ミックス・ブラッド   作:夜草

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長文です(;^_^A


咎神の騎士Ⅳ

七年前

 

 

 白く染まった世界。

 濃い霧に覆われた森。

 曇り空から降り注ぐ粉雪が、景色を純白に塗り替えていく。

 

 ―――乾いた空気が、急に粘性を帯びた。

 

 『七式突撃降魔機槍』を発動した時、いつもそんな風に思う。

 古代の宝槍を核にして内蔵された『神格振動波駆動術式』。その己の霊力を人工神気に変換して増幅させる疑似進化に、担い手の霊感も冴え、未来予測する情報が増大するためだ。担い手を高次元の存在に誘うこの疑似進化は、未来視の処理速度も強引に加速させ、刹那の時間をスローモーションに引き延ばす。

 何もかもが、遅滞した世界。

 先読みできる霊視があるからこそ剣巫は、動体視力や運動神経などの基本性能(スペック)の高い魔族と白兵戦で挑むことができ、実際に呪術強化があるにしても大きく魔族を上回るということではない。それでも、地上で走る生物で本気となった自分に追いつける者はいない。

 この疑似進化は音速を超えて飛翔することも可能という圧倒的な性能を叩き出している。

 最終段階に至らずとも、だ。

 必要な情報、つまりは最善の未来を迎えるための選択肢だけを取捨選択しながら、救出した少女を機関へ辿り着くまでの殿をこなす。

 侵入する前から、ここの地形情報は頭に入れている。

 

 滝口武者を源流とする獅子王機関より出撃を命じられたのは、源九郎義経が逃げ延びたとされる北の大地にある、異邦の女神を祀る呪術集団の里。

 

 音を立てず、木の枝に跳躍。

 気配を殺し、霊感に集中する。

 この瞬間も高次元への階段を上り続けている感覚と、人間の感覚との齟齬を調整しながらチャンネルを合わせる。

 切り替わる。上位存在と巫女との隔たりを、意識して踏み越える。模倣された神像を憑かせるだけの『器』に、望んで成り下がる。いや、そんな感傷は必要がない。不要だ。排除。―――コンマ数秒。引き伸ばされた霊感が、適応する。

 顔を上げた。

 山間の森中―――数百m先に息を潜めて疾駆する狩猟者の一団。

 彼らの祖先は女神と狼の間に生まれたこと言う獣祖伝説があるほど、狼を神聖な動物とする呪術者たちは、戦闘の仕方が狩りと似ていた。『千疋狼』の例えの通り彼らは集団という数の理を利用し、どこへ逃げようが必ずこちらを追い詰めてくるだろう。

 そして、個々の戦闘力も侮れない。

 呪術者は魔獣種だけでなく獣人種の細胞も植え込んだ外套、聖域条約の禁止事項とされている魔族生体組織の兵器利用をした武装で身を固め、鍔縁には雷神の化身たる龍、柄頭には狼の装飾をした『虎杖丸(いたどりまる)』と銘の神授の刀は、武神具のひとつと言えるだろう。生贄にされる少女を庇いながらの戦闘はまさに熾烈を極めて、武神具の薙刀は無数の刃毀れを作ってしまっていた。それでも、彼女を逃がせたのは数少ない幸運だったろう。

 そして、この幸運を不意にしないためにも、この先に呪術者たちを通すわけにはいかない。

 

「大丈夫、彼の造った<雪霞狼>は、どの武神具にも負けません」

 

 監視対象でもある稀代の武神具開発者が手がけた銀色の薙刀は、最高の得物だ。

 『三聖』のひとり『閑古詠』が今作戦を指揮する獅子王機関より援軍が派遣されるまで単騎で、呪術集団の追跡を食い止めることは十分に可能だ。相手の武器も高性能だが、こちらの武神具の方が性能は上だ。

 

 ……ただ、ひとつの予感があった。

 救った少女を視て自ずと悟る。援軍は、派遣されない、と。

 この『七式突撃降魔機槍』の性能をより引き出せるであろう次世代へ引き継がせるために、少女の救出を優先し―――“すでに末期”の初代はここで役目を終わらせ、次への糧とする。

 次代の剣巫も高神の社で育成されているが、あの少女は逸材だ。ごく少数の適合者が見つかっただけでなく、自分よりも相性が良い彼女ならば、この真祖をも殺し得る秘奥兵器を自分よりも強力に使いこなしてくれるだろう。

 そして、核となる古代の宝槍は片手で数えられるほど稀少な材料。獅子王機関であっても、造れるのは一本が精々。

 だから、

 機関は、

 『閑古詠』は、

 “どこまで人間のままに扱えるか”を初代であり秘奥兵器の試験者である自分を使い捨てて、確かめ―――それをより優秀な才能を持った継承者に役立てる。

 その方が組織の利になると判断して。

 そう、最早、霊力を増幅させる呪術も、『六式重装降魔弓』や『乙型呪装双叉槍』のような武神具を扱うのも、『副作用』の“侵攻”を早める。人間のままでありたいのなら、剣巫を引退するしか道がない。

 長命種の師家様にも、剣巫としては再起不能と言い渡されている。

 そして―――

 

『今のこれは廃棄兵器だが、この霊力をも打ち消せる『零式突撃降魔双槍』が完成すれば、余剰な神気を消滅させ、兄弟機である『七式突撃降魔機槍』の副作用を克服することができるはずだ! だから、それまで―――』

 

 技術者として買われているのであって、戦線に立つ戦闘者は護身術程度しかない彼が、“失敗作”と呼んでいる武神具の改良を手掛けていることは、知っている。

 でも、霊力を打ち消してしまう武神具というのは巫女の戦闘力をも奪い、対魔族で無効化する必要があるのは魔力だけだ。まして彼にしか扱うことが許されない『零式突撃降魔双槍』の開発を、獅子王機関が重要視することはけしてない。

 自分で自分の首を絞めてしまうような“巫女殺し”の兵器の開発を獅子王機関が許すはずがない。

 でも、彼はやろうとしている。他ならぬ自分のために。

 ああ。魔族に転生した彼は師家様のように優れた技術力を買われているというのに、その才能で獅子王機関に不利となるような武神具を造ってしまうなど、とても看過できることではないだろう。実際、『零式突撃降魔双槍』を改良させようとする彼を危険対象として討伐すべきだという声も高まっていると聞く―――この緊急任務の指令を言い渡した『閑古詠』が、そう自分に仄めかしてきたのだ。

 その不穏な空気を払拭させるのは、やはり成果を出すしかない。

 

「……待てなくて、ごめんなさい、でも、あなたの能力は、あなたの造る秘奥兵器の力は、組織に置く必要があるほど優秀なものだと証明しなければならないの」

 

 幼いころから過酷な訓練に明け暮れ、剣巫になるためだけに育てられた。

 剣巫であることしか自分は生き方を知らない。たとえ自分よりも優秀な才能をもった適合者を予感したのだとしても、自分は彼の造った武神具を自分以外の娘に引き渡すことなど、やっぱりしたくはないのだ。

 だから、止まらない。誰にも止められない。

 

(最後まで)

 

 静かに、しかし強い確信を胸に抱く。

 これより呪術集団の神授の刀は全て砕かれることになる。

 この疑似進化の最終到達点は、他のどの武神具にも及ばない成果を出す、秘奥兵器に相応しいものであると確かな実証として。

 

(最後までずっと、私はあなたの監視役でありたい)

 

 そう求めた。

 そう望んだ。

 この自分の最後が、次代に継がれる伝説となり、組織内での彼の立場を不動にすることを、ただそれだけを切に願う。

 

 

 初代の剣巫の孤軍奮戦の働きにより、呪術集団が壊滅し、『七式突撃降魔機槍』の秘奥兵器としてのブランドが確固たるものとなった。

 

 

神縄湖付近

 

 

『<第四真祖>……』

 

 『鎧竜』に再び跨る黒銀の騎士が苛立たしく見据えるその先にいるのは、少女二人を左右に侍らす少年。路上に散乱したゴミを見るような冷たい眼差しを送りながら、籠手を嵌めた腕を突き出すや否や、『鎧竜』が木々を薙ぎ倒しながら突進を仕掛けた。

 それに相手も自らの眷獣に反撃を命じる。膨大な魔力によって実体化した獅子の前肢が、『鎧竜』目掛けて振り降ろされる。

 だが、騎士の籠手より漏れ出した闇色の暗幕が、水面に落としたインクのように広がって、眷獣の行く手を阻む。

 雷光の獅子は構わずそれを引き裂こうとするが―――

 

『吸血鬼ノ使イ魔ナド相手ニナラン!』

 

 展開された虚無のヴェールは、音もなく獅子の反撃を弾いた。その巨体に迸らす閃光と稲妻も霧散させ、火花すら残さず。

 暗幕を纏う『鎧竜』は無傷であり、激突の衝撃で大きく姿勢を崩したのみ。

 濃密なエネルギーの集合体であり、本来ならば生身の生物が受け止められるような存在ではない眷獣。より強大な魔力をぶつける以外の攻略法はないとされているが、物事には何にでも例外がある。

 

 だが、それは全てに通じる道理である。

 

「<雪霞狼>―――!」

 

 体勢を立て直そうとする、『鎧竜』。

 銀槍、一閃。

 ズバッ! と何かの戯画のように真っ二つに虚無のヴェールが裂かれた。

 

 飛び出した少女に与えられたその銀槍は、『七式突撃降魔機槍』。魔力無効化能力を持ち、魔力を無効化するフィールドそのものをも無効化する『神格振動波』を纏う斬撃は、『咎神』の魔具が張った『異境』ですら破る。

 異能の力が全く存在しない世界で塗り潰して眷獣の一撃を無効化される―――その<闇誓書>で体験した一例があるからこそ、剣巫の行動は迅速であった。

 そして、『鎧竜』の表面を覆う漆黒の薄膜が消滅して、騎士が再度虚無のヴェールを張ろうとするよりも、<第四真祖>の行動は速かった。

 

「<獅子の黄金(レグルス・アウルム)>―――!」

 

 自らの意思を持つほどに濃縮された魔力の塊、宿主よりさらに密度を増した魔力を注がれ、雷光の獅子は咆哮する。

 全長十数mを超える巨体が、まさしく紫電の速度で疾駆し、『鎧竜』を薙ぎ払う。雷光の獅子の一撃は重厚な外殻を瞬時に砕き散らし、古代の爬虫類を模した怪獣を残骸すら残さずに消滅させた。

 その余波は巨大な爆風となって周囲に吹き荒れ、神緒田地区の大地を地震のように激しく揺らす。<第四真祖>の眷獣の力は、たかが装甲車二台分の防御で耐えるには、あまりにも大き過ぎたのだ。

 叩きつけられた灼熱の衝撃波は騎乗していた騎士のみを地面に投げ出して、地に転げさして、正体を隠すローブを襤褸切れに変える。

 

「上柳二尉!? あなたまで―――」

 

 グレンダと暁凪沙――『聖殲派』に重要なものを確保する剣巫より悲鳴のような声が上がった。

 露わとなったのは、迷彩服柄の大男、『神縄湖』で行われた儀式の作戦本部で見かけた自衛隊『特殊攻魔連隊』第二中隊の上柳二尉だ。

 

「へぇ、獅子王機関が応援に呼んだ自衛隊に賊が紛れ込んでたってことかしら」

 

 動かず、様子見をしていたセーラー服の少女が愉快気に笑みを深める。

 

「ぐ……魔族ごときに、この俺が……」

 

 憎々しげに上柳二尉が、<第四真祖>の少年――暁古城を睨む。これ以上の戦闘が無理だろうに、彼は憎悪を募らせる。その矛先は古城だけでなく、真祖の監視役である姫柊雪菜にも呪詛は向けられた。

 

「魔導災害を未然に防ぐための国家機関に所属する一員でありながら、薄汚い魔族に組するのか、雌犬め!」

 

「テメェ、姫柊まで……!」

 

 歯を剥いて荒々しく咆える上柳に、古城は怒りをあらわにするように眉間を寄せ、しかし雪菜がそれを押さえるように古城に掌を向けて制する。そして、哀れむように首を振り、

 

「真に穢れた(こころ)の持ち主は、私欲や怨恨のために殺戮と破壊を望む過激派(テロリスト)の『聖殲派(あなたがた)』でしょう」

 

 そっと頭に掌を当て、男の意識を落とした。

 

 

 

 『戦王領域』の貴族であるヴァトラーの援助と<オシアナス・ガールズ>の先導があり、『神縄湖』へと移動していた最中に、逃げ出す負傷者の一団をみつけ、彼らが逃げてきた先にその姿を遠目で捉えた。

 

 血塗れに倒れ伏す後輩、

 それを庇おうとする監視役の元ルームメイト、

 それからさらに鋼色の髪の少女が『龍族』となって暴れ、

 そして、気色悪い黒いオーラを身に纏う騎士――<オシアナス・ガールズ>のひとりが忠告した『咎神』の狂信者『聖殲派』。

 それだけわかれば、もう戦う理由は十分だった。

 

「………っ!?」

 

 戦闘が終わり、協力者の<オシアナス・ガールズ>らに『聖殲派』の男女二組を任せて、一先ず張り詰めていた緊張の糸が緩んだ途端、古城の右手に激痛が走る。焼けつくような痛みに顔を歪める古城は、絃神島で<静寂破り>に、<雪霞狼>で刺された箇所をつい見てしまう。

 古城の右手の甲に浮かぶ、この亀裂のような傷跡は、さらに広がっているように見える。あれからもうすでに半日、真祖ならば心臓を祓魔師に抉り潰されても完治しているというのに、塞がる傾向が全くない。むしろ開いているという始末。正確な原因はわからずとも、この戦闘で症状は一気に悪化してしまった。

 

「先輩……その手は……」

 

 咄嗟に右手を隠してしまうが、監視役の少女にはもうバレバレだ。青褪めて駆け寄ってくる雪菜はきっとこの異変に気付いたことだろう。

 

「眷獣を召喚した反動ですか?」

 

「ああ、多分な。でも、たいしたことはない」

 

 万全の状態といえないのは、自分だけではない。あのやっと倒せた<黒妖犬(クロウ)>が、自力で立つのがやっとな重傷で、特に血を流している右肩の状態が酷い。余程無茶したのだろう。そうならざるを得ないほどに混迷を極める状況下であったことを物語っていた。それに出遅れた古城は、痛い痛いなどと泣き叫べるものか。

 接戦を繰り広げているバスケの試合、前半終わりまで遅刻してきたレギュラープレイヤーが、後半早々にバテバテで役立たずだったらあまりにも格好悪い。

 痩せ我慢であっても後輩には覚られぬようにしようと、強気な表情を作る古城。それを察した雪菜は、大きく息を吐いた後、もう先輩は……と呆れたような苦笑を作る。

 

「それより、姫柊、クロウ達は―――」

 

 古城が背後を振り返ると、そこにきっと太史局の六刃神官から応急処置をされている後輩の姿がいるはず―――で、

 

 

「ちょっと、その右腕どうしたのよ」

 

 

 怪我の具合を診ているのだろうが、剣呑な雰囲気を出しながら詰問は、何故かワイシャツに口紅がついた浮気の物証を見つけた場面を古城に連想させた。

 しかし、妃崎霧葉が指しているのは、上着を脱いで露わとなった後輩の右肩に刻まれた傷に対してである。

 先程思い切り腕を振るった時に、バリッと瘡蓋が剥がれたように塞がりかけた傷口が開いてしまって血が出てて、早く包帯でも巻いてやらねばならないのだが、六刃は治療の手を止めて、細目をさらに眇めて後輩を睨んでいる。

 

「う。羽波に襲われて傷モノにされた」

 

「み、南宮君!? 別に間違ってないんだけど、その言い方だとちょっと!?」

 

 あっけからんとぶっちゃけちゃう後輩に、慌てたのは巨大な龍から小柄な少女に戻った鋼色の髪をした女の子(グレンダ)に服を着せようと慌ててた剣巫。<龍族化>する際に貸していた彼女のコートが弾け飛んじゃってこの裸になっちゃってる少女、それも意識のない彼女をとりあえず抱いて、文字通り身体を張って肌色面積を減らしていたが、そこへ聞き捨てならない爆弾発言。

 

「―――っ!」

「~~~っ!?」

 

 物凄い目力で凄んでくる六刃に、動かせる首だけを必死にぶんぶんと振っている剣巫。

 雪菜よりもやや高い程度の身長で、妃崎霧葉よりは低く見下される重圧にますます低頭になる。

 

「ほい、グレンダ、着とけ」

 

 そんな中、直前で脱いで無事だった自身の蒼銀の法被を拾って、再び裸の少女に羽織らせる後輩は、紳士なのかそれとも当事者意識の薄い阿呆なのか。古城は、『裸の少女を放置するのも大変だけど、お前が導火線に火をつけちゃった爆弾処理を早急にやれ』と先輩として助言を送りたかった。でも巻き込まれるのがとにかく怖いので遠巻きで見守る。

 

「……あなた、剣巫よね? 姫柊雪菜から話は聞いてるわ」

 

「え、えっと雪菜(ユッキー)とお知り合いで?」

 

「そんなことはどうでもいいの!」

 

「ええっ!?」

 

「あなた、彼に一太刀を浴びせたのかしら?」

 

「それは、頭に血が上ってたと言いますか。志緒ちゃんが危ないと思って、その偽者だと気付かずに南宮君にすごく迷惑をかけて……」

 

「だから状況なんてどうでもいいの! 結果だけを言いなさい! 彼をやったのっ? やらなかったのっ?」

 

「は、はいぃ! やりました! 私が南宮君の右腕を斬り飛ばしました!」

 

 ここに駆け付けてくるまでに雪菜が語ってくれた高神の社でひとつ年上のルームメイトだった獅子王機関のすごく優秀な剣巫候補生、羽波唯里。見てる感じ獅子王機関の関係者にしては、随分性格がまともそうで、とても後輩を傷つけた(傷モノにした)とは思えないのだが……

 して、この気弱な対応に、六刃はますますお冠に。

 キッ! と刺すような視線を後輩に戻し、剣巫を指差しながら、

 

「はっ!? 私以外に傷をつけられるってどういうことよ! それも剣巫に!」

 

「霧葉が何を気にしてるかわからんけど、羽波はすごいぞ。今は剣ないけど、腕一本を捨てる覚悟をしないと踏み込めないくらい重圧(プレッシャー)を放ってたなー」

 

「なんですって!?」

「み、南宮君だから、そのね、あのときは……!?」

 

 後輩は素直に羽波唯里の剣の腕前を褒めたつもりなのだろう。ただし、それは犬が後ろ足を蹴って砂かけをして小火を消そうとしてるのだが、それが砂ではなく火薬で消火失敗というような。

 とかく、この燃え盛る昼ドラ展開に燃料(ガソリン)を吹っ掛けたような真似だ。

 

「意外だな。まともそうな人に見えるんだけど、やっぱり獅子王機関の人間ってこうなのか?」

 

「はい?」

 

 思わず漏れた古城の感想に、こちらにも飛び火が。

 ピキ、と頬を引き攣らせる監視役が今の監視対象の発言の意味を問う。

 

「あの、それは、私の性格に何か問題があるという意味ですか?」

 

 判断となって問い質してくる雪菜に、唇を歪めて頷く古城。

 

「だってなあ、俺の知ってる獅子王機関の人間は、だいたい初対面で俺のことを殺しかかってくるようなヤツばっかだろ。姫柊とか煌坂とか、あとはこないだの<静寂破り>って女とか―――」

 

「あ、あの時は先輩が私のことをいやらしい目で見るから―――」

 

「見てねぇ! あれは事故だ、事故!」

 

 声を荒げて怒鳴り合う古城と雪菜、そんな犬も食わないいつものやりとりを他所に、

 

「謙遜するな。あのときの羽波は、ニンジャマスタークラスだったのだ」

 

「いえ、誤解で怪我をさせてしまうのは、状況判断が未熟だったとしか……私の力不足です。本当にすみませんでした」

 

「むぅ、だから、もうこの件で謝らなくていいと言ってるのに。あの『三聖』とか言う偉い奴からも、羽波のことを褒めてたじゃないか」

 

「あれは、ほとんど南宮君のおかげだよ。私なんてほとんど……」

 

「オレだけじゃあの場を切り抜けることはできなかったのだ。凪沙ちゃんの護衛を任されただけでオレは十分羽波のことを認めれてるんだと思うぞ」

 

 負い目を引き摺り落ち込みがちな唯里を、どうにか励まそうと身振り手振りをしながら言葉を尽くすクロウ。その甲斐があってか、まんざらでもない調子で、『そうかな』と頬を朱に染める剣巫。

 で、

 

「…………………………………」

「っ!?!?」

 

 そんなある種の二人だけの世界を築いていくのを、放置されている()監視役は据えた目でじっと観察する。どこか遠くを見ているような光の薄い、仄暗い眼光は、先ほどよりも苛烈な激しさはないが、しかしちらと目を見た古城がゾッとする怖さがあった。

 

「………………………フフフ」

 

 ボッ、と妃崎霧葉の手に持っていた包帯が灰すら残さず燃え尽きた。

 その光景を目撃し、中学生の頃の化学の授業で勢い盛んな赤い炎よりも静かに揺らめく青い炎の方が高いという話を古城はふと思い出した。

 ここは木枯らしが吹く真冬の山間だというのに、何故か常夏の絃神島にいるように暑く思え、そして、悪寒が背筋に走り生唾を呑み込むような状況に、古城はひとつ頷いてから判断を下す。

 

「(姫柊、そろそろ止めないとまずいんじゃないかあれ。霊視とかそういうのはないけどこのままいくと山火事が起こるかクロウが刺されそうな予感がする)」

 

「(ええ、まあ、先輩が言いたいことはわかります)」

 

 離れた位置で傍観していた古城と雪菜は口喧嘩(じゃれ合い)をやめて、視線を通わせ(アイコンタクトで)危機感を共有し合うと介入せんと彼らの中に割って入った。

 

 

 

「だから、もっと自信をもつといい」

 

「そうだな。クロウの言う通りだ。凪沙を助けてくれてありがとう、あ、え、っと……」

 

「あ、はい、獅子王機関所属剣巫、羽波唯里です。<第四真祖>、挨拶が遅れたことを……」

 

「あー、そういう堅苦しいのはいいからな。妹のことを助けてくれたお礼が言いたいだけだし」

 

「いえ、本当、私がしたことなんてそんな大したことじゃ」

 

 顔の前で手を振り、謙遜する唯里に、古城は困ったように首を振った。

 

「おい、姫柊……この子、本当に獅子王機関か?」

 

「はい、私よりもひとつ年上で、すごく優秀な剣巫候補生でした」

 

「ええ、大変優秀な方なんでしょう。流石は本家剣巫ね」

 

 ルームメイトの後輩として評を語った雪菜に、反応する六刃神官。

 

「そんな私はまだ見習いの身でしてっ! 大きな任務も今回が初めてで……<第四真祖>の監視役を任されている雪菜(ユッキー)の方が全然っ―――」

 

「あら、そちらの剣巫は<黒妖犬>に本気で挑んで一太刀も浴びせられなかったのよ」

 

「ええっ!? それ本当なの雪菜(ユッキー)!?」

 

「はい……妃崎さんの言う通りです」

 

 霧葉に揶揄するように流し目を送られて、苦い表情で頷く雪菜。やたら真面目で几帳面で、成績も抜群、そんな多くの後輩たちから羨望を集めながらも近寄りがたい孤高の優等生である――そして、大の負けず嫌いな――彼女が、敵わないと認めるなんて素直に驚きを覚える唯里。

 

「で、でもあの時は状況が状況で……」

 

「謙遜が過ぎるのは嫌味になるわよ……そうでなくて?」

 

 薄笑いを浮かべる霧葉に、びくっ、と女豹に視線を当てられた草食獣のように身震いする唯里。メラメラと瞳の奥に再燃した焔を湛える六刃の視線を向けられて畏縮する剣巫との間に慌てて古城は割って入り。

 

「ま、まあまあ、とにかく俺は凪沙のことであんたには感謝してる。―――本当にありがとな」

 

 彼女たちの傍らで意識はなくとも安息している凪沙に視線をやってから古城はひとりの兄として頭を下げた。

 大事な家族を守ってくれたことを深く謝礼する古城をしばらく呆然と眺めていた唯里だが、やがて何か吹っ切れたようにクスクスと声を洩らして笑い出した。

 

「唯里さん?」

 

 雪菜が気遣うようにおずおずと声をかければ、唯里は笑いながら首を振って、

 

「ううん。やっぱり古城君は似てるな、と思って。牙城さんの息子なんだな、って」

 

 その発言に思わず、古城の口元が苦々しげに歪んだ。

 

「あ!?」

 

「わ、ごめんなさい。で、でも、苗字で呼ぶと牙城さんと混乱するかと思って、つい」

 

 馴れ馴れしく名前で呼んでしまったことを焦って謝罪する唯里。しかし、古城が反応したのはそこではなく、

 

「違う違う。いや、俺とあいつは全然似てないだろって話。呼び方なんか別に何でもいいんだけど」

 

「そ、そうですか? あ、いえ、そうですね。すみません。私の事も呼び捨てにしちゃってくれていいですから」

 

 誤解を解くとすぐに礼儀正しく謝罪する唯里。

 古城は、ああ、と曖昧に頷き、

 

「やっぱりまともだよな……クロウの件もわけありっぽいし……獅子王機関なのに」

 

「だからってどうして私を見るんですか? 私だって理由(わけ)もなく襲ったりしません!」

 

 しみじみと感想を洩らす古城を、雪菜がむっつりと睨んで訂正を要求する。

 これ以上、監視役の機嫌が悪化しない内に、と古城は咄嗟に目を逸らし、後輩―――と古城たちが自己紹介している間いつのまにか目覚めて、後輩に何かあやされている13、4歳ほどの、可愛らしい顔立ちの女子を見た。

 

「だぁ、おにぃ」

 

「ちゃんと服は前を閉じないとダメだぞー、グレンダ」

 

 完全なる神獣に化ける後輩を見慣れてるから、今更巨大な龍族程度では動じない。そんな鍛えられてしまった自分に少し絶望する古城だが、やはりこの世話を焼かれて嬉しそうにはにかむグレンダという少女、その正体が『龍族』とはとても信じられない可憐な笑顔だ。

 こうして無条件の信頼を後輩に寄せて、目が合えば古城たちに対してもにっこりと笑い返してくる。敵意がないことを敏感に感じ取っているのだろう。人懐こい小動物のよう。だから、ワンコ属性の後輩と波長が合うものなのかもしれない。

 とまあ、つらつらと分析してみたりもするが、結局真祖だけど知識は素人な古城には皆目見当がつかない。雪菜もグレンダの正体に関しては困惑や戸惑いといった色を表情に浮かべており、魔獣の専門家である霧葉もいくらか推論してもそれら全部憶測の域が出ず何も言えないでいる様子だ。

 ―――しかし、この少女は、『聖殲派』という狂信者に妹共々狙われている。ので、

 

「で、クロウ、質問なんだが、その子は一体何者なんだ?」

 

「グレンダだ古城君。『神縄湖(みずうみ)』でずっと眠ってて、“大事なもの”を守ってる。オレと同じ『器』として創られたものだ」

 

 クロウの説明に、唯里が捕捉する。

 『三聖』から語られたグレンダの正体。

 『聖殲』の遺産であり、最重要の“情報”の『器』。魔獣でも魔族でもなく、『咎神』のシステム。

 同じ『聖殲』の遺産である<第四真祖>の“情報”を『(きっかけ)』とし、覚醒した。

 

 そして、グレンダの存在を利用して、国防機関に潜伏する『聖殲派』を釣り上げようとしたこと。

 

「そうか……」

 

 話を聞かされた古城はしばし瞑目し、体内の空気の入れ替えをするかのように深く息を吐いた。

 まず、『聖殲』の遺産だとかはどうでもいい情報として処理した。重大な『宝』を抱えた龍族であっても、古城にはグレンダがそんな大層な存在には思えない。

 言えるのは、この渦中の人物でありながら、巻き込まれた犠牲者であることだ。妹は――アヴローラは、彼女を目覚めさせるための生贄と利用されたようだが、責める気は一切ない。

 だから、とりあえずそれは置いておく。

 それよりもまず、暁古城には頭を下げておくべき相手がいる。

 

「クロウ」

 

「ん、古城君」

 

「唯里にも言ったが―――凪沙を助けてくれてありがとう」

 

 状況を聞き、改めて古城は自身が遅刻したことを知る。

 そして、いの一番に妹の元へ駆けつけたのはこの後輩で、獅子王機関と『聖殲派』で様々な思惑が錯綜する中で、純粋に妹を護ろうとしてくれた。それだけで古城は感謝の念に堪えない。

 

「にしても、怪我し過ぎだ。もうちょっと自分の身体を大事にしろよクロウ。俺みたいに不老不死の吸血鬼じゃねーんだから」

 

「う。結構張り切ったけど―――まあ、凪沙ちゃんのことが好きだからな、無茶しちまったぞ」

 

 

 

 …………………………………はい?

 

 

 

「え―――ええええええええっ!?」

 

 さらりと口にした発言に、古城ではなく、雪菜が大きく目を見開いて悲鳴のような声を上げた。

 姫の危機に無理をして馳せ参じる王子様という少女漫画的な展開に唯里も動揺を隠せず、雪菜と反応をシンクロさせる。……元監視役である六刃さんの方は静か……古城と同じく固まってしまっているらしい。

 唯一、この場でショックを受けなかったのは、無垢なグレンダと昏睡している凪沙だけ。

 

 が、古城はすぐ冷静になった。

 これまでのこの後輩の心理行動を見てきた先輩は、落ち着いた――なるべく落ち着いた声音で、ひくつく表情筋を必死に取り繕いながら、確認する。

 

「そ、そうか、凪沙が好きか。まあ、そうだよな、“同じクラスメイト”なんだからな―――だろ?」

 

「う。凪沙ちゃんにはクラスで良くお世話になってる」

 

 ああ、そうだ。『好き』という発言は、きっと男女の仲がどうとかではないはずだ。朴念仁と言われてる性格からして、他意の『た』の字もないはずで、純度100%の混じりっ気のない好意―――つまり、友愛。

 そう、後輩にはまだそういうのは早いはず。それは妹も同じ―――だ。

 このように過剰に反応してしまったのは、きっと二人が異性であることが問題で、まったくの考えすぎ―――杞憂でないと古城は困るのだ。この後輩が本当にその気になれば、妹離れは目前も同然で……ひどく焦らされる。

 なら心の安寧の為にも早急に誤解は解いておくべき、と古城は、ひとつ尋ねる。

 

「クロウ……俺の事も好きだよな?」

 

「古城君のこと、オレ、好きになってもいいのか?」

 

 きょとんと小首を傾げるクロウ。

 いちいちそんなことは問うまでもないというように、がしっと古城は後輩の肩に手を置いて、真っ直ぐ見つめ合い、

 

「そんなの良いに決まってんだろ! ああ! 俺もクロウのことが好きだからな!」

 

「先輩っ!? そんな―――」

 

 大胆な発言に傍で見ていた雪菜がとんでもないショックを受けたかのように悲鳴を上げた。立ち眩みをしたように倒れそうになる雪菜を脇から唯里が支えるが、その唯里も『え、古城君、ってそういう……!?!?』と特殊な部類にある(アブノーマルな)少女漫画知識から索引される光景に驚き戸惑い―――だが、今の告白待ちの古城の目には入らない。

 

 色々とあったが、後輩の好感度はけして低くないはず。

 これで、もしも『好きじゃない』と断わ()られるようならば、すなわち、『好き』といった妹の方は消去法的にもう、アレだ。先輩ではなく兄として話し合いをしなければならなくなる。

 だから、ここは頷いてくれ! 頼む―――

 

「ん。そうだな……」

 

 こくん、と。

 

 首を。

 

 縦に頷いて。

 

「オレも古城君のこと好きだぞ」

 

「――――――――――――ィよしッ!!」

 

 バスケでブザービーターを決めた時のように渾身のガッツポーズを取る暁古城。

 しかし拍手喝采が送られることはなく、

 同級生への告白成功に体全体で歓喜を表現する監視対象に白い目を向ける監視役と頬を赤らめるその剣巫候補生の先輩。それから、ライバル的な六刃はまだ心の整理する時間を要するようで何やらお経のようにぶつぶつ独り言を唱えて自分の世界に耽っており、ドラゴン娘は『だ?』とぱちぱちと瞬きしていた。

 

 

神緒田神社

 

 

「古城が、凪沙ちゃんと合流した?」

 

 

 舞威姫の針治療による応急処置を負傷した暁牙城に施すため、一時境内で腰を落ち着けさせていた浅葱は、有脚戦車<膝丸>の外部モニタに表示される不細工なマスコットキャラのCG――浅葱の相棒とでも呼ぶべき人工知能(AI)現身(アバター)からの報告に耳を傾ける。

 

「なにそれ本当? っつか、やっぱり本土渡ってきたわねあのシスコン」

 

『ああ、嬢ちゃんがプレゼントした携帯端末が繋がった。古城の兄ちゃんの位置情報を喪失(ロスト)していたが、近づいたことで電波が届いたぜ。たった今、俺の分身(コピー)と情報を同期(マージ)した』

 

 妙な魔術を使う敵と戦ったらしく、付近のカメラを軒並み全滅させるようなド派手な戦闘を行った結果、予備の端末をもたせてあったのに消息が途切れていたのだ。

 しかもこちらを絶句させることに古城らは海に落ちたと。

 絃神島は太平洋上に浮かぶ人工島。周囲の水深は半端ではなく、潮の流れも相当速い。事実上、太平洋のど真ん中に放り出されたのと大差なく、いくら古城が不老不死の吸血鬼と言えども、さすがにまずいのではないかと思う。それでなくとも古城は水泳が苦手なのだ。

 妹に続いて、兄まで失踪とは、あの兄弟は一体何をやっているのだ、と思う。

 大丈夫でしょ古城ならきっと、と言い聞かせながらも、これまで内心で心配してきたわけだが、どうやら無事に海を渡れたらしい。

 

「……姫柊さんも無事なの? 古城と一緒?」

 

『ああ、槍使いの嬢ちゃんも一緒だ』

 

 ほっとまず安堵して、次に常に側にいることを思い、浅葱はもやもやとする。

 何にしても、古城だけでなく、獅子王機関の剣巫がいれば、バカなことはしでかさないだろうということにしておく。それにこれでこちらが父親の暁牙城を救助(確保)したと予備端末から情報が伝われば、真祖になったあの野郎も無茶をする必要がなくなるだろう。この『神緒田地区』に訪れた理由は、妹の安否確認であり、第一目標が果たされたとなればここに用はない。

 今ここで起こっている面倒な厄介事(トラブル)は回避するのが賢い選択……なのだが、義務や義理とかがなくても、一度でも火が点いたらあの馬鹿はそこに突っ込んでいくだろう。監視役で抑え役(ストッパー)であるはずの剣巫も、この手の騒動は見て見ぬふりはできないだろうし、絶対にいく。間違いない。賭けてもいい。

 

(まあ、あたしも絃神島に帰るにはここで起きてることを知って少しでも交渉に使える情報を手に入れないとまずいし……でも、古城は姫柊さんと二人きりで……)

 

 そんな主人の心情を読み取ってか、ケケッと笑い飛ばすモグワイがさらなる追加報告を口にする。

 

『安心しな、嬢ちゃん。槍の嬢ちゃんと二人きりじゃねーぜ』

 

「え? 古城と一緒にいるの姫柊さんだけじゃないの?」

 

 はて、他にも協力者がいたのか、しかし誰だろうか?

 最初に思い浮かんだのは、あの古城にやけに馴れ馴れしく協力的な『戦王領域』の青年貴族だが、アルデアル公とは先ほど遭遇し、拠点を潰しにいくだとかで別れた。

 

『『青の楽園』で嬢ちゃんも会った目つきの悪い嬢ちゃんもいる』

 

「はぁ!? それって、<戦車乗り>を雇ってた太史局の連中よね! 何で古城と一緒にいるのよ!」

 

『利害の一致ってとこだ。―――それから、『波朧院フェスタ』で嬢ちゃんが会った人質のお姫様たち五人組』

 

「はぁっ!?!? それ、ヴァトラーさんの船にいた娘たちでしょ!? 巷で<オシアナス・ガールズ>とかでネットアイドルやってる! 」

 

『古城の兄ちゃんの本土行きからサポートしてるみたいだ。―――それで、今、妹さんを保護した剣巫の嬢ちゃんたちと合流した』

 

「ああ、もしかして、さっき舞威姫の()が心配してた……?」

 

 牙城の治療をしている舞威姫の菱川志緒が、しきりに『神縄湖』の事態を気にしていた相方の安否報告は朗報だ。

 だが、

 

「ここまで全員男は出てきてないわね……あの馬鹿は行く先々で女の子を引っ掻けてんのかっ!!」

 

『いや、剣巫の嬢ちゃんと一緒に行動していたヤンチャ坊主もいるぜ』

 

 ヤンチャ坊主―――モグワイがそう語る相手は、浅葱の後輩。

 そうか、前に絃神島から追手が派遣されたとか言っていたが、それはこの後輩の事だったのか。頼れる助っ人だというのに、それを隠しているこの人工知能はやっぱり性質が悪い。

 

「そう、クロウも一緒なのね……剣巫の娘と一緒ってことは古城よりも先に凪沙ちゃんを見つけたのかしら。ふふ、やるじゃない―――」

『で、古城の兄ちゃんが、たった今ヤンチャ坊主に告白したとこだ』

 

「―――――は?」

 

 <電子の女帝>に深刻なエラーが発生しました。

 <電子の女帝>に深刻なエラーが発生しました。

 <電子の女帝>に深刻なエラーが発生しました。

 

 世界最高峰のハッカーの頭脳(OS)が悲鳴を上げる。

 そして機能停止してから、どうにか再起動した浅葱は震える声で、一言確認。

 

「冗談、よね?」

 

『いや、本当だ。思いっきり大声で、ヤンチャ坊主に『好きだ』って、槍の嬢ちゃんたちの前で堂々と告ったぜ。そんで今、盛大にガッツポーズを決めてるな』

 

 この相棒の人工知能は、隠し事は多いみたいだが、基本的に嘘は吐かない。それを主人として浅葱はよく知るところだ。

 しかし、これはウソであってほしかった。

 

「ちょっと本当にどうなってんのよ!? 美少女が側によりどりみどりいるのにどうしてクロウに告白してんの!?」

 

 思わず八つ当たりに画面をぶん殴る浅葱。

 モニタの現身は慌ててそれを避けるように身を捻ってみせながら、

 

『お、落ち着け嬢ちゃん!?』

 

「百歩譲って、姫柊さんならギリで納得……ううん、やっぱダメ―――って納得できるかは棚に上げるけど、それでも男は絶対に無理よ! 何アイツヴァトラーさんと結局同じ趣味なの!? 理解不能なんだけど! 有耶無耶にしちゃってるけど古城に告白したあたしの女のプライドはズタボロになるわ!」

 

 ガンガン! と戦車を素手でぶっ壊さんばかりに衝動をぶつける主人のご乱心を『これはまずい』とからかい過ぎたと反省したモグワイは、足りない(外していた)情報を報告した。

 

『………とまあ、妹さんへのヤンチャ坊主の発言で、シスコン脳が暴走しちまったってとこだ』

 

「そう……そういうことね。ええ、やっぱりそんなとこだと思ったけど、いや、それでも告白する思考回路は理解しがたいんだけど、本当何やってんのよバカ古城……」

 

 ふかーく溜息を零し、ぐったりと俯く頭を両手で抱える浅葱。

 あの後輩に対して焦ってしまう古城の心境はわからないでもないが、このままいくと『お前に娘(妹)を嫁にやらん!』みたいな感じで、<第四真祖>の力で戦争(ケンカ)しかねない。

 そんな馬鹿みたいだがありえそうな将来も心配だが、新年早々から鬼が腹抱えて大笑しそうな先の話よりも、今のことを考えないと。

 頭の準備体操な雑談は終わらせて、思考を切り替えた浅葱にモグワイは、ひとつの要望を出した。

 

『で、嬢ちゃんに頼みごとがある。有脚戦車(こいつ)に積んであるパッケージのプログラムを急ピッチで調整してくれねーか。ちっと地獄の釜からヤバいものが出やがった』

 

「これって、<戦車乗り>が<薄緑>って名付けた―――」

 

 

神縄湖付近

 

 

 ―――異変が、生じた。

 

 

 再会し、最低限の応急処置と情報交換ができるだけの小休止をし終えたその時、古城たちは目を剥いた。

 向こう―――ちょうど『神縄湖』のある地点、その上空数十mほどだったろう。

 そこで、空が捻じれていたのだ。

 光が収斂し、蜃気楼の如く空を歪ませている。厳しい冬の空はそこだけ陰鬱に淀み、細かな紫電を纏わせた上、強烈な風を地表へ吹きつけていた。

 

「………っ」

 

 自然現象としてはありえぬ出来事に、剣巫や六刃神官、そして霊媒としても優れた人質の王女たち――霊感を持つ少女たちは立ち竦む。

 単に、それが異常だからではない。

 異様だからではない。

 彼女たちが硬直させたのは、歪んだ空の下にあるナニカであった。

 光と音と風に飽き足らず、漆黒の闇そのものを吸い上げんとするような、その暴食の発生源からの波動に、少女たちは身震いしたのだ。

 

「あああああああああ――――――っ!」

 

「グレンダ!?」

 

 そして、真っ先に悲鳴を上げたのは、鋼色の髪の少女。

 激しく取り乱すグレンダを、呆然と動けないでいる唯里に変わって、クロウが必死で落ち着かせようとする。しかし、引き留めようとして掴んだ蒼銀の法被は、肩に羽織らせただけで、するりと脱げた。

 そして―――

 

「落ち着け、グレンダ! 目立ったら見つかるぞ―――っ!」

 

 恐慌状態の彼女に説得は届かず、凄まじい衝撃が襲った。

 グレンダの肉体が何十倍もの質量へと膨れ上がったのだ。<龍族化>だ。

 巨大な『龍族』となったグレンダはその龍の前脚でちょうど目前にいた、古城と雪菜、唯里と霧葉と片手に2人ずつと左右両手の指に捕まえられるだけ握り捕まえると、魔力を帯びた巨大な翼を大きく広げて、内臓を引き摺り出されるような強烈な加速で羽ばたいた。

 

 すぐあそこから離れないと―――と本能的な忌避感に従い、撤退する―――そんな間など与えず、『聖殲派』の“逆襲”は始まる。

 

 

 

 物理法則を無視した強烈な速度で、空へと舞いあがった<龍族化>したグレンダ。

 その叩きつけてくる暴風に息を詰まらせながら、遠ざかる地上を呆然と眺めていた古城は、ハッとして龍になった少女へ叫んだ。

 

「グレンダ、落ち着け! どこに行く気だ―――!?」

 

 しかしそれも興奮したグレンダの耳には届かない。恐怖に駆られた彼女は、行く当てもなくただ闇雲に、“追手”から遠く離れようとしているのだ。

 

 だが、どこへ逃げようとも安住の地はないだろう。

 すでに地獄の釜は開かれたのだから。

 

「ぇ……?」

 

 “追手”が何か。後ろを見て古城は、目を覆いたくなる状況を把握し、絶句した。

 龍が必死に逃げようとする方向には、空を埋め尽くすほどのモノが見えたのだ。

 

「何だ……あれは?」

 

 空を行く暗雲を、早回しで見ているようだった。

 あるいは、軍隊蟻の行進を目の当たりにしているような。

 その異様な光景を形作っているものの正体は、闇色の、生物だった。甲殻類を思わせるぬらりとした外骨格。3、4mの巨躯に、蝙蝠の翼を足したような、ヒトガタの生き物だった。そのシルエットのすべてが、膨大な黒い糸を束ねて作ったような、歪な怪物。

 ただし、どんな動物図鑑を紐解いても出てこないだろう。

 なにせ、魔獣と人間の“情報”を掛け合わせた合成生物(キメラ)であるのだから。

 ギョロリ、と。蛇にも似た縦長の瞳孔を持つ眼球が蠢き、脇目もふらず逃亡する鋼の『龍族』を一斉に捉える。“かつての共生関係であった<蜂蛇>の”、帰巣本能にも似た引き合う感覚に導かれるままに大群は追う。どこへ逃げようともこの引力は剥がすことはかなわない『沼の龍』特化の追跡者(ストーカー)―――

 

 

 そう、あれはまさしく悪竜が示す象徴だ。

 すなわち、異教異民族からの侵略者で、そして、悪に染まった『堕天使』。

 

 

「姫柊―――ちょっと行ってくる」

 

 そう言って、グレンダの前脚から身を抜け出す古城は、不安定な龍の背中の上へと昇っていった。

 古城がやろうとしていることに気づいて、雪菜が頬を強張らせた。

 

「先輩、ダメです。眷獣を使ったら、傷が、まだ―――」

 

「出し惜しみしてる場合じゃねェだろ―――疾く在れ(きやがれ)、<双角の深緋(アルナスル・ミニウム)>!」

 

 止めたいが、しかし急に掴まえられて<雪霞狼>を手放してしまった雪菜には、いや、この状況では槍があっても何もできないだろう。それは逆の手に捕まっている霧葉も同じで<霧豹双月>を落としてしまっている。

 対処できるのは、古城しかいない。

 絶え間ない震動と暴風に翻弄されながら、古城は右腕を合成生物の群へ突き出した。

 反動の痛苦に堪えながら、大気を捻じ曲げて現れたのは、緋色の双角獣(バイコーン)

 刹那、烈風が吹き荒れる。あたかも、無から有を生じさせた償いの如く、最大クラスの嵐が、その規模だけを圧縮されたかのように『堕天使』へと猛威を振るった。

 しかし『堕天使』は、古城の反撃を予測していたのか、取り乱すことなく羽ばたかせる双翼より、其々巨大な防御膜を展開した。

 緋色の双角獣の衝撃波は、しかしその正体は衝撃波の形をした魔力の塊。たとえそれが災害級の破壊力を生み出すものであっても魔力による直接攻撃であれば、虚無のヴェールは無効化にしてしまえる。

 

「やっぱり眷獣の攻撃は効かないのか……だったら!」

 

 眷獣の魔力を直撃させても、あの合成生物は倒せない。だが、一方で彼らが纏う漆黒のオーラが、かつて『賢者(ワイズマン)』が錬金術で生み出された錬鉄竜と同じ類のものであるのなら、ニーナ=アデラートが放った重金属粒子砲のような魔力によって発生させても魔力を伴わない攻撃ならば、ダメージを与えることができるか。

 思い至った古城の判断は早く、緋色の双角獣を『堕天使』の真上に位置取りをさせると、急降下を仕掛けさせた―――同時、眷獣の制御を完全に放棄して、濃縮された魔力を無制限に解放。

 

 ごおっ、と怪獣の雄叫びにも似た音が、世界をつんざいた。

 

 実体化を維持できなくなった眷獣は、巨大な震動と暴風に変化し、荒れ狂う無数の竜巻が、周囲の大気を撹拌する。

 鼓膜を軋ませるほどの気圧の激変に、地表を覆う木々は根こそぎ引き抜かれ、大量の土砂とともに宙を舞う。

 

 F5クラスのトルネードは、俗に『神の指』と称される。

 強固な建造物も吹き飛んでしまい、自動車大の物体がミサイルとなって100mを超過して空を飛び交う、そんな光景から、神が地球をその指で引っ掻き回すというイメージを覚えてこのような大仰な呼び名が付けられたそうだが。

 

 これはそれどころではない。

 

 まともな科学者なら、一笑に付して終わるはずの現象。

 現実に発生する確率はほぼ皆無とされる、F5を超えたF6クラスのトルネードという、桁外れの災害。未曾有の超壊滅的な被害をもたらすそれは神の指ならぬ鉤爪とでも喩えようか。

 稜線は削られて山々は形を変え、地形までも変えてしまう爪痕。都市ひとつに匹敵する広大な面積が、暴風に削られ掘り起こされていた。

 これが山奥の無人地帯でなければ、数万人規模の犠牲者が出たことだろう。そう、これが絃神島の上空で解放されていたら、人工島は跡形もなく消滅していたことだろう。

 この一個人にもたらされた天災以上の災害に、監視役の少女が顔面蒼白にし、改めて自身の監視対象の振り切れたデタラメさ加減を思い知る。

 それは久々に<第四真祖>の眷獣本来の威力を目の当たりにした監視対象の少年も同感で、言葉を失いながら、本当に普段から力をセーブしておいて良かったと、心から安堵する。

 

 して、この常識外れの暴風域に、合成生物の軍勢の半数以上は飛行困難となり失墜した。たとえ魔力の直撃を無効化する防護膜があっても、巨大な洗濯機に回されるかのように撹拌された大気までも対抗することはできなかった。

 しかし、3、4割ほど難を逃れた『堕天使』はおり、飛行姿勢を立て直しながら再びこちらへ迫ろうとして来る。

 

 加えて、最後尾より旅客機のような巨大な飛行物体が迫る。

 

「先輩! あれは……!?」

 

「なんだ!? 輸送機か……?」

 

 灰色に塗られたその機体は、軍用の輸送機によく似ていた。だが、機体側面には無数の砲門が設置されている。

 その只ならぬ巨大な機体は、『特殊攻魔連隊』の切り札『AC-2対地攻撃機(ガンシップ)』。

 輸送機として設計された機体に、大量の武器弾薬を積み込むことで、通常の輸送機にはあり得ない重武装と大火力が与えられた局地制圧用の攻撃機。

 今は『聖殲派』に鹵獲されており、禍々しい漆黒に塗り潰される。

 

 『聖殲派』は、兵器の性能をそのまま受け継いだ傀儡(ゴーレム)を造り出す能力を持つ。

 兵員輸送車は、骸骨の傀儡に、

 軍用戦闘機は、飛竜(ワイバーン)の傀儡に、

 装輪装甲車は、鎧竜(アンキロサウルス)の傀儡に、

 軍用輸送機(ティルトローター)は、化鯨(ケートス)の傀儡に、

 通常の生物にはあり得ないほどの堅牢さと攻撃力を持ち、そして、眷獣の魔力を無効化する怪物となった。

 であるなら、対地攻撃機(ガンシップ)を素体にして生み出された怪物は、一体どれほどの火力を持った怪物となるのか。

 

「くそっ―――!」

 

 対地攻撃機が咆哮した。

 巨大な機影は、最早航空機の体裁を捨てた。<龍族化>したグレンダを遥かに上回る巨体、そして九つの首をもつ『多頭龍(ヒュドラ)』と化す。対地攻撃機の“情報”をそのまま受け継いだ多頭の怪物が、必死に逃げる『龍族』に砲台照準(ターゲットロック)し、凄まじい勢いで漆黒の炎を吐いた。

 

「―――疾く在れ、『一番目』の眷獣、<神羊の金剛(メサルテイム・アダマス)>!」

 

 回避は無理と判断した古城が、右手を襲う激痛に耐えて召喚したのは、無謬の神羊。光り輝く眷獣は無数の金剛石(ダイアモンド)の結晶で、『多頭龍』の攻撃を防ぐための障壁を展開。

 この宝石の障壁に激突した物体は、必ず仕返し(カウンター)を受ける。<神羊の金剛>が象徴するのは、『報復』だ。

 

「黒い砲弾……だと!」

 

 だが、無類の硬度を誇る金剛石の結晶は、魔力無効化能力が付与されていた『多頭龍』の砲撃を前に悉く砕け散る。して、防護を破られたグレンダは、背中に漆黒の砲弾が直撃する。

 『龍族』の少女が苦悶に吼えた。

 

「グレンダ―――!?」

 

 唯里がグレンダを気遣うように懸命に呼びかける。その効果があったのか、グレンダがパニックに陥って、古城たちを振り落とすような最悪な事態は免れた。だが、このまま攻撃を受け続ければ、いずれグレンダは撃墜され、そして、古城に『多頭龍』の攻撃を防ぐ術はない。

 

「きゃあああああ―――っ!」

 

 第二撃目を喰らったグレンダは、ついに翼を羽ばたかせる力を失い、隕石のように山間へと墜落した。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「間に合いませんでしたか……!」

 

 グレンダを止められず、置いてけぼりとなったクロウ。

 “先輩の落とし物”を拾うと、そこに息を切らして駆けつける小さな影。

 気配の方へ視線をやれば、そこには道着姿の白髪の女性がいた。気息こそ乱しているが、その立ち姿と歩法は、洗練されて綺麗だなと素直に思える。抜き身の薙刀を手に握りながら忙しなく首を回して視線を巡らす彼女は、自身の傍に眠る凪沙の姿を見つけて、大きく瞼を開いた。

 

「ん、お祖母ちゃんか?」

 

 それから、やっとクロウに気づく。

 視点を合わせた彼に、老婆は息を詰まらせた反応を見せたが、すぐ疲れたような溜息を洩らす。

 

「南宮九郎義経、でしたか」

 

「……………う、よく知ってるなオレの名前」

 

「ええ、あなたのことは調べましたので」

 

 久々にフルネームで呼ばれて、クロウはやや反応が遅れてしまったが、驚いたように大きく目を開いた。

 『南宮九郎義経』が、彩海学園の学生証や絃神島の住民登録で載せられている正式な名称である。

 ただし、長い名前が覚えられない当人は後半を以下省略で記憶に固定してしまっており、名付け親も基本的に『馬鹿犬』としか呼ばないし、担任も『クロウ君』で出席を取るので、知る者はまったくいない。少なくとも学内で呼ばれた記憶はなく、今もうっかり忘れかけてたほど、知る人ぞ知る本名だ。

 

「ん、その声、あの時凪沙ちゃんの電話に出たのはお前か?」

 

「よく覚えていましたね」

 

「オレは耳が良いからな。そうか、お前が凪沙ちゃんのお祖母ちゃんか」

 

 両者の確認が終わり、暁凪沙の祖母――暁緋紗乃は礼を述べた。

 

「南宮九郎義経……凪沙を助けてくれたのですね。礼を言います」

 

「オレは凪沙ちゃんを助けたくて助けた。それだけだぞ」

 

 感謝の言葉を告げてくる緋紗乃に、知人以外に感謝されるのに慣れていないクロウはその響きにくすぐったそうに身を揺らす。

 とにかく、これで暁凪沙の身の安全は、問題なくなったと判断した。

 

「―――じゃあ、行くのだ」

 

 『龍族(グレンダ)』の飛んで(にげて)いった方角へ、身を翻して蒼銀の法被を羽織りながら踵を返したのだ。

 

「っ、待ちなさい」

 

 と、慌てて緋紗乃が呼び止めた。

 一応足を止めたクロウに、彼女はわずかと言えども動揺を露わにした顔で訊ねてのである。

 

「それだけ、ですか?」

 

「それだけって?」

 

「いえ、あなたの介入を却下したのは私で―――この状況は我々の不始末です。こちらを批難する権利はあるかと思われます」

 

「どうでもいいよ、そんなの」

 

 あっけからんと、少年は言ったのだ。

 まるで、事故の賠償でも断るような、ひどく気軽な口調だった。

 

「だいたい、こうなったのをお祖母ちゃんが望んだわけじゃないし、凪沙ちゃんを助けるためにやってたんだろ。そんなの別に謝る必要も、謝らせる気もないぞ」

 

「……それは、そうですが」

 

 クロウの言い分を認めて、暁家の祖母は口ぐもる。

 対して、振り返った少年はふわりと唇をほころばせた。

 

「でもな、お前がどんな奴で、どういう“匂い”をしているのかだけは知りたかったのだ」

 

 瞼を伏せぎみにして、囁く。

 

「うん。それだけは知りたかったな。電話越しじゃわからないしな」

 

 にっこりと、笑ったのだ。

 空を覆い隠す暗雲の空模様なのに、まるで太陽みたいな笑顔だった。

 あの電話での会話以来、ずっと気にしていた、そう後輩(アスタルテ)にこのことを指摘されていた少年にとって―――それは久方ぶりに満開の笑みでもあった。

 

「お祖母ちゃんがいるなら、もうオレは凪沙ちゃんの傍にいなくても安心できる。―――これから、オレがオレであるために、オレのまま走り抜けるために、心置きなくできたのはよかった。それだけだな。だからありがとう」

 

 逆に頭を下げられて、暁家の祖母の方が狼狽えてしまう。

 二、三度大きく瞬きして、八雲の空を仰いだ。幾重にも折り重なった雲に陽の光は遮られる様は、この先に待ち構える困難を指しているようだが、その果てに光があることは決まっているのだ。

 そう、もう世代交代はとっくに済ませている、そんな己は巫女としての霊視も現役に敵わず、衰えて曇りゆく眼にはその光は見通せなくなっていくのだから、言えることなどそう多くあるはずもなかった。

 ただ、最後の心残りだけを口にした。

 

「……古城の事も、よろしくお願いします」

 

「ああ、わかった! 任せとけ、古城君にも好きだと告白されたからな!」

 

 踵を返した。

 思い切りの良い、何の未練も残さない返し方だった。

 

 

 

 

 

「……え、古城から告白?」

 

 息子の異性への手の早さの躾を失敗した緋紗乃は、まさか孫が別ベクトルの問題を抱えていたとは思わず、

 実際はまったくの誤解なのだが、あの息子を反面教師にした結果、衆道へと走ったのかと思い悩んだ祖母はしばらくそこで立ち竦むこととなった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 そして、少年は、自分と同じく置き去りにされた“兵器”達と相対する。

 

 

「今のオレに力は、ない」

 

 

 『波朧院フェスタ』で身に封じられた<守護獣>を奪われた時と同じく、<守護龍>が相手の手に渡っている。霊的経路は切断されず繋がっているままだが、それでも満足に戦える状態ではない。霊的経路は現在凍結されている状態と言ってもいい。

 

 

「そして、“お前”には器がない」

 

 

 地に刺さる二槍―――銀槍と双叉槍。

 霊力を吸い上げて神気へと変換する『七式突撃降魔機槍』は、疑似的な霊的中枢といえる。それも“担い手の肉体に影響を及ぼすほどの”極めて高出力な霊力回路。

 ―――これで、補う。

 

 

「だから、力を貸してもらう」

 

 

 槍二本をクロウは手に取り、

 

 

「代わりに、(オレ)を貸してやる!」

 

 

 かつて、<血途の魔女>は、死せた己の魂を宿らせようとしていた“器”。

 この昨日の暴走時で対峙した感じた銀槍に宿る意思を目一杯に吸い込み―――

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 デットヒートは、わずかに数十秒。

 しかし、当事者の体感は数十分にも勝った。

 

「………っ!」

 

 息が、できない。

 『龍族』の加速度(G)が、古城の内臓を押さえつけていた。肺腑が三分の一に潰され、骨肉が軋む。神経は残らず悲鳴を上げ、妨げられた血流が爪先に偏向し、視界の色調が失われる(グレイアウト)

 

「……きや……がれ……」

 

 呻き声さえ、風圧に持っていかれた。

 それでも、墜落速度は加速する。古城は竜の背鰭にしがみつく。だが、右手の手応えはない。感覚を喪失した右手が動かないのだ。<静寂破り>に貫かれた負傷が原因だ。

 やばい―――と頼りない浮遊感に襲われながら、古城は左手ひとつで背鰭に掴む。

 空気の壁は、ほとんど剛体と化している。

 要塞に、自らという槍を突き立てるようにして突き進んでいる。この状態でいつまで片手で姿勢を支えられるか。

 

「お……お……おぉぉぉぉ……!」

 

 地表が、近づく。

 近づいてくる。

 早く対処しなければマズい。『龍族』の質量を考えてこのまま頭から激突すれば、クレーターどころですまないのは明らかだ。そして、自分たちはただでは済まない。

 そう覚悟した瞬間、古城の身体に誰かに抱きつかれた。

 

「先輩!」

 

 この状況下で、龍の手から出てきた雪菜が、右手で背鰭を掴みながら半ば浮遊する古城の身体を左手で捕まえていた。呪力で筋力を無理やり強化して、そのまま力尽くでこちらに引き寄せる。

 

「しっかりつかまってください!」

 

 姫柊! 悪い、助かった!

 

 雪菜の支えにどうにか姿勢を安定させることができた古城は、視界に迫る地面を殴るように右腕を突き出した。

 

 

「―――<甲殻の銀霧(ナトラ・シネレウス)>!」

 

 

 地表に激突する間際、暁古城は眷獣の召喚に成功する。

 この巨大な甲殻獣の象徴するのは、『霧化』。自らの肉体を霧に変化させて移動するのは、多くの吸血鬼が持つ特殊能力であるが、本人だけでなく周囲の物体のすべてを、まとめて霧に変える現象を起こせるほどのモノは普通はありえない。もし制御を誤れば、そのまま雲散霧消しかねない危険な綱渡りを、どうにか渡り切ることができた。

 

「来るわよ!」

 

 しかし、難を逃れたわけではない。

 人型に戻り、撃たれた痛みに呻いているグレンダ、彼女を抱く唯里は奇怪な魔力の群れが、こちらに近づくのを感じ、古城に肩を貸す雪菜に、呪符を構える霧葉も警戒を最大限にまで張り詰めさせ。

 そして、『堕天使』たちが舞い下りる。

 『堕天使』に周りを囲まれ、頭上をとっている『多頭龍』よりひとり騎士鎧を身に纏う『堕天使』、古城たちの前に降り立つ。

 

「安座真三佐……」

 

「ほう、私だとわかるのか、羽波攻魔官」

 

 この唯一騎士鎧の魔具を着込んでいる――唯一“自意識のある”『堕天使』に、唯里が呟く。

 『特殊攻魔連隊』の指揮官であり、『聖殲派』の隊長格。<蜂蛇>の“情報”を取り込んでしまっているようだが、猟犬のような風貌は上書きされてはいない。

 しかし、彼は奇妙な威厳を備えた、張りのあるバリトンの声を羽波唯里―――ではなく、古城へと向けた。

 

「暁古城……君と少し話がしたくてね」

 

「俺と?」

 

 初対面であるはずの安座真から思いがけない言葉に、古城は訝しげに眉を寄せた。

 安座真は重々しく頷いて見せ、

 

「ああ。立場上、私は君が<第四真祖>になった事情を、多少は知っている―――防衛省の幹部でもほとんど知りえない情報だがね」

 

「なにが言いたい?」

 

 渋面を作る古城。見ず知らずの相手に自分の過去を知っていると告げられて、心中穏やかでいられるわけがない。けれど、安座真は異様なほど真摯な眼差しで古城と相対していた。

 

 そして、安座真は、グレンダの正体。『咎神』の遺産であり、『聖殲』の鍵となるもの。世界を支配する力であり、滅びた『咎神』を蘇らせて、それを操る―――これが『聖殲派』の目的であると語る。

 カインを信奉しているのではなく、その逆、カインが生み出してきたものすべてを否定するために行動している彼らには、グレンダの“情報”がどうしても必要なのだ、と。

 

「これは君にも無関係な話ではない。暁古城、かつて人間だった君にはわかるはずだ。魔族の力が、如何に世界を滅ぼしうる危険なものであるかを。ならば、世界を歪ませる異分子である魔族を滅ぼさない限り、世界は本来あるべき姿へは戻らない」

 

 すべての魔族を滅ぼすために、魔族を生み出した神を利用する。安座真の真の目的は、歪であるものの確かに筋は通っているだろう。

 

「そして、世界が正しい姿に戻ることは、君自身にとっての福音になるはずだ、暁古城―――我々は君を不老不死の呪いから解き放ち、人間としての死を与えてやれる」

 

 冷厳な口調で告げる安座真は、要は『怪物として、たったひとりで何千年も生き続けるくらいなら、人間として死ね』と古城に伝えているのだ。

 バカげた理屈ではあるが、一方で、魅力的な提案でもある。

 永久の寿命を与えられた吸血鬼はいつかすべてに飽いて、程度に差こそあれど狂う。どこまでも強者との殺戮を望むヴァトラーは極まった一例であれど、少数派ではないのだ。これまで古城が会ってきた『旧き世代』は、誰もが戦闘を欲していた。

 そんな未来を予感し、また永劫の孤独がいずれ訪れるのを考えれば、解放されたいと願うのは古城も思う。そんなのは一人で抱え込むには、正直あまりに重すぎる。もとより不老不死の吸血鬼の力など、古城が望んで手に入れたわけでもなく、それを捨て去ることに抵抗はない。不死とはまさしく神が与えし呪いなのだから。

 

 その苦悩を取り除いてやるから、自分たちの邪魔をするな、と安座真は古城に言いたいのだ。

 

「考えようによっては、まあ、悪くない提案だよな……あんたの言うことが本当なら」

「先輩……!」

 

 安座真の主義主張の正当性を認めた古城に、雪菜は怒りを露わに反応した。

 彼女の眼には自暴自棄に古城の姿は映ったことだろう。<第四真祖>の抹殺任務を与えられて古城の監視をしている雪菜がそう反対するのは、理屈に合わないことだろう。

 しかし、古城は曖昧な苦笑を洩らしながら、彼女に申し訳なく思った。

 雪菜は監視役であるが、同時に、先輩が重責に押し潰されそうになるのなら<第四真祖>の重荷を背負うといってくれたのもまた雪菜であるのだから。

 ならば、怒るのは当然だ。これは道理ではない。それ以前の問題で、この少女の信を茶化すようなことした―――もっとも、古城はそんなつもりで呟きを洩らしたわけではないのだが。

 

「あんたの話は少しだけ魅力的だったよ、安座真三佐」

 

 “浮気”しかけたくらいに。

 

「だけど、ひとつ訊かせてくれ。今のあんた以外の『堕天使(ぜんいん)』が正気を失ってるみたいだが、こいつらはお仲間なんだろ。どうするつもりなんだ?」

 

「決まっている。グレンダを手に入れたのちに、“情報”だけを回収して介錯(ころ)してやるのだ。魔族に堕ちて戻れぬというのならば、いっそ死なせてやるのが慈悲だろう。これで同士の大半を犠牲にしてしまうことだが、まあ、グレンダを手に入れれば帳尻は合う」

 

 安座真の言葉に、雪菜らが表情を凍らせる。

 彼が本気であるのは、変わらない声調からわかる。『聖殲派』の信念を聴いていれば、その回答は十分に予想できたこと。

 

「話は終わりだな、暁古城。グレンダを置いてここから立ち去れ。このまま争っても無用な犠牲を生むだけだというのはわかっているだろう?」

 

 最終通告をする安座真に、古城は牙を剥きながら獰猛に笑った。

 

「やっぱできねぇ。『聖殲派(あんたら)』のせいで、負傷した無関係の隊員も大勢いたはずだ。それに仲間をあっさり切り捨てるようなあんたは信用できねーし、そんな相手にグレンダは渡せねぇな」

 

「そうか……残念だよ、<第四真祖>。だが、我らには『器』が必要だ。人工島管理公社に対抗するために」

 

「人工島管理公社……だと? 絃神島に何の関係が……!?」

 

 安座真が飛翔し、空中で待機している『多頭龍』へ向かう。

 そのときに吐かれた自らと関わりのある言葉に、声を張り上げて問う古城だが、返ってきたのは初めて生の感情をむき出しにした声音からの―――死刑宣告。

 

「魔族に堕ちたまま死ぬ貴様が何を知ろうと無駄な事だ!

 

 

 

 ―――<女教皇>、<第四真祖>に『聖殲』の呪いを」

 

 

 その時、霧に湿っていた空気が一瞬にして凍りつく。

 心臓は高く響きながらも、心拍数を下げていた。

 何か、よくないモノをこいつは今呼んだ。

 それとは遭遇してはいけない。

 そう、頭よりも身体が理解しているというのに、逃げようという命令を身体が拒否している。

 

 逃げるのは無駄だ、と。

 呼ばれてしまったからにはけして逃れられないと、逃走を拒否している。

 

 

 いや、これはもうすでに終わっていた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 誰もが反応できない差し込まれた“雑音”。

 このコンマ一秒もない刹那の出来事。

 古城の足元から、ばっくりと火のようにアカい牙が(あぎと)を開いたのだ。

 

「―――っ!」

 

 今日が晴天であれば、おそらくは古城の影が落ちていただろう地点。その深淵から古城の身体を圧し拉ぐように、大の男の数倍はあろうかという巨体が姿を現す。鉄の鑢を擦り合わせるような奇怪な唸り声を上げる、いくつもいくつも竜の頭を絡ませ合った緋色の怪物。

 

「―――お前、は」

 

 これ以上の声は、喉の外に出てこない。

 純粋に生理的な恐怖が、喉の奥からつきあがった。

 

「先輩―――!」

 

 咄嗟に突き飛ばそうとした雪菜は、逆に古城に押し出された。

 

「っ、下がりなさい姫柊雪菜!」

 

 押し出された雪菜の身体を受け止めるのは、霧葉。

 彼女たちが、驚愕に見開いた目に移ったのは、古城の全身に噛みつく緋色の龍頭。

 

「まま―――っ!?」

 

 この怪獣の正体を直視して、唯里の腕の中で、グレンダが泣き叫ぶように悲痛な声を上げた。

 

「ぐ……はっ……!」

 

 古城の吸血鬼の力までも奪われているか。自らの眷獣を喚び出すこともできず、声もなく鮮血を吐く。近くにいた雪菜を突き飛ばしただけで精一杯だった。

 

「こっちに、くるな……グレンダを連れて……逃げ……」

 

 捕まえる霧葉を振り払って自分に駆け寄ってきそうな雪菜を、古城は目の動きだけで制止する。迂闊に今の古城に触れたら、その者まで虚無に呑まれる。ならば、こうして“食事”に集中している間に、逃げろ、と。

 剣巫と六刃神官が揃っているが、彼女たちの手には『六式降魔剣・改』も『乙型呪装二又槍』もなく、なにより『七式突撃降魔機槍』、獅子王機関の秘奥兵器。真祖殺しの破魔の槍―――この『異境』に対抗できる手段である武器がない。

 

 『多頭龍』と『堕天使』に対抗はできずとも牽制はできた<第四真祖>の古城が倒れてしまえばもう逃げの一択しかないのだ。

 

「―――」

 

 闇色ではない緋色の『異境』に侵食される古城は、震える身体、麻痺した首を動かす。

 この怪物を使役する魔力のラインを辿り、視線を向ける。

 

 ―――そこに。

 

 その『巫女』は立っていた。

 

「―――」

 

 空間が歪んでいる。

 それが自分だけの錯覚、あるいは極度の緊張から来る平衡感覚の乱れなのだと信じたい。

 

 それは鮮血のシャワーを浴びたかのように全身を緋が覆っている。

 巫女が着ているのは、優美な法衣と化した、反転した魔獣の皮衣。

 少女自身の身体のラインを失わぬまま、ドレスにも似た緋色の胸甲(プレート)と滑らかな脚甲(グリーブ)が形成され、その右腕は手の代わりに乱雑に刺した生け花のように銃火器が生えていた。

 ほう、と悩ましげについた吐息さえも、その鎧の一部と見える。

 

「―――」

 

 誰も動けない。

 その戦慄から動きようにも動けない。

 深海に棲んでいた魔物。深淵に封印されていた怪獣。

 そして、『聖殲』による統べるべき神を失い、放逐された異世界より這い上がった巫女。

 

「『永劫の孤独の世界へ堕ちるがいい、<第四真祖>』」

 

 タールのような呪詛に、その血だまりのような緋色の影から這い上がってくるようにそれは全容を晒す。

 不倶戴天の、『赤竜(サマエル)』の威容。

 十本のねじくれた角と、七つの獰猛な頭。

 それぞれの角にそれぞれの王冠を掲げ、その火のように真紅の牙といい爪といい鱗といい、ありとあらゆる攻撃的な形態をその巨大な身で体現している。

 

 今、この時、この場は『異境』に侵食された。

 領域で彼女が神だ。反抗は死を意味する。

 

「『ク……クク……これでひとつ……ッ!』」

 

 己の影と一体化した『赤竜』を足元に敷きながら世界を侵し、血だまりの影に<第四真祖>を呑み込む。

 絶頂を堪えるように自分の身体を抱いて、<女教皇>は熱い息を吐いた。

 

 

 

 ―――その時、思いがけない行動に出たものがいた。

 

 

 

「うぅ―――――っ!」

 

 緋色の影、この<第四真祖>が呑み込まれた不知火の海に自ら飛び込んだのは、グレンダ。『赤竜』に対峙しながら臆さず、グレンダだけは古城の後を追っていった。

 

「グ……グレンダ!?」

 

「『なに……!?』」

 

 驚いたのは、唯里たちだけではなかった。『赤竜』を使役していたはずの巫女自身も、予期せぬ結末に呆然としている。

 

「『『器』が自ら『異境』に呑みこまれた……何故……こんな自殺まがいの真似を……!』」

 

 自失したような口調で、巫女が呻く。

 『赤竜』の影に喰われた存在を早急に“情報”を喪失させない内に取り出さんと<女教皇>が手を伸ばそうとするも―――それが、現れた。

 

 

 空間転移じみた音速を超えた速度。

 その飛翔するかのような疾走で、単なる移動で生じたソニックブームで邪魔な障害を撥ね飛ばしながら、突撃して、

 

 

「『<雪霞狼>―――!』」

 

 

 一息で練り上げた霊力を『神格振動波駆動術式』が刻まれる刀身に注ぎ込む。

 破魔の銀槍が眩い蒼白の光を発し、屹立する巨大な刃を形成して、この場を侵食する『異境(ノド)』をばっさりと斬り裂いた。バターでも切るようにあっさりと、淀みなく、空間そのものがぱっくりと断ち切られて。爆発する剣圧が残滓を払拭し包囲する『堕天使』を掃い飛ばした。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 剣巫と六刃神官、そして『聖殲派』までも、誰もが想像しえなかった現象が勃発したのだ。

 

 ―――な、なんだ、あれはっ?

 

 『多頭龍』より観測していた安座真は両目を見開いた。全身に冷や水を浴びせられたような―――それでいて、身体を内側から炙られるような錯覚がした。

 

 <女教皇>の支配を断ち切ったのは、ひとりの少年。

 銀槍と双叉槍を左右に飛翼の如く構えて、全身から凄まじい霊威を放っていた。

 

(あれは、まさか―――!?)

 

 力の強弱など超越した、圧倒的な霊的存在感。これまでに“たった一度だけ”、雪菜が触れたことのある、眩くも凍てつくような―――視ただけで畏怖の念に打ち据えられる感覚だった。

 荘厳にして峻厳な気配。そして、その神々しさは“人ならぬ者”。

 

「『死者の妄念、その写し身よ。死してなお世を騒がそうとするあなたは“有って”はならない』」

 

 そして、その者は一歩だけ前に出た。

 その足捌きはあまりに自然で、『雑音』を挟み込んだわけでもないのに、誰も反応することさえできなかった。

 何か違う、と。

 別のものだと感じ取る。

 そのただならぬ変化に息を呑む中で、彼はさらに歩いてくる。

 散歩するように気負いのない、自然な足取り。その中途で、『南宮クロウ』は静かやかに口を開けた。

 

「『神狼の巫女』」

 

 眠そうな、力みのない眼差しを向けられた少女が目を見開く。

 

「クロウ……くん……? ―――違う、誰……!」

 

 剣巫が瞳を険しくする。

 半ば動物的な直感が、その事実に辿り着かせたのだ。

 今、彼を動かす意識が、自らの級友ではなくなっているということに。

 

 その輪郭を清澄な青白い輝きで縁取り、神秘的に彩っている。金色の双眸は妖しくも直視し難い光を宿し、辺りにさっと流し見る眼差しは、それを受けた者の胸中を激しく掻き乱した。

 ただそこにいるというだけで周囲の霊体を束縛する、圧倒的なまでの霊的存在感。

 

 彼は“入って”いた。いいや、“入られて”いるが正しい。『七式突撃降魔機槍・改』より醸される人工神気が飛躍的に純度を増し始めている。しかも止まらない。霊威が増大し続けていく。これでまだ“途中”なのだ。そして、さらに“先”へ、踏み出そうとしている。

 

 

「『見ていなさい、<雪霞狼>の真髄と―――その末路を』」

 

 

 そして―――

 呆然とする霧葉と唯里を目配せで下がらせて、神気が爆発する。

 

 

「っ!?」

 

 <雪霞狼>の表面に浮き上がるものと同じ、複雑な魔術の紋様が、虚空に描き出される。それはあたかも翼のような姿となって、『南宮クロウ』の背中から広がっていく。彼の背後に重なる強大な存在が、『南宮クロウ』という殺神兵器を完了する“器”を媒体に、雪菜たちの認識内に――現世に顕現しようとしていた。

 

「ぁ―――」

 

 巫女たちに強烈な悪寒と、そして法悦が、霊媒の身体の芯を貫いた。

 彼は、“憑依”されている。

 そして、その使われているのは、人間ではなく、模造であっても世界に溶け込んだ意思たる者であるのなら、それはもはや、最も原始的で、最も根源的な―――そして、最も危険な呪術のひとつ、<神懸り>だ。

 

 もはや彼は完全にトランス状態にあった。

 世界の壁に穴が空き、異なる次元から流れ出てくるように、高次空間から彼の身体を起点とし莫大な神気が、止めどなく現世に溢れ出た。

 

「『<雪霞狼>、そして、<霧豹双月>。今だけ私に力を貸し与えなさい』」

 

 姫柊雪菜の銀槍と妃崎霧葉の双叉槍を構える二槍流。

 人造の天使となった者が放つ、神の威。まるで荒ぶる御魂の宴のように、平衡を保っていた『神緒田地区』の霊地にある陰と陽が、猛々しく踊り始める。

 

「何をしている! あのものを殺すのだ! <女教皇>に近づけさせるな!」

 

 安座真の怒号に、その立ち位置の一ヵ所へ雪崩れ込むように『堕天使』が一斉に襲い掛かり、上空より『多頭龍』が雨霰の砲弾をばら撒く。

 

 しかし、黄金の一閃が、この身を害するものの存在を許さない。

 

 腕一つで長物を振るう剛腕ぶり。その剣速は迅雷。切れ味など言うまでもなし。たとえ玉鋼でできていようが、薄紙同然に斬り裂くのみ。

 銀槍に『異境』が一刀の元で両断し、祓い清めると、続く双叉槍が光を放つ。

 備わっていないはずの『神格振動波駆動術式』の紋様が刀身に走り、その刃先より桁外れの霊力を迸らせ、二連撃の、眩いばかりの黄金で照らし上げる

 

 『堕天使』の軍勢、『多頭龍』の傀儡を鎧袖一触して、『巫女』に二槍の天使は迫った。

 

「『―――来るな!』」

 

 <女教皇>の右腕<栄光の右腕>は、片手間で一部隊の一斉射撃を可能とする制圧力をもった腕だ。彼女は飛ぶように二槍を大きく広げて疾駆する『天敵』の周囲の空間を睨み、そのまま光景ごと蜂の巣にする。そこに一切の逃げ場はない。

 幾重に合唱するように炸裂した銃声、緋色の『異境』に侵食させた魔力を無効化する弾幕に塗り潰された瞬間に、『天敵』の敗北は決定的である。

 だが。

 <女教皇>は見た。

 自身の叫びより遅く動き出した『天敵』が、自身の叫びよりも速く活動するするその異様を。

 銀槍を持った腕が跳ね上がる。それは閃光とさえ錯覚するほどの速度。上段に掲げられた槍は、なおもってそれ以上の速さで振り下ろされた。

 

 (バン)、という銃声が。

 (ザン)、という刃音に両断された。

 

 『異境』で塗り潰すはずの空間の侵食は、<雪霞狼>の一閃で、その侵食ごと壊されたのだ。

 破魔の銀槍はその軌跡通りに光を放ち、『異境』の影を消滅させる。

 そればかりか、視界を塗り替えたほどの莫大な光と熱は、弾幕の嵐を薙ぎ払い―――留まることを知らない斬閃の余波は、その延長線上にあった『巫女』の<栄光の右腕>を斬り飛ばして、先の山間に龍の爪痕のような裂け目が奔らせ、衝撃波を暴れ回わらせる。

 破壊力の乱気流。そんな壮絶な光の乱舞する嵐の中、斬り祓われて浄化された『霊血』の右腕が、眼前を横切っていくのを<女教皇>は見た。

 

 ……なんだ、これは!?

 

 『巫女』は内心に呟いて、額に汗が伝う。

 背骨から蜘蛛が伝うような、さわさわと内臓を染み入る寒気がある。

 それが吐き気というものだと亡者の念は思い出した。

 

「『っ、何を畏れる!』」

 

 自らの弱気を<女教皇>は叱咤して、相手を改めて見据える。

 カッ、と蒼く点る純金の双眸が大きく開かれた『天敵』

 視線を通わせたこのとき。

 ―――<女教皇>は憎悪からではなく、ただ純粋に、畏れからこの相手を殺さなければならないと直感した。

 

「『私には、世界を滅ぼしうる『百王』の力を手にしたっ!』」

 

 『巫女』を守るべく、足元に踏まれる影より『赤竜』が出る。

 『赤竜』の首が、『天敵』の動きを牽制する。しかし構わず大地を蹴って、<第四真祖>をも喰らった不知火の影の領域に飛び込む。

 波立つ緋色の影の津波は、銀槍の『神格振動波』に飛沫となって弾き飛ばされるも、続く双叉槍の刃を『赤竜』の首が防いでいく。

 <守護獣>とも言うべき、鉄壁の防御。驚くべきことに『赤竜』は、『天敵』の双槍乱舞の絶技を阻むほどの神速と精緻さも兼ね備えていた。

 

 ならば、こちらはさらに上げる。

 

「『獅子の巫女たる高神の剣巫が願い奉る―――』」

 

 『天敵』が囁く。

 激しい動きの最中にも拘らず、その声音には一切の揺れがない。

 鍛え抜かれたこの『器』の内攻は、臓器や神経からして常人とは別物に造り込まれ、『天敵』の神業を支えている。

 『意思を持つ武器(インテリジェントウェポン)』と化した武神具に染みついた想念を嗅ぎ取って憑依させるだけでなく、最高性能の肉体はとても“使い易い”。

 

「『破魔の曙光、雪霞の神狼、鋼の神威をもちて我に悪神百鬼を討たせ給え!』」

 

 一息で呪句を唱えるとともに、霊的回路を深化し、もう一段階ギアを上げる。

 全力にならなければ、こちらがやられると、そう判断した。

 

 

 同じく致命な危機を予感した『赤竜』は七つの頭のうちひとつで<女教皇>自身を持ち上げて避難させると、三つの頭で二槍の撃ち込みをしのぎながら、残り三つの頭が嵐の如く空気を吸った。

 

 

 大地を蹴って、天空を舞い跳ぶ『天敵』。

 より強く、より速く、絶妙なる神気の流れに統御されて、<雪霞狼>の刃は不知火の『異境』に清冽な弧を描かんとする。

 

 

 『巫女』は、『仮面』に篭められた残り二回の“情報”量しかない切り札――<静寂破り>を使う。

 絶対先制権を行使し、攻撃される前に存在を消し飛ばす。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 『赤竜』の三つ首より放たれた猛烈な吐息は緋色の炎となって、『天敵』の舞う空一面を容赦なく薙ぎ払う。その温度が如何なる次元に達したか、多重に炸裂した水蒸気爆発は『赤竜』に庇われた巫女の黒髪を、大きく垂直に靡かせた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 『天敵』は、『赤竜』の炎を、そして、『雑音』を“すり抜けて”行動する。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 蜃気楼のようにあらゆる干渉を透り抜ける。

 それは、<模造天使(エンジェル・フォウ)>と同じ、現世よりも高みにある異次元の領域に立つ者が纏う『余剰次元薄膜(EDM)』の発動。

 

 

「『私が知る『閑古詠』はこの程度ではなかったわよ、泥棒猫(コピーキャット)』」

 

 

 絶対先制権を無視する『天敵』は、銀槍の一太刀を『巫女』に浴びせて、『赤竜』を双叉槍の一突きを見舞わせた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 『堕天使』も、『多頭龍』も、そして、『巫女』さえも圧倒し……しかし、倒し切ることはできず、『南宮クロウ』の肉体(うつわ)を借りた『天敵』は立ち止まる。

 

「『時間、切れですね』」

 

 振り返り、立ち尽くす雪菜を、“彼女”は静かな微笑を湛えたまま見つめる。

 すべてを許し抱擁する菩薩のように、そして、聖処女に剣を与えた天使のように。

 

「『以前の暴走は、<雪霞狼>が完全にあなたのものではなかったから。『槍を渡したくない』という想念が邪魔をしたのです』」

 

 または、魔除けを施したヒメヒイラギの枝を渡してくれた最期のように。

 

「『しかし、私という残留思念は、これで槍から離れることとなります。これで、十全に<雪霞狼>はあなたのものになる』」

 

 銀槍を差し出し、穏やかに告げる。

 

「『あなたはもう先見()えていることでしょう。それでも覚悟があるのなら、振るいなさい』」

 

 同級生の姿で、しかし同級生ではないその意思。

 雪菜はもうその正体を悟っている。

 

「冬佳……様、なんですね……!」

 

 雪菜は薄らいでいく気配に縋るように。

 

「……私は! 私は、冬佳様に救われて、でも、そのせいであなたは―――」

 

 ぴと、と。

 これ以上の言わなくてもいい言葉を吐かさせぬよう、人差し指を当てて、少女の口を塞がせた。

 

 助けるのに理由はいらない、そう自身に最初に言ってくれた“彼女”は、やはりあの時と変わらぬ微笑を湛えて、

 

「『大きく、なりましたね。神狼の巫女―――いえ、姫柊雪菜……』」

 

 掠れいく声が、耳に届く。

 “彼女”の胸に残る未練はひとつあるがそれをおくびにも出すことなく、この少女に視線を真っ直ぐに、

 

「『この槍からずっと見てきましたが、あなたの成長が、私には誇らしい―――きっとあなたなら、初代(わたし)を超えていける』」

 

 それは、この上ない別れの言葉だった。

 ……担い手の末路は変わるかもしれない。

 自分と同じ槍に選ばれ、そして同じ道を辿っていこうとする少女に、違う未来があるのならそこへ至ってほしい。

 そんな希望が込められた、遠い言葉。

 

「――――――――冬佳、様」

 

 ……けれど、たとえそうなれたとしても、それでも―――既に現象に進化してしまっている彼女は、人間に戻るということはない。

 もう別の領域にある存在。

 如何様な救いも届きはしない。

 それを承知した上で、少女は頷いた。

 すべてを“彼女”からもらうように受け継いで、けれど何も与えられないからこそ、最後に、真っ直ぐな笑みを返すのだ。

 

「はいっ」

 

 このエールを送ってくれた“彼女”の信頼に、精一杯応えるように。

 

「『そう―――これで、やっと槍を渡せます』」

 

 忘れぬようその自分の憧れた理想を目に焼き付けて、ゆっくりと目蓋を閉じて―――ざあ、という音に目を開けた時、“彼女”はいなくなっていた。

 

 

 そして、<雪霞狼>は、次代の手に渡った。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「あれは―――!」

 

 

 ……傍観者であった青年が見たものは少年ではない。

 それは、遠い記憶にある女。

 いつの時も色褪せずに心にいた、最初の銀槍の使い手の剣巫。

 ―――七年前。

 異邦の女神に祀られる少女を救う為、先代の『閑古詠』に見放されながらも奮戦し、現象へと昇華した唯一の温もり。

 

 

「冬佳! 君はまだ―――!」

 

 

キーストーンゲート 人工島管理公社保安部

 

 

 私の『眷獣(サーヴァント)』と誇りながら、どうあっても『怪物』と己を卑下する。

 それは仕方がない。

 その生い立ちと、性格が形成される環境が原因だ。人間と魔族の共生する『魔族特区』においても、向けられた後ろ指の数はこちらの予想だにしなかった、測り知ることのできないほど多いものだった。それであっても、拾い物したころから純真であることが変わらないでいられたのは、奇蹟のようなものだろう。もしひねくれた性格に歪むものなら叩いて矯正してやったものの、その必要がないほどにバカであった。したのは、時折、自信を失くしてひよった時にひっぱたいて躾けてやったくらいだ。

 

 だから、それにはひどく勇気が求められる。

 

 ―――好きになってもいいのか?

 などと訊いたのは、相手を自分よりも好いているからこそ、卑屈になる。そして、そんな胸の裡に抱え込んだ卑屈さを打ち明けられるほど、惚れた張れたなどと低俗な表現では言い表せない懊悩が、あのとき言葉にして溢れ出た。

 あれほどに回答を悩まされるものはなかっただろう。答えを言ってしまえば、馬鹿犬は『うんそうか』とそのまま鵜呑みして納得することだろう。だが、それはあまりに軽率な行為だ。下手に理解しやすいよう切り分けるような真似はせず、自分で噛み砕かせてきちんと消化させてやるべきだ。

 あれは、もう、口に食べやすく咀嚼したエサを入れてやるだけの雛鳥ではないのだから……

 自分自身で名前を付けるべきその想いに対し、迂闊に名状することはできず、結局は、具体的な説法は避けて『そんな馬鹿なことをいちいち私に言うな』といつもの叱りつける際の扇子からの空間衝撃による肉体言語(コミュニケーション)に走ってしまったが、

 それで、少しだけ吹っ切れたような面を見せて、うんうん、と納得したようにうなずいて、

 

『そうか、ご主人に言わなくていい。う、そうだよな。オレが、バカだったぞ』

 

 きっと叩きすぎた結果、チャンネルのつきの悪くなったテレビのように壊れたのだろう。

 

 

 

『英語の授業で習ったけど、こういう表現は日本語では『月が綺麗ですね』って言うんだろ―――なら、オレが見てきた“お月様”はいつも綺麗だからな』

 

 

 

 無言でこのとんでもなく馬鹿な眷獣(サーヴァント)を空間制御ではなく斜め45度から扇子によるおうふくハリセンで叩きまくった。

 

 

 

 かつて『仮面憑き』の少女たちを診ていた病院の手術室に似た部屋。その高度な医療機器と生命維持が用意された中央に置かれるベットに今は、両腕のない男が眠っている。

 最下層の牢獄にて発見された天塚汞。一先ず峠を超えた彼の身体を検分中、国家攻魔官の南宮那月は低い険のある声で呼びかけられた。

 

「私の許可を得ず、<黒妖犬(ヘルハウンド)>を本土へ出向させてくれたな、<空隙の魔女>」

 

 振り向いて(まみ)えたのは、眼光鋭い紋付き袴姿の男。

 年齢は50代の半ば。けして大柄ではないが、凄まじい威圧感がある。中世の剣豪を思わせる雰囲気の持ち主だ。

 長い黒髪の童顔の魔女は、その容姿をより人形に近づけさせる無表情で男を応対する。

 

「今は捜査中だ、矢瀬顕重」

 

 人工島管理公社名誉理事にして、多数の巨大企業を傘下に持つ名門矢瀬家の最高権力者―――矢瀬顕重。那月の受け持つクラスの生徒である矢瀬基樹の実の父親だ。

 

「そこの人工生命体(ホムンクルス)のことなど調べて何になる。それよりも、私に何か言うべきことがあるのではないか、南宮那月」

 

「息子の見舞いに行ってやらんでもいいのか?」

 

「ふん。『覗き屋(ヘイムダル)』なら問題はない。また“使える”。まんまと賊にやられおって……そんなどうでもいいことを訊いているのではない」

 

 顕重は実の息子の容体を瑣事と一蹴し、那月を恫喝する。

 

「以前、北欧に派遣したこともあったが、あの時とは状況は違う。<黒妖犬>は、『棺桶』の墓守に選定された。<監獄結界(きさま)>と同じこの絃神島に重要な装置となった。

 ―――わかるか? 貴様には預けているだけだ。本来であるのなら、我々理事会の手元で管理しなければならないのだあれは」

 

「絶対に裏切らない保障がなければ安心できないということか」

 

「鋼の忠誠は“兵器”であるなら当然のことだ。でなければ、置き場はないと思え」

 

 侮蔑の色を篭めて吐かれたその文句は、脅しではない。巨大組織を統帥する財閥の長であり『魔族特区』の名誉理事の権力は国家攻魔官に対抗できるものではないのだ。

 そして、矢瀬顕重のような性格の男が、自分の支配できない存在を、本気で認めることはけしてない。

 その冷厳な眼差しを見取った那月は、ふ、と息を吐き、虚空に手を伸ばし予め用意していた物を取り出す。

 呪字が書き込まれた硝子の瓶詰にされた拳大の赤い物体。それを顕重へ無造作に放る。

 

「これは……」

 

「“心臓の肉1ポンド”。ヴェニスの強欲な商人が用いたとされる、伝説的な契約法だ」

 

 切断するのではなく、空間を歪曲させた異界を経由して、繋がったまま手の内に心臓を置く。生き別れになるが、心臓は瓶の中で問題なく拍動している。

 

馬鹿犬(あれ)心臓(これ)を知らんが。だが、取り扱いには気をつけろ。知ったら何としてでも取り返しにくる。あのタフさは心臓を潰されても噛みついてくるだろうからな。だから、それは最後の手段だ。迂闊に出すなよ?」

 

 無防備に晒される心臓、この中々に洒落の利いた魔女の保険に、初めて矢瀬顕重は獰猛な笑みを浮かべた

 

「これで、<黒妖犬>も、こちらの手の内ということか」

 

「安全策はこれで十分だろう。飼い犬に手を噛まれる心配は余計だ」

 

「油断ならんな<空隙の魔女>。『首輪』以外にこのような奥の手を用意していたとはな。見直したぞ。これなら<黒妖犬>の監督は任せてもいい」

 

 瓶詰の心臓(グラスハート)を和服の裾に入れながら、愉快気に口端を歪め、

 

「しかし、何も知らない<黒妖犬>が哀れだ、心臓を握る真の主が誰であるかくらいは自覚させた方が良いとそうは思わんか<空隙の魔女>」

 

「用件が済んだなら失せろ、矢瀬顕重」

 

 と一瞥も見送ることなく、しかしその態度を許す。<空隙の魔女>は、有能であり貴重な人材だ。叱責はせず重厚な鼻息を鳴らして、矢瀬顕重は背を向けて部屋から出ていった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「油断ならんな南宮那月」

 

 那月のドレスに隠れていたオリエンタルな美貌をもつ小人が顔を出す。

 重体の弟子の報せを聞き、立ち会うことをせがまされたニーナ=アデラート。顔を絶対に出すなという約定を破ってこの第一声に、那月は不愉快に眉間を寄せる。

 

「錬金術師には、心臓を生き別れにするのがそれほど非道とみえるのか? だが、居候(ペット)に口出しをする権利はないぞ」

 

「そんなふうに言われると余計に確信を抱く。汝がクロウをああも簡単に手放すことは絶対にないとな。百年と生きていない若造が冷血だと言っていたが、これほどにわかりやすく血の熱い魔女を妾は他に知らん。以前、尻が青いと侮ったことを訂正し、謝罪しよう」

 

「熱いだと? 何を言うか、私は魔女だぞ」

 

「あんな命懸けな真似をしておいて、恍けるか。真っ直ぐな小僧は何も知らず、偏屈な主人は語る気はない。そして、余所者に汝ら主従の在り方に口出しする権利はない、まったくその通りだ、この世すべての真理を暴いた古の大錬金術師でさえそんな鉄面皮に語る口を持っておらんよ」

 

骨董品(アンティーク)のくせにどの口がほざくか」

 

「そういうな。妾は那月のことを知れてうれしいのだ―――それで、ちょいと汝のコレクションを漁らせてもらうぞ。何心配は無用だ、食客なりの働きをしようと思ってな」

 

 

神縄湖付近

 

 

 ―――身体(うつわ)を貸している少年は、夢を見る。

 

 

『汝は汝の失くした記憶の記録を手に入れた』

 

 焔色の髪を持つ“先達者(センパイ)は言う。

 『咎神』の遺産を覆い囲っていた、“情報”を取り込む<黒殻(アバロン)

 無理矢理な空間転移、そして強く強く強く彼女の“匂い”を求めて無我夢中に『鼻』を働かせた。その結果、偶然にも“それ”を吸い込んでしまっていた、と。

 これは“少女”の願いが天に通じたのか。

 彼の“一番”であった“情報(きおく)”を複製(コピー)された記録とはいえ、胸の内に取り入れられた。

 

 ―――そして、<黒殻>は記録であると同時に、『十二番目』の魔力をも浸透させている。

 

『<黒殻>の欠片は、あくまでも記録。汝が力を欲して、欠片を糧にしようものなら、それは夢幻と消え去るだろう』

 

 取り戻せる最初で最後の機会であるかもしれない。それを消費して(つかって)しまうのだがいいのか

 一度の戦闘で<黒殻>は確実に使い切るだろう。

 これは、戦う力を得るために、また“一番”を取りこぼしてしまうことになる、そう“先達者”は語っているのだ。

 

 その意を解し、硬直した。

 ひどく、長くそうしていた気がした。

 もっとも、時間が関係あったかどうかはわからない。硬直するような精神が存在するかも定かではなく、そも、身体においては、今は貸し出しているのだ。

 この場所は、空間と時間も存在しない、夢の中。

 だから、わずかな迷いも思念のさざ波となって、“先達者”は覚ることだろう。

 

 

 ―――ここで立たねば、オレは今、守りたいものを守れない。

 

 

 その声明は、凪いだ水面のように波立たず。

 

『ああ……』

 

 溜息のように、“先達者”の声はこぼれた。

 

『結局……汝は、どこまでも前を見ているのだな……過去に縛られることのない天衣無縫……』

 

 長く、長く、過去の重みに屈している自身へ苦笑するような溜息だった。

 そして、“先達者”は“後続機(コウハイ)”を見やった。

 

 

『兄妹を、頼む……『十三番目』』

 

 

 世界が湾曲する。

 すべてが排除され、すべてが閉じていく。

 すべてが遠ざかり、すべてが薄れていき、すべてが消えていく。

 

 

 ―――現実に、思考は(おき)る。

 

 

 『咎神の遺産(グレンダ)』は<第四真祖>の“情報”が鍵となり、覚醒した。

 ならば、同じく『咎神』の遺産たる殺神兵器は?

 

「―――」

 

 クロウが、胸を押さえた。

 ゆっくりと、自分の体の中に分解された<黒殻>――“情報”の欠片な『固有体積時間』が、魔力として消化されていくのが分かったからだ。一度として中身を覗くことなく燃料の糧とした。それを惜しむことはあっても、やはりこの選択への後悔はしなかった。そして、そこより得られたのはあまりに雄大で、あまりにも膨大過ぎる、この身にとどめてはおけぬ“力”。

 ―――ゆえに、相応しい姿(かたち)へと成長する。

 

「<霧豹双月>―――!」

 

 同時、凍結が解除された霊的中枢。

 しかし、一時的でも回せれば、またそこの火が点き、復活する。

 『魔力の特性を模倣(コピー)』する『乙型呪装二叉槍』で、奪われている『百王』の証である『赤竜』と同質の魔力を取得。

 双叉槍より放たれる魔力の波動を、切腹するかのように自分自身に打ち込んだ。

 

「契約印ヲ解放スル―――!」

 

 裡に消えかけていた灯が勢いよく燃え盛ったのを意識で捉えて、『首輪』を外す。

 そのタイミングで、“暁古城(センパイ)の落とし物”である改造スマホを基点に発射された、金属パックが到着し、身体を包み込んだ。

 巻き起こった煙が、すべてを覆い隠し、すぐに剥がれた。

 

『ケケッ、“お年玉”だ。受け取りな、ヤンチャ坊主』

 

 機械音声が、外耳道を震わせる。

 いくつもの装甲板を重ね合わせた鎧甲冑。籠手に腰や脚部にはコードやノズルといった機構が覗いている。<空隙の魔女>が貸し出した<輪環王(ラインゴルド)>と比べ、こちらは日本武士式の趣だ。

 

 鎧甲冑型強化外骨格(パワード・エグゾスケルトン)パッケージ<薄緑>。

 超小型有脚戦車をさらに小型化して『着る戦車』として設計されたその性能は、脚部や背部、それに両手の籠手部のノズルからガスを噴射し、アクチュエーターと人工筋肉を組み合わせた瞬発力強化。

 だが、それはあまりに制御にかかる負担が過多である。試験(テスト)した獣人の身体でさえ、その凄まじい機動には悲鳴を上げ、肉も骨も軋み、丸ごとミキサーにでもかけられたような拷問じみた失敗作であった。F1レーサーや戦闘機パイロットにかかる加速度(G)はおよそ9Gにもなるというが、この『着る戦車』にかかるのはその数倍は軽く超えていたと記録されている。内蔵だけを宇宙ロケットに乗せているに等しいものだ。

 ―――それの安全設定(リミッター)が外されていた。

 

「―――よし」

 

 だが、それでちょうどよかった。

 この『魔人』の形態にまで成長した肉体には、問題ない。

 

「凪沙ちゃんにグレンダ、それに古城君とフラミー……オマエら、色々とやってくれたな」

 

 『堕天使』に『多頭竜』、そして、『巫女』と反転した自身の<守護龍(フラミー)>――『赤竜』を見据えて、『魔人』は<黒殻>の残滓より組み上げられる『妖鳥(セイレーン)』の翼を背に生やす。

 

 

「―――オレは、怒ったぞ!」

 

 

 『百王』であり、『獣王』

 カインの殺神兵器でありながら、<焔光の夜伯(カレイドブラッド)>の『十三番目(トリトスカイデカトス)

 歴史的にありえざる掛け合わせ―――『混血』の少年は、『百獣の王』としてここに君臨する。

 

 

 

つづく


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