ミックス・ブラッド   作:夜草

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十章
奈落の薔薇0


???

 

 

 ―――血統が劣化してきている。

 

 

 如何に知恵を絞ろうとも、純血も年代を経るごとに薄まるのはどうしようもない。

 忌まわしき吸血鬼(まぞく)のように血の記憶を引き継がせることなどできず、『閑古詠』に『闇白奈』のように世襲で引き継がせることもできない。

 生物科学的にどうしようもない。しかし正当なる力が弱まっている。

 かつての超古代人種の『天部』に匹敵するものは当主たる己を除いて存在しておらず、一族内に使えるのは、数限られる。今のところ正当な<禁忌四字(やぜ)>を名乗れる<過適応者(ハイパーアダプター)>は、妾腹の基樹のみ。

 そしてこの愚息も魔族と戦えるような強度(レベル)ではなく、薬に頼らねば満足に力も発揮できない出来損ない。

 まさに同じ始祖を持ち超能の血の流れる一族内でも己以外は皆見下されるべき劣悪種なのだ。

 我々が得た超能力とは、魔族魔術の一切ない世界においても魔力に頼らず超常を振るえる“選ばれた者の力”。この悲願が成就した世界で先導者(リーダー)となるものなのだ。

 だが、いくら多くの妾腹を用意し、多くの子供を作ろうが後継者には期待できず、いくら延命しても己の寿命は魔族よりも早くくるだろう。

 だから、己の代で成し遂げねばならぬ。自然資源を魔族より奪い返すだけではない、人間の在るべき世界を作り上げるために、己にはやらねばならないことがあり過ぎるのだから。

 

 そして、その礎を築く戦力を得るために我々一族は『魔族特区』で様々な試みをしてきた。

 己が手がけていたのは、獣人種の細胞を利用し、人間にも魔族に負けない身体能力を与える武装の開発。

 また他の『魔族特区』では、人工生命体(ホムンクルス)に<過適応者>を発現させようとした試みがあったが、ほとんどが失敗。先兵の量産は不可能という結論に達したという。

 ―――ならば、量産(かず)ではなく、品質(しつ)を求めた試みはどうであったか。

 

 『咎神』が未完成のまま遺し、現代の人の手でついに完成することができたが、『器』がなく、八つに分割するしか人には制御できず、<図書館>に死蔵された殺神兵器。

 人間に魔術を伝え、魔族をこの世に生み出したとされる『咎神』は、紅き龍――殺神兵器に力を与えられる獣の『器』を、『方舟』に雌雄(つがい)一組ずつ保管されていたすべての動物種から最も相性のいい選定を考察したが、

 最終的に『聖殲』から続く闘争淘汰で、現代にまでこの紅き龍に適合できる『器』の候補に残ったのはふたつの種族。

 

 あらゆる魔具に適応できるもっとも人間に近しい不滅の猴の末裔。

 

 魔具を使わずとも爪牙を使い戦える世界を食らう必壊の狼の末裔。

 

 これは在り方が対極的な一族であり、出会えば殺し合う犬猿の仲。

 どちらが『咎神』の殺神兵器を完了させる器たりえるか、最後の最後まで厳選に悩まされたが結局、魔女契約により禁断の叡智が与えられた、『咎神』の殺神兵器の完成を使命とする一族の外様は、破壊の遺伝子を『器』の材料とすることに決定した。

 

 決めてからは、自分たち以外に破壊の遺伝子が利用されぬよう、一族郎党を一匹残らず抹殺する計画を立てる。その血族が叛乱を起こすよう扇動し、世論を動かして世界すべてを敵に回すよう暗躍して『戦王領域』の<蛇遣い>までも動かした結果、テロリストとなれ果てた『獣王』と狼の末裔を狩り尽くし、残るは自分たちの手元にあるものだけとなった。

 

 破壊の遺伝子を独占することに成功し、すでに<過適応者>として廃れ、魔道に走るしかなかった傍流は、本家の遺伝子をも混ぜることで『咎神』が想定した以上の『器』を創り上げようと己にも協力を乞い実験出資を求める。

 当時ちょうど処理に困っていた――超能力の強度を高めるための試験の実験体(モルモット)となり過度の増強薬剤(ブースタードラッグ)投与で植物人間となり果てた――胎盤としてしか使い道のない親族の廃棄物(むすめ)をやり、

 品質のみを狂気的なまでに追求する<血途の魔女>はそれを『混血』を製造するための百獣母体という人工子宮に改造し―――過適応優良人造魔族(ハイブリット・コーディネイター)は誕生した。

 

 

回想 森

 

 

 血統には力だけを求めさせた――そこに■などあるはずがなく、

 

 環境には才だけを育てさせた――そこに■などあるはずがなく、

 

 運命には呪だけが与えられた――そこに■などあるはずがなく、

 

 

 けれど、■を知らぬ哀しき(どうぐ)は、■を持たない人形(どうぐ)のような魔女に出会う。

 

 

『オレは、(ここ)、出ないとダメなのか』

 

 

 霊地を去るその前に、『首輪』をつけられた獣は魔女に訊いた。

 怖れるような、太陽を見上げる土竜のような声だった。

 

『なんだ、お前の“お花摘み(わがまま)”を聞いてやったというのに、一歩も出る前から郷愁(ホームシック)か』

 

『違う』

 

 冷たく、獣は切り落とした。そうしなければ、立っていられないという風でもあった。

 ぽつりと―――こう呟く。

 

『見たく、ない』

 

『なに?』

 

『知りたくない、気づきたくない、お前なんかについていきたくない』

 

 拒絶しながらも話は聞いてくれる魔女を見つめ、獣は言い募る。

 感情を露わとするのがまだ苦手なのか顔は無表情、けれどもその声は激情に震えていた。それまで従順な道具のようだった雰囲気は跡形もなく消え去り、代わりにひどく人間的な―――怒りに似た感情が獣を支配していた。

 

 ギチリ、と嵌められた『首輪(かせ)』が鳴る。

 獣が、感情を抑え切れず、肉体を完全なる獣に変生しようとしているのだ。

 ただ獣気が零れ出しただけで、施した封を軋ませた。<神獣化>。獣の変生は『首輪』に抑えられているのだとしても、完全に遮断し切ることまではかなわない。

 

『……わからないままで、よかったのだ』

 

 獣は、吐露する。

 破壊しか能のない獣だから、“そんなもの”に縁はないと。殺戮機械(キリングマシン)が、“そんなもの”に触れれば壊れると。

 だから、この光ある世界の届かない極夜を抜け出すな。

 思っていた。

 思ったままで良かった。

 なのに。

 

『それは駄目だ。お前は私の使い魔(サーヴァント)となった』

 

 この森になかったものを、見せられることになる。それがわかる。わかってしまう。

 家族を弄び、創造主を見殺しにし、獣に成り果てるはずだったのに、今更、“当たり前”の世界に連れて行く―――それはきっと、自分の生きていた現実が、ただ単に不幸なだけだと思い知らされるだろう。この世界にはちゃんと幸福な現象があって、そこに自分は手が届かなかっただけなのだと認識させられるだろう。

 

 そう、どうあっても触れられない、触れてはならないはずなのに―――届くところになんてあったら、羨ましくて壊したくなるほどに手を伸ばしそうになるのに。

 

 だから。

 理不尽だろうが、不合理だろうが。

 横紙破りだろうが、出鱈目だろうが。

 必死で、ありったけで、魔女を批難する。そうしないと立ってもいられない。そうしないと意地を張ってもいられなかった。

 

()の先に―――』

 

 と、獣ではない、少年は口にした。

 

()の先に、オレがいてもいい“居場所”はあるのか?』

 

『………』

 

 無言のまま促す魔女に、獣の少年は言葉を続ける。

 

『オレは、(ここ)から、出ちゃいけない。だって、あるだけでみんな壊すオレが居ていい場所は、あるはずない』

 

 依然と目を逸らさず、離れもしない魔女から、少年は顔を背け、後ずさった。この手には、いくつものモノを壊してきたときの感触が、鮮明に残っている。

 迷いが蘇る。

 

『オレはもう、これ以上……イヤだ』

 

 自分の存在は、本当に許されるものなのだろうか?

 目の前の魔女に、従うだけの価値があるのだろうか?

 行く先々で外の世界を壊していくことになる―――この予感にさえ耐えられないというのに……

 

『壊すのは、イヤなんだ……』

 

 どれだけ強い肉体があろうと、心までは強くない。

 無菌室で純粋培養されたようなものが、外気に晒されて生きていけるほど強くないのだ。

 唇を噛んで俯く己の使い魔を見て、魔女は鼻を鳴らして告げる。

 

『森から出るぞ』

 

 端的に、先程と何ら変わりない口調で言う。

 

『私の任務は、この霊地にいる害獣駆除だ。お前がここにいては具合が悪い。『魔族特区』で管理するのが―――』

『イヤだって言ってるだろっ!』

 

 とうとう堪えきれず、少年は叫んだ。銀毛に生え変わる部分的に獣化した右腕で、魔女のドレスに掴みかかる。

 

『壊すのがわかってるのに、なんで連れてく! なんで、そんなことまでしてオレを……! オレは、このまま壊れてよかったのに!』

 

 魔女は抵抗しなかった。この前は捕まえたくても、捕まえられなかったのに。がくがくと華奢な身体を揺さぶられながら、酷薄な薄笑いを浮かべて獣を見つめ返す。

 

『壊すのがわかってる? ―――何を“当たり前”のことを言っている。自分を含めて誰も傷つかないまま、生きていけるとでも思っているのかこの井の中の蛙が』

 

『―――』

 

 目を見開く少年。

 

『そんなのは、ただの傲慢だ。お前も私も、神様ではない。どこへ行こうが、何を目指そうが、結局は何かを傷つけながら生きていく。

 奈落の底から抜け出し、ありふれた日常を望もうと、ひとりの親友を切り捨てるような愚か者もいるのだ』

 

 獣の手が、魔女のドレスを放した。唇を噛み締める。

 

『誰でも、どこにも逃げ場などない。あるのは精々、生きるための方法を選ぶ権利だけだ。そして、死んでしまえば……選ぶことさえ、できなくなる。

 ―――私は何も選ばぬまま死のうとするお前の目が気に喰わない』

 

『っ、オレは、(ここ)で』

『違うな。それは成り行きだ。お前がお前の意思で選んだものではない。ふん、世間知らずが生き方を選択できるようになるまで教える物事があり過ぎるな。そして、(ここ)では狭すぎる。なにより私が教える環境に相応しくない。だから、森を出るぞ。

 お前は世界の広さをその目で見て、壊す以外の感触を知ってみろ。そして、己の世界の狭さに気づけ』

 

 見たくない。

 知りたくない。

 気づきたくない。

 そう叫ぶ獣の少年を、それでも連れて行く。そして、教えると魔女は言う。

 

 俯き震える獣の少年をそれ以上、魔女は見なかった。踵を返し、背を向ける。そして、足は陽光(ひかり)が射す極夜(もり)の入口へ―――

 

『いいから、私についてこい。こんな馬鹿犬でも使い魔(サーヴァント)の面倒くらいみるつもりだ。そもそも子供(ガキ)が暴れたところで何を心配する必要がある。まったく杞憂もいいところだ。あれだけ壊そうと思っても壊せないのだ。子供の癇癪くらいで世界がそう簡単に壊れてたまるものか』

 

 獣の少年は押し黙ったまま、重い足取りで歩き出す。主人の魔女の後を追って―――一歩、森の先へ踏み出した。

 

 

街中

 

 

 太平洋のド真ん中、東京の南方海上330km付近に浮かぶ人工島絃神島。最先端の学究都市にして、人類と魔族が共存する国内唯一の『魔族特区』。

 

 だがその常夏の『魔族特区』は地域特性上、年間を通じて、ある脅威にさらされる。

 熱帯・亜熱帯地方の洋上で発生し、暴風や豪雨によって甚大な被害を及ぼす自然災害―――

 すなわち、台風である。

 

(……モノレール、停まっています)

 

 スマホの交通情報の画面を眺めて、少女はやや困ったように眉を寄せる。

 身長150cmに満たない小柄な少女だ。年齢は十代の半ばほど。ハンチング帽をかぶり、身につけた白いシャツと吊りスカートのせいで、名門校に通う小学生のように見えなくもない。

 顔立ちも幼く、気弱げだ。やや吊り目がちの大きな瞳が可愛らしいが、取り立てて目立つような容姿ではない。

 ただこの雨天に肝心な彼女は傘を忘れていた。

 この常夏の人工島に来たばかりの彼女は、予報を知っていてもここまで急に振ってくるものだとは思ってはおらず、またチェロ用の黒い運搬ケースという大荷物を持ち歩き、それから下見ついでに頼まれた『るる屋』のアイスを買うつもりであった。両手は埋まる予定であるため余裕(あき)を作っておかなければならず、あまり他に物を持ちたくなかった。

 

 このチェロケースをあまり濡らしたくはない。ケースは防水処理されているのだとしても、心情的に嫌なのだ。この中にあるのは、己の存在意義といってもいい、肌身離さず常に携帯するほど大事な仕事道具。

 けれど、

 

(……に連絡すれば、迎えに来てくれる。でも……)

 

 必要以上に仲間に迷惑はかけたくない。

 計画前に土地勘をつけておきたくてもう一度下見をしたいと申し出たのは自分、買い出しを請け負ったのも自分だ。天気予報を見て、低い降水確率ながらそれでも傘を持たずに出かけた自分。

 だから、これは自分の責任。

 

(でも、早く帰らないと心配される……)

 

 スマホに表示される時刻は午後五時を過ぎたばかりだが、空は真夜中のように暗かった。絃神島全域が、昼過ぎから、今年最初の台風の暴風域に入っているのだ。

 バスも全便運休、速報に流れてきたニュースによると幹線道路が通行止めになっているようだ。

 これでは傘があっても、強風に煽られ壊れてしまっていただろう。

 

(歩いて帰るのは、難しい。でも、迎えに着たら大変……)

 

 道路は冠水している。

 泳ぎはできるがチェロケースにアイスを両手にはさすがに無理がある。

 街路樹が物凄い勢いで揺れており、明らかに出歩くのは危険な状況だ。

 交通機関は麻痺しているし、雨風のピークはまだ越していない。やはり、仲間に迎えを呼ぶべきだろう。

 そんな自分にはどうしようもない状況だとわかっているのに、迷い躊躇って、スマホを握ったまま固まっている。滝壺に流れ落ちる激流のような音を立て、何かが斜面を滑り落ちてきたのは、その直後だった。

 無人の軽トラックが濁った泥水に乗って、かなりの勢いで押し流されてくる。

 水に浸かって動かなくなったため、坂の上に乗り捨てられていたらしい。雨を吸って柔らかくなった斜面が崩れ、土砂と街路樹と一緒に流れてきたのだ。

 軽トラックは斜めに傾いた哀れな姿で、ちょうどこちらが雨宿りする飲食店の店先の真ん前――車道と歩道を隔てる排水溝にはまって停止した。土砂に埋もれた排水溝から、流れていた泥水が溢れ出し、薄汚れた車体がたちまち沈んでいく。放っておいても危険はなさそうだ―――が、

 

(犬……!?)

 

 その光景を視認して、息を呑む。軽トラックの荷台の幌の上で震えている、小さな生き物に気づいたのだ。

 おそらく逃げ込んだ軽トラックごと流されてしまったのだろう。このままだとまずい。

 溢れ出す濁流は勢いを増して、軽トラックを再び押し流そうとしている。ただでさえ激しい風に晒されて弱った仔犬に、そこから逃れる力はない。

 それを直感的に理解した瞬間―――自分が拾われた境遇とふと重なった。

 

 この“中途半端な”肉体ゆえに、幼少時より苛烈な虐待を受け、無能と謗られ、暴力を浴びた。人間の社会でも魔族の共同体でも、常に異物で孤独。

 そんな両親からも見放され、飢えに苦しみ、寒さに凍えて死を待つばかりだったその時―――“彼女”が自分を拾ってくれた。

 

 だから、だろうか。考えるよりも先に体は動いていた。

 

「しっ!」

 

 重荷になる荷物を置いて、一気に軽トラックの上へと飛び乗った。雨水に滑る屋根にバランスを崩しながらも、無事に着地。そして素早く手を伸ばし、震えている子犬を抱き上げる。

 しかしここで不運に見舞われる。叩きつけてくるような暴風と濁流に耐えかねて、少女を乗せたまま軽トラックが横転。少女は犬を抱えたまま、濁流の中へと転倒したのだ。

 

「げほっ!」

 

 必死に戻ろうとするが、軽トラックすら押し流す濁流に抵抗できるはずもなかった。立ち上がることすらままならないまま、泥水の中に呑み込まれる。そして―――

 このままでは死ぬ、と他人事のように意識した瞬間、雨宿りをしていた店先より飛び出した人影を見た。

 

「今行くぞ―――!」

 

 それは執事服を着た少年。大きな枷のような『首輪』を嵌める彼は、先程の少女のように泥水の流れる道路へ躊躇なく跳躍し―――濁流の上をまた跳ねた。

 この急流を水面疾駆してそのまま子犬を抱いた少女を引き上げると、そのまま少女一人を軽々と片腕で抱えて、店先へと帰還する。

 

 

紅魔館二号店

 

 

「今日は外がこんな調子で、ぜんぜん客が来てないから良かったけど、うちの制服をもっと大事にしなさいよ! ものすっごく細かく意匠に凝って手縫いで作ってるんだから!」

 

 出迎えてくれたのは、先まで店先で雨宿りをさせてもらっていた魔族喫茶『紅魔館』二号店の女店長。

 ブルネットの髪をなびかせた若い女で、彫りの深い端麗な顔立ちをしている。女子大生くらいの年代だが、その右腕に付けている魔族登録証から察して、見た目通りの年齢ではないのだろう。

 悪の女幹部めいた服を着ているのだが、彼女からは暴力的な匂いがしない。箱入りお嬢様が世間にもまれて成長したけれど、それでも本質的な甘っちょろさは出てしまうというような感じだ。

 

「むぅ、悪かったのだ。とっさのことで着替えてる余裕がなかった」

 

「はぁ。緊急なのはここから見てたからわかってるけど……また面倒な客を連れてきたわね」

 

 制服をずぶ濡れにしたバイト店員を叱りつけると、同じく全身ずぶ濡れの少女を女店長は見た。正確には帽子が脱げてあらわとなった頭に生えている大きな獣耳―――それから、身体のどこにも魔族登録証がないことを確認した。

 それを相手の目の動きでこちらも判断して、少女は息を呑んだ。

 

 未登録魔族。

 人間と魔族が共存する『魔族特区』だが、魔族は管理公社の監視下で住民権が与えられている。その証である登録証がなければ、それは特区条約に反しており、違反者として捕まる。

 

(まずい……)

 

 早く逃げださないと、と女店長が回収しておいてくれた荷物の位置を目を動かさずに確認し、それから疾走するために腰を落とした―――ところで、腕から抜け出した仔犬が店内で濡れ鼠の身体をぶるぶると震わして水気を飛ばす。

 

「あー、もう……! ―――義経! あんたはとっとと着替えて、それから女性用の制服なんでもいいから持ってきなさい! 今すぐ!」

 

「了解だぞカルアナ」

 

「店長を呼び捨てにするな!」

 

 女店長は張り詰めた空気も吹き飛ばすかのように大きなため息をつくと、バイト店員を左胸元の名札に書かれてる源氏名で呼んで指示を出す。そして用意していたバスタオルを少女の頭の上にかぶせ、それからもう一枚で捨て仔犬を拭く。

 

「店内がビショビショよもう! あとでモップ掛けさせないと……何ぼうっとしてるのよアンタも、さっさと身体拭きなさい。風邪引くわよ」

 

「あ、……」

 

 ぷりぷりと怒りながらもどこかこちらを気遣ってくれるような女店長に戸惑う。

 

「あの、ごめんなさい……」

 

「別に謝らなくていいわよ。開けてたけど、ほとんど休業みたいなもんだったし。客だけでなく店員も臨時(レンタル)ひとりでふたりしかいないわ。本当、経営のやりくりが難しいのよね。ここが食料自給率が限りなく低い人工島だってのはわかってるんだけど、それにしても物価が高過ぎるし。かといってあまり値段をつり上げると客が来なくなるし、ま、だからそこは味以外のサービスを売りにして勝負してるんだけど、魔族喫茶の店員を教育するのがまた難しくて、ひとりひとりの持ち味(こせい)にあった武器(キャラ)作りをしないと一人前とは認められないって本店長から言われてるし……なのに、あの野郎は大事な勝負服のまま外に飛び出すんだから~~~!」

 

 怒りの矛先も、バイト少年に向けられているようで、あまり少女には気にしてないようだ。未登録魔族ということにも。

 

「まあ、この前の『滅びの王朝』の殿下を店に連れてきたときよりは全然マシだけどね。友達を連れてきた、って、普通は学生とかそういうものでしょ! しかもラーメンをご所望されたし! 魔族喫茶(こうまかん)のメニュー表にないわよそんなの! でもしょうがないから急遽裏メニューでトマトをこれでもかとふんだんに使った血の池ラーメンを作ってやったのだわ! 実質、汁だくのスープパスタだけどね!」

 

 ……よっぽど日頃の鬱憤が溜まっているのか、先から愚痴が止まらない。聴かされるこちらとしても反応に困る。

 ただひとつだけ、あきらかなことがある。この魔族(ひと)は、こちらの事情を話すことを望んでいない。止まらない愚痴は、いうなれば言葉のバリアだ。黙っていれば、沈黙に焦りを覚えたはず。だから、喋り続けることで、言いたくないことがあるなら言わなくていい、と不干渉の構えを見せているのだ。

 だから、少女は何も言わず、濡れた身体を拭く―――そこで、ちゃっちゃと着替えを済ませて戻ってきた臨時バイトの少年。

 

「カルアナ、これでいいかー?」

 

「これ私の舞台衣装じゃない! なんで『紅魔館(うち)』で一番重要な看板持ってくんのよ! ああ、もう良くないけどこれでいいわ!」

 

 替えの衣装を受け取ると、タオルで拭いた子犬を女店長はバイト少年に押し付ける。

 

「着替えさせるから、フロアから出なさい。それとガンクレ、……この仔犬()の世話と、あと温かいものを用意して」

 

「人使い荒いな、カルアナ。というかもう名前付けたんだな。でも、オレ、緑茶しか淹れられないけど、それでいいのか?」

 

「なに、いつも雛みたいに後ろに引っ付いてる人工生命体(ホムンクルス)はいないの? 呼んだらすぐ来るでしょあのメイド」

 

「ん、なんかオレが原因で新入居者が来てな。それで、機嫌が悪くなったご主人から言い渡された罰だから、後輩の手は借りちゃダメなんだぞ」

 

「無償で労働力が手に入るのはいいけど、あんたの飼い主、私の店を犬のしつけ教室と勘違いしてないかしら? というかあんた臨時でも一応魔族喫茶の店員でしょう。なのに珈琲紅茶の淹れ方がわかんないとかもう……」

 

「誰でも得意不得意はあるのだ。カルアナも最初はお塩とお砂糖を間違えちゃうドジっ娘だったぞ」

 

「ああ、わかったわかった、グリーンティーで良いわ。あと店長を呼び捨てにするな!」

 

 追い払うようにバイト少年をフロアから出させると、小声で、

 

「(バレてるでしょうけど、一応、あいつに未登録だってのは隠しておきなさい。突っ込ませると無理やりにでも管理公社に連れて行かれるでしょうから)」

 

「……!」

 

 咄嗟に逃げ出そうとした少女を、女店長は手首を捕まえて引き止める。

 

「(だから、余計なことして突っ込ませるなって言ってんの! 普通にしてれば別にアイツも見逃すでしょうけど、なんか妙な真似でもされると流石に見逃さないわよ!)」

 

 野生動物と遭遇した際、慌てて背を見せて逃げるのは悪手。余計な刺激をしないのが鉄則だ。

 

(そしたらもう逃げようとしても無駄。あんたが足に自信のある獣人種でも、アイツからしたらのろまな亀。一度突っ込んだからもう絶対に逃げられない。店の全財産を賭けてもいいわ)」

 

 やれやれ、と嘆息する女店長。

 こちらもあの少年の運動能力を理解していないわけではない。水面を走るほどの脚力にはさすがに敵わないのはわかっている。

 少女自身の筋力の最大値や敏捷性は、常人の精々五倍がいいところ。獣人種の中では際立って脆弱で、攻魔師など鍛えた大人の男性と力勝負で負けるくらいの筋力だ。

 完全な人間の姿になることも、獣の姿に変わることもできない、極めて力の弱い獣人。髪を長くのばしてみても、小型犬に似た大きな獣耳を、他人の目から隠すことができない。

 だから、人間にも魔族にも混ざれなかった―――

 

 ―――だが、人間だろうが魔族だろうがそんなことなど関係なしに、女店長は真剣な口調で、忠告する。

 

「(いい、訳ありなのはわかるけど、逃げようとしても無駄。アイツに見つかったらそれはもう運の尽きとしか言いようがない。だから、普通に大人しくしていなさい……まあ、でも、アイツに捕まるのは幸運よ)」

 

 たぶんね、と深い溜息とともに言葉を零す女店長。そんな妙に実感のこもった口調で語られて、それが忠告か愚痴なのか判断つかないが、少女は首を縦に振った。

 

「わかり、ました……」

 

 こちらとしても計画前に事を荒立てるような真似は控えたい。悪目立ちすればそれだけ成功率は下がるのだから。下手をすれば仲間達まで巻き込まれる。

 ここは大人しく、彼女の言うことを聞いておく。

 そして、着替え終わり、少女が着ていた――“彼女”が選んでくれた――服を乾燥機に入れたところで、緑茶を持ってバイト少年『義経』がフロアに戻ってきた。

 

 

 傍から見ると、奇怪な状況。

 早く荷物を抱えてお暇したいが、怪しまれるわけにはいかない事情を抱える少女。

 何だかんだで少年を信頼しているようだけど、少女にもなんとなく同情している女店長。

 そして、一応は命の恩人であって、けれど女店長に告げ口されて最も警戒されている少年。

 

 

 そんな中で、空気を読まず、自分の分のお茶を一服してから口を開いたのは、やはり少年だった。

 

「そういえば、お前も獣人なんだな」

 

「私、も?」

 

 共感を含むような言い方に思わず反応を示した少女に、んん~、と目を瞑り踏ん張るような唸り声をあげて、ぽん、と少女と同じように頭に獣耳を生やす少年。

 あの水面疾走の力技を目の当たりにした少女はやはりと納得することもあったが、それでも目を瞠る。

 獣人種の人と獣の割合――獣化率が、男性は女性に比べて高いと言われている。

 <神獣化>の完全なる獣を100%の獣化率として、獣人種の男性は高い獣化率が多いが、女性は50%から10%と部分的な獣化が普通なのだ。

 

 獣化率の低い女性は、力が弱いがその分だけ繊細で器用だ。

 あの獣化能力を持った第三真祖は、数多の変身が可能であるというように変身を極めれば多様な技が可能となろう。例えばジャコウネコ科獣人種であれば、フェロモン系統に特化した部分獣化を行うことで催眠効果を発揮する特殊技能。また『分福茶釜』のように鉱物として変化もできるものもいる。

 

 けれども、獣人種の男性はたいていが小細工など無用、万事力技で解決するのが手っ取り早くて一番と考えている節があり、腕っぷしが弱い、すなわち獣化率が低いほど劣等種という価値観が獣人種全体にある。

 

「ほれ、お揃いだぞ」

 

 だから、部分獣化をやれる男性というのは珍しい。

 相当な訓練を積まなければ、獣化率の細かな制御などできないし、そんな真似をする必要性がない。ゼロか全力(マックス)、それだけでいいのだ。

 

「本当、無駄なところで器用ね。普通の獣人種はそんなことしないわよ」

 

「『魔族特区』では加減を覚えるのが大事だからなー。う、力馬鹿の脳筋になるな、とご主人から厳しく言われてる」

 

「まあ、人間と暮らしていく上では必須のスキルなのかしらね」

 

「それだけじゃないぞ。力の制御は狩りにも重要なのだ。(もり)では必要最小限の力で動ける女性の方が狩りは上手だったしなー。う、兄たちよりも姉たちの方がお手本になったぞ」

 

 わしわしと仔犬を撫でながら、少年は女店長を見つめ、

 

「カルアナ、店長は、眷獣の使えない吸血鬼だけど」

 

「憶えてないけど、あなたにそれを言われたくない気がするわね」

 

「舞台で霧化の演出がすごいよなー。ぶわぁって、迫力があるとオレは思うぞ」

 

「ま、まあ、その辺はちょっと自信あるわね……」

 

「あとやられっぷりが良い、あれは主役が栄えるってフォリりんが言ってた」

 

「その王女プロデューサー、本当にいい度胸してるわよね。私、『戦王領域』の貴族で『旧き世代』だったのよ」

 

 少しだけ……興味が出てきた。

 眷獣の使えない吸血鬼など、吸血行為をしたことのない未熟者と同じ。この獣化率10%で固定されている少女自身の境遇と似ている。

 なのに、この魔族(ひと)は自立しているようだった。

 

(―――でも、私にはどうでもいい)

 

 命を救われようが、もう“彼女”に救われた。

 道を示されようが、もう“彼女”に示された。

 もう自分に必要とするものはなくて、満たされている。

 だから、それで十分。

 目的も復習にも興味はない、けれど、恩人も先人も、“彼女”のためとあらば―――撃てる。

 

 

人工島北地区 港

 

 

「……この先の座標にあるか」

 

 夜闇が溶け込むような暗い海を遠い目で見渡して言葉を零したのは、よれた灰色のジャケットを着た中年男性。その体つきは意外に筋肉質であるが、無造作に伸ばした長髪のせいで、芸術家のような雰囲気がある。彫刻家。或いは美術教師というような印象を受ける男だ。

 

 今、彼が見据える桟橋の先には、『魔族特区』においてもまことしやかに噂される都市伝説が眠っている。実際、『波朧院フェスタ』に現世にその威容を晒した。

 だが実在すると知るにしても、その座標位置を探すのに魔女たちは『遠見』の魔導書の補助を受けても一日以上の時間をかけていた。

 それを単独で、“ただこの土地を読み解くだけ”であっさりと辿り着いたこの男の正体は、かつて『東洋の至宝』と称賛され、欧州の魔術会を震撼させた天才風水術師。

 そして、都市伝説<監獄結界>の『鍵』たる魔女の―――

 

「海を見渡して呆けるとは、もう痴呆が始まったのか?」

 

 唐突に夜気に響いた辛辣な言葉に、男のくぐもった笑いが応える。

 

「いや、生徒がこの島でどんな生活をしてるのかを自分の目で確かめたくてね。安心しろ那月、私の老後をまだ心配する必要はない」

 

 長い髪を揺らすことなく、彼女は何もない虚空より現れた。

 まるで西洋人形のように、いとけない容姿の女。

 けれど、その凛とした彼女の在り方は、『旧き世代』の夜の王たちにも劣らぬカリスマを見せている。

 そう。

 この数多の凶悪な魔導犯罪者を異空間に閉じ込める監獄の番人は、夜気より深い闇を纏っていなくてはならない。

 港に吹く海風も、息を潜めるよう凪に。

 空間ですらその整った美貌を煽ることが許されない、そんな登場したこの人工島で五指に入る実力者<空隙の魔女>の威光から、男――千賀毅人は目を逸らさず、

 

「ここに探りを入れておいてなんだが、突然の訪問でまさか出迎えてくれるとは思わなかった」

 

「“まだ”ここでは何もしてないようだからな、多少は昔の馴染みに配慮してやる」

 

 千賀の言葉に、にべもなく女は返す。その口調こそ大人びているが、外見相応の舌足らずな声音。千賀はそれに懐古するよう目を細め苦笑を零す。

 

「南宮那月……15年ぶりか。変わらないな、おまえは」

 

「貴様は老けたな、千賀毅人。だが、中身は大して成長してないようだ」

 

 それに対して、蔑む色を含ませる怜悧な表情を那月は浮かべた。

 欧州で最後の邂逅では、千賀は二十代半ばで、那月はその見た目通りの年齢で普通の人間だった。

 

「変わらない、か……だが、それはお前も同じだろう? 『魔族殺し』の<空隙の魔女>―――」

 

 そして、那月に悪魔との契約方法を教授し、魔女となるきっかけを与えたのは、この千賀剛毅。

 

「<タルタロス・ラプス>――なんて御大層な名前を付けた『魔族特区』破壊集団で、今も子供たちを利用しているのか、千賀毅人」

 

「利用とは心外だな。俺は先生として彼らに力の使い方を教えただけだ。かつてのお前と同じようにな」

 

「『魔族特区』の破壊は、子供たちの意思だと?」

 

 那月の声にかすかな怒気がのせられる。

 千賀は認めるように重々しく頷いて―――古傷を抉るように唱えた。

 

「ああ。お前も、拾った子供を“立派な殺神兵器に育てた”じゃないか、それも我々に相応しい」

 

「なに」

 

「言葉には言霊がある。心がその名を受ければ名はやがて体を成す。面白い話だ。<黒妖犬(ヘルハウンド)>などと<奈落の猟犬(タルタロス・ラプス)>にあつらえたようにピッタリな異名で呼ばれている―――まさに傑作だ。偶然に出来上がったのだとしても、それは運命に呪われ(愛され)ていると言ってもいい」

 

 “奈落(タルタロス)”の暴風雨(さいやく)に等しき、狙った獲物をけして逃さない優秀な“猟犬(ラプス)”。

 これが、破壊集団(テロリスト)が代々掲げてきた組織名―――それと相似した『黒妖犬』という異名。

 

「15年前に俺たちの元を去ったが、やはり三つ子の魂は百まで変わらないものだ。<タルタロス・ラプス>は思想に洗脳されるのではない。思想を共有するものだから集った。抜けだしたと思っているようだが、<タルタロス・ラプス>に自ら入ったのならお前の根っこから破壊意思はあったのだ」

 

 風もないのに長い髪がさわさわと揺れ動く。

 

「戯言はそれで終いか?」

 

 幼い少女にしか見えない魔女から濃密な死の空気が噴き出す。琴線に無遠慮に逆撫でされて放たれるのは、見た者の眼球どころか心臓まで潰しかねないほどの漆黒の魔力。

 

「貴様がこの絃神島で何をしようとしているかは知らん。だが、ここで倒せばその計画は机上の空論に成り果てる」

 

 しかし、それを前にして千賀は薄く嗤う。

 

「いささか拍子抜けだな。俺を捕まえに来たというが、使い魔(サーヴァント)を連れてないとはな。―――もしやおまえの昔話を聞かせたくなかったのか?」

 

 揶揄するように口元を歪める千賀は―――反応さえもできない。

 

 

「……フン。必要ない―――が正解だ」

 

 

 それは一瞬の出来事。

 あまりにも自然に、目を奪うほど洗練されたその挙動。

 魔女は取り出した扇子を男に向けた。

 瞬時に、その空間ごと縫い合わせるよう虚空より伸びた銀鎖<戒めの鎖(レーシング)>が千賀毅人の全身に絡みつく。

 超高等魔術である、<空隙の魔女>の空間制御。

 彼女の使い魔の武力制圧が時代劇の居合抜きなら、

 主人の魔女の魔術捕縛は手品師の指芸のようだ。見る者の意識の隙を突いて、鮮やかに大胆に、何より気づかれることなく、目的を終えている。

 鎖は蜘蛛の巣が獲物を捕らえるよう男を縛り、そして―――“男の変身が解かれた”。

 

 

「ひひっ―――」

 

 

 喜色に歪む顔つきから、笑い声が転がる。

 

「変化か。化生の類いだな」

 

「油断はしてなかったが避けられなかったわい。惚れ惚れするタイミングじゃ。毅人の言う通り、魔術の腕は確かだのうお主」

 

 良い見世物じゃった、と拍手を送るのは、紫色の道着を纏う男。中肉中背、深い皺の刻まれた頭は老境に差し掛かった男のそれで、撫でつけた髪や太い眉も真っ白だ。

 ―――そして、肉体に食い込むほど縛りつけていた神々が打ち鍛えた封鎖がその指先に撫でられただけで、解けた。

 

「しかし、残念ながらあらゆる魔具は儂に跪く」

 

「ちっ―――」

 

 舌打ちをする那月。

 <戒めの鎖>を無用の長物とした今のは、<解鎖>。あらゆる封印拘束を無効化する術だ。<仙姑>後輩の笹崎岬のような<四仙拳>クラスの達人でようやく実戦で扱える術だ。

 それをさらりとこなすということは、あの技量は少なく見積もっても後輩拳士と同格か。

 

「ほうれ、分析してる余裕はあるのか」

 

 縛鎖を解いた翁は何もしなかった。

 指を動かさず、呪文も唱えず、触媒も取り出さず―――少なくとも外に見えるような仕草はないもなかった。

 なのに。

 空気が鳴った。

 雷鳴が響き渡り、ありえぬ紫の雷が翁と那月を繋いだのだ。

 割って入る鎖とぶつかり、雷がブレる。地中に落雷を流すアース線の役割を果たして、巧くダメージを逸らした。大きく火花を散らし、港の地盤は大きく裂け、焦げた臭いを発した。

 それでも神々が打ち鍛えた銀鎖の防御は魔女を守り抜き、熱量の僅か千分の一足らずが、魔女の首元を焼くに留めた。

 

「<舌訣>まで知っとるとは。若いに似合わず、実践豊富に育っているな、よいよい」

 

 舌を用いて行う術<舌訣>。

 口内で舌先を使い、一定の文字を描くことで、術を起動するやり方だった。

 詠唱もいらず、相手に見抜かれる心配の低いことから、実戦派のごくわずかの攻魔師が使う技術。

 那月はこれも笹崎岬に見せてもらったことがあるから、対応ができた。

 だが、<仙姑>でもこうまで挙動を悟らせないほどではなかった。

 

(大陸系とは面倒な……!)

 

 那月は相手の使う術を看破した。

 大陸に伝わる、つまりより高次の階梯に至ろうとする仙人たちの使う魔術だ。欧州魔女系が基盤とする彼女には専門外で―――相性が悪い。

 

「じゃが、仕事だ。まだ“量って”みたいが、ヌシを逃がすわけにはいかないのでな」

 

 指を立てた手印を向け、那月を捉えた。

 <定身>。標的を金縛りにする術。

 

 後輩の<四仙拳>を苦手とするのは、あれの道術が、物理干渉ではなく、精神的に責める―――つまり、この幻像の身体にも効くからだ。

 

「―――」

 

 那月は腕を上げることを意識したが、身体が指一本動かない。

 抵抗させる間も与えない、問答無用の仙法の金縛りだった。物理的な運動ではなく、行動それ自体を禁じる類いの精神に働きかける術理らしい。

 

 ……に、しても、巧い。

 術の速度ではない。こちらの呼吸、次の手に入る前の間隙を突く術の巧さは、魔術戦の何たるかを熟知しているものだ。

 

「詰み手は見えとる。そうそうに片付け(トドメと)させてもらおうかの」

 

 そういって、身動きのできない那月へ、翁は毛を抜いて、宙に舞い飛ばすよう息で吹き―――瞬間に変生する。

 

獣化(へんげ)を窮めた儂にとって、神々が打ち鍛えたとされる鎖もこの通り、“毛程の価値しかない”」

 

 自動補足して標的を斬り倒す、月のように刀身が反り返った曲刀。

 障壁貫通属性を持つ、両端が太い棒状の杵。

 一撃で山を半壊するほどの破壊力を有する棍棒。

 二刀一対で互いに引き合い、反射光で断つ夫婦剣。

 投擲すれば火炎を噴き上げる百発百中の手裏剣。

 

 抜き身の凶器はどれも目を奪われるほどの装飾に彩られ、のみならず隠しようもないほど猛烈な魔力を放っていた。明らかに尋常な武具ではなく、神造の<戒めの鎖>に勝るとも劣らぬ一級の魔具たる『宝貝(バオペエ)』に、翁の白毛が“変生した”のだ。

 

 そして、『宝貝』の切先が見据えるのは、金縛りに封じられた<空隙の魔女>である。

 

「鎖の返礼じゃ。余さず受けとれい!」

 

 喜々とした返礼と共に、『宝貝』が虚空を奔る。

 『毛程の価値もない』と謳うその通りなのだとしても、その魔具の扱いは無造作きわまる。魔術師・道士にとって切り札となりうるほどの一級品の魔具を、石礫も同然に投げつける異常性はなんと杜撰なことか。あれほどの神秘を分別なく大量生産してしまえるだけでも冒涜的だというのに。

 それでも、量産された神秘は現実を捻じ伏せる。一撃で使い捨てる『宝貝』は、爆撃の如く、木端微塵に港を砕き、視野を粉塵で覆い尽くす絶大の破壊力―――それを真空の空間制御で一掃する魔女。

 

「なるほど、『石猿(サル)』か。それも骨董品(アンティーク)以上の化石ときたか」

 

 手足はおろか指一本動かせないはずの魔女は、地の底――己の影より。

 地面を震撼させて、己が契約した黄金の<守護者>を喚んでいた。

 

「!」

 

 機械仕掛けの悪魔騎士が契約者の影より完全に姿を現す前に、翁――『石猿』はさらに今度は倍に数を増やして『宝貝』を追加量産する。第二波の多種多様な『宝貝』の群れ、だがもう、何もかもが遅い。

 

「起きろ、<輪環王(ラインゴルド)>」

 

 時空の乱れる魔女の領域。

 使用に制限が課されるほど凶悪な、黄金の<守護者>の魔力。これを解放。

 只ならぬ気配に、『石猿』は遊ぶ余裕なしと瞬時に理解する。

 

「《動くな》!」

 

 たまらず緊縛を狙う<定身の法>。片手で印形をつくり、刀を振り下ろすかのように魔女の切り札へ素早く振り下ろした。

 だがそんな小手先の技が、この巨大な身体と魔力を持つ悪魔に、どれほどの意味があるのか。

 

「釣りを返させてもらうぞ」

 

 魔女の動きを縛ろうが些細なこと。

 機械仕掛けの騎士は自由気ままに右腕を持ち上げ、足元の空間より伸びてきた茨に身動きを封じられた『石猿』に一片の容赦なく叩きつける。

 それをもろに受けた翁は完膚なきまでに粉砕された。

 魔女と石猿の戦いはこれで勝敗は決した………………

 

「……、」

 

「これで終わりと思うたか?」

 

 港のコンテナ、その陰より。

 ひたり、という音があった。

 ひたりひたり、とその音はどんどん増えて、膨らんで、一面を覆い尽くしていく。

 

「まっこと残念じゃが、<白石猿>は“不滅”、数の概念は通用せんのよ」

 

「……玩具は“貴様自身も含めて”いたか。大量生産して増殖するとはまさにゴキブリだな」

 

 すなわち。

 まったく同じ規格の『石猿』の群れ。

 無機質な猴の王達が、軽く見積もっても百以上で港に立っていた。

 魔術どころか、生命すらも冒涜するその在り方に、魔女はより険しく目つきを細め、だが動くよりも早く、

 

「しかし儂は準備を済ませるまでの前座よ。時は十分稼いだぞ、毅人」

 

 これより、技を競い合う戦いではなく、罠に囚われた鳥を羽まで毟るような狩りが始まる。

 

 

 

「本当に拍子抜けだな、那月」

 

 パチン、と指を鳴らす“本物の”千賀毅人。

 その合図に応じて、那月を黄金の<守護者>ごと囲うよう地面より柱のような巨石が八つ突き出てくる。そして、最後は『石猿』数体が寄り集まって化けた仙石が落とし蓋のように八柱の上へ落着。

 

「っ!?」

 

 瞬間、那月は信じがたい寒気に襲われた。

 これは、詰む。

 死の感触が背中を走る。

 機械仕掛けの騎士に命じ、鎧籠手の左腕を虚空に飛ばしながら、那月はかつての魔術の師を凝視する。

 

「時間稼ぎご苦労。ここの地脈は我が掌が握った。策は成れり、<石兵八陣(かえらずのじん)>の完成だ」

 

 龍脈の力を風水の術で戦争に活用する、『奇門遁甲』。

 これは個人を対象として、時間と場所が限られるもののそれだけ一点に集約させた究極陣地。

 

「っ……!」 苦痛に歪む吐息。もはや重圧は五行山の如き。

 

 天候を解読し、地理を利用し、人心を掌握する、綿密な魔力操作だけでなく天地人に精通していなければ不可能な閉鎖空間形成……!

 

「っ、っ……!」

 

 石陣の重圧はいまも増え続けている。

 内側からでは覆しようのないことを、那月は認めた。

 

「那月。お前は、これまで私が見てきた生徒の中で、最も完成されている。特に空間制御の精度は世界においても比肩するものはそういない。少なくとも私が知る限りでは存在しないだろう。先生として誉むべきかな。

 もっとも、その腕ゆえに恐れるに足りんが」

 

 淡々と言い、鳥籠に囚われた教え子が膝をつくのを見下す。

 

「昔に同じことを忠告したが、どんな劣悪な状況でも100%の力を発揮できるというのは、裏を返せば、どんな状況下でも100%の力を発揮してしまうということに過ぎん。選択肢が狭まれば、自然、計算はしやすいのだ」

 

 もっとも誤算ひとつないとはいわないが、それもすぐ修正できる程度のもの。

 そう、昔の、『魔族殺し』として最盛期であった教え子ならば、会話に応じることなく最初から問答無用で『千賀毅人』を殺していただろう。あそこまで挑発されながらも、あくまで千賀を生かして捕縛する姿勢を解かなかったところを見ると―――やはり、教え子は弱くなったのだと断定するしかない。

 

「………」

 

 那月は何も言わず、指を持ち上げる。

 だが嘲りはしても侮りはしない千賀はそれよりも早く魔女封殺の仕上げにかかった。

 

「まだ抵抗するつもりか。だがもう何もかも遅い―――幻は幻に。現実ではない、本の世界で夢をみるといい」

 

 取り出した本を開いた。

 それは深緑色の表紙の古い本だった。東洋風の紐綴りの装幀で、表紙には墨絵が描かれている。

 この深き緑の魔導書が起動させる一節を、千賀は読み上げた。

 その瞬間、南宮那月の姿が蜃気楼のように揺らいだ。

 幻で創られた現身が、風前の灯のように波打って、彼女の夢をその魔導書の中に閉じ込めようとする。

 

「っ、それは―――!?」

 

「大陸系統は専門外なところは変わっていないようだな、那月。久しぶりに教授してやろう。

 この魔導書は、<山河社稷図>。五感を剥奪し相手をこの魔導書の中の幻の世界に閉じ込める宝図。<図書館>にも存在しない、神話の時代に東洋の女神より授けられたと言われる仙界の魔導書だ」

 

 ぐるりと、世界が渦巻いた。

 まるで陽炎のように、石陣を形成していた呪力が那月のそれと混交し、ぐるりと螺旋を描いて千賀の掲げる魔導書へ。まるで、開かれたその頁にぽっかりと“穴”が生まれたようだった。

 その“穴”が、囚われた石陣ごと風景を切り取るかのように那月を吸い込んだのである。

 それも瞬き程度の時間。

 ほんの一瞬の後には、<空隙の魔女>も<石兵八陣>も掻き消えて、ぱたん、と魔導書は閉じる。

 

 かつての師がこの『魔族特区』の五指に入る実力者である要警戒対象へ用意したのは風水術と魔導書の二重封殺。閉鎖空間ごと魔導書の中に閉じ込める。

 南宮那月はこの現世から完全に消え失せたのだった。

 

「それでもいずれは出てくるだろう。しかし、そのころにはすでにすべてが終わっている」

 

 障害となりうるかつての教え子を除外した。

 そして、仕込みもとっくに済んでいる。

 <空隙の魔女>の注意を逸らしてくれた仲間の翁が、無数の分身を散らして千賀の傍に降り立つ。

 

「千賀よ。これでいよいよやるのだな。『東洋の至宝』が成す一世一代の大仕掛けを」

 

「6年前、『聖団(ギゼラ)』の本拠地に置かれた『イロワーズ魔族特区』以上の破滅を約束しよう」

 

「ほう、それは如何にして?」

 

「『四神』をただ召喚するのではない。『四神相応』で循環するこの地の龍脈を相克させ、“守護”の特質を反転させる」

 

「なんと『四凶』を招くか! それはここも終わりじゃのう! ヌシ、この島とは無関係ではないというのに、そこまでするとはな」

 

 翁の茶化すような文句に、千賀は沈黙した。未だ生々しい傷口に触れられたような表情を作り、首を振る。

 

「無関係ではないからこそ、許せないこともある」

 

「ひひっ、これは久方ぶりに面白いものが見れそうだ」

 

 瞳の奥に滾る憎悪を垣間見た翁は、喜々として笑みを深める。

 

 

「私の手で終わらせる―――この<タルタロスの黒薔薇>が成れば、この人工島は破滅しか残らない」

 

 

 そして、戦闘の騒ぎを聞きつけた特区警備隊(アイランドガード)が駆けつける前に、翁が毛を変化させた紫紺の旗を突き刺すと二人はこの場を歩き去っていく。それから数歩も行かない内に、気配は消え去った。風水術で自らの姿を風景に溶け込ませたのだ。

 

 残ったのは、潮風に揺れる紫紺の旗。

 それは、<六魂幡>。名前の書かれていた六人は呪い死ぬという死の宣告する『宝貝』の旗。

 そこに書かれていたのは、管理公社の上級理事五名と、そして、『南宮那月

 それも彼女の名前の上には赤線が引かれていた。

 まるで殺害(キル)(マーク)のように―――

 

 

 この挑戦状じみた理事殺害予告及び国家攻魔官の失踪に、人工島管理公社は特区警備隊の警戒を強める一方で、公社が手元で管理する人材に緊急招集をかけた。

 

 

 

つづく

 

 

 

とある船の会話

 

 

「はぁ!? 目的地が同じ? ふざけるんじゃないわよ!! すぐ真ん前の向かいに同じコンビニを建てるような行為も同然よ! 野生の動物だってテリトリーは守るというのに、獅子王機関は獣以下なのかしらあ!?」

 

「そんなことを言われたって、私はグレンダが住み良い場所に居させてあげたいだけで、それ以外に他意なんてないよ本当だよ? ね、グレンダはクロおにぃとママの傍が良いよね?」

 

 

 MARの内偵任務。

 日本唯一の『魔族特区』絃神島にある多国籍魔導企業マグナ・アタラクシア・リサーチ社の研究所が妙な荷物を運びこんだ形跡があり、その中身を調査することとなった獅子王機関の舞威姫・煌坂紗矢華。

 呪術と暗殺のエキスパートである舞威姫。現代では暗殺を実行することなど滅多にないが、それでも暗殺者としての技能を生かした要人警護やスパイ活動が重要な任務とされている。

 そのため、紗矢華は久しぶりに絃神島に行くこととなった。

 絃神島には、姉妹同然に育った紗矢華の元ルームメイトである姫柊雪菜がいて、突然サプライズで会いに行ったらどれだけ驚くだろうかと思うだけで口元が綻ぶ思いだ。で、ついでにいつも気怠そうなある少年――大親友の監視対象である世界最強の吸血鬼の事も懸想してしまったが……それはさておき。

 

 天候の問題で絃神島行きの飛行機の予約が取れず仕方なく船旅を選ぶこととなった紗矢華だが、これがまた想像以上に快適であった。

 この“さっきまで”寛いでいた絃神島行きの大型客船自慢の展望風呂は、広々としていて湯船を浸かりながら眺める海原は絶景だろう。ビジネスホテルの狭いユニットバスではけして味わえない感動である。

 

 で、

 

『あ、グレンダ……!? 待って! シャンプー、ちゃんとすすがないと……! ―――きゃあ!?』

『唯里! なにがあったんだ!? グレンダは……!?』

 

 床の濡れる滑りやすい浴場を走る見た目12、3歳で、鋼色とでも形容すべき不思議な光沢を帯びた髪を泡塗れにした少女。おそらく、洗髪中にシャンプー液が目に入ってパニックになってるのだろう。

 そして、それを追うのは、優等生っぽい雰囲気の女子。姉妹にしては似てないが、母親にしては若すぎる。

 それからその彼女がすっころんだ悲鳴を聞きつけ駆け付けた、気の強そうな顔立ちのショートヘアの少女。

 

 どちらも紗矢華と同年代―――というか顔見知り、元ルームメイトの羽波唯里と斐川志緒。獅子王機関の同期の攻魔師である。

 

 彼女たちの事情を聞くところによると、グレンダと呼ばれる少女の正体を調べるために魔術や魔獣関連の検査機関が国内で最も充実している『魔族特区』絃神島に移送護衛するのが獅子王機関より与えられた任務だそうだ。

 新人とはいえ獅子王機関の剣巫と舞威姫が二人一組でつくとは余程重要視されているのだろう。『聖殲派』の残党に狙われている可能性もあり、二人がかりで護衛するのはおかしなことではなく、それにグレンダが懐いているのは数少なく、その辺りも人選に考慮に入れられている。

 

 で、

 

『ちょっと何その話、聞き捨てならないわね』

 

 先程も述べたようにグレンダが重大な『鍵』を握っており、それを狙ってくる輩から警戒しなければならない。その相手は、獅子王機関の長である『三聖』でも侮れぬ実力者もいるそうで、二人とは言え新人だけに任せるのは不安―――ので、グレンダ本人の希望を入れて、この絃神島で最も腕の立つ国家攻魔官のお膝元で住居とした……という話をしたところで、これまで盗み聞きしていた古風な黒の長髪をした少女――太史局の六刃神官が現れた。

 紗矢華がかつて油断をつかれたとはいえ敗北した妃崎霧葉だ。同じ国防機関ではあるが獅子王機関とは別派閥の攻魔師の登場に、紗矢華は身構え、気の強い志緒もまた視線を険しくし―――だけれど、どういうわけか穏健派(ストッパー)であり、大人しい唯里が相手をしている現状。

 

(……うん、止めないとまずいわね。ええ、それはわかってるのだけど……)

 

 状況を整理するために心の中でさっと回想しながら説明してみたわけだが。

 

 

「良いか悪いか以前に、『龍族(ドラゴン)』なら住民街じゃなくて『魔獣庭園』に放り込んでおくでしょう! 常識的に! なに、それとも太史局にケンカを売ってるのだとしたら言い値で買うわよ! なんなら三対一でも構わなくてよ!」

 

「ちゃんとマンションの管理人さんからは許可もらったよ。だいたい監視役の本分は、監視であって独占するのは越権行為だと思うけど? それならいちいちあなたにお伺いを立てる必要はないよね?」

 

 

 なんだか脱線し過ぎて雰囲気が物騒になってきてるので軽めの修正を促しておくべき。

 でも、本音を言うとあまり巻き込まれたくない。どちらの言い分も正論で理解できるわけで、心情的に同じ獅子王機関の唯里の味方をしたいところ。けど、できれば事を穏便に済ませたい。だがそれには紗矢華ひとりでは無理だ。ひとり抑えても、もうひとりいるのだ。

 

「(斐川志緒)」

「(……わかってる、煌坂)」

 

 唯里から預けられたグレンダの目と耳を塞いで、教育上あまりよろしくない言い合いより遠ざけていた志緒と視線を通わせて頷き合う。

 同じ舞威姫で同級生の志緒と紗矢華は、仲がいいとは決して言えない好敵手(ライバル)とでも言うべき間柄だ。同年代の候補生の中でも、成績が拮抗しており、何かにつけて衝突し合っていた二人だが、ここにきて呉越同舟と互いの意思を共有させた。

 

 

「っ、南宮那月。私には、一週間も催促してやっと前の住居の利用許可を出したというのに!」

 

 

 不条理への憤りに爆発寸前の活火山のように微振動する霧葉。

 そこへ、ぼそり、と独り言のように、

 

 

「……信頼度、じゃないかな? たぶん、クロ君から話を聞いて南宮攻魔官はそう判断したんじゃないかな?」

 

「何ですって……!」

 

 

 ……ひょっとして、国家攻魔官の管理人はこうやって獅子王機関と太史局を突き合わせることで、面倒事を分散させようと画策してないだろうか?

 それを考えると近い将来、剣巫と六刃の近所付き合いで板挟みになりそうな斐川志緒になんとなく同情する紗矢華。

 

「ご愁傷様、斐川志緒……」

 

「おい、何そんな哀れんだ眼で私を見るんだ煌坂! お前もやるんだぞ!」

 

 紗矢華を引っ張る志緒は、そこで相方に見つかり、

 

「ね、志緒ちゃんもマンションが良いよね?」

 

「え、えと。そうだな」

 

「うん。古城君のお父さんって、まだ入院してるみたいだし、お見舞いするなら近い方が」

「ぶふっ!?!?」

 

 思い切り噴いた志緒は、早口で訂正を求める。が、

 

「何言ってんだ唯里、暁牙城は関係ないだろ!」

 

「志緒ちゃんを庇って怪我をしたのに?」

 

「う……ぐ……!」

 

 痛いところを指摘されて、何も言えずに押し黙る。

 先日の『神縄湖』の事件で志緒は、暁牙城の父親に何度か助けてもらい、命を救われていた。その際に暁牙城は負傷して、絃神島の病院に運び込まれたと聞いていた。島の端にあり、人工島本島まで数時間かけてフェリーで移動する『魔獣庭園』よりは中央区あたりの方が見舞いに行き易いだろう。

 

 で、

 

「はぁ……何やってんのよ、まったく」

 

 耳の先まで顔面を赤らめて、湯あたりしたというわけでもないのに。

 あっさり取り込まれた舞威姫候補生の好敵手に、紗矢華は呆れた半目を送る。すると、志緒はひとり我関せずと余裕ある態度を取る紗矢華に、死なばもろともと先ほど訊きそびれたことを問うた。

 

「そういえば、グレンダが懐いてると言ったところで反応したが、煌坂は<第四真祖>が気になるようだが、何でだ?」

 

「は……!?」

 

「<第四真祖>の監視役は姫柊雪菜だろ……? どうして煌坂が彼の動向を気にするんだ?」

 

 志緒の訝しげな表情を見て、今度は紗矢華が顔を真っ赤にして慌てて、言い訳を述べる。

 

「そ、それは……つまり、私の雪菜を危険に晒すような真似をするなってことよ!」

 

「ああ……なるほど」

 

 半ば自分自身に言い聞かせるような紗矢華の言葉を、志緒は疑いもせずにすんなりと信じた。紗矢華が、年下の元ルームメイトを溺愛しているのは、同室であった彼女にも知るところだ。

 

 と、そこで。

 

 これまで沈黙を保っていたひとりの少女が口を開いて、爆弾を放った。

 

「だー、こじょう、おにぃと一緒にお風呂入りたいくらい好きだよ」

 

「へ……」

 

 ……グレンダはこうしてみんな仲良く一緒にお風呂を楽しめるくらい仲がいいことを伝えたかったのだろうが、色々と誤解を招きそうな発言であった。

 

「そういえば、古城君、クロ君に告白して、物凄いガッツポーズを決めてたような……」

 

「わ、私の知らないところで……何やってんのよ、あの男は……!?」

 

 無垢なお子様からの発言だけでなく、常識的な元ルームメイトの言葉がさらに加速させた。

 

(別に暁古城が、誰を好きだとかどんなことどうでもいいし! そ、それにその方が私の雪菜は安全で―――でも、なんか納得できない良くわからないけどもやもやするーっ!)

「うがー!?」

 

 一時期だが<蛇遣い>の監視役を任されていた煌坂紗矢華はついに思考回路がショートした頭を抱えて浴槽の中をのたうちまわる。傍から見れば完全に危ない人間だ。しかし幸いなことに、紗矢華以外の少女たちも混乱しており、

 

「私にいったい何が足りないというの……!」

「クロ君は、おねぇの私がきちんと正しい道に……!」

「確かに義理はあるけど、暁牙城の事なんてそんな……!」

 

 でもやっぱり、事態は紛糾した。

 その後、なんやかんやとあって、武力行使はなしで話をつけようとサウナで熱さ我慢大会が始まった。

 

 

とある兄妹の会話

 

 

「やっと、おわった……」

 

 落ちそうな瞼を擦りながら、暁古城はちょっと洒落にならないくらい多めの課題を終わらせた達成感を欠伸と共に噛み締める。

 全身が、フルマラソンを走った翌日のようにずっしりと重い。積み重なった疲労のせいだろう。何しろ新年早々、本土まで往復して、絃神島に帰還した直後なのだ。

 それもその間、なぜか猟犬と魔女の絃神島最強の主従や獅子王機関の『三聖』、そして『聖殲派』なるテロリストに襲われ、何度も死にそうな目に遭った。いや何度か死んだけれど蘇ったという方が正しいか。とかくどうにか無事にこうして生き延びたものの、精神力の消耗はいかんともしがたく、そこへきて担任教師からの『やらなきゃ来年は妹と同じクラス』という兄的に致命的な脅し文句が書き添えられた補習代わりのプリントをこなさなければならず、冬休みだったというのに一度も休む暇もなかった。もうすぐ明日には始業式だというのに体力気力は底をつきかけており、正直、戦闘と勉学の両方をサポートしてくれたお隣の監視役がいなかったらゴールができなかったくらい疲労困憊である。

 もうこのままベッドに潜り込みたい欲望に必死に逆らい、古城は風呂場へ向かう。

 と自室を出て、リビングからまだ光がついていた。

 時間はもう深夜零時を回っている。

 覗いてみればまだ妹が起きていた。つけっぱなしのテレビに映る深夜ドラマに夢中になって眺めていて、こちらにまだ気づいてないみたいだが、夜型の古城とは違い早寝早起きの凪沙が起きているのは珍しい。

 

「凪沙……?」

「!?」

 

 夜更かししている凪沙に注意でもしようかと、古城が呼び掛ければ、びくっ、と飛び上がらんばかりにソファから跳ねて、慌ててチャンネルをニュースに変える。

 ……いや、べつに何を視聴しようが古城には構わないのだが。

 

「あ、こ、古城君。課題プリント終ったの? それとも眠気覚ましに珈琲を飲みに来たの? 淹れてあるからすぐ飲めるよ。夜食もご希望言ってくれればすぐ用意するけど」

 

「ああ、たった今な。あー、腹は減ってないからいいけど喉乾いてるし、せっかくだから一杯もらおうか」

 

「うん。じゃあ、これからお風呂だね。浴槽(バス)の中でうっかり寝落ちして溺れないでよ? あ、お風呂なら珈琲じゃなくて、牛乳にしようか? むー、でも、牛乳はあと少しで切れそうなんだよね。朝食のスクランブルエッグに使いたいし」

 

「そうか。じゃあ、帰りに買っとかないとな」

 

 どうやら課題をこなすのに大変な兄をサポートしようと頑張って起きてくれていたらしい。学校帰りの生鮮食品の買い出し以外の家事担当は主に凪沙だというのに、徹夜まで迷惑をかけてしまうとは。今も台所(キッチン)で珈琲を準備してくれる妹に、大変頭の下がる想いである。

 

「いつも苦労(クロウ)をかけて悪いな」

「!?」

 

 びくぅっ!? と凪沙の肩が跳ねて思わず手にしていたマグカップを落としかけた。

 

 古城としては普通に感謝の言葉を伝えただけなのに、一体どこにそんな反応する要素があったのだろうか。

 ……いや、なんとなく原因はわかってはいる。

 気になるのだが、凪沙は何事もなかったように珈琲の準備をしているので突っ込めない。

 

「あ、あたしが好きでやってることだからそんな気にしなくていいよ。それで、お砂糖とミルクは?」

 

「いや、いい。(クロ)で」

「!?」

 

 とまた、びっくぅっ!? と手元が狂い、あわやアツアツの珈琲を零しかける。

 家事の得意な妹には考えられないくらいのおぼつかさな。それで何でもないように振る舞おうとしているが、やはり様子がおかしい。というか、最初から顔が真っ赤のままである。

 兄としてはあんまり触れたくはないのだが、このまま特定の三文字(ワード)に過敏では事故りそうなので、マグカップを受け取ってからそこで、古城は慎重な声で―――けど前置きなく一気に核心の部分を問い掛けた。

 

「そういや、祖母(ばぁ)さんのとこでクロウがお祓いをしたみたいだけど―――」

「おやすみ! 明日も早いから凪沙はもう寝るね古城君!」

 

 慌てて逃げるように自室へ行く凪沙。その兄以外の誰の目から見てもあからさまなくらい過剰な反応を見送った古城は、一口、苦いブラックを飲み―――がっくんと落ちた頭を抱えた。

 

(俺が去った後にいったい何があったー!?)

 

 『聖殲派』の事件が終わってすぐ本土から移送された古城とは別行動を取り二日遅れで帰ってきた凪沙。それからずっとこんな感じである。

 別れ際に色々と危惧していたが、それでも古城は本気で何か起こるとは思わなかった。あの後輩の純粋無垢さというか精神年齢の低い鈍感さを信用していたのだ。

 そして、念のために同行していた保護者兼第三者な浅葱に定時連絡を取って報告してもらっていたのだが、これといっておかしなところはない、祖母の神社でお祓いをしてもらったり、本土で買い物や美味しいものを食べたりと実に健全なやりとりであったと聞いている。

 だけど、これである。

 いったい何があったのか?

 

 特区警備隊の補佐やバイトをして忙しい後輩とは会えていないが、明日の学校で顔を会わせることができるだろう。ちょっとそのときに校舎裏にでも連行しよう―――そう、古城は決めた。

 

 それで、もし。

 校舎裏に連れ込んで、『古城君、責任を取るから凪沙ちゃんをください』みたいなことを言われたら―――そんな想像が過り、

 

(いや、その前に浅葱から本土の話を聞いてからの方が良いか。うん、心の準備をしておかねーと)

 

 ぐいっとまだ熱い珈琲を一気飲みで煽って――一緒に色々なものを呑み込んで――から、口元を拭いてから古城は風呂場へ向かった。

 

 

 

つづく


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