに市街の中心部には、同じような高さの中層ビルが密集する形になっている。

 少女は、50万人以上の人間と魔族が暮らし、生活以上の経済活動が行われる『魔族特区』を見下ろす。冬であっても常夏の陽射しで炙るように照らされるビルの屋上は、風がなければ焦熱地獄だった。陽光の強い照り返しに目を晦ませながら、少女は吹き荒ぶ強風に感謝しつつも嘆息する。シャツやスカートがはためくし耳を隠す帽子も脱げてしまう。それはいい。問題なのは、どこから撃つのがいいのか、候補地(ポジション)の選定が厄介なところだ。長距離の射撃は、横風に流される。だから、肌で実感することで現在の風向きを計算して、仕事に適したビルの屋上へ渡らなければならない。

 それでもビルの屋上にこだわるのは、人目がないからだ。人口密集地でも都市の死角のひとつだ。下の街からは見えず、航空機や衛星による監視は定期的なため、いきなり襲撃を受けて追いつめられることはない。今までそうだった。

 

「ここにする」

 

 結局選んだのは、ビル群の中でも、特に目立たない地味な建物の屋上。屋上についてからも、この明るいはずの風景に、危険を探して深い影ばかりを見る。蒸し暑さすら上滑りして、常夏の炎天下の気配は不完全燃焼して毒気を生み出すようだ。

 

 この出来損ないの獣人種にもある本能的な部分を刺激してくる、重圧のある空気がこの西地区全体を覆っているようで……

 

 そうして場所選びが終わってからひとつ深呼吸をする。万が一にもなく必ず成功させる。この失敗の恐怖という毒に満たされる肺腑を一新してから、携帯機器(スマートフォン)に指をかける。少女は“彼女”に対してだけは、強張った声は聴かせまいと思った。

 

「聞こえますか、ディセンバー」

 

『こちら、ディセンバー。聞こえてるよ、カーリ』

 

 携帯機器からはすぐに返事があった。

 緊張感の乏しい、おっとりした口調。その声を聴いて安堵したように少女は張り詰めた表情を緩めた。

 

「カーリ、配置につきました。射視界、問題ありません」

 

了解(コピー)。対象を乗せる車両は、人工島西地区十四番大街路をホテル方面に移動中。300秒以内に予定地点に到着するよ』

 

「こちらも目視で確認しました。狙撃準備に入ります」

 

 カーリは提げていたチェロ用の運搬ケースを開けた。その中にあったのは楽器ではない。軍用の大型ライフル。プルパップ式の対物狙撃銃だ。

 

『はいはい。データ送るね』

 

「確認しました」

 

 携帯機器の画面に、ディセンバーが計測した、風向き、風速、湿度、気温、大気密度といった計測した様々な情報が表示され、カーリは己の鋭敏な五感で覚えたものと齟齬がないかを確かめ、そして、現在のターゲットの服装を記憶する。

 

『後は任せるよ。カーリの判断でやっちゃって』

 

了解(コピー)。感謝します、ディセンバー」

 

『どういたしまして』

 

 この明るい声に耳を擽られたかのように、“彼女”との会話は仕事前で程よくリラックスした状態にまで持ってきてくれる。これならば、外しはしない。

 伏射姿勢を取る。

 

 狙撃は、小物が大きな標的を倒すための戦い方だ。だから、ただ引き金を引けばいい単純な作業は、出来損ないの獣人種には相応しく、狙撃手として天性の才能であった。

 強烈な対物ライフルの反動に耐える筋力と、人間の武器を操る繊細さ―――脆弱な獣人という個性が、その最適なバランスを備えていたのだ。

 狙撃の技術を教えてくれた“先生”をも今や抜いており、仲間たちの中で最強の狙撃手として認められている。

 ―――これが、カーリが生まれて初めて手に入れた存在意義。

 

 照準器(スコープ)に切り取られたのは、乱立するビルとビルのわずかな隙間。だが、それで十分だ。

 集中する。高級ホテルのエントランス。

 およそ1km先に到着する黒塗りの高級セダンを、視界だけでなく人間離れした鋭敏な聴覚で気配を正確に捉えた。ブレーキの擦過音。ホテルドアマンの足音。この聴覚や嗅覚、暗視能力など、この獣人ならではの優れた五感も、狙撃手としての強力な武器だ。

 

 そして、ホテルよりまず二人の護衛が現れた。

 それから、小柄な老人がホテル玄関より現れる。

 

 狙撃のチャンスは、建物から乗用車に乗りこむまでのわずか数m。

 外せば、護衛が身を盾にして警戒する。狙えるのは、ワンチャンス。

 だが、<タルタロス・ラプス>において最強の狙撃手であるカーリにとって、銃弾で1km先にある人の頭をイチゴジャムにするのは、皿の上のイチゴを摘まんでとるくらい容易い。この憎しみも悦びもない、ただディセンバーのためにやる単純作業を成功できるイメージは、最早確定している。

 

 引き金に余分な力をかけて銃口がぶれてしまわないよう、一拍おいて、筋肉が弛緩してることを確かめた。あとは人を殺す引き金を、精密な機械装置のように、ゆっくりと絞るだけだ。あるべき場所へそっと置くように。

 

 驚くほど澄んだ銃声が、青く高い空へと、波紋が見えそうなほどきれいに広がっていく。

 

 マズルブレーキからガスが噴き出し、五十口径弾特有の鈍い反動がカーリを襲う。それでも獣人種特有の動体視力は、冷静に銃弾の行方を追っている。

 

「――――――――――――――えっ!?」

 

 狙撃対象(ターゲット)の頭部をザクロのように弾け飛ぶ瞬間を、見届けることはできなかった。

 引き金を引く間際の一瞬、狙撃手の確定した未来予想図に異物―――何の前触れもなく、虚空より現れたひとりの魔女と人工生命体と少年が挟み込まれた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「―――防護モード。執行せよ(エクスキュート)、<薔薇の指先>」

 

 

 相手の狙いがわかったのは、ほんの数分前。

 護衛を侍らすも、こちらから見ればあまりに無防備に外へ出た上級理事。その前に<蒼の魔女>の空間転移で連れられたメイド服の人工生命体アスタルテは状況を確認せず、真っ先に身に宿された人工眷獣を召喚し、小柄な老人の周囲を囲うように虹色の翼を展開させる。

 360度隙間なし。魔力を反射し、ロケットミサイルにも耐えうる鉄壁の守護。

 “こちらは相手が狙撃をしてくるかどうかも判断ついていない”が、ならば害すると考えつくものすべてから護ればいい。

 

 そして、濃密な魔力で創られた眷獣の羽は、間一髪、超音速の対物ライフル弾に着弾するも、貫通させず弾く。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 ―――防、がれた……

 

 

「どうして……!?」

 

 狙撃失敗。呆然自失しながらも働く聴覚に、この銃声の後の静けさが、空気を針のように尖らせて、痛く心身を震わす。

 

「っ、まだ―――」

 

 でも、それは僅かな間だった。

 すぐ立て直し、照準器の中心に上級理事を合わせる。銃を構え、まだ狩りを諦めていない。簡単に撤退するわけにはいかないのだ。

 だが、相手はメイド服の少女が張る眷獣に護られている。これでは、撃てない。すぐ弾丸の種類を眷獣にも通用する退魔弾へ装填切り替えようとするも、向こうもそのまま路上で案山子のように立ちぼうけするはずもない。

 突然の事態に目を白黒させて、未だ命を狙われた、そして救われたことへの理解が遅れている上級理事が、癇癪(パニック)を起こして慌て狂う前に、一緒に空間転移してきた少年が老人の腕を捕まえ避難させる。

 狙撃の隙間のない、先程出たばかりのホテルへと引き返そうとしている

 

 即座に装填したカーリは引き金を引く。

 

 ―――突風が、横殴りに吹いた。

 

 銃声が、慟哭のように細く轟く……

 次弾も外れる。人差し指で引き金を絞る、この熟達した単純作業を二度続けて失敗させられた。

 

 風の動きが、変……!

 

 上級理事の周りに不自然な突風が発生して、狙いを逸らされる。聴覚で捉える風切音の強さで、風向きと風速を読み、己の感覚が5m強もあると告げていた。1kmも離れれば、余程の火薬量の多い弾を使っても射程距離の限界に近い。弾丸は、完璧に狙いをつけてすら発射から着弾まで2秒以上飛翔し、横風で4m以上も風下へ流される。

 

 だが、この悪条件を捻じ伏せてこそ、神域の技量をもった狙撃手―――

 

 

『―――カーリ! すぐそこから逃げて!』

 

 

 ライフルの横に置かれた携帯機器より、ディセンバーの聴いたことのない焦り声が耳朶を打つ。

 でも、それをカーリは無視した。

 まだ射撃機会は残ってる、このまま狙撃失敗したままじゃ、ディセンバーに顔を合せられない。存在意義を失くしてしまう―――!

 

 だが、カーリは引き金に掛ける指を止めた。

 ディセンバーの嘆願ではない、本能的な恐怖が彼女を強張らせたのだ。

 

 

「―――オマエか」

 

 

 静かな声が、熱に浮かされた常夏の大気を断ち切った。

 そして、厚着の少年が、貪狼の狩りのように一気に駆け抜けてくる。

 音もなく、砂塵の跳ねすらあげず、突風に煽られるビル屋上を風に乗るかのように駆ける。

 

 一気に現場まで跳べるのは、精々二人まで。

 だから、ディフェンスは仲間に任せて、オフェンスを担当する彼は空間転移ではなく、己の脚で、島中央から西地区まで移動し、捉えた獲物に喰らいつく。

 様々な臭いで紛れる街の空気の中で、この火薬の臭いを、その鼻は嗅ぎ取っている。

 

 それでもカーリは、伏射から立射姿勢に体勢を変えたものの、その場から動かなかった。

 相手に飛び道具を持っている気配はない。だから、落ち着いて到着するまでに相手を射殺するだけだった。外しようがなかった。

 一瞬ごとに近づき姿が大きく見えるようになってきた狩人へ、次弾の装填は終えている引き金を連射で引き続けた。だが、魔法のように、服の袖口を掠めただけで、この至近距離で命中しない。

 

 相手は、引かずに、一棟一棟、跳び越えてこちらへ最短距離で迫る。

 無謀だ。けれども、これと比較すれば、狙われてることを知った途端、右往左往とした上級理事が小物と見える。

 それは少女自身とも“ちがい”は意識される。銃器に頼らざるを得ない弱小な獣人と、己の身一つで標的を屠る、真正の猟犬。

 畏怖を覚えるように、肘がぶれ始めた。

 圧倒的に優位なカーリが、狙撃銃を構えたまま金縛りに遭っていた。厚着の少年は、銃口の照準機内、すなわち死の咢の中に入ったと知覚してる筈なのに揺らがなかった。

 

「あああぁあぁああぁぁぁあ―――っ!!!」

 

 カーリは取り憑かれたように引き金を引く。数打てば当たるなど、己の存在意義を著しく低める蛮行に走る。それでも、撃ち落せるイメージが全く湧かない。

 

 そう、向こうは超音速で飛んできた弾丸を、身を捻り首を傾げるそんな僅かな動作で紙一重であっさりと躱してしまう不条理の塊。

 

 ついにカーリの体が不自然に震え始めた―――その背後から抱きしめられる感触。

 

 

「そこまでよ、カーリはやらせないわ」

 

 

 それは通信機越しではない、生の声音だった。

 

 

 

 狙撃手の少女を腕に抱いているのは、同じくらいの身長の人影。

 幼い顔立ちの異国人の少女だ。分厚いラバーソールの靴を履いているが、それでも背の高さは160cmに満たないだろう。服装は、着古したスタジャンにデニムのミニスカート。キャップ型のヘルメットを被って、水中眼鏡のような風除けのゴーグルを嵌めている。

 そして、静電気のような独特な重圧、迂闊に近づけさせない強い魔力を秘めている。

 

 魔族。それも、濃い血の“匂い”からして、吸血鬼。ただし、魔族登録証はない。

 

「カーリ、落ち着いて、もう大丈夫だから、銃を下げて」

 

 未登録魔族の少女は宥めるようにカーリの獣耳へささやいて、震える腕で構えている銃口を降ろさせる。

 

「お前は……」

 

 彼女を認識し、厚着の少年――南宮クロウは初めて足を止め、彼女たちと同じ屋上で対峙する。

 帽子と首巻の間から垣間見える目には、驚きの色があった。それに彼女は苦笑を洩らし、

 

「驚いた。あの時から随分と成長してるのね。これは私も手を焼いちゃうかも」

 

 ちらりと可愛く舌を出しておどける少女へ、少年は警戒を解かず。

 

「ご主人をやったのは、オマエか」

 

「毅人の友達は私じゃないけど、仲間たちがやってくれたわ。悪いけど、事が終わるまで解放する気はないわよ」

 

 温い南国の湿気が、にわかに血のぬめりのような鉄の臭いを帯び始める。

 

「ねぇ、もう今回の狙撃は諦めるから、帰らせてもらえないかしら。お互い、全力でやり合ったら大変でしょう?」

 

「今見逃しても、この街を壊すまでオマエらはやめる気はない。だから、逃がさない。ここで何もさせないうちに捕まえる」

 

「そうね。やっぱり平行線になっちゃうか。できれば仲間に誘いたいんだけど、ハヌマンと約束したし。本当に残念」

 

 少女の背後で蜃気楼のようにゆらりと揺れる巨大な影が現れる。分厚い鎧に覆われたような透き通った獣の幻影だ。その凄まじい威圧感は、『旧き世代』を超えて、真祖級―――

 

 それで怯むような『獣王』ではない。

 

 

 吸血鬼狩りの鉄則。

 眷獣を完全に実体化させる前に、宿主である吸血鬼を迅速に仕留める。

 

 

「ディセンバーはやらせない―――!」

 

 そこで腕に抱かれていたカーリが腰のホルスターから武器を抜いた。護身用の予備兵装(サイドアーム)。大口径のオートマチック拳銃だ。貫通力より制圧力を優先した弾丸が、回避できる間隙を埋め尽くす。

 

 ―――真っ向から、弾幕を突き抜ける。

 

 <黒妖犬(ヘルハウンド)>は止まらない。対物ライフルでさえも貫通しない眷獣と生身で渡り合えるのであれば、その身に纏う生体障壁がそんな“豆鉄砲”が通用するものか。

 回避行動すらとらない理不尽の権化を目の当たりにし、神域の狙撃手は無力感に叩きのめされる。それでも、背後にいる己に存在意義を与えてくれた彼女を護るために、カーリはこの肉体を盾にする―――!

 

「ぬ」

 

 その気迫に押されてか。もしくはあまりに脆い壁に躊躇したか。

 ほんの少しブレーキがかかったそのとき、凄まじい炎が噴き上がる。

 空間そのものを燃やす灼熱の陽炎。前触れもなく発生した熱風熱波が厚着の少年を呑み込んだ。

 

「ディセンバーとカーリに近寄るなっ!」

 

 屋上の入り口に、慌てて駆け付けたのだと思われる息を切らした人影。細身の体に無数の留め金のついたコートを着た、中性的な美貌の少年だ。完全に左右対称の人工的な顔立ちと、自然界には存在しないはずの藍色の髪。それらの外見的特徴は、後輩と相似しており、その正体を示していた。

 錬金術と科学によって生み出された人工生命体(ホムンクルス)―――

 その彼の突き出された両手から鬼火のような蒼い陽炎が放たれていた。

 

 

「温い」

 

 

 その炎壁も障害とはならず。

 

「急に火が出たのは吃驚したけど、それだけだ。カラスと比べれば温すぎる」

 

 炎は突貫の阻めるものではない。だが普通なら、生物的本能で怯み、肉体を丸焦げに蒸発させられるはずだ。

 だが、この身は、生物でありながら同時に兵器として造られたもの。

 この程度の“火遊び”で臆するようにはできていない。

 

 な、何だ……アイツは一体なんなんだっ!?

 

 瞠目させて、慄く。

 人工生命体の少年は、この忌まわしき実験の果てに手に入れた力を使い、一片の容赦もなく、己の出来得る最大火力で焼き尽くしたはずだ。

 人間に放てば骨身も残さない焼却炉と化した―――だがそれも、魂をも灼き滅ぼす蛇竜(カラス)には及ばない。

 これは不壊の肉体だけではなく、精神力。己よりも格上の相手と戦い、そして打倒してきた経験値が、戦いをせず単純作業(テロ)しかしてこなかった<タルタロス・ラプス>の構成員二人を圧倒する。

 

「ありがとう、カーリ、ロギ。おかげで時間は稼げたわ」

 

 それでも、目晦ましにはなった。

 身を盾にしようとする獣人の狙撃手を抱いたまま後ろへ跳躍し、吸血鬼の少女は、距離を取った。

 

「逃がすか―――!」

 

 弾幕も炎壁も突破した<黒妖犬>の獣気が、さらに一躍、グッと膨れ上がった。

 音を立てて屋上を踏み砕き、クロウが一気に突っ込んだ。スピード勝負。速攻で片をつけにかかる。

 だが―――

 

 ガクッ、とクロウがつんのめり、失速した。そればかりか、地面に膝を突き、突っ伏した。

は虚を突かれたように、唖然として目を疑った。

 

「……な、に?」

 

 クロウが慄き、信じられないという呻き声を零した。

 まるで突然体が言うことを効かなくなった様子で、蹲ったまま動けない。

 

 

「“跪け、『アンディシンバー』”―――」

 

 

 膨大な威圧感を撒き散らしながら、ゴーグル越しに焔のように青く輝く双眸が、クロウを射抜いて、その場に縫い止めたかのよう。

 唸り声が大気を震わせ、ガッとクロウは頽れていた上体を、力尽くで持ち上げた。

 しかし、それ以上は動けない。全身全霊で闘志を燃やしながら、どう足掻いても腕を振り上げることが叶わない。

 

「ふぅ……危なかったわ。あと一秒、早かったら私がやられてた。でも、たったひとりで飛び出してきたのは間違いだったわね。あたしには頼りになる仲間がいるのよ」

 

 安堵の息を零しながら、少女は笑み、そして、見下しながら訊く。

 

「ねぇ、ハヌマンに喧嘩しないでって説得するから、あたしたちの仲間になって」

 

 銀水晶のような輝きを放つ巨大な眷獣の影を背後で揺らめかせながら、妖しく煌めく眼光を強める少女。

 

「<タルタロス・ラプス>の目的を知れば、きっと理解してくれる。だって、あなたはあたしのコウハイ――“アンディシンバー”なんだから」

 

 嘆願するように言いながら、『■■』を強める。

 あまりこの力で矯正したくはないけど、彼の脅威は看過できない。でも、殺すに惜しい。ならば、仲間になってもらう。

 そう、この子は、誰よりも<タルタロス・ラプス>の看板を背負うに相応しい。

 だから。

 なのに。

 

 

 

 ズダンッッッ!!!!!! と。

 眷獣の支配を無視して、<黒妖犬>は砲弾のように前へ駆け抜けた。

 

 

 

「な、に?」

 

 吸血鬼の少女はけして、南宮クロウを侮っていたわけではない。だけど、これはもう詰んだ盤上であり、一時的にだけど“同機達”も制御できる絶対の自信のある力だ。

 

 だが、この“後継機(コウハイ)”は、その“末妹”と結んだ第一の<禁忌契約(ゲッシュ)>により、狂わず乱れず常に安らかでいられる『精神安定』の恩恵を得ている。

 

 でも、それはほんの一瞬の効果。

 直接介入してるこちらに対して、間接的な干渉では強引になるが出力さえあげれば押し切れるはず。

 

 であれば、この青き焔色を呑み込んでいく、その身に発せられる気質(オーラ)――黒真珠のように澄んだ深みある漆黒は何か?

 蒼銀の法被が捲り上がり、伸ばされた腕に、“肘当てのような装甲”が張り付いていることにようやく彼女は気づいた。

 

「ま、さか」

 

「ご主人を倒すような奴らに油断なんてするのか? できる限りの万全の準備でここにきているに決まってるだろ」

 

 北欧騎士に与えられる蒼銀の法被。

 その下に装備していたのは、脛当、鎖籠手という防護強化外骨格となる鎧甲冑部分を省いて必要最低限の機能だけを残して軽量簡略化した<薄緑>。

 ディディエ重工が、『神緒田地区』で得たデータを基に、かつて『聖殲派』の扱う具足を組み上げたが、今のところひとりしか使えないという代物。

 

『工房に持ちこんのですが女帝殿が組んだプログラムを解析するのは、拙者にも無理でござった。しかし、これは獣王殿に合わせて調整(チューニング)されたもの。外骨格は分解したが、中身が変わっていないのであれば、また利用できよう。ただし、発動時間は十秒と限られておりますが』

 

 本土にて、<第四真祖>の眷獣の猛威(ちから)すら拒絶した『異境(ノド)』の展開。

 短時間であるものの、それが相手の精神支配を打ち破る。

 

「疾く在れ、<()―――」

「―――遅い! 忍法五車の術!」

 

 パンッ―――

 今度は“後続機(コウハイ)”の番。

 体勢を立て直すよりも早く、眼前に拍手する相撲の猫騙しで少女の意識に空白を作りだしたところで、叩いた両手の内より薫る芳香が鼻腔を満たす!!

 

 かつて、<第四真祖>をも精神支配した、強烈な催眠香。

 魔力によらない故に、吸血鬼の持つ魔力抵抗が働かない、真祖でも抗いようのない獣人種の特殊技能(スキル)

 

「ぁ―――」

 

 ぷつん、と触れもせず、意識のブレーカーが落ちた身体がゆっくりと前に頽れて、それを<黒妖犬>は捕えた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「「ディセンバー!」」

 

 

 一番の障害となりうる少女を昏倒させた南宮クロウは残る二人に双眸の照準を合わせる。だが、彼らはクロウを見ていない。見ているのは、身柄を肩に抱えられている少女、ディセンバー。

 その荷物のような無造作な対応に、カッと来た人工生命体の少年が、青炎を握る掌を向けようとし、それを獣人種の少女に阻止される。

 

「離せ、カーリ! あいつから、ディセンバーを取り返す!」

「ロギ、ダメ! ディセンバーも巻き込まれる!」

 

 言われて、頭が冷えたか。ちくしょう、と舌打ちし、肌を破り血が出んばかりに拳を握りしめて、腕を下げる。

 それでもロギは、クロウを睨む敵意だけは抑えようとはしない。それは、カーリも同じだ。

 しかし、その敵意に混じって恐れがある。

 自分たちの攻撃が一切効かない。

 そして、圧倒的な力を有するディセンバーを見事に一撃で意識を刈り取った手腕。

 一対二だが、二人合わせても彼我の実力差は隔絶している。

 それは、クロウの方もよく理解しており、けれど、僅かな不審な挙動も許さぬ、油断のない眼光を走らせながら、問う。

 

「オマエら、大人しく捕まる気はあるか?」

 

「ふざけるな! 誰が『魔族特区』になんか降参するものか! 捕まるくらいなら、ボクはここで死ぬ!」

 

 吼えるロギ。その目から本気の色を見取って、はぁ、と深く息を零すクロウ。

 この状況で説得は無理だろう。彼らにとって大事な少女の身柄を握っていては、何を言っても脅迫にしかならない。それでは反発する。かといって、この首謀者と思しき彼女を解放するつもりはない。

 さてどうしたものか。

 ここで力尽くで相手を気絶させて捕まえることはできるが、それだと独房の中で焼身自殺をしかねない。

 それは、後味が悪い。

 

「そう簡単に死ぬとか言えるんだなオマエ」

 

「なに……っ」

 

「誰でも遅かれ早かれいつか死ぬ。でも限りあるからこそ喜んだり悲しんだりできるんだ。なのに『死』が怖くないなんて、そんなのもう死んでるのと変わらないだろ?」

 

 ついに獣人種の少女の制止でも堪えきれず。人工生命体の少年の周囲に陽炎が噴き上がり、熱風が吹きつける。

 それを受けて、大して暑がりもせず、微風がどうしたとでも言うように、鼻を鳴らし、

 

「オマエらの攻撃は躊躇いがないみたいだけど、なんか違うと思ってたけど納得した。死んだような奴らが何をしたところで、オレは怖くない。それはもう昔に超えたものだからな」

 

 ぎりっと歯を食い縛りながらも、縛られたように動けぬ子供たちから背を向け―――背後に現れた大人をクロウは睨む。

 

「―――で、オマエが、こいつらの保護者か?」

 

「そうだな。彼らから先生と呼ばれている」

 

 応えたのは、中年男性。よれた灰色のジャケットを着て、神経質な芸術家のように髪を長く伸ばしている。

 自らを風景に溶け込ませる風水術の隠行。されど、魔力の隠蔽を無視する『芳香過適応』を誤魔化すことはかなわず、男は手に握っていた拳銃を降ろす。

 支柱である少女の奪還するための奇襲は見事に失敗したが、子供たちとは違って、千賀にはクロウを好奇の目で見れるだけの余裕があった。

 

「<黒妖犬(ヘルハウンド)>。那月が育てたという君と俺は一度話してみたいと思っていた」

 

 敵意を上手く隠しているのか、感情の読み取れぬ平坦な声を出す男に、クロウは低音調の声で問い掛けた。

 

「……そうか、オマエが千賀毅人だな?」

 

「いかにも。そこにいるカーリとロギの先生であり、南宮那月の先生であったものだ」

 

 時間稼ぎかそれとも隙を作るのが目的か定かではない。だが、話し合いに応じるクロウに、千賀は銃口をしまってみせた。

 間合いに入っておきながら、一見無防備ともとれるその超然とした態度に、クロウはすう、と目を細める。

 

「どうやら、カーリとロギは君には全く太刀打ちできないみたいだ。<黒妖犬>に銃火器は通用しないとは予想していたが、ディセンバーまで倒すとは思いもよらなかった。だから、俺の教え子が一体どんなことをして、君を殺神兵器に育て上げたのか、今後の参考に是非訊いてみたい」

 

 無感情に淡々と訊いてくる主人の先生であった男。

 この使い魔(サーヴァント)の話から、昨夜は否定したがそれでも染みついているであろう、“かつての教え子の残滓”を読み取ろうとしているのだろうか。

 

「オレがご主人に教えられたのは、『朝、人に会ったら挨拶をしろ』、だ」

 

 クロウは、昔々だが今でも脳に染みついてる言葉を反芻し、そして淡く笑った。

 

「? なんだ意外か? でも、本当に教えてくれた。オレはまずそんなところから始まったぞ。常識のないオレは、一から当然のことを覚えておけと森を出てから口酸っぱくして注意された。でも多分、それが一番大切なことに繋がっていったのだ」

 

 それは、冷たい夜空の星座を見るようなやりとりだった。

 暗闇の中にあるほんの小さな光を探しては、それらの繋がりを線で結んでいき、出来上がった形から自ずと意味を悟らせる。

 

 本当に、小さなことから始まったのだ。

 だけど、大きな意味を生み出すために必要な歯車であった。

 南宮クロウが殺神兵器の力に溺れずに済んでいるのも、破壊の意味を考えるように戦えるのだって、きっと森を出てから一歩一歩、でも絶対に正しい道を進んで来れたからだ。変に色眼鏡をかけずありのまま世界を見る力をもらったからだ。

 その、ごく普通の当り前こそが、酷く冷めた匂いのする人々でもその奥にある微かな人間味に気づけるようになった。己よりも格上で圧倒的な力を目の当たりにしても、己の選択ができる強さへと繋がっていったのだ。

 

「オレがオレを怪物だと思うのはどうしようもないけど、それでもオレはオレを特別視しないで、皆の中に普通でいられることができる。力が怖くて逃げられずにいられるのは、間違いなくご主人のおかげだ。ご主人が当たり前のことを教えてくれたからだ」

 

 そうでなければ、屈していた。

 力に怯え、力に呑まれ、どこまでも歪んでいった。

 きっとこの恩恵は自分だけではない。世界最強の吸血鬼となってしまった先輩が、今でも自分を平凡の高校生だと意識していられるのは、変に特別視をせず居場所を守ってくれる大人がいたからだろう。

 

「……人殺しの技術は、どうだ? 『原罪』と悪魔契約させたんだろう?」

 

 何か期待するよう平坦な声調からやや上擦る。だが返ってきたのはそれに応えることのない答え。

 

「殺し方は生憎と教わっちゃいない。壊さずに倒すやり方は徹底して躾けられたけどな。契約も<守護獣(フラミー)>を暴走させないように制御できるようになるまで面倒を見てもらったくらいだ」

 

 その話に。

 くしゃり、と千賀は自身の髪を、強く、毟り取るかのように爪を立てて、かき上げる。

 

「人類史で人類が積み重ねた悪業の総集のひとつであり、人間の獣性から生み出されたも同然の殺神兵器―――俺が先生ならばもっと強くしてやることができた! それこそ<空隙の魔女>や<黒死皇>以上に……っ!」

 

 感情の篭らない声に熱が乗り、すぐに冷める。

 この教え子の使い魔の語りを咀嚼するよう、歯軋りさせ、主人の先生は断じた。

 

 

「よくわかったよ。結局、君は使い魔(サーヴァント)を名乗りながら、南宮那月のことを何も知らない」

 

 

 腕を振り払って顔を隠す掌がどけられた千賀毅人の面相には、嘲笑が貼りついていた。

 その歪んだ口から吐き出される呪詛のように首を絞めてくる言霊に、少年は、止まった。

 固まった。

 時間が、凍った。

 その解凍するまで、隙を見せてしまっている<黒妖犬>に、千賀はそれを取り出す。

 

「これは、<山河社稷図>。詳細な説明を省かせてもらうが、この魔導書の中に南宮那月は封じ込められている」

 

 そういって、千賀は環状石柱(ストーンサークル)に囚われている人形のような黒衣の女性の絵が載せられた頁を開いてみせ、クロウの瞳孔が大きく反応したのを見取ったところで閉じる。

 

 

 

「人質交換しよう。もっとも拒否権は与えないがね」

 

 

 

 返答を待たず、千賀は魔導書を屋上から高く放物線を描いて、投げ捨てた。

 その途中で、バラバラバラバラバラ、と頁をまとめる紐が解けたように紙片が舞い散る。

 

「ロギ、燃やせ」

 

 先生からの短い指示に、目標を訊かずとも悟った人工生命体の少年は、視線を走らせ、宙空の頁の紙片に火を点けた。

 

「魔導書に閉じ込められている魂は、実に無防備だ。燃やされたらただでは済まないだろう―――さて、<黒妖犬>、君はディセンバーを抱えたまま、那月が燃え尽きる前に拾えるかな?」

 

 その言葉に、ここで初めてクロウは、目を剥いた。火の点いた紙片は、突然吹いてきた強風に乗り、彼方へ飛ぶ。風水術の天候操作で突風を起こしたのか。三国に分けた赤壁の如く、風に煽られ火はより燃え盛る。

 クロウは青褪めながら、野獣のような形相になると、重荷となる吸血鬼の少女を投げ捨て一目散に疾駆した。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「本当に、惜しい。俺はふたつの才能を逃してしまっていたのか」

 

「先生」

 

 <黒妖犬>が去り、カーリがディセンバーを介抱する。そして、ロギは千賀のところへ駆けより、その嘲りの混じる失笑を目にした。

 

「“あれが<白石猿(ハヌマン)>に用意してもらった贋作だとは気付かないとは”」

 

 まったく愚かだ、と千賀は懐にあるもう一冊――本物の魔導書を取り出す。

 策にて一切の力を争うことなく、手札を見せずに勝つ。この暗殺失敗を補う戦術として成功したと言えよう。

 なのに、

 

「………っ」

 

 なのに、こうも苦いのか。

 

「アジトへ帰るぞ。次の準備だ」

 

 千賀はそれ以上、自分の元から飛び出した背中を目で追うことなく、空間転移の呪符を放った。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 上級理事の安全を確保したところで矢瀬と優麻にその場を任せ、アスタルテはバックアップのリディアーヌに位置情報を教えてもらい、クロウの元へ応援に駆けつけた。

 それで見つけて思わず目を大きくしたのは、場所が場所だったからか。

 燃えるゴミや燃えないゴミのゴミ箱が並ぶ一角のすぐ横に、幾つもゴミ袋が積み上げられていた。半透明の袋の中身は刈り取った芝や落ち葉のようで、少なくとも生ゴミじみた匂いはしない。

 とはいえ。

 

 そこへ青天で叩きつけられたかのように不時着してる先輩がいた。

 

 栄誉ある騎士の外套やら最新科学の軽鎧を汚しておきながら、焦げ目の点いた紙切れを大事そうに握り締めているその姿は何と称するべきか。ドブ川に大会で入賞したプラモデルの作品が浮かんでいるような場違い感のある有様。

 彼の衣服はアスタルテが毎日丁寧にアイロン掛けして、その専用ともいえる武装も無理を言って貸し出してもらったものだというのに。寝るのなら、きちんとシーツに皺なく整えた自宅のベットの上でするべき。

 ヤンチャ坊主、というのがこの上なく似合う先輩だ。

 

 ……それでも、アスタルテがお小言を洩らせなかったのは、空を仰いでいながら腕で目元を隠している彼にどう声をかけていいのかわからなかったからだ。

 

「ん、アスタルテか」

 

「……先輩、そこは寝入るには不適格な場所です。放置すれば収集車に回収されかねません。せめてベンチでお願いします」

 

「むぅ。でもなんかひさしぶりにこう枝葉に包まれるのは、寝心地が言う感じでな」

 

「私のベッドメイクにご不満があるなら今日から外で眠りますか?」

 

「アスタルテ!? 全然そんなのない不満なんてこれっぽっちもないぞ! う、そうだ! アスタルテは床上手なのだ!」

 

「先輩は、国語の授業をもっと真剣に取り組むべきだと意見します」

 

 とりあえず会話が始めれば、いつも通りのやり取りで、そして、腕を上げてみえた顔はやっぱり薄汚れてて……拭った跡など解らなかった。

 

 

 今、周りに人はいない。

 アスタルテは、朝からずっと、気になっていることがある。

 自分と彼以外誰もいないのを確認し、ひとつ訊ねた。

 

 

「質問があります」

 

「なんだ」

 

「―――怖い、のですか?」

 

 問いかけは直裁で、だからこそクロウの虚を衝いたのだろう。クロウはしばし呆然とした様子でアスタルテを見やると、意気消沈したようにぐてっとまたゴミ袋の上に大の字と倒れる。

 

「……うーん、出さないようにしてたんだけど、何でわかったのだ?」

 

「質問認識。先輩は顔に出る人ですが、教官(マスター)の不在に先輩は普段通りです。そして、理性よりも本能を優先する先輩が慎重に行動するのは珍しく、過去の記憶と照らし合わせると、メイヤー姉妹との初遭遇と相似しています。以上から、現在の先輩は余裕のない状態だと判断し、恐怖している心理状態だと把握しました」

 

「うぅ……まあ、いろいろ言われたけど本当によく見てるな。なんかうれしいぞ……いやまったくその通りだ。アスタルテ、オレは……怖い。先輩として残念だとがっかりするだろうけど、オレは怖い」

 

 ぼそぼそと、沈んだ表情でクロウが嘆くように呟く。

 

「それは、教官の庇護下がないからですか?」

 

「んー……そうだな。オレの身の心配というより、周りが怖い。みんなが目の前で助けられず死ぬのは、ダメだ。本当に、応えるのだ。ご主人がいたら、オレは思い切り無茶ができる。でも今はいないから、ご主人の分までいろいろ考えて、いろんなことを想像して、頭がいっぱいになる。……森を出る前は“新月”でも平気だったのに、今はとても駄目だ」

 

 朝に感じたその張り詰めた空気は、怒りではなく、恐れからのものだったのだろう。

 

「だからさっきも、“これが贋物(わな)だってわかってたのに”、万が一、“この中にご主人がいたら”、って考えたらいてもたってもいられなかった。……悪いな、アスタルテたちに護ってもらって、せっかくひとり捕まえられたのに、逃がしちまった。やっぱりオレは王様にはなれないな」

 

 アスタルテはクロウの手を取る。必死になって贋物を掴まされた愚か者の手を。そして、真っ直ぐ、透明過ぎるほど透明な眼差しで見据えた。

 告げる。

 

「疑問。幻滅する理由がどこにあるのですか? 私は先輩が、凄いと信じています。何故なら、あなたは私を殺せたはずの状況ですら、救ってくれました。多くの可能性を考慮しても、結局、同じことをしてくれたのではないですか?」

 

 握られた手に驚きつつも、クロウは曖昧に頷いた。

 そう。だからこれでいい―――と人工生命体の少女は思う。

 

「事実、これまでに四度、命を助けられています。ですから、四度まで好きにしても構わないはずです」

 

「アスタルテ、オレはそんな風に計算はできない」

 

「肯定。そのような計算のできない“馬鹿犬”だからいいんです。それに、私はすでにすべてを預けています。ですから、先輩は先輩らしくあってください。失敗して私、皆に危険が及ぶのを怖がるのも……すごく、先輩らしいと私は肯定します」

 

 ―――ほう、とクロウは溜まった胸の空気を吐き出す。

 それからまた一度、目をごしごしと拭ってから、よっと体を起こして立ち上がる。

 

「そっか、そっか。……うん、なんかよくわからないけど、話したらちょっとすっきりした。さっきからあれこれ考えてたのに、気分が落ち着いたというか。なんとかなるさ、って感じだな」

 

 先程までの沈んだ表情をすっかり忘れたクロウに、アスタルテは良かったと表情を緩める。

 

「よし。じゃ早速行動だ! まず、みんなと合流だな! 迷惑かけるだろうけど、張り切って頑張るぞ!」

 

 先程とは真逆に、クロウがアスタルテの腕を引っ張っていく。泡を食いつつも、彼がどうやら元気を取り戻してくれたことを理解して、ホッとする。

 それと同時に、『ちょっと』と言うのはやっぱりまだしこりが残っている―――という、人工生命体にはあるまじき直感だが、確信を抱く。

 まだまだ前途多難で、新月の夜を闇雲に進まなければならない―――でも、彼は足を動かすのを止めはしないだろうきっと。

 

 

 

 

 

「先輩、方向は違います。キーストーンゲートです。それとそちらに車を待たせてあります」

 

「あれ?」

 

 ただし、頓珍漢で猪突猛進なので修正(リード)が要必須である。

 

 

彩海学園

 

 

「暁凪沙さん」

「はい」

 

 船舶事故や飛行機の欠航の影響なのか。

 

「甲島桜さん」

「はい」

 

 冬休み明けの発登校日に、姫柊雪菜のクラスは、6人もの欠席が出た。

 

「進藤美波さん」

「はい」

 

 聞くところによれば、教師も何人か不在のようで、授業の半分が自習になるらしいと噂されている。

 

「姫柊雪菜さん」

「はい」

 

 ところどころ欠席で穴の空いたクラス席。

 それを一望できる教壇に立っているのは、雪菜たちのクラス担任で、彩海学園中等部の女性教師、笹崎岬。赤い髪をお団子ヘアーにまとめチャイナドレスを着た、特色のある女教師は、<仙姑>という異名を持つ仙術と武術の達人である、この学園で一学年ごとひとり在籍する武闘派の国家攻魔官だ。

 陽気かつ軽い性格をしている彼女は、とても生徒に親しく、堅物なところのある雪菜とも打ち解けられるフレンドリーな先生。この欠席の多い出席確認にやや気落ちしているようだった。

 ……ただ、いつもよりどこか戸惑っているようにも雪菜には見えた。

 

「え、っと……南宮クロウ君?」

「はいなのだ」

 

 となぜかクラスメイトの少年の名前を語尾に疑問符を入れて読み上げると、元気よく返事が返ってくる。

 それから先生は、一度目を瞑ると、再び出席を読み上げて、それが終わると彼を呼ぶ。

 

「クロウちゃん、ちょっときてくれる? お話したいことがあったり?」

 

「いやなのだ。久しぶりにみんなといたいのだ」

 

 えっ、と驚く雪菜。雪菜だけではなく、聞いていたクラスメイトは皆、彼が師父でもある担任教師の誘いをそう素気無く断るとは思いもよらなかったのだ。

 そして、岬先生も、それを咎めはせず、

 

「そっかそっか……そんなに学校が楽しみだったり?」

 

「そうなのだ。とてもとても楽しみにしていたのだ―――だから、邪魔をされると暴れちゃうぞ」

 

 冗談みたく言うが、彼の馬力で駄々をこねられるのは洒落にならない。というより、『南宮クロウ』が暴力に訴えてくるのは珍しく、岬先生は困ったように笑みをやや引き攣らせる。

 教師と生徒であり、師父と弟子である両者の視線を逸らさぬ睨み合い、この我慢比べにも似た静かな攻防を制したのは、いつになく笑う少年の方であった。

 

「じゃあ、満足したら来てね。いつでも、待ってたり」

 

「了解なのだ、シャオシー」

 

 

 

つづく


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